蝦夷の研究

0001出土地不明2019/08/30(金) 14:17:10.05ID:LxR/hq6b
 古代東北の蝦夷(えみし)に焦点を当てた特別展「蝦夷−古代エミシと律令国家」が9月21日〜11月24日、多賀城市の東北歴史博物館で開かれる。開館20周年と宮城県多賀城跡調査研究所の設立50周年を記念して企画された。出土品の展示に加え、第一線の研究者による講演会や連続講座で、東北の古代史を解き明かす。

 律令国家の支配に属さず蝦夷と呼ばれた人々について、最新の発掘調査や文献史料を基に、律令国家との争い以上に交易が盛んだったことを紹介する。

 年代は、多賀城が設けられる直前の7世紀後半から平泉藤原氏が滅亡する12世紀後半までが対象。国重要文化財「金装獅噛三累環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)」のほか、蕨(わらび)手刀、柳之御所遺跡の「カエル板絵」など北東北を中心に出土した約300点を展示する。

 9月に「律令国家と蝦夷」、11月に「古代蝦夷研究の現在」をテーマにした記念講演会を開催。連続講座は9〜10月が「前九年・後三年合戦と平泉」、11月が「考古学からみた“伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱”」などを題材に開く。

 24日にあったプレイベントでは、アニメ映画「アテルイ」が上映されたほか、元館長の進藤秋輝さんが「古代東北統治の拠点 多賀城」と題して講演し、多くの歴史ファンが訪れた。

 特別展は一般1200円、65歳以上1100円、小中高生600円。毎週月曜は休館(休日の9月23日、10月14日、11月4日は開館し、いずれも翌日休館)。連絡先は同博物館headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000013-khks-soci

0095出土地不明2021/04/08(木) 09:01:08.83ID:voE90AmO
蝦夷の民は最下層民として扱われた

 >滋賀県甲賀郡信楽町の玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内から
 >発見された文書には、「エソ三百七十人」の男女の名前が記されていた。
 >東北地方の住民説、越中の住民説、近江の俘囚の子孫説が唱えられている。

 >エソの人名には、「きみこ」(君子・吉弥侯=毛野氏と同祖)のように古代の東北地方に多い姓もみえるが、
 >ほとんどは無姓であり、それらの名には、「いぬ」「くま」「うし」などの動物名、
 >「とち」「まつ」などの植物名、「むさし」(武蔵)「たんバ」(丹波)などの国名、
 >「やくし」(薬師)「くわうをん」(観音)などの仏菩薩号、「かなわう」(金王)「ふくわう」(福王)などの童子名に因むものが多い。
 >これらは、非人などのような最下層民の名前の特徴と共通している。

表13 「エゾ交名」にみえる姓
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/2-h013.jpg

0096出土地不明2021/06/27(日) 06:21:38.14ID:IUwrpi5D
語ろう

0097出土地不明2021/06/27(日) 22:08:22.85ID:IZUKggpz
渡来人=弥生人と主張してた、
日本学術会議所属の連中が、
うぽぽいでアイヌ利権にいっちょ噛みしようと、
それまでの自説を覆して、
蝦夷=縄文人=渡来半島人とか言い出してる件www

連中、自分の懐温める為なら、歴史捏造平気でするよなw
血の業がそうさせるのかしらww

0098出土地不明2021/06/30(水) 09:58:48.97ID:BwjDWSnA
アラハバキ

0099出土地不明2022/01/24(月) 18:49:22.64ID:Rw9gs920
コイツ↓痛い子なのでもしマッチングで失礼がありましてもご容赦ください

0466 名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! 2022/01/24 10:14:43
そいつと何回もマッチングしてるお前のレートを気にしろよバカw
立ち回り気にしたら?(笑)
ID:5/9ypP2K

0100出土地不明2022/05/15(日) 21:59:43.61ID:Lnk29J/8
後発民族のアイヌが新登場して、他を制圧するのは12世紀ごろからだし
それ以前は、本土の勢力も大きかったようだ

北海道・奥尻島になぜ勾玉が!? 「オーパーツ」の謎解明へ 考古学者に鑑定依頼
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b994de18e064840f21da73ea0a89b8e04a37353
「この勾玉は、昔の有力者の副葬品とみられ、
3〜4世紀ごろに新潟県糸魚川産のヒスイで作られたということが分かっている」

「同時に出土した副葬品の水晶玉が8世紀のものと分かっており」

「また、8世紀ごろに現在の中国東北部やロシア沿海地方などを治めた国「渤海(ぼっかい)」の日本使節団の水先案内人として
奥尻の船乗りが貢献し、謝礼として京都で受け取った勾玉を奥尻に持ち帰った、との説もある。」

0101出土地不明2022/06/27(月) 01:58:25.97ID:hST93rz1
>>94
うむ。

0102出土地不明2022/10/02(日) 06:14:06.04ID:4l/GnCbq

0103出土地不明2023/05/25(木) 08:14:35.72ID:rnJSOu6h
TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?

ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう

人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ

0104出土地不明2023/05/30(火) 21:16:19.29ID:48xYE19q
 ・渡島半島の日本人が先という事実と、争いは一部であって日本人であることは変わらないない。
 ・「朝鮮半島も縄文系」「遡れば朝鮮半島は台湾など陸続きで藩王は不適切だし、中国地域の方が色々と早いのでせめて縄文前後付近の旧朝鮮は旧中国地域と呼ぶべき」であろう
 ・「旧石器捏造事件(ゴッドハンド)の某藤村(東北北海道側(東北旧石器文化研究所・宮城)問題)」のようにアイヌ左翼が多方面に「様々な物をアイヌと記述する工作」をしたせいで修正が大変。
 ・ちなみに当然かなり長い間アイヌの国アイヌ国行政はなかった
北からの蒙古は(悪質な旧女真地域国・関係の契丹等を吸収した旧モンゴル地域の自業自得・刀伊の入寇等)
 旧北海道地域の民族(骨嵬・亦里于。当時にアイヌは誕生せず。当時の北海道方面の日本有力者は安藤氏「日蓮遺文」の「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ」や星兜の出土など)
  VS
 樺太北方民族(実質旧モンゴル地域王朝人)
旧モンゴル地域国家人として明確に対立、別種でありアイヌ民族ではない。

ド新参糞アイヌ民族はド反日サヨクとグル問題
 ・反日テロ東アジア反日武装戦線と反日亡国論・アイヌ革命論(窮民革命論)。
 ・ロシア・共産党ともグルのアイヌ。
 ・日本の某権利を奪おうとする侵略者アイヌ。そうして日本を貶め、新参アイヌを有利にしたらロシア等が有利になる問題。
 ・日本人の方がアイヌ民族よりも先に北海道の先住民族だが、アイヌ共は歴史を捏造。
 ・サヨクは「ゴッドハンド事件(旧石器捏造)」の時も「首謀者が東北北海道側(東北旧石器文化研究所・宮城系)」で、「東北方面の石器スゲー!」とアイヌ方面が最古のように見せかけていただろう
 (大昔の北海道とか寒冷の歴史を見れば人類史的に住み難いのは分かるだろうにw)

 ・インディアン
  → ド新参民族アイヌと違って、インディアン(インディオ)は欧米移民初期から文献で証明されてるw
  (※ ラス・カサス神父 1542年「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」)
 ・アボリジニ
  → アボリジニも18世紀等の移民の早くから「aborigine(en:Aborigines (mythology))」とされる

0105出土地不明2023/06/09(金) 23:57:12.46ID:50V+O8G8
>>3
記紀以前にすでに書物はあったのが現実
歴史から消されたが肝心な記紀に火事になって書物を持ち出したとある

0106出土地不明2023/06/09(金) 23:57:48.27ID:50V+O8G8
>>103
お前はいい加減に1次ソース出せやコピペ馬鹿

0107出土地不明2023/08/11(金) 12:33:51.03ID:j/u+cdYO
ペロッ、これは舐めたらアカンやつや!

0108出土地不明2023/09/15(金) 08:29:32.79ID:BONYYIeL
アノ、アノ町、アレが好きやわ

0109出土地不明2023/09/26(火) 01:32:20.39ID:ounQ6gQV
全板規模の荒らしによる重複スレが立てられたので
本スレage

0110出土地不明2023/10/15(日) 04:54:56.01ID:dDEFD4su
手、つなご?そっちのほうがあったかいよ?

0111出土地不明2023/11/11(土) 23:22:40.33ID:5e7P+Fiz
蝦夷って和人なんだぜ、大和民族はブーメランすな

縄文晩期は寒冷化に伴う環境の変化により、弥生海退と呼ばれる海水面の低下で干潟が一気に減少し、貝塚も消えていきます。
木の実、動物などの食料が減少した時代ですが、さらに、約3000年前に富士山が4回の爆発的噴火を起すなど、
関東平野一帯では富士山や箱根山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、急激な人口減少が起きたと考えられます。
そのため関東では遺跡がほとんど見当たらないという状況にまで至っています。

いわば空白地帯となった関東平野ですが、弥生後期(2〜3世紀)になると再び人口増加に転じます。どこから?どのような人々が関東平野に移り住んだのでしょうか?
無人だった関東平野を開拓したのは誰か?
そもそも関東の原住民(実際は西からの移民)とは、東海やら近畿やら新潟やらの組織的な移住集団(弥生後期以降)から始まってる 。

「安達登 山梨大学 教授 2017-03-31」
東北、関東の5遺跡から出土した合計22個体の古墳人骨からDNAを抽出した。その結果、東日本古墳時代人の遺伝的特徴は現代人に非常に近かった。
古墳時代には既に、渡来人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられる。

0112出土地不明2023/11/11(土) 23:23:12.64ID:5e7P+Fiz
日本列島の頭蓋計測値

分部哲秋 長崎大学・大学院医歯薬学総合研究科・講師 松下孝之 土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長 2022

頭蓋の計測的形質から見た場合、宮崎県西部山間部と宮崎県東部山間部から出土する従来からの山間部古墳人との間には大きな差は見られず、
形態的に縄文的要素を強く留めた集団といえる。

ENROSE形態距離に基づく主座標分析図を見ると、両古墳人の座標上での位置取りは、
渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜)と関係が深いとされる北九州、山陽、畿内、関東、東北の古墳人よりも縄文人に近い。
また、縄文人の継続したものと考えられている西北九州弥生人よりもさらに縄文人に近い関係が見られる。

https://i.imgur.com/8MlJjEq.png
https://i.imgur.com/MYjlCc6.png

津雲縄文人(津雲貝塚)
渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜)
宮崎東部古墳人(旭台、上の原、菓子野、大萩、原村上、縄瀬、横尾、立切、東二原および日守地下式横穴墓群)
宮崎西部古墳人(広畑および島内地下式横穴墓群)
熊本古墳人(津袋大塚、向野田、古城、西潤野、四十八塚、千埼、桐ノ木尾)
佐賀古墳人(小隈、丸山、金立、今町、平田原、妻山、谷口)
東日本縄文人
東北古墳人(上の原、山ノ上、腰巻、千代鶴、深渡戸、梨木畑、五松山、二木、丸山、清水、熊野堂、矢本、山王、市川橋、狄穴)
関東古墳人

0113出土地不明2023/11/11(土) 23:23:27.81ID:5e7P+Fiz
津雲縄文人 渡来系弥生人

頭蓋最大長186.4 183.7
頭蓋最大幅144.4 142.4
Ba-Br高 134.0 137.7
頭長幅示数 77.7 77.7
頭長高示数 71.6 75.3
頭蓋幅高示数92.2 97.0
頬骨弓幅143.2 140.0
中顔幅 103.6 104.7
顔 高 115.8 123.8
上顔高 67.0 74.8
眼窩幅 43.5 43.2
眼窩高 33.5 34.5
眼窩示数76.5 79.9
鼻 幅 26.6 27.1
鼻 高 48.6 52.8
鼻示数 54.5 51.4

0114出土地不明2023/11/11(土) 23:23:44.14ID:5e7P+Fiz
宮崎東部古墳人 宮崎西部古墳人 熊本古墳人

頭蓋最大長180.9 181.5 181.2
頭蓋最大幅141.6 143.6 143.8
Ba-Br高 135.4 137.3 135.3
頭長幅示数 77.4 77.8 78.8
頭長高示数 74.8 76.0 75.5
頭蓋幅高示数96.0 96.5 94.6
頬骨弓幅138.4 139.2 137.9
中顔幅 102.4 100.9 102.5
顔 高 114.8 116.1 116.0
上顔高 68.4 69.0 67.4
眼窩幅 43.0 42.8 42.7
眼窩高 32.8 33.6 33.0
眼窩示数76.8 78.5 77.1
鼻 幅 27.1 27.1 26.3
鼻 高 49.4 49.8 50.1
鼻示数 55.0 54.9 52.3

0115出土地不明2023/11/11(土) 23:23:59.54ID:5e7P+Fiz
東日本縄文人 東北古墳人 関東古墳人

頭蓋最大長183.2 182.6 181.8
頭蓋最大幅143.7 140.0 142.1
Ba-Br高 139.9 136.1 137.3
頭長幅示数78.5 76.9 78.6
頭長高示数76.4 75.0 75.7
頬骨弓幅141.8 136.6 141.8
上顔高 68.4 69.7 70.9
眼窩幅 43.8 42.9 43.1
眼窩高 32.9 33.6 33.7
眼窩示数75.2 78.4 78.4
鼻 幅 26.6 26.6 26.8
鼻 高 49.6 50.8 51.4
鼻示数 53.8 52.3 52.6

0116出土地不明2023/11/11(土) 23:25:14.03ID:5e7P+Fiz
弥生時代・高度な灌漑水田稲作、環濠集落の北上
・青森県弘前市・湯の沢遺跡(岩木山北東麓の標高144メートル)
2021/9/15 津軽平野で初となる弥生時代前期(約2400年前)の大型住居跡・同時代の特徴を備えた土製品 今回の調査は同遺跡の発見から約60年ぶりに行われた
・青森県弘前市・垂柳遺跡、砂沢遺跡(2500年前)等の稲作跡、水田に残された北方弥生人の足跡
・秋田県秋田市・地蔵田遺跡(西の遠賀川系土器)西日本式の高度な環濠集落はこの地方周辺における当時の一般的な建物構造であることが明らかになりつつある。
・青森県・清水森西遺跡 弥生時代の水稲農耕文化の痕跡の最北地を更新
(倭人來獻鬯草(推定周の成王およそ紀元前11世紀3100年前縄文時代付近か)倭と呼ばれていた弥生時代から遡って縄文時代晩期も倭ではあろうが)

古墳時代・近畿東海集団の大規模移入(須恵器・土師器・鉄製品・石製模造品など)
・宮城県栗原市・入の沢遺跡(300年代)
・宮城県石巻市・新金沼遺跡(300年代)
・宮城県仙台市・南小泉遺跡(300年代)
・岩手県奥州市・中半入遺跡(300年代)
・岩手県盛岡市・永福寺山遺跡(300年代)
・山形県山形市・大塚天神遺跡(300年代)
・山形県鶴岡市・畑田遺跡(300年代)
・山形県酒田市・関遺跡(300年代)
・青森県八戸市・湯ノ沢遺跡(300年代)
・青森県五所川原市・隠川遺跡(300年代)

・福島県・杵ガ森遺跡(200年代)、会津大塚山遺跡(300年代)、三角縁神獣鏡等。ほか大安場古墳
・福島県・灰塚山遺跡(400年代)、青銅の鏡、刀や矢尻など多量の鉄製品、・福島県の塚前遺跡(500年代)
・福島県・四穂田遺跡(400年代)「短甲」、鉄製大刀、鉄斧、鉄製矢尻、槍鉋、砥石、土師器など 
・例えるなら大和民族が日本の先住者で、東北人は移住した大和民族なのだから本来のカタチとなっただけ。
・弥生時代に東北に固有の民族は居ない。蝦夷は遥か後に誕生したもの。倭から分かれた亜種と言ってもいいか。

0117出土地不明2023/11/11(土) 23:25:31.58ID:5e7P+Fiz
弥生時代の遺跡は、最上川流域に極めて少ない。
古墳時代前期、すなわち米沢盆地は北陸ー会津ルートによるものであり、山形盆地は畿内ー仙台平野方面から、
庄内平野は北陸ー越後方面から、人々がかなり進出したことによるものであった。
人と物の頻繁な移動により、人口希薄なこの地に多くの人びとが移住するという外来的な要因によって、
最上川流域の古墳時代が開始されたのであったと考える。

馬を飼う文化と言語
古代史では蝦夷は馬を飼うのが特徴だと言われます。
しかし馬はもともと日本列島に生息しておらず、5世紀に古墳文化を担っていた人々が大陸から導入し、馬を飼う文化を広めました。
一方でアイヌ民族は馬を飼いませんでした。古代の蝦夷が馬を飼っていたのなら、
「蝦夷はアイヌ民族ではなく和人である」という可能性が高まります。
また、アイヌ語は形容詞がない代わりに動詞を形容詞的に使うなど、日本語とはまったく違う言語です。
12世紀以降の東北地方では日本語が話されていたことが文献からわかりますし、
それ以前に使われていたアイヌ語から急速に言語が入れ替わったと考えるのも難しいでしょう。
青森県西部で使われる津軽弁に日本語古語に由来する言葉が多いことからも、そこでは古くから日本語が話されていたことがうかがえます。
つまり、古代の東北地方にはアイヌ民族ではなく和人が住んでいたと推測できるのです。

考古学は物証が大切
事件が起きた時に伝聞や自白ではなく物証を求めるように、考古学でもその歴史が本当に起きたのかという証拠を探して裏をとります。
例えば日本列島各地の水田に住むマルタニシは弥生時代以降に出現したのですが、DNA分析によると朝鮮半島のものと同種です。
マルタニシは水田や水路に生息し食用とされていたと中国の6世紀の文献に書かれており、稲作と共に大陸から持ち込まれたと考えられます。
人間と共にあった様々なものや生き物から、人の移動や歴史の流れを読み取れるのです。

0118出土地不明2023/11/11(土) 23:25:45.92ID:5e7P+Fiz
西暦200年人口推定

東奥羽(福島、宮城、岩手、青森): 2万9000
西奥羽(山形、秋田): 5000
北関東(茨城、群馬、栃木): 3万9000
南関東(千葉、埼玉、東京、神奈川): 6万
北陸(新潟、富山、石川、福井): 2万1000
東山(山梨、長野、飛騨): 8万7000
東海(静岡、愛知、岐阜): 5万4000
畿内(奈良、京都、大阪、神戸): 3万
畿内周辺(滋賀、三重、和歌山、兵庫): 7万
山陰(鳥取、島根): 1万8000
山陽(岡山、広島、山口): 4万9000
四国(徳島、香川、愛媛、高知): 3万
北九州(福岡、佐賀、長崎、大分): 4万1000
南九州(熊本、宮崎、鹿児島): 6万5000

総数60万

鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」2000年

0119出土地不明2023/11/11(土) 23:26:01.05ID:5e7P+Fiz
> 0548ウィズコロナの名無しさん
> 2023/11/04(土) 13:25:48.91ID:xgBNZpLQ0
> 東北の日本海側はユーラシア大陸の巨大政権に怯えて朝鮮から逃げて来た勢力が大勢いたんよ、だから臆病な村社会の気質が今も受け継がれてる。

> 本格的な日本海交易の物流は弥生後期2〜3世紀から始まっていた。この時代は日本列島生きた人々が東アジアの強大な政権と本格的な交渉を開始した時期である。
> 対馬海流が朝鮮海峡から津軽海峡方面に流れ、沿岸部にはその反流が流れるため、舟で往来するのにはとても有効な海路である。
> 日本海というのは、地球規模でみた場合は大きな湖のようなもので、古代人にとって「内海」といっても過言ではなかった。
> 弥生後期2〜3世紀からは朝鮮半島から直接、準構造船船団による組織的交易が新潟や東北方面にもたらされるのである。

> 方形周溝墓に鉄製武器を副葬する習俗は、朝鮮半島に由来するものである。
> 根塚遺跡の渦巻紋装飾を含めた3本の鉄剣は特注品であり、当時から長野県北部の人々は朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことになる。
> 長野県内の千曲川流域のいくつもの遺跡で朝鮮半島製の青銅器や鉄器が発見されているが、いずれも上越から峠を越えて運ばれたものである。
> その分布は千曲川流域から、さらには関東地方まで強い影響を与えている。

> この時期は中部地方や関東一帯でものを切ったりする利器が、鉄器に劇的に移り変わる時期にあたる。
> 鉄器とその素材は朝鮮半島の南東部に由来するものである。
> 実際に東北一円、新潟でもそうだが、消耗度の非常に高いアメリカ式石鏃(大阪府高槻市芝生遺跡で初めて見つかった際に、アメリカ原住民が使う矢じりとよく似ていたのでこの名がつけられた)
> などには鉄を使わないので石の矢じりは残るが、木を伐採する石斧は急速に数を減じて、鉄斧が一斉に普及する様子を知ることができる。

> 丁度その頃に新潟県内の各所でも高地性集落が目立つようになるが、これは中国の『後漢書』などに、後漢の終わり頃「倭国、大いに乱れる」という記事が出てくる。それを彷彿とさせる状況と言える。
> https://i.imgur.com/gV9WpIG.png

0120出土地不明2023/11/11(土) 23:26:19.24ID:5e7P+Fiz
The distinctive geographic patterns of common pigmentation variants at the OCA2 gene
https://www.nature.com/articles/s41598-020-72262-6

沿海州ツングース集団や中国東北部集団(rs74653330) C2やNとほぼ相関 東北日本海沿岸に多い傾向も見られた。
https://i.imgur.com/CRZ0YO4.png
共通する新モンゴロイド(寒冷地適応した)に由来する。

それぞれ
沿海州・高句麗・新羅→北陸・東北地方日本海側(粛慎?蝦狄?)
ルートに対応すると思われる。

0121出土地不明2023/11/11(土) 23:26:38.21ID:5e7P+Fiz
東国における古墳時代地域経営の諸段階−上毛野地域を中心として−
国立歴史民俗博物館研究報告
第 211 集 2018 年 3 月

東海集団の大規模移入
南関東のうち相模湾・東京湾西岸では,弥生後期前半から中葉にかけて以下に述べる東海東部系土器の大規模な移入が知られている[比田井 1993,松本完1993 西川 2001 など]。
相模では,相模川西岸に東遠江(菊川式)・駿河(雌鹿塚式)の土器が,また相模川東岸には東三河(寄道式)と西遠江(伊場式)の土器が濃厚にみられ,
南武蔵には東遠江,駿河の土器が移入されるとともに,環濠集落が集中して形成される。

中期後半の宮ノ台文化が解体した後,集落再編と久ケ原式の成立がみられ,その外縁に東海東部系土器の移入が生じたのである。
これらはいずれも型式属性や土器組成が故地と同じでありながら,胎土は在地のものであり,また当初は故地の様式に忠実であったものが次第に在地化し,台付甕文化圏を広く成立させている。
これらの状況は,大規模な入植集団による地域再開発とその定着の道筋を示していると考えられる[大村 2015]。

続いて,弥生終末期から古墳時代初頭にかけても集団移動が確認できる。@地域では弥生後期の様相を引き継いだ土器様式が展開するなかに外来系土器の混成が認められるが,
A地域では主として東京湾岸系土器(内房地域)のまとまった移動が認められ,在地の土器群を一変させることが知られている。
それまで不詳だった方形周溝墓や方形環濠集落も出現している。大村直はこれを「終末期開拓移住」と性格付ける [比田井 2004,大村 2015]。

0122出土地不明2023/11/11(土) 23:27:05.11ID:5e7P+Fiz
一方,B地域には,畿内の庄内式後半から布留 0 式並行期に S 字口縁台付甕を中核とした東海西部系土器(元屋敷式系)が出現する[田口 1981,若狭 2007]。
この時期に東海西部系土器の参入が厚くみられるのが,在来弥生集団が進出していなかった上毛野利根川沿岸低地部や武蔵北部の利根川・荒川流域である。
また,下毛野・那須,常陸北部,三浦半島,南武蔵の東京低地(古利根川・渡良瀬川が形成した武蔵と下総の間にある湾岸低地)にもS字甕がみられる。
特に上毛野の低地部では,東海西部系土器が様式的に完備した形で定着し,在地化を遂げる。墓制が東海起源の前方後方墳に転換し,東海西部系の木器様式,
排水溝をめぐらした低地性住居(平地建物)も出現する。
東海色は布留 1 式並行期まで継続し,故地との情報交流が継続しているが,その段階の葬送用器物として顕著なのが,東海でも伊勢地方に多い伊勢型二重口縁壷[田口 1981]の採用である。

またB地域では,後述するように東海西部系様式を保持する集団の外縁地帯(山麓や山間部)に,一時的に在来弥生系土器を保持した集団が併存し,次第に同化していく[若狭 1990]。
以上のような諸属性から,この地に東海西部を主体とする外来集団が組織的に移入したことは疑いなかろう。
なかでも,典型的な「伊勢型二重口縁壷」が葬送儀礼に用いられた上毛野西部に移入した集団は,主に伊勢地方に起源する可能性が考えられる。
ただし,上毛野から東に離れると,次第にS字甕・伊勢型二重口縁壷が薄れ,普通口縁のハケ整形台付甕やナデ整形平底甕,久ケ原系壺などが混在する。
そこでの集団構成は,大宮台地や上総の在来系集団を核に,各地の外来系集団を混成したものとみられる。

遺跡の分布からみた東海西部系集団の移入ルートは,太平洋岸の外洋を経由した後に,三浦半島を経由して東京湾から東京低地に入り,現荒川筋を遡上,大宮台地北部から現利根川流路を経つつ,
北武蔵と上毛野において利根川両岸に展開したとみられる[田口 2000]。

0123出土地不明2023/11/11(土) 23:27:29.64ID:5e7P+Fiz
北西関東における東海西部系集団の定着
上述のように,古利根川,荒川水系は連接し,東京湾と北西関東内陸部を連絡していた。ここを遡上してきた外来系集団は利根川両岸に展開したが,なかでも中核的な定着地となったのが次の地域である。

ア.群馬県西部の利根川北岸・井野川下流(高崎市・玉村町地域)
イ.同利根川南岸,鏑川・神流川下流域(藤岡市・埼玉県児玉郡域)
ウ.利根川から荒川南岸(埼玉県本庄市・熊谷市)
エ.群馬県東部の利根川北岸域(群馬県伊勢崎市・太田市地域)

これらは,いずれも先行する弥生後期集団が不在であった低湿地域である。換言すれば,在来弥生集団が経営不可能であった未開地であるがゆえに外来集団の移入が可能だったのであり,
ここに東海地方固有の低湿地開発に適応した技術群が投入されたと考えられる。広大な空閑地を開拓するために,外来の人々は目的的に移入したのである。
なお,ここでは集団定着後の墓制として東海系譜の前方後方墳が成立する。
前方後方墳は,前方後円墳秩序の影響を受ける前後で,第T群・第U群前方後方墳にその歴史的性格が分かれることが指摘されるが [中井 2004,田中 2011],
B地域ではU群前方後方墳として大型のものが成立するのが特徴的である。

100m級では,ア地域の元島名将軍塚古墳(95m),前橋八幡山古墳(130m),エ地域の藤本観音山古墳(116m),山王寺大枡塚古墳(96m)を挙げることができ,
とりわけ農業経営に成功し,動員力を獲得した地域であったと見られる。
なお,利根川水系以外では,那珂川水系の上流部に大型前方後方墳の集中がある。
駒形大塚古墳(64 m)からはじまり,前期を通じて前方後方墳を継続し,最終的に下侍塚古墳(84 m),上侍塚古墳(114 m)を輩出する那須地域である。
移入集団は当初から首長に統括されており,その首長墓の造営準備行為は水田開発準備と連動し,土器を献納する祭祀(集団意識の結集行為)を伴いながら進行したことが判明する。
すなわち,古墳造営が,新開地での開発推進と連動する「象徴行動」であることが確認できよう。

0124出土地不明2023/11/11(土) 23:27:50.03ID:5e7P+Fiz
なお本古墳は,弥生後期の樽式土器を保持する在来集団の「伝統的居住域」と古墳時代外来集団による「新開地域」の境界地に築造されており,
記念物としてきわめて意図的な選地が行われ,外来集団と在来集団の統合のシンボルとしても機能したと考えられる。
荒川南岸の低地に営まれた集落跡からは,吉ケ谷式系,東海西部・東海東部系,畿内系,北陸系土器とともに,ガラス玉の製作を証明する土製鋳型や,
水晶・緑色凝灰岩・瑪瑙を用いた玉造りの痕跡が確認されており,遺跡内では河川跡と堰も検出された。
往時の上毛野の低地部には,地域経営をすすめる複数の首長系譜が移入し,上述のように大型前方後方墳の築造を成し遂げているが,
これらの集団は,上毛野の広大で安定した低湿地が未利用であるという情報を,弥生後期の情報ネットワークのなかで獲得し,
ここを経営する目的で大挙して移住したと考えられる。

上毛野の開発が急速に進められ,東日本でも突出した古墳文化を創出していく理由は,当初から低湿地利用を核とした地域経営システムが完成された形で扶植され,
かつ集団編成が多元的であったことに由来したのである。古墳膝下にある五領遺跡は布留式土器を多量に出土しており,このエリアの畿内との交流の濃厚さを教えている。
最も外来系集団の圧力が強かった上毛野西部平野部周辺では,樽式土器は急速に解体し,外来系集団に速やかに取り込まれた[若狭 1990]。
吉ケ谷式はさらに興味深い動きを示す。北武蔵から見て利根川対岸(北岸)の上毛野東部は,もとより在来弥生集団が希薄であり,弥生後期はほぼ無住地であった。
しかし古墳前期初頭になると,東海西部系集団の移入とともに吉ヶ谷式の拡散が起こり,上毛野東部利根川沿岸低地には東海西部系集団,
背後の赤城山や足尾山地の山麓部には吉ヶ谷系集団という住み分けが発生したのである[若狭 1990,深沢 2015]。

0125出土地不明2023/11/11(土) 23:28:20.52ID:5e7P+Fiz
同時に,赤城山南麓には上毛野西部から樽系集団や,信濃を経由してきた北陸北東部系集団(北陸全般に共通する土器様式〔月影式,白江式〕を保持し,
能登・佐渡・越中・越後などの北東部地域固有の甕を組成する)も展開し,赤城山南麓では樽系集団,吉ケ谷系集団,北陸北東部系集団が混住し,
東海西部系土器(ただしこのエリアでは,模倣された土器が主体)を共伴するという複雑な様相を呈する。
弥生終末から古墳前期に東京湾から荒川・利根川を遡上した東海西部系集団はかなりの規模であり,河川両岸の空閑地となっていた低湿地に定着し,大規模な水田開発を行った。
同時に,反町遺跡に代表される集落の出土組成に東海東部系・南関東系・北陸北東部系の土器を含むように,この集団は近接集団と密接な交流関係を取り結び,
弥生後期の閉じた社会関係を大きく再編したことが明らかである。

長野県内では,木島平村・長野市・上田市・佐久市と千曲川流域一帯に点々と朝鮮半島南部で製作された鉄器と青銅器の出土例があり,いずれも弥生時代後期後半であることは重要である。
関東地方でも群馬県有馬遺跡や新保田中村前遺跡などの礫床木棺墓や,埼玉県観音寺遺跡などの方形周溝墓の主体部や周溝内埋葬などの副葬品として検出されている。
長野県内や関東地方の分布状況をみると,千曲川流域から群馬県方面,そこからさらに南関東や東関東方面へと分布が形成されたと考えられる。

そして千曲川流域への流入経路を考えると,直接の流入もとは高田平野であり,さらに北陸,北近畿,山陰と,日本海沿岸部を西にたどっていくことができる。
ざっくり言ってしまえば,そもそも,墳墓に鉄剣を主とする鉄製武器を副葬する習俗は朝鮮半島南部に顕著なもの。これが弥生時代後期後半に,中国地方から北陸へと分布を拡大しており,
その延長線上に千曲川流域や関東の鉄剣副葬習俗の普及があるとみられる。

0126出土地不明2023/11/11(土) 23:28:40.82ID:5e7P+Fiz
こうした,弥生後期後半からの再編の波をうけ,西進の移入経路にあたっていた吉ケ谷集団は分解し,外来集団と接触する一方,一部は利根川を遡上した支流の鏑川流域,
あるいは利根川対岸の上毛野東部・下毛野地域に移住したとみられる。
同じ頃,上毛野西部では外来集団との関係で樽集団が変質を迫られ,一部は利根川を渡った上毛野東部に移り,吉ヶ谷集団とも交わりながら再編されていった。
地域開発に関してみると,低湿地部はその地に適した固有の技術群をもつ東海系集団が推し進めており,
彼らは未利用低地を開発するために首長に率いられ,目的的に移入してきたことが明らかである。

上述のように,上毛野地域における古墳前期の地域経済の進展は,主に低湿地の水田耕作の拡大によって成し遂げられていったが,
砂町遺跡の事例に代表されるように,その耕地整備は,滞留水を除去する排水措置の実施と,用水の安定管理に資する給水路の整備の両面によって保障されていた。
このため,当地域の政治経済圏は,基本的には河川水系に依拠していたことが明らかである。
また,地域開発はそれを主導する首長の墳墓の造営とも連動していたとみられたが,河川水系単位の経済力 ・ 動員力で成し遂げられる古墳の規模は,
上毛野では前橋八幡山古墳(130 m),前橋天神山古墳(129 m)にみる墳長 130 m 級が最大であり,また限界であった。

しかし,前期後半になると墳長 172 m の高崎市浅間山古墳,同 165 m の太田市別所茶臼山古墳のように,それまでの限界を超えた大型古墳(いずれも前方後円墳集成4期)が登場した。
これらは,水系経済圏を越えた複数領域の集団が共立した大首長の墓と考えられる。その成立にあたって,いくつかの要因が考えられる。

0127出土地不明2023/11/11(土) 23:29:02.35ID:5e7P+Fiz
一つはそれまでの用水圏をさらに結合した広域用水圏の成立である。別所茶臼山古墳の成立はまさにそれにあたると考えられる。
茶臼山古墳の立地は,赤城山東南麓の大間々扇状地南端に発する水源を押さえており,上毛野東部の広域用水網を整備し,諸首長間の利害を調停した大首長=共立王[土生田 2008]の登場を教えている。
同古墳膝下の水源地には,導水路を備えた中溝・深町遺跡[福島 2000] が成立し,ここに首長の居所が置かれるとともに,石敷井戸や貯水池を配備した水の祭祀場,方形溝をめぐらした大型倉庫が装備され,
大首長の政治・経済・祭祀拠点(いわゆる首長居館)が象徴化,可視化されている[若狭 2011]。

そのヒントとなるのが,太田天神山古墳より以後に生起する,上毛野への渡来文化・渡来技術の導入と,それによって生起する様々な技術群の存在である。
結論を先に述べると,太田天神山古墳の成立は,これ以前の地域内事情を超越した「東アジア世界との交渉」がもたらしたものであると考える。
倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,
後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。

『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],
竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。

0128出土地不明2023/11/11(土) 23:29:34.07ID:5e7P+Fiz
3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日

関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png

0129出土地不明2023/11/11(土) 23:29:51.76ID:5e7P+Fiz
三陸河北新報社2022年8月24日

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。

突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。

ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。

宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ

当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。

0130出土地不明2023/11/11(土) 23:30:06.58ID:5e7P+Fiz
古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。

倭の五王の時代、律令制国家以前
赤線は内陸部主要交通ルート
https://i.imgur.com/hoHEdkE.png
https://i.imgur.com/TA3rE0o.png

0131出土地不明2023/11/13(月) 07:00:06.17ID:AHsxW9qr

0132出土地不明2023/11/14(火) 14:06:32.71ID:Mome1qCQ
https://xn--2ch-5q0fn79k.net/
お前ら2ちゃんねらーって最悪だな

0133出土地不明2023/11/14(火) 16:03:01.95ID:xvlSmLqP
えーそんなことないよ🤔

0134出土地不明2023/11/15(水) 06:29:46.76ID:7ObxFpdr
征夷大将軍の坂上田村麻呂神社は東北各地にあるけど
前神はナニを祀ってたのかなぁ。アラハバキなのか

0135出土地不明2023/12/18(月) 19:03:46.74ID:g85kHiyc
紀元前6世紀後半には遠賀川系土器集団が朝鮮大陸から渡来しており、灌漑水田環濠集落などの弥生文化が東へ北へ移住拡散していた
https://i.imgur.com/ZIU52Hl.png

北限は紀元前6世紀津軽砂沢・垂柳遺跡や紀元前4世紀秋田地蔵田遺跡などの渡来コロニーを築いて朝鮮大陸から持ち込んだ高度な弥生技術を用いて暮らしていた
津軽半島の水田には当時の渡来系弥生人の足跡が残されており形質人類学的にも注目を集めた

例えば同時期の糸島新町遺跡や唐津大友遺跡は縄文ゲノム100%、一方で名古屋朝日遺跡は縄文ゲノム10%しか持っていない
同じ弥生人でも地域や地形で違う形質の人間が暮らしていた

国立歴史博物館教授・藤尾慎一郎
日本経済新聞2023.05.26
「愛知県清須市から名古屋西区にかけて広がる朝日遺跡から出土した弥生前期後半(2600年前)の人骨の核ゲノムは渡来系だと判明。
この地域では弥生初期を特徴付ける遠賀川系土器が見つかっており、それを使っていたのが渡来系弥生人であることがゲノムで確認できたわけだ。
土器の系統と遺伝子が対応する可能性を示すもので興味深い」と藤尾氏。
https://i.imgur.com/QIOOu2U.png

0136出土地不明2023/12/18(月) 19:04:13.23ID:g85kHiyc
A.弥生前期の水田稲作民。渡来系弥生人の形質とDNAをもち、板付・遠賀川系土器を使用する人々。
最も大陸ゲノムの高い渡来系弥生人である東海最大級の紀元前600年愛知県朝日遺跡。
北限は紀元前500年青森垂柳遺跡、紀元前300年秋田地蔵田遺跡等もこのタイプの環濠集落である。
初期の稲作農耕文化を携えた人々が移り住んでできた弥生集落と考えられる。

B.弥生前期の採集・漁労民。在来系の形質とDNAをもち、突帯文土器を使用する人々。青銅器文化を受容するが、渡来系の人々との混血は見られない。

たとえば、九州東北部の響灘沿岸、瀬戸内、四国、近畿は板付T式甕の系統を引く遠賀川系甕がほぼ100%を占める。
一方、九州の有明海沿岸や熊本、鹿児島では突帯文の流れを引く突帯文系甕がほぼ100%を占める。

弥生前期の日本列島では主に北九州から北東北の平野部にAタイプ、その他にBタイプが分布、形質、生活様式の異なる人種が住み分けられていた。

0137出土地不明2023/12/18(月) 19:04:54.32ID:g85kHiyc
遠賀川系土器は東日本最古、紀元前6世紀の青森に伝わり、
稲作(津軽平野垂柳遺跡で656面の水田跡、弘前市砂沢遺跡においても弥生前期末の水田跡)をはじめとする弥生文化が受容されていた

特に弘前市砂沢遺跡112面の水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた
https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg
https://i.imgur.com/CtOEXtK.jpg

垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである

その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである

0138出土地不明2023/12/18(月) 19:05:22.37ID:g85kHiyc
東日本の主な渡来系弥生集落
https://i.imgur.com/bb93dvs.png

秋田地蔵田遺跡(紀元前4世紀)はこの地方一帯の当時の一般的な住居構造である環濠集落、遠賀川系土器集団である。
渡来系弥生人コロニーを形成していた。
初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、
ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。

新潟の下谷地遺跡(紀元前3世紀)は土器の9割を畿内系が占めており、畿内から東山ルートの陸路はこの頃から使われていたと考えられる

紀元前の渡来系弥生人骨出土例では他に長野市伊勢宮遺跡、静岡市瀬名遺跡、沼津市長沢遺跡などが知られている

その後、弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である
遠賀川系土器は日本海側を伝播、庄内式土器は弥生末期の布留式土器と変遷を辿りながら同時に岩手まで和人集落と共に太平洋側を北上する

0139出土地不明2023/12/18(月) 19:05:45.39ID:g85kHiyc
弥生後期、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日

関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
布留式土器の時代になるとさらに北に進出して分布が広がる。同時に東海の土器も茨城県・福島県・宮城県、そして岩手県まで北進。
人々が北へ移住する理由は不明。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png

0140出土地不明2023/12/18(月) 19:07:44.77ID:g85kHiyc
各時代・核ゲノムまとめ

BC.6800 愛媛上黒岩縄文・縄文100% N9b3
BC.6300 群馬居家以縄文・縄文100% N9b3
BC.5700 佐賀東名縄文・縄文100% D1a2a M7a1a
BC.4100 熊本轟縄文・縄文100% M7a1a
BC.3800 富山小竹縄文・縄文100% D1a2a1c1 M7a1、M9a、N9b1、N9b3、A、G
BC.3500 岡山船倉縄文・縄文100% M7a1
BC.2300 千葉古作縄文・縄文100% N9b1
BC.2200 鹿児島出水縄文・縄文100% M7a1a、M7a1a2
BC.2100 鹿児島柊原縄文・縄文100% M7a1a
BC.2000 神奈川称名寺縄文・縄文100% M7a1、M7a2、N9b、D4b2
BC.1700 北海道船泊縄文・縄文100% D1a2a2b N9b1
BC.1700 千葉六通縄文・縄文100% D1a2a1c1 N9b2a
BC.1700 愛媛平城縄文・縄文100% M7a1a
BC.1500 沖縄摩文仁ハンタ原・縄文100% M7a1a
BC.1000 福島三貫地縄文・縄文100% M7a2、N9b
BC.1000 韓国慶尚南道欲知島・縄文95% C1a1 紅山文化
BC.900 愛知伊川津貝塚・縄文100% N9b1

0141出土地不明2023/12/18(月) 19:08:51.43ID:g85kHiyc
BC.800 佐賀大友弥生・縄文100% M7a1a6
BC.700 沖縄長墓貝塚・縄文100% C1a1a1a1 D4d
BC.700 韓国忠清南道瑞山市・縄文28% C2a-L1373 夏家店上層文化
BC.600 愛知朝日弥生・縄文10% B4c1a1a1a、D4g1b
BC.200 佐賀花浦弥生・ D4b2b1、B4b1a1a
BC.100 福岡安徳台弥生・縄文15% B5b6
AD.100 長崎下本山弥生・縄文60% O M7a1a4、D4a1
AD.150 鳥取青谷上寺弥生・縄文10〜20% C1a1、D1a2、O1b2 N9b3、D4b2b1d
AD.250 熊本大坪弥生・縄文42〜52% C1a1、D1a2a1c2
AD.300 宮城新金沼古墳・縄文15%
AD.400 香川茶臼山古墳・縄文15% C1a1 D4m1
AD.400 韓国慶尚南道金海市古墳・縄文34% D1a2a1
AD.400 鹿児島広田古墳・縄文100% B4f、D4
AD.450 山形戸塚山古墳・縄文15% M7a1
AD.450 福島灰塚山古墳・縄文15% D41
AD.450 和歌山磯間古墳・縄文42〜56% D1a2a、O1b2a1a1 M7a1a4a、M7a1b1、N9b1、D4b2a2a1、D5b2
AD.500 石川岩出古墳・縄文15% O2a2b B5a2a1b、D5c1a、M7b1a1a1
AD.500 南九州古墳・縄文60〜100% M7a1a2、M7a1a7、N9b、D4b2、A、D4a1c、F、B
AD.600 東京羽根沢台古墳・縄文10% D1a2、O M7a1、D4b2、D4a2a、D4j3
AD.650 島根猪目古墳・縄文20% O1b2a1a1 M7a1a1a、D4b1a1a、D4g1、N9a2a1

現代アイヌ・縄文60〜100% 縄文〜古アムール
現代沖縄人・縄文25〜40% 縄文〜古西遼河〜古アムール
現代本土人・縄文8〜28% 縄文〜古西遼河〜古アムール
現代韓国人・縄文0〜4% 縄文〜古黄河〜古西遼河〜古アムール

0142出土地不明2023/12/18(月) 19:37:15.23ID:g85kHiyc
日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。

紀元前9世紀(1)在来系弥生時代集団I(縄文ゲノム100%):縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、
弥生前期の佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。

紀元前7世紀(2)渡来系弥生時代集団I(縄文ゲノム10%):朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、
弥生前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。

紀元前2世紀(3)渡来系弥生時代集団II(縄文ゲノム15%):西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、
弥生中期〜後期の福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021)などです。

1世紀〜3世紀(4)在来系弥生時代集団II(縄文ゲノム60%):渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、
弥生後期以降の長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)などで、いわゆる「西北九州弥生人」です。

https://i.imgur.com/7ZYDckS.png

0143出土地不明2023/12/18(月) 19:38:09.63ID:g85kHiyc
東北学院大学 文学部歴史学科 辻秀人 教授

現在の日本人は列島に元々いた縄文人と渡来人が混血して形成されたと考えられている。
弥生時代終末期に会津盆地、米沢盆地を中心に北陸北東部から大量にヒトの移住があり、
古墳時代初頭に福島県中通、浜通り地方、仙台平野に千葉県域から大量のヒトが移住してきて、
農耕を基盤として古墳を築造する西日本的な社会が成立すると主張してきた。
今回の成果はこのような見方の妥当性を示す者かもしれない。
今後は得られた分析データの解析をさらにすすめ、目や皮膚の色などの具体的な情報を明らかにしていきたい。

https://i.imgur.com/6hch7XH.png
https://i.imgur.com/NlBYGMv.jpg

0144出土地不明2024/03/17(日) 09:52:17.58ID:TrEB4BUu
>>95
ほう

0145出土地不明2024/03/31(日) 21:05:42.56ID:yEWTA50R
語ろう

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