後家人は、従っただろうし、義時の権威を頼朝を完全に超えたのではないだろうか?
0046日本@名無史さん2015/08/27(木) 23:09:02.67
源頼朝と平家が和解していれば、勢力は均衡し、奥州藤原氏も存続する。
甲斐源氏など各地の源氏も独立勢力として残る。
それぞれが朝廷から官位を受けてゆるやかに日本国を形成していったのだろう。
0047日本@名無史さん2015/08/27(木) 23:13:25.49
>>44
その数字は明らかに事実と異なる誇張と見るべきだろう
頼朝が木曽と睨み合った時の兵力差は木曽の3000に対して頼朝は10万だぞ
源氏の大勝利を大げさに書くために源氏を過少、平家を過大に書いてるんだよ 0048日本@名無史さん2015/08/27(木) 23:40:46.94
>>47
わざわざ小細工する必要が『玉葉』側にあると? まあ後白河がなりふり構ってられなかったような状況だからな
工作が存在し、かなり独断的に行われたと仮定すれば、
知らされてない人間は官軍不利を認識するから過大な表現を用いることもあるだろ
玉葉で10万なんて聞いたことないけど官軍1000に関しては合戦直前に書かれたもので合戦後に書かれたものじゃないだろ
兵数や平氏軍の動向についても複数の記述があり、色んな風説が乱れ飛んでたことがうかがえるし
記述のウェイトは平氏が大軍を率いて近日上洛するという緊迫した情勢にあり、その状況の説明として掲げられた兵数に意味があるかという話だな
0051日本@名無史さん2015/08/29(土) 10:35:50.30
それよりさ、信頼が二条天皇を手放さなかったら、歴史はどう変わっていただろう
天皇は地面の上を歩かず筵の上を歩く(筵道という)が
二条天皇が内裏から脱出する時は長い筵がなく、短い筵を2枚用意して
1枚ぶん歩いたらそれを前に持ってきて、という事を繰り返してようやく脱出した
短い筵さえなければ、確かに歴史が変わっていたかも知れん
三条殿を大勢の血で穢したという事績が残る限り必ず糾弾の対象になりそう
信頼はいずれ排除されたんじゃないの
そんなことをしたら執権たる自分の権威の大本の将軍職を任命する人がいなくなるから、結果的に自分の首を絞めることになるだろ
御家人が同意できるのは上皇配流まで。朝廷廃止まではついていけない。
そこまで暴走する北条は御家人からみれば王莽や童卓と映る。南北朝時代と戦国時代が
同時に起こるとんでもないカオスになるだろう。
◆まず中学校レベルの基礎知識を思い出しましょう。鎌倉期の封建社会は鎌倉殿と武士たちの
御恩と奉公の関係で成り立っている。鎌倉殿に所領安堵を受けるために主従関係を結び、
鎌倉殿の家人を「御家人」と呼ぶ。九条頼経と御家人たちは主従関係にある。
得宗家と御家人は主従関係にはない。ここまではわかりますよね。
宮騒動(1146年)宝治合戦(1147年)を経て、北条氏の幕府内の権力が
固まってきますが、北条一門内での得宗家の優位性が確立できず、
摂家将軍を廃した後は皇子を鎌倉殿に迎えます。三浦氏を討滅した後でも、
得宗家は他の御家人たちとは同輩・横の関係であり、これを縦の関係、つまり主従関係にまで
変えるのはまだ政治力不足であったわけです。
ーーー(このあとも活け神解説は続きます。)ーーー
ーーーどうして、北条氏は鎌倉殿になれなかったのですか?−−−
◆御家人たちの身分意識の中では、自分たちの主君とは京都からやってくる軍事貴族で
なければならないのです。戦国時代になると少し事情が変わりますが
鎌倉時代にはまだ平安時代の身分観が残っていたと考えられます。
関東の大豪族たちの主君には源氏もしくはそれと同等以上の家柄でないと彼らは心服できません。
また、4代以降 鎌倉殿は名目上の存在となり、
実力ある者が自分たちの上に来て独裁者になることを忌避したのもあるでしょう。
いずれにせよ、得宗家が自分たちの主君にあるというのはちょっと考えられないことです。
この中世の身分意識は、朝廷(天皇)との血統的な距離を基準にしています。
摂家将軍・皇族将軍はもちろん、先祖の功徳と自らの手腕で鎌倉殿に就いた源頼朝も
例外ではありません。北条氏はこの貴種のハードルを越えられなかった、
と結論付けてよいでしょうね。
――――承久の乱のときに朝廷をつぶせばよかったのでは?――――
◆いい質問ですねえ。日本の身分意識は全て天皇に帰着しますので、こことの関係を
上手く清算できれば、得宗家は東国武士たちの主君になれたかもしれません。
結果論から行くと朝廷をつぶせなかった。そもそも承久の乱と言うのは
後鳥羽上皇周辺の貴族たちが中心で、五摂家や西園寺などの有力貴族・寺社勢力は
これに反対でした。動員された兵力も畿内を中心とする西国御家人で朝廷と幕府の一部不満分子の
決起に留まり、朝廷全体の総力を挙げての討幕戦争ではなかったんですね。
つまり公武の全面戦争・総力戦ではなかったために、北条氏は朝廷勢力の解体が図れませんでした。
国衙領は依然朝廷の支配地であり、一旦没収された長講堂領(上皇領)も返還されています。
得宗専制が確立する霜月騒動以前の鎌倉幕府は有力御家人による合議制で運営され、
北条氏の覇権が完全とは言い切れません。こんな状況で北条氏が朝廷をつぶすなどというのは
難しかったと思われます。
活け神さん、よく解りました。
ということで、スレッドを終了します。
0060日本@名無史さん2015/09/16(水) 12:01:55.76
終了はまだ早い。朝廷はすでに滅んでいたんだよ。
69 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 23:44:10.41
承久の乱が起きる前までの北条家なら確かにそうだろうけど、
承久の乱で 【朝廷を事実上滅ぼした】ことで 北条義時の権威は頼朝に匹敵するくらい絶大なものになった。
その義時や後継者が高い官位を望んでも他の御家人は別に反発なんてしなかったと思うよ。
高い官位なんて欲しくなかったんだろ。
158 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 18:14:40.56
承久の乱で誰がどう考えても【北条義時が朝廷を滅ぼしてしまった】から
以後形式はともかく実質は得宗家(義時の後継者)が天下人になってしまった。
義時はそこまで考えてなかったろうね。
>朝廷はすでに滅んでいたんだよ。
滅んでいたということなので、スレッドを終了します。
0062日本@名無史さん2015/09/16(水) 14:11:46.68
予想通りのレスだな、この童貞野郎。これでも読みやがれ、えいっ!
714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712
承久の乱の過小評価だ、あんたは。
承久の乱は【朝廷が武力で滅ぼされた】というのが客観的事象だ。
武力で圧倒されて上皇や天皇が全員配流されたというのは朝廷の滅亡と評価するしかない事象だ。
781 :日本@名無史さん:2014/10/17(金) 11:37:17.92
組織が一丸となってなければ倒されたことにならないとか理解できない理屈だな。
治天の君という朝廷の最高責任者が反対者を拘束してまで行った戦いの結果は
組織に帰属すると考えるのが常識だろ。
だからこそ反対者も居たわけで。
【朝廷が実質的に滅んだ】ことを認めたくないからそんな理解不能な理屈を
展開しているのか?
714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 0065日本@名無史さん2015/09/24(木) 22:47:16.83
朝廷は滅んでいない
0066日本@名無史さん2015/11/22(日) 18:40:10.71
承久の乱も、農業団体の反乱みたいなもんだからな。
自分の農地の権利が確認できれば、あとはどうでもよかったんだろ。
0068日本@名無史さん2015/11/24(火) 19:53:58.56
承久の変態
0070日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:33:52.64
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
U4BN5
0071日本@名無史さん2018/05/08(火) 00:01:00.45
織田信長なんか小物
北条義時こそ大魔王
北条オタが一斉蜂起しだしたwwwwwww
なんで北条スレを一斉にアゲてんだよwwww
0073日本@名無史さん2018/05/08(火) 00:14:48.75
ただ北条一族というのは徳川一族や足利一族や藤原一族より異質すぎる。
やはり承久の乱が影響してるのかな
0075日本@名無史さん2018/07/12(木) 15:46:32.09
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
BJG
0079日本@名無史さん2019/02/08(金) 18:53:11.58
0080日本@名無史さん2019/04/08(月) 13:06:59.09
2冊読了。
院政スレに書いた「上皇の日本史」と同じ傾向があるようで、
坂井本は、「承久の乱」の経過説明、
本郷本は、「承久の乱」論。
0081日本@名無史さん2019/04/08(月) 16:34:29.62
むしろ欧米の日本史好きからは、
徳川家康が豊臣を滅ぼした後に大軍で京都に攻め込んで、天皇を滅ぼすor
家康自身が天皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか?ということに
興味を惹かれるらしい
ナポレオンがヨーロッパを制圧した後に大軍でローマに攻め込んで、教皇を滅ぼすor
ナポレオン自身が教皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか?
0083日本@名無史さん2019/04/08(月) 20:53:25.75
ローマ教皇は宗教的権威だろ
日本で言えば出雲大社神主みたいなものだ
日本国王(倭国王)である天皇とは性格が違う
0084日本@名無史さん2019/04/08(月) 20:55:44.03
関東地方を制した平将門が新皇と名乗った
日本史ではイレギュラーなことだが、世界史ではこっちのほうが自然なのだろう
天皇観は日本独特なもので面白いと思うね
0085日本@名無史さん2019/04/15(月) 20:53:37.14
北条義時が平将門を真似て天皇(新皇)になったら、
三浦足利千葉宇都宮など有力御家人が従わないだろう
北条は関東御家人の中でも家柄が低いから鎌倉殿になれなかった。
鎌倉殿になれなかったからついぞ将軍になれなかった。
将軍にスラなれない北条が皇位につくなど無理
大体 「朝廷を滅ぼす」の意味がワカラン。北条オタの>1は承久の乱を勘違いしている。
承久の乱は後鳥羽一派のフライングであって、朝廷総体は動かなかった。だから、御家人は義時に味方した。
貴族・寺社・非御家人全部に対する殲滅戦に付き合う御家人などいない。御家人はつねに損得勘定で動く。
承久の乱は北条についたほうが自分らに利益があると判断しただけ。
>>86
例え朝廷総意の北条義時追討であっても承久の乱時点では
もう東国御家人は朝廷側には付かないよ
和田合戦の勝利で義時の権力が確立する以前に追討すべきだったな 0088日本@名無史さん2019/08/28(水) 03:43:51.26
天皇ぶっ殺せ
0089日本@名無史さん2019/08/29(木) 04:18:42.31
てんころ死ね
0090日本@名無史さん2019/08/30(金) 04:11:40.06
朝廷滅ぼせ
0091日本@名無史さん2019/09/03(火) 03:08:44.28
?
0092日本@名無史さん2020/05/01(金) 21:35:51.22
天皇方についた武士は所領を没収されたと習ったけど、
それって、何かの台帳に登録された名前を削除したの?
削除する権限は幕府方にあるの?
0093日本@名無史さん2020/08/03(月) 17:10:16.60
勤行がなかなか出来ない人はまず題目をあげなさい
0094日本@名無史さん2020/09/02(水) 17:40:39.50
安倍ちょんは非国民
0095日本@名無史さん2020/09/19(土) 16:21:40.36
売国奴の安倍チョン辞任
0096日本@名無史さん2020/10/28(水) 11:40:02.63