アイヌの歴史 Part4
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0334世界@名無史さん
垢版 |
2020/09/17(木) 12:58:02.500
アイヌ語地名は、ほとんどがその土地の地形にもとづいてつけられるので、遠く離れた土地でも、同じような特徴をもつ地形であれば同じ地名が付けられるのである。

たとえば、「涸れた・小さい・川」という意味のアイヌ語であるサッ・ピ・ナイにもとづく地名が北海道では浦臼町に札比内があるかと思えば、東北でも岩手県遠野市に佐比内がある、という具合である。

アイヌ語地名の研究家である山田秀三氏の調査によれば、アイヌ語地名では、−ナイがもっとも多く、ついで−ベツ(ペッ)、−ウシ、−オマ・オマイなどの語尾をもつ地名が多いという。

山田氏は、すでに1957年刊行の『東北と北海道のアイヌ語地名考』で、綿密な現地踏査をふまえた東北地方のアイヌ語地名の研究成果を刊行していたが、その後、1974年の「アイヌ語族の居住範囲」で、アイヌ語地名の南限を具体的に述べている。

それによれば、東北地方を「あるところまで南下すると、その線で突然がたんと段をつくっているようにアイヌ語系地名が急減している」とし、具体的には「奥羽山脈の東側では、仙台のすぐ北になる大崎平野...がアイヌ地名の濃い土地の南限になっている」。

一方、西側では、秋田県の雄勝郡までは驚くほど−ナイが多いのに、県境を越えて山形県の最上郡に入ると、ほとんど−ナイは見られなくなるという。

秋田・山形両県境がアイヌ語地名地帯の南限であることが「極めてはっきりして」おり、「このように地名分布の濃薄に顕著な段がついていることは、古代文化を解明する上で見逃すことのできない一つの鍵」なのではないかと述べている。

さらに山田氏の遺著となった『東北アイヌ語地名の研究』の「前文」でも、同様に「東北地方を南下して来ると、東は仙台のすぐ北の平野の辺、西は秋田山形県境の辺からの北にはむやみにあったアイヌ語型のナイのつく地名が、それから南では突然全く希薄になる。またそれとペッ、ウシ等が混在している姿も全然見えなくなる」という。

山田氏はそれを「アイヌ語地名の濃い地帯の南限線」とみて、「その南限線から一歩南に下るとアイヌ語型のナイは急に希薄になり、それがペツやウシと混在する姿など全く見えない。歩いていて別な国に入ったみたいである」と、踏査の経験をふまえた感想を述べている。
0335世界@名無史さん
垢版 |
2020/09/17(木) 12:58:56.940
興味深いのは、この山田氏の見出したアイヌ語地名地帯の南限線に対して、間もなく考古学者からも、別の角度からその存在を裏づけるような意見が出されたことである。

それは伊東信雄氏である。氏は東北大学の最終講義で、岩手県の角塚古墳を除けば、中期古墳も後期古墳も「鳴瀬川、江合川の流域から最上川流域を結ぶ線以南」にしかなく、「ここに古墳時代から一本の線がひかれる」といい、しかも「この線が、奈良時代の牡鹿柵、新田、玉造、色麻などの諸柵と秋田移転以前の出羽柵を結ぶ線」に一致することを指摘している。

さらに伊東氏は、この線から北では後北C式や北大式などの北海道系の土器が出土することにも注意をうながし、「東北南部ではすでに大古墳の造営のはじまっていたこの時期に、東北北部では古墳の造営はなく、北海道的な文化が存在したのである」という、現在の研究につながる重要な発言をしている。

東北北部から北海道系の続縄文土器が出土することは、今日では常識になっているが、伊東氏が久原コレクションの注口土器に青森県三戸郡目時出土と書かれた札が付けられているのを見つけたときには、「北海道のものとそっくりなので、あるいは札のつけちがいかと半信半疑であった」と述懐している。

伊東氏は、「この北海道的な土器の出土する地域が、アイヌ語の地名ののこっている地方であることは注意せらるべきである」として、山田氏のアイヌ語地名の研究を引き合いに出し、「アイヌ語地名の濃厚に分布する範囲は宮城山形両県の北部から北で、前述の北海道的な土器の分布範囲とほぼ一致する」ことを指摘する。

そして「東北北部にアイヌ語地名が多くのこっており、また北海道と同じ遺物が出る以上、東北地方に北海道のアイヌと同じくアイヌ語を話す人聞が居住していたことは否定出来」ず、「蝦夷もある時代まではアイヌ語を使用していた」という考えをはじめて表明する。

津軽の弥生時代の遺跡で大量の焼米を発見し、「東北の古代文化は遅れてはいなかった」ことをいちはやく実証したことから、蝦夷辺民説の旗手の一人と目されていた伊東氏が、晩年になって蝦夷アイヌ説を唱えたことは、少なからぬ研究者から驚きの目をもって迎えられた。
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