ハプスブルク家を語る
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ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。
古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。
中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。
また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。
ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。 オットー氏は社会主義時代のハンガリー大統領就任要請も辞退してるんだよな。
まぁ先見の明があった事は間違いない。 ブルボン家のアンジュー公ルイス・アルフォンソに第4子、オルレアン家のヴァンドーム公ジャンに第5子がそれぞれ生まれるそう。ブルボン家はますます安泰。
現在でも男系男子130人以上いるし。先代パリ伯アンリは11人の子供、40人の孫、111人の曾孫が生まれている。 >>195
アンジュー公ルイス・アルフォンソ(ルイ20世)はスペインのフランコ総統の曾孫でもあるんだよな >>161
皇帝としてみたラインハルトの評価ってどうなるんだろ
そもそもの簒奪の動悸自体めちゃくちゃでよくまわりは従ったなとも思うけど >>197
元々は姉のアンネローゼを皇帝フリードリヒ4世に連れて行かれたのが発端で
フリードリヒ4世、ひいてはゴールデンバウム王朝に対する復讐が目的だった
しかしラインハルト個人の動機を差し引いてもゴールデンバウム王朝の圧政を憎む人々が多かったから
利害が一致してゴールデンバウム王朝打倒に繋がった
それにラインハルト自身も理想的な専制政治を自らの手で実現させたいと考えていたし、
名君としての資質も十分に備えていたからローエングラム王朝成立は必然だった >>197
「カイザーラインハルトは征服者でとしては比類なかった、しかし統治者としては三流であった」
「皇帝ラインハルトはその早世によって名君となった」 >>200
原作2巻(OVA1期)で終わるつもりだったんでしょ。
あんなに長くやるんだったら、死なせるんじゃなかった、みたいなこと言ってるよw >>194
ハンガリー大統領候補になるつもりはないかと尋ねられたこともあったが、オットーは議会政党の利害によって選出されることを嫌った。
また、ハンガリー大統領になるよりも欧州議会での仕事のほうがハンガリーのためにできることが多かったため、辞退した。
オットーはこれについて次のように語っている。「もしも状況が違っていたなら、つまりハンガリー国内のほうがハンガリーのために働けるのだったら、私は違う形を選択したでしょう」 ゴールデンバウム王朝はハプスブルク王朝よりもロマノフ王朝に近い
ロマノフ王朝は専制政治のお手本みたいなもんだし
デカブリストが自由惑星同盟ならボリシェヴィキがイゼルローン共和政府ってところか スペインの話題が出てたけど、次期女王とカール大公の長女の名前は同じ名前なんだな
オットー大公がスペイン王を受諾していたら、スペインにはF1レーサーの王配陛下ができていたかも
それにしてもスペインでは王政が不人気で隣国では王政復古の動きが強まってるとはなんたる因果か >>204
>スペインでは王政が不人気で隣国では王政復古の動きが強まってる
詳しく
ポルトガル?フランス? ゴールデンバウム王朝が倒れた結果、国家機密の名の下に秘匿されていた多くの史料が白日の下に晒されようとしていた。
帝国歴46年、開祖ルドルフの死によって揺らぐかに見えた銀河帝国の支配体制は、ルドルフの孫で第2代皇帝となったジギスムント1世と彼の父親で摂政となったノイエ・シュタウフェン公ヨアヒムによって受け継がれ、共和主義者の大弾圧が行われた。
一方、領民に対しては比較的公正な施政を施し、いわば飴と鞭を使い分けて帝国の支配体制の礎を固めたと言える。
第3代のリヒャルト1世は、政治より美女と狩猟と音楽を愛したが、それでも最高権力者としての枠を踏み越えることなく、気の強い皇妃と60人ほどの愛妾達との間でごく無難な一生を送った。 第4代のオトフリート1世は、父より真面目だったが、健康で禁欲的で散文的で当時と未来の人々を退屈させる点において比類ない人物だった。無表情にかつ精密に連日のスケジュールを消化することが彼の目標であるかに見えた。
音楽・美術・文芸のいずれにも興味がなく、自発的に読んだ本は始祖ルドルフ大帝の回想録と家庭医学書だけであると言われる。
灰色の人と呼ばれる彼は陰気な保守主義者で、あらゆる変化や改革を忌み嫌い、崇拝するルドルフ大帝の前例にしがみついていた。
ある日、昼食を終えたオトフリート1世はスケジュールに従って15分間の散歩のために庭園に出ようとした。
そこへ急報が入って、軍の基地で大規模な爆発事故が生じ、1万人以上の将兵が死亡したと知らせてきた。それを聞いたオトフリート1世は無感動に「そんな事故の報告を聞くことは、今日の予定にはない」と発言した。
かくの如く、彼にとってはスケジュールが神聖不可侵のものだったが、自分自身でスケジュールを組み立てるような独創力には乏しかったので自然、その任に当たる皇帝政務秘書官エックハルト子爵の責任と権限は増大していった。
エックハルトが、やがて枢密顧問官と皇宮事務総長を兼ねるようになると、誰の目にも皇帝オトフリート1世はエックハルトの傀儡にしか過ぎなくなっていることが明らかになった。 モンテネグロは王室の現当主を儀礼・式典での自国代表という形で迎えてるね. オトフリート1世の死後、その子カスパーが帝位についた。カスパーは父よりも祖父リヒャルトに似て音楽を愛したが、その音楽以上に愛したのは合唱隊のカストラートであった。
カストラートとは、ボーイソプラノを保存するために去勢された少年歌手のことで、すなわち皇帝カスパーは同性愛嗜好者だったのである。
同性愛嗜好者を社会に害毒を流すとして大量殺戮したルドルフ大帝の子孫に同性愛嗜好者が誕生したわけで、歴史の皮肉以外の何物でもなかった。
依然として国政の実権を握っていたエックハルトは、自分の娘をカスパーに嫁がせ、皇帝の外戚となってその権勢を確固たるものにせんと目論んだが、この件に関してのみはカスパーは断固として拒否し、寵愛するカストラートのフロリアン少年と別れようとはしなかった。
業を煮やしたエックハルトは、遂にフロリアン少年の殺害を図り、兵士を連れて皇宮に乗り込んだ。そして野薔薇の間に踏み込んだ瞬間、リスナー男爵が指揮する一隊によって射殺されたのである。
以前からエックハルトの専横を憎んでいたリスナーは、皇帝の意を受けて奸臣誅殺の挙に出たのだったが、事件の混乱が収まってみると、当の皇帝は玉座に退位宣言書を残し、いくらかの宝石を携えてフロリアン少年を連れて姿を消してしまっていた。
即位後ちょうど1年であったが、以来完全に行方不明になってしまった。 無論、この間の事情は公表されず、300年以上も国家秘密とされてきたが、事実はこうであった。
ユリウス1世が頓死した時に同席していた5人の寵姫は、危急に際して狼狽するばかりで適切な看護を怠ったとして、カール大公によって殉死を強いられた。
その中の1人が死の寸前、腕輪の内側に口紅で真相を書き記し、形見と称して近衛師団の士官である兄に届けさせていた。
そこには、カール大公がワイングラスに毒物を塗って献上し、自分はカールに買収されて共犯となったこと、その事情を知る自分を殉死と称して抹殺しようとしていることなどが記されていた。
妹の救出が出来なかったその近衛士官は復讐を決意し、カールに次ぐ帝位継承権を持つジギスムントのもとへ証拠の品を持ち込んだのだった。ジギスムントはカールを追い落とす大義名分を得て狂喜し宮廷内工作の結果、カールに帝位継承権を返上させる事に成功したのだった。
無論、皇帝が皇太曾孫に毒殺されたなどと公表するわけにはいかず、秘密裏に政変が進行したのであった。カールは宮廷の一室に監禁された後、郊外の精神病院に移され、厚い壁の中で一応の礼節をもって遇された。
長寿を保ち曾祖父を凌ぐ97歳まで生きたが、彼が死去した時、世はジギスムント2世からオトフリート2世を経て、オットー・ハインツ1世の時代であり、70年以上も前に帝位に就き損ねた老人の名を記憶する者は宮廷内にはもはや存在しなかったという。 カールの死んだ、帝国歴217年から自由惑星同盟との間にダゴン星域の会戦が行われ、帝国軍が歴史的大敗を喫する帝国歴331年までの間に、ゴールデンバウム王家は更に8人の皇帝とそれに伴う善悪美醜さまざまな物語を生むことになる。
学芸省から提出された非公式の途中報告書に目を通しながら、ラインハルトは時に冷笑し、時に考え込んだ。彼はヤン・ウェンリーほど歴史に関心を持たなかったが、未来に思いを馳せるものは、過去を知らずに済ますことはできない。
とはいえ、全ての指標が過去に存在するわけでもない。誰かについて行くということは彼には出来なかった、誰もが彼について来るのだから。 >>209
140日の空位の後、先先帝オトフリート1世の弟であるユリウス大公が帝位に就いた。
重臣たちはユリウス本人より、その息子であるフランツ・オットーの実力と人望に期待したのであった。実際、即位した時にユリウスはすでに76歳であり、早晩フランツ・オットーが帝位に就くであろうと思われたのである。
ところが、ユリウスは思いのほか頑健で玉座に居座り続け、彼が95歳に達した時、歴史上最年長の皇太子フランツ・オットー大公が74歳で先に病没してしまったのである。
大公の子息は早逝していたため、その孫つまり皇帝ユリウスの曾孫にあたるカールが24歳にして皇太曾孫となったのである。カールは数年を待てば青年のうちに帝冠を戴けるはずであった。
ところが、彼にしてみれば自分が物心つく前から老人であったユリウスが不気味な存在に思えたのかもしれない。この老人は永遠に老人で、永遠に玉座に座り続けるのではないか。そんな強迫観念に囚われたのか、遂に皇帝を弑逆することを決意する。
帝国歴144年4月6日、96歳の皇帝ユリウス1世は5人の寵姫と共に夕食をとっていた。
老いた皇帝の急死は重臣たちを驚かせたが、同時に安堵感をもたらした。正直なところ、ほとんど例外なく、皆がうんざりしていたのである。盛大だが心のこもらぬ葬儀はカール大公に指揮されて執り行われ、喪が明ければ彼が帝位に就くものと誰もが思った。
しかし、5月1日の戴冠式で帝冠を戴いたのはカール大公ではなく、故フランツ・オットー大公の次男の子、カールの従兄弟にあたるジギスムント・フォン・ブローネ侯爵だったことが人々を驚かせた。 オトフリート1世はフランツ・ヨーゼフ1世に似てる気がする >>205
ポルトガルではなんと共産党が君主制支持を表明した。 フランツ・ヨーゼフが第一次大戦終了後も生き抜いて、
オーストリア=ハンガリーの終焉を見届けてたらという
歴史のIfにも興味がある フランツ・ヨーゼフが生きててもやはり君主制廃止されてたのだろうか? スペインは今でも男子優先の長子相続制で、もしフェリペ6世に男子がいたら、その子が次期国王になってた。
しかし国民は、不景気なこともあり「王室はお金を気にせず子供作れていいね」というものすごい雰囲気があり、結局、現国王夫妻は第3子を諦め、レオノールが後継者に事実上確定した。 >>217
子孫を残して王朝の安泰を図ることが国王の義務という時代ではなくなったという証左かもしれない。 オットー大公がフランコからのスペイン王位を辞退した背景には、亡命中のオットー大公たちをアルフォンソ13世がスペインに招き入れて、手厚く庇護してくれたこともあったんじゃないかと思う。 >>217
厳格なサリカ法が今でも生きているリヒテンシュタインなんかと違って
女子にも王位継承権があるし、男子にこだわる理由も無いしな フェリペ6世って、レティシアと結婚する前に、貴族と交際してたが母でギリシャ王族のソフィアが高望みしてしまった結果、現在に至る。
スペイン王室は公金にまで手を出すくらい貧乏だから、どうせならカール大公みたいにティッセン=ボルネミッサ男爵家のような大富豪から妃を迎えればよかった。 ボルネミッサ男爵家自体は17世紀から続くトランシルヴァニアの貴族で、その女性相続人がハインリヒ・ティッセンと結婚。1907年にフランツ・ヨーゼフ1世から承認されてティッセン=ボルミネッサ男爵となる。
この二人の次男が美術品収集で有名なハンス・ハインリヒでイギリス王室に次ぐ美術コレクションを所有しており、このハンス・ハインリヒの長女フランツェスカがハプスブルク家のカール大公と結婚した。 民族主義が勃興した19世紀を持ちこたえただけで十分。
第一次大戦がなくとも解体は避けられなかったと思われ。
どの民族集団も自分達は搾取されてると思い込んでいたのだから。 >>223
ちなみにハンス・ハインリヒの最初の妻リッペ=ヴァイセンフェルト侯女テレーザとの間に生まれた長男ゲオルク・ハインリヒはメラン家のカタリーナ・エレオノーレ伯爵夫人と結婚、長男シモンがいる。
この長男の家系は血統ロンダリングに成功し、血統的にもれっきとした貴族になった。 >>222
ノルウェーの下着モデルと一緒にオランダ皇太子(現国王)の結婚式に行ってたけど、あれとは別? >>227
自分たちが「搾取されてる」と各民族が思っていたという話であって、実際に搾取されていたかは別問題
そういう話なわけだが
本当に目に付いた単語以外は読み取れないのが多いな最近 >>227
搾取されてると「思い込んでいた」
日本語ワカリマスカ? 現在、鉱山財閥ティッセン社(現在のティッセンクルップ)の創業者アウグスト・ティッセンの男系はティッセン=ボルネミッサ男爵家のみとなっている。 >>228
どうやらマジキチの尻尾を踏んでしまったようだな
脊髄反射で3レスとか怖い
おまえの論は戦争がなくても多民族だと解体するなわけだが、ユーゴがあるからその論は破綻する
オーストリアハンガリー帝国の諸民族が搾取されていると思い込んだという主張の根拠もない
つまり、ただの妄想である >>232
まあ落ち着け、文体違うだろ
俺は>>228だが他は違う
で、搾取されていたと感じていたのは、青年チェコ党とかクロアチア革命軍とかの事績で明らかなんだ、これが そういえば西京子さんがオットー大公が結婚の規定を緩めたのはカール大公のためと記してたな
トスカーナ系の貴賤結婚の家系出身のカミラ・ハプスブルクと真剣に交際しておりそれで緩めたと
夫以上に貴族意識が高く、しかし皇族で唯一ゾフィーに挨拶したツィタ皇后が存命なら孫の結婚をどう思ったんだろう >>233
根拠はあるとな
しかし、第一次を民主主義対帝国主義で捉えてる俺からすると戦争、つまり英米の後押しがないのに帝国が崩壊するとは思えんな
後ろ楯がない状態でナショナリズムが隆盛したとして各民族の力だけで帝国を倒せるわけがない
それなら統治が巧かったとしても、ユーゴなど存在出来るはずがない
各民族に配慮した緩やかな帝国の選択肢もあった以上、意図的に連盟国が四帝国潰しに動いたと考える方が違和感がない >>235
オーストリア帝国の諸民族が欲しかったのは自治であって民主主義ではない
その証拠に独立後も諸国は国王を頂いた(ハンガリーは例外) >>236
帝国内の諸民族が民主主義をいらないと断言出来るのはすごい自信だな
王がいてもイギリスのような統治体系は十分あり得るだろうに
そこまで歴史のIfを民族主義からの決定論で決めつける理由はなんだ? >>237
他人に根拠を求めておいて自分は1つも根拠を提示していない件について オーストリア=ハンガリーの君主にはいなかったけど,よその君主では
フランツ・ヨーゼフ2世がいたのな
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%952%E4%B8%96 >>234
ハプスブルク家の貴賤結婚の緩和は実は1950年代に始まっており、そのためカール1世の五男ルドルフ大公はロシア貴族のクセニヤ・チェルニシェヴァ=ベゾブラソヴァ伯爵夫人と結婚することができた(チンギス・ハーンの血を引いてるかも?)。
孫世代でいえば、四男カール・ルートヴィヒ大公の長男ルドルフ大公がツィタ皇后存命中にベルギー貴族のヴィランファーニュ・ド・ヴォジェルサンク男爵夫人エレーヌと結婚している。
しかし、カール大公の結婚に関してはハプスブルク家の中でも反対があり、オットー大公の弟たちはカール大公の結婚式に出席しなかった。 フランス第五共和制政府はエルザス=ロートリンゲン地方をハプスブルク=ロートリンゲン家現当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン氏に返還すべき
アルザス=ロレーヌ大公国のシャルル・ド・アブスブール=ロレーヌ大公 突然ですがここで問題
オーストリア=ハンガリー二重帝国の正式名称は?
ググらずに答えよ >>241
>シャルル・ド・アブスブール
シャルル・アズナブールに見えたw シャルル=アズナブール、
赤い衣装が大好きなフランスの歌手ね。
彼はアルメニア系で、祖父はニコライ2世の料理人だったとか。
ちなみにアルメニア名はシャア=アズナヴーリアン。 20年ほど前の来日公演のとき、
何かウケを狙ったのかアルメニア名とフランス姓をごちゃ混ぜにして
「シャア=アズナブール来日公演」と宣伝していたな。 >>235
高校生くらいかな?
どこから突っ込んでいいのやら、突っ込みどころ満載だが。
一つだけ突っこみ入れると、ユーゴは最終的に解体したし、オイルショック以降、経済が拡大しないなかで、「俺たちは搾取されている」と考えたスロヴェニア、クロアチアの動きが大きかった。
現代では国際法上、基本的に人民自決権の行使は一度のみなので目立たないが、「経済的に搾取されている」から独立運動、というのは結構あるよ。 ハプスブルク朝の体制下でヨーロッパ以外の地域を植民地化したことも
ありまつ。 >>240
現在では貴賤結婚は完全に廃止されて、結婚に関する条件はキリスト教徒であること、宗教婚をあげることの二つだけらしい。 >>248
大清帝国天津租界地(zh:天津奥租界)
ニコバル諸島、ナツナ諸島、アナンバス諸島及びソロモン諸島(計画のみ)
Wikipediaだとこれしかないけど他にもあったの? >>241
ロレーヌ家はロレーヌはもちろん、アルザスも祖先にあたるエティヒョー家がアルザス公として支配していたから、アルザス=ロレーヌとは歴史的に深い繋がりがある。 >>251
ロレーヌ家はエティション家とは別の子孫じゃないの? オットー大公は財産没収されて亡命中どうやって生活してたのかな? Franz Joseph Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xaver Felix Renatus Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Habsburg-Lothringen
フランツ・ヨーゼフ・オットー・ローベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・クサーヴァー・フェリックス・レナートゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン >>242
帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦 >>242
1915年以降は、オーストリア諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦(ググってないよ) >>195
オルレアン家のヴァンドーム公ジャン王子の第5子(三女)が10月9日に誕生。 「こども作りすぎ!」「税金の無駄!」と叩かれる現王室より国民の干渉や反感を受けない旧王室のほうが気が楽でいいのかも。 同じブルボン家のスペイン王室は女子の継承も可能だからと3人目作るのは無駄と一部に批判されたんだったか
子供が生まれるたびに祝砲ならしてたら税金の無駄だと叩かれただろうね
王族が通うのが当たり前だったスイスの寄宿学校はリヒテンシュタインなど一部除いて現役王族は通ってないし ハプスブルク家はヨーロッパの徳川家って感じがするよな 日本で当てはまる家はないんじゃないかなあ
東洋は西洋と違って家から出た時点で相続権失うから
婚姻で領土拡張は出来ないし >>265
養子に厳しいかは微妙なラインだが(同族だと問題にされないこともあるし、日本とは扱いが違うだけ)、
庶子に関してはキリスト教の影響が極めて大きいね 日本は(中華も?)側室でも子供を作った女性は丁重に扱われるからな
正室との子供じゃないと認めないっていうのはキリスト教的文化だと思う そもそも側室という概念がないか
欧州では歴史的用語として不倫って言われるしな 神に祝福された婚姻によって生まれた子供と
それ以外の庶子
で、明確に扱い違うからね
まあ、庶子の中にも化け物みたいな才能の持ち主がいて、歴史に名前残してたりもするけど ハプスブルク家は貴賤結婚から生まれた子供も庶子扱いみたいな気がする。 ヨーロッパでは今は婚外子でも嫡子でも遺言がなければ相続の権利は同じなんだってね
そもそも結婚していないペアが増えているが
LGBTの法的な権利が強かったり、そういう差別・区別の歴史の裏返しなんだろうな >>268
姦通のことを不倫なんて呼ぶのは30年前頃以降の日本だけや >>272
昔から嫡子でも法定相続人として認定されてないと相続の権利はクソ雑魚だったよ >>261
今ではオットー大公みたいに長男が生まれるまで7人子供つくるなんてことは不可能
カール大公は娘たちをスイスのル・ロゼに通わせてたらしい、現王室がこんなお金持ち学校に通わせたら非難轟々だっただろう ハプスブルク家はイギリスやフランスみたいに皇族個人に爵位を与えることはないんだな
みんなオーストリア大公で一律だし >>275
オットー大公は兄弟もみんな子だくさんだから尚更 >>277
トスカーナ大公、エスターライヒ=エステ大公、モデナ公、テシェン公くらい? ハプスブルク家の中でもオーストリア=エステ家の貴種感は別格。みんな王侯貴族と結婚してる。イタリア貴族の令嬢と結婚したアメデオ大公は第二子はまだなのかな?
あとローレンツ大公の弟マルティン大公の長男がバルトロメウス大公(Bartholomaeus)って名前がすごい。 なんだかんだでハプスブルク家は他の旧王室のように分裂しないだけいいよね、旧王室のブルボン家、ロマノフ家、サヴォイア家、ヴェッティン家など有名なところはほとんど分裂してるし… >>281
最有力な皇族である皇太子のオットーが長生きだったのが大きかった。
もし夭逝していたら相続で揉めたろう。 最後のカール一世は退位後すぐ亡くなったな
最後の皇帝が溥儀みたいに退位後も長生きしとったらまた違う歴史になったやろか 愛新覚羅家は宣統帝の末弟の溥任氏が中心となって纏まっていたらしいが。 今考えるとオットー大公の葬儀はすごかったな。今年5月にヴュルテンベルク家の葬儀があってフィリップ国王やハンス・アダム2世など現役の君主が参列してたけど、葬儀自体はこじんまりしたものだった。ちなみにカール大公も参列してた。 >>285
当主が亡くなったのかと思ったら、長男の人が交通事後で亡くなったのか 上でオルレアン家の話が出てたけど、ヴュルテンベルク家とオルレアン家は二重結婚してる。
先代パリ伯アンリの娘が現在のヴュルテンベルク公カールと結婚、先代ヴュルテンベルク公フィリップ・アルブレヒトの娘が現在のパリ伯アンリと結婚している。 つまりヴァンドーム公ジャン王子とヴュルテンベルク公フリードリヒ王子は従兄弟にあたる。 カール・ヘルツォーク・フォン・ヴュルテンベルク(ドイツ語: Carl Herzog von Wurttemberg、1936年8月1日 - )は、ドイツの起業家。現在のヴュルテンベルク家家長。
ヴュルテンベルク公フィリップ・アルブレヒトとその妻のトスカーナ大公女ローザの次男としてフリードリヒスハーフェンに生まれる。
リートリンゲンの旧制高校に通い、さらにテュービンゲン大学で法学を専攻した。大学卒業後、アルツハウゼン城のヴュルテンベルク家財産管理局で家産の運営に関わった。
1959年6月29日に兄ルートヴィヒが継承権を放棄したのに伴い、翌1960年1月19日にアルツハウゼンにおいてヴュルテンベルク家の相続人に指名され、1975年の父の死を受けて家長位を継承した。
同家の財産管理局はおよそ5500ヘクタールの森林、およそ2200ヘクタールの牧草地及び耕地、モンレポスにある50ヘクタールのブドウ農園、カナダ、オーストリア、スペインなどの森林を含む700カ所におよぶ国内外の地所、そして各種企業の株を管理している。
さらに管理局はヴュルテンベルク家が旧王家として保持する70の重要文化財の維持費をも負担している。
カールは社会活動や慈善活動にも関わっており、ドイツ赤十字社やバーデン=ヴュルテンベルク州文化保護財団をはじめとした、小児癌患者の支援団体、フリースクール団体、文化保護団体、青少年支援団体に参加している。
バーデン=ヴュルテンベルク州文化保護財団では、1985年の創立当初から2002年まで副総裁を、2002年から2008年まで総裁を務めた。
またカールはテュービンゲン大学とホーエンハイム大学の名誉理事、テュービンゲン大学友愛会および大学法人総裁を務めている。
カールは詩人ルートヴィヒ・ウーラントにちなむ「ルートヴィヒ・ウーラント賞」を創設したが、これは地域研究に功労のある人々に授与される賞である。
さらにカールはヴュルテンベルク・ヨットクラブの名誉会長で、前スペイン王フアン・カルロス1世とは親友の間柄でもある。
2002年、カールは教皇ヨハネ・パウロ2世より、ベネディクト会出身のゲプハルト・フュルスト司教を通じてロッテンブルク=シュトゥットガルト司教区にカトリックの学制を設置する許可を与えられた。
2008年11月8日には、ファレンダー哲学・神学大学より名誉神学博士号を授与された。 カール・ヘルツォーク・フォン・ヴュルテンベルク(ドイツ語: Carl Herzog von Wurttemberg、1936年8月1日 - )は、ドイツの起業家。現在のヴュルテンベルク家家長。
ヴュルテンベルク公フィリップ・アルブレヒトとその妻のトスカーナ大公女ローザの次男としてフリードリヒスハーフェンに生まれる。
リートリンゲンの旧制高校に通い、さらにテュービンゲン大学で法学を専攻した。大学卒業後、アルツハウゼン城のヴュルテンベルク家財産管理局で家産の運営に関わった。
1959年6月29日に兄ルートヴィヒが継承権を放棄したのに伴い、翌1960年1月19日にアルツハウゼンにおいてヴュルテンベルク家の相続人に指名され、1975年の父の死を受けて家長位を継承した。
同家の財産管理局はおよそ5500ヘクタールの森林、およそ2200ヘクタールの牧草地及び耕地、モンレポスにある50ヘクタールのブドウ農園、カナダ、オーストリア、スペインなどの森林を含む700カ所におよぶ国内外の地所、そして各種企業の株を管理している。
さらに管理局はヴュルテンベルク家が旧王家として保持する70の重要文化財の維持費をも負担している。
カールは社会活動や慈善活動にも関わっており、ドイツ赤十字社やバーデン=ヴュルテンベルク州文化保護財団をはじめとした、小児癌患者の支援団体、フリースクール団体、文化保護団体、青少年支援団体に参加している。
バーデン=ヴュルテンベルク州文化保護財団では、1985年の創立当初から2002年まで副総裁を、2002年から2008年まで総裁を務めた。
またカールはテュービンゲン大学とホーエンハイム大学の名誉理事、テュービンゲン大学友愛会および大学法人総裁を務めている。
カールは詩人ルートヴィヒ・ウーラントにちなむ「ルートヴィヒ・ウーラント賞」を創設したが、これは地域研究に功労のある人々に授与される賞である。
さらにカールはヴュルテンベルク・ヨットクラブの名誉会長で、前スペイン王フアン・カルロス1世とは親友の間柄でもある。
2002年、カールは教皇ヨハネ・パウロ2世より、ベネディクト会出身のゲプハルト・フュルスト司教を通じてロッテンブルク=シュトゥットガルト司教区にカトリックの学制を設置する許可を与えられた。
2008年11月8日には、ファレンダー哲学・神学大学より名誉神学博士号を授与された。 >>281
逆にハプスブルク家のようにまとまっている方が珍しい >>281
分裂中の旧王室で最も正統性のあると思う家長
ブルボン家(オルレアン家)→パリ伯アンリ
ロマノフ家→ロシア大公女マリヤ
サヴォイア家→ナポリ公ヴィットーリオ・エマヌエーレ
ヴェッティン家→マイセン辺境伯アレクサンダー 今更だけど、ザクセン王室の分裂っぷりは凄い。
個人的には男系男子がいる限りは男系で継承するべきだけど、ことザクセン王室に関しては女系のザクセン=ゲッサフェ家のアレクサンダー王子に正統性があると思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています