>>273
家康の父は、多田嫡流大河内氏だからね。 >>269
安倍晋三の祖先の平貞盛って、平氏系譜に載っていない・・
平氏の誰流? 0283日本@名無史さん2012/07/13(金) 21:25:58.54
0285日本@名無史さん2012/07/13(金) 22:43:28.56
平家政権の元寇対策が見たい。
あ、北条執権は平氏か?
平家は自由貿易推進派だから
戦争自体やらないんじゃないか
0288日本@名無史さん2012/09/23(日) 00:29:58.11
まったく関係ない。
平家の織田信長でも、比叡山、一向一揆の抹殺でも変わらない、神社寺院の既得権かw
現代も日蓮、比叡山、公明、幸福、統一、アーレフらの変態宗教。
0289名無しさん@恐縮です2012/09/25(火) 05:08:14.37
0290日本@名無史さん2012/09/25(火) 07:43:42.48
>>281
荒川義広の子供って家康妹市場姫の子供? 0291日本@名無史さん2012/09/25(火) 19:57:59.88
>>290
市場姫(家康の異母妹)は永禄4年に荒川義広に嫁いだが
永禄6年には夫義広が兄家康を裏切ったため離縁となっている
義広の子は市場姫の子じゃないんじゃなかったか
ちなみに市場姫はその後別の大名と再婚している 0292日本@名無史さん2012/10/23(火) 00:20:05.82
源義兼の年表
1153年、父:源義康、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、母方の祖父(血縁は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、姉(血縁上は叔母):由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖、新田義重が養育)が生まれる(その所縁か、室町時代に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、以仁王挙兵、源義清(矢田義清)、源義長、源義兼は三河国から参戦、義清と義長は源頼政(頼政死後は木曽義仲)と、義兼は源頼朝と行動を共にする
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)と源義長は、水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
0293日本@名無史さん2012/10/23(火) 04:16:16.06
0295日本@名無史さん2012/10/26(金) 19:54:32.69
藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)の年表
1090年、父:藤原季範(三河四郎、季範と三河に住みながら尾張目代)、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる
1101年、父:藤原季兼死去
1114年、神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
1130年、母:松御前三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
1137年、神のお告げで大宮司職を息の範雅に譲る
1140年、夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡)内に蓮華寺建立
1145〜1150年、娘(幼女):由良御前が源義朝の室になる
1147年、娘(養女):由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
1151年、長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
1155年、死去
0296日本@名無史さん2012/10/26(金) 23:22:25.38
藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)の年表
1090年、父:藤原季範(三河四郎、季範と三河に住みながら尾張目代を務める(尾張守は父親の従兄弟の藤原資良))、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる
藤原保相(三河国司、碧海郡志貴荘立券)→藤原資良(尾張国司)
藤原能通→藤原実範(三河国司)→藤原季兼→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)
1101年、父:藤原季兼死去
1114年、神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
1130年、母:松御前、三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
1137年、神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
1140年、夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡)内に蓮華寺建立
1145〜1146年、娘:由良御前が源義朝の室になる
1147年、娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
1150〜1152年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源養康(足利義康)の室になる
1151年、長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
1153年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源義兼(足利義兼)を産む
1155年、死去
0297日本@名無史さん2012/10/27(土) 01:05:10.85
源範頼(蒲冠者、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
藤姓大宮司一族が養育、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1159年、父:源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の息)が養父になる
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追悼軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、安達盛長の娘(吉祥子、母親は丹後内侍)を室に迎える
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
0298日本@名無史さん2012/10/27(土) 16:57:34.42
0299日本@名無史さん2012/10/27(土) 17:00:29.74
源範頼(蒲冠者、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1159年、父:源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
0302日本@名無史さん2013/11/27(水) 03:01:38.27
平家滅亡ざまあ w
盛者必衰・驕れる者久しからず
0303日本@名無史さん2014/07/27(日) 18:58:07.47
頼朝の子孫も3代で絶えたが
0304日本@名無史さん2014/08/02(土) 13:43:56.76
鎌倉殿がいなくても東国で反乱起きて平氏政権が滅亡するのは時間の問題でしょ?
源氏=義朝系だろうが義朝系以外の源氏も東国で元気だしね。
0305日本@名無史さん2014/08/02(土) 13:52:22.10
平重盛
∧,,∧
r( ´n 平清宗
./ > ,/ ∧,,∧
関東武士だあーーーーっ > 〜'oー、_) r( n)
.> `/ く_
逃げろーーーーーーっ! .> 〜'し -一┘
.> ∧,,∧
/∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨\ ( ´・ω)
〜、/ っっ
∧,,∧ └ー-、ぅ
r、´・ω・)) 平宗盛
∧ ,,∧ > _/´
n__n (´・ω・`) 〜'し-一┘
∧,, ∧ノ c' っ 平盛嗣
c('・ω・`)っ 〜(_,'ーo'
平維盛 伊藤景清
0307日本@名無史さん2015/03/12(木) 22:22:36.89
源氏って言っても村上源氏もいるし
0308日本@名無史さん2015/03/13(金) 13:00:09.48
渡辺氏さん、
皇子から臣籍降下して源氏を賜った源融(とおる。光源氏のモデルとも)の孫、源綱が淀川下流域の水運を掌握して盤踞していた渡来系豪族の母方の利権を継承して渡辺を名乗り渡辺綱と号した云々。
の生粋の源氏。
ワタ/ハタは海。ナは国、領域、所領等。ベは民。
=海部族
ああん?源氏の末裔の俺が消えるだろーが。ばーか、ばーか。
0310ナイアルラトホテップ2015/09/20(日) 06:32:37.91
もし、平家が広く人材登用システムを構築出来れば
アジア地域に通商王国を築く事すら可能だったとは思うが
平家じゃなくても人だよ〜 って言っておくべきだったわけだな
現代日本語の「人」とニュアンスが違うからなぁ
時忠「平家じゃなくとも朝廷で取り立てるよ」
とか言っちゃうと、これはこれで反発受けるわけだし
通商が活発になって富が増えて行けば分配に与る者も増えて不満も少なくなるって
吸い上げるばかりだから反乱も起きる訳で、平家の中にも上手く考えてやる奴も出て来るよ
>>313
通商活発化して貿易赤字のリスクはないのか?
また、一旦通商が走り出すと経済が平家の手に負えなくなるかも。
経済支配するのは博多在住の宋商人と
意外と経済に明るい寺院だと思う。 >>314
物々交換のようなもんだから、そもそも貿易赤字というものが存在しないと思う。 >>317
平安末期に通行税だの関税だのがあったっけ? >>317
それから、平安時代に商売を専門にやっている人って日本人にいたっけ?
市はあったけど各個人の直接取引がメインだし
寺社が座の走りみたいなもんをやってたけど
生産者が余剰品を空き時間に売りにくるというレベルだぞ。 >>318
「中間搾取」と言えば理解出来るか?
>>319
実力者が貿易を行っていただろう。
それを商人と呼ぶかは微妙だが、
市で直接取引をしてたとしても、それが本業であるならそれは「商人」と呼ばれる類の者だろう。 >>320
だ、か、ら、
その「中間搾取」が行われた実態が平安末期にあったのか?てこと。
具体例をあげてほしい。 >>320
> >>319
> 市で直接取引をしてたとしても、それが本業であるならそれは「商人」と呼ばれる類の者だろう。
だからその取引すれのが本業な人は平安時代にはいなかったという話をしたんだけど。 関税が無けりゃどうやって平家は食ってたんだよ・・・
まぁローン会社とかもやってたみたいだが。
>>323
おもな収入源は荘園、国司収入、知行国主収入。
それより、平安時代に関税が徴収されていたことを示す史料出してよ。 >>323
ついでにローン会社やってた史料もよろしく。 >>326
このリンクじゃどれみりゃいいのかわかりくにいなあ。
もう少しわかりやすく貼ってくださいまし。 源氏を滅ぼしたとしても跡継ぎが宗盛じゃな…
後鳥羽にいいように操られただろう。
ナムコの源平討魔伝と言う名作ゲームが生まれなかった。