小さなナポレオン山田顕義

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0001司法省第三代将軍2010/09/20(月) 17:12:41
陣頭指揮突貫。四境戦争、鳥羽伏見の戦い、
北越戦争、五稜郭の戦い、佐賀の乱、西南の役。
一度も負けなかった小さなナポレオン山田市之允こと山田顕義を語ろう。
反面、法典論争では完敗。急死。悲劇の最後を遂げた市ィーを語ろう。

0695日本@名無史さん2015/10/03(土) 06:48:14.76
懐かし洋画板「野性の証明」スレより

         ↓

415 名前:この子の名無しのお祝いに
投稿日:2015/06/14(日) 21:32:15.62 ID:hOQddo7A
アジサワ・イズ・ベストコマンドゥー

0696日本@名無史さん2015/11/23(月) 12:47:42.37
今更だけど日本近代史板に立てろよ

0697日本@名無史さん2016/03/06(日) 19:55:59.48
法政大学首脳陣は
母校の歴史に
疎い

ボアソナードが働けたのは司法卿、司法大臣の
山田顯義伯爵の助けがあったからこそ。

159>>ボアソナードは法政のために無給で働いたけど明治にはバイトいってた
山田顯義も無休で働いた口です。
フランス人で生意気なボアソナードが働けたのは、頑迷な他の
明治首脳を山田顯義が排除したから。

山田顯義の公私にわたる法政大学への援助がなければ、
法政大学は今頃、息をしていません。

0698日本@名無史さん2016/12/02(金) 20:42:16.05
保守

0699大学受験サロンに山田市スレ2016/12/19(月) 19:23:26.42
日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは
血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/

大学受験サロンに山田市スレが立ち上がっていたので
参加します。私は物心ついてからの山田顯義伯爵のファンです。

0700日本@名無史さん2016/12/23(金) 22:47:40.66
靖国神社の大村益次郎銅像についての批判|狂躁のパジェント
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html

山田顯義と靖国神社の関わりを述べてみました。
山田市は師匠思いのいい人だぞ。
小柄な148aの山田市之允が高さ13メートルの
デッカイ大村益次郎の銅像を立てました。

0701小唄 「風折烏帽子」2016/12/24(土) 09:25:13.19
みなさんは小唄の「かざをりえぼし」はご存知ですか?
小唄 「風折烏帽子」

岐阜の長良川鵜飼を題材に明治の元勲山田顕義伯爵
(法典整備や日本大学・国学院大学の創設者として活躍)が
明治天皇に長良川の鮎を献上した際の感激を詞にしたもので、
夏になると岐阜では座敷舞として唄い続けられた風雅な曲なのです。

幕末、山田市之允は小舟の中で明治天皇の叔父さんの中山忠光卿から
小っちゃい瓢箪をプレゼントされますが、岐阜の長良川の
鵜飼いでは明治天皇に デッカイ?鮎を献上しています。


小唄 「風折烏帽子」

風折烏帽子 腰蓑つけて 清き流れの長良川
流れ尽きせぬ幾千代かけて 君に捧げん鮎の魚
船端叩いて ほーほーほっ
 
【解説】  清元お葉作曲 
明治二十三年九月、司法大臣山田顕義が、岐阜県長良川の鵜飼に遊んだ時に作詞したものである。
「君に捧げん鮎の魚」とあるのは、延喜十一年(九一一)美濃の国司藤原利仁が勅を承って
干鮎を醍醐天皇に献じて以来
ずっとこれが習いとなり毎年鮎を宮中に献じていることを唄ったもの。

「流れ尽きせぬ幾千代かけて」は、長良川の水と、君に捧げんとの両方にかけた言葉である。
「ほーほーほっ」は鵜をはげますために、船側を叩いて声をかけるさまを唄ったものである。
  
風折烏帽子=烏帽子の一種。立烏帽子の先を折伏せた形のもの。
  腰蓑=腰にまとう短い蓑
(小唄鑑賞 木村菊太郎著より)

0702兵は凶器なり 12016/12/25(日) 18:50:44.40
米欧亜回覧ニュース 第76号・部会報告 (2014年10月15日)
◇小ナポレオンといわれた男  山田顕義(講師:泉三郎氏)  6月23日開催。

 岩倉使節団には未だ知られざる人物が少なからずいるが、山田顕義もその一人である。
幕末の戦争で武勲を挙げ、用兵の奇才といわれ、大村益次郎を継承する人物と嘱望されたが、
山縣有朋が軍政の主導権を握り、傍流を歩むことになる。
当時は28才であったが、陸軍少将の地位にあり兵部省派遣の理事官として
岩倉使節団に参加することになる。
 
 幕末以来陸軍はフランスの指導を受けていたので、山田もパリを拠点にして学び、時に欧州各地を巡覧しながら
軍事視察に精励した。使節団がパリを訪れたときは、木戸孝允との交流が殊の外密で、
思想的にも心情的にも共鳴するところが多かったようだ。
そのため木戸の旅行先にもしばしば出向いて交歓している。

 山田は軍事天才として民法典の編纂者ナポレオン1世を崇拝し、
これからは「武の時代ではなく法の時代だ」と、
法に関心の重点を移していく。小柄ながら才気縦横で小ナポレオンとも渾名された。

 

0703兵は凶器なり 22016/12/25(日) 18:51:43.38
帰国後、1万5000字からなる建軍策を提出したが、そこには次のような文章がある。
「兵何を以て至要なるや。兵は凶器なり。而して能く巨万の金額を費やし、人民を労し、少壮の事業を妨げ、
その学問を礙し、その性を障害し、その才を束縛し、その刑罰を厳酷にし、或いはまた醜業に慣習し、密陰を盛んにし、
梅毒を繁殖す。しかるにいわんや大砲銃諸器も上は頂上より下は跛底まで、人体軍用諸物、ことごとく皆外国に仰ぐに於いておや
―中略―今日、文明の世に於いて無用なるものは兵か。しからず兵は抵抗の器なり。人抵抗の気あれば武勇なかるべからず。
また軍事なかるべからず。
人生欠くべからざるものは、文武なり。国また然り」
 
この建言書は明治国家の形成には取り入れられず、「幻の建白書」といもいわれている。
山田は「兵を敵対抵抗の器なり」とし、必要悪としての軍隊の本質を衝き、徴兵制についても
教育を先にする漸進論を掲げ、山縣の進める徴兵制に異を唱えた。
 
その結果、山田は司法畑に転じ、伊藤の組閣した内閣では初代司法大臣に就任、
その後四代の総理大臣の下で八年にわたり大臣の職にあり民法、商法の整備に挺身した。
また、一方で教育に力を尽くし、日本法律学校(日本大学の前身)や國學院大學の創立にも関与した。
教育重視の面でも木戸の衣鉢を継いだといえる。その思想の根底には、自然の摂理を尊ぶ
「天地生成の意」の思想があった。視察先の生野銀山で卒倒し急死、49才だった。

0704早慶以外は全部、山田顯義・吉田松陰系列2016/12/29(木) 09:43:33.51
ポンキンカンはいずれも山田顕義グループ。
國學院や独協大学、法政大学、明治大学もやっぱ山田顕義系列。
東京大学法学部・工学部、京都大学法学部、北里大、北大も山田顕義ぐるーぷ。
慶應大学医学部、学習院大学、皇学館、中央大学も山田顕義の御仲間。

山田顕義は長州藩の松下村塾に学んでいます。
慶応大、早稲田大とキリスト教系列を除いて
歴史の或る殆どの大学は
吉田松陰の影響を受けていると言えます。

0705日本@名無史さん2016/12/30(金) 08:45:46.61
靖国神社の大村益次郎像についての批判|狂騒のパジェント
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html

山田顯義と靖国神社の関わりを述べてみました。
山田市は師匠思いのいい人だぞ。

山田顯義と大村益次郎のコンビが日本軍隊を誕生させました。
テロに斃れた師匠を偲んで
ちっこい山田市がデッカイ13bの益次郎の銅像を
建立しました。

山田市は最強の軍人でありながら
「兵は凶器なり」のスタンスです。

0706山田市の大先輩久坂玄瑞2016/12/31(土) 17:16:20.96
「御楯武士数え歌」   作詞久坂玄瑞

一つとや、卑き身なれど武士は、皇御軍の楯じゃな、これ御楯じゃな。
二つとや、富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。
三つとや、御馬の口を取直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。
四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。
五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随はん、なに、そむくべき。
六つとや、無理なことではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ、嫌ふとは。
七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ、打倒せ。
八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき。
九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功をたてよかし、これ、おくれるな。
十とや、遠つ神代の國ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士。

〇御楯武士[編集]
文久2年(1862年)3月 久坂玄瑞が尊王の思いを綴った数え歌

久坂玄瑞 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E

0707日本@名無史さん2016/12/31(土) 18:06:25.02
山田と木戸と伊藤は自由民権運動に、ある程度理解はあり、
民衆の政治参加と合意形成が、近代国家に必要だという考えだったが、

山県系は、いかに民衆を政府に従わせるか、いかに民衆の声を抑制するかに、
力点を置いていた

吉田松陰門下だからといって、同じ主義とはいえない

0708日本@名無史さん2016/12/31(土) 18:22:36.28
山田市15歳の時の作品。久坂は花も恥じらう19歳。

   久坂玄瑞(実甫)が東武(江戸)に行くを送る

 君今鞭打って去る。去きて何れの時にか帰らん。
 東海妖氛暗く 芙蓉(富士山)独り巍々たり。
 長剣腰下に鳴り、易水壮士の志。
 決然たり丈夫の別れ、また千古の思いを為す。
 行程(道中)君自愛せよ。浙々として寒風吹く


〇禁門の変
 久坂玄瑞も入江九一も早死にだよなぁ。山田顯義は漸くの事で
 蛤御門から逃げ出し、西本願寺で品川弥二郎らと坊主頭になり
 新選組らの追撃を辛くも逃れ
 托鉢をしながら長州に逃げ帰ったそうです。

 そのわずか数年後、長州軍を率い三田尻から
 東征先発部隊の諸隊総指揮官として、7隻の軍艦を率いて
 海路上京するなんて山田市之允(顯義)でも夢にも思っていなかったと
 思うけどなぁ

0709日本@名無史さん2016/12/31(土) 18:23:02.49
〇鳥羽伏見の戦い前夜
 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。

 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
 山田市之允に授けた。

0710日本@名無史さん2016/12/31(土) 18:48:41.83
>>707
山田と木戸と伊藤は自由民権運動に、ある程度理解はあり、
民衆の政治参加と合意形成が、近代国家に必要だという考えだったが、

同意です。
山田市や木戸孝允、伊藤博文は元々話好きだしね。
話し合えば十分に理解し合えると思うな。
山田市は育ちもいいし性格も温厚。
「清風明月是我心」ッテいう位だからね。

山縣系はまるで駄目だな。話し合おうとする姿勢に
欠けています。直ぐに銃剣が前面に出て来ます。
明治天皇は山田市や伊藤博文は大好きでした。
山県有朋は天皇に嫌われました。

天皇も民衆も銃剣をガチャガチャさせる有朋は
好きにはなれないでしょう。 エメ

0711日本@名無史さん2017/01/01(日) 17:55:50.63

0712日本@名無史さん2017/01/02(月) 22:35:53.80
兵は凶器なり  1
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義が欧米使節団に随行すると決定した時、兵部大輔に
就任したのは山県有朋である。これ以後山県は陸軍のすべてを掌握した。
廃藩置県に伴い各藩独自の軍備は解除され、軍備一切は
中央政府が統帥することになった。

中央政府は、暫定措置として鹿児島、山口、高知の三藩兵で皇居守備隊を組織し、
兵部省管轄とした。これは過渡的な措置であり、いずれはよりふさわしい
制度を実施する方針であった。新しい兵制の実行に当たって一番大きな問題は、
兵士をどう集めるかということであった。
一つは従来の各藩藩士を登用して統一軍隊を作るか、あるいは国民一般から
壮丁を募集する志願兵として訓練するか、または国民皆兵つまり
国民の義務としての徴兵制を取るかの三点であった。

大村益次郎亡き後、兵制の整備に取り組んできたのは、山県有朋、山田顯義、それに
西郷隆盛の弟西郷従道であったが、長州藩で諸隊の結成とその活躍に自ら参加してきた
山田顯義は、当初はむしろ徴兵制度を積極的に進めようという意向であった。

山田顯義らが欧米に渡航した後、その留守中に山県有朋は国民皆兵の
方針を強力に推し進めた。
したがって、山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって
兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、
徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。

0713日本@名無史さん2017/01/02(月) 22:37:29.47
兵は凶器なり  2
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって
兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、
徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。

帰朝した山田顯義は、直ちに山県初め政府要人に徴兵実施の延期を進言した。
松下村塾以来の同志であり、一緒に兵制改革に携わってきた顯義の
反対意見に山県有朋は驚いた。
山県有朋の方針は、いわゆる「富国強兵」思想であった。アジアの情勢を厳しく見つめ、
特にロシアの南下政策などを考えれば、日本はそれに対抗し得る戦力を備えなければ
ならない。したがって、すべての政策に優先して軍備を整える必要があり、そのため
国民皆兵に基づく徴兵制度を急がなければならない、というものであった。

これに対して山田顯義の意見は、
「軍備は皇室をお守りし、国土を保全し、人民の安全を図る一道具に過ぎない。
皇室の守護、国土の保全、人民の安全確保は、国の法律の整備、教育の拡充、その他すべての
政策によってなされるものであって、軍備のみに頼るべきではない」と
いうものであった。
その軍備にしても、徴兵制が先にあるのではなく、「下士官堅牢ならざれば千万の兵も
寸用をなす能わず(しっかりした下士官の養成を先行しなければ、
兵をいくら数多く集めても十分な役には立たない)」と言う。

国民の普通教育の充実を先にして、その過程で多少の兵式訓練を
施すならば、徴兵の営内訓練は短期間に行うことができる、という
意見もあった。

0714日本@名無史さん2017/01/02(月) 22:38:31.02
兵は凶器なり  3
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義の徴兵実施延期論は、「兵何を以て
国家に至要なるや。兵は凶器なり、 ・・・・」で
始まっている。中国の古典「呂氏春秋」には「およそ兵は天下の凶器なり」、
そして「史記」にも「怒りは逆得なり、兵は凶器なり、争いは末節なり」と
ある。「老子」にも「兵は不詳の器なり」という似た表現がある。

「兵」とは、武器あるいは武器を取る人間を指すものだが、このことから
軍事や戦争を指すようになった。二千年以上も前の春秋時代から
「兵は凶器」とか「兵は不詳の器」という考え方が常識的であった。
したがって、兵法書「孫子」にある「百戦百勝は善の善なるものにあらず。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という名文句も
生まれたのであろう。これらはすべて、「戦争は本来避けるべきものなのだ」と
いう古人の英知の表れである。

0715日本@名無史さん2017/01/03(火) 22:23:32.51
山田の名前を旧字にするなら山県の名前も山縣にしてやれ

0716日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:11:02.90
兵は凶器なり  4
山田顯義 対 山縣有朋

山田顯義は自分の建白書の冒頭に、あえて中国古典に見られるこの
文句を置いた。ここに顯義のヨーロッパでの研究の成果と共に、
日本の行く末に寄せる思いがうかがわれる。

山縣有朋は足軽以下の身分の出身で幼い時から苦労して育った。
吉田松陰の門下生としての期間は短く、
松陰の精神を自分の血肉としていたとは言えない。
したがって、吉田松陰の嫌う功名心が人一倍強く、
出世主義者であったことは、
すでにいろいろなところで語られている。

山縣有朋は異常な執念をもって、維新の兵制を統一するために全身の精力を
傾けていた。大村益次郎が兵制の大枠を構想し、山田顯義がその基礎を構築した。
それを継承して発展させたものではあったが、山縣有朋は自分なりの方針も
存分に盛り込んできたのである。

0717日本@名無史さん2017/01/03(火) 23:14:48.31
兵は凶器なり  5
山田顯義 対 山縣有朋


山田顯義の意見に木戸孝允が支持を表明した。山縣有朋は木戸や顯義の
説得に奔走した。山縣有朋は生涯を軍事軍政に捧げる強い意志を持っていた。
山田顯義にしても、軍部が紛糾することは絶対に避けなければならないと思った。
そして何よりも山田顯義は、それほど軍事軍政に対する執着はなく、
むしろ日本の近代化を促進する課題として、法制の整備に対する熱意と
教育制度の拡充に寄せる関心が強かったのである。

つまり、この時、山田顯義が一番言いたかったのは、国家の存在を主張する
軍備も大切だが、今の日本には、その前に法律法制の整備、対等外交、
国民教育など、緊急にやらなければならない課題がたくさん
あるということだった。

11月24日、山田顯義は特命全権大使(当時の名称は公使)として、清国北京在勤を
命ぜられ、事実上兵部省を遠ざけられる。この北京派遣に山田顯義は反発し、
「帰朝後、いまだ欧米視察による軍事問題の報告書をまとめ得ぬ時期の
辞令に当惑千万なり」と、伊藤博文に書簡で伝えている。

この時期、山田顯義は健康状態も十分ではなかった。しかし、翌年
佐賀の乱が起こり、この乱の平定のため九州出張を命ぜられ、
特命全権大使を免じられた。

   「日本大学学祖 山田顕義」夏井満 パナ出版企画

0718日本@名無史さん2017/01/08(日) 23:30:49.35
明治天皇陛下の臨幸 音羽の山田顯義伯爵別邸

日本法律学校(日大)が認可されたのは大日本帝国憲法の発布された
明治22年の10月4日。 開校式は翌年の明治23年の9月21日です。
東京都麹町区飯田町五丁目の皇典講究所内に
総理大臣山県有朋、司法大臣山田顯義、帝大総長加藤弘之、
政府顧問ボアソナードその他、
内外の貴賓百数十名の列席を得て盛大に行われています。

開校の約3カ月前にはすでに講義は行われていて、6月26日、
明治天皇が小石川音羽の山田邸に行幸されたさい、

「其の御道筋は宮城通用門を出て右に竹橋を渡り、右に雉子橋を出て、
飯田町通り日本法律学校の前を御通行ありしとき、
同校生徒五六十名は門前に整列して拝礼をなし」たという
東京日日新聞の記事があります。

〇明治天皇は音羽の山田別邸に向かう前に山田顯義の開校した
日本法律学校の前をわざわざ遠回りして寄っています。日大の新入生に
大歓迎されたと思います。

山田顯義は國學院と日大の創立で知られ
伊藤博文、西郷隆盛と共に
明治天皇に大変愛された将軍です。

      なんでも鑑定団 愛のエメラルド

0719山田顯義(山田市之允)の映画化2017/01/09(月) 16:25:20.94
長州の青年隊長山田顯義(山田市之允)の映画化が漸く
実現しそうです。山田伯爵は高杉晋作が後継者に選んだ
戦の天才。鳥羽伏見、北越、五稜郭の戊辰の役。佐賀の乱、
西南戦争でも勝利した日本の小さなナポレオンです。

前から映画化のお話がありましたが資金難から燻っていました。
靖国神社の大村益次郎銅像は門下生の山田顯義が建立したものです。
日本の軍隊は兵部大輔の大村と兵部大丞の2人からスタートします。

【税金】安倍政権、「明治維新」を題材とした
映画やテレビ番組に支援検討 [無断転載禁止]©2ch.net
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1483874765/l50
靖国神社の大村益次郎像についての批判|狂騒のパジェント
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html

0720日本@名無史さん2017/01/09(月) 16:47:42.40
映画製作について
http://www.akiyoshi-yamada.net/movie/

山田顕義の生涯を題材にした劇場用映画は、いままでありませんでした。
山田顕義は、かの「坂の上の雲」などにも登場する明治期の英傑でありましたし、
小説では、彼を主人公にしたベストセラーがいくつかありましたが、
綺羅星のごとく存在する明治の英雄たちの中に隠れていた存在でした。

しかしながら、彼の活躍を紐解いていくと日本という国の時代が変わる
重要な出来事の節目節目に必ず存在していて、実に多くのことをやり遂げている。
大変エキサイティングな生涯を送っています。

彼こそ日本の近代史そのものなのです。これを映画にしない手はない。なぜいままで映画人は、
彼のような秀逸な素材を見落としてきたのか。
こういう経緯から、日本全国の多くの人に見てもらうために、
多くの人達が集まり映画製作が進められています。

0721軍事教練の生みの親 山田顯義2017/01/20(金) 18:10:37.07
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


長州藩の奇兵隊その他の諸隊は、広く足軽、農漁村、町民からの
志願者を集めて編成した義勇隊で、無学、粗暴の者が多かった。
山田顯義が指揮した御楯隊も例外ではなかった。そこで山田顯義は、隊員に
兵式訓練とともに論語、孟子、詩経などの講習に加えて、恩師吉田松陰の
「訓戒士規七則」や勤王事績を教えた。

維新直後、大村益次郎が大坂に兵学寮を設置して士官の養成に乗り出した時、
実戦の経験から第一線での下士官の優劣が勝敗を決することを痛感している
山田顯義は、兵学寮の中に教導隊を設けて下士官要請を始めた。
これは山縣有朋も共鳴し、教導団として発展させ、後に
陸軍教導学校とした。

0722軍事教練の生みの親 山田顯義2017/01/20(金) 18:12:33.87
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


山田顯義はヨーロッパ視察後、「軍政建白書」という長大な意見書を
提出しているが、その中に次のような一節がある。
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす。
ここにおいて、国民中貴賤貧富の別なく、幼稚のときより
郷学において、普通学を教え、兼ねて銃器訓練を行はしむ」

つまり、国民の知識レベルの向上が基本であり、そのための普通教育の
普及が大事であることを訴えている。そして、地域地域での幼少からの
普通教育の中に銃器の取り扱い訓練を含めば、兵士の教育機関の
短縮につながる、という考えが述べられるのである。
このような準備もなく、いたずらに国民皆兵を目指す徴兵制度を
急ぐべきではないと、徴兵延期論を展開させている。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

0723軍事教練の生みの親 山田顯義2017/01/20(金) 18:15:03.12
「兵は凶器なり」
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


冒頭に「兵は凶器なり」とあることから見て、この意見書は、
吉田松陰の「未焚稿」の「兵を学ぶ者は、経を治めざるべからず。
なんとなれば、兵は凶器なり、逆徳なり。用ひて以て
仁義の術を済さんには、いやしくも経に通ずるものにあらずんば、
いずくんぞよく然らんや」を念頭に置いて執筆したものであろう。

つまり、ヨーロッパ視察の成果に、「兵学は術も大事だが、兵士の
道徳的完成がもっと大事だ」という恩師の教えを重ね合わせた山田顯義の
結論であった。この意見はやがて、高等小学校や中等学校での
軍事教練課目へと発展する。

「日本大学学祖 山田顕義」夏井満 パナ出版企画

0724旅順の軍神 一戸 兵衛2017/02/02(木) 09:24:08.47
一戸 兵衛 【歩兵第六旅団長 少将】
青森県弘前出身。
明治7年に陸軍兵学寮内戸山学校に入学し、西南戦争をはじめとして前線指揮官として戦い続けた旅順の軍神。
戸山学校時代、数学の成績が悪かった(というか理解できなかった)にもかかわらず
地道な努力により得意学科にしてしまったほどの努力家。

第三軍司令部の命令に疑問を持ちつつ善戦を続け、彼が第二回総攻撃で奪った堡塁は、
『一戸堡塁』と名づけられた。
『戦闘中に生ずる悲惨な光景に心動かされず、不利な状況に自恃心を失わずその目的を遂行する
堅確な意思を有する主将』とその名将振りを謳われ、誠実で努力家、私心なく謙譲で倹素、
自分に厳しく部下には慈愛深くその徳を慕われた。…修身の教科書に出てきそう。

が。元々彼が軍人になった理由は『弘前を占領した長州軍の山田顕義にあこがれたから』(凄)。
何も考えずに上京し、問答無用に山田宅へ通うこと14日連続…(怖)。
嫌がらせか!と書生が根負けして取り次いでくれたが、聞きたいことは
『軍人ってどうやってなるんですか?』だったのでした…。

ファーストインパクトの山田に紹介されて陸軍に入り、セカンドインパクトが
乃木希典だったため、『乃木さんのような人になりたい!』と切磋琢磨(痛)。
その乃木ラブっぷりは、乃木死後、『今乃木』というとんでもない二つ名を持つほど…。
やっぱり、東北人は熱いですね。ガタブル…。

0725日本@名無史さん2017/02/25(土) 15:43:24.57

0726日本@名無史さん2017/03/08(水) 23:39:28.46
「勤皇の大義」 1

慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。


諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。

「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。

0727日本@名無史さん2017/03/08(水) 23:40:31.07
「勤皇の大義」 2

 お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
 愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
 残念の余り一筆留め置き候。

 今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
 候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
 千万拝み祈り奉り候。

 何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
 御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
                        匆々不一
     慶応三年九月二十五日   山田市之允
 木戸準一郎(孝允)様

0728日本@名無史さん2017/03/08(水) 23:42:10.03
「勤皇の大義」 3
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。


慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。

●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。

蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。

0729日本@名無史さん2017/03/09(木) 08:36:52.58
山田市之允之忍耐
尊王攘夷と尊王開国

2b近い?大男だが知恵が頭に巡っていかない御堀耕助(太田市之進)と
150aに満たないが知恵の塊と言われた大村益次郎の門人山田市。
長州軍の東征先鋒部隊の諸隊総指揮は山田市之允。

慶応三年11月14日、藩主毛利敬親は山田市之允・片野十郎(奇兵隊参謀)の
両名に対し、上京の親書を与える。既に先立つ9月16日には長薩東上約条が結ばれ
10月14日には討幕の密勅が、長州毛利・薩摩島津家に下された。
11月17日には
薩摩藩主島津茂久が軍船に三千人の兵士を満載して
三田尻に入港。西郷吉之助、黒田了介らと出兵の細部にわたって打ち合わせ
21日、長州藩に先立って三田尻から上京の途についた。

〇鳥羽伏見の戦い前夜
 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。

 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
 山田市之允に授けた。

0730日本@名無史さん2017/03/09(木) 08:39:20.03
山田市之允之忍耐 2
尊王攘夷と尊王開国

この頃のことと思われる、山田市(整式隊総督=御楯隊+鴻城隊)と
御堀耕助(長州藩政務員、御楯隊初代総督)に
関する興味深い逸話が残る。それは毛利家文庫に架蔵されている「御堀耕助履歴材料」に、
「名士逸話、筆のすさひ、山田市之允之忍耐」として紹介されている次のようなもんだ。
血の巡りの悪い大男が後輩の少年に嫌がらせをした次のようなもんだ。

一日、御堀耕助山口より其陣(筆者注。三田尻)に来る(原注・豪商五十君其の宅)、
参謀片野十郎等数名座に在り。
市之允、耕助に向けて曰く、
「銃砲弾薬の用意奈何」
耕助曰く、
「うちは知らん」
又問、
「金穀、小荷駄は奈何」
答ふ、
「うちは知らん、何は奈何」
「知らん」
「蚊は奈何」
「知らん」
市之允曰く、
「君は廟堂の人に非ずや、知らざる筈なし」
耕助曰く、
「それでも知らん」

0731日本@名無史さん2017/03/09(木) 08:40:22.29
山田市之允之忍耐 3
尊王攘夷と尊王開国

市之允(山田)止む得ず談を止む、須臾にして耕助(御堀)辞し去らんとす、曰く、
「山田、先刻問はれた事は皆、大村(益次郎)に授けて置いたから
彼より聞カレー」
ト。

市之允、衆人の中に於いて辱しめられ、切歯して熱涙を膝に滴す。
然れ共、大任(長州藩東征先鋒部隊諸隊総指揮官)が受けたる身なれば、忍して
一言を発せず。
蓋し耕助(御堀)、市之允と軍政上議論常に合わず、是を以て然せんものか

(原注・山田伯、維新の後大いに忍耐あり、以て後の幸福を得たり)

0732日本@名無史さん2017/03/09(木) 08:41:32.55
山田市之允之忍耐 4
尊王攘夷と尊王開国

これを見ると、この頃、御堀と山田の間に、確執が生じていたことが分かる。
その理由を、逸話の紹介者は次の様に解釈する。
 
 又云ふ、御堀君と山田伯の議合わざる原因を推測するに、
 伯は夙に軍は西洋の規則の法に由らざるべからざるを悟り、
 大村益次郎先生に就いて之を研究す。
 又、君(御堀耕助)曰く、乃公(おれ)は已に数度実戦の験有、
 大村が机上論は取るに足らず。

 維新の後、伯、山県(有朋)公と軋轢ありと聞く、蓋し又同上の事ならん、
 この説中(あた)ラズと雖(いえど)も決して遠からざるなり。


御堀耕助は熱烈な攘夷論者だった。だから山田が大村益次郎のもとに通い、
西洋兵学を修めていることが、気に入らなくて仕方なかったようだ。
攘夷というイデオロギーに縛られる者と、新知識を合理的に受け入れることが
出来る者との決別である。それは、時代の過渡期を象徴していると
言えなくもない。

シリーズ 学祖・山田顕義研究 第7集136頁 「御楯隊始末記 後」一坂太郎

0733日本@名無史さん2017/03/28(火) 09:22:19.94
保守

0734日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:23:44.82
お転婆伯母さん

政治家にも2種類あってだな。
行政能力のある人間と無い人間。

人気はあっても行政能力の全然ない人間としては
西郷隆盛と板垣退助が挙げられるな。
新政府内で西郷と板垣の2人は相撲の話ばっかりしていたといいます。
結局西郷は國家反乱を起こして没だし、板垣も自由民権運動で
人気はあっても行政能力はゼロ。

その点、長州藩出身者は違うな。
伊藤博文、山田顯義は法律に精通していたからな。
日本を法律を中心とした近代国家に作り上げました。
まぁ行政能力はあっても山縣有朋の様に長く権力を持つのも
良くないけどな。

お転婆伯母さん事小池マドンナ都知事さんはテレビ映りの良さから人気は掴んだけど、
行政能力は信じらレないぐらい全然ないな。伊藤博文や山田顯義の爪の垢でも
煎じて飲んだ方がいいです。

0735日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:26:36.01
>>734

板垣退助は陸軍か階軍の大将になるべき人間が、
土佐藩の人材がほとんど死んでいたことと、
薩長閥から敬遠されたことによって
参議になってしまった経歴。

0736日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:34:31.36
板垣退助や後藤象二郎は元々、
土佐の保守党だもんな。
土佐勤王等が全滅してだんれも生き残らなかったことが
土佐藩の悲劇です。

佐賀藩も悲劇だよなぁ。鳥羽伏見の戦いに
誰一人として参加していないもんなぁ。
江藤新平が「第2の維新」を称えて佐賀の乱を
起こすんだが遅すぎます。

0737日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:34:56.58
「勤皇の大義」 1

慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。


諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。

「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。

0738日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:35:56.11
「勤皇の大義」 2

 お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
 愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
 残念の余り一筆留め置き候。

 今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
 候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
 千万拝み祈り奉り候。

 何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
 御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
                        匆々不一
     慶応三年九月二十五日   山田市之允
 木戸準一郎(孝允)様

0739日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:36:51.75
「勤皇の大義」 3
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。


慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。

●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。

蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。

0740日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:40:08.83
元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。

(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。

0741日本@名無史さん2017/03/29(水) 09:47:45.08
山田市之允入京し、京都御所を拝して、かつて蛤御門に敗戦した往時を
思い浮かべて涙潜然、すなわち賦して曰く。

三軍來踞承明門
要表真誠訴宿冤
鳳詔方降紫宸殿
壮夫揮涙拝天恩


 読み下し

三軍來踞す承明門。
要を表して真誠宿冤を訴う。
鳳詔まさに降る紫宸殿。
壮夫涙を揮(ふる)って天恩を拝す。

0742日本@名無史さん2017/04/30(日) 08:39:01.33
大日本気象学会初代会長・山田顕義と二代・榎本武揚は
函館戦争で敵味方
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20161026-00063661/

0743日本@名無史さん2017/05/08(月) 20:24:49.23
山田顯義は小さかった
フランスの英雄ナポレオンより
もっと小さかったことから
ちいさなナポレオン略して
小ナポレオンと言われました。

私は143a位かと思いましたが
護国寺の遺体発掘調査で
身長148aから152a位と
判明しました。

斜めに写った写真が多いのは
ナポレオンに私淑していたことと
斜視だったという事です。

   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

0744日本@名無史さん2017/05/08(月) 20:28:29.53
山田顯義伯爵は五稜郭の戦いでは
官軍の海陸軍参謀。一番偉い人です。
五稜郭の戦いで見事、榎本武揚軍を
壊滅させました。土方歳三は戦死。

江戸に凱旋後、山田の師匠大村益次郎に
接待されましたが出されたのはお酒と豆腐2丁。
戦争中碌なものを食っていなかった山田顯義は
これにはご立腹、酒は飲んでも豆腐には箸を付けなかったそうです。

でもね晩年、山田顯義伯爵は堅いものは食べられなくてね。歯が弱くて
入れ歯だらケ。明治20年前後のことだけどね。
で、食べるのは柔らかくて栄養のある湯豆腐という事になりました。
豆腐は大村先生に言わすと滋養になるらしい。

   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

0745日本@名無史さん2017/05/08(月) 20:30:08.49
長州藩の麒麟児高杉晋作も
肺結核が進み遂に立てなくなると
諸隊の隊長たちが集まって善後策を相談。

高杉晋作に後継者に誰を託すのかと一同雁首を並べて
問いただすと後は(村医者の)大村益次郎に頼めとの事。
大村の後は誰に頼めばいいのだろうと再度、
問いかけると山田市之允(山田顯義)が良かろうとのご神託。
山田は当時22歳。身長148aの小童。

山田の後は誰が宜しかろうといわれると
高杉晋作は「そんな先のことまで僕にわかるわけはなかろう」と
言ったという。

高杉晋作の目に狂いはなく、大村・山田の2トップは
戊辰戦争を終わらせたばかりでなく、
国民皆兵制度(徴兵令の前身)、日本軍隊誕生に向けて大車輪の活躍。
遂に日本軍隊を誕生させました。

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