0001三島由紀夫2010/09/20(月) 19:54:52
0186國學院大學 學生2012/07/15(日) 09:09:02.24
最近、
金沢大学の学生が
十文字切りで割腹自決したそうです。
0187日本@名無史さん2012/09/11(火) 07:29:08.42
0188日本@名無史さん2012/12/06(木) 06:00:34.57
う〜ん、切腹と言えば江戸時代中期には、小刀を三方の上に置いて
それを切腹する人間が手を伸ばした時に介錯人が首を切っていたらしい。
また木刀で腹を切る真似をするというパターンも会ったとか
見る限り近世中期の武家社会などは、切腹と言うのは精神的なものより
、事務的にあの世に送るといった感じだったんだろうな。
こういう所に近世と今の死の死の認識の違いがあったんだろう
幕末には自ら小刀で腹をさばく切腹が流行ったらしく、縛吏から逃げおおせた
志士たちが、その場で腹を切ったらしい。
この違いをとやかく言うのは邪道だとおもう、死の認識が違ったんだから実際に当時の武士に
生まれんと分からんだろうよ
ただ何となく言えるのは、その時でも死に対する恐怖はあって、怖い人は怖かった
残虐に人を殺した人の陰にはそれがあったんじゃないかなぁ…
0190日本@名無史さん2013/04/21(日) 08:19:24.50
>>166
あった。但し、一部の異常な支配者を除き、本場中国と同じく余程のことがない限り
普通は実行されていない。
保元の乱の首謀者の藤原頼長が一番有名だろう。ちなみに、車裂きは頼長本人
だけで、頼長の妻子、姻族は普通に斬首(幼児は串刺し)。 戊辰戦争でも、首謀者に斬罪が言い渡されたけど切腹と書いてある史料があって、
どういうことかと思ったら、本人の名誉を重んじて切腹の形だけ取って、実際は斬罪にしたのね。
だから本人は襟元を緩めて「ご介錯を」と言うだけ。
この頃はわりとそういう感じになってたと思われる、切っ先を腹に当てたら首斬るとか
前のめりに倒れてもがいてる人の首って、押し切るしかないもん
加徳丸事件の下手人とされた上関義勇隊士の検視では
○水井精一 検死記録 胴横に五寸計突引切疵壱ケ所
左耳より一寸計筋違計突抜疵一ケ所
右耳下附根より五分計前へ寄疵口五分計突抜疵二ケ所
臍より一寸五分上横に四寸計薄切り疵一ケ所
○山本誠一郎 検死記録
胴横に五寸計突引切疵壱ケ所
首筋横ニ一寸計突抜疵壱ケ所
臍より上一寸程上六寸計筋違ニ薄切り疵弐ケ所。
この2人は自刃を迫られた事情があったので参考程度だが、2人とも横に切ったのが15センチ程度
ほんとに形ばかりで、致命傷は頸部の刺し傷(他人の介錯による)
白虎隊の生き残りの人も明治頃聞かれて
皆死ぬことになんのためらいもなかった
子供の頃からそういうふうに育っていたとか言ってたらしい。
たしか俳優の西村晃も特攻隊の生き残りらしいが当時はそういうふうに
教育されてた今の人にはわからないだろうと言ってた。本当は怖かったろう
と言ってるがそういう人もいるかもしれない。しかし今の時代でも自爆テロ
をする人は確実にいる、当然怖くてやめた人もいるかもしれない。
0194日本@名無史さん2013/04/30(火) 00:30:53.69
ちなみに童貞の場合は切腹ではなく自刃というらしい。
豆知識な。
剣術の腕が確かな介錯人なら一拍子の動作で斬る。
座った状態からでも飛び跳ねたかと同時に斬りおわってたという外国人の記録もある。
立った状態の構えから斬るより、座って腹を切って前のめりに倒れる人間の首を斬るには理にかなってるかもな。
ただ江戸末期には剣道が流行してたくらいだから、本物の剣術使いがごろごろいるわけでもないし、
優れた技だからといって全国に正しく広まるような時代ではなかったから、
やり方は色々あるだろうね。
0196日本@名無史さん2013/04/30(火) 01:13:31.38
>>190
藤原頼長は車裂きにされてないし、子供たちは配流で済んでるのだが
長男の師長にいたっては数年後に都に帰還して、最終官位は太政大臣
最近同じような内容の書き込みが多いけどもしかして三属皆殺しの人? 0197日本@名無史さん2013/04/30(火) 01:24:27.04
ついでに指摘しとくと、藤原頼長は処刑されてすらいない
流れ矢による傷が死因でむしろ討死に近い
処刑されたのは平治の乱の藤原信頼だがこれは斬首であって車裂きではないな
0198日本@名無史さん2013/04/30(火) 13:42:32.13
医学博士でもある作家の渡辺淳一の作品のなかに首切り浅右衛門
について書いたエッセイのような作品を昔読んだ。
それによると人間の首を骨の所を一刀で切るのはかなりむずかしい
はずだと考えいろいろ検証している。それによると頭と背骨の所
に角度によっては骨に当たらず切れる箇所があるのに注目して
浅右衛門はこういう場所を代々の言い伝えで知っていてここを
切っていたのではないかと推理していた。そこをきると普通の人の
生首のイメージと違って後頭部の上の方から顎にかけて切られて
首としては見栄えが悪くなるらしいが。作者は明治頃の斬首の
写真を見ながらたぶん間違いないと推理していた。覚悟を決めて
しずかに首を差し出す人はきりにくく暴れる人の方が切りやすい
というのもそういう見地から解釈していた。
堺事件では介錯人が切り損じて数太刀におよび、外国人が真っ青になってるから、
確かにマジ切腹でもがいてるのを後ろから突き通すなり、押し斬るほうが的が定まりやすいのかも知れないな。
>>193
士中二番隊も戦闘で重傷を負ったり、体力を相当消耗してる状態で自刃を決めたわけだが、
「切腹」は意外と少ない。相手の心臓を狙って刺し違えたり、最初から頸動脈を切ってる。
自分たちの体力に合わせた無理のない?な自刃をやってる。 首が落とせないのは単に技が足りないだけかもしれんがな。
介錯の練習なんてそうそう出来ないだろうし
山田家のような職業的介錯人でもないかぎりぶっつけ本番なんじゃない
0204日本@名無史さん2013/06/05(水) 09:04:08.13
三島の首を介錯できなかった森田の代わりのコガさんは、スパスパ斬ったっていうじゃないか。
達人とか言われてたらしいけど、人を斬るなんて、江戸時代だって初めてじゃそうそう巧く斬れるもんじゃなかったんじゃね。
何人か練習で斬ってたのかね?
武士も斬首を見たり、検視をする機会があるから見よう見まねで知ってたんじゃなかろうか
戦前の人は短刀であばら骨の何番目を刺せば良いとか知ってる人間が大勢いた。
武士もそんな感じだろ。
知識として知ってるのと実践するのとでは結構違うとおもうんだ
誰だって初めては緊張してうまくいかないだろ?
知識として知ってるだけで相当違う。
幕末の武士なんて、戦争を見たことも聞いたこともなかったのにすぐ適応してる。
切腹は介錯人がいるし、介錯人が失敗して狼狽した時に備えて介添えがいるのじゃないか
0210日本@名無史さん2013/09/25(水) 19:26:57.01
介錯の作法は今でも居合いなどに存在します。
介錯人は一番身近な者がつとめるべきであり身内で介錯する腕がないのは
武家の恥でした。
介錯のタイミングは色々ですが早く楽にしてあげるのが武士の情けとされます。
扇子腹もその一種です。切腹する人は何も知りません。
切腹する人が…
「介錯は…手を伸ばした瞬間…イクから…がんばって…。」
「刀じゃなくて扇子を用意したから…。」
と言われても何の慰めにもなりません。
0211日本@名無史さん2013/09/25(水) 19:28:01.91
介錯の作法は今でも居合いなどに存在します。
介錯人は一番身近な者がつとめるべきであり身内で介錯する腕がないのは
武家の恥でした。
介錯のタイミングは色々ですが早く楽にしてあげるのが武士の情けとされます。
扇子腹もその一種です。切腹する人は何も知りません。
切腹する人が…
「介錯は…手を伸ばした瞬間…イクから…がんばって…。」
「刀じゃなくて扇子を用意したから…。」
と言われても何の慰めにもなりません。
0212日本@名無史さん2013/10/09(水) 14:04:01.83
腹切り問答
0213日本@名無史さん2013/10/30(水) 09:45:28.25
玉木文之進の介錯は松陰の姉がやったんだよな(当時40歳)。
ちゃんとできたんかな?
0214日本@名無史さん2013/11/16(土) 12:05:59.04
切腹最中
0215日本@名無史さん2014/04/28(月) 23:22:31.08
>>215
面白かったw
これはやってほしいなぁ
豚というのがまた気が利いてる
人体の大きさに似てるからね 0217日本@名無史さん2014/05/20(火) 12:15:06.11
0218日本@名無史さん2014/05/20(火) 15:31:42.02
という名のインチキでした
0219日本@名無史さん2014/06/21(土) 21:24:12.22
0220日本@名無史さん2014/06/24(火) 03:13:46.02
>>184
こらえ性の無い朝鮮人にはらがきれるかよ。 0221日本@名無史さん2014/06/28(土) 06:47:10.83
切腹とは、本来介錯なしの十文字はらだ。
宝治合戦の三浦光村の自害が面白い。
顔を切り刻んで誰だか分からないようにするというのが鎌倉から南北朝にかけて時々ある
貴人を人目にさらさせない(平治の乱の藤原信西がまさにそれ)という伝統と通底する。
ただ顔の皮剥ぐのは郎党にしてみたら忍びないし、逃げ込んだ神域などを汚す罰当たりな行為にもなりかねないので、
遺体をめちゃくちゃにして相手に目を背けさせる=ただでは渡さない
という所が残ったんじゃないかと。だから切腹と言う形式自体が名誉とされれば何も実際に腹にブスッとやる必要はなかったのではないか
0223日本@名無史さん2014/06/28(土) 10:07:34.09
切腹する為には先ず切る腹が無ければ成らない
0224日本@名無史さん2014/06/28(土) 10:18:50.41
>>25 童貞違う元服前元服前;
子供も連座して死ななければならない場合に元服させて一緒に腹を切らせた例もあった 0225日本@名無史さん2014/06/28(土) 10:35:00.60
陰腹(有史以来ユーラシア大陸全域に遍在した諫言に説得力を持たせる為の習慣)
↓
日本に於いては戦死の際に手抜き裏切り寝返り等無かった旨の主君に対する本領安堵アプリケーション化
↓
諫言行為から抗弁行為へ(正式の司法手続き化)
↓
実際面倒な判例あれこれ
↓
殿「手前っ!!儂の顔を建てろーっ!!」
が切腹史概略
日本法制史のテキストに載ってるのかしら
そういう切腹の変遷みたいなやつ
0227日本@名無史さん2014/07/18(金) 12:42:57.95
0228日本@名無史さん2014/10/16(木) 19:36:58.82
0231日本@名無史さん2016/01/21(木) 20:26:03.05
いまだに自分の腹を刃物で刺して自殺を図るバカ男がいるんだな
自分の体を刃物で傷つけ〔られ〕るのがそんなに好きなのか、男どもは
いったい何時代の人間なんだ、こいつら
そういう俺は男だが、自分の腹を刺す〔刺される〕なんて絶対に嫌だね
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 0234日本@名無史さん2016/11/24(木) 03:07:56.99
切腹に使えそうな刃物を入手しやすそうなものからいくつか挙げるとどんなかんじですか?
0235日本@名無史さん2016/12/18(日) 21:26:53.74
昭和45年11月25日(水)
昼12時10分頃、森田必勝と共にバルコニーから総監室に戻った三島由紀夫は、誰に言うともなく「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。
そして益田兼利(ましたかねとし)陸上自衛隊東部方面総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」
と話しかけ、自分の制服のボタンを外した。
三島は、小賀正義が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。
そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、
森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。
割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、
右腕につけていた高級腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。
そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。
左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、
三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。
まだ三島が生きているのを見た小賀正義と古賀浩靖が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、
森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。
介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん(ひろちゃん)頼む」と刀を渡し、
古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。
最後に小賀が、三島の握っていた短刀で首の皮を胴体から切り離した。
その間小川正洋は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。
0236日本@名無史さん2016/12/18(日) 21:28:29.08
続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、
それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。
総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。
3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。
総監が「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。
三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。