史的唯物論を批判するスレ
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カール・マルクス『経済学批判』より
"私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものとなった後は私の研究にとってみちびきの糸となった一般的結論は、簡単に次のように定式化することができる。
人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産関係を受容する。
これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を、すなわち、その上に一つの法律的および政治的な上部構造がそびえたち、そしてそれに一定の社会的意識諸形態が照応する現実的な土台を形成する。
物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的な生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展のある特定の段階で、それらが従来その内部で運動してきた現存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現に過ぎないところの所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に急変する。
その時に、一つの社会革命の時代が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な全上部構造が、あるいは徐々に、あるいは急速に、変革される。
このような諸変革の考察にあたっては、経済的な生産諸条件における物質的な、自然科学的に精密に確認されうる変革と、
それらにおいて人間がこの衝突を意識しかつこれを克服するところの法律的、政治的、宗教的、芸術的あるいは哲学的な、つまりイデオロギー的な諸形態とを、常に区別しなければならない。
ある個人がなんであるかを、その個人がどう考えているかにしたがって判断することはできないのとおなじように、そのような変革時代を、その時代の意識から判断することはできないのであって、
むしろその意識を、物質的生活の諸矛盾から、社会的な生産諸力と生産諸関係との間に現存する衝突から、説明しなければならない。
(続く) 唯物論は、無生物論(生きものはいない論)と言ってもいいんじゃないか? 無生物論(生きものはいない論)↔有生物論(生きものはいる論) 生物としての生物、生物の生物性。
無生物としての生物、生物の無生物性。 こういうと必ず、じゃあ大事にせずに粗末に扱っていいのか?という知的障害者がいるが、そういう人は、自分の腐った精神を反省してほしい。 生物は物だから、粗末に扱っていい。大切にしなくていい。(ただし、自分(たち)は例外。)
↑こういう人間をゴミという。人格が腐った人間に、生きる資格はない。死んでくれ! 生物は、物だ。だから粗末に扱っていい。
↑↑だったら、自分もそうされてくれ!!w 生物は物だから、粗末に扱う。
↑お前も生物だ、それがわからない知的障害者兼腐敗人格障害者は、殺処分! アラー(=the god)・アクバル(=great)
神は、偉大なり。 私は好きなように生き、好きなように死のう。アラーがお望みなら! >>3
マルクス自身がニートで労働者のこと全く分かってないからな 過去は、既に刻まれている。
未来は、なるようにしかならない。
無生物の手によって! 無生物、万歳!
無生物、万歳!
無生物、万歳!万歳!万々歳!! 生物の中でもホモサピエンスとそれ以外を分けるのは当たり前だろう
ホモサピエンス以外はモノでよい
なぜならそうしないとホモサピエンスが食い物が食えなくなるから 唯物論は、百薬の長にして百毒の長。万能薬にして万能毒。 科学の発展には寄与したが、キリスト教からは危険思想と見做されたという。 「宗教が文明社会の土台である。」<フランス革命の省察>エドモンド バーク(近代保守主義の父) 資本論をもし読んだ人間がここにいれば問いたいが、
唯物論は人間の自由意思をどのように捉えているのか。
そのような形のないものは実在しないと考えているのか。 >>57
資本論を読んだ人間などは
すでに死に絶えたのではなかろうか 生産力の向上に従って生産関係(土台、下部構造)が変わり、それに規定されて政治体制、法律、文化などの上部構造も変わるというのは大きな流れとしては納得できる
でも山川の教科書みたいに世界の多くの戦争の敗者は古い時代の階級出身者で勝者は新しく勃興した階級出身者だった的に無理やり階級闘争だったことにするのは子供の頃からおかしいと思ってた。
ペルシャ(隷属民)とギリシャ(自由な農民)、項羽(貴族)と劉邦(農民)、エドワード黒太子の部隊(自営農民)みたいに
後にマルクス主義を知ってから、無理やり史的唯物論に当てはめてたのだと理解した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています