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唐宋変革期4
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0176世界@名無史さん
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2019/04/22(月) 20:28:18.810
唐宋変革は、直接には五代十国の乱世に起きた社会変動なわけだが、ほとんどの変化は、唐の後期に始まっていた

日本の戦国時代の乱世が、室町幕府の頃から既に始まっていたように、唐の後期は、既に事実上の乱世が始まっていた
0177世界@名無史さん
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2019/04/22(月) 20:30:59.410
唐の後半は、藩鎮が結託して反乱したことにより、皇帝が長安から脱出する事件が何度も起きた

中興の祖・憲宗のときは盛り返し、一時的に藩鎮を抑え込むこに成功したが、40代に入ると仏教・道教に耽溺する昏君と化し、宦官に暗殺された

その後も、敬宗は宦官に暗殺され、別の宦官によって擁立された文宗も結局は宦官に幽閉され、若くして惨めな晩年を迎えた
武宗にいたっては完全に宦官の傀儡だった
0178世界@名無史さん
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2019/04/22(月) 20:38:28.010
唐の第12代皇帝・徳宗

父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。

764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。
即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。

節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。

このため784年に『罪己詔』を発して、節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。 反乱鎮圧後に、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝った。
0179世界@名無史さん
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2019/04/22(月) 20:50:22.730
唐の中興の祖・第14代憲宗

805年に即位し、藩鎮の勢力削減に取り組んだ。
817年(元和12年)には淮西節度使を討伐した。
儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。

軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。

強大な藩鎮勢力を抑え込んで地方を統制することに成功したため、「唐の足利義満」とも呼ばれる (ただし、そう呼んでいる人を、自分以外に見たことはない)。

しかし、晩年には丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。
0180世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 07:01:33.020
第17代 文宗

826年に敬宗が宦官・劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により、文帝が皇帝に擁立された。
朝政の実権は王守澄らが掌握し、文宗は皇帝としての実権をほとんど持たず、傀儡に近い存在であった。

親政を計画し、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を謀ったが失敗する。
そして835年に再び李訓らと共に宦官討滅を謀った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、
その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害され、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった(甘露の変)。

文宗は既に実子の荘恪太子永と蒋王宗倹を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太子としていた。
しかし甘露の変が発生すると、宦官の仇士良らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である潁王李瀍が立太子された。

840年、幽閉されていた文宗は32歳で崩御した。
晩年に「周の赧王・漢の献帝は強臣に制せられたに過ぎないが、朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いたと伝えられている。
0181世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 07:03:25.070
五代十国だけが乱世なのではない

安史の乱のあとの唐の後期には、すでに皇帝権力が弱体化して、乱世が始まっていた

唐宋変革とは、この大乱世に起きた社会変動
0182世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 07:08:17.700
894年、菅原道真は遣唐使を廃止した
「白紙に戻す遣唐使」という語呂合わせでも有名な、「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ

でも、ここで注意すべきなのは、当時の唐は黄巣の乱で荒れており、各地で外国人虐殺事件が起きる、いまでいえばイラク・シリアのような危険地帯と化していたこと

約十年後の907年には唐が滅亡するのだから、菅原道真の遣唐使廃止は、「日本はもう中国から学ぶことがなくなりました」ではなく、
「唐が滅亡したので、遣唐使もなくなりました」と位置づけるべきところだろう
0183世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 10:31:55.500
唐の憲宗とポジションが似てるのが醍醐・朱雀天皇かな。
彼らの死後、 唐では皇帝が傀儡となり宦官や藩朕が跋扈する世となり、
日本では律令制が終焉、藤原氏の政権掌握・武士の台頭へと向かう。
やがて、唐王朝と貴族社会の崩壊、 鎌倉幕府の登場と相成る。
中国の方がスクラップアンドビルドの度合いが強烈でハードランディング、
日本は穏便にソフトランディングした感じがする。(致傷寿永の内乱は可愛いもんだw)
日本人はなんつーか、大変革を嫌い、微調整をこまめに行う方が好きだ。(明治維新だけが唯一の例外)
天皇制が永く続いた理由にもつながるが、唐宋変革をみて少しオモタ。
0184世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 12:14:57.140
>>183
それは言える

唐末には、高貴な身分の貴族たちが、簀巻きにして黄河に投げ込まれ、貴族社会が荒っぽく終焉した

それに比べて藤原北家は、幕末まで京都で連綿と続いてた
0185世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 12:17:29.690
高貴な家柄の貴族たちに代わって、中国社会を主導するようになったのは、四書五経を丸暗記した受験秀才たちであった

唐の貴族社会から、明の学歴社会へ

宋・元はその過渡期であった
0186世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 12:23:09.090
江戸時代の武家の子弟も、藩校とか湯島とかで、四書五経を一生懸命にお勉強してた

でも、科挙はなかった
出来が悪くて落第したところで、平民に落とされるわけではないし、
平民でも、科挙に合格すれば老中や家老になれる・・・なんてことは、まったくない世の中

学歴ではなく、家柄でほぼすべてが決まる社会だった
0187世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 12:31:17.130
いまでは、日本でもフランスでも、難関試験を突破した平民出身の秀才が高級官僚になるのは、当たり前と思われている

でも、これは決して当たり前ではなく、長い歴史の中では、割とつい最近のことなのを忘れてはいけない

何百年も前からこんな制度だったのは、世界でも中国だけ
その頃、日本やフランスでは、家柄でほぼすべてが決まってた
0188世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 19:29:35.570
>>182
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ

遣唐使が廃止されたのは安禄山の乱による唐の治安悪化によるもの
当時の日本とかようやく文明国としての体裁を取り始めたばかりでまだまだ未熟
江戸時代半ばに蘭学が伝わるまで学問は漢学一辺倒だったし

で不思議に思うのは中国から伝わったのは机上の学問ばかりで技術的なものはあまり伝わってないこと
例えば羅針盤とか火薬とか西の果てのヨーロッパよりも伝来がおくれている始末
0189世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 20:04:48.930
日本が中国から先進文明を吸収し終えるのは早く見積もっても鎌倉中期。禅宗・茶・絵画などが多く入ってきた。
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期
そら、律令制とか政治制度・法律限定の話だな。
生糸や砂糖などは日本では高品質なものは作れず18世紀末まで中国製に頼り切っていたし。
0190世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:11:56.700
>>188
火薬のような新兵器というものは、それを使う敵と対戦して、初めて威力が分かるものだ。
日本人には、モンゴルが攻めてくるまで分からなかった。

それと、日本には天然硝石の資源が無いことが、火薬国産化の大きな壁となった。

もっとも、中国の火薬兵器は、西洋銃のような精巧なものではなく、城壁を破壊することや、爆音で馬を驚かせるのが有効な利用法で、大陸での戦争には有効だが、日本ではそこまでの需要がなかった。

さらに、中国にとって日本はやはり潜在的な脅威であり、ハイテク兵器を渡したい相手ではなかった。
高麗には、倭寇対策のために鉄砲を供与した。
0191世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:20:58.230
日本には、火薬が伝わるのは非常に遅かったが、紙は西洋よりもずっと早く伝来し、卑弥呼の時代にはもうあったという説もある

天然硝石がないおかげで火薬を国産化するまで何百年もかかったが、その代わり、紙の原料となる植物には恵まれた

この点で不利だったのは朝鮮で、紙の不足が文芸の発展を大きく阻害することとなった
0192世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:22:34.000
>>189
絹織物・陶磁器・茶は、世界に冠たる中国の三大特産品であり、こればっかりは日本に限らず、どこもかなわないのだから仕方ない
0193世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:23:26.030
>>188
日本列島の国が曲り形にも文明国家と成ったのわ徳川王朝以降で
平安時代なんて皇族や藤原族が地方土着の豪族を騙し討ち皆殺しにして共同体を破壊
異常な超重税や頻繁な臨時増税を課して国中に餓死者が満ち溢れた地獄だよ

堪え兼ねた平民の仏教寺院亡命が相次いで成立したのが荘園制だし
0194世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:33:05.490
>>193
んなわけねえだろ、ヴァカか(笑)

古代の世界で、日本のような米と魚がふんだんに取れる気候温暖の地が貧しいわけがない

近現代のハイテク社会じゃあるまいし、技術力の問題じゃねえわ
0195世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 21:49:23.520
幾ら恵まれた土地でも超重税を課されて根刮ぎ支配階級に収奪されれば
飢えて死ぬしか無いからな
しかも徴税以外に略奪するし、滞納したら一家全員殺すか奴隷にする連中だし
0196世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:20:33.190
日本が支那に追い付いたのは田沼時代とみる。 追い越したのは幕末あたり?
0197世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:22:17.440
何気に清朝って中華文化的にも国力的には最盛期なので、アヘン戦争前後までは追いついていないのではなかろうかね

そもそも、欧州だって清朝最盛期の時代に追い抜いていたかというと微妙
0198世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:50:05.760
>>197
そりゃ、中国とインドの国家規模がデカいのは当たり前だ

普通の大国の10倍以上の人口があるのに、国力を比べても意味がない
0199世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:52:38.700
>>195
それは、北方民族に支配された、惨めなシナ土人のこと
0200世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:59:07.470
>>198
だから、文化的にもと書いておる
経済的にも、文化的にも強力な国家、地域をどう評価するかって話でもある

ただ、清朝はその人口(というより急激な人口増加)が足枷になって急激に没落するのは皮肉なところでもある
0201世界@名無史さん
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2019/04/23(火) 23:59:55.730
日本と欧米の進化が急加速したのは、18世紀の後半から19世紀だろう

17世紀の世界はなんといっても、オスマン帝国・サファーヴィー朝・ムガール帝国が鼎立するイスラム文明の黄金期

もちろん、清の国力も桁違い
アメリカ・ロシア・日本・ドイツはまだデビュー前の状況
0202世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 00:13:20.600
17世紀だと、日本は江戸幕府の鎖国、ドイツは三十年戦争、ロシアは動乱時代を経てポーランド・リトアニアに占領されたりとか、むしろズルズル後退してた衰退途上国

全盛期のイスラム3帝国と清朝は、あまりにも輝かしい存在だった

18世紀の後半から19世紀にかけて大逆転が起きる
0203世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 10:59:18.130
田沼時代は初期近代。だが定信のバカが時計の針を逆回りさせた。
ここから日欧の差が広がるが、清は停滞したので幕末あたりで日本はシナには追い越した。
0204世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 11:21:05.310
>>203
田沼意次も松平定信も、どちらも徳川吉宗の紀州系幕府の流れを汲んでいる。
つまり、徳川吉宗政権の持っていた異なる側面をそれぞれ代表する政治家だったんじゃないかな。

田沼意次も農政ではいろいろとやらかしてしまっているんで、
実のところ両極端の二人が対立してつぶしあうんじゃなくて、
補いあって助け合う体制が築けていたのなら、日本の歴史もかなり違ってきたんじゃないかと思えてならない。
0205世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 11:32:23.890
田沼は人脈的には紀州閥だが、思想・政策的には徳川宗春の系列
0206世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 12:20:40.810
唐の後半から五代十国にかけての大乱世を収束しようと、宋の趙匡胤は大改革を実施した

これが、日本でいえば、戦国時代を終わらせた徳川家康の歴史的役割に似ている

これを、「中世が終わって近世が始まった」と言いたくなるのもよくわかる
0207世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 12:26:44.640
「権力が分散している」というのが中世社会の大きな特徴のひとつだとすれば、
皇帝権力が弱くて不安定で、国家が地方分権的な、
唐はこの特徴によく当てはまっている

藩鎮の反乱で滅亡寸前になったり、外戚に皇位を簒奪されたり、宦官に皇帝が殺されたり・・・といった、ヘタレなエピソードに事欠かない
0208世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 12:29:18.180
「中国史上最弱の統一王朝」といえば、北宋を指すのが通常だが、実際には不安定な唐に比べて、北宋の国家体制はかなり強化されている

見た目の領土の広さはともかく、実態としては、唐こそ「史上最弱王朝」と呼ぶにふさわしい
0209世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 12:45:30.250
晩唐以降って考えるなら、唐の権力基盤が弱体であり、中央の統制力が効かない状況であったのは事実かもしれぬ
0210世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 13:25:46.940
要するに、宋より前の中国の王朝は、大唐帝国にしたところで国家の軍事を担う
武装集団の一元化が出来てないんだよ。

唐朝の場合には北族系の諸軍閥を束ねただけで、その中には華北に移住してきた
遊牧民の末裔だけじゃなくて、実際に草原地帯で遊牧生活を送っている遊牧諸部族の
軍隊も、唐朝の国家の軍事力の中枢に参画していたりする。

宋朝ではそういう国家の軍事の一元化に成功はしたけど、その状態で軍の精強さの
維持に失敗した、という感じかな。それを、火薬兵器の大規模採用によって
補ってなんとか国境線を維持していた。
0211世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 13:35:09.790
>>206
柴栄 −信長  趙匡胤 −秀吉 趙匡義 −家康 という見立てはよくあるね。

>>208
皇帝権力が強化された北宋は江戸幕府に似ている。綱吉以降は特に。
宋は対外的には弱かったが、江戸幕府も対外戦争やったら弱かったもしれない。
攻めてくる国が無かったから「文弱」がばれなかっただけだろう。
中国文明の最盛期は宋代だよね。 昭和後期の日本と同じ。武力はパーだが文明のピーク時だった。
0212世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 14:46:32.940
>>211
趙匡義は、たまたま見た中国の時代劇で、兄の趙匡胤をコッソリと毒殺して帝位についた陰険な悪役だったので、そのイメージが強い

でも、宋の国家体制を築いたのは、やはり趙匡義
0213世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 16:11:52.600
>>210
ちなみに、北族系の軍事力の一元化が出来ていない、という唐朝の本質的な弱点が露呈したのが安史の乱。

あの当時、唐朝の勃興と突厥遊牧帝国の崩壊があったばかりで、
北族系軍事集団には次のような選択肢が目の前にぶら下がっていたらしい。

・唐朝の軍に参画してさらに唐朝の政権中枢への参画を目指す
・滅亡した突厥の「お家再興」を目指す
・新興のウイグル遊牧帝国への参画を目指す
・吐蕃帝国への参画を目指す
・新政権を樹立してその中核勢力への参画を目指す
0214世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 16:22:14.390
>>213
北族は、唐を「タクバツ」と呼んでいた

いくら中華皇帝として中原を制覇したといっても、彼らにとっては、やっぱり「タクバツ」
0215世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 17:20:46.690
「唐は軍閥連合政権」というのは、その通りだろう
統一王朝としてまとまるのは強力な皇帝がいるときだけで、皇帝の力が弱いと、たちまち結束がゆるんで動乱に突入する

唐がなんとか治まっていたのは太宗の「貞観の治」と、玄宗の「開元の治」のとき、あとは中興の祖・憲宗のときくらいだろう

あとは外戚に簒奪されたり、藩鎮の反乱で崩壊状態になったり、宦官に皇帝が幽閉されたり暗殺されたりの繰り返し
0216世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 17:51:09.130
どうも、前後の歴史を見ていくと、「唐の中華統一」というのは決して安定相では
なかったように思える。

前時代の「安定相」というのは、
・漠北の柔然
・南モンゴリアと華北の北魏(拓跋鮮卑)
・江南の六朝
の鼎立状態で、これが壊れて権力体の再編に向けた流動的なフェイズの一瞬の見かけの安定相が
・漠北の突厥
・南モンゴリア・華北・江南の隋唐帝国
という対峙状況。
これが
・遊牧ウイグル帝国
・唐朝
・吐蕃
の不安定な鼎立、天下三分状況を経て、結局
・契丹遼帝国
・宋朝
の対峙状況でやっと安定してくるんじゃなかろうか。
0217世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 19:07:34.020
モンゴル高原を含めた東アジア世界ということでは、遼と北宋、北元と明も南北朝時代
0219世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:04:27.200
>>218
確かに似てると思うがな

唐 618年 室町幕府 1336年

宋 960年 江戸幕府 1603年

だいたい、600年から700年遅れで後を追っている
0220世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:15:34.080
中華世界の邑制社会が秦漢帝国の皇帝のもと統合されたのが紀元前3世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の天皇のもと統合されたのが8世紀

だいたい1000年ぐらいの周回遅れ

統合の契機になったヤマト政権の連合体形成の3世紀を採用すると

だいたい500年ぐらいの周回遅れ

中華世界の邑制社会の残滓である郷里社会が解体したのを後漢初とすると1世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の統合の中で解体したのが10世紀

だいたい900年ぐらいの周回遅れ

まぁ、少しずつ周回遅れのレベル差は縮小していっていると言えるのかな。
0221世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:16:59.920
室町幕府も、実力将軍・足利義満のときは「日本国王」の名にふさわしい偉容で全国を統治していたが、並の将軍のときは、とても統一国家などと言えるような状態ではなかった

唐も同じで、実力皇帝が君臨しているときだけ軍閥連合政権が機能した
皇帝といっても、「覇者」とか「盟主」に近い存在だった
0222世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:20:41.610
科挙官僚に政権を担わせることで北族系軍閥から奪権して皇帝専制を目指したのが、
女帝武則天と玄宗皇帝。

結局、権力を奪われまいとした北族軍閥の蜂起で最終的に安史の乱を招いて唐朝は衰退した。
0224世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:23:37.470
>>196
例えば工業化の指標となる鉄生産量を見ると1870年のリヒトホーヘンの報告だと山西省だけでも生産量年間16万トン
一方1879年の日本の鉄生産量は全国合わせても1万4000トンでとてもじゃないが比較にならない
教科書の記述だけ見ると近代化に成功した日本があっさり清を打ち破ったかに見えるが
当時の日本の工業能力は清の一地方にすら負けるレベルで日露戦争と同じぐらいの奇跡と言っていいんだが
0225世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:24:46.080
>>223
江戸期の「一揆」とされたものは組合活動の団交みたいなもので、武装蜂起による反乱なんかじゃないぞ。
0226世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:30:39.240
>>224
日本では、コークスを用いた近代製鉄が始まっていた
量はともかく、質ではシナ製など比べものにならない

量が足りない分は輸入で補っていたから問題ない
0227世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:33:05.390
中国は、いまも粗悪な鉄鋼を異常に大量生産し、余った鋼材で砂漠に誰も住まない巨大都市を建設している

それでも余って仕方なく、さすがの共産党も困っている
0228世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:33:15.140
>>224
むかし、北西九州で地域史の調査をやっていたんだが、あれでずいぶん近代史の見方が変わった。

明治日本の「開港場」って、英国が香港・上海・シンガポールの東洋経営の要衝を運営するバックヤードとして機能してるんだわ。

つまり、これらの要衝の運営に必要な蒸気機関で動く軍艦や商船への良質な水と石炭の補給地、静養地として明治日本が機能してる。

日清・日露戦争ってのは、そういう英国と明治日本のパートナーシップが背景になっていると考えないとどうしても説明がつかんのよ。
0229世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:37:08.640
白村江の戦いのときも、英米と同盟して唐と戦えていればなあ
0230世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:39:03.240
>>229
その時代のアングロサクソン人なんて、ほぼ「蛮族」だわな。
0231世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:42:31.200
>>222
結局、五胡十六国時代の延長戦みたいなもんだな
北朝同士の内乱だ
0232世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:45:32.850
武則天だな、科挙官僚の抜擢を始めたのは

廃藩置県みたいなものだ
まだ時代が早すぎた
この大改革が成功するには、趙匡胤・趙匡義まで待たねばならなかった
0233世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:47:52.230
>>216
地球に生命が誕生した理由(環境条件)のひとつに、太陽、木星、土星と丁度いい呪力バランスを維持できた、
ことがあるらしい。太陽系内のいい位置に巨大惑星が2つあることで地球は現在のハピタルゾーンに位置し続けることが出来た。
木星・土星が無ければ遠心力で地球はびろーんとさらに遠い位置にぶっとんでたらしい。
契丹・北宋・西夏は実は非常にグッドな重力バランスを相互に及ぼして「11世紀の平和」を実現したのではないか。
これが唐代とは比較にならぬ経済と文化の発展をもたらしたのではないか?
貴君のレスを読んでふと感じた。 (北宋≒地球説)
0234世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:57:02.940
>>233
この「11世紀の平和」の動的平衡維持のために北宋が膨大な数の火薬兵器(主として火炎放射器的なもの)を
契丹や西夏との国境に配備。そのための黒色火薬製造のために日本から日宋貿易で膨大な量の硫黄を輸入。

それが日本列島に商業経済を勃興させ、日本列島を中世社会へと駆動していくことになるんだな。
0235世界@名無史さん
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2019/04/24(水) 22:58:21.770
>>233
太陽をアメリカ、地球を日本、木星・土星を中国・ロシアとすれば、現代の状況に当てはまる

中国・ロシアの脅威があるから、日本とアメリカの関係は安定して強固な同盟が続いている
0236世界@名無史さん
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2019/04/25(木) 11:07:31.420
>>235
90年代の米国は日本バッシングに走り、中露重視の外交を取った。基本的にそれはオバマ時代まで続く。
現在 中露がアメリカの主敵になったことで日本は「米国の敵」から外れた。
そして日本にとって中国は米国と並ぶ市場、ロシアは中東リスク回避用のエネルギー供給国となった。
そして中国牽制のためにインド、と新しい木星も手に入れた。

>>234
当時の日本の対中輸出品の1位だか2位だかが、硫黄だよね。ほんでもって宋銭輸入と。
自動車売ってドル稼いで・・・・って、「パクス・アメリカーナ」下の現代日本じゃんかそれ。

うーむわかった。 (宋≒米国説。  もうええ、てか?)

ついでに233訂正
呪力バランス(怖いなコレ) →重力バランス   ハピタルゾーン →ハピタブルゾーン
日本がハピタブルゾーンの恩恵を受けた最大の理由は太陽(中華帝国)との距離だったよね。
近すぎず遠すぎず、「周辺文明」として高い文化と成長を維持できた。
朝鮮や越南は太陽に近すぎて、現在に至るまで尚、(後略)
0237世界@名無史さん
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2019/04/25(木) 11:52:18.020
>>236
当時の宋の史料に、日本との貿易で真に国益になる輸入品は硫黄と木材だけだって書いてある。

ところが、日本の史学研究では硫黄の宋朝での用途がよくわからなくて、どうせ薬用に
取るに足らない量が輸入されていたんだろうぐらいに解釈されていて、
日本が大量の陶磁器や宋銭を輸入できるだけの価値ある品物といったら奥州の黄金に違いない、
と信じ込まれてきた。Wikipedia日本語版の「北宋」の対日関係の章も、
その仮説がまかり通っていた時代の参考文献をベースに書かれている。

日本の輸出していた硫黄が宋朝の国防の枢要を占める重要な軍需品で、
実はかなり膨大な量を宋朝が必要としていて、それを日本がほぼ独占的に
供給していたことを明らかにしたのは実に21世紀になってからの山内晋次の
研究を俟たねばならなかった。

日本の中世以降の文明的な発展は、中華王朝の軍事力が及びにくい適度な遠さと、
同時に中華王朝が喉から手が出るほど欲しい天然資源(中世の硫黄・近世の銀)の
大産地であったことに依るところが大きい。
0238世界@名無史さん
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2019/04/25(木) 20:21:07.550
>>225
大量の餓死者が出て起きた武装蜂起も結構ある、そういう場合幕府軍に結構な人数を虐殺されてる
>>221
足利幕府は義満の最盛期でも安史の乱後の唐帝国の水準
以降2代義持義教の盛期でも晩唐に近い概況だよ
0239世界@名無史さん
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2019/04/25(木) 22:18:53.410
>>226
コークス製鉄法とか中国では宋代にすでにあった技術だぞ
室町時代の日本では日本刀が重要な輸出品目だったのだがこれにしても
製鉄技術の未熟さから原料を中国や琉球から輸入した福建鉄や暹羅鉄に頼ってた
0240世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/25(木) 22:25:00.020
>>238
安史の乱の悲惨さは、日本の戦乱とは比べものにならない。
日本人には人肉を食べる習慣がないから、こうはならないんだよ


>9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。
農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。
 安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるようなでっかい石臼を運ぶ部隊です。
反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には死体がたくさん転がっている。
そこに石臼部隊がゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。 死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。
 もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために反乱をつづけているような状態になっているのです。
 華北の荒廃とはこういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。
0241世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/25(木) 22:30:47.620
これがあるから、中国では乱世になると、人口が激減する。
それによって、社会の大変動が引き起こされる。

漢が滅亡したときの人口激減はとくに有名で、「人間が入れ替わった」とされる所以。
0242世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/25(木) 22:43:39.360
>>240
それ日本史の日常だよ
平安後期〜室町時代までずっとそんな感じ、当然人肉も飢餓の度に食ってる
日本史に無知過ぎる
0243世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/25(木) 23:57:25.040
>>242
いや、人肉食は中国人に特有の食文化だ

科挙、纏足、宦官と並んで、
0244世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/25(木) 23:57:48.550
日本が受け入れなかった中国文化のひとつ
0245世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 00:06:40.450
追い詰められた飢餓状態の人間が、やむを得ず人肉に手を出すことは、どこの国でもあっただろう

だが、平常時に食事として人肉食を行い、塩漬けや蒸し焼きなどの人肉調理法が発達していたのは、他国に例をみない中国特有の食文化だ
0246世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 00:16:05.610
>>238
真の内乱に至った島原の乱を除くと、基本的に団体交渉レベルだよ。

例外的に抗議行動の規模が膨れ上がりすぎて幕府側が過剰な弾圧行動に出た大原騒動で、
武力鎮圧による死者が数十名、刑死(獄死を含む)者が数十名、というレベル。
これで、江戸時代の中でも特筆すべき例外的な事件で、責任者の代官の大原紹正が
八丈島に島流しにあい、幕府側の役人で死罪になった者もいる。

また、この例外的な大原騒動であっても、農民は示威行為のみで代官所襲撃などの
武装反乱には至ってない。

ちなみに、アメリカ合衆国では19世紀に労働争議に対して経営者が機関銃をぶっ放す
という武力弾圧に及ぶ行為が普通に行われていた。それと比べても、江戸時代の
「百姓一揆」の方がよほど穏やかに事態が推移している。
0247世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 00:19:10.300
>>239
日本のたたら製鉄は、低温還元による海綿状鋼を生み出す製鉄で、
良質な鋼は生産できるが、大量生産や鋼以外の軟鉄や鋳鉄といった
多様な鉄を生み出すのには適していない。

江戸時代でも軟鉄が十分国産化されておらず、火縄銃のバレルの内張に
使う軟鉄はタイから輸入したものを使っていたほど。
0248世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 00:40:18.890
「安史の乱の石臼部隊」っていったいどこから話が出てきたのか。
ネット上には話があふれているが、安史の乱を研究したまともな歴史書や
歴史学論文ではこのエピソードを見かけたことがない。

おおもとの出典をご存知の方はおられる?
0249世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 09:27:43.980
安史の乱による唐朝崩壊から、五代十国に至る200年の大乱世

「中国史上、最も大きな変革期」とされる激動
0250世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 12:04:14.470
しかし、安史の乱が起きる以前の唐朝も、決して安定していたわけではない

そもそも、玄宗が皇帝専制を目指して無理な軍閥潰しをやるから反乱が起きるわけで、漢の武帝や、清の康熙帝みたいになろうとして失敗した例と見ることも可能だ

それ以前も、外戚の武氏に王朝を簒奪されたり不安定で、治まっていたのは「貞観の治」「開元の治」といわれた数十年間くらいのもの
0251世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 12:09:34.340
漢が滅亡して400年の乱世
隋唐による短期間の不安定な統一を経て、安史の乱からまた200年の乱世

権力が一元化せず、地方分権で中央の統制力が弱いのが「中世」の特徴だとすると、漢が滅亡してからの中国史は「中世」の特徴を存分に備えている
0252世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 12:22:35.410
そもそも、なんで西洋史で「中世」というかといえば、それは「古代ローマ帝国」と「近代ヨーロッパ列強」という、2つの輝かしい栄光の時代に挟まれた、長い停滞の暗黒時代というのがその主旨

中国についても、古代の「大漢帝国」と、三大発明を生んだ「宋」以後を2つの輝かしい栄光の時代とするなら、
その間のグダグタな期間を「暗黒の中世」と見なすことは十分に可能であろう
0253世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 13:55:57.740
「古代」というのを定住農耕地帯に限って論ずるなら、それは都市国家的な共同体で
構成された社会、ということになるんだと思う。「古代帝国」というのも都市国家的な共同体を
有機的に結び付けたもので、文明史的な古代の栄光、というのは、都市国家に蓄積された
知恵の集積の開花なんだろう。

しかし、古代帝国というものは伝統的な都市国家に依存した社会システムで運営されながら、
都市国家的な結合を消費し、解体に向かわせてしまう。それは古代帝国の自滅に他ならないんだが、
都市国家の解体後の世界には、ごちゃごちゃに人や土地に対する権益の錯綜したあまたの
「身分団体=社団」が叢生していた。このそれぞれに武装し自治機能を備えた社団の錯綜こそが、
「中世」の本質なんだと思う。
0254世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 19:32:17.770
これからは、隋唐を「中世タクバツ帝国」と呼ぶことにしてはどうだろう?
0255世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:02:12.160
もちろん冗談なので、本気でツッコミを入れないように
0256世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:07:42.050
>>254
隋唐を「鮮卑タクバツ帝国」といえばわかりやすい
0257世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:20:37.490
>>256
それはいい

なんとも、そのものズバリなネーミング
0258世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:27:42.610
宋王朝は「中世トルコ帝国」か
0259世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:38:42.840
>>258
オスマントルコやセルジュークトルコと区別するため「東亜トルコ帝国」
0260世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:50:38.360
そうだなあ
「中世トルコ帝国」といったら、セルジューク朝を連想するしかないだろう

首都はない
スルタンがどこかでテントを張って絨毯を強いたら、そこが帝都になる
大スルタンの他にも、全国各地に小スルタンが何人もいる

これこそ、中世の遊牧帝国の見本
唐も、名目上は中華王朝だが、実態としては遊牧集団のタクバツ連合
0261世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:52:22.540
>>259
唐を「鮮卑タクバツ帝国」と呼ぶなら、宋も「突厥サダ帝国」になるはずだ
0262世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 20:56:21.830
>>246
天保天明の300万人が餓死した大飢饉時代に
各地で民衆反乱が頻発して一揆毎に多いと数百人から千数百人殺されてるのが現実
0263世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 21:00:41.340
マジメな話、モンゴル人は遼を「キタイ」(契丹)と呼んでいたが、それがモンゴル語で中国を指すようになり、ロシア語でも中国をキタイと呼ぶようになった。

「秦」がシナになり、「高麗」がコリアになったようなものだ。
つまり中国を、西欧人は「秦」と呼び、ロシア人は「契丹」と呼んでいる。
0264世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 21:18:38.520
ユーラシアの歴史って騎馬民族と農耕民族による対立と融合を繰り返しだよね
ギリシャvsスキタイ
ローマvsフン
漢vs五胡


そして騎馬民族が農耕民族に変わったのが
スキタイ→ゲルマンスラブ
鮮卑→唐
突厥→宋
0265世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 21:36:11.490
>>264
史上類例のない単一民族国家に生れた日本人ならではの勘違いだな
もしかして清は皇帝から民衆まで満州人の国とか思ってる?
0266世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 21:48:59.640
>>263
モンゴル王朝では女真族も契丹も漢人と言われてたよね
>>265
清は諸民族の牢獄だよ
今の中共も諸民族の牢獄だけどね
0268世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/26(金) 23:24:51.820
単一民族日本にとっては多民族が共生している世界中のほとんどの国家が「牢獄」に見えるだろうな
逆に多くの多民族国家にとって一つの人種一つの民族しか存在の許されない日本こそが「牢獄」に見えるだろう
0269世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 04:07:12.770
>>268
多民族国家が「牢獄」になるのは、ひとつの民族が他の民族を支配しているからだろ

中国は牢獄だが、アメリカはそうではない
0270世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 05:25:24.460
唐を「タクバツ」と呼んでいたのは、北方や西域の諸民族だ

漢人にとっては「大唐」、倭人にとっては「カラ」
0271世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 05:29:14.640
中国史なら「唐」で良いが、もっと広くユーラシア史に位置づけるなら「タクバツ帝国」と呼ぶのが妥当ではないか

「元」と「モンゴル帝国」の関係と同じだ
0272世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 05:45:13.540
>>270
補足すると、正確には、ユーラシアのトルコ系諸民族が、タクバツが訛った「タブガチ」と呼んでいたことが明らかになっている

長安帝国にとっては最も交流の深い同時代の隣人は、唐を「タブガチ」と認識していた
0273世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 05:51:07.010
千数百年の時をすぎ、数千キロの距離を隔てた日本で、「唐は鮮卑系王朝だ」、「いや、漢人系王朝だ」と論争するのは、人それぞれの自由というものだろう

しかし、同時代の近隣諸国にとっては、唐は「タクバツ帝国」だった

この事実を忘れてはならない
0274世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 10:05:34.800
ちょっとまともな流れかと思ったら、絵に描いたような牽強付会で笑ってしまった
0275世界@名無史さん
垢版 |
2019/04/27(土) 10:50:00.350
唐は、パルティアやセルジューク朝のような遊牧集団による軍閥連合政権
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