哲学者なら山の中腹で鶏飼って生活すべき

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0001しゅらけん ◆YvYjZ/LW52 2020/08/05(水) 21:23:49.870
欲望は長い目でみれば
人を不幸にしかしない

0624考える名無しさん2020/10/16(金) 12:55:05.930
「日本語の論理」とは、よく理解できない中国語の表現に接した人々が、
発音を頼りに、そこに表現されているものと類推した情(こころ)の様態を、
表現の必要に応じて折り合いをつけながら様々に曲用する可能性を追求した
結果として形成されてきた体系性である。

したがって、逆に、「日本語の論理」がどのような表現を可能にしているのか
を追い求めていくなら、そこに現れてくることになるのは、ひと(人)の言葉が
伝えようとしているものと類推される情(こころ)であり、日本語を母語とする者が、
日本語の表現の情(こころ)をより深く理解しようと努めることは、そのまま、
日本語を通してコモンセンスを追求しようと試み続ける哲学の歩みとなるのであり、
仮にそうならないとすれば、「日本語の論理」と呼べるようなものではない、
何かまったく別の決まりごとに固執して囚われていることの証左となるだろう。

0625てのひら/あしのうら(>>620-621)2020/10/17(土) 10:35:56.130
Handinneres

Inneres der Hand. Sohle, die nicht mehr geht
als auf Gefühl. Die sich nach oben hält
im Spiegel
himmlische Straßen empfängt, die selber
wandelnden.
Die gelernt hat, auf Wasser zu gehn,
wenn sie schöpft,
die auf den Brunnen geht,
aller Wege Verwandlerin.
Die auftritt in anderen Händen,
die ihresgleichen
zur Landschaft macht:
wandert und ankommt in ihnen,
sie anfüllt mit Ankunft.

Rainer Maria Rilke, 1924 (Die Gedichte 1922 bis 1926)

0626役に立つ論理国語2020/10/17(土) 10:42:27.470
論理国語が教へられるとするなら、その教へはつねに、
他者の言葉を自らのもとして理解するのに役に立つのかどうかという点において
評価されるべきだろう

0627考える名無しさん2020/10/17(土) 11:08:47.230
>>625
無論、ここで留意すべきは、リルケが、"Handfläche"ではなく、
"Handinneres/Inneres der Hand"という表現を用いていることだ。

0628考える名無しさん2020/10/17(土) 14:12:20.690
ノーベル文学賞候補 山にニートを捨てるデツ!!!

0629考える名無しさん2020/10/18(日) 12:05:36.340
哲学がをし(教)へるのは、習慣的に折り目正しく折れることではなく、
絶えず折り合いをつけようとすることを学んで身につけることである。

0630考える名無しさん2020/10/19(月) 13:34:57.980
「日本語の論理」を明確に言語化しようとすること(メタ言語において記述しようとすること)が、
どのようにして、そのままコモンセンスを追求することにもなるのかを具体例から見てみよう。

上に引用したリルケの詩における"Handinneres/Inneres der Hand"という表現を
日本語に翻訳すると、それはどのような表現になるだろうか。無論、それを単に
「手のひら」と訳しても、この詩を誤読することにはならないだろう。しかし、
「手のひら」では、明らかにリルケの表現の情(こころ)を反映していない。
というのも、リルケは、"Handinneres/Inneres der Hand"を明示的に
"Sohle(足のうら)"になぞらへているからである。

>Inneres der Hand. Sohle, die nicht mehr geht
>als auf Gefühl.

しかし、現代の日本語では、「手のうら」という表現は通用しない。それでも、
「手のひら」の代替として「掌(たなごころ)」という表現がすぐに思い浮かぶはずである。

0631考える名無しさん2020/10/19(月) 13:52:34.290
ここで、「たなごころ(掌)」とは、どのような「日本語の論理」による表現であるかを
考えてみると、「たなごころ」は、「た・な・こころ」と分解されることが分かる。
ここで、「た」は、もちろん、「手(た)」を表しているという解釈が直ちに生じるが、
既に指摘したとおり、そのように限定する必要はなく、「た」≒「(手が当たるような)接触の感覚」
と理解することもできる。「な」は、現代語の「の」に相当するが、別の機会に説明した
とおり、万葉仮名では、「の」と「な」は「乃」と表記されることが多く、「乃」は、
その発音においても、漢語としての漢字の用法においても「汝(な)」の意味で用いられて
いたことから、この「の/な」は、もともとは、英語の"accompanying"に相当するような
ニュアンスで用いられていたのだろうと私は推測している。「こころ」は、言うまでもなく、
「おも(面/思)ひ」を映す「心」と同一であり、「映す面」でありながら、
表面からは見えないことから、「うら(裏)」とも呼ばれる。実際、古語では、
「たなごころ」の代替として用いられる表現として「た・な・うら」が存在して
いたことが岩波古語辞典にも記載されている。

0632考える名無しさん2020/10/19(月) 14:00:11.020
さて、ここでリルケの詩の表現に戻ってみよう。

>Inneres der Hand. Sohle, die nicht mehr geht
>als auf Gefühl. Die sich nach oben hält
>im Spiegel

すると、「日本語の論理」による「た・な・ごころ」という表現が、
そのまま、見事にリルケの"Handinneres/Inneres der Hand"に対応している
ことが見て取れるはずである。このように、他者の言葉に現れていると
推察される「情(こころ)」と自らの用いる表現との対応を見出そうとすることが、
コモンセンスの追求に他ならないのである。

0633考える名無しさん2020/10/22(木) 20:23:11.480
https://youtu.be/0oGL7KBDEGI
日本の猟師の害獣駆除動画
殺し方が野蛮すぎへん?

0634考える名無しさん2020/10/23(金) 23:29:32.990
>>625
「『風は気、俗は習なり。土地の水泉、気に緩急あり、声に高下あり。これを風と謂ふ。
人、この地に居るや、習ひ以つて性を成す。これを俗と謂う。』
 つまり「風俗」とは、地域の環境(気)を意味する「風」と、その土地に根ざす
人の文化(習)を意味する「俗」を組み合わせた言葉である。そして
『明王の化(おもぶけ)、まさに風を移してこれを雅(みや)ばしめ、俗を易(か)へて
これを正しむるべし』と説くように、明君は、教化によって環境(風)を優雅なものに
移し、人の文化(俗)を変えてこれを正しいものに導くべきだとされていた。
これを「移風易俗」という。」 田中史生、『渡来人と帰化人』、p.224

『明王の化(おもぶけ)...』の解説を、ここに引用したままではなく、
「日本語の論理」によって解釈しなおすと、リルケの詩と「移風易俗」が
表現の論理において極めてよく似ていることに気づく。

0635考える名無しさん2020/10/23(金) 23:58:27.390
「化(おもぶけ)」は、聞きなれない言葉だが、岩波古語辞典では、「教化服従させる」
ことを意味するものとし、「オモムケの子音交替形」と説明している。そして、
「面向け(おもむけ)」は、「相手の面(おもて)を、こちらの意中の方へ向けさせる意」
とされる。ただし、私には、「おもむけ」⇒「おもぶけ」という変化はありそうにない
ように思われるので、いずれかが変化によって生じたとするなら、
「おもぶけ」⇒「おもむけ」の方向だろうと思う。さらに、「おも(面)-ぶ・け」の
「ぶ」は、「おも(面/思)ふ」の「ふ」がそうであるように、やはり、再帰形を
形成する「ふ」だろうと考える。実際、この「明王の化(おもぶけ)」という
表現においても、明君が「相手のおも(面)を自らに向けさせる」という意味と
なっている。また、その結果、生じるのは、「た・な・ごころ(掌)」を合せる
場合のように、"face‐to‐face(面と向かった)"状態である。

0636考える名無しさん2020/10/24(土) 00:19:42.840
次に、「風を移してこれを雅(みや)ばしめ」であるが、「うつ(移)す」は、
ドイツ語にするなら、"versetzen"、英語なら、"transfer"と訳されることになるだろうが、
既に別の機会に繰り返し指摘してきたとおり、「うつ(移/映/写)す」の「う」は、
中国語で「肤(膚)ピンインfū」となった表現の流用であると考えられ、
英語の"surface"に相当して、全体としては、「表面につ(付)くようにする」ことを
表現しているものと解釈できる。つまりは、「風を移して」とは、明君の宮廷の
「風」が相手の「面」に「うつ(移/映/写)る」ようにすることである。その結果、
相手の「面」に「反映される」ことになった「風」も「みや(宮/雅)び」なもの
となる。実際、ここで、「雅(みや)ばしめ」という表現における「みやぶ」も、
「みや(宮)ぶ」という再帰形である。

0637考える名無しさん2020/10/24(土) 00:26:32.520
「俗を易(か)へて 」の「か・ふ」については、>>605-607で既に説明したので
繰り返さない。以上の解釈を「『風は気、俗は習なり。...』」という説明
と合わせると、視点や文脈は異なるものの、リルケの詩と「移風易俗」が
表現の論理において互いにとてもよく似ていることに気づくだろう。

0638考える名無しさん2020/10/24(土) 00:46:34.070
>>637
この場合の「易(か)ふ」は、英語にすれば、"switch"に対応するようなイメージに
なるだろうことだけ付け加えておく。

0639考える名無しさん2020/10/24(土) 08:44:42.000
>「おも(面)-ぶ・け」の「ぶ」は、「おも(面/思)ふ」の「ふ」がそうであるように、
やはり、再帰形を形成する「ふ」だろうと考える。

例えば、英語をメタ言語として用いて、どのような表現を対応させれば、
意味が通るようになるのかを試行錯誤してみることは大切である。

「おもふ」は、岩波古語辞典では、「面(おも)・覆(おおふ)」と解釈されている。
これについて、私は、この場合に「覆」という漢字を当てはめることは適切であるものの、
この「覆」、「おおふ」ではなく、「くつがへす≒"turn"」という意味で用いられている
と考えるべきであることを指摘した。「面(おも)・覆(ひ)≒turning of the face」を
「う・つ・す≒be attached on the surface」方の面が、表(おもて)からは
見えない「うら≒reverse side/こころ」ということになる。すると、
これを応用して、「明王の化(おもぶけ)」という表現における「化(おもぶけ)」は、
「おも(面)-ぶ(覆)・け」と見なして、「おも・ふ・け」≒"getting the face turned"
とする解釈が可能となる。

「雅(みや)ばしめ」は、「みや」が「宮」であることが明白であるので、
「みや(宮)ぶ+す」と分解すると、これも以前から指摘しているとおり、
「す」≒"letting"と理解できるので、「みや・ば・す」≒"letting 〜 turn courteous"
ということになるだろう。

0640考える名無しさん2020/10/24(土) 08:52:32.150
誤:「う・つ・す≒be attached on the surface」方の面が
正:「う・つ・す≒letting attached on the surface」方の面が

0641考える名無しさん2020/10/24(土) 10:14:24.210
「明王の化(おもぶけ)」の作用をそのようなものと理解し、さらに、明君が、
地上において天の光をうつ(映)してかがや(輝)く光源としての大きな鏡のような
存在であると見なされるなら、その周辺において鏡を与えられて所持することは、
「化(おもぶけ)/面向け」により「みや(雅/宮)び」な「おも(面)かげ≒"image"」
を「うつ(映/移/写)す」べき存在、すなわち、宮廷を反映する鏡像となるべき
存在となったことを意味するだろう。また、そのような関係において、古語で
「はづかし」≒「端(は)につかせる」という表現が、「立派である」ことを、
どのようにイメージさせたのかを理解することも容易となる。

0642考える名無しさん2020/10/24(土) 10:45:15.490
銅鐸から鏡へ

かみ(神)という言葉が、かめ(甕)、かも(醸)す、か(醸)む、かま(窯/釜)、さらには
かめ(亀)などと同様に、内側で反射するような作用を表す表現であることは、
既に指摘した。そのように考えると、本来は金色に光り輝いて、音を出す鐘(かね)
のようなものであったらしい銅鐸は、その形からしても、かめ(甕)やかま(窯/釜)
のように内部空間の反射を感じさせ、その見た目においてかみ(神)の作用を
象徴/代表するとともに、かみ(神)のね(音)を鳴り響かせていたのだろう(欧州の
教会の鐘を想起してみるといい)。それでも、銅鐸は、おそらく技術的な限界の
ために寺の鐘などと比べてはるかに小さく、それほどまでに威厳を放つような
音を響かせることはできず、見た目では、鏡のように光を強く反射させるもの
ではなく、そのすぐ近くに集まった人々にしか効果を発揮しなかっただろうから、
光を強く反射する大きな鏡を手に入れることが可能となるとともに、用済みと
なったのではないか。

0643考える名無しさん2020/10/24(土) 11:18:48.440
同様の基準に基づいて競合している場合、比較優位を失った側はあっという間に廃れる。

0644考える名無しさん2020/10/25(日) 15:35:02.230
>>635
「化(おもぶけ)」という表現について少し考えてみたが、
「おも(面)ぶけ」という表現は使われなくなり、「おも(面)む(向)け」や、
そこから派生する表現だけが残った、つまり、「おもぶけ」は、「おもむけ」に
「吸収される」ことになったものの、この2つは、本来、別の表現だっただろうと思う。
というのは、「おもぶけ」の「ふ」は、中国語の「复(復)ピンインfù」となった
表現の流用であるのに対し、「む(向)け」の「む」は、単なる発音の変化ではなく、
別の語源の表現を利用したものであると考えられるからだ。日本語において、
「〜ふ」として流用されることになった表現は、例えば、スペイン語の"volver"
という表現の用法を参考にすると理解しやすい。「おもぶけ(化)」という表現に
関わっているのは、任意の方向に顔を向けさせるということではなく、
フランス語を用いるなら、"volte-face"をもたらすことであり、「おもぶけ」
という日本語の表現と直接に対応しているわけではないが、それに当てられて
いる「化」という漢字も"turn into 〜"という表現であり、この漢字の
構成要素である「人」と「𠤎」は、互いを反転させた関係にあるものとされる。
https://en.wiktionary.org/wiki/
>Ideogrammic compound (會意) of two 人 (“person”), one upright (亻) and
one upside down (𠤎) — reversal

0645考える名無しさん2020/10/25(日) 15:43:22.580
この場合、「おもぶけ(化)/おも(面)ぶけ」によってもたらされる"face-to-face"
によって反転した「鏡面映像」≒"mirror image"が映し出されるものと考えてみると面白い。
ところが、表から見れば、反映しているのは「鏡面映像」だが、「こころ(心)」は、
それを「うら(裏/心)」に映し出すものとされるので、反転の反転で元に戻ることになる。

0646考える名無しさん2020/10/25(日) 18:49:30.560
【米山隆一氏】日本はヒトラー時代のドイツになりつつある…「本気で危惧すべき」 ★6 
1首都圏の虎 ★2020/10/25(日) 14:54:40.58ID:DY9XE/+39
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603611043/



234名無しさん@恐縮です2020/10/24(土) 23:05:16.07ID:enIxjqh10
米山隆一氏 日本はヒトラー時代のドイツになりつつある…「本気で危惧すべき」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8361bacecb0e0b426ed02f46bac8ceedf6fd9d1c
 

0647考える名無しさん2020/10/26(月) 13:58:24.940
https://ja.wikipedia.org/wiki/涅槃
>原語のサンスクリット語: nirvāṇa(ニルヴァーナ、巴: nibbāna)とは「消えた」という意味である。
「涅槃」はこれらの原語の音写である。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、
涅槃那、涅隸槃那などがある。<

涅槃は、ニルヴァーナの音写であるとされるが、音写であるからといって、
ニルヴァーナという表現によって想起されるイメージを無視して漢字を当てているわけではない。
ニルヴァーナの「ニ」の発音に「涅/泥」が当てられているが、この「ニ」は、
サンスクリット語の「निस् (nis, “out”)」に由来し、さらに遡ると、「 नि (ní)
(down, back)」由来するとされ、印欧祖語においてドイツ語の"nieder"や
英語の"beneath"と語根を共有するものと考えられている。

ところで、日本語の「ねっとり」、「ね(根)」、「ね(寝)」、「ねば(粘)る」などに
おいて「持続的で密接な接触」をイメージさせるように用いられる「ね」は、
中国語の「涅/泥」や、「寧」、「粘」などの表現が想起させるイメージと
発音の関連を流用したものと推測することができる。すると、印欧語族の間で
想定されている、サンスクリット語の「 नि (ní)(down, back)」やドイツ語の
"nieder"、英語の"beneath"などの間の歴史言語学上の関係がどうであれ、
日本語、中国語、印欧語族の諸語の間で、類似した発音が、類似したイメージを
想起させるように用いられていることになるだろう。

0648考える名無しさん2020/10/26(月) 19:43:22.150
まだまだ甘い、その程度の捉え方では一般の学術無能から
完全否定される、オカルトとレッテルが貼られるだけ。
もっと主観的な捉え方を捨てろ。

0649考える名無しさん2020/10/26(月) 21:18:28.600
オカルト?何が隠れているのか?
中国語自体が印欧諸語その他の表現を利用することによって
形成されたピジン言語から発展したとか、そういうこと?

0650考える名無しさん2020/10/26(月) 21:47:32.760
オカルトと言えば、語源は、この辺り
https://en.wiktionary.org/wiki/cover
>Middle English helen, (over)helen, (for)helen (“to cover, conceal”)
とも関係していると考えられているようだが、併記される以下の記述
>Displaced native Middle English thecchen and bethecchen (“to cover”) (from Old English þeccan, beþeccan (“to cover”))
Etymology
From Proto-Germanic *þakjaną, from *þaką (“covering, roof”)
と中国語の「蓋」を比べて見れば、「カバー」としてのイメージは似ているんだよね。https://en.wiktionary.org/wiki/
Phono-semantic compound (形聲, OC *kaːbs, *kaːb, *ɡaːb):
semantic 艸 (“grass”) + phonetic 盍 (OC *ɡaːb) — a thatch.

0651考える名無しさん2020/10/26(月) 22:08:23.540
語呂合わせで「『cover/カバー』を『かぶる』」とか覚えやすいのだから、
そういう類似は、語学学習でも利用した方がいい。

0652考える名無しさん2020/10/27(火) 22:07:27.400
>>650
例えば、学校で古文を習うとき、教科書にまず間違いなく出てくるのが
「田子の浦ゆ〜」だが、この「ゆ」は、中国語の「由 ピンインyóu」となった
表現をそのまま流用したものだろう。

ところが、この「由 ピンインyóu」の想定される古い中国語の発音を
確認してみると、想定される印欧祖語の「*lēw-」と発音もそれによって
想起されるイメージもとても近いことが分かる。
https://en.wiktionary.org/wiki/
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*l[u]/
(Zhengzhang): /*lɯw/

https://en.wiktionary.org/wiki/lewd
from Proto-Germanic *lēwijaną (“to betray”), from *lēwą (“an opportunity, cause”),
from Proto-Indo-European *lēw- (“to leave”).
Cognate with [...] Gothic 𐌻𐌴𐍅 (lēw, “an opportunity, cause”).
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lē;wą
From Proto-Indo-European *leh₁w- (“to let [go]”).

0653考える名無しさん2020/10/27(火) 22:11:24.570
本当に不都合なのは、どうやっても隠しようもない日本語と中国語の関係が論じられることではなく、
印欧諸語と中国語の関係が論じられることではないのか、という疑念が生じる。

0654考える名無しさん2020/10/27(火) 22:26:11.790
誤:想起されるイメージも
正:想起されるイメージとも

0655考える名無しさん2020/10/27(火) 22:35:37.660
>*lēw- (“to leave”)
「ゆ(往/行/逝)く」
>lēw, “an opportunity, cause”
「ゆゑ(故)」
>*leh₁w- (“to let [go]”)
「ゆる(赦/許)す」、「ゆる(緩)める」

0656考える名無しさん2020/10/27(火) 22:52:31.840
このように日本語と印欧諸語の間でも、類似した発音が類似したイメージを想起させるように
用いられている例を、容易に数多く見出すことができるが、その一方で、日本語と朝鮮語の
間では、中国語とも共通している場合を除いて、類似した発音によって想起されるイメージは、
大抵、大きく異なっている。岩波古語辞典には、朝鮮語と同根と断定的に記述される表現が
多数、記載されているものの、それらの記述は、ほぼ例外なく、イメージを想起させるための
発音の利用という点で操作性を完全に欠いている。

0657考える名無しさん2020/10/28(水) 09:14:50.500
日本語と中国語の関係について論じるずっと前から、私は、日本語の「ゆ」
の用法をメタ言語的に記述するために、この日本語の発音が、英語で言えば、
"loose"に相当するような様態のイメージを想起させるように用いられている
ことを指摘してきた。"loose"の語源的解釈を検索してみると、次のように
記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/loose
>from Proto-Germanic *lausaz, whence also -less, leasing;
from Proto-Indo-European *lewH-, *lū- (“to untie, set free, separate”)

これはすぐ上のレスで引用した「Indo-European *leh₁w- (“to let [go]”)」
と発音、想起させるイメージの両方においてとても近く、想定される印欧祖語
を再構築してみようとする「試み」としての技術的な手続きそのものの
本来的な不確定性から考えれば、こうした祖語の要素を細かく厳密に区別しよう
とすることの有効性を不確かなものとし、厳密な系統関係が確立できると想定
すること自体を危ういものとするだろう。しかし、そのことは、歴史言語学
という「学問/discipline」の規範の継承にとっては悪しきことと見なされ、
忌避されるべきことであるとしても、言葉を、その表現としての形成や用法
の側から考察する記号論的な観点からは、なんら不都合なことではなく、
むしろ、歴史言語学によって裏付けられた系統関係に依拠するという権威
の利用を度外視するなら、むしろ、良いことですらある。
特定の或る「学問/discipline」に反する試みは、既存の権威の弱体化には
つながるかもしれないが、その「学問/discipline」による試みによって
得られたこれまでの成果を、必ずしも無効にしてしまうものではなく、
この場合、むしろ、記号論的な手法によって、その成果を新たに
拡大的に有効活用する可能性が開かれることが感じられるはずである。

0658考える名無しさん2020/10/28(水) 09:34:56.650
「自由」に対応する英語は"liberty"であるが、その元となったラテン語の表現、
"liber"の語源的な解釈と検索すると、次のように記載されている。

https://en.wiktionary.org/wiki/liber#Latin
>From Old Latin loeber, from Proto-Italic *louðeros,
from Proto-Indo-European *h₁léwdʰeros, from *h₁lewdʰ- (“people”).

さらに、"*h₁lewdʰ- (“people”)"については、次のように記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/h₁;lewdʰ-
*h₁lewdʰ-
to grow
people

さて、日本語の「ゆ」の発音とイメージにうまく対応すると思われる
印欧諸語の再構築された表現として、
*lēw- (“to leave”) 、lēw, “an opportunity, cause”、*leh₁w- (“to let [go]”)
に行き当たったわけだが、
今度は、「自由」に対応するラテン語の"liber"から、これらの発音と重なりが
あるように見える、想定上の印欧祖語の発音、"*h₁lewdʰ-"に行きついた。
この見かけ上の重なりは、単なる「見かけ」に過ぎないのだろうか。

0659考える名無しさん2020/10/28(水) 09:57:52.460
"*h₁lewdʰ-"という想定上の表現は、"to grow"、"people"に相当するとされるので、
一見したところ、日本語の「ゆ」とは特に関係があるようには見えない。実際、
"*h₁lewdʰ-"に遡るとされるドイツ語の"Leute(人々)"という表現を見ても、
日本語の「ゆ」との関係は感じられない。

しかし、少し考えてみるなら、*lewH-, *lū- (“to untie, set free, separate”)
は、"set free"を表現しているのだから、それが"to grow"という表現を派生
させ得ることは容易に考えられ、さらに、それに関連して、「も(萌)ゆ」、
「おも(思)はゆ」などの、"set free"に対応するような日本語の自発の助動詞
とされる「ゆ」の用法も想起されるはずである。また、"people"とは、
どのような「人々」であるのかを考えてみれば、それは、「特別な力をもつ
存在」でもなく、かといって、「使役される存在」でもなく、"set free"、
「自由にされた状態にある存在」であるという想定も容易に可能性として
思いつく。すると、問題は、"*h₁lewdʰ-(people)"と"*lewH-(set free)"
の間に仮定され得る関係と平行関係にあるような別の印欧祖語の表現の
間の関係を見出すことができるかどうか、ということになるだろう。
今のところ、それについては、私にはまだ分からない。

0660考える名無しさん2020/10/28(水) 10:07:49.930
言語学の専門家には明白だろうが、私が、ここで行っているのは、歴史言語学
の試みがもちらした想定(印欧諸語として現存する言語表現からの推定)の
記号論的な流用であって、歴史言語学ではない。したがって、私の試みが、
「歴史言語学的に無意味である」とすることは、歴史言語学という特定の
「学問/discipline」の規範に照らして正しい判断であるとしても、私の
試みに対する批判としては無意味である。

0661考える名無しさん2020/10/28(水) 10:18:03.650
記号論的に見れば、歴史言語学のおける祖語の再構築の「明示的」な
試みそのものが、ピジン言語の使用において「暗黙に」働いている、
発音とそれによって想起されるイメージの関係の推定と同様のもの
であると考えることができるだろう。

0662学術@死狂廃神龍騎師2020/10/28(水) 10:38:31.450
反じることより進むことだろ。

0663学術@死狂廃神龍騎師2020/10/28(水) 10:40:08.750
立ち止まって考えるよりは前の次元に突入するといったことが学問は苦手だ。

0664考える名無しさん2020/10/28(水) 11:21:32.820
誤:もちらした
正:もたらした

0665考える名無しさん2020/10/30(金) 10:49:57.330
日本語において、「ね」が「持続的に接触する様態」をイメージさせるのに対して、
「に」は、「にゅうわ(柔和)」や「にく(肉)」などの中国語からそのまま取り入れ
られた表現や、それを流用した「にこにこ(笑う)」などの表現において、柔らかい
接触をイメージさせるとともに、例えば、「に(似)る」という表現において、
英語における"near"などの場合と同様に「近接性」をイメージさせるように用いられる。
この「に」の用法が、中国語における類似した発音の用法と重なっていることは、
日本語にそのまま取り入れられている「にん(仁)」、「にん(人)」、「に(ニ)」
を見ても確認することができ、「仁」、「人」、「ニ」は、語源説明として隣接する
言語のいろいろな名詞が列挙されたところで、いずれにしても漢字の構成から見て
明らかなとおり、「近接するようによ(寄)りそ(添)ふ様態」を表している。

ところで、中国語の「肉」の想定される古い発音を検索してみると、次のように記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*k.nuk/
(Zhengzhang): /*njuɡ/

ここで「*njuɡ」の方は、そのまま日本語の「にく」をイメージさせるが、
「*k.nuk」の方は異質である。何が異質なのかと言えば、"k"の発音が
感じさせる「鋭さ」だ。こちらの方は、私には、英語の"knife"("k"は
もはや発音されないものの)や、やはり英語で「切り傷をつける」という
意味で用いられる"nick"(語源は不明とされ、"k"の発音を伴わない)
を連想させる。そこで、「*k.nuk」と発音されたと想定される場合の
中国語の「肉」が、「刃物で切られる肉」をイメージさせるように
用いられていたのではないか、また、語源が不明とされる英語の"nick"
は、"knife”と同様に、もともとは、"k"の発音を伴って"knick"であった
のではないかという可能性を探ってみることも面白いのではないかと思われる。
また、"knife"の"ni"が、もともとは、ナイフで切られる側の柔らかさを
イメージさせていた可能性も十分に考えられるだろう。

0666考える名無しさん2020/10/30(金) 11:53:24.120
>「近接するようによ(寄)りそ(添)ふ様態」を表している

「○○(場所)/▲▲(人)に」のように用いられる助詞の「に」が想起させるのも
それと同様の様態だろう。

0667考える名無しさん2020/10/31(土) 17:02:04.810
印欧諸語を遡ると、印欧諸語における「愛」のイメージは、日本語の
「『ゆ』かし」きことに対応していたのではないかと思える。

これは、比較言語学において、擬態語/擬音語を除外しようとする偏見を
捨てて、名詞であれ、動詞であれ、語源は、最終的には、その表現が、
作用または存在の様態を「どのよう」なものとして伝えようとしているのか
を考えれば、自然に見えてくることである。

例えば、英語の"liberty"の語源が、想定され、再構築される印欧祖語において
"people"や"to grow"に相当すると解釈される表現に遡るものとされることを
既に見たが、この場合でも、"people"や"to grow"に相当するとされる当該の
表現が、「どのよう」に"people"や"to grow"を表しているのかが示されなけ
れば、"liberty"と結び付けようがないだろう。要するに、比較言語学は、
それが規範とする偏見で自らを縛ることによって、本来であれば、容易に
関係が見出せるはずの発音とそれが想起させるイメージの間の連想の関係を、
とても見通しの悪いものにしてしまっているのである。

0668考える名無しさん2020/10/31(土) 17:17:20.690
>A iubi e primăvară. A cunoaşte-nseamnă iarnă.
Lucian Blaga

「愛することは、春であり、知ることは、冬を意味する。」
これは、ルーマニアの詩人の言葉の引用だが、ここには、「愛する」という
動詞の原形、"iubi"([juˈbi])という表現が用いられている。発音記号を見れば
分かるとおり、これをひらがなに転記すると「ゆびぃ」となり、日本語の「ゆ」
に対応するような発音が現れることが分かる。次に、この"iubi"という動詞の
語源を検索してみると、次のように記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/iubi#Romanian
Etymology
From Proto-Slavic *ľubiti, from Proto-Indo-European *lewbʰ-.

https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/lewbʰ;-
Root
*lewbʰ-
to love
Root
*lewbʰ-
to cut off

0669考える名無しさん2020/10/31(土) 17:25:03.090
次に、始点を変えて、英語の"love"の語源を見てみよう。

https://www.etymonline.com/search?q=love
>The Germanic words are from PIE root *leubh- "to care, desire, love."

https://www.etymonline.com/word/*leubh-
*leubh-
Proto-Indo-European root meaning "to care, desire, love."
>It forms all or part of: belief; believe; furlough; leave (n.)
>"permission, liberty granted to do something;

https://www.etymonline.com/word/leave?ref=etymonline_crossreference#etymonline_v_6632
>from PIE root *leubh- "to care, desire, love," the original idea being "approval resulting from pleasure."

0670考える名無しさん2020/10/31(土) 17:33:10.470
引用した2つの別々のサイトで表記法は違うものの、"*lewbʰ-"と"*leubh-"は、
同じ印欧祖語の表現の要素として想定されていることが分かる。

この"*lewbʰ-"が、その発音においても、想起させるイメージにおいても、
>>657に引用した
>from Proto-Germanic *lausaz, whence also -less, leasing;
>from Proto-Indo-European *lewH-, *lū- (“to untie, set free, separate”)
とよく似ていることは、すぐに見て取ることができるだろう。

0671考える名無しさん2020/10/31(土) 17:49:54.290
さらに、"*lewbʰ-"が、どのように「愛する」ことを表現するのかを考えた場合、
"*lewbʰ-"に遡ると考えられる英語の"leave"の語源的な意味の説明、
>"to care, desire, love," the original idea being "approval resulting
>from pleasure."
が妥当であると考えられ、この場合も"*lewbʰ-"の"*lew"が日本語の「ゆ」に
相当するイメージを想起させるものと想定するなら(「愛する」を意味する
ルーマニア語の"iubi"では、既に見たとおり、実際に日本語の「ゆ」に対応
する発音となっている)、その発音と解釈の両方から、日本語の「ゆかし」と
いう表現がすぐに思い浮かべられる。

>ゆかし よいことが期待される所へ行きたいの意...
>欲しい。「恋わびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山にや跡を消(け)なまし」(源氏 総角)
岩波古語辞典

「恋わびて」春にならずに「『ゆ』き(雪)」の解けない冬山で消息を絶ってしまう
のであれば、"A iubi e primăvară(「愛することは、春である」)"の真逆になってしまうがw

0672考える名無しさん2020/10/31(土) 17:52:42.620
さらしage

0673考える名無しさん2020/10/31(土) 17:57:24.950
おまえが舐めろよ

0674考える名無しさん2020/11/01(日) 08:35:16.340
「『ゆかしき』こととしての『リビドー(libido)』」

https://www.etymonline.com/search?q=libido
>from Latin libido, lubido "desire, eagerness, longing; inordinate desire,
sensual passion, lust," from libere "to be pleasing, to please,"
from PIE root *leubh- "to care, desire, love" (source also of love).

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