真田丸面白いよね。
なんで北条家は本当に東国の覇者になれなかったのか。
家康の江戸開発に匹敵する事業をやる余裕も時間もあったのに。
北条家が家康より前に東国経営に成功していち早く強力な小田原政権を作ることができれば織田や豊臣とも対等にやり合う可能性はあったと思う。
関東平野の可能性は後北条時代も徳川最初期もそれほど変わらなかったはず。
真田丸で小田原攻めが終わるまでに答えを探そう
0042日本@名無史さん2016/03/05(土) 22:24:18.93
三河厨まだいたのか
0043日本@名無史さん2016/03/06(日) 11:37:54.95
北条って真田史観ではとんでもない悪役に描かれてるけど、実際はどうなの?
今後大河の主役張れるような逸話とかないの。
>>43
武田・上杉・今川・織田・豊臣・徳川という
大河等でも有名なスター大名総登場で、
佐竹・里見という有名ではないが渋いライバルもいる
のぼうの城も映画になったし、
伊達政宗や真田親子、石田三成、大谷吉継らも特別出演
最弱戦国武将や日本史上唯一の本物の女公方様も登場
初期の国盗り物語、
中期の強豪戦国大名としての攻防、
末期の滅亡にいたる道のり
他にも善政やら忍者やらいろいろある
でも大河にするなら1年で三部作にするしかないな 0045日本@名無史さん2016/03/06(日) 20:32:27.38
コント要員
0046日本@名無史さん2016/03/06(日) 23:02:01.66
前田利家は嫡子の利長を居間に呼んで密かにこう言った。
「北条の子孫を集めておけ」
関東の者は義理堅い、と利家は言う。
小田原北条氏にゆかりの者を見つけだし予め召し抱えておき
家康と事を構える事になれば北条の子孫を表に立てて家康の領地で旗を挙げさせる。
「さすればたちまち関八州は味方になろう」
利家はそんな事まで計画していた。
こんな不気味な事をされてはたまらない。家康は心中深く利家を恨んだ。
(『殿様の通信簿』磯田道史・岡山県出身の歴史学者)
0047日本@名無史さん2016/03/06(日) 23:31:10.35
秀吉の九州征伐の時に東国大名と連合組んで京に攻め入らなかったのが滅亡の原因
0049日本@名無史さん2016/03/09(水) 16:17:32.06
>>48
そのシナリオいいね。いっその事徳川や織田信雄も絡めてほしいわ 0050日本@名無史さん2016/03/09(水) 17:17:12.72
寺なw
0051日本@名無史さん2016/03/09(水) 21:00:51.38
真田丸にコント要員じゃない人はいません><
>>48
北条氏も元をたどれば京都にルーツがあるからね
まぁ日本人なんか上から平民まで大体そうだけど昔はどこかで崇める気持ちがあったんじゃないの >>52
源氏や平氏といった武士は皇族の子孫だからっていうのがあるけど
実際は京都にルーツが無い人も多いけどな
古代から日本全国に人がいるわけで 後北条氏時代の関東は税金が安かったというのはちょっと有名なエピソード
0055日本@名無史さん2016/03/11(金) 00:02:45.69
小牧長久手あたりで北条が本気で徳川方に付いて豊臣を滅多打ちにして徳川を飲み込んで織田を奉じて上洛したら豊臣政権の地盤も怪しかったのではとも思う。
>>53
古代なんて数万人しかいなかったわけだから今はほぼ全てのルーツは京都か奈良に辿り着くでしょう
まぁ古代に最大だった東北は百済王俊哲や坂上氏などの渡来人集団が送り込まれて拓けたからもはやルーツは・・・だが >>56
日本の人口は奈良時代には既に500万人くらいで
弥生時代でも数百万人くらいと推計されているな
大和王権なり日本の朝廷から京都や畿内以外に人が派遣され始めた時期や
そういう事以外でも移住した人も少なくない時期になった時には
既に京都や畿内以外に何百万人も人がいたよ
歴史的にも畿内から来た人と地元の豪族で云々って話もあるな
あと関東も高麗の王族や移民が来る前に
既にそれなりに人が多かった
関東平野は大和王権成立前でも比率的に日本の中で人口が結構多いし
その頃からいた家系の人も多いと思われる
京都からに限らず移住者も多いが
そして関東でも関東以外でもだけど
京都や畿内から来た家系の人もそれなりにいるけど
そうじゃない家系の人もそれなりにいるよ
移住も様々な所から別の様々な所へ移住した人も多いな >>56
失敬、古代の話は縄文時代が終わったときに関東には7千人だったって話ね
確かに全国では弥生時代は60万人ぐらいで奈良時代前後は400〜500万人ぐらいいたね(関東は70万人、近畿は90万人)
その後の500年間で関東は70万人から160万人に激増したが、近畿は90万人から120万人だった
最も豊かだった近畿でそれなのは史実として確認できるように近畿勢力が猛威をふるって各地を平定、統治(左遷含む)していたからだろう
関東が70万人から現在の4200万人になる過程で近畿のDNAが一滴もない謹慎交配のみしか行わなかった隔離村民は流石に皆無と思われるが 0060日本@名無史さん2016/03/11(金) 19:22:28.78
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
>>47
もともと前田と池田は信長の悪友仲間。
加えて他藩士との婚姻を禁じていた加賀藩が特例として池田家臣のさるお家と
自藩のさるお家の婚礼は認めていたという事例もある。
別に無理ということもなかろうに。 0062日本@名無史さん2016/03/19(土) 22:09:26.01
氏康がな…
あと10年か20年長生きしてくれれば天下の半分は取れたものを。
0063日本@名無史さん2016/03/20(日) 02:06:26.61
人材がいないから長続きしない
0065日本@名無史さん2016/03/20(日) 09:49:56.93
三河の王なんだから強いに決まっているだろ、強いのは三河であって徳川ではない
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国碧海郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
>>62
当時天下取る気でいた大名って信長の他にいたかね?
そもそも北条の目指していたものは何かね? 0067日本@名無史さん2016/03/20(日) 12:05:01.75
関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候(甲陽軍鑑)
天下取るチャンスが
今川滅亡、信長横死、秀吉九州征伐で大阪留守、の3度あったのに全部フイにした
0069日本@名無史さん2016/03/22(火) 19:03:44.89
源頼朝は系図でみれば三河臭がプンプンするよね
何で必死になって触れたがらないんだろうか?
しかも岡崎と言えば、家康とやらだし
何か都合でも悪いのか?
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→三河季兼(藤原季兼、三河四郎大夫)→額田季範(藤原季範、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
天下取るって意味がよく解らんけど
大内義興みたいに上洛して天下に号令するということか?
残念ながら擁立する将軍も大儀もない北条には不可能
0071日本@名無史さん2016/03/22(火) 22:07:52.30
東武士は大方強敵どもなり
筑紫の奥は奥州衆により申候
上方の弓矢すえになりたる国ども、(中略)五畿内中国の町人に相似たる侍ども、(中略)弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり、足軽上手なれば
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
三河国、日本六十余州にて、人のかぞゆる侍の、武篇かせぐ国なれば
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
北条がもし徳川より先に豊臣に下っていたら、徳川幕府は江戸ではありえないだろうな。小田原北条も伊達みたいに延命して、土木技術が進んで関東平野を有していた北条の方が徳川より強くなって、日本の歴史は変わっていただろう。
0074日本@名無史さん2016/05/31(火) 12:03:33.61
氏政は氏康の代より滅茶苦茶拡大してるけど
それでも近畿を抑えた信長や秀吉の大勢力には全然敵わない
関東平野抑えれば勝てるというのがまず幻想
家康と違って懐に入り込んで切り崩すような外交ができなかった
0075日本@名無史さん2016/05/31(火) 20:49:18.20
北条は群雄として土地は大きいが、
権威では朝廷抑えた豊臣にどうやっても勝てない。
秀吉が関白とかになる前に、
京から親王様を迎えて鎌倉殿とし、
小田原北条が執権を名乗ればよかった。
後南朝の出羽王が小田原に来ていた時もあったようだが、
追い出さずに、素直に鎌倉殿として抱えておけばよかった北条氏。
0076日本@名無史さん2016/06/02(木) 02:40:42.04
>>70 大儀は戦乱の世を終わらせたいで良いのでは >>75
それいいね、執権になれたら徳川も文句言えないし。 0078日本@名無史さん2016/06/03(金) 11:25:20.18
源氏と豊臣、
北条と徳川は位置関係が似てるかもしれない。
徳川さん「上野宮殿を設置し、ワシは徳宗家を名乗ろうかのぉ・・」
北条って馬鹿だろ。
おとなしく秀吉に臣従しとけば史実の家康の地位にいれたものを。
臣従してれば徳川幕府の代わりに北条幕府ができてたのにな。
>>82
それは無い。戦国時代が50年伸びてただけ。 北条は小牧長久手の時家康側について戦ってれば生き残れてた
北条領は広すぎたのと生産性が良すぎたから徳川に狙われた。
初めから徳川が領有する目的で秀吉を操って、小田原征伐を仕掛けたのは徳川だから。
アカン北条がもうすぐ滅ぼされてしまうw
北条はさっさと徳川と組んで豊臣と対等な東国中心の政府を作ってれば良かった。
徳川と組んだのが間違いだったんだろ。
小牧・長久手の時期にも秀吉と組んで徳川を挟撃しておいて、秀吉が西日本を平らげた後に、
秀吉に臣従してれば、秀吉が亡くなった後に安々と天下が転がり込んだろうに。
ナグルミ陥落後、真田の動き次第では北条と上杉と真田の連合が出来たかもしれん。そこに伊達と徳川が加われば秀吉も東国制圧を諦めただろ
そんなことをしたら、各個撃破されるだけだよ。
で、最後に降ったのは悲惨なことになる。
だから、史実のように我先にと下った。
まあ、簡単に裏切ったら下った後の待遇にも影響するから、それとの兼ね合いな。
重要なのはいついつのタイミングで同盟者を裏切って秀吉につくかってだけ。
北条は完全に失敗した。
0090日本@名無史さん2016/12/25(日) 04:38:24.16
天正壬午の乱で大敗したのが弱すぎる
0091日本@名無史さん2016/12/25(日) 16:17:36.13
0092日本@名無史さん2017/03/28(火) 21:24:27.11
【速報】何でも鑑定団で北条氏政の書状が本物と判明!
ただそれだけですけどね