新羅と倭国のナゾ

600〜603年と623年に何度も任那復興を目的として新羅征討が計画されるも理由をつけて辞退もしくは
新羅軍は戦わずして退いたとして交戦せずに戻ってくる
境部摩理勢だけは真っ向から新羅と対決したがその後ハッキリとしない理由で誅殺される
8世紀にも藤原仲麻呂がやはり渤海と組んで新羅征討を企てるがこれもよくわからない理由で中止されたうえに仲麻呂も数年後に誅殺されている

「新撰姓氏録」には在京の新羅系氏族として新良貴氏が挙げられているが皇別という破格の待遇を受けている
もともと山城地方の大覚寺古墳などからは新羅土器が出土しており新羅系豪族のテリトリーだった
新良貴氏も平安京以前から山城盆地に割拠していた氏族であろうが不思議なことに一度も史書には出てこない