蝦夷の研究
古代東北の蝦夷(えみし)に焦点を当てた特別展「蝦夷−古代エミシと律令国家」が9月21日〜11月24日、多賀城市の東北歴史博物館で開かれる。開館20周年と宮城県多賀城跡調査研究所の設立50周年を記念して企画された。出土品の展示に加え、第一線の研究者による講演会や連続講座で、東北の古代史を解き明かす。 律令国家の支配に属さず蝦夷と呼ばれた人々について、最新の発掘調査や文献史料を基に、律令国家との争い以上に交易が盛んだったことを紹介する。 年代は、多賀城が設けられる直前の7世紀後半から平泉藤原氏が滅亡する12世紀後半までが対象。国重要文化財「金装獅噛三累環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)」のほか、蕨(わらび)手刀、柳之御所遺跡の「カエル板絵」など北東北を中心に出土した約300点を展示する。 9月に「律令国家と蝦夷」、11月に「古代蝦夷研究の現在」をテーマにした記念講演会を開催。連続講座は9〜10月が「前九年・後三年合戦と平泉」、11月が「考古学からみた“伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱”」などを題材に開く。 24日にあったプレイベントでは、アニメ映画「アテルイ」が上映されたほか、元館長の進藤秋輝さんが「古代東北統治の拠点 多賀城」と題して講演し、多くの歴史ファンが訪れた。 特別展は一般1200円、65歳以上1100円、小中高生600円。毎週月曜は休館(休日の9月23日、10月14日、11月4日は開館し、いずれも翌日休館)。連絡先は同博物館headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000013-khks-soci 記紀にも記載されてない、風土記もない。 つまり「日本」ではないアズマエビスどもが調子に乗るな!!! 記紀にも記載されてない、風土記もない。 つまり「日本」ではないアズマエビスの亜種トーホグ土人が調子に乗るな!!! 海溝型直下地震が起きるのはオマエラの住んでいる地域だけだからな だから調子に乗るなよアズマエビスども!!! 今度の台風15号はアズマエビスどもへの天罰だからな!!! 日頃の行いをきちんと反省するんだぞ!!! 過去の関東大震災のデータみるとら本当にヤバイよな あんな過密でこんなんくらったら、持つはずないんだよ 関東地震 1923年9月1日 11:58 M7.9-8.2 神奈川県西部 12:01 M7.2 東京湾北部 12:03 M7.3 神奈川県・山梨県・静岡県県境付近 12:17 M6.4 伊豆大島近海 12:23 M6.5 相模湾 12:40 M6.5 相模湾 12:47 M6.8 山梨県中・西部 13:31 M6.1 静岡県東部 14:22 M6.6 静岡県伊豆地方 15:19 M6.3 茨城県沖 16:37 M6.6 静岡県東部 9月2日 1:46 M7.3 千葉県南東沖 18:26 M6.9 千葉県東方沖 22:09 M6.5 静岡県伊豆地方 1924年1月15日 05:50 M7.3 神奈川県西部 これヤバイだろ.. >>3 蝦夷(エミシ)大和王朝から蔑まれますが、 全く違う国。 祖を尋ねれば、それは大和の先行王朝(海王朝〜磯城)の大彦(皇太子)。 かれを古事記、日本書紀はナガスネ彦と蔑んだ。 大和の王家、有力豪族ら同士で覇権争い/権力闘争に明け暮れる中、九州の物部勢が侵攻してきます (「第一次物部侵攻」、、、(ニギハヤヒの降臨。とか、神武東征(の前哨戦)など)) 四国南岸沖から紀伊水道を通り紀ノ川を遡り、 南岸に陣取って侵攻してきた物部勢力を迎撃して一時は追い払う事に成功しますが、 (先行大和王朝側から見て)賊軍(物部勢)は紀伊半島を南に迂回して熊野(新宮)方面から再上陸 。 しかし、大和王朝側の紀伊国造(高倉下命の子孫)らの軍に迎撃、ゲリラ戦を仕掛けられて熊野川上陸の中洲(元熊野本宮の大斎原の地)に孤立化、、、w 大和王朝側が豪族同士で権力争いに明け暮れて一枚岩ではないとの情報を得た侵攻軍側は 大和王朝の副王家、トビ家の分家、大田種彦(大田田根子)に内応、手引きを要請します。 大田種彦は本家のトビ家(大和王朝の副王家/大神(カモ)王家)への対抗心や大和を平定して大王となる野心から外来の物部勢力を引き入れ利用することを考えて、 要請を受諾。 物部軍はトビ家分家大田種彦らの道案内を得て前人未到に近い熊野川沿いから紀伊山地を北進して無傷で吉野に、吉野川/紀ノ川を渡り磐余に無傷で着陣して威勢を張りました。 突然現れた大軍団に算を乱した大和の豪族らは大和を逐われます。 大彦らも抗戦しますが多勢に無勢、北への退却を余儀なくされて 大和を放棄。 大彦は伊勢(伊賀)に新たに王国を建て、、、追撃されて 仕切り直し、琵琶湖東岸に新たに出雲族の信仰に因み三上山を大和の三輪山に見立ててクナト国をごうします。 クナト国がシナに伝わって狗奴国と書かれました。 大彦は出雲王国の東の王家、富(トビ)家に出向き救援を要請しますが、 出雲王国は各地の領地を奪われ、更に九州物部勢力が侵攻準備中との情報を得ていたこと等から 勢力を分散する余裕はないとして申し出を断りました。 出雲の王家は大彦らに北陸方面へ行く事を勧めました。 併せて、富、トビを名乗ることを禁止します。 出雲の往来の途中、藁蛇を神木に巻き付けて荒神、荒ハハキと呼んで祭祀をしていたのを目にした大彦は自らの勢力で新たに取り入れてシンボルとすることを決めました。 >>12 更に追撃を繰り返し受けた大彦やその子孫たちは一時的に落ち着いた地域に国を建てました。 アラハバキ国、日立国(常陸)、、、最終的に津軽に至り「日之本国」を建て、安東氏を名乗る。 各地の豪族の首長らによる合議制を採用して統治。 渡り島(北海道の古名)や樺太、千島の人々も日之本国に参画していたと言います。 津軽は首都の意味を込めて「日本中央」と呼ばれました。 後世、伊達政宗が日本(日ノ本)将軍といわれますが、そのベースは東北地方が日ノ本国だった記憶が有ったため。 東北地方は出雲族がインドからシベリアを経由して渡来した際、 本州には津軽から上陸して、三内丸山(遺跡/後期)にしばらく居留した後に 本隊は日本海側を南下して出雲地方に至りますが、 途中、小さな集団が各地に分離拡散した歴史があり、いわば遠い身内が沢山居たと考えられます。 十三湊は日ノ本国の首都港湾として整備されて大変栄えて居たと言います。 十三湊は出雲王国から禁止されたトビ家(王家(天皇家も旧出雲王国トビ家の血筋(分家)))の音を採ってひねったもの。 富山/トヤマは外山(トビ)から? 鳥海山はトミ山の当て字。 >>7 クモ。は 敵対、反体制(自分たちからみて)側のヤカラを蔑んだ古代の用語。 ソコに「土」、、、土着、従前から根付いている。 の意味を重ね合わせたもの。 今度の台風19号もアズマエビスどもへの天罰だからな!!! 日頃の行いをきちんと反省するんだぞ!!! 今回の大雨もアズマエビスどもへの天罰だからな!!! 日頃の行いをきちんと反省するんだぞ!!! 横浜土人が「カジノ反対」て騒いでるけど笑える 誇るべき歴史も伝統もない「元横浜村」のくせに 150年位の歴史だろ 横浜といえば「横浜銀バエ」だな 上品な街というイメージはない だからカジノはお似合いだよ 横浜土人の根拠なきプライドはホント笑える トンキン土人にも同じことが言えるがな 915年の十和田湖火山では、埋没家屋が蝦夷側の地に沢山出来た。 元慶の乱の時に、秋田県北部は多分蝦夷が支配する地になった。 なぜなら、十和田湖火山の噴火の大被害が大和政権側に一切記録に残っていないからだ。 これはあまり研究されていないのだが、江戸時代から江戸時代から次第に洪水時に発掘されてきた。 出土品には日用具やら、鍛冶の道具やら(だから蝦夷は鉄を使うコトができたことが分かる) 漢字を書いた木簡(だから文字も使えた)やら、暦やら凡やら下駄やら不動尊像やらが出土している。 まだ埋まっている遺跡も多数あるだろう。この研究は江戸時代から続いていて、考古学、文献学、地学 など文系、理系の垣根を越えた多数の学問を合わせないといけない発展途上の学問だと思う。 ここで相模トラフ様、ひと暴れして調子こいてるアズマエビスどもに 天罰をお与えくださいませ 棚ボタで入った法人税(トンキン人が創業者ではない)を気前よくコロナウイルス対策で 無駄にばらまいてるな腐れトンキン 相模トラフ様、ひと暴れしてトンキンに天罰を!!!!!!!!!! 新型コロナウイルスの感染拡大を巡り、黒岩祐治知事のツイッター投稿が物議を醸している。 神奈川の感染者が1都3県で最多の状況を踏まえ、「足を引っ張っている状況で肩身が狭い。解除条件をすでにクリアしている埼玉、千葉のみなさんゴメンナサイ!」と投稿。コメント欄には「謝るのは感染者に失礼」「医療現場は必死にやっている」といった批判が相次いだ。 ※引用ここまで。全文は下記よりお願いいたします。 http://www.kanaloco.jp/article/entry-360538.html >>14 伝承の日本史、これからどんどん拡散して行くんだろうね 【都道府県 ノーベル賞受賞者ランキング】 北海道 1 東北 0 関東 1(埼玉1) 中部 9(愛知4 岐阜1 福井1 富山1 静岡1 山梨1) 近畿 9(大阪4 京都3 兵庫1 奈良1) 中国 2(山口2) 四国 2(愛媛2) 九州 2(福岡1 鹿児島1) 満州 1 近畿の人口 2276万人『ノーベル賞 9個』 中部の人口 2301万人『ノーベル賞 9個』 関東の人口 4350万人『ノーベル賞 1個』 韓国の人口 5147万人『ノーベル賞 1個』 韓国人=関東人 >>28 大阪の糞コテ元都民=PLおやじ(ZAQ大阪蟯虫トラキチ)の自演キャラ一覧 最新版 @小倉君 小倉人を名乗るも地元の魚を知らずに馬鹿にされた自称業界紙記者 A新橋君 なぜか小倉君と同じ新橋のハナマサの弁当を食べたキャラ B北海道 ワイは北海道人やけど大阪が羨ましいと抜かす大阪賛美キャラ C菓子屋 従五位の登場で意気消沈しちゃった自称正七位下の菓子屋 D酒通君 全国の酒をリスペクトと言いつつ東京の酒を叩く別名「軟水馬鹿」 E爆盛君 東京には爆盛りラーメンしかないかのように言い張るいつもの名無し F蕾親父 人類学スレで埴原コピペに完敗したエベンキ頭狂蝦夷連呼馬鹿 G脳減爺 捏造ノーベル賞コピペと捏造現代・ポスト合同調査コピペが大好物 H藤浪爺 世界の大谷サンを清原、桑田、金子以下と馬鹿にしたメクラのホモ I尻泥棒 男子便所の床に這いつくばって桑田の尻のホクロを数えたゴキブリアルゲイ J近畿猿 青森山田の名前を使って流経、市船、前育、東福岡を叩くキャラ K朴虎吉 大分一番の挑発に釣られてIPを晒した東大阪のやらかしコテ L偽青火 大分人に成りすまして横浜・相模叩き M野洲爺 川崎U-10の久保建英少年バカにしてたら本物になったでござるの巻 N扇惰爺 絶望的に見る目がない久保スレの粘着荒らし O広島禿 四字実況板名物クソコテ広島世界一の偽者 P阪菌猿 コロナでもマウント取れなくなったイソジン信者の贅六 , -―-、、 / 彡 ⌒ ミ l <丶`∀´> ヽ、_ フづと)' 〜(_⌒ヽ )ノ `J 日本書紀で武内宿禰が蝦夷の国を強奪しようと言い出すシーンで、「男女並に椎結、身を文げて、人となり勇捍し、是を総て蝦夷と曰ふ。」 椎結という髪型が分からないけど、文はタトゥーなんだよね? こういう感じの見た目だったのかな? ttps://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/img/juho_kouko_image3_77.jpg ttp://www.city-yuzawa.jp/up/files/yuzawashi/k-shogai/bunkazai/2085/0000007865001.jpg ttps://www.pref.miyagi.jp/uploaded/image/12114.jpg 魏史倭人伝の邪馬台国の頁に倭の国の人は刺青してると書かれてる 古代の人はみんな刺青してて土偶の紋様はその名残 みずらの支配者層は文身じゃないよね 彼らはどこから来て倭を名乗ったの ソグド人を描いた絵と 日本で発掘される髻の土偶が 帽子も含めて似てるみたいだけど >>33 真ん中のはシュモクザメを意識したデザインとの説ある 最後のは中国神話の蚩尤みたいだね アルタイ、スキタイ、チャガタイ、オゴタイ、なんかからのヤマタイ国だったらどうしよう 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産への推薦をなぜか祝う渡来人 いや君たち、先住アイヌをブチ殺して、その地を奪い取った侵略者でしょ? https://image.prntscr.com/image/MTkd9msPTC_Qa0ybcjlrWA.png >>39 現代人は穏やかに共存しているのに何てことを言うの >>37 >シュモクザメ これらは東北で出土したものなんだけど 東北の古い人は鮭をメインに食べて暮らしていたみたい アイヌのように海や鮫を崇めていたと思われる 出雲圏では鮫の絵が描かれた銅剣が見つかってるし、もしかすると七支剣とやらは鮫モチーフであの形なのかも そう思うとシュモクザメに信仰心があってもおかしくないね >>39 戦闘の痕跡が無いから 平和的に混血したと考えられてるぞ そもそも現代日本人のほぼ全員に縄文人の遺伝子が流れてる時点で 現代人は弥生人の子孫でもあり縄文人の子孫でもあるからね 蝦夷だのアイヌだの縄文だの インバウンドに利用されてるだけだろ 学問の本質から大外れ 恥ずかしくないのかよ 考古学・人類学者は >>42 横だけど、あなたが言うのはあくまでも縄文人と弥生人の話なんだよな エミシやアイヌは(大きな括りでは縄文系ではあるんだが)また別の話なんだよ エミシとアイヌも完全なイコールではないんだ 言語板で話題になってたエミシの語源 599 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/08(木) 17:46:38.24 0 エミシとミシハセの「ミシ」は同源っぽいな 602 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/08(木) 23:06:52.22 0 蝦夷のエは服役とか役人とかの役じゃないかという説なら見た 実際は従わない者もいて荒蝦夷と呼ばれていったらしい(記紀に書かれてる)のに、今では「蝦夷」だけで悪者みたいにされてるの可哀想な感じ 604 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/09(金) 15:25:27.74 0 エミシについては漢字が後付けなんだよな 1つの漢字に多くの読み方があるなら漢字由来だが、エミシは一定の時期までの間に漢字表記が多数ありながら読み方はエミシで統一されているから エミシの元の意味については多くの説があるが(弓人/弓師など)、初期は憧れや肯定的な意味があったであろうということは一致している 古代豪族の中にエミシと名付けたり改名したりした者が複数いるためで、エミシは1人で100人の馬力といったような書も残っている なお、蝦夷という漢字表記は中国側の呼称カイから来ており、そこに朝廷がエミシと訓を振ったものと考えられている模様 だんだん朝廷側にとって、中華思想の影響やエミシを邪魔者として疎む感情が大きくなり、侮蔑する結果になったものと思われる また、逆に元々タケル(orタケ)の方が良くない意味を含んでいたのではという見解もあって面白い 605 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/09(金) 17:57:48.87 0 記紀の頃には、 ニギエミシとアラエミシに分けられてたみたいだね ニギミタマとアラミタマみたい(和と荒) 和をもって尊しとなすってのは 従えば尊(ミコト)扱いしてやんよみたいな意味に聞こえる 606 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/09(金) 18:07:07.41 0 ニギは、顔に丹を塗ってた民族=古代九州 アラは、顔に青くイレズミ彫ってた民族=アイヌ 個人的にはこう感じる 同じく言語板で、ヤマト政権の始まりを境に「母」の呼び方が代わりはじめ母系社会から父系社会に転換したかもしれない話 →縄文系or弥生系の転換期だった? ※ちなみにアイヌは男女双系と言われている 404 名無し象は鼻がウナギだ! 2014/04/07(月) 16:58:52.09 0 母屋と書いて「オモヤ」と言うのも、かって母を「オモ」と言っていた時代があったのかもしれない。 607 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/09(金) 18:07:11.51 0 >>404 >オモ 物の中心を表す意味:主オモ(後に表オモテなどの前面に変化) 心や心情を表す意味:思う、面白い、趣オモムキ ↓ 家の中心人物としての母オモだったのかな?(父は狩猟で不在がち) 612 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/10(土) 02:04:12.44 0 信用できるか分からないけど、Wikipediaだと 中世以降のオモヤは「主屋」だと それ以前のオモヤは「モヤ」呼びだったと 母とは直接的な関係なさそうだね 613 名無し象は鼻がウナギだ! 2020/10/10(土) 02:19:40.65 0 オモは普通に一般古語かな ハハはヤマト王権が使用した言葉なのかしら ●weblio辞書 >平安時代中期以後「はワ」と発音するようになったが、室町時代には「ハハ」と発音することもあったらしく、江戸時代以後は「ハハ」が普通となった。 >万葉集4401「韓衣(からころむ)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてそ来(き)ぬやおもなしにして」 >万葉集2925「みどり子のためこそおもは求むと言へ」 ●精選版 日本国語大辞典 >〘名〙 上代語。母。おも。 >※書紀(720)雄略二三年八月・歌謡「道に闘(あ)ふや 尾代(をしろ)の子 阿母(アモ)にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな」 >(1)「書紀‐歌謡」の例のほかは「万葉集」では防人歌に見えるところから、「おも」の古形が東国方言に残ったと見られる。 >(2)中央語「ちちはは」に対する「あもしし」あるいは「おもちち」は、母が先にくるところから、古代母系制の名残と見る説もある。 近年のゲノム解析でわかってきたこと ・「日本列島の先住民はアイヌ」 ・「日本人と韓国人は同じクラスター」 ・「畿内・奈良県が、最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い」 ・「沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・熊襲)の末裔」 ・「現代日本人のゲノムは6300年前の釜山で完成していた」 https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/ >本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統である可能性が高いことを示している。 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_241101.html >本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0 >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB https://newwikilihct.memo.wiki/d/%CE%B0%B5%E5%CC%B1%C2%B2 >沖縄には旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、比較的新しい時代に本土から縄文系集団(西北や南九州弥生人)が南下し、縄文人由来の遺伝子が陸封され、現在の琉球民族を形成した https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png >篠田謙一氏はシンポジウムで、この6300年前頃となる韓国・釜山の加徳島集団が日本列島に到来したならば、(縄文人と)混血せずに現代日本人になる、と述べた。 >>48 京都渡来人さん落ちついて 京都が縄文時代は無人だったことや 現代でも京都人が朝鮮人とそっくりであることは事実だからさ 戦国:人国記の信濃人 京都の女性は容姿と言葉遣いは美しいが、男・・・特に武士は軽薄な臆病者ばかりで物の役にも立たないゴミばかり。 幕末:東北庄内の清河八郎 近頃の噂でも「京の弁舌」と云い、京都人=柔弱な嘘吐き野郎の代名詞となっている。 幕末:肥後出身の横井小楠 京都の女は悪習甚だしく、女中として役立つ者は一人も居ない。 明治:愛媛の歌人正岡子規 人間としては下等の地に居る、死に歌詠みの公家たち。 昭和:福岡県久留米の菊・龍兵団 またも負けたか安兵団=京都 平成:兵庫県出身の人類学者松村先生 京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示し、朝鮮人に近い。 日本史を正しく認識するための正しい用語集 縄文人=プレアイヌ / プロトアイヌ 縄文語=アイヌ語・夷語 弥生人=ムムン・コリアン(無文土器時代朝鮮人) 弥生時代=ムムン統治時代 皇室=列島総督府 日本語=百済語・古代高麗語 天孫降臨=コリアン・インベージョン 神武東征=コリアン・コンクエスト 征夷大将軍=コリアン・インベーダー 蝦夷征伐=東北アイヌ大虐殺 >>49 京都盆地は元々は琵琶湖に匹敵する水量を湛えた湖だった。 河川が運んだ土砂による堆積物で埋まり陸地化。 湖だったことの名残(埋る事を免れた部分)が昭和の中頃まで存在した巨鯨池(湖) 同じように、奈良盆地も今も太古も唯一の流出河川である大和川の奈良盆地からの流出場所が崩落して塞き止められて湖(古奈良湖/古大和湖)が満々と湖水を湛えていて いわゆる大和三山の畝傍、香久山、耳成は湖面に浮かぶ小島だった。 故に、古事記等が言う、神武が2680年前に磐余で即位して畝傍に宮を置いた。 は考古学から真っ赤な嘘と確定? それに水運の利便性で外海から淀川の流れを見込んで大和を選んだのに湖ごときで何を言ってるんだろう 蝦夷って東北太平洋側だけなんだよな 北海道もだっけ 山形秋田はまた別なんだよな 青森を中心に道南秋田岩手あたりが擦文文化圏 これが蝦夷の中心と考えていい 篠田謙一(人類学者) 「日本人は弥生時代以降に入ってきた人たちの子孫です、と言うとみんなガッカリする」 http://www.iokikai.or.jp/doigahama161.jpg >核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。 https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_241101.html 本土人は集団としては韓国人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。 . おまえの正体 孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、 中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を 目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に 置かれている。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2 . 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 @ 縄文人、蝦夷、アイヌ 縄文人とは、現在の日本人とは異なるアイヌの祖先をいう。 北海道に住むアイヌは、蝦夷または毛人と書き、エゾまたはエミシと読む。 髭が濃いが、その髭がエビのように長くて立派だということで蝦と毛が入る名前で呼んだのである。 縄文人が狩猟・採集に満足して生活していたのに対して、朝鮮半島ではすでに紀元前一〇〇〇年から櫛目文土器の新石器時代を清算して青銅器時代に入って、新たな文明を開拓していた。 日本は国土の約七〇%が山岳地帯であり、豊富な降水量を持っており、木がとてもよく育つ。 クリ・ドングリ・クルミのような実のなる木が多い。さらに、島であるため海産物も豊富である。 カキや貝はいうまでもなく、毎年戻ってくるサケは手でも捕まえられるほどであった。 しかし、それは、縄文人が文明の次の段階に飛躍しうる契機を遮断する結果を生んだ。 彼らは、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。 自然の豊饒のために文明の発達が遅れたアメリカ先住民の没落過程と似ている。Easy-goingが産んだ結果だった。 紀元前三〇〇年頃に突然、弥生人が登場した。彼らは定住生活をしながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。 こうした弥生人に、縄文人は敵わなかった。一部の縄文人は、弥生人と血を分けて暮らしたが、結局、生活の場を奪われて環境が劣悪な北方に押しやられてしまったのである。 . おまえの正体 孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、 中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を 目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に 置かれている。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2 . 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 A 吉野ヶ里遺跡 一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。 縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。 その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。 おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。 二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が朝鮮半島から照らされました。 稲作と青銅器文化が朝鮮半島から入ってきたのです。 弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。 朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。 農業を始めると共同作業が必要となり、そのため氏族が集まり、自然に村が生まれて初歩的な社会を構成するようになります。 剰余農産物という富が創出されることで階級が生まれ、略奪と戦争が起きることで氏族が連合して部族国家に発展していくのは、人類史の普遍的な足跡そのものです。 それを文明の段階的発展過程といいますが、そのすべてが朝鮮半島の渡来人がもたらした稲作と青銅器文化から始まりました。 日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。 >>64 おまえの正体 孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、 中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を 目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に 置かれている。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2 . ジョン・ホイットマンは、日本語族を朝鮮半島ムムン文化を経由した水稲栽培の広まりと関連付けた。 彼はさらに、朝鮮語族は北方の遼寧地方から遼寧式銅剣文化とともに到来したと提唱した。 「北東アジア言語生態学、韓国・日本における稲作農業の到来(2011)」 Whitman, J. Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan. (2011). https://doi.org/10.1007/s12284-011-9080-0 >>66 おまえの正体 孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、 中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を 目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に 置かれている。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2 . ジョン・ホイットマン 朝鮮半島における稲作の空白期間 朝鮮の稲作集落は300 BCEに消え、100 CEに再び出現している。この時期に大きな気候変動の証拠はない。 水稲栽培の中断は、300 BCEの青銅剣(遼寧式青銅剣に由来)の出現と一致しており、この文化は韓国の西海岸の錦江から広がっている。 二つの文化が共存したかもしれないが、陶磁器の様式、集落のパターン、埋葬の様式などは、以前のムムン文化との断絶を示唆している。 遼寧文化は二つに分派し、一つは遼寧と白頭山地方に残った。もう一つは、韓国の錦江に青銅剣文化をもたらしたことになる。 >>68 おまえの正体 孔子学院(こうしがくいん)とは、中華人民共和国が諸外国の大学などの教育機関と提携し、 中国語や中国文化の教育及び宣伝(プロパガンダ)、中華人民共和国との友好関係醸成を 目的に設立した中国政府の機関である。中国共産党中央統一戦線工作部の強い影響下に 置かれている。 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2 . 阿寒湖のアイヌコタンを舞台に制作された映画『アイヌモシリ』 https://news.yahoo.co.jp/byline/satoutomoko/20210213-00222377/ 秋辺デボさんに、アイヌコタンにて、話を聞いた。 https://newsbyl-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-yn/rpr/satoutomoko/00222377/title-1613179204566.jpeg ―― 興味があって、縄文人のことを調べていたら、アイヌの考え方にすごく似ているなあと思ったんです。一つの説として、縄文人というのはすごくコミュニティを大切にしていて、自然をすごく大事にして、その恩恵、食べ物なんかをみんなで分け合うんですね。自分だけがいいようにするんじゃなくて。弥生時代になったら、貧富の差が起きたんですよ。こっちの田んぼで豊作になって、こっちが何かあっても分けないというか。縄文スピリットという、みんなで仲良くコミュニティを作るという考え方が、アイヌの先祖じゃないのかともいわれているんですよ。 秋辺 ほぼ間違いないと思うけれども。弥生人は稲作を始めて。その前の縄文時代、米とか麦を栽培しない時はどうだったのといったら、アイヌと一緒でしょう。 ―― そうですね。だから、アイヌは、日本人の祖先だとも思える。 秋辺 いやだから「私たちの祖先もそうでしたよ」って言っていいんだよ。たまたまアイヌが近現代までその暮らしをやっていたというところに価値があって。 ―― そうなんです。 秋辺 見方を変えると、ずっと遅れたままでよかったねということなの。 ―― だから1万年前の伝統的な考え方を継承している、そういうことなのかなあと。 秋辺 それが世界中にいる先住民族なんですよ。 ―― 今、先住民族が、すごくもてはやされているというか、注目、尊敬されているでしょう。それはどう思います? 秋辺 定住して、米とか穀物を育てて、それが財産となり、貨幣になるでしょう。だから、貨幣価値を持たなかった人々の価値観がやっぱりよかったんだってみんなが気が付き出したということだけであって、別にすごいことでもなければ、全人類がそうだった。そこに早く貨幣価値に行っちゃった人と、つい最近まで貨幣価値に移行しなかった人たちが混在していた地球というのは面白いねというところで。 山梨大学の現在の研究課題 真相解明まであと2年 エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷 研究期間 (年度) 2020-04-01 - 2023-03-31 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/ CHB → KOR → JPT https://i0.wp.com/phity.net/wp-content/uploads/2019/10/jap6.png 主成分分析で使われているデータはJPT(Japan Tokyo)という東京都民1000人分の標本 関西のデータは使われてない。奈良県民1000人をプロットしたら、さらに韓国に近づく 日本のグラフで「東北弥生人」とキャプションされているのは、東北アイヌ(蝦夷)のことであり 日本の学者はすべてを説明をすることはせず、このように巧みに人を騙すことばかりしている 「縄文人と弥生人(ムムン・コリアン)は仲良く混血した」という前提で考えれば、現代日本クラスターは、 西九州型(熊襲・隼人)の位置にくるはずだが、そうではなく、それよりずっと韓国に近い位置にプロットされた 篠田が説明するように、「こっち(韓国)に引っ張る何か」が起きたのである。その何かとは百済人である 山梨大学の現在の研究課題 真相解明まであと2年 震えて眠れ エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷 研究期間 (年度) 2020-04-01 - 2023-03-31 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/ JAS(Jomon allele score)の分布とPCA https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/12/07/2020.12.07.414037/F3.large.jpg 日本の人口の形成プロセス 縄文晩期〜弥生時代〜現在 https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/12/07/2020.12.07.414037/F6.large.jpg 鹿児島(隼人)、青森・岩手(蝦夷)でJASが高め 近畿と四国ではJASが低めの結果となった 縄文人ADMIXTUREの比率によって、日本人の遺伝的な地域差が説明できる 東北縄文人と九州縄文人では遺伝的な差異があったかもしれない キャプション https://image.prntscr.com/image/VF_Zm8kHRUKPzzikxtjj7Q.png 鹿児島 (沖縄に向かっている) 青森・岩手 (アイヌに向かっている?) 奈良 (韓国に向かっている?) 外ケ浜の\村――津軽の蝦夷部落 津軽海峡には、むかし点々と\村があった。\は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。 名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。 西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。 宝暦五年(1755)の「津軽外之浜後潟組伏御改覚」では\村八カ村で二百三十四人のアイヌがいたと記されている。 \村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。 万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。 宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、 その名の下に「犬」の文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。 『陸奥州駅路図』に、「宇鉄村は宝暦年間まで蝦夷の容貌たり。曾長をクマタカイノ、フルクイン、 ウテレキ、セリキハ、ルウマンアイノ、ソタツイン、クマカイなど云へる名にてありしが、今は服従せり」とある。 大日本國東山道陸奥州驛路圖 (1800) 宇鉄村 https://image.prntscr.com/image/oslpMdnwR2yX88BupJSOfQ.jpg 江戸後期の津軽紀行『東遊記 (1807)』より: >「当地は70年前まではエゾ村であったが、今は風俗が変わって日本人の通りになっている。 >しかし近所の村とは縁組をせず、顔立ちも異なって眉が一文字につながっている女子などもいる。 >毎年近くの今別村の寺に集まり「蝦夷踊り」を行っている」 「先史日本列島人に関する二三の骨学的考察」 山口敏(国立科学博物館) doi: https://doi.org/10.1537/ase.104.343 北海道の縄文人とアイヌの関係について 日本列島の縄文時代人については、コロボックル説、アイヌ説、原日本人説などの諸説があいついで唱えられたが、筆者が人類学を学んだ1950年代には、縄文時代人は現代日本人の直系の祖先であり、アイヌとは似て非なるものであるとする長谷部言人の主張が圧倒的な影響力を誇っていた。 そのため、筆者が1959年に参加した稚内市宗谷オンコロマナイ貝塚の発掘で、続縄文時代の人骨数体にはじめて遭遇したとき、はなはだしく困惑した。アイヌ的な特徴 (眉間の隆起、狭い口蓋、動揺下顎、広く低い顔と眼窩、立体的な鼻根部、鉗子状咬合、扁平な四肢骨骨幹) と並んで、本州の縄文人の方に近い特徴 (中〜短型の脳頭蓋、著しい低顔型、ピラステルの発達した大腿骨) も見られたからである。 アイヌと縄文人を別系統とみる考え方に対してこのときに抱いた疑問は、その後、江別市坊主山遺跡や釧路市緑ヶ岡遺跡の縄文時代晩期人骨の発掘を経験するにつれて、ますます大きく膨らんだ。オンコロマナイ人の形態が決して道北部だけの例外的なものではなく、道央や道東部にも見られることが分かってきたからである。 さらに、1963年に虻田町高砂貝塚で縄文晩期の人骨十数体を発掘するに及んで、額が高く、眉弓が強く発達し、前頭縫合と横後頭縫合の痕跡を示し、外耳道骨腫や齲歯や上顎切歯の抜去まであるそれらの人骨には、本州の縄文人骨と区別するところがほとんどないことを知った。北海道の縄文文化の担い手は本州の縄文人そのものであったことを次第に確信するようになった。 その年には豊浦町礼文華貝塚で道南系の続縄文文化 (恵山式) を伴う保存良好な人骨を1体発掘し、さらに千歳市烏柵舞遺跡では擦文文化期の人骨数体の発掘にも参加する機会を得た。これらの人骨の観察から、道南の縄文時代人は恵山系続縄文時代人と擦文時代人をへて連続的に近世アイヌに移行していったという考えを抱くようになった。 筆者は1965年にオーストラリアの博物館を歴訪して骨格標本を調査したことがあるが、その目的はアイヌの骨格との比較にあった。 この研究によってオーストラリア先住民とアイヌとの間には形態上かなりの開きのあることが明らかとなったが、頭蓋の計測値や小変異の出現率について多変量解析を行なったさいに、アイヌと本州縄文人との距離が、アイヌとオーストラリア先住民や現代日本人との距離などに比較してかなり小さいことも明らかとなった。 これと前後して、ハーヴァード大学のW・W・ハウエルズがアイヌの系譜に関して重要な論文を発表した。かれは1961年に来日してアイヌの頭骨を調査し、帰国後さらに文献から縄文人、弥生人、中世人、近世人の頭蓋計測値を追加し、多数の項目に基づく判別分析を行なった。 その結論は、現代の日本人は西日本の弥生時代人と連続的につながるのに対して、縄文人は明らかにこれらと異なっており、縄文人の系譜につながるのはアイヌである、というものであった。かれの論拠となった判別分析の図の中で上述のオンコロマナイ人頭骨が重要な位置を占めていたのが印象的であった。 筆者は西日本の弥生時代人骨の研究には経験がきわめて乏しいのであるが、弥生人研究の進展状況と、弥生人の原郷に関しては、かねてから関心をもち続けてきた。 佐賀県三津遺跡、福岡県金隈遺跡、山口県土井ヶ浜遺跡などの出土人骨で代表されるいわゆる北部九州・山口型の渡来系弥生人については、対岸の韓国南岸の禮安里遺跡で出土した人骨との顕著な類似が明らかにされており、渡来の原郷が朝鮮半島南部にあったことはほぼ確実と見られている。 左: 稚内市オンコロマナイ貝塚の続縄文時代人頭蓋 右: 稚内市大岬のオホーツク文化人頭蓋 https://www.sapmed.ac.jp/medm/img/7_kaisetu/30/tougai2.jpg 横穴墓の分布と征討軍の地方制圧ルート 九州は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します。 景行天皇12年に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は西征に発っています。 経由地を記すと、娑麼から豊前国、日向国に移り、夷守を経て襲国の熊襲梟帥を討ち、大和に還っています。 しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。 太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています。 日本武尊は景行天皇40年に都を出て、伊勢神宮から東征し、上総国に入り、海路で蝦夷の境に至っています。 陸奥国の竹水門で蝦夷の賊首、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻っています。 日本武尊は「蝦夷の凶しき首、 咸く其の辜に伏いぬ。唯信濃国、越国のみ、頗る未だ化に従わず」と述べています。 東国が平定されても、信濃国と越国は大和王朝には従っていないことがわかります。 このように、征討軍のルート上に横穴墓が分布し、その結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。 ■ 第8図 景行天皇の九州行幸 第9図 大和武尊の東征 https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg 坂上田村麻呂(758 - 811) 田村麻呂の出自をたどると、中国後漢の霊帝の子孫で、 阿知使主を祖とする東漢氏の一族と伝えている。 ところが、阿知使主は朝鮮半島南部から渡来しているので、朝鮮半島系というのが事実のようである。 『日本紀略』延暦13(794年)6月13日条に、「副将軍坂上大宿禰田村麻呂巳下蝦夷を征す」とあり 10月28日条には、「斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五匹、焼落(焼き払った集落)七十五処」 とその戦果を報告したとある。日高見国において、朝廷軍が惨い行いをしたということだ。 田村麻呂は、この2年後に征夷大将軍になっている。征夷大将軍という称号は、こんな極悪非道なモノだったのだ。 桓武は前回の失敗に懲りて兵力を倍増した。征軍十万とあるから、前回のほぼ倍にあたる。 朝廷軍はアテルイを捕らえることもできなかったが、日高見国が受けた損害は大きかった。 斬首された者の数は、前回の約五倍であり、焼き払われた集落の数もおびただしい。 日本軍が中国で行った「三光政策」に似た虐殺行為が、日高見国においても行われたのであろう。 住居や家財道具を失ったエミシの非戦闘員の苦しみは大変なものであったと思われる。 陸奥国の移民の中には、こうしたエミシの悲惨な状態をみて、エミシに味方する者も現れた。 延暦18(799年)2月21日、陸奥国新田郡の農民の弓削部虎麻呂とその妻の丈部小広刀自女が 「久しく賊地に住み、能く夷語を習い、しばしば謾語を以て夷俘の心を騒動」したために、日向国に流されている。 虎麻呂夫妻はエミシに同情し、懐柔政策の実態など律令国家にとって不利な情報を提供していたのであろう。 律令国家は、それを「謾語」(でたらめの話)でエミシを動揺させるとして、虎麻呂夫妻を流刑に処した。 ■ 北上川(日高見川)と巣伏の戦い 蝦夷征伐の実態は北上川を遡上する朝廷の侵略戦争であった http://kitakawachisofttennis.web.fc2.com/hp1/tora/photos/uncategorized/2013/01/07/1.jpg ■ 末期古墳(蝦夷系墳墓)の分布 蝦夷の民が北上川沿いに集落をなしていたことがわかる https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/807/07/N000/000/011/155917363329402336180.png >>83 桃生 ももお ? ものう では? 古くは もものふ ほんとだ、桃生はモノウだよ この人マルチコピペしまくってるけど荒らし? >>85 荒らしなんて生易しいもんじゃない 極左工作員だよ 虚構の民族意識を高揚させて革命起こしたい奴ら 文献史料からは、蝦夷が倭人とは通じない言語を使用していたために訳語がおかれていたこと、 蝦夷の言語が律令国家側から「夷語」とよばれていたことなどが知られる。 訳語・通事が置かれたのは、確実なところでは漢語・新羅語・湖海語・夷語、 奄美等訳語(『延喜式』巻30大蔵省)、それに隼人の言語が加えられるかもしれない。 蝦夷にも何種類かいて、蝦夷同士でも通じない言語の種族がいたというけど… アイヌと縄文人はイコールではないよな 北の縄文人を侵略した北の部族と縄文人の混血が北海道アイヌ >>90 蝦夷にも色々いるけど、広義のアイヌを指してるならサツモン文化(なぜか変換されない)だからね 山梨大学の現在の研究課題 蝦夷の真相解明まであと2年 震えて眠れ エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷 研究期間 (年度) 2020-04-01 - 2023-03-31 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/ >宮城県の五松山洞窟(6世紀)から出土した人骨群では、その多くが西日本の弥生人に似た扁平性な顔を持つ中、 >少数だが縄文人的な顔貌の個体が混じり、成人男性2体の頭蓋に北海道アイヌとの類似が認められた。 >大和朝廷の最前線に位置する五松山の当時の状況から、 >東北北部には、仙台平野以南とは異なった形質の人々が住んでいた可能性を指摘している。 奴隷にされた蝦夷と隼人 >朝貢の儀式(710年)では、天皇が大極殿に出御し、エミシとハヤトを参列させた。 >皇城門外の朱雀路の東西に騎兵が整列する中、左右の将軍・副将軍がエミシとハヤトを率いて行進するという >一種の見せ物的なパレードであった。(『続日本紀』和銅3年正月元日の条) >エミシとハヤトは「蛮夷」とされ、天皇の権威と支配拡大の誇示に、屈辱的な形で利用されたのである。 蝦夷の民は最下層民として扱われた >滋賀県甲賀郡信楽町の玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内から >発見された文書には、「エソ三百七十人」の男女の名前が記されていた。 >東北地方の住民説、越中の住民説、近江の俘囚の子孫説が唱えられている。 >エソの人名には、「きみこ」(君子・吉弥侯=毛野氏と同祖)のように古代の東北地方に多い姓もみえるが、 >ほとんどは無姓であり、それらの名には、「いぬ」「くま」「うし」などの動物名、 >「とち」「まつ」などの植物名、「むさし」(武蔵)「たんバ」(丹波)などの国名、 >「やくし」(薬師)「くわうをん」(観音)などの仏菩薩号、「かなわう」(金王)「ふくわう」(福王)などの童子名に因むものが多い。 >これらは、非人などのような最下層民の名前の特徴と共通している。 表13 「エゾ交名」にみえる姓 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/2-h013.jpg 渡来人=弥生人と主張してた、 日本学術会議所属の連中が、 うぽぽいでアイヌ利権にいっちょ噛みしようと、 それまでの自説を覆して、 蝦夷=縄文人=渡来半島人とか言い出してる件www 連中、自分の懐温める為なら、歴史捏造平気でするよなw 血の業がそうさせるのかしらww コイツ↓痛い子なのでもしマッチングで失礼がありましてもご容赦ください 0466 名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! 2022/01/24 10:14:43 そいつと何回もマッチングしてるお前のレートを気にしろよバカw 立ち回り気にしたら?(笑) ID:5/9ypP2K 後発民族のアイヌが新登場して、他を制圧するのは12世紀ごろからだし それ以前は、本土の勢力も大きかったようだ 北海道・奥尻島になぜ勾玉が!? 「オーパーツ」の謎解明へ 考古学者に鑑定依頼 https://news.yahoo.co.jp/articles/5b994de18e064840f21da73ea0a89b8e04a37353 「この勾玉は、昔の有力者の副葬品とみられ、 3〜4世紀ごろに新潟県糸魚川産のヒスイで作られたということが分かっている」 「同時に出土した副葬品の水晶玉が8世紀のものと分かっており」 「また、8世紀ごろに現在の中国東北部やロシア沿海地方などを治めた国「渤海(ぼっかい)」の日本使節団の水先案内人として 奥尻の船乗りが貢献し、謝礼として京都で受け取った勾玉を奥尻に持ち帰った、との説もある。」 TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな 口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト 統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか? ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している 縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ 遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった 殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い 夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった 彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた 今のジャポニカ米はその子孫だ そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった これが弥生時代の始まりだ 遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた 残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる 春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した 三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない 邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた これが真の歴史だ ・渡島半島の日本人が先という事実と、争いは一部であって日本人であることは変わらないない。 ・「朝鮮半島も縄文系」「遡れば朝鮮半島は台湾など陸続きで藩王は不適切だし、中国地域の方が色々と早いのでせめて縄文前後付近の旧朝鮮は旧中国地域と呼ぶべき」であろう ・「旧石器捏造事件(ゴッドハンド)の某藤村(東北北海道側(東北旧石器文化研究所・宮城)問題)」のようにアイヌ左翼が多方面に「様々な物をアイヌと記述する工作」をしたせいで修正が大変。 ・ちなみに当然かなり長い間アイヌの国アイヌ国行政はなかった 北からの蒙古は(悪質な旧女真地域国・関係の契丹等を吸収した旧モンゴル地域の自業自得・刀伊の入寇等) 旧北海道地域の民族(骨嵬・亦里于。当時にアイヌは誕生せず。当時の北海道方面の日本有力者は安藤氏「日蓮遺文」の「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ」や星兜の出土など) VS 樺太北方民族(実質旧モンゴル地域王朝人) 旧モンゴル地域国家人として明確に対立、別種でありアイヌ民族ではない。 ド新参糞アイヌ民族はド反日サヨクとグル問題 ・反日テロ東アジア反日武装戦線と反日亡国論・アイヌ革命論(窮民革命論)。 ・ロシア・共産党ともグルのアイヌ。 ・日本の某権利を奪おうとする侵略者アイヌ。そうして日本を貶め、新参アイヌを有利にしたらロシア等が有利になる問題。 ・日本人の方がアイヌ民族よりも先に北海道の先住民族だが、アイヌ共は歴史を捏造。 ・サヨクは「ゴッドハンド事件(旧石器捏造)」の時も「首謀者が東北北海道側(東北旧石器文化研究所・宮城系)」で、「東北方面の石器スゲー!」とアイヌ方面が最古のように見せかけていただろう (大昔の北海道とか寒冷の歴史を見れば人類史的に住み難いのは分かるだろうにw) ・インディアン → ド新参民族アイヌと違って、インディアン(インディオ)は欧米移民初期から文献で証明されてるw (※ ラス・カサス神父 1542年「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」) ・アボリジニ → アボリジニも18世紀等の移民の早くから「aborigine(en:Aborigines (mythology))」とされる >>3 記紀以前にすでに書物はあったのが現実 歴史から消されたが肝心な記紀に火事になって書物を持ち出したとある >>103 お前はいい加減に1次ソース出せやコピペ馬鹿 全板規模の荒らしによる重複スレが立てられたので 本スレage 蝦夷って和人なんだぜ、大和民族はブーメランすな 縄文晩期は寒冷化に伴う環境の変化により、弥生海退と呼ばれる海水面の低下で干潟が一気に減少し、貝塚も消えていきます。 木の実、動物などの食料が減少した時代ですが、さらに、約3000年前に富士山が4回の爆発的噴火を起すなど、 関東平野一帯では富士山や箱根山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、急激な人口減少が起きたと考えられます。 そのため関東では遺跡がほとんど見当たらないという状況にまで至っています。 いわば空白地帯となった関東平野ですが、弥生後期(2〜3世紀)になると再び人口増加に転じます。どこから?どのような人々が関東平野に移り住んだのでしょうか? 無人だった関東平野を開拓したのは誰か? そもそも関東の原住民(実際は西からの移民)とは、東海やら近畿やら新潟やらの組織的な移住集団(弥生後期以降)から始まってる 。 「安達登 山梨大学 教授 2017-03-31」 東北、関東の5遺跡から出土した合計22個体の古墳人骨からDNAを抽出した。その結果、東日本古墳時代人の遺伝的特徴は現代人に非常に近かった。 古墳時代には既に、渡来人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられる。 日本列島の頭蓋計測値 分部哲秋 長崎大学・大学院医歯薬学総合研究科・講師 松下孝之 土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長 2022 頭蓋の計測的形質から見た場合、宮崎県西部山間部と宮崎県東部山間部から出土する従来からの山間部古墳人との間には大きな差は見られず、 形態的に縄文的要素を強く留めた集団といえる。 ENROSE形態距離に基づく主座標分析図を見ると、両古墳人の座標上での位置取りは、 渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜)と関係が深いとされる北九州、山陽、畿内、関東、東北の古墳人よりも縄文人に近い。 また、縄文人の継続したものと考えられている西北九州弥生人よりもさらに縄文人に近い関係が見られる。 https://i.imgur.com/8MlJjEq.png https://i.imgur.com/MYjlCc6.png 津雲縄文人(津雲貝塚) 渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜) 宮崎東部古墳人(旭台、上の原、菓子野、大萩、原村上、縄瀬、横尾、立切、東二原および日守地下式横穴墓群) 宮崎西部古墳人(広畑および島内地下式横穴墓群) 熊本古墳人(津袋大塚、向野田、古城、西潤野、四十八塚、千埼、桐ノ木尾) 佐賀古墳人(小隈、丸山、金立、今町、平田原、妻山、谷口) 東日本縄文人 東北古墳人(上の原、山ノ上、腰巻、千代鶴、深渡戸、梨木畑、五松山、二木、丸山、清水、熊野堂、矢本、山王、市川橋、狄穴) 関東古墳人 津雲縄文人 渡来系弥生人 頭蓋最大長186.4 183.7 頭蓋最大幅144.4 142.4 Ba-Br高 134.0 137.7 頭長幅示数 77.7 77.7 頭長高示数 71.6 75.3 頭蓋幅高示数92.2 97.0 頬骨弓幅143.2 140.0 中顔幅 103.6 104.7 顔 高 115.8 123.8 上顔高 67.0 74.8 眼窩幅 43.5 43.2 眼窩高 33.5 34.5 眼窩示数76.5 79.9 鼻 幅 26.6 27.1 鼻 高 48.6 52.8 鼻示数 54.5 51.4 宮崎東部古墳人 宮崎西部古墳人 熊本古墳人 頭蓋最大長180.9 181.5 181.2 頭蓋最大幅141.6 143.6 143.8 Ba-Br高 135.4 137.3 135.3 頭長幅示数 77.4 77.8 78.8 頭長高示数 74.8 76.0 75.5 頭蓋幅高示数96.0 96.5 94.6 頬骨弓幅138.4 139.2 137.9 中顔幅 102.4 100.9 102.5 顔 高 114.8 116.1 116.0 上顔高 68.4 69.0 67.4 眼窩幅 43.0 42.8 42.7 眼窩高 32.8 33.6 33.0 眼窩示数76.8 78.5 77.1 鼻 幅 27.1 27.1 26.3 鼻 高 49.4 49.8 50.1 鼻示数 55.0 54.9 52.3 東日本縄文人 東北古墳人 関東古墳人 頭蓋最大長183.2 182.6 181.8 頭蓋最大幅143.7 140.0 142.1 Ba-Br高 139.9 136.1 137.3 頭長幅示数78.5 76.9 78.6 頭長高示数76.4 75.0 75.7 頬骨弓幅141.8 136.6 141.8 上顔高 68.4 69.7 70.9 眼窩幅 43.8 42.9 43.1 眼窩高 32.9 33.6 33.7 眼窩示数75.2 78.4 78.4 鼻 幅 26.6 26.6 26.8 鼻 高 49.6 50.8 51.4 鼻示数 53.8 52.3 52.6 弥生時代・高度な灌漑水田稲作、環濠集落の北上 ・青森県弘前市・湯の沢遺跡(岩木山北東麓の標高144メートル) 2021/9/15 津軽平野で初となる弥生時代前期(約2400年前)の大型住居跡・同時代の特徴を備えた土製品 今回の調査は同遺跡の発見から約60年ぶりに行われた ・青森県弘前市・垂柳遺跡、砂沢遺跡(2500年前)等の稲作跡、水田に残された北方弥生人の足跡 ・秋田県秋田市・地蔵田遺跡(西の遠賀川系土器)西日本式の高度な環濠集落はこの地方周辺における当時の一般的な建物構造であることが明らかになりつつある。 ・青森県・清水森西遺跡 弥生時代の水稲農耕文化の痕跡の最北地を更新 (倭人來獻鬯草(推定周の成王およそ紀元前11世紀3100年前縄文時代付近か)倭と呼ばれていた弥生時代から遡って縄文時代晩期も倭ではあろうが) 古墳時代・近畿東海集団の大規模移入(須恵器・土師器・鉄製品・石製模造品など) ・宮城県栗原市・入の沢遺跡(300年代) ・宮城県石巻市・新金沼遺跡(300年代) ・宮城県仙台市・南小泉遺跡(300年代) ・岩手県奥州市・中半入遺跡(300年代) ・岩手県盛岡市・永福寺山遺跡(300年代) ・山形県山形市・大塚天神遺跡(300年代) ・山形県鶴岡市・畑田遺跡(300年代) ・山形県酒田市・関遺跡(300年代) ・青森県八戸市・湯ノ沢遺跡(300年代) ・青森県五所川原市・隠川遺跡(300年代) ・福島県・杵ガ森遺跡(200年代)、会津大塚山遺跡(300年代)、三角縁神獣鏡等。ほか大安場古墳 ・福島県・灰塚山遺跡(400年代)、青銅の鏡、刀や矢尻など多量の鉄製品、・福島県の塚前遺跡(500年代) ・福島県・四穂田遺跡(400年代)「短甲」、鉄製大刀、鉄斧、鉄製矢尻、槍鉋、砥石、土師器など ・例えるなら大和民族が日本の先住者で、東北人は移住した大和民族なのだから本来のカタチとなっただけ。 ・弥生時代に東北に固有の民族は居ない。蝦夷は遥か後に誕生したもの。倭から分かれた亜種と言ってもいいか。 弥生時代の遺跡は、最上川流域に極めて少ない。 古墳時代前期、すなわち米沢盆地は北陸ー会津ルートによるものであり、山形盆地は畿内ー仙台平野方面から、 庄内平野は北陸ー越後方面から、人々がかなり進出したことによるものであった。 人と物の頻繁な移動により、人口希薄なこの地に多くの人びとが移住するという外来的な要因によって、 最上川流域の古墳時代が開始されたのであったと考える。 馬を飼う文化と言語 古代史では蝦夷は馬を飼うのが特徴だと言われます。 しかし馬はもともと日本列島に生息しておらず、5世紀に古墳文化を担っていた人々が大陸から導入し、馬を飼う文化を広めました。 一方でアイヌ民族は馬を飼いませんでした。古代の蝦夷が馬を飼っていたのなら、 「蝦夷はアイヌ民族ではなく和人である」という可能性が高まります。 また、アイヌ語は形容詞がない代わりに動詞を形容詞的に使うなど、日本語とはまったく違う言語です。 12世紀以降の東北地方では日本語が話されていたことが文献からわかりますし、 それ以前に使われていたアイヌ語から急速に言語が入れ替わったと考えるのも難しいでしょう。 青森県西部で使われる津軽弁に日本語古語に由来する言葉が多いことからも、そこでは古くから日本語が話されていたことがうかがえます。 つまり、古代の東北地方にはアイヌ民族ではなく和人が住んでいたと推測できるのです。 考古学は物証が大切 事件が起きた時に伝聞や自白ではなく物証を求めるように、考古学でもその歴史が本当に起きたのかという証拠を探して裏をとります。 例えば日本列島各地の水田に住むマルタニシは弥生時代以降に出現したのですが、DNA分析によると朝鮮半島のものと同種です。 マルタニシは水田や水路に生息し食用とされていたと中国の6世紀の文献に書かれており、稲作と共に大陸から持ち込まれたと考えられます。 人間と共にあった様々なものや生き物から、人の移動や歴史の流れを読み取れるのです。 西暦200年人口推定 東奥羽(福島、宮城、岩手、青森): 2万9000 西奥羽(山形、秋田): 5000 北関東(茨城、群馬、栃木): 3万9000 南関東(千葉、埼玉、東京、神奈川): 6万 北陸(新潟、富山、石川、福井): 2万1000 東山(山梨、長野、飛騨): 8万7000 東海(静岡、愛知、岐阜): 5万4000 畿内(奈良、京都、大阪、神戸): 3万 畿内周辺(滋賀、三重、和歌山、兵庫): 7万 山陰(鳥取、島根): 1万8000 山陽(岡山、広島、山口): 4万9000 四国(徳島、香川、愛媛、高知): 3万 北九州(福岡、佐賀、長崎、大分): 4万1000 南九州(熊本、宮崎、鹿児島): 6万5000 総数60万 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」2000年 > 0548ウィズコロナの名無しさん > 2023/11/04(土) 13:25:48.91ID:xgBNZpLQ0 > 東北の日本海側はユーラシア大陸の巨大政権に怯えて朝鮮から逃げて来た勢力が大勢いたんよ、だから臆病な村社会の気質が今も受け継がれてる。 > 本格的な日本海交易の物流は弥生後期2〜3世紀から始まっていた。この時代は日本列島生きた人々が東アジアの強大な政権と本格的な交渉を開始した時期である。 > 対馬海流が朝鮮海峡から津軽海峡方面に流れ、沿岸部にはその反流が流れるため、舟で往来するのにはとても有効な海路である。 > 日本海というのは、地球規模でみた場合は大きな湖のようなもので、古代人にとって「内海」といっても過言ではなかった。 > 弥生後期2〜3世紀からは朝鮮半島から直接、準構造船船団による組織的交易が新潟や東北方面にもたらされるのである。 > 方形周溝墓に鉄製武器を副葬する習俗は、朝鮮半島に由来するものである。 > 根塚遺跡の渦巻紋装飾を含めた3本の鉄剣は特注品であり、当時から長野県北部の人々は朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことになる。 > 長野県内の千曲川流域のいくつもの遺跡で朝鮮半島製の青銅器や鉄器が発見されているが、いずれも上越から峠を越えて運ばれたものである。 > その分布は千曲川流域から、さらには関東地方まで強い影響を与えている。 > この時期は中部地方や関東一帯でものを切ったりする利器が、鉄器に劇的に移り変わる時期にあたる。 > 鉄器とその素材は朝鮮半島の南東部に由来するものである。 > 実際に東北一円、新潟でもそうだが、消耗度の非常に高いアメリカ式石鏃(大阪府高槻市芝生遺跡で初めて見つかった際に、アメリカ原住民が使う矢じりとよく似ていたのでこの名がつけられた) > などには鉄を使わないので石の矢じりは残るが、木を伐採する石斧は急速に数を減じて、鉄斧が一斉に普及する様子を知ることができる。 > 丁度その頃に新潟県内の各所でも高地性集落が目立つようになるが、これは中国の『後漢書』などに、後漢の終わり頃「倭国、大いに乱れる」という記事が出てくる。それを彷彿とさせる状況と言える。 > https://i.imgur.com/gV9WpIG.png The distinctive geographic patterns of common pigmentation variants at the OCA2 gene https://www.nature.com/articles/s41598-020-72262-6 沿海州ツングース集団や中国東北部集団(rs74653330) C2やNとほぼ相関 東北日本海沿岸に多い傾向も見られた。 https://i.imgur.com/CRZ0YO4.png 共通する新モンゴロイド(寒冷地適応した)に由来する。 それぞれ 沿海州・高句麗・新羅→北陸・東北地方日本海側(粛慎?蝦狄?) ルートに対応すると思われる。 東国における古墳時代地域経営の諸段階−上毛野地域を中心として− 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年 3 月 東海集団の大規模移入 南関東のうち相模湾・東京湾西岸では,弥生後期前半から中葉にかけて以下に述べる東海東部系土器の大規模な移入が知られている[比田井 1993,松本完1993 西川 2001 など]。 相模では,相模川西岸に東遠江(菊川式)・駿河(雌鹿塚式)の土器が,また相模川東岸には東三河(寄道式)と西遠江(伊場式)の土器が濃厚にみられ, 南武蔵には東遠江,駿河の土器が移入されるとともに,環濠集落が集中して形成される。 中期後半の宮ノ台文化が解体した後,集落再編と久ケ原式の成立がみられ,その外縁に東海東部系土器の移入が生じたのである。 これらはいずれも型式属性や土器組成が故地と同じでありながら,胎土は在地のものであり,また当初は故地の様式に忠実であったものが次第に在地化し,台付甕文化圏を広く成立させている。 これらの状況は,大規模な入植集団による地域再開発とその定着の道筋を示していると考えられる[大村 2015]。 続いて,弥生終末期から古墳時代初頭にかけても集団移動が確認できる。@地域では弥生後期の様相を引き継いだ土器様式が展開するなかに外来系土器の混成が認められるが, A地域では主として東京湾岸系土器(内房地域)のまとまった移動が認められ,在地の土器群を一変させることが知られている。 それまで不詳だった方形周溝墓や方形環濠集落も出現している。大村直はこれを「終末期開拓移住」と性格付ける [比田井 2004,大村 2015]。 一方,B地域には,畿内の庄内式後半から布留 0 式並行期に S 字口縁台付甕を中核とした東海西部系土器(元屋敷式系)が出現する[田口 1981,若狭 2007]。 この時期に東海西部系土器の参入が厚くみられるのが,在来弥生集団が進出していなかった上毛野利根川沿岸低地部や武蔵北部の利根川・荒川流域である。 また,下毛野・那須,常陸北部,三浦半島,南武蔵の東京低地(古利根川・渡良瀬川が形成した武蔵と下総の間にある湾岸低地)にもS字甕がみられる。 特に上毛野の低地部では,東海西部系土器が様式的に完備した形で定着し,在地化を遂げる。墓制が東海起源の前方後方墳に転換し,東海西部系の木器様式, 排水溝をめぐらした低地性住居(平地建物)も出現する。 東海色は布留 1 式並行期まで継続し,故地との情報交流が継続しているが,その段階の葬送用器物として顕著なのが,東海でも伊勢地方に多い伊勢型二重口縁壷[田口 1981]の採用である。 またB地域では,後述するように東海西部系様式を保持する集団の外縁地帯(山麓や山間部)に,一時的に在来弥生系土器を保持した集団が併存し,次第に同化していく[若狭 1990]。 以上のような諸属性から,この地に東海西部を主体とする外来集団が組織的に移入したことは疑いなかろう。 なかでも,典型的な「伊勢型二重口縁壷」が葬送儀礼に用いられた上毛野西部に移入した集団は,主に伊勢地方に起源する可能性が考えられる。 ただし,上毛野から東に離れると,次第にS字甕・伊勢型二重口縁壷が薄れ,普通口縁のハケ整形台付甕やナデ整形平底甕,久ケ原系壺などが混在する。 そこでの集団構成は,大宮台地や上総の在来系集団を核に,各地の外来系集団を混成したものとみられる。 遺跡の分布からみた東海西部系集団の移入ルートは,太平洋岸の外洋を経由した後に,三浦半島を経由して東京湾から東京低地に入り,現荒川筋を遡上,大宮台地北部から現利根川流路を経つつ, 北武蔵と上毛野において利根川両岸に展開したとみられる[田口 2000]。 北西関東における東海西部系集団の定着 上述のように,古利根川,荒川水系は連接し,東京湾と北西関東内陸部を連絡していた。ここを遡上してきた外来系集団は利根川両岸に展開したが,なかでも中核的な定着地となったのが次の地域である。 ア.群馬県西部の利根川北岸・井野川下流(高崎市・玉村町地域) イ.同利根川南岸,鏑川・神流川下流域(藤岡市・埼玉県児玉郡域) ウ.利根川から荒川南岸(埼玉県本庄市・熊谷市) エ.群馬県東部の利根川北岸域(群馬県伊勢崎市・太田市地域) これらは,いずれも先行する弥生後期集団が不在であった低湿地域である。換言すれば,在来弥生集団が経営不可能であった未開地であるがゆえに外来集団の移入が可能だったのであり, ここに東海地方固有の低湿地開発に適応した技術群が投入されたと考えられる。広大な空閑地を開拓するために,外来の人々は目的的に移入したのである。 なお,ここでは集団定着後の墓制として東海系譜の前方後方墳が成立する。 前方後方墳は,前方後円墳秩序の影響を受ける前後で,第T群・第U群前方後方墳にその歴史的性格が分かれることが指摘されるが [中井 2004,田中 2011], B地域ではU群前方後方墳として大型のものが成立するのが特徴的である。 100m級では,ア地域の元島名将軍塚古墳(95m),前橋八幡山古墳(130m),エ地域の藤本観音山古墳(116m),山王寺大枡塚古墳(96m)を挙げることができ, とりわけ農業経営に成功し,動員力を獲得した地域であったと見られる。 なお,利根川水系以外では,那珂川水系の上流部に大型前方後方墳の集中がある。 駒形大塚古墳(64 m)からはじまり,前期を通じて前方後方墳を継続し,最終的に下侍塚古墳(84 m),上侍塚古墳(114 m)を輩出する那須地域である。 移入集団は当初から首長に統括されており,その首長墓の造営準備行為は水田開発準備と連動し,土器を献納する祭祀(集団意識の結集行為)を伴いながら進行したことが判明する。 すなわち,古墳造営が,新開地での開発推進と連動する「象徴行動」であることが確認できよう。 なお本古墳は,弥生後期の樽式土器を保持する在来集団の「伝統的居住域」と古墳時代外来集団による「新開地域」の境界地に築造されており, 記念物としてきわめて意図的な選地が行われ,外来集団と在来集団の統合のシンボルとしても機能したと考えられる。 荒川南岸の低地に営まれた集落跡からは,吉ケ谷式系,東海西部・東海東部系,畿内系,北陸系土器とともに,ガラス玉の製作を証明する土製鋳型や, 水晶・緑色凝灰岩・瑪瑙を用いた玉造りの痕跡が確認されており,遺跡内では河川跡と堰も検出された。 往時の上毛野の低地部には,地域経営をすすめる複数の首長系譜が移入し,上述のように大型前方後方墳の築造を成し遂げているが, これらの集団は,上毛野の広大で安定した低湿地が未利用であるという情報を,弥生後期の情報ネットワークのなかで獲得し, ここを経営する目的で大挙して移住したと考えられる。 上毛野の開発が急速に進められ,東日本でも突出した古墳文化を創出していく理由は,当初から低湿地利用を核とした地域経営システムが完成された形で扶植され, かつ集団編成が多元的であったことに由来したのである。古墳膝下にある五領遺跡は布留式土器を多量に出土しており,このエリアの畿内との交流の濃厚さを教えている。 最も外来系集団の圧力が強かった上毛野西部平野部周辺では,樽式土器は急速に解体し,外来系集団に速やかに取り込まれた[若狭 1990]。 吉ケ谷式はさらに興味深い動きを示す。北武蔵から見て利根川対岸(北岸)の上毛野東部は,もとより在来弥生集団が希薄であり,弥生後期はほぼ無住地であった。 しかし古墳前期初頭になると,東海西部系集団の移入とともに吉ヶ谷式の拡散が起こり,上毛野東部利根川沿岸低地には東海西部系集団, 背後の赤城山や足尾山地の山麓部には吉ヶ谷系集団という住み分けが発生したのである[若狭 1990,深沢 2015]。 同時に,赤城山南麓には上毛野西部から樽系集団や,信濃を経由してきた北陸北東部系集団(北陸全般に共通する土器様式〔月影式,白江式〕を保持し, 能登・佐渡・越中・越後などの北東部地域固有の甕を組成する)も展開し,赤城山南麓では樽系集団,吉ケ谷系集団,北陸北東部系集団が混住し, 東海西部系土器(ただしこのエリアでは,模倣された土器が主体)を共伴するという複雑な様相を呈する。 弥生終末から古墳前期に東京湾から荒川・利根川を遡上した東海西部系集団はかなりの規模であり,河川両岸の空閑地となっていた低湿地に定着し,大規模な水田開発を行った。 同時に,反町遺跡に代表される集落の出土組成に東海東部系・南関東系・北陸北東部系の土器を含むように,この集団は近接集団と密接な交流関係を取り結び, 弥生後期の閉じた社会関係を大きく再編したことが明らかである。 長野県内では,木島平村・長野市・上田市・佐久市と千曲川流域一帯に点々と朝鮮半島南部で製作された鉄器と青銅器の出土例があり,いずれも弥生時代後期後半であることは重要である。 関東地方でも群馬県有馬遺跡や新保田中村前遺跡などの礫床木棺墓や,埼玉県観音寺遺跡などの方形周溝墓の主体部や周溝内埋葬などの副葬品として検出されている。 長野県内や関東地方の分布状況をみると,千曲川流域から群馬県方面,そこからさらに南関東や東関東方面へと分布が形成されたと考えられる。 そして千曲川流域への流入経路を考えると,直接の流入もとは高田平野であり,さらに北陸,北近畿,山陰と,日本海沿岸部を西にたどっていくことができる。 ざっくり言ってしまえば,そもそも,墳墓に鉄剣を主とする鉄製武器を副葬する習俗は朝鮮半島南部に顕著なもの。これが弥生時代後期後半に,中国地方から北陸へと分布を拡大しており, その延長線上に千曲川流域や関東の鉄剣副葬習俗の普及があるとみられる。 こうした,弥生後期後半からの再編の波をうけ,西進の移入経路にあたっていた吉ケ谷集団は分解し,外来集団と接触する一方,一部は利根川を遡上した支流の鏑川流域, あるいは利根川対岸の上毛野東部・下毛野地域に移住したとみられる。 同じ頃,上毛野西部では外来集団との関係で樽集団が変質を迫られ,一部は利根川を渡った上毛野東部に移り,吉ヶ谷集団とも交わりながら再編されていった。 地域開発に関してみると,低湿地部はその地に適した固有の技術群をもつ東海系集団が推し進めており, 彼らは未利用低地を開発するために首長に率いられ,目的的に移入してきたことが明らかである。 上述のように,上毛野地域における古墳前期の地域経済の進展は,主に低湿地の水田耕作の拡大によって成し遂げられていったが, 砂町遺跡の事例に代表されるように,その耕地整備は,滞留水を除去する排水措置の実施と,用水の安定管理に資する給水路の整備の両面によって保障されていた。 このため,当地域の政治経済圏は,基本的には河川水系に依拠していたことが明らかである。 また,地域開発はそれを主導する首長の墳墓の造営とも連動していたとみられたが,河川水系単位の経済力 ・ 動員力で成し遂げられる古墳の規模は, 上毛野では前橋八幡山古墳(130 m),前橋天神山古墳(129 m)にみる墳長 130 m 級が最大であり,また限界であった。 しかし,前期後半になると墳長 172 m の高崎市浅間山古墳,同 165 m の太田市別所茶臼山古墳のように,それまでの限界を超えた大型古墳(いずれも前方後円墳集成4期)が登場した。 これらは,水系経済圏を越えた複数領域の集団が共立した大首長の墓と考えられる。その成立にあたって,いくつかの要因が考えられる。 一つはそれまでの用水圏をさらに結合した広域用水圏の成立である。別所茶臼山古墳の成立はまさにそれにあたると考えられる。 茶臼山古墳の立地は,赤城山東南麓の大間々扇状地南端に発する水源を押さえており,上毛野東部の広域用水網を整備し,諸首長間の利害を調停した大首長=共立王[土生田 2008]の登場を教えている。 同古墳膝下の水源地には,導水路を備えた中溝・深町遺跡[福島 2000] が成立し,ここに首長の居所が置かれるとともに,石敷井戸や貯水池を配備した水の祭祀場,方形溝をめぐらした大型倉庫が装備され, 大首長の政治・経済・祭祀拠点(いわゆる首長居館)が象徴化,可視化されている[若狭 2011]。 そのヒントとなるのが,太田天神山古墳より以後に生起する,上毛野への渡来文化・渡来技術の導入と,それによって生起する様々な技術群の存在である。 結論を先に述べると,太田天神山古墳の成立は,これ以前の地域内事情を超越した「東アジア世界との交渉」がもたらしたものであると考える。 倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。 上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが, 後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。 『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年], 竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。 したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。 3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日 関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。 https://i.imgur.com/JjWfCJd.png https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 三陸河北新報社2022年8月24日 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。 石巻地方に古墳時代人が登場したのである。 突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。 東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。 ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。 岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。 いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。 宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟 山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群 いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ 当然、さまざまな道も生まれていった。 仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。 「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。 石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。 畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。 この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。 倭の五王の時代、律令制国家以前 赤線は内陸部主要交通ルート https://i.imgur.com/hoHEdkE.png https://i.imgur.com/TA3rE0o.png 征夷大将軍の坂上田村麻呂神社は東北各地にあるけど 前神はナニを祀ってたのかなぁ。アラハバキなのか 紀元前6世紀後半には遠賀川系土器集団が朝鮮大陸から渡来しており、灌漑水田環濠集落などの弥生文化が東へ北へ移住拡散していた https://i.imgur.com/ZIU52Hl.png 北限は紀元前6世紀津軽砂沢・垂柳遺跡や紀元前4世紀秋田地蔵田遺跡などの渡来コロニーを築いて朝鮮大陸から持ち込んだ高度な弥生技術を用いて暮らしていた 津軽半島の水田には当時の渡来系弥生人の足跡が残されており形質人類学的にも注目を集めた 例えば同時期の糸島新町遺跡や唐津大友遺跡は縄文ゲノム100%、一方で名古屋朝日遺跡は縄文ゲノム10%しか持っていない 同じ弥生人でも地域や地形で違う形質の人間が暮らしていた 国立歴史博物館教授・藤尾慎一郎 日本経済新聞2023.05.26 「愛知県清須市から名古屋西区にかけて広がる朝日遺跡から出土した弥生前期後半(2600年前)の人骨の核ゲノムは渡来系だと判明。 この地域では弥生初期を特徴付ける遠賀川系土器が見つかっており、それを使っていたのが渡来系弥生人であることがゲノムで確認できたわけだ。 土器の系統と遺伝子が対応する可能性を示すもので興味深い」と藤尾氏。 https://i.imgur.com/QIOOu2U.png A.弥生前期の水田稲作民。渡来系弥生人の形質とDNAをもち、板付・遠賀川系土器を使用する人々。 最も大陸ゲノムの高い渡来系弥生人である東海最大級の紀元前600年愛知県朝日遺跡。 北限は紀元前500年青森垂柳遺跡、紀元前300年秋田地蔵田遺跡等もこのタイプの環濠集落である。 初期の稲作農耕文化を携えた人々が移り住んでできた弥生集落と考えられる。 B.弥生前期の採集・漁労民。在来系の形質とDNAをもち、突帯文土器を使用する人々。青銅器文化を受容するが、渡来系の人々との混血は見られない。 たとえば、九州東北部の響灘沿岸、瀬戸内、四国、近畿は板付T式甕の系統を引く遠賀川系甕がほぼ100%を占める。 一方、九州の有明海沿岸や熊本、鹿児島では突帯文の流れを引く突帯文系甕がほぼ100%を占める。 弥生前期の日本列島では主に北九州から北東北の平野部にAタイプ、その他にBタイプが分布、形質、生活様式の異なる人種が住み分けられていた。 遠賀川系土器は東日本最古、紀元前6世紀の青森に伝わり、 稲作(津軽平野垂柳遺跡で656面の水田跡、弘前市砂沢遺跡においても弥生前期末の水田跡)をはじめとする弥生文化が受容されていた 特に弘前市砂沢遺跡112面の水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg https://i.imgur.com/CtOEXtK.jpg 垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった 垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである 東日本の主な渡来系弥生集落 https://i.imgur.com/bb93dvs.png 秋田地蔵田遺跡(紀元前4世紀)はこの地方一帯の当時の一般的な住居構造である環濠集落、遠賀川系土器集団である。 渡来系弥生人コロニーを形成していた。 初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、 ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。 新潟の下谷地遺跡(紀元前3世紀)は土器の9割を畿内系が占めており、畿内から東山ルートの陸路はこの頃から使われていたと考えられる 紀元前の渡来系弥生人骨出土例では他に長野市伊勢宮遺跡、静岡市瀬名遺跡、沼津市長沢遺跡などが知られている その後、弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である 遠賀川系土器は日本海側を伝播、庄内式土器は弥生末期の布留式土器と変遷を辿りながら同時に岩手まで和人集落と共に太平洋側を北上する 弥生後期、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日 関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。 布留式土器の時代になるとさらに北に進出して分布が広がる。同時に東海の土器も茨城県・福島県・宮城県、そして岩手県まで北進。 人々が北へ移住する理由は不明。 https://i.imgur.com/JjWfCJd.png https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 各時代・核ゲノムまとめ BC.6800 愛媛上黒岩縄文・縄文100% N9b3 BC.6300 群馬居家以縄文・縄文100% N9b3 BC.5700 佐賀東名縄文・縄文100% D1a2a M7a1a BC.4100 熊本轟縄文・縄文100% M7a1a BC.3800 富山小竹縄文・縄文100% D1a2a1c1 M7a1、M9a、N9b1、N9b3、A、G BC.3500 岡山船倉縄文・縄文100% M7a1 BC.2300 千葉古作縄文・縄文100% N9b1 BC.2200 鹿児島出水縄文・縄文100% M7a1a、M7a1a2 BC.2100 鹿児島柊原縄文・縄文100% M7a1a BC.2000 神奈川称名寺縄文・縄文100% M7a1、M7a2、N9b、D4b2 BC.1700 北海道船泊縄文・縄文100% D1a2a2b N9b1 BC.1700 千葉六通縄文・縄文100% D1a2a1c1 N9b2a BC.1700 愛媛平城縄文・縄文100% M7a1a BC.1500 沖縄摩文仁ハンタ原・縄文100% M7a1a BC.1000 福島三貫地縄文・縄文100% M7a2、N9b BC.1000 韓国慶尚南道欲知島・縄文95% C1a1 紅山文化 BC.900 愛知伊川津貝塚・縄文100% N9b1 BC.800 佐賀大友弥生・縄文100% M7a1a6 BC.700 沖縄長墓貝塚・縄文100% C1a1a1a1 D4d BC.700 韓国忠清南道瑞山市・縄文28% C2a-L1373 夏家店上層文化 BC.600 愛知朝日弥生・縄文10% B4c1a1a1a、D4g1b BC.200 佐賀花浦弥生・ D4b2b1、B4b1a1a BC.100 福岡安徳台弥生・縄文15% B5b6 AD.100 長崎下本山弥生・縄文60% O M7a1a4、D4a1 AD.150 鳥取青谷上寺弥生・縄文10〜20% C1a1、D1a2、O1b2 N9b3、D4b2b1d AD.250 熊本大坪弥生・縄文42〜52% C1a1、D1a2a1c2 AD.300 宮城新金沼古墳・縄文15% AD.400 香川茶臼山古墳・縄文15% C1a1 D4m1 AD.400 韓国慶尚南道金海市古墳・縄文34% D1a2a1 AD.400 鹿児島広田古墳・縄文100% B4f、D4 AD.450 山形戸塚山古墳・縄文15% M7a1 AD.450 福島灰塚山古墳・縄文15% D41 AD.450 和歌山磯間古墳・縄文42〜56% D1a2a、O1b2a1a1 M7a1a4a、M7a1b1、N9b1、D4b2a2a1、D5b2 AD.500 石川岩出古墳・縄文15% O2a2b B5a2a1b、D5c1a、M7b1a1a1 AD.500 南九州古墳・縄文60〜100% M7a1a2、M7a1a7、N9b、D4b2、A、D4a1c、F、B AD.600 東京羽根沢台古墳・縄文10% D1a2、O M7a1、D4b2、D4a2a、D4j3 AD.650 島根猪目古墳・縄文20% O1b2a1a1 M7a1a1a、D4b1a1a、D4g1、N9a2a1 現代アイヌ・縄文60〜100% 縄文〜古アムール 現代沖縄人・縄文25〜40% 縄文〜古西遼河〜古アムール 現代本土人・縄文8〜28% 縄文〜古西遼河〜古アムール 現代韓国人・縄文0〜4% 縄文〜古黄河〜古西遼河〜古アムール 日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。 紀元前9世紀(1)在来系弥生時代集団I(縄文ゲノム100%):縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、 弥生前期の佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。 紀元前7世紀(2)渡来系弥生時代集団I(縄文ゲノム10%):朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、 弥生前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。 紀元前2世紀(3)渡来系弥生時代集団II(縄文ゲノム15%):西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、 弥生中期〜後期の福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021)などです。 1世紀〜3世紀(4)在来系弥生時代集団II(縄文ゲノム60%):渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、 弥生後期以降の長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)などで、いわゆる「西北九州弥生人」です。 https://i.imgur.com/7ZYDckS.png 東北学院大学 文学部歴史学科 辻秀人 教授 現在の日本人は列島に元々いた縄文人と渡来人が混血して形成されたと考えられている。 弥生時代終末期に会津盆地、米沢盆地を中心に北陸北東部から大量にヒトの移住があり、 古墳時代初頭に福島県中通、浜通り地方、仙台平野に千葉県域から大量のヒトが移住してきて、 農耕を基盤として古墳を築造する西日本的な社会が成立すると主張してきた。 今回の成果はこのような見方の妥当性を示す者かもしれない。 今後は得られた分析データの解析をさらにすすめ、目や皮膚の色などの具体的な情報を明らかにしていきたい。 https://i.imgur.com/6hch7XH.png https://i.imgur.com/NlBYGMv.jpg read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる