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明朝 暗黒史観
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0001世界@名無史さん2018/03/04(日) 20:53:00.620
「明は、その名とは裏腹に、中国史上でも最大の暗黒時代だった」という識者は少なくない。

なぜ、明朝が暗黒時代と言われるのか?
0002世界@名無史さん2018/03/04(日) 21:03:57.110
明帝国は暗黒の王朝だったんですか?

黄文雄の著書によると、明帝国(教科書によっては明王朝、明朝)は、
中国人の残虐性、卑怯、不正、汚職などが最も表現された王朝だと、
紹介されてました。本当でしょうか?

名前は「明」だから、公正で民主的な国民に
支持された帝国だと私は思ってました。

皆さん誰か知ってますか?
0003世界@名無史さん2018/03/04(日) 21:19:15.320
>>2
「明」という名前はマニ教からきてる
0004世界@名無史さん2018/03/04(日) 22:51:01.100
中国の歴代王朝のなかでも、スパイを最も有効的に使っていたのは明朝です。
宮廷内に見張り用の建物である東廠と西廠をつくり、官の動静を探るのみならず、民間人も徹底的に見張っていました。
明朝が、満州人とモンゴル人の連合王朝である清朝に滅ぼされたのは、明朝皇帝の人間不信が最大の原因だったとも言われているほどです。
0005世界@名無史さん2018/03/04(日) 23:36:35.580
東廠(とうしょう)は、中国の明代に置かれた特務機関。

成祖永楽帝は、靖難の変によって甥である建文帝から政権を奪って北京に都を遷したが、
かつて建文帝の側近である宦官たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯に鑑みて、
永楽18年(1420年)に東安門の北に宦官を長とする東廠を設置した。

東廠の下部組織は、錦衣衛の諸官によって構成され、職務は政治的な陰謀の摘発を中心に、
失火や落雷、市井の物価の報告まで含まれ、多岐に渡った。

その権勢は朝廷での宦官の勢力の増長と共に高まり、特に天啓年間に魏忠賢が
この東廠を最大限に用いて朝廷の反対派を弾圧し、政治を壟断したことは有名である。
0006世界@名無史さん2018/03/05(月) 06:47:48.850
ハイ 、ココハ 笑ウトコロ
>黄文雄の著書によると
0007世界@名無史さん2018/03/05(月) 12:28:16.080
中国が最もグローバル化した最盛期のモンゴル帝国の後だけに、割を食ってる面もある。
0008世界@名無史さん2018/03/05(月) 14:37:47.610
明るい朝
0009世界@名無史さん2018/03/05(月) 18:49:20.110
明は、密告歓迎の監視社会

モンゴル帝国期のほうが明るくて開放的だった
0010世界@名無史さん2018/03/05(月) 18:49:46.740
大粛清も多い
0011世界@名無史さん2018/03/06(火) 22:44:42.860
明は儒教を国教にした。

その結果、西洋でいえば「暗黒の中世」のような宗教国家となった。
0012世界@名無史さん2018/03/06(火) 23:30:30.090
およそ、華やかさに欠ける時代

女性の服装も、最も堅苦しい
0013世界@名無史さん2018/03/06(火) 23:31:47.920
朝鮮を大きくしたような、「大朝鮮」であった
0014世界@名無史さん2018/03/07(水) 00:30:38.650
「儒教に毒された中国朝鮮」という言葉があるが、中国朝鮮の社会が
骨まで儒教に毒されたのは、まさに明代であった。

モンゴル帝国期のグローバリズムは失われ、鎖国体制のなかで社会が腐敗した。
0015世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:02:24.730
東廠・西廠
とうしょうせいしょう

中国、明(みん)代宦官(かんがん)の官署。

東廠は、成祖永楽帝によって1420年に創設され、以後1644年の明滅亡時まで存続した。
東廠の長である提督東廠には皇帝親任の宦官1人が任ぜられ、その下に貼刑(ちょうけい)2人、
頭(とうとう)100余人、番役1000余人があり、貼刑以下は錦衣衛(きんいえい)から選抜してあてた。

東廠は錦衣衛と同様に、ひそかに官民の動静を探り、謀逆、妖言(ようげん)、大姦(たいかん)、大悪などを犯す者を逮捕する権限を与えられた。
0016世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:03:05.840
成化帝は、李(り)子竜事件のあと、スパイ政治の強化の必要を感じ、1477年、別に西廠を設け、宦官汪直(おうちょく)に統轄させた。
5年後汪直の没落とともに廃止されたが、1506年宦官劉瑾(りゅうきん)が権力を得るとふたたび西廠を開いた。しかし、1510年劉瑾が失脚し刑死すると廃止された。
結局、東廠のみが永続し、西廠の設置は前後2回10年ほどにすぎなかったが、両廠は専横を極め、明一代を通じて恐怖と怨嗟(えんさ)の的であった。
0017世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:04:15.020
錦衣衛
きんいえい
Jin-yi-wei; Chin-i-wei

中国,明代の禁衛軍の一つ。洪武 15 (1382) 年設置。
皇城,首都の護衛のため,侍衛上直軍の一つとして親軍指揮司に属し,
勲戚 (公侯伯) の都督を長官に,南北両鎮撫司などを統轄。

その任務は,鹵簿 (ろぼ) の儀仗,宮廷の守護のほか,京城内外の巡察や罪人の
訊問逮捕などで,特に詔獄 (錦衣衛の獄) も担当。
したがって皇帝独裁権の手足として兵,刑の両権をもち,永楽帝以後は宦官を
長官とする東廠などと並び恐怖政治の主役となった。
0018世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:07:01.720
錦衣衛(きんいえい)は、明朝の秘密警察・軍事組織で、禁衛軍の1つ。

明朝の洪武15年(1382年)に、儀鸞司が再編・改称されたもので、
侍衛上直軍の1つとして親軍指揮使司に属し、勲戚の都督の下に
南北両鎮撫司・十四所を統轄して儀仗と宮禁守護が職務とされたが、
実際には特務機関としてその側面が強くなり、北鎮撫司の処理する招獄が別称となった。

東廠設置後は、その下部組織として兵刑両権を行使して恐怖政治を実現し、
人々から恐れられた。
0019世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:10:44.160
『処刑剣 14BLADES』(しょけいけん 14ぶれいず、原題:錦衣衛、英題:14 Blades)は、2010年に公開された中国映画。

明が開国され、皇帝は国を強固にするため秘密の特殊部隊「錦衣衛」を考え出した。
孤児たちに過酷な訓練を課し密偵にした。武功が高く指揮官となった者には
「青龍(チンロン)」の称号が与えられた。青龍には最強の武器「大明十四刀」が
授けられた。箱の中には14種類の刀が入っている。8本は尋問用、6本は処刑用である。
錦衣衛の哀歌。
0020世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:13:15.370
明は、錦衣衛と東廠による恐怖政治の時代。

明が滅んで清になってからも、人々には、その恐怖の記憶が残った。

時代劇のネタとしても登場頻度が高い。
0021世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:26:09.700
だいたい、明の時代っていったら、ずる賢い宦官が偉そうにふんぞり返っていて、
特務工作員たちが手足のように動き、英雄豪傑たちを追いつめるというイメージだ。

時代劇によって刷り込まれたイメージとはいうものの、当たらずとも遠からずだろう。
0022世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:47:31.590
清代になると、今度は「反清復明の秘密結社」とかが活躍する。
英雄豪傑たちは、満州人の支配を打倒しようとがんばるわけだが。

だからといって、明がすばらしい時代だったわけではない。
その点は、十分に認識されていた。
0023世界@名無史さん2018/03/07(水) 07:50:44.210
明〜清時代と清明節は関係あるの?
0024世界@名無史さん2018/03/07(水) 16:09:32.640
>>23
ない
0025世界@名無史さん2018/03/08(木) 06:09:52.760
洪武帝、永楽帝と初期の二人の皇帝が独裁的な政治を行ったため、それ以降の明の政治も同様となった。皇帝の不興を買えば高位の臣でも即座に死を賜ることがあった。
明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだという。
このため明の官吏は多く事なかれ主義に走り、明の政治は皇帝の出来不出来に全てがかかることになった。
明では名君の治世は短く(仁宗洪熙帝は1年、宣宗宣徳帝は10年、孝宗弘治帝は18年)、一方で世宗嘉靖帝は45年、神宗万暦帝が在位48年というように暗君の治世が長かった
。また官僚の俸禄は低く、忠誠心の低下と汚職による腐敗を招いた。
顧炎武はそのような状況を「薄禄の害」と呼んだ。
0026世界@名無史さん2018/03/08(木) 06:11:31.240
明代後期より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し、郷紳と言う新しい身分層を形成する。彼らは基本的に官僚であり、官僚としての地位とその間に積み上げた財産で地方の指導者として政府の地方官に命令するほどの権力を持った。
しかし唐以前の貴族とは違い、郷紳は血縁によって財産を保持しているわけではなく、一族の中に科挙に合格するものが出ない場合は没落することになるため、「一代限りの貴族」という表現もある。
のちの清代では郷紳層は地方の強い基盤をもとに辛亥革命で活躍することになる。
0027世界@名無史さん2018/03/08(木) 11:48:25.710
陛下の頭のごとく光り輝く大明帝国でありまする!
0028世界@名無史さん2018/03/08(木) 14:31:35.580
>>25
>明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだ
これ、雍正帝のエピソードにもなかったっけ
0029世界@名無史さん2018/03/08(木) 18:20:48.510
そんなブラック朝廷になんでお仕えするんだか。
官を辞して市井で暮らせばいいのに
0030世界@名無史さん2018/03/11(日) 16:16:09.720
>>27
「禿」という字を使用した者は、ことごとく死刑になった
0031世界@名無史さん2018/03/11(日) 16:18:35.130
>>29
科挙官僚と一般庶民とでは、龍と鯉ほども身分が違う

「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」だ。
0032世界@名無史さん2018/03/11(日) 16:23:32.480
織田信長や豊臣秀吉の時代、日本は世界に雄飛しようとしていた。

それを、徳川幕府が鎖国して、内向きな日本にしてしまった。

もしも鎖国しなかったら、日本は、東南アジアを舞台にオランダと対決したであろう。
いまごろ、オーストラリアやマダガスカルでは、日本語をしゃべっていたことだろう。

・・・といって残念がる人は、今でも少なくない。
0033世界@名無史さん2018/03/11(日) 16:26:32.830
それと同じことが、明にも言える。

モンゴル時代の中国は、世界に向かって完全に開かれていた。
陶磁器などは、輸出されすぎて、本国にはほとんど残っていないが、中東や日本には大量に残っている。

それを、明が鎖国して、内向きな中国にしてしまった。

あのまま、モンゴル時代が続いていたら、いまごろ、オーストラリアやマダガスカルでは中国語をしゃべっていたであろう。

・・・そういって残念がる人が、いまでも少なくない。
0034世界@名無史さん2018/03/11(日) 17:55:51.390
明こそは、世界に飛躍していた東アジアが、大幅に退行してしまった暗黒時代
0035世界@名無史さん2018/03/11(日) 18:42:06.330
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
0036世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:21:50.700
明朝が暗黒時代といっても、それは政治に限った話。

経済は、飛躍的な発展を遂げた。それを否定する人はいない。

とくに江南は、近代資本主義社会の一歩手前まで進んだ。
0037世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:24:57.650
15世紀に、明代の長江下流地域が、産業革命の一歩手前まで来てたことを、多くの識者が認めている。

だが、そこから、あと一歩が踏み出せなかった。

結局、何百年かけても「一歩手前」での足踏みが続き、欧米や日本に産業革命で遅れを取るに至った。

「それはナゼなのか?」というのが、経済史におけるナゾのひとつで、昔から議論されている。
0038世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:30:44.490
ここ2〜30年の中国経済は、飛躍的な発展を遂げた。

しかし、それは無数の空きビル、辺境の地を走るガラガラな高速鉄道に象徴される、
膨大な過剰投資によって演出された、虚構の発展だ。

本当に、中国社会に、近代資本主義が根付いたのかどうか。
その答は、これからのバブル崩壊時代を乗り切れるかどうかにかかっている。
0039世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:41:35.100
王振(おう しん、生年不詳 - 1449年)は、明代の宦官。
英宗の下で政治を壟断したが、土木の変で戦死した。

蔚州(河北省蔚県)の出身。宦官を養成する機関である内書堂の出身で、
学識が高く、宣徳年間に皇太子(後の英宗)の教育を担当したため、
英宗即位後に司礼監の長である掌仰太監となり、文書の改竄などの専横な行動をとった。

収賄によって財産を蓄え、錦衣衛を掌握して反対者を弾圧した。

正統14年(1449年)にオイラトが山西に侵入すると、英宗に親征を勧め、自らも従軍した。
しかし、大同まで進軍したところでオイラト軍の予想外の強さに撤退する途中、
土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)で明軍は大敗を喫し、英宗は捕虜となり、王振は戦死した(土木の変)。

いくつかの記録によると、専横により恨みを買っていた王振は、配下の将官・樊忠によって乱戦のどさくさにまぎれ瓜(瓜型の鉄球をつけた棍棒)で撲殺されたという。
土木の変後、王振の一族は罰せられ、財産も没収された。
0040世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:42:34.370
魏忠賢(ぎちゅうけん、1568年2月27日(隆慶2年1月30日) - 1627年12月11日(天啓7年11月4日))は、中国、明朝の宦官。

皇帝を傀儡にして実権を握り恐怖政治を敷いた最も悪辣な宦官の権力者であり、
すでに危機的状況にあった明の滅亡を加速させた。
0041世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:46:40.850
趣味の木工細工に熱中し、政務に関心を持たない天啓帝に代わって政務を壟断し、朝廷のことは大小にかかわらず決裁した。
出世や栄達を目論む者はなびき、批判的な者に対しては摘発して拷問、殺害した。
0042世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:47:39.390
当時、東林派(清議派)と非東林派が争っていたが、魏忠賢が首領となった非東林派は、王安が迎えた東林派の閣僚を投獄し、各地の書院を取り潰した。1623年には秘密警察である東廠の長官となる。
翌1624年に左副都御史の楊漣らが24の罪状で魏忠賢を弾劾すると、東林党らの大弾圧を指揮する。魏忠賢は東林党を弾圧する事で政界の表舞台に躍り出た。

現実の政治に合わない理想論を掲げ、閣僚達を攻撃する東林党に対する閣僚達の憎しみは強く、魏忠賢による弾圧を喝采したが、すぐにそれを大きく後悔する事になった。魏忠賢の弾圧は東林党に限らなかったのである。

全国にスパイを放ち、少しでも悪口を言った者をどんな瑣末でも捕え、生皮を剥ぐなどして処刑し庶民を締め上げ、官僚たちも保身を図って唯々諾々と同調した。
0043世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:48:18.150
1626年には西湖の湖畔に生祠を築造させる。1627年天啓帝が死去し、弟の崇禎帝が即位すると罪を糾弾され、
鳳陽へ左遷される途中に逮捕の報を聞き、阜城で仲間の李朝欽と共に首を吊って自殺した。遺体は磔にされ、首は晒し者にされた。
さらに、彼の一族と客氏も処刑され莫大な全財産は没収、部下たちは殺害、追放された。
0044世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:50:10.500
明代は、宦官の害がもっともひどかった。

モンゴル時代はモンゴル貴族、清の時代は満州貴族がいたが、明では宦官をおさえられる存在がいなかった。

皇帝も、明の皇帝は、なぜかヤル気のないバカが続いた。
0045世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:51:49.880
官僚の贈収賄も、明が一番ひどかった。

何度も反腐敗運動が起きて、官僚が酷刑で殺害されたりもしたが、社会の腐敗は止まらなかった。

官僚の俸給をケチりすぎたのが、最大の原因と言われている。
0046世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:52:53.440
要するに、中国らしい社会の腐敗が、明で頂点に達した。

なんとも、香ばしい腐りようだった。
0047世界@名無史さん2018/03/11(日) 21:55:55.310
ここから、「現代の中国は、明朝に似ている」という声が上がった。

政治家・役人による贈収賄は天文学的な額になり、社会が腐敗しきっているが、経済は飛躍的に発展している。
非常に、15世紀に似た状況になってきた。

ここに立ち向かったのが、習近平。
「トラもハエもたたく」という、反腐敗運動を始めた。
たちまち、贈収賄した役人が逮捕されて死刑になる、恐怖政治が始まった。
0048世界@名無史さん2018/03/12(月) 07:58:14.180
明初の官制はほぼ元制の踏襲であるが、1380年の胡惟庸の獄をきっかけに皇帝独裁体制の確立を図った。
洪武帝は宰相府である中書省を廃止したが、実際に皇帝が一人で全ての政務にあたるのは不可能であり、補佐役として作られた内閣大学士が事実上の宰相職となる。
内閣の下に行政機関である六部がある(詳細は六部を参照)。また官僚の監察機関である御史台の名を改めて都察院とし、
軍事の最高機関である枢密院を改めて大都督府とし、更に都督府を中・前・後・左・右に分割して五軍都督府とした。
0049世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:06:20.150
燕王は南京を落として帝位に就き(以下、永楽帝と表記)、北京に遷都すると広大な宮殿=紫禁城や、天壇をはじめとするさまざまな壇(神である天帝から天命を授かる施設)を建設した。

さらに京杭大運河を再開発し、杭州から天津に至る運河を整備。
南北を貫く動脈を確保して輸送体制を整え、全国統一を促した。
0050世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:07:43.620
いまの北京がほぼできあがったのは、永楽帝のとき。

北京と杭州を結ぶ京杭運河が完成した。天津まで延伸された。

全国の大動脈ともいえる運河の、北の終点は北京、南の終点は杭州となった。
0051世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:08:13.060
永楽帝は洪武帝に続いて宦官を徴用して皇帝独裁を推進。
補佐のために内閣を設置した。
また、反乱で天下を取った自分を批判する学者を抑えるために『永楽大典』『四書大全』『五経大全』などの儒学書を編纂し、自らの認める儒学思想の浸透を図った。
0052世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:08:59.050
モンゴル遠征中に永楽帝が死去すると、子の洪熙帝、孫の宣徳帝の順で帝位を継承する。
ふたりは永楽帝の拡大政策で疲弊しつつあった国力を充実させるために特に内政に注力し、文治政治を行った。

特に宣徳帝は楊栄、楊士奇、楊溥(ようふ)の三楊を起用し、農民の生活保護を進めた。
ふたりの時代は「仁宣の治」といわれ、明の絶頂期とされている。
0053世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:11:44.100
洪武帝と永楽帝の存在感があまりにも大きすぎるせいで、認知度がイマイチの洪熙帝と宣徳帝。

でも、この2人の治世は「仁宣の治」と呼ばれ、明の絶頂期とされている。
中国にとって、歴史上でも最も順調な時期の一つと言えるだろう。

これまた、現代の中国と似ている。
後世から見れば、毛沢東とケ小平の存在感が大きすぎて、後に続く人たちは目立たないことだろう。
でも、おそらく、「今にして思えば、胡錦涛の時代が最良だった」と言われるだろうと予想する。
0054世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:21:26.140
この頃、急速に勢力を伸ばしたのがモンゴルのオイラートだ。
オイラートはエセン・ハンの下でモンゴル高原を統一し、一時期ではあったが朝鮮半島から中央アジアまで広大な版図を収めた。

オイラートは明に朝貢していたが、朝貢貿易については朝貢国の貢物より価値あるものを皇帝が下賜(かし)する習わしがあったので、朝貢されている明の財政負担の方が大きかった。
エセン・ハンはこれを求めて法外な貢物を贈り、明が拒否すると軍を派遣した。

これに対して宣徳帝の長男・正統帝が迎撃するも、1449年に土木堡で捕らえられ(土木の変)、北京を包囲されてしまう。
その後、明はモンゴル系の諸部族と結んで離間策を計り、正統帝は解放されて窮地を脱する。
0055世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:21:53.840
それから約100年後の1550年、今度はモンゴル系のタタールがモンゴル高原の多くを統一。
アルタン・ハンがやはり朝貢を求めて中国に侵入し、略奪したのち北京を包囲する(庚戌[こうじゅつ]の変)。

度重なるモンゴル系部族の侵入に対し、明は万里の長城を大改築してこれに備えた。
現在北京近郊で見られる八達嶺や居庸関、慕田峪(ぼでんよく)、司馬台といった美しい長城はほとんどがこの時代のものだ。
0056世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:23:41.870
解決済の質問

明王朝は宣徳帝までは名君で、後の時代は暗君ばかりといわれてますが、15世紀は英宗と代宗を除けばそうでもないですね。
成化帝も晩年は道教にこるなど評価を下げた所はありますが、成化帝時代も割と安定しています。
また彼の息子の弘治帝は名君と高い評価を得てます。
そう考えると〜明王朝が暗君の多い王朝というイメージは16世紀の正徳帝、嘉靖帝、万暦帝が原因ですね。
現にこの時代は宦官の悪事や皇帝の質のひどさは凄まじいです。
しかし、15世紀はそこそこ良かった皇帝の質が16世紀では一気に悪くなったんですかね。
現に弘治帝以降の明王朝の皇帝はひどいとしか言い様がありません。
0057世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:24:12.520
ベストアンサーに選ばれた回答

●初代洪武帝:類い稀なる人物ではありますが、名君というよりも暴君でしょう。皇帝権力を高めるための異常なまでの粛清。
●2代建文帝:あっさり潰せたはずの反乱を、自己の優柔不断さから信じられない敗北に至らしめた人物。
●3代永楽帝:洪武帝をして「朕に北顧の憂いなし」と言わしめ、靖難の変を勝ち抜いた軍才はありますが、戦後処理の仕方に問題あり。明の威勢を広めはしたが、鄭和の遠征以外は失敗でしょう。
●4代洪煕帝:父の対外政策に反対、恤民政策をとりますが、即位一年足らずで死去。
●5代宣徳帝:叔父漢王の乱を自ら平定、祖父永楽帝の事業を取捨選択し、仁宣の治と呼ばれる安定期になった。しかし彼もまた叔父漢王を焼き殺すなど残虐さも兼ね備えていた。

…本当は崇禎帝までまとめようと思いましたがこれくらいにしておきます。

明の皇帝って洪武帝の病的な執着を受け継いだ人物が多いような気がしますね、確かに。名君らしい名君は4代洪煕帝と5代宣徳帝ぐらいでその期間はたった10年にすぎません。
あとは、弘治帝ですね、『明史』でも褒められてますよね。
0058世界@名無史さん2018/03/12(月) 08:44:39.950
「明は暴君が多かった」という人もいれば、「いや、正確には、名君の治世が短くて、暴君の治世が長かったのだ」という人もいる。

「いや、むしろ、治世が長すぎたから暴君になったのだ」という人もいる。
0059世界@名無史さん2018/03/12(月) 21:00:26.150
万里の長城ってあれ全部くっついてんの?
何百キロ何千キロと長城が続いてんの?
googleマップで追ってみたんだけど途中で殆ど見えなくなって途切れてるみたいに見えるんだけど
元々あったのが壊されてなくなったのか元々なかったのかがわからん
0060世界@名無史さん2018/03/12(月) 22:33:00.960
>>59
そりゃ、何百年も経って荒廃してるから、あちこちブツ切れになっている。

もともと天然の要害になっているところもあるから、そういうところでは
最初からつながっていない。
0061世界@名無史さん2018/03/12(月) 22:42:50.320
万里の長城は、明にこそ必要だった。

唐・元・清は、自分たちも北方の夷狄の仲間だから必要ない。

宋は弱すぎて、前線がかなり南のほうにあるから、やっぱり必要ない。

北の防衛を最も切実に必要としていたのは、なんといっても、明だった。
0062世界@名無史さん2018/03/12(月) 22:45:07.520
明こそは、中国が、最も中国らしかった時代。

中国文明は、明に至って完成の域に達した。
0063世界@名無史さん2018/03/12(月) 23:09:33.200
劉 瑾(りゅう きん、1451年(景泰2年) - 1510年(正徳5年秋8月)は明代の宦官。正徳初年に皇帝の寵愛を受け朝政を専断した。後に皇位簒奪を計画したため凌遅刑に処された。

出身は陝西省興平、旧姓は「談」であった伝えられる。無頼出身より自宮し宮中に入り劉姓の宦官に従いやがてその姓を受けた。
同僚の宦官7人と結託し「八虎」と称され、正徳帝に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させることで、政治の実権を掌握した。
0064世界@名無史さん2018/03/12(月) 23:10:40.630
劉瑾は一部朝臣と結託し朝政を壟断、東廠・西廠などの諜報機関を使って反対派を監視弾圧し、収賄政治によりを朝政を堕落させた。
劉瑾の政治姿勢に対する反発は強く、1510年(正徳10年)、寧夏で発生した朱ゥ鐇による安化王の乱も、劉瑾の排除をその反乱理由に掲げている。

正徳帝の寵愛を失った後に粛清されることを恐れた劉瑾は、この年、宦官では初となる帝位の簒奪を企てるが、
「八虎」の成員である張永の密告により逮捕、凌遅刑(寸磔)に処せられた。この3357刀に及ぶ凌遅刑の様子は刑務官であった張文麟によって詳細に記されている。

劉瑾の財産は処刑後に没収されたが、『二十二史劄記』によれば、没収財産は金250万両、銀5,000万両、
その他無数の珍宝があり、当時の明朝歳入の10年分に相当するものであった。
0065世界@名無史さん2018/03/12(月) 23:11:54.980
明の三大悪宦官

王振 劉瑾 魏忠賢
0066世界@名無史さん2018/03/13(火) 00:28:15.980
夷狄王朝の元。それに対するアンチテーゼとして登場したのが、中華王朝の明。

この両者を止揚したのが、華夷王朝たる清であった。

北京帝国は、絵に描いたような弁証法的発展を遂げた。
0067世界@名無史さん2018/03/13(火) 07:20:01.290
・・・というのが、黄文雄の説
0068世界@名無史さん2018/03/13(火) 08:12:12.920
巨大な経済力。

強力な国内支配システム。

貧弱な外交力と、張り子のトラの軍事力。

明と中華人民共和国の共通項はたくさんある。
0069世界@名無史さん2018/03/13(火) 08:13:12.910
中国外交は、援助をばらまくしか能のない内弁慶。
0070世界@名無史さん2018/03/13(火) 10:42:38.190
元は、漢人の反乱で崩壊した。
明は、夷狄の脅威に常にさらされていた。

清に至って、ようやく両者が統合され、この上なく安定した統治が実現した。

これぞ、正反合の弁証法的発展法則。
0071世界@名無史さん2018/03/13(火) 10:43:23.940
やはり、ヘーゲル大先生は偉大だったか
0072世界@名無史さん2018/03/13(火) 10:46:57.830
中国とアメリカとロシアとイスラムが止揚するのはいつなのだ
0073世界@名無史さん2018/03/13(火) 17:13:14.960
かつては対立していた日本とアメリカは、止揚されて日米永久同盟となった
0074世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:18:19.690
 明代では経済が著しく発展し各種産業が栄えた。華中・華南の農村では商業用の作物として綿花が栽培され、
長江下流の松江地方を中心に織物業が盛んになり、江南・南京では絹織物業が発達した。

 ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・タバコなどの新作物が輸入されて栽培されるようになった。また青花や赤絵・五彩などの陶磁器も作られた。

 産業の発達にともなって貨幣経済も発達し、従来の銅銭にかわって銀が大いに流通し、税や給与も物納からしだいに銀納になり、16世紀後半からは銀納化の一条鞭法が実施されるようになった。
また外国貿易によっても日本銀・メキシコ銀が大量に流入した。大運河の改修や駅伝制など交通路の整備も行われた。
都市には同業者組織である会館・会所が作られて相互扶助が行われた。
このような商人の中では北方の山西商人と南方の新安商人が有名である。
0075世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:22:56.450
4世紀も前に当たる明は現代の人々にとって、なじみがない時代かもしれない。
しかし、明代に生み出された文物の典型を例としてあげればすぐ「なるほど」と感嘆するであろう。
中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。
また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。
北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。
万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。
故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。
明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。

これら、現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの
(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、『西遊記』は唐が背景である伝奇、
『唐詩選』は唐の文化のピーク、『水滸伝』は北宋のストーリーである)はほとんど明代にできたものだと言える。
言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。
0076世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:25:18.880
ここが、中国の歴史を知る上で、重要なポイントだ。

万里の長城を見て、「秦の始皇帝は、よくこんなものを作ったな」と、2000年前の
古代史のロマンに浸るのは誤り。

実際には、万里の長城ができたのは明代だ。

「三国志演義」も、明代の小説。「唐詩選」も、明代の詩集。

中国の文化遺産の多くは、明代にできたものだ。
0077世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:29:51.290
明朝は変化の激しい時代であった。明代中期から、中国の社会構造は新しく変化した。
その最も重要な前提となったのは、為政者による経済の活性化である。
朱元璋および後継者は、元朝の立ち後れていた社会構成要素を取り除き、
農業生産を奨励し、明代の経済を急速に発展させた。

この経済の成長がその後の社会変化の物質基礎となったのである。
また、明代初期、大規模な人口移動が発生したため、閉鎖的な封建統制が動揺した。
0078世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:31:55.890
経済的な変化は次の三点にまとめられる。
第一に、農業産業の補助であった手工業が独立した産業となり、生産量も大規模になった。
第二に、伝統的な農業の経営方法とサービスの対象が集約型、経営型になった。
第三に、中国封建社会独自の生産成長が出現した。

ここで、着目すべきはこの時期の人々の消費内容の重点が物質面から精神面に変わったことである。
例えば、現代でも人気がある中国の古典劇の崑曲は元末明初に顧堅によって創始され、明の嘉靖年間、魏良輔という音楽家によって改良されて、軽やかで甘美な清唱になり、明末清初に隆盛にいたった。
祝允明の『猥談』によると、当時江南地域では、家楽(金持ちの家族が抱えた劇団)も流行っていた。
0079世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:33:03.100
 しかしながら、経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。
その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。
明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。
万歴(万歴元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。
つまり、江南地域は他の地域より60、70年ほど早かったのである。
0080世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:34:24.370
明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。
以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。
奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。
次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。
例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。
理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。
商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。
需要と供給の原則により、一定の量の商品に対して、欲しい人が多ければ多いほど、価格は下がるので、贅沢品に対する社会的需要が多ければ、贅沢品の価格が下がるのは当然である。最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。
庶民は官僚、命婦、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。
0081世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:35:24.890
>需要と供給の原則により、一定の量の商品に対して、欲しい人が多ければ多いほど、価格は下がるので、贅沢品に対する社会的需要が多ければ、贅沢品の価格が下がるのは当然である。

これは、逆だな。

経済法則に対する、初歩的な誤解。

なんで、こーなるの?
0082世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:36:17.710
明の時代は、現代の中華人民共和国と似ている。

政治的には暗黒時代だが、経済は飛躍的に発展し、社会が変貌した。
0083世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:54:01.540
経済と文化という観点からすれば、明の中期〜後期ほど注目すべき時代はほかにない。

これほど中国が飛躍的に発展した時代は、しいていえば、現代の高度成長期くらいしか見当たらない。
0084世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:57:46.080
朱元璋と毛沢東は、学歴コンプレックスもあって、知識人を片っ端から殺しまくった。

おかげで、中国では知的な人間が激減し、バカが生き残った。

今日でも、中国の知的水準は回復していない。
0085世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:58:23.680
日本のほうがずっと早く発展したのは、国民の知的水準の差によるものが大きい。
0086世界@名無史さん2018/03/13(火) 19:59:58.920
知的水準は下がったものの、職人芸は大幅に進歩し、最高の陶磁器が生み出された。
0087世界@名無史さん2018/03/13(火) 20:11:19.550
>>60
まず東から見ると最初角山長城から京東首関までの間が分断されてる様に見えるんよね
あれは山が険しいから元からないのかそれとも版築のお粗末な壁だったから風化してなくなったのかどっちなんでしょ?
0088世界@名無史さん2018/03/13(火) 20:13:29.380
だいたい、一国が本当に発展する時期というのは、政治史的には面白みのない時代が多い。

日本でいえば江戸時代、中国でいえば明代、それも中期から後期がそれに当たる。
0089世界@名無史さん2018/03/13(火) 20:15:03.400
人種的にはほとんど変わらないにもかかわらず、中国人の知的レベルが日本人に比べて見劣りするのは、
教育のせいもあるけど、それ以上に、毛沢東が知識人を殺しまくったのが原因。

恨むなら、毛首席を恨むしかない。
0090世界@名無史さん2018/03/13(火) 21:49:41.010
>>87
風化してるから、見えにくいんじゃないかな。
0091世界@名無史さん2018/03/13(火) 21:52:09.760
万里の長城は、「あちこち途切れてる」と言っても、それなりにつながっている。

もともと茶色だし、一部の観光名所を除けば崩壊して風化してるから、航空写真なんかじゃ見えないところが多いはず。
0092世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:32:08.940
 朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后になってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。
 
馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。
ところが、医者にも診てもらわないし、薬も全然飲もうとしない。
朱元璋が心配して差し向ける医者もすべて追い返してしまう。
心配した侍女が、「どうして医者に診てもらわないのですか」とたずねたら、こう答えた。

「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からないことは自分が一番よくわかっている。
もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。
だから、私は誰にも診てもらわないのです」
0093世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:34:30.990
まず、皇帝独裁を強化します。
 具体的にいうと、中書省を廃止して、六部と軍を皇帝直属にしました。
唐の時代と比較してください。
唐代は皇帝の下に中書省、門下省、尚書省とあって、その下に六部がありましたが、
明代には最後に残っていた中書省もなくした。
皇帝の権限が強化されたということです。
皇帝の権限を制約する機関は存在しません。
こういう統治機構を中国史では皇帝独裁という。
0094世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:36:30.870
中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。

王朝は滅びて交替するが、中書省は続く。

日本でいえば、大蔵省みたいなものか。
0095世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:37:25.930
官庁名としての起源は、三国時代の魏朝にまで遡る。
但し、「中書」の官名は、さらに前漢の武帝の時代の「中書謁者」にまで遡る。
この場合の中書謁者は、宦官に尚書が管掌する事をつかさどらせたものである。
しかし成帝の時に中書謁者は廃止された。
漢代は尚書が上奏を皇帝にみせるかどうかを決定する権限を握っており、
皇帝が権力を強めようとする場合はこれに代わる秘書的な存在が必要となった。
0096世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:38:01.020
こうして魏文帝の代になると中書省を新設し、詔命の起草を管掌させ、
また、政治の枢要にも参画させることとした。

すなわち皇帝の発する命令の内容を決める権限によって、尚書を始め
他の政治機関を統制出来るようになった。
これより以降、尚書は行政上の事務を施行する官庁に事実上の格下げがなされた。
一方、中書の方は、尚書に代わって権力を掌中に入れ、相職つまり宰相の職と呼ばれるようになった。
0097世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:40:49.550
晋から南北朝時代にかけて門下省が新設される。これは当時勢力を伸ばしていた門閥貴族の牙城となって、中書が起草した詔命を審議の上却下する権限を得た。これによって、一時中書の地位は後退した。唐代では、中書は、門下や尚書と共に三省を形成する。
中書の職掌は詔勅の起草であり、また、臣下からの上奏に対する答の草案作成も行なった。また、中書省内には、中書令、中書侍郎以下の官が設置された。

唐では皇帝の貴族に対する権限が強化され、貴族の意向を代弁する門下省に比べて皇帝の秘書的存在である中書省の権限が再び増大した。中書令は正宰相であり、門下省の影響力低下によって強大な権限を振るうようになる。

しかし、唐も後半になると中書令は大功に授与される名誉職的な存在となり、宰相の権限は、主に中書省や門下省の侍郎(次官)以下が就任する同中書門下平章事(同平章事と略す)へと移行した。
0098世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:41:19.260
北宋代になると、中書省の長官は門下省や尚書省と同様に実官ではなくなり、功臣に対する没後の贈官へと形骸化した。
0099世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:42:07.890
元代では、中書省は、中央政府の統治機関となり、また、各地方にも同様の行中書省(行省)が設置された。
そして、この行省が、今日みられる地方行政区画としての各省の起源となった。

ただし、三田村泰助が言うようにこの「中書省」はモンゴルの伝統的な執政府である
エケ・ジャルグチ(大法官)やエケ・ビチグチ(大書記官)の漢人官僚による訳語に過ぎない。
笠沙雅章によると、その職務も詔勅の起草に止まらず枢密院(軍政)、御史台(監察、司法)が
扱う以外の全ての政治権力が集中した強力なものであった。

すなわち唐代の中書省とは全く別の機構である。
0100世界@名無史さん2018/03/14(水) 19:42:49.850
明朝の初代洪武帝も当初は中書省を設置し、その長官たる丞相が宰相となった。
しかし1380年(洪武13年)の胡惟庸の獄を機としてともに廃止された。
この中書省も唐代のそれではなく元代の中書省を引き継いだ機関であった。
すなわち唐代の中書省は唐末から五代にかけて消滅しており、ここでの元代からの中書省の廃止と混同してはならない。
しかしこの洪武帝の中書省廃止は、丞相をはじめとしてあらゆる宰相職を廃止したという意義がある。
これによって六部の長官である6人の尚書が直接皇帝の命令を受けるという皇帝独裁体制が成立した。
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