都市キエフの歴史
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起源〜大公国/公国時代〜モンゴル〜リトアニア・ポーランド〜ロシア帝国〜ソ連〜ウクライナまで キエフというと、ソ連時代にあったコンタックスのコピーカメラ
http://cccpcamera.stars.ne.jp/RussianCamera/RF/Kiev4/Kiev4.html
そして、ムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」の「キエフの大門」 キエフ大公国の首都はモンゴル軍に破壊された結果
わずか200世帯が細々と暮らすがれきの山と化した
恐ろしい事です
想像してごらんなさい
日本の首都京都がそんな目に遭わされた光景を キエフ > モスクワだった時代があるって
ほんと? リュ―リクゆかりのノヴゴロドの方が由緒正しい
キエフは南にあるだけの半ば突厥みたいな自主性のないゴミ >ノヴゴロド
蛮族モンゴルすら見向きもしない田舎町 >>7
バルト海への出口で交易で栄えていたけど
攻めるモンゴルにとっては北に遠すぎた上に
沼地と森林で馬養うのに適さなかった >>6
ノヴゴロドの住民を虐殺したのはモンゴルのハーンではなくロシアの皇帝だった
別に由緒正しいとかそういう認識はゼロだったのだろう >>9
モスクワなんて新興勢力もいいところでキエフだろうとノヴゴロドだろうと古都のことなんぞ糞くらえだろう ハザールの砦が起源説は聞いたことあるけどスキタイは聞いたことないぞ >>15
ハザールの起源をスキタイに求める説がある ウクライナって別にそんな歴史無いの?
歴史あるならロシア化させずに守らないと!って感じだが歴史無いならそうでもないし まぁとは言え日本の地域言語も保護すべきという立場だから言語の保護はした方がいいのか
ただウクライナ語の成立も18世紀からと新しいからウクライナ語は意識が低いんだな >>17
キエフ大公国は、ロシアにとってもウクライナにとっても自国の歴史
まあ、ヨーロッパの中世史はたいてい、現代の国境と関係なく2国にまたがってるが >>13
6世紀に東ローマにスラブ人と看做された3つの集団ヴェンド、スクラヴェン、アントのうち
ウクライナのアントは農民化したサルマタイでイラン系農民だったようだ
スクラヴェンとアントはそれぞれバルカンに移住しようとして争ったけど
スクラヴェンはアヴァール族を用心棒にしてアントを撃破してバルカンに移住した
やがてウクライナにも移住してきたスクラヴェンによりアントはスラブ化していったけど
キエフ大公国が建国した頃にはウクライナの住民はまだ完全にスラブ化していなかった キエフ大公国の歴史に残る偉人といえば、なんといっても、聖ウラジーミル1世
暴君だったにもかかわらず、ルーシをギリシャ正教会へと改宗させたため、列聖されている 最近も、モスクワに巨大なウラジーミル大公の銅像が建てられて、物議をかもした
ウクライナ人にとっては、聖ウラジーミル1世は自国の民族英雄
「このままでは、ウラジーミル大公をロシアに奪われる」という意見も飛び出した
まあ、「高句麗は満州ではなく、朝鮮の歴史ニダ」と、朝鮮人が騒ぐようなものかもしれないが キエフと言えば映画「レッドブル」の中のやりとりで出てきたキエフ風カツレツ(おいっ) キエフ大公国、ノブゴロド公国、モスクワ大公国
これが、中世ロシアの三大勢力 キエフ大公国は今でいうウクライナであり、モスクワ大公国は今でいうロシア
ノブゴロドは雷帝イワン4世に破壊されて衰退したが、今はその代わりに、ロシア第2の都市サンクトペテルブルクがある
ノブゴロドは、サンクトペテルブルクの郊外というほど近くはないが、同じ地方にある ロシアはものすごく広い国だが、意外なほどモスクワに一極集中している
サンクトペテルブルクの人口はモスクワの半分以下というか、3分の1程度
日本の「東 京一極集中」など、それに比べればマシというものだ その割に日本海に面するヴラヂヴァストークにも白人がビッシリ住んでないか?
あれも領土確保の為に北方領土と同じく住めばいい給料貰えるシステム? キエフはスキタイが建設した都市で、
ノヴゴロドはバイキングが建設した都市か >>24
ノブゴロド公国、キエフ大公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国
これが、中世ロシアの三大勢力 >>29
やや強引だが、ウラジーミルとスーズダリは、広域モスクワ圏とする キエフ ノヴゴロド=プスコフ リャザン=ムーロム チェルニゴフ ペレヤスラヴリ スモレンスク
ウラジーミル=ロストフ=スーズダリ ハールィチ=ヴォルィーニ
モスクワ トヴェリ ウクライナ人民共和国
ウクライナ国
西ウクライナ人民共和国
亡命ウクライナ人民共和国 >>24
ノヴゴロドは中世を通して安定してるけど
キエフ大公国はウラジーミル・スーズダリ大公国が興隆すると入れ替わるように
凋落してるしそのウラジーミル・スーズダリ大公国もモンゴルの蹂躙でキエフ公国ともに
ほぼ荒廃、その更地から勃興したのがモスクワやトヴェリで
あんまり同時性がないような。あと南西にはハールィチ=ヴォルィーニ国みたいな
勢力もあったし。
というかこの当たりの歴史ってどういう時代区分をしているのだろうか
リューリクの862年を端緒だとするといきなり中世スタートで不思議な感じ 雷帝によるノヴゴロド滅亡
雷帝の死後リューリク朝滅亡で
名実ともに中世が終わる >>33
>リューリクの862年を端緒だとするといきなり中世スタートで不思議な感じ
それは仕方ない。
それ以前のことなど、ほとんど分からないのだから。
そもそも、リューリク自身がほぼ伝説上の人物で、実在は定かでないし。 リューリクの到来とともに中世がはじまり、イワン雷帝とともに中世が終わる
モンゴル侵攻という史上最大の事件を境に、中世を前期と後期に分ける 882-1362年 キエフ・ルーシ→ジョチ・ウルス下に
1362-1649年 リトアニア(=ポーランド(青水の戦い)
1649-1667年 ヘーチマン国家(フメリニツキーの乱)
1667-1917年 ロシア(アンドルソヴォ条約)
こうしてみるとキエフって
ポーランド=リトアニア下だった時期結構長いんだよな。イルピン川の戦い(1324年)の段階でジョチ・ウルスの
影響下ではあったもののリトアニアに帰順を誓っていたし。 >>22
ウラジーミル1世のような超絶暴力性豪のいったいどこが聖人なのか
日本人にはさっぱりわからない。
今時あんなものを英雄視するのはいったいどういう神経なんだ。 北方領土を盗んだ反日ロシアを応援する売国奴は死ね! 10世紀に「ルーシの洗礼」を行ったウラジーミル大公の銅像の除幕式が11月4日に行われる。建立場所はモスクワ・クレムリンの脇。高さ16メートルの銅像の設置をめぐり、地元住民や市民活動家の間では論争が巻き起こった。
ウラジーミル大公(洗礼者ウラジーミル、聖ウラジーミルなどとも呼ばれる)像の設置計画には、当初から反対意見があった。
反対派の意見
銅像の設置に反対している人々は、ウラジーミル大公はモスクワに関係ないと主張している。
明らかになっている最初のモスクワについての記述は、ウラジーミル大公が死去してから約100年後の1147年のものである
(ウラジーミル大公の生存期間は960年頃〜1015年7月15日)。
ルーシの洗礼は、当時の国の政治の中心地キエフ(現ウクライナの首都)で行われた。
反対派はまた、ウラジーミル・プーチン大統領をイメージさせる、「ウラジーミル像」の政治的側面を強調している。
著名なジャーナリスト、オレグ・カシン氏は、像をプーチン大統領による自分と同じ名前の影響力のある人物に対する賛辞と指摘している。
また、シチェルバコフ氏の当初の案では高さが24メートルになっており、キエフにある高さ20メートルのウラジーミル大公像を超えていた。
ロシアとウクライナの関係が悪化している中、銅像設置を政治的なジェスチャーと受け止める人もいる。 キエフには、巨大なウラジーミル大公像がある。高さ20メートルというから、七階建てのマンションくらいの高さか。
ロシア人は、なんと、ウクライナに対抗意識を燃やして、モスクワにそれより高いウラジーミル大公像を建てようとした。 参考までに、お台場ガンダム像は高さ20メートル、神戸の鉄人28号が高さ15メートル強(直立すれば18メートル)なので、
モスクワとキエフのウラジーミル大公像は、ちょうどそれらと同じくらいの高さということになる 日本で例えるなら、京都を含む地域が外国に占領され、その軍が撤退したあとも別の国になったみたいな話だな モンゴルさえいなければ、分領公国が西欧の諸国みたいに発展してたんだろうな あるいはキエフ公国が発展して今日のロシアの版図を占めたかも。
日露戦争は日計戦争に。 いや、ウクライナみたいな南の国が、(南といっても、ロシアと比べればの話だが)、シベリアを極東まで征服することになど興味を持たないだろう >>31
たくさんあるけど、全部リューリクを始祖とするリューリク朝 リューリク(古東スラブ語: Рюрикъ[1])は、862年にラドガ(現在のロシア連邦・スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。
リューリクの後裔は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで、公、大公、ツァーリなど支配者として君臨した(リューリク朝)。 リューリク朝は、リューリクを高祖とする公家で、9世紀から16世紀半ばにかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した君主の公朝である しかし、皆がリューリクの子孫と言ったって、何百年もたてば、もはや親戚とはいえないほど遠くなってるはず そもそも、リューリクは伝説的な人物であり、実在したという確証はない
シナの王が「黄帝の子孫」を自称するようなもんじゃないか リュ―リクの時代ですらも世界史的には新しすぎで西欧では既に中世に入って何百年と経っている
日本ですら平安時代だぞ 最近ロシアの番組で、
ロシアの都市をめぐる番組やってたけど、
各分領公国の首都には今でもかなりの建築物が残ってるな >>53
ゲルマン系というより、北欧のヴァイキングだろ 各分領公国の個性というか、文化の違いみたいなものが今一つわかりにくいな
イスラムやユダヤ教を採用したり、
スラブ人が公になったりする公国があればよかったが。 >>56
キエフは、世界の中心たるコンスタンティノープルと水運で直結する国際文化都市であり、宗教的な聖地
ノブゴロドはハンザ同盟の主要都市の1つで、ロシアというより北ドイツとつながっている ハールィチ・ヴォルィーニ公国なんかは土地柄西側と関係が密接。
反モンゴル十字軍の名のもとに北東ルーシと違ってドイツ騎士団と
良好な関係を持ったり、同じ理由で公がローマ教皇インノケンティウス4世から王として戴冠して
以後ルーシでは(多分)他に見ない「王国」を名乗ったり個性あるかな。 オレグが907年にコンスタンティノープルを攻撃したとき
船に車輪をつけて山越えしたらしいね >ハールィチ・ヴォルィーニ公国
ポルノグラフィティの新藤晴一って、それが由来か 大抵の本には、
ロストフ・スーズダリ、
ノヴゴロド、
ハールィチ・ヴォルイーニの三国の記述しか載ってないね
ロストフスーズダリはモスクワの本家、
ハールィチヴォルイーニはウクライナの起源だからか ベラルーシの人は自分らの定義をどう考えてるんだろう?(ミンスクも起源を持つ)ポロツク公国に求めるのは
流石に古すぎる上に断絶も激しいからちょっと弱いと思うし 境界線的にはかつてリトアニアポーランドに支配されていたルーシ地域でロシアにリターンされた部分の中で
東の限界をポーランド分割時にロシアにリターンした部分に置いて(それ以前にリターンしたスモレンスクはロシア)
そっからウクライナを引いた部分かな。
白(ベールイ/ベラ)ルーシと呼ぶのはタタール人が中国から受け継いだ方角を色で呼ぶ方法で白は西を表すことから。 そもそもロシアはワリヤーグがスラブ人を征服した国だから
ドニエプル河を中心とする水運の国だったけど
ワリヤーグがスラブ化してロシアがスラブ国家になると
ドニエプル河は天然の堀となり国境になっていった >>63
昔は、「ロシア人には、モンゴル人の血がかなり混じっている。
それに比べて、我々は純粋な白人だから、白ロシアなのだ」
ということで、白ロシア共和国と言ってた。 この話が本当なら、「モンゴルに支配されなかった地域」がベラルーシのアイデンティティ ウクライナも「ルーシのなかで外国に支配されていた場所」が起源だが、
近世にはいちおう国らしい国はできてたからまだマシか
「大国時代のリトアニアを実質的に仕切ってたのはウチら」みたいに考えてる可能性はあるけど >>69
ひところは、「ポーランドとウクライナで国家統合」という話が出たこともあった ロマン大公が運悪く戦死しなければ、
全ルーシをキエフ公国が束ねて、侵略軍モンゴルを
蹴散らすといった未来図も描けたのではなかろうか。 キエフの衰退には多分なんか地政学的な要因もあったんじゃないんかねえ?
そこらへん研究ないんですか? 東ローマ自体は衰退し続けの歴史だったが、東欧の国家にとっては良き師だった >>73
キエフ含む南部ルーシには遊牧に適したステップ草原地帯が広がってるから
常にペチェネグやポロヴェツなどの遊牧民が跋扈していて衝突も少なくなかった それに加えてコンスタンティノープルが没落したこと&地中海貿易が
隆盛したことで相対的にドニエプル川をつたった交易の地理的な優位性が落ちた 北のノブゴロドやポーランドは、湿地帯で湖沼や森林が多く、遊牧民が嫌う風土
南のウクライナやハンガリーは、大草原で騎馬軍団に最適 ノブゴロドってロシア発祥都市な割りにはあまり存在感ないよな
古都ってポジションもキエフに奪われてるし 雷帝の大虐殺に加えて1703年のサンクトペテルブルク建設が最後の追い打ちだな ニジニ・ノヴゴロドとロストフ・ナ・ドヌはともに100万都市でロシア10指の大都市だが本家の
ノヴゴロドとロストフは今やそれぞれ人口20万と3万の小都市になっている。
本家側にはどちらも「ヴェリーキー・ノヴゴロド」「ロストフ・ヴェリーキー」
と「偉大」を意味する形容詞が添えられてるが往時の栄光を偲ばせてなんとも。 ノブゴロドは、環バルト海経済圏に属しているけど、海に面してはいないからな
サンクトペテルブルクのほうが、海に面してるだけに、よりダイレクトに北欧・西欧と連結している
中世の前期としては、川を通ってコンスタンティノープルまで行けることが重要だったから、川に面したノブゴロドが発展したんだろうな いつから教会の玉ねぎ型のドームって生まれたの?
親分のビザンツには無いだろうしルーシの地でも初期の建築にはくびれを見たことない
みんな普通のドームだ >>83
モスクワのクレムリン内にある生神女就寝大聖堂だと、
1479年の建設らしいけどくびれは少しだけだな アヤソフィアに発祥し中世に類似した形態があちこちで起こっては消え、
現在につながるものは16-17世紀に隆盛し、その模倣として時代とともに特徴が増幅されてきたのか。
そしてそれは、ロシアー中東ー中央アジアにまたがる地域で、同時に進行したと。
あの形が、あの広大な地域で、宗教と帝国の垣根を超えて、
信仰と教権そして王権のシンボルになったというのは、スピリチュアリティーの観点からも面白い。 雪が積もりにくい、とか何か実用面の効用があったりして。 実際ウクライナ人に生まれでもしたらロシア人に対して民族的ルサンチマンめっさ沸いて死にたくなるやろ?
まあウクライナ人をシベリアにまで広がる巨大なロシア帝国を作り上げた功労者として充分に尊重せずあろうことか飢え殺したロシア人さんサイドにも問題があるんやが >>88
まあ、でもウクライナのほうが気候風土も良いし、世界の文明の中心に近いし、文化水準も高いからなあ
根本的には、ウクライナ人のほうが恵まれている
そこが朝鮮人との違い >>81
ロシア版サンタのジェド・マロースの故郷
ヴェリキィ・ウスチュグには後発都市あるのかな 通勤してた国道某号線沿いに「キエフ」というレストランがあった。
チェルノブイリ事故のあと客が激減して1年ほどして廃業。
典型的な風評被害。 ロシアの大都市の同名都市と言えばアイダホ州にMoscowが
フロリダ州にSt. PetersburgがそれぞれあるけどさすがにNovosibirskはないだろうな
ノヴォシビルスク諸島はあるけど >アイダホ州にMoscow
モスクワ・オリンピックの時に「モスコー・オリンピック」という名の市民運動会をやったところねw >>92
キエフからチェルノブイリを連想する人間なんてそうそう居るかな。 チェチェン・イチケリアの武装勢力がウクライナ騒乱のとき反露闘争してたらしいね >>95
いまはともかく、事故当時はそれこそw
毎日のようにキエフの地名がニュースに出てたし 事故の現地対策本部(だったかどうか・・・)が設置されたのはキエフだったし。 ドニエプル川の源流ってロシアのヴァルダイ丘陵にあるんだな
スモレンスクにも流れてる やはり、大陸の地理はまず河川を見ないとな
当然、ロシアやウクライナも同じ ボルガ川は大河で、モスクワもここの支流にある
ドニエプル川にはキエフがある
ロヴァチ川も、途中で湖を経てノブゴロドに至り、さらにデカい湖を経てサンクトペテルブルクに至り、海に流れ込む
このスレに登場するような古都は、みんなこういった川のほとりにある こんな低い丘陵から流れ出した川が、何百キロ、何千キロと流れていく
途方もないスケールだ
流速は非常に遅く、川幅が広い つまり、途中のヴァルダイ丘陵で少し陸路を歩くのをガマンすれば、ここから川と湖をいくつも通って、バルト海にも行けるし、黒海にもカスピ海にも行ける
バルト海の先にはドイツやイギリスがあり、黒海の向こうにはコンスタンティノープルやエジプトがあり、カスピ海の向こうにはペルシャがある >>58
リトアニア大公ゲディミナスも
「(リトアニア人及び)多くのルーシ人の王」を名乗っているね
ハールィチ・ヴォルィーニを半ば支配下に置いたのも彼だ バトゥのルーシ侵攻(チンギスの長男ジョチ(ジョチ・ウルスの名はここから)の次男(+スブタイ(前回の遠征にいたジェベは既に死没)))
ついでにキプチャク草原のポロヴェツも征服→馬の保育に必要な草原を確保。
→キエフやウラジーミルなどの従来の中心都市の決定的没落→ノヴゴロドは軽傷/空白にモスクワやトヴェリなど
の伸長(37年最初に略奪破壊されたのはモスクワの南東にあったリャザン公国(古リャザン/団結力のなさ・他のルーシ公たちはこれを援助もしなかった)
→38年北東のルーシ最大勢力のウラジーミル・スーズダリに転戦壊滅させる・
初代ウラジーミル大公フセヴォロド3世の子で第2代及び4代ウラジーミル大公のユーリー2世もシチ川の戦いで戦死→大公位は
大巣公の子ヤロスラフ2世(第5代/子にアレクサンドル・ネフスキーやヤロスラフ3世/カラコルムで謎の死)が継いだ(モンゴルは全
ルーシを隷属させたが直接統治はしなかったということ/サライのハンが呼び出し全ルーシの長に任命))→陥落したものの若き公ヴァシリーの元
のコゼリスクでは激烈な抵抗を受けたバトゥに「忌まわしき町/コゼリスクと言うことも禁じた」と言わせしめた。
(キエフ→11-13週コゼリスク→7週トルジョーク→2週リャザン・ウラジーミル・ハールィチ→
6日以下Оборона Козельскаのwiki見る)→39年チェルニゴフ及びペレヤスラーウを陥落させ、
40年にキエフ攻略→(カルパチアを超え)ポーランド攻略に(41年ワールシュタット)。//
ユーリー2世はキーテジという伝説的な見えぬ町を建設しその街の正教徒たちはモンゴル
帝国から逃れ(敬虔な祈りの中湖に町ごと沈んで)古い純正な信仰が保たれているという伝承が生まれた。
後のニーコンによる改革時代には古儀式派にとっての理想郷とされた。 キエフ包囲戦(1240年)の際にはハールィチ=ヴォルィーニの公でロマンの子(=ロマーノヴィチ)
ダヌィーロ(ダニール)・ロマーノヴィチがキエフ大公を兼ね、
(本拠地のハールィチ(こちらはモンゴルに帰順の意を示し難を逃れた)にとどまるため)代官として
軍事司令官(ヴォエヴォダ)のドミトルにキエフ防衛をあたらせた。
陥落したもののドミトルはその武勇からモンゴルに命を助けられた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています