オーストリアとハプスブルク君主国の歴史
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オーストリアと、ハプスブルク君主国に属していた国々・地域の歴史について
語るスレです トリエステは、オーストリア統治時代に鉄道が敷設されたんだよね
オーストリアの貿易港・造船中心地であり、帝国海軍の基地も置かれていた 西欧と東欧の境界線はどこにあるんだろうね?
ハンガリー人やポーランド人は東欧と呼ばれるのを嫌がって、
「俺たちの国は中欧だ」と主張するけれど オーストリアがドイツのように東西分割されなかったのは英米から
親ソ扱いされてたレンナーの最大の功績なんかな
>>2
帝国海軍といえばトラップ大佐か
>>3
冷戦期だと西ドイツ・東ドイツ国境〜イタリア・旧ユーゴ国境? >>4
永世中立国として、なんとか東側に入ることだけは免れたな
トリエステのほかに、プーラ(現クロアチア)もオーストリア海軍の
主要海軍基地、主要造船中心地だった ハンガリーのホルティも帝国海軍の軍人だったのよね。
それはそうと第二次大戦後のオーストリアってフィンランドみたくソ連寄りの
自由主義国としてかろうじて民主主義と市場主義経済を許される属国となった
可能性もあったんやろか。 >>3
基本的には、ローマカトリック文化圏か正教圏かってことやろね
ローマカトリック文化圏である限り、中欧であって東欧ではないと 第二次世界大戦後、オーストリア西部にはアメリカ軍占領区域となったので、
米国による惜しみない経済的・物質的支援に支えられて、エンス河以西地域の
戦後復興は、国内でも飛躍的に早かったのだとか
リンツ近郊の工業地帯は、のちに「奇跡の復興」と呼ばれたオーストリアの
高度経済成長を支える原動力として機能した
それに対し、ソ連占領区域となったオーストリア東部は、復興が著しく遅れた >>3
エルベ川が象徴的な境界だった時代も多いそうです。農奴の有無とか 国連事務総長を務めたヴァルトハイムはナチス絡みで物議醸してたな 帝国海軍の施設って第一次大戦後にセルボ=クロアート=スロヴェーン(実質セルビアか)が
引き継いだんだとは思うけど,セルボ=クロアート=スロヴェーン海軍の軍人は帝国海軍に
勤務してたクロアチア人やスロヴェニア人が主体だったんかな >>10
「エルベの東」では、グーツヘルシャフトが一般的だったよな
貴族が広大な農地を所有し、農民を使役して大規模な農業経営を行って、
農産物を市場に販売することによって利益を上げる形態 1620年にプラハ近くのヴァイセンベルクの戦いの後で、勝者フェルディナンド2世は
プラハの旧市街で27名の処刑を行い、カトリックを勝利に導いた
しかし19世紀になるとチェコ民族主義の覚醒によって、この事件のイメージは
大きく変わり始めた
この戦いの敗北は民族の破局とされ、処刑された27名はボヘミアの領主層とされた
実際はそのうち三名だけが領主層に属し、大部分の者はドイツ語を話していた
この事件の神話化を完成させたのはスメタナの民族的なオペラ・リブシェであった 神聖ローマ帝国だけど日本の経団連みたいな存在で、皇帝はその会長のような
イメージもあった >>15
だけど登場w
普通のやつは、「神聖ローマ帝国は日本の経団連みたいな存在で、皇帝は〜」などと書く
しかしこいつは大脳が一部損傷していて、どんな言葉をいうときにも「だけど」が必ず入ってしまう。かわいそうに ハプスブルク朝時代の16Cスペインで拷問にあわされる異端の>>16 19世紀のハンガリーにセーチェーニ・イシュトヴァーンという大貴族がいたが、
彼も当時の支配者層の誰もがそうだったように、ドイツ語を母語とし、
ハンガリー語は成人してからのちに学習によって獲得した ドイツ語が母語なハンガリー貴族
フランス語が母語なロシア貴族
仲間うちや家庭内でフランス語を用いてたといわれるロシアの上流社会だが
自国の言語は後に習得した物だったりして スペイン王兼神聖ローマ皇帝のカール5世は、フランドルの生まれでフランス語が母語
後にスペイン語を習得したが、ドイツ語は生涯ものにできなかったという人である
まあ、ヨーロッパの王侯貴族の間ではよくあることなんだろうな 神聖ローマ皇帝の権力が一番強かったのってカール5世時代? 作曲家のスメタナも母語はドイツ語で、成人してからチェコ語を覚えた 近世のオーストリア・ハプスブルク家は、西にフランス、東にオスマン帝国と、
東西両方に敵を抱えていたんだよな
オスマン帝国には二回もウィーンを包囲されるし 二度目のウィーン包囲でオスマントルコの置き残したコーヒーがヨーロッパで
コーヒーが広まるきっかけとなったというのを歴史関連の本で見た事ある スイス起源のハプスブルク家、スイスにハプスブルクという地名があって
そこの領主を務めてたのかと思ってたが地名ではなく城の名前だったのね
(本来の名はハビヒツブルクか) >>26
オーストリアは最初、バーベンベルク家によって治められていたんだよな
バーベンベルク家が断絶した後はボヘミアのオットカール・プシェミスルが
支配者となった
その次にスイス北部に起源を持つアレマン系の一族であるハプスブルク家が
この地を統治することになった
当然のことながら、スイスから来た「よそもの」であるハプスブルク家は、
当初はオーストリアの人々から歓迎されていなかった 現在のオーストリア人の中にはハプスブルク領時代にトランシルヴァニアから流入してきた
トランシルヴァニア・ザクセン人を先祖とする人達もおるんやろな。
というかハプスブルク領各地からオーストリア本土へ流入してきたか。
>>27
スレチだがオットカール・プシェミスルのオットカールがオドアケル由来の名前だった事を
知ったのはつい最近だった ウィーン、グラーツ、リンツ、ザルツブルクといった都市部ではドイツ姓・スラブ姓・ハンガリー姓の
オーストリア人が入り乱れか 世紀末のウィーンで、皇太子ルドルフと心中自殺した男爵令嬢
マリー・ヴェッツェラは、トルコ系の血をひいていたとか
マリーの父親はオーストリアの外交官で、コンスタンティノープル駐在時代、
トルコ人銀行家の娘エレーナ・バルタッツィと結婚して二男二女をもうけた >>30
質問なら文末にクエスチョンマーク付けんじゃね?
>>31
大昔のフランス映画でこれを題材にした「うたかたの恋」という作品があったな ザルツブルクは長い間大司教領として存続してきたんだよな
それに終止符をうったのがナポレオン フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア=ハンガリー帝国における最初で最後の皇帝と
勘違いしてた時期がありますたorz
彼の他にもう一人皇帝がいたのね。 第二次大戦後に永世中立国となったオーストリアだが,同国の対西ドイツ感情は
どんな感じだった? >>34
最後のオーストリア皇帝はカール1世ですね
第一次世界大戦の敗戦で、帝国海軍の誇りであった戦艦フランツ・ヨーゼフ皇帝号は
イタリア海軍の手に渡り、マルコ・ポーロ号と改称されてしまった マジャール人は東部パンノニアの平原地帯に侵入、定着した後、ここからおもに
北イタリア、南ドイツ地方にゲリラ部隊を派遣し、貴金属略奪と奴隷狩りを行って
「反キリストの使者」と恐れられた
しかし955年になってオットー1世がレヒ川河畔で彼らに大勝し、侵入を防ぐために
エンス川流域に辺境伯区を設置した
これがのちのオーストリアになる その後キリスト教へ改宗したハンガリーは辺境防衛のためドイツ人を募ってトランシルヴァニアへ
入植させてたがルーマニアのヨハニス大統領は初期の移住者の子孫なのね ドイツ騎士団って、最初ハンガリーにいたんだけど、ハンガリー国王に警戒されて
追放され、次にポーランドに行ったんだよな >>34
>>36
フランツ2世
↓
フランツ・ヨーゼフ爺
↓
カール1世の順か イヴォ・アンドリッチのドリナの橋では作品の舞台であるボスニアの町が
オスマントルコ支配からハプスブルク支配へ移行していく中で,新しい文化が
もたらされる様子が描かれてたな ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』は、オーストリア占領下のヴェネツィアで、
ヴェネツィアの公爵夫人とオーストリア軍の将校が恋に落ちる話 16世紀のハンガリーでは、ときおりトルコ兵の一団が地平線の彼方に現れ、
畑で働く農夫をひとからげに捕らえて連れ去った
身代金を要求し、その農夫が貧しくて支払えないなら資産や家や畑を売って
代金を持って来ると約束するまで拷問を加えた
だから農夫たちは畑に行くときは腰に剣を差し、もしものときはすぐ
逃げられるよう、馬に鞍をおいたままにしておいたという オスマントルコの支配から解放されたハンガリーで新たな支配者・ハプスブルクへの
反乱がおこったけどその指導者ラーコーツィ・フェレンツ2世の亡命を受け入れ、
ハプスブルク側の引き渡し要求を突っぱねたのはかつての支配者・オスマントルコ
だったな スレとは直接関係ないけど、スウェーデン王カール12世も、ポルタヴァの戦いで
敗れたあと、一時オスマン帝国領に亡命してるよな 露土戦争後に得たボスニアヘルツェゴヴィナがオーストリア=ハンガリーを滅ぼす事になろうとは 本来はオーストリア=ハンガリーとセルビアとの間のいざこざだったのに
肩入れをおこなう列強諸国の思惑が独り歩きしてまったく関係ない地域で
激戦が展開されてったんだよな・・・ ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合について、ロシアの黒海から地中海に抜ける
海峡の航行権を認めることを代償に、ロシア外相のイズヴォルスキの暗黙の了解も
得ていたんだよな
しかしオスマン帝国、セルビア、スラヴ主義に立つロシア人の激しい反発を招いて、
ロシアは反ハプスブルクの旗色を鮮明にすることになる >>46-50
なにその説明臭い文章の連続レス
おまえ自分がウィキとかでお勉強したこと確認するためにいちいちここに書き込んでんの? ハプスブルク領内へ侵入したオスマントルコ兵に連れ去られ奴隷としてこき使われる>>51 ドイツより目立たないけど魅力のある国だよね
日本のネットだと舐められがちだけど 同じゲルマンでも食はプロテスタント圏よりカトリック圏のほうが進んでんだっけか オスマン帝国にしろ多民族国家のモデルケースだったのにハプスブルク家の崩壊をチャーチルを筆頭に惜しんだ著名人も多いよな
東欧諸国独立後の長い受難の歴史を考えると帝国崩壊は残念でならない ユーゴが崩壊したんだから大戦の敗北が無くてもオーハンは崩壊したんじゃ…って気もするな
立憲君主制連邦国家までいくにはビスマルク以上の白色革命が必要だろうし オーストリアは第一次世界大戦の敗北で、イタリアにティロル地方も取られてしまった アルペンスキーでオーストリア側のチロル出身でイタリア系っぽい名前の選手とか
逆にイタリア側のチロル出身でドイツ語圏っぽい名前の選手がいるな >>56
基本的にプロテスタントの国って
あまりご飯が美味しくないイメージ カトリックでもアイルランド、ポーランド料理はイマイチな感じだな 昔職場の近所にポーランド料理屋あったけど、味はまあまあだった
ただ、地味というか華やかさはない
やっぱり南の方が料理は美味しい イタリアより東の南欧ってトルコあたりの影響で菓子が甘ったるそうなイメージだわ >>61
ムッソリーニ率いるファシズム政権が成立すると、チロルに対して
ドイツ文化の徹底的排除と強硬なイタリア化が導入された 元カリフォルニア州知事のオーストリア出身俳優は父親がナチの突撃隊員だったな 第二次大戦後,旧オーストリア=ハンガリー領のドイツ系住民は
西ドイツだけでなくオーストリアにも多く渡った? 第一次世界大戦の敗北で、トリエステやポーラなど
アドリア海の出口も奪われてしまった 第二次大戦後の新生西ドイツ軍はナチス色を排除した形でスタートしたが,
オーストリアの軍・警察ではナチス寄りな人達が多かったんかね? 第一次世界大戦において、二重帝国は、イタリア戦線で多くの人的損害を被っている
冬期においては氷雪に悩まされた過酷な山岳戦が行われた
この方面の主戦場はアルプス山岳地帯のイゾンツォ川流域 >>58
オスマン帝国やハプスブルク君主国を、多民族国家のモデルケースとして持ち上げる風潮は、
一時期ポストモダンかぶれの歴史観の中で流行した見解ではあるが、
最近はそのような過度な理想化を疑問視する声もある
そもそも本当にハプスブルク君主国が「モデルケース」だったのならば、
なぜ19世紀に民族主義があんなに吹き荒れて崩壊したのか?ということから目を背けるべきではない
結局、ハプスブルクもオスマンもむしろ結果的には崩壊したという点で、
「多民族国家の失敗例」として捉えるべきではないのか? >>73
アウスグライヒでハンガリーはオーストリアと対等の地位を手に入れたけど、
スラヴ諸民族の地位は改善されなかったんだよな
二重帝国をチェコ人を加えた三重帝国に再編する案もあったが、特権を失うことを
恐れるドイツ人とハンガリー人の反対で実現しなかった ハプスブルク帝国とは逆に、現在のEUはどの加盟国も平等に一票が与えられている
しかし人口五千万の国でも五百万の国でも同じ一票というのはいかがなものか
さらに一国でも反対すればいかなる政策も成立は不可、となっているので身動きが
とれない
やっぱりどこかの大国がリーダーシップを発揮するか、国連の常任理事国の
ようなものをEU内に設けるしかないのでは >>74
ハンガリーでは自民族の自治には賛同する一方でスラヴ人の自治には冷淡な人が多かったし、
三重帝国への否定はそのようなハンガリー人サイドの反発による面が強かった オーハンの民族分布見ると二重どころか四重くらいまでいかないと分裂不可避な感じする 分裂して四重帝国になっても、あの国は戦争には弱かったんじゃないのかな
帝国主義の時代を生き抜くには不利だったと思う >>77
四重帝国にするどころか、もっと細かく分けてアメリカのような連邦制を志向する動きもあった
これらの構想は一般に「ドナウ連邦」構想と呼ばれているもので、結局実現には至らなかったけど、
当時のハプスブルク君主国が生き残りを考える上で模索された可能性の一つではあった アメリカ合衆国の場合、多民族国家だけど、一応言語は英語で統一されていたよな >>80
アメリカも先住民の言語やスペイン語などの対処問題はあったけどな
それでも、概ね英語で統一できてはいたのが、ハプスブルクと比べてアメリカの恵まれてたところだな
ハプスブルク君主国はドイツ語だけで統一するには無理がありすぎた 多民族国家でうまくいっているところは、アメリカ、カナダ、ベルギーぐらいか?
あとは強権で押さえつけるか、インドみたいにしょっちゅうコミュナル暴動が
起きるか、内戦状態になるか 第一次大戦後,新たに生まれたスラブ人諸国家では国内のドイツ人問題を抱え、
これが第二次大戦の遠因にもなるんだっけ
>>82
それでもカナダでは英語系住民とケベックのフランス系住民との対立があったり
ベルギーだとフラマン系とワロン系との対立があったりと民族間の問題を抱えてるな 神聖ローマ帝国が20Cまでずっと続いてたらフランツ=ヨーゼフの後を継いだ
カールは神聖ローマ皇帝としてはカール8世と呼ばれたんだろうな オーストリアの場合、アジア・アフリカに植民地を持つこともできなかったよな
ベルギーのような小国でさえ持っていたのに >>82
>>83
スイスがあるでしょ
あと、ニュージーランド、ブラジル、パラグアイあたりがぎりぎり多民族文化併存の国情かな?
パラグアイはスペイン語話者比率よりもグアラニー語話者比率のほうが多い(両言語同一話者多数)んだよな イギリスの歴史家のアラン・スケッドは、反セルビア政策をとり、第一次世界大戦を
引き起こしたことがハプスブルク帝国にとって致命的だったと述べる
当時戦争だけが唯一の選択肢であり、フランツ・ヨーゼフ帝の宣戦布告は、
国家の威信というまったく非合理的な動機に出たものであると。
でも当時は、名誉というものが現代では考えられないほど重んじられていたんだよな
皇位継承者を殺されて何もしない、というわけにはいかなかったんじゃないのか >>87
そりゃ皇位継承者を殺されて何もしないわけには行かないだろうけど、
戦争をしかけたのは当時の感覚からしても過剰反応すぎるという見方はあった
セルビア側もさすがにオーストリアと正面から戦争することは望んでなかったわけだし、
いくらでも交渉で済ませられる余地はあった
そう考えると、当時のオーストリアは自ら破滅への道を歩んで行ってたと言える バイエルンら南ドイツと合同とかできたらドイツ人比も増えて帝国内の他の民族を抑え込めただろうにな
ビスマルクにはじき出されてしまった ハプスブルク帝国って、1848年のウィーン革命でよく滅びなかったなと思う >>90
一歩対応を間違えればフランスのように帝政廃止に繋がりかねない、かなり危ない状態ではあったな
上手くメッテルニヒを追い出して新皇帝を即位させただけで済ませられたのは幸運だった
とは言え、1848年革命で君主制廃止まで行ったのはフランスぐらいしかなかったし、意外とそんなもんなのかもしれん 今の日本の天皇みたいな感じで、自分を害してこないなら敬意は払う程度には憎からぬ存在なのかね
自由主義者の心境が分からん 1849年にはハンガリーが独立を宣言して、フランツ・ヨーゼフ帝は、ロシア軍20万の
支援を得てこれを粉砕した
しかしなぜか、フランツ・ヨーゼフ帝とその顧問が1848年の事態から学んだ教訓は、
王朝を救ったのは自国の軍隊であるというものだった
そのため現実主義的政策を追求し、軍事力に依拠することが、国際問題において
揺らいだ威信を取り戻す最良の手段だと考えた 第二次大戦後のオーストリアがドイツみたく東西に分裂してたら
ベルリンの壁とあわせてウィーンの壁も作られたんだろうな 独ソ戦には、オーストリア兵も”雪に強い”という理由で大勢駆り出されたのだとか
アルプスなどの山岳地帯の雪と、ロシアの雪では全然違ってそうだけど 本来ドイツの国号を名乗るのはオーストリアであり、今のドイツはただのポーランド人の国である >>94
第二次大戦後にオーストリアがドイツのように東西分裂しなかったのは奇跡だよなあ
オーストリアもドイツ同様に米英仏ソの4ヵ国に分割占領されたんだから、
そのまま東西冷戦の中で分裂してても全くおかしくなかったのに オーストリアが完全な独立を保証されたのは、日本や西ドイツの主権回復からも
遅れた1955年のことだった 多民族国家のほうが豊かな文化を生む、なんていう人がいるけどこれってどうよと
思った
アテネもフィレンツェもヴェネツィアも多民族国家ではなかったけれど
豊かな文化を生んでいる
逆にシンガポールのように、多民族国家でも文化を生みださない国もある >>97
ソ連はオーストリアのツィステルドルフ油田と、ドイツ資本がオーストリアで
開発してきた石油精製施設に目をつけていたんだよな >>99
内部に外部人材や外貨を積極的に採り入れるかどうかで違ってくるだろう
古代ギリシアは、内部構成員には市民権の平等性を保障したが、外部からの人材への新規の市民権付与はほぼ認めない事例が多かった
古代ローマは、外部からの新たな人員に対して、部分的な市民権の拡大を徐々に認めていく方式を採った
最終的にはギリシアは頭打ちになったが、ローマはその後の歴史の中でも様々な社会基盤拡大の際のモデルケースになった >>103
でもギリシア文化とローマ文化は同じではない
そもそも言語も全く違うし国も違う
ギリシア型の政体とローマ型の政体の違いは上に書いたとおりだし、
ギリシア語源の語彙とラテン語源の語彙は現代語にもそれぞれで影響を与えてる 世紀末ウィーンの文化を担ったのはほとんどがユダヤ人なんだよな
すべての民族がまんべんなく文化の担い手になったわけではない 特に優秀だったのがノイマン、テラー、シラードを主とするハンガリーのユダヤ人 しかし彼らは帝国崩壊後台頭したわけだがハンガリー出身のユダヤ人が特に理数系分野で非常に優秀だったのは興味深い フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ケルゼン、フッサール、ホフマンスタール、
シュニッツラー、クラウス、カフカ、ツヴァイク、マーラー、シェーンベルク、
オスカー・シュトラウス、レハール、ロース
これ全部ユダヤ系 帝国崩壊後大出世した人物の一人に巨匠、ビリーワイルダーがいる
彼はガリチィア出身 >>109
ビリー・ワイルダーに限らず、二重帝国出身の映画関係者は実はめちゃくちゃ多いんだよな
マイケル・カーティスやフレッド・ジンネマンなんかも二重帝国出身だ >>109
地味だがドイツ映画でも活躍したピーターローレも
二重帝国出身 ハプスブルク帝国は多民族国家だったが、その一方で反ユダヤ主義も
盛んだったんだよな
ウィーン市長カール・ルエガーや、アドルフ・シェーネラーのような反ユダヤ主義、
ドイツ民族主義を唱える政治家がいた オーストリア出身のヒトラーも反ユダヤ主義を上手く利用して台頭して君臨したからな 二重帝国時代ハンガリーの繁栄を支えたのがユダヤ人と言っても過言ではない
ユダヤ人亡き後のハンガリーの凋落ぶりと言ったら酷いもんだよ 写真家のロバート・キャパはブダペストのユダヤ系の家庭に生まれた >>112
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はかなり保守的な思想の持ち主ではあったけど、
反ユダヤ主義には否定的で、カール・ルエガーと対立してたんだよな
しかし、そのせいでウィーン市民からは民主主義の敵と見られてしまった
こういうエピソードを聞くと、君主のようなストッパーのいない剥き出しの大衆民主主義が本当に良きものなのか疑問に思ってしまうな ゲオルク・フォン・シェーネラーは、『オーストリアの崩壊と再建』という
パンフレットの中で、帝国の非ドイツ人地域をオーストリアから分離し、
オーストリアはドイツ人だけで構成するべきと説いていた
そして、オーストリアをドイツ帝国の中に組み入れ、分離した非ドイツ人地域は、
ドイツ帝国の属州とするべきと
ハプスブルク帝国は文化だけではなくて、こういう危険思想も生んでいた >>119
結果論だが
オーストリアにとってはそっちの方が都合が良ったんじゃないか シェーネラーはオーストリア帝国内の非ドイツ諸民族、すなわちスラヴ人あるいは
特にユダヤ人の排除や抹殺を公言していたからなあ… なんか119&121の話の路線
どこぞの史実で見たような・・・怖すぎる
それで国がまともになるとでも思っていたのなら、いよいよ何考えてんのかと
なんやかんやで結局、
それこそハプスブルク家を筆頭に、
血脈も文化も混淆してる人たちのほうがよっぽど覚めててまともだったってことだな
実際、ハプスブルク帝国では、
貴族階級はスープラナショナリスティック、市民階級はナショナリスティックって傾向があったようだね
確かクーデンホーフ・カレルギー伯爵が著書でそう述べてたような
まあ、「ナショナリズム」って概念自体、フランス革命の所産ってことでもあるし・・・ >>121
オーストリア人にはスラブルーツは多いのよね。
ヒトラーの信任厚かったスコルツェニー然り。
ついでながらヒトラー自身にもスラブの血が入ってんだっけか フランス革命がナショナリズムを解き放った瞬間から、こうなるのは
避けられなかったんじゃ無いかと思う
だからこそメッテルニヒはウィーン体制をつくりあげて、諸民族のナショナリズムを
抑え込もうとしたんだろうけど そもそも論だけど、
「『言語的同一性』『文化的等質性』が『市民階級』の政治的勃興と直結する」というのが
なんか大幅に飛躍した論立てになってる感じで、
「えー? そうなの?」という感が拭えなかったりするんだよなあ
それこそ旧ハプスブルク帝国領って、
何がどこまで「『言語的等質性』『文化的等質性』」なのか切り分けることなんて、
不可能なんじゃなかったのかと思うんだけどさ
あそこまで文化的に入り組んだ地域だと、
一人の人が二つも三つも別言語を話せることなんて全然珍しくないし
(例えば「ドイツ語もハンガリー語もスロヴァキア語も」とか)、
特に都市部だと、同じ町内会の中でもそれぞれ違う宗旨の檀家さんが三つも四つも一緒になってたりするでしょ
(例えば「A家さんはカトリック、B家さんはユダヤ、C家さんはオーソドックス、E家さんはプロテスタント」とか) 「言語的同一性」「文化的等質性」など最初は存在しなかったのだが、
フランスからナショナリズムというものが伝わったので、大急ぎで人工的に
それらのものを創り出そうとした、というのが実態に近いのかな? てか、ことの始まりのフランスにしても、
「言語的同一性」と「市民階級の政治的権利拡大」って
それらの概念がどういう論理のもとに繋がるのか、今ひとつ、つかみどころが無いんだよね >「『言語的同一性』『文化的等質性』が『市民階級』の政治的勃興と直結する」論の具体例が無いとなんとも
政治的勃興も何を指してるのかよくわかんないし いわゆる「民族主義」が「言語的同一性」を基本にしてるというのは、一定程度(飽くまで一定程度)分かるとして
それが「フランス革命」によって「ナシオン」と位置付けられたというのが、なぜかなと
まあ欧州の場合には、言語圏を越えての、領主のお国替えとか姫君のお輿入れとかが歴史的に多いから、
上層の人々と中間層ほかの人々とで第一言語が違うという事例は昔はままあったのかもしれないけれども ヨーゼフ2世は、ネーデルラント・北イタリアを除き、ハプスブルク帝国内の
公用語をドイツ語に統一しようとしたけれど失敗した 人間が他者に対して寛容になれるのは、自分たちが優位に立っているときか、
あるいは経済的な豊かさがあるときだけじゃないのかなあ
中世イスラームの「寛容」だって、あくまでムスリムがユダヤ教徒やキリスト教徒に
対して一段上の地位にいるという前提での「寛容」だったし
おまけに異教徒は人頭税も払わされていた ハンガリーに関して言えば二重帝国時代が1番繁栄した時代だな 過去の歴史を遡っても二重帝国時代の繁栄に勝る事はない ブダペストはロンドンに次いで2番目に地下鉄が開通した街 チェコやハンガリーは第二次大戦後,スターリンが戦利品として分捕った地域という
イメージも強い。容共FDRがスターリンのイエスマンだったばかりに・・・ 最初はソ連の側も、東欧に社会主義体制を樹立しようとは考えておらず、
ソ連に友好的な東欧ができていればいいと考えていた
しかし1947年にトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランが
打ち出されて西欧諸国の組織化が始まると、ソ連の対東欧政策は硬化した ボヘミア三重帝国が実現してたらプラハも繁栄の時代を謳歌したんだろうな テスラはハプスブルク領出身のセルビア人だがセルビアでもクロアチアでも偉人扱いか。 ハプスブルク帝国の後継国家のうち、チェコスロヴァキア以外は
どこも経済的にうまくいかなかったな 帝国崩壊後もユダヤ系住民にとっては二重帝国が永遠に彼らの祖国であり続けたようだな 1850年代は二重帝国にとって経済発展の時代だった
この富が世紀末のウィーン・ブダペスト・プラハで文化の華を咲かせる ナチスの迫害で二重帝国内のユダヤ系がアメリカに逃れてアメリカの繁栄を
縁の下で支えていくんだよな 皇帝レオポルト1世は1669年にユダヤ人を追放したが、彼らの去ったウィーンの経済は
たちまち衰退し、1〜2年後には、皇帝は金持ちのユダヤ人と帰還の交渉を始めた 日本ではチェコ人のことを慎重で冷静な国民性、なんていう人がいるけど、
チェコ人はけっこうナショナリズムが強い民族なんじゃないのかな
二重帝国時代には議場で楽器を鳴らして議事進行を妨害したりしていたし、
第二次世界大戦後のドイツ人追放のときもけっこうえげつないことをやっている 第二次大戦後の西ドイツにおける対オーストリア感情って
「奴らも共犯なのに被害者面しやがって」
という感じだった? 第二次大戦後に再建されたオーストリア軍ってヒトラー寄りだった軍人が結構居座ってた? >>117
民主制と君主制の相克といえばリヒテンシュタインのフランツ・ヨーゼフ2世
ナチズムが吹き荒れていた国内で君主大権を行使して選挙を無期限延期、議会がナチスに占拠されるのを防ぎ
リヒテンシュタインを敗戦国にしなかった
1世の大甥だな アインシュタインの最初の奥さんは二重帝国出身でセルビア系だな 日本ではコアラがいる国とたまに間違われるよな(汗) オーストリア帝国がそれなりの規模で存続していたらウィーンはどれ位の規模の都市になってたんだろ?
第1次大戦前のウィーンの経済規模はロンドン、パリ、ベルリンの3都市に匹敵していた
人口考えるとマドリード位かな https://twitter.com/Kakanien_Sazae/status/1370011497238204417
ハプスブルク家当主のカール殿下が、サセックス公ヘンリー同妃メーガンのテレビ出演を「ゴシップ、ゴミ」と非難。
……この話題に旧オーストリア帝室が首を突っ込むとは思わなかった。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) イギリス王室のことに亡国に幻想を抱き続ける一平民が口出しすんな。
いつまで貴族ぶってるんだ。未だに殿下や旧帝室とか実に馬鹿馬鹿しい。 亡国のロイヤルファミリーって面白い存在だよね
確かオスマン家は割と人数いるんだっけ
ハプスブルク家は今どんな感じなんだろ 統 総トうカッカトはドコのドイツナンでスカ
大きな戦争を起こし、多くの人々を殺して傷つけた、nという国がその戦争に負けて、西g、東gという2つの国に分断された後、長い年月をかけ、西gと東gが統一して、
gという国を建国した直後に、gの政府が、統一に反対した人達を攻撃したとき、
僅かな人達が疑問に思ったし、中には統一を後悔する者もいたが、gの多くの人々が一緒に攻撃した。
自分はまだ子どもで、統一に賛成していたので、疑問に思わず、一緒に攻撃した。
しばらくして、gの政府が、東gと西gが統一することに力を尽くした、東gと西gの指導者達及びgの初代の指導者を、批判したり評価しない人達を攻撃したとき、
少数の人達が疑問に思ったし、少数の人達が、gの政府を批判したが、やはり多くの人達は一緒に攻撃した。
自分は、gの初代の指導者及び東gと西gが統一することに力を尽くした、西gの指導者を尊敬していたので、疑問を抱かず、一緒に攻撃した。
その直後、東gの人達と、西gと東gが長年属国にしていて、西g及び東gとはもちろん、西gと東gが統一した後も、もめ事が多い、※ファシリアールの人達と、※ワイマールクセンの人達を、
gの政府が攻撃したとき、少なくない人達が疑問に思ったし、少なくない人達が、gの政府を批判したが、半数以上の人達は一緒に攻撃した。
自分は先祖が、ファシリアールの隣にあり、nが大きな戦争を起こす前に、植民地にした、oという国の移民であり、自分は、gの政府の攻撃に疑問を感じたし、自分の家族や親族の中には、不安を覚える人もいたが、
しかし自分は、東gも、ファシリアールも、ワイマールクセンも好きではなかったので、一緒に攻撃した。
長い時が経ち、自分も年を取り、gの政府が、oを、nの少年兵だった人で、西gと東gが統一する直前に、多くの人々に支持されるoの指導者になり、oの指導者を引退した後に、しばらくして死んだ後も、
oの多くの人達が、oのnの少年兵だった指導者を支持しているから、oはnのような、危険な国になる可能性が高く、
自分の国及びoの周辺国の人々を守るためだと言って、oを侵略したとき、自分の一族は、oの移民の子孫だったので、gの政府や人々から攻撃されたが、その時には全てが遅すぎた。
その時、自分達にできることは何もなかった。 >>159
※ファシリアール。正式な国名はファシリアール共和国。かつて西gと東gに分断されていた時には、西gに属し、南部にある州とされていて、独立主張が強い地域。
b州×
ファシリアール共和国〇
※ワイマールクセン。正式な国名はワイマールクセン共和国。かつて西gと東gに分断されていた時には、東gに属し、南東部にある州とされていて、独立主張の強い地域。
s州×
ワイマールクセン共和国〇
追伸・この物語の主人公「自分」のモデルは実在します。
もちろん、俺はこの人を良く知っています。
この人は昔はドイツを評価していましたが、今は批判しています。
そして、昔はnやnのような人達の全てを憎み、もちろん、この物語の最後に登場した、nの少年兵で、後に指導者になった人のような人も憎んでいましたが、今はその人を含む、nの少年兵や市民たちは、憎んでいません。
この人は、5ちゃん(旧2ちゃん)などの掲示板や、いろんなブログにも、書き込んでいます。
もしかしたら、今日も5ちゃん(旧2ちゃん)などの掲示板や、何らかのブログを閲覧して、何か書き込んでるかもしれませんね。 ハイル・ヴァイツゼッカー(^o^)/
ハイル・コール (^o^)/
ハイル・ホーネッカー(^o^)/ >>159
>>161
要約。
くたばれヒトラー。 エリーザベトがあまり悪女扱いされないのは間男がいなかったからかな
夫留守じゃなくて妻が出かけっぱなしで間男といっていいのかわからんけど そりゃ出掛けっぱなしだからでは?
非難するにしても悪じゃなくて困った御方、皇帝陛下可哀想みたいな感じになる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています