0001世界@名無史さん2016/02/07(日) 14:29:42.530
古代ローマ帝国の軍隊を語るスレに対抗して作りました。
ローマのライバルであった東方の大国であるペルシア。
そしてヨーロッパに対して中世時代まで優位を保ち続けたイスラム
ローマの軍隊については多く語られているが、ペルシアの
軍隊や戦術などについては余り語られていない。中世時代のヨーロッパも
文献や資料こそ多いがそれに対してイスラム等の中東圏に関するものは
乏しい。
そこでこのスレでは情報の少ないイスラム化する以前のペルシアと、イスラム
諸王朝(アッバース朝、セルジューク朝など)の軍隊を語っていきましょう
エジプトはペルシャに再征服されたばかりだったけど独立国のままでもアレクは征服したのだろうかな
ペルシャを倒す前にエジプトを攻めればペルシャとエジプトに挟み撃ちされてしまっただろうな
ホラズムはペルシャから独立していたのでアレクは征服しなかったけどマケドニアから遠く離れた
ホラズムと違いエジプトは地中海に面していたからペルシャ征服後に征服しただろうな
もしエジプトが独立国のままだったのならばアレクはインドへ遠征せずにエジプトへ向かったと思う
0023世界@名無史さん2016/02/11(木) 18:15:19.080
そういや西洋の剣術書なんかは多いけど、イスラムの剣術指南に関しての資料は見かけないね。
イスラム世界の剣術ってどんなもんだったんだろうか?
印刷が早い地域でも19世紀だからなそんざいしない。
>>18
そういう嘘を平気で言わない
ヨーロッパ方面はローマ帝国には余禄でいらなくなったらとっとと切り離すお荷物
往々にしてペルシア遠征が大規模化してるのはそっちが富を生む交易を巡ったガチだから
勝てない理由は簡単で、軍事的にローマは大体の時期で風下だから
東帝国時代になってやっと重騎兵が少し追いつく >>22
アレクサンドロスの軍事行動は一貫してアケメネス朝最大版図の再征服活動なので
インドもあれは全盛期のアケメネス朝の属領がちょっと北部にあったので
インド君主とアケメネス朝の君主として国境線の確定行動だと考えるべきで
個別のインド遠征とするべきではない
その意味ではエジプトは独立しててもどっちみち攻撃するだろう
一度もエジプトがアケメネス朝の傘下に入ったことがないというのであれば放置されたと思うが
そうなると外交のプレイヤーとして参加してくることになるから、
マケドニアとペルシアの間の変数として本当に重要な国になってくる 0027世界@名無史さん2016/02/12(金) 16:19:23.690
>>25
パルティアとササンってローマよりも強かったん?
具体的にどんな戦術でローマを破ったのかな。パルティアンショットだけで
勝てる程甘い相手じゃないと思うけど、ローマの将軍が糞無能揃いだったのかもw >>27
ローズ マリー シェルドン著「ローマとパルティア: 二大帝国の激突三百年史」を読むといい 0029世界@名無史さん2016/02/12(金) 18:31:10.430
0032世界@名無史さん2016/02/13(土) 00:31:59.600
イスラム世界の代表的な戦士にマムルークがいるけど、彼等はどんな武術を習得していたんだろうか?
砂漠の民って戦闘力高いイメージあるけど、過酷な環境が強い戦士を作るということでおk?
パルティアについては初期のカルラエの戦いのイメージが一人歩きして
「ローマよりも軍事面で勝っていた」と言われることあるけどそれは大間違い
通算で見ればパルティアはローマにボコられ続けてる
特にローマ最盛期の2世紀とか「ローマさんもうやめたげて」と言いたくなる位に毎回ボッロクソに大敗してる
>>28の本でも説明されていたけどローマが結局オリエントを手に入れられなかったのは
・ローマ圏から遠すぎ&パルティアの支配域デカすぎ
・占領統治のための情報収集がおろそか
・ローマのマンパワー不足
これらが理由で支配の維持ができなかったから
そんでこの著者は「本質はイラク戦争と同様」とも結論してたり 0034世界@名無史さん2016/02/13(土) 01:38:49.690
ササン朝のシャープール1世の時でさえwiki見る限りではローマ相手に3勝してるけど、ササン朝ってパルティアよりも
強かったと見ていいのかな?
プルタルコス英雄伝のクラッススの伝を見るとパルティア兵>>>>>>>>>>>>>>>>ローマ兵のように思えるけどな
恐るべしパルティア論はカルラエの衝撃を忘れられなかったローマ人が長年かけて作りだした虚構だからな
カルラエのすぐあとにウェンティディウス・バッスス率いるローマ軍が逆にパルティアの主力壊滅させて大圧勝してるのに
これもスルーして「パルティアやべー」と言い続けたくらいにカルラエがショックだったから
そして厄介なのは現代の識者もこのイメージをそのまま受け取ってしまうことが多々あること
日本でも塩婆がウェンティディウス・バッススの大勝利を無かったことにして「ローマが武力で勝ったことはない。パルティアやべー」だし
>>34
間違いなくササン朝のほうが強い
従来の東方騎馬戦力に加えて
パルティアが最後までもてなかった高練度歩兵部隊と洗練された攻囲技術も有していたから
ドゥラ・エウロポス遺跡のローマ軍相手の攻囲戦跡とかしゅごい パルティア殴りまくっていたらついに死んじゃって遥かに厄介な新興勢力ササンが台頭
あれ、21世紀の中東でもそんなことが起こったような・・・
>>34
ササン朝が統一国家を維持していたのに対してパルティア王はアッバース朝のように
だいたいイラク南部しか支配していないからササン朝の方がローマのとって脅威だな
カルラエではスレナスが東方のシースタンのサカ族騎兵を動員していたけど
パルティア王が自分の領地の兵しか動員出来ない場合も当然多かった 強い相手との決戦で勝利したからあそこまで拡大できたのはもちろんだが
基本的にローマは彼我の戦力見極めて弱い相手をぼこり続けるんだよ
1世紀にブリタニア遠征を続けたのなんかまさにそう
トイトブルクで敗戦→ゲルマンやべー→ブリタニア遠征に切り替え(1世紀)
ブリタニアをおおかた征服すると、今度は弱体化したパルティアを定期的にぼこる(2世紀)
そいうことを考えずに突撃した馬鹿がクラススとアントニウス
あとササン朝がパルティアより相対的に強いというのはそうだと思うが、
パルティア時代はティグリス河畔のセレウキアなどギリシア都市があり、
ギリシア商人ネットワークがパルティア情報をローマ領側に送ることができ、
ローマ側はそれを活用できた。2世紀末にセレウキアは衰亡するが、そのため
ササン朝時代になるとササン側の情報は殆ど入ってこなくなる
変わりにキリスト教徒東方教会がササン朝領土に広まるがローマ側はこれを殆ど
活用できていない
タキトゥスやプリニウスにパルティア情報が多いのにはこうした背景がある
なお、
>>39
イラク南部しか支配していないというのは間違い
基本的にイラク南部は支配が浸透していない地域でカラクスなど独立王国もあった
パルティアの中心地はメディア地方とマルギアナ地方で、タキトゥスはじめ
歴代ローマ史料がパルティアをメディアと呼ぶ事例が多いのは、単なる時代錯誤だけ
ではなく、実際にパルティアの支配の中心がメディア地方だったから クテシフォンはイラク南部というよりはイラク中央部だな
イラク北部のかつてのアッシリアには当時アディアベネ王国があった
パルティア発祥の地は言うまでもなくパルティアで
すぐ隣のマルギアナもともに本国だったけど
イラク中央のクテシフォンに遷都した
後世のアッバース朝もイラクとホラサンの二つの中心があった
>>40
いんやアントニウスも侵攻タイミング自体は完璧だったんだよ
当時のパルティアは直前にウェンティディウスに歴史的大敗させられて
王家の権威崩壊してしっちゃかめっちゃかになっていてほとんど兵を集められなかったから
少なくとも活発に打って出てきた1世紀のヴォロガセス1世戦や
全面的な迎撃をかけてきた2世紀のヴォロガセス4世戦に比べたらずっと楽な状況
しかし当時のアントニウスはクレオパトラに脳みそ溶かされてたから
そんな負けるはずのない好機であったにもかかわらず大失敗という 0043世界@名無史さん2016/02/13(土) 16:49:02.550
ササン朝って文化レベルはローマと比べてどうだったんだろ?
世界に冠たるローマと比較すれば足元にすら及んでいないのかな。
あくまであの地域の中では文化レベルが高いだけで、ローマとは比べるのも
おこがましい程のショボ文化だったりして
> 基本的にローマは彼我の戦力見極めて弱い相手をぼこり続けるんだよ
戦争能力から見ると対パルティアはそうともいえない部分も多い。
ローマとの戦いの中でもっとも戦争能力が低下していたのは
国内混乱でまともな動員すらできなかったクラッススとアントニウスのとき。
それ以降は緩やかに衰退しつつあったとはいえ、
トラヤヌス遠征期以外は王がなんとか強権を保持していて、
大軍動員したりと戦争能力についてはクラッスス・アントニウス期よりもずっと高い。
>>27
接近せず一定距離をたもって弓騎兵でチクチクして弱まったところで重装騎兵アタック
あるいは行軍中を狙ったり、
小部隊ずつおびき出して孤立したところを包囲殲滅という典型的な騎馬民スタイル
そしてローマ軍は歩兵主体でさらにそれまでガチ騎馬民軍とはまともに戦ったこともなかったから
初期のクラッスス〜アントニウス戦では成す術なくやられまくった(さらに指揮官のミスが火に油を注いだ)
この頃はウェンティディウスの件以外は本当にローマ軍がサンドバッグ状態だった
でもローマ側もそれら敗戦からいろいろ学ぶようになって
まずウェンティディウスが対騎馬民戦術の原型を考案し
コルブロたちが1世紀のアルメニア争奪戦で形にしていき2世紀にトラヤヌスたちが完成させ
以降はローマ側のミスがないかぎりパルティアはまず戦闘で勝てなくなった(ただしミスはしばしばあった)
2世紀半ばにヴォロガセス4世がパルティア全盛期を髣髴とさせるような勢いで戦ったけど結局敗退したり
2世紀からローマがパルティアに本格侵攻をやりだしたのは
「あの騎馬軍と戦える、そして勝てる」という確信をようやく得たからというのもある
ただしこれらの技能は3世紀の衰退期に入ってあっっっというまに喪失するという ストラボンがパルティアは多夫多妻制って書いてるけどまじかよ
当時はパルティアとの交流が盛んだったからデマとは思えんが
>>43
ごく一部の分野では同レベル
・ガラス製品 >>43
ローマといえば世界中余程教育のない人でない限り誰でもコロッセオが思い浮かぶ
ササン文化といえば、(日本人の場合は)一部の人が正倉院の文物を思い浮かべるくらい
パルティア文化といえば、何それ状態
やはりその違いは大きかろう >>43
ローマは当時の地中海の国としては破格に文明度高いのだけども
足元にも及んでないというのは少々ローマ幻想が過ぎる
文化度の高さは「文化物の輸出で黄金がどこに流れ込むか」で判断するという発想を宮崎市定がしているが
ローマはアウグストゥスの時代から常に黄金を出す側 カエサルが暗殺されずにパルティア遠征に出てたらどうなったろう?
カエサルはクラススやアントニウスとはレベルが違うから、案外抜かりなく
情報収集・研究し、勝利したのではなかろーか
>>50
流れ出た黄金はインドに向かったわけでササン朝ではなかった
前漢と比べ後漢も金が減少しているらしいから、これもインドに向かったのかも
結論 インド最強 >>52
パルティア、ササン朝がローマにとって邪魔で邪魔でしょうがなかった理由が
インド貿易路の上にドデンと転がってるから、なわけで全てがインドに行ったというより
結構な額がその二国に吸われちゃいるとは思うけどね
古代においてはインド最強は結構正しいと思う
クシャナ朝のカニシカ王は各国の金を鋳潰して自分の金貨を発行してるしな >>53
スパイスじゃなくて宝石とか絹とか、色々な物を購入してるんだがな 2世紀パルティア衰退の理由のひとつは、ローマがアラビア半島経由の
インド航路を発見し、パルティアを通さないで交易が可能になってしまったこともある
領土的にも2世紀は、もともとパルティア領の東方はクシャン朝支配下にあり、
2世紀のパルティアが弱体化していたことは間違いない。
しかしローマの金鉱山が枯渇しインド交易も衰退するとともにクシャン朝や
サータヴァーハナ朝も衰退。4世紀の西アジアに強力な国家が生まれる素地は
用意されていた。ササン朝の勃興もこの流れに沿ったもの
>>52
当時ローマではマレー半島は黄金半島と呼ばれた
その黄金はどこから来たか?中国から
ローマも漢帝国もインドに黄金を吸い取られたのだ >>51
あの時代でもウェンティディウスが証明したとおり情報収集と戦術次第でブチのめせるから
その辺が得意なカエサルなら上手くやったと思う
ただしゲルマニアをすぐに見限ったように
パルティアも物理的に制覇困難と判断してちょっと叩いて有利な講和結んですぐに手をひきそう トラヤヌスだってゲルマニア侵攻じゃなく、ダキアとパルティアだったし
即位前属州上ゲルマニア総督だったから、ゲルマニアの状況を良く知っていて侵攻しなかった
トラヤヌスのライバルニゲリヌスはシリア総督だったから、彼が皇帝になっていたら、
ゲルマニア侵攻をしたかも知れない
ハドリアヌスは上ゲルマニアでの軍団将校やシリア総督を歴任しているから、
どっちもやばいことを認識してた
0060世界@名無史さん2016/02/20(土) 02:21:02.240
0061世界@名無史さん2016/05/30(月) 22:32:32.670
ササン朝時代もパルティアの七大氏族が幅を利かせていたようだな。
>>47
ササン朝のシャープール1世にウァレリアヌスが敗れたけど
この戦いの敗北で重装歩兵は主役の座を降りたようだね
息子のガッリエヌスは騎兵を主力とする軍の改革をして
その騎兵を率いる将軍らに帝位を奪われてしまった
以後ローマは騎兵出身者に支配され続ける事になる
シャープール1世を撃退したパルミラ軍も重騎兵が主力で
ササン朝に対抗して多くが重騎兵が主力の軍になった プレートアーマーの騎士って弱点なさそうだな
オスマン帝国の兵士たちはあんなのとどうやって戦ったんだろう
そういや西ローマ帝国崩壊から絶対王政までヨーロッパでは常備軍がないんだよな
(オスマン帝国は除くけど)
戦の時は諸侯の騎士を召集したり、傭兵を雇ったりしていた
0067世界@名無史さん2017/02/18(土) 11:39:00.800
アレクサンドロス3世と戦ったペルシア帝国の一般兵は防具を装備してないって本当?
マクニール「世界史−人類の結びつきと相互作用の歴史−」のなかに、
パルティア〜ササン朝の重装騎兵に関する説明で初見のものがあった
1. ペルシャ圏北部で戦士階級の領主が大型馬の品種を飼育
2. 餌は自生する草では駄目でマメ科アルファルファを飼料として利用
3. アルファルファは灌漑農場での休耕地用作物として作付サイクルが成立
4. ササン朝後期には塩害などでその灌漑農場の生産性が落ち込む
5. ペルシャ圏北部領主が北方遊牧民に対する防波堤となることが困難に
最後のとこはエフタルや突厥との戦いについての背景になっているわけだが、
この分野に焦点あてた本ではなく該当部の出典もなかったので妥当性が分からん
類似した推論を見たことある人いる?
0069世界@名無史さん2017/06/23(金) 18:55:06.820
>>67
プルタルコス英雄伝によるとアレクサンドロス東征軍は当初ペルシャ軍の豪壮な兵装を見て
士気をくじかれてたそうなので少なくとも当時のギリシャよりかはマシ 0070世界@名無史さん2017/06/24(土) 09:35:49.440
>まずウェンティディウスが対騎馬民戦術の原型を考案し
> コルブロたちが1世紀のアルメニア争奪戦で形にしていき2世紀にトラヤヌスたちが完成させ
どんな戦術? レギオン兵では攻撃しようとしても弓騎兵に追いつけなさそうだが
>>70
盾壁くんだ軍団兵の後ろに
弓兵や投石兵やバリスタを大量において集中射撃
矢弾の密度と射程で弓騎兵を圧倒して
さっさと追っ払うという戦術
方法は単純だけどローマ軍の錬度と統率力によって
少なくとも会戦では弓騎兵を
それなりに排除できるほどの効果を発揮
ただし機能させるにはまとまった数が必要だから
小規模なゲリラ的戦闘ではやはり苦戦
あと三世紀以降はローマ軍の統率力が衰えていったために
この戦術もだんだん使いこなせなくなる >>69
アレクサンドロス東征軍が最初に対戦した豪壮なペルシャ軍は
アナトリアのサトラップらが率いたリディア兵やフリギア兵とかだった
ペルシャ本国兵とはダレイオス3世との会戦で初めて対戦したと思われる
ペルシャ本国とメディアは帝国本土として免税されると同時に国民皆兵で
庶民も従軍していたので軽装備の兵が多かったようだ