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▽▽日本近代史フリーメーソン▽▽

2025/03/04(火) 12:04:40.57ID:fdEOWGhY0
p56
ロバート・フラッドは、ド・クインシーによれば「フリーメーソンの直系の父であった」。この火の哲学者の首長は小宇宙と大宇宙の古代理論に没頭した。コペルニクスとガリレオはその理論の発祥をピュタゴラスの形而上学的思考に仰いでいる。ケプラーとティコ・ブラーエは占星学の科学的正当性を認めていた。王室天文官でグリニッジ天文台の創設者フラムスティードも同様である。彗星で有名なハレーはあるときアイザック・ニュートン卿の前で占星学を批判したことがある。この時万有引力の法則の発見者はただちに立ち上がって、この古代の科学をこう言って弁護したという。「私はこの問題を研究したことがあります。ハレーさん。あなたはまだないのですよ。」
これまで述べてきたことから次のような結論を下してもよいだろう。化学、薬学、数学、天文学、音楽、生物学、物理学、解剖学、微生物学、原子論、電気学、植物学などの科学的知識に対して、このような偉大な貢献がイデア論者、神秘家、さらに魔術師や占星学者の側から寄せられてきたのである。だが例えこれら学問の開拓者たちの優れた知的能力に対し、超越主義が顕著な助けになったということが認められないとしても、逆に、それが妨げになったということも証明できないであろう。
ほとんど全ての領域における科学の先駆者たちは、魔術や神秘的な学術の信奉者であった。このことはなにか意味があるはずだ。それとも「偶然の一致」にすぎないであろうか。ヒポクラテスはアスクレピオスの長子であり、最初の医師である。彼の《誓い》はまだ「医学論理における最も感動的な文書」である。この作品の中で、アスクレピオスの徒の義務が挙げられているが、それほどの機会にも、どの時代にも妥当する。ヒポクラテスは、たとえ医学会では尊敬されないにせよ、同じように「感動的な」別の《箴言》の作者でもある。次のような言葉がそのよい例である。「占星学に無知なる者は、医者という名に値しない。むしろ愚者というべきであろう。」
2025/03/04(火) 12:11:28.39ID:fdEOWGhY0
>>143
https://i.imgur.com/RI2Oyxw.jpeg
2025/03/04(火) 16:06:37.78ID:fdEOWGhY0
p72
オルフェウス教の伝統を解釈をするにあたって、ピュタゴラス派の導師たちは宇宙を三つの部分に分け、「至高世界」「上位世界」「下位世界」と名づけた。ジョン・ロイヒリンの『ピュタゴラスの教義解説』によれば、「至高世界」(他の二世界全てを含むと同時に、単一の神的本体から成る)は「神」の世界と呼ばれ、始まりも終わりもなく、存在、実在、本体の永遠なる宿りである。それは「自然」とも言う。「上位世界」(非物質的なものによって「輝いている」ところ)は、超自然的諸力の世界と呼ばれ、神の顕現、「世界の封印」とも言う。そこには「神」から生まれたものではあるが、「第一原因」から多少離れ、ある程度自然の実体を取り入れている様々な神格が住んでいる。ここにはまた「英雄たち」も住む。彼らは大地の子でありながら、超越的な功徳または業績を果したことによって、半神の状態にまで到達しているのである。
下位世界(三世界のうち最低であり、上の二世界のなかに含まれる)は、天使、神々、ダイモンの世界と呼ばれている。ここには「ある程度の知性を持った体、または量、天球を動かすもの、事物を生成消滅させる『監督』または守護者たちが住んでいる。このような存在が肉体の世話を任されているのである」(『ピュタゴラスの密儀について』を見よ)。一般に下位世界は物理的宇宙
もしくは自然の領域に相当し、可能的な霊の住み家である。もっと的確に言えば霊が可視性のなかに一時的に宿る小屋なのである。このような存在、つまり哲学者の言う「人類」に加えて、下位世界には「自然」の三つの低次世界を含んでいる。鉱物界、植物界、動物界である。また四大の霊や守護霊などもここに存在する。これがアリストテレスをして次のような注釈をつけさせた宇宙秩序の概略である。「ピュタゴラス派の人々は、万物全体は三によって区切られていると断言する。」
これら高度な異教世界の教義から、原始キリスト教会の教父たちは、宇宙(コスモス)の区分に関する理論体系を構成した。彼らは創造された世界は三つの部分から成っていると宣言する。その第一は天、第二は地上、第三は地獄である。ローマ法王の三重冠は、霊界、俗界、煉獄界を統べるローマ教会の至上権を意味している。この三区分は、オルフェウス教の宇宙論に由来する。初期のキリスト教徒にとって、霊界は三重の位相を持つ「神」の宮居する場所であった。俗界はもともと天使および聖人の住まう所であった。(聖人はギリシア人の「英雄」に当たる。死すべき不死者、不死なる死者を意味する。)俗界が人間の世界一般と見なされたのは後のことである。
煉獄界は本来「月下」の世界、つまり死すべきものの領域(古典哲学者の言うタルタロス)であったが、後に教会は肉体の死後の魂の状態または心境、つまり罪を償うところと定義した。このような教えを受けた人々が実感したのは、天と地上と地獄とは実は存在の質ないし条件であるということだった。それによって「一つの生命」は様々な局面を通じて自らを表現するのである。
このうち三つの重要な局面とは、「意識」、「叡知」、「力」である。この三者は「三つの証」であり、「一者」における「三位一体」、ヘルメスのエメラルド板 に言うところの「本質においては一、位相においては三」なるものである。「神」のこの三つの位相は、それゆえプルタルコスがエウクレイデスの第四十七公理の解明で見事に展開したあの三つの世界に当たる。「意識」によって諸点が確立される。「力」によって大地が深みから浮がび上がり、永遠の基礎が築かれる。「叡知」(ホメロスの鎖)によって天と地が結びつけられる。ぞれは「聖櫃」、「聖錨」、「羂索」である。
2025/03/04(火) 16:06:49.79ID:fdEOWGhY0
人間一般に当てはめれば、三つの世界は、人間を構成する三つの重要な区分、すなわち霊、魂(心)、体に相当する。肉体の構造から言うとこの三者は、三つの主要な体腔と類比関係を持つ。霊は胸部、魂(または心)は頭蓋、体は腹部である。ピラミッドの三つの主要な室、近代フリーメーソンにおいて、「入門徒弟」、「職人」、「親方」に与えられる三段階の象徴的な室も、これを意味する。この三つの体腔はさらにそれぞれ三つに分けられて、全部で九つの部分から成り、最後にオーラの卵と言う一つの大きな腔の中に閉じ込められていると考えられている。この九と一で完全な人間を表す「十」ができあがるのである。この体腔とその重要性について、エリファス・レヴィは『高等魔法』の中でこう示唆している。
「大世界のうちで存在するものは全て、小世界の中でも再生産される。それゆえわれわれは古典作家の体腔に応じた三つの流動的牽引と投射の中枢を持っている。すなわち脳と心臓、または上腹部と生殖器である。」それゆえ人間における「三神」は、この三つの体腔のなかに棲まってると考えられていた。ブラフマーは心臓、ヴィシュヌは脳、シヴァ(その象徴は男根(リンガム)は生殖器の中に存在する。この三神はそれぞれ三つの顕現、すなわち創造、保存、解体を表す。
https://i.imgur.com/BMfzNek.jpeg
2025/03/04(火) 23:07:05.48ID:fdEOWGhY0
p83 第四章 大宇宙と小宇宙

「大宇宙」と小宇宙の教理を理解するためには、これらの言葉に本来の属性を取り戻すことが必要である。この二つの語はともに、元来、全体性を意味し、ライプニッツのモナド論やレウキッポスとデモクリトスの原子論と一致する。「大宇宙」は巨大なモナドであり、小宇宙は、デザインは同じだが、量の少ない、より大きな生体に含まれている比較的小さなモナドである。「《大宇宙》」と《小宇宙》という名称は、必ずしも世界と人間を意味するのでなくて、むしろこのような二つの組織間の照応を表している。人は、宇宙と比較する時は小宇宙だが、人間自身の内なるある一つの器官と比較する時は大宇宙である。
ピュタゴラス派の説によれば、「全体」は、断片や破片という意味での部分から成るのではなくて、実はより小さな断片から成っており、より小さな「全体」は、それらが組み立てようと目論む、より大なる統一体であるが、場所からしてたまたま一器官の制約を帯び、他のいくつかの器官と一緒になってより大なる体という全体を組み立てることになる。このように、全ての原子はその内に全世界の特性、特徴を持つ一つの全体であり、砂粒の一つ一つが全て宇宙のイメージなのである。人間を小宇宙と称するとき、それは人間が単に世界の「部分」に過ぎないのではなくて、むしろ、他のいわゆる一切の「部分」同様、実は世界の小型模型なのだと推論されねばならない。これはピュタゴラス派の象徴的な正四面体(テトラへドロン)を研究するともう少し十分に分かる。

このピラミッド型の固体は、おのおの形の上で全体と同一である規定の数のより小さなブロックから作られたものと考えられよう。だから、一群の正四面体を組み合わせると、形の上では構成単位ブロックと同一の、より大きな形が生じるが、《正四面体》という名称がより小さなブロックに正しく適用されることは、そのブロックから成る大きい方の塊の場合と全く同じである。さらに、もし正六面体を八等分してより小さな正六面体にしたら、各ブロックは元と同じく確実に正六面体となろう。しかしながら、この過程では大きな正六面体が大宇宙、小さな正六面体はその内にある小宇宙である。それゆえ、大宇宙は小宇宙が集合して作り上げられ、全体は部分と、部分は全体と酷似し、相違は質より量にある。
この思想体系は、人間と世界が相関関係にあるとする古代人の主張を正当化するものだった。彼らにとってあらゆる形態は、類似物の連鎖だったからである。「は虫類は全て人間の小宇宙であり、人間は宇宙の小宇宙であり、地球は太陽系の、太陽系は宇宙の、宇宙は神の小宇宙だった。こうそて『神』のかたちのように人間は創られた──『神』のかたちのように男も女も神は創造した」(ゴットフリー・ヒギンズ『アナカリュプシス』)。
右のことからして、古代の哲学者たちが人体魂の内的動きを発見しようとあれほど精魂を傾けた理由が明白となる。彼らは、人体の部分をひとたび発見し、分類できてしまえば、生命の神秘全体を解くマスターキーを握ることになる、と固く信じていた。「全ては全ての内である」とは薔薇十字団のモットーであり、この教えに導かれて、彼らが極めて興味深い信念の中で行動したことは確実であり、その信念は、知恵は常に「全体性」を認識するが、無知は「部分」の外見に騙されるという命題を専らとするものだった。
『象徴哲学体系』から引用すれば、「アグリッパは、人間は典型的な小世界ゆえ、あらゆる数、量、重さ、運動および四大元素を含むと断言している。フリーメーソンの秘密の教義は、本来ディオニュシオス建築師団の教義同様、努めて小宇宙の部分や比例を測定したり、哲学的に評価したりすることによって得られる知識により、彼らの技術の最高目的──完全な人間の創造──が実現されるようにということに関心を持っているのである。」
https://i.imgur.com/RGx8Ht0.jpeg
2025/03/05(水) 13:39:30.79ID:kjtRdg280
p187
脳の平均重量は、頭蓋骨を含まないで、男性の場合四十八オンス、女性の場合四十四オンスである。全ての神経系の重量の九十八パーセントを脳が占めている。
脳軟膜(ピア・マーテル)(脳と脊髄をちょうど、下着のように包む繊細な膜)は、哲学者の解剖学的な《アルカナ》〔奥義〕を解く明確な糸口を与える。現在一般に使われている大部分の科学用語は、より古い学問体系から取られたものであるが、しばしば本来の意味がほとんど理解されず、考慮されることもない。例えば《ピア》は《ピウス》の女性形であり、「神的な」あるいは「『神』に捧げた」という意味であり、《マーテル》は「母」である。従って《ピア・マーテル》は「聖母」、グノーシス派の「ソフィア・アカモト」であり、内部に「天-人」の胚を含んでいる。語源としての《マーテル》という語は、カバラ的に解釈すると、脳が神々の生まれる場所あるいは敬虔や敬神が座する場所であることを示している。カバリストが「天-人」を両性具有であるというとき、人間の内的組織および胚の初期の発生によって証明されることだけについて述べている。
かくして「聖母」(《ピア・マーテル》)の子宮内の胎児は天上の両性具有者であり、その各部分は脳と呼ばれる驚異の器官の各部に付けられた現代の用語においてもかすかにではあるが追跡される。第三脳室のすぐ後ろにあり、土星の支配を受けている四つの丸い隆起体である《四丘体》は、《臀部》と呼ばれる前部の一対と、《睾丸》と呼ばれる後部の一対に分割される。四丘体からそれほど遠くないところに、哺乳体──二つの完全な小乳房──がある。こうして脳は「上位の人間」の両性具有性を表し、松果腺と脳下垂体は、この天上の両性具有者の生殖器官である。
ブラヴァツキー夫人は、松果腺は女性の子宮に、大脳脚は卵管に対応すると述べている。このゆえに、王であり祭司であり、男性であり女性であり、自らの父にも母にもなりうる古代のメルキゼデックのような人を持つことになる。ある象徴体系では、この脳人間は一人ではなく二人と考えられており、子宮のなかで双子のように相抱き合っている姿で描写される。このうち一人が男性であり、もう一人が女性である。彼らは双子(ジェミニ)であり、「天上の双子」、分離する前のアダム-イヴである。二人は中国人の陰と陽のように絡みついているが、白と黒の龍のように互いに咬み合っており、東洋人にとって「自然」のあらゆる分野における能動者と受動者を意味するものであった。
それゆえ脳は単一の器官としてではなく、全生体、小宇宙──全肉体の原型であり、肉体的器官に反映される全英知の座──として考える必要がある。バートンはそれを「心臓に対する枢密顧問官、大法官」と呼んでいる。
小さな胎児がその頭部で丸くなっている人間の精子を説明する奇妙な図版がある。この図(120頁を見よ)は、脊髄系と精子の間の外観上の照応を定めようとして描かれたのかもしれない。脳(脊髄を含む)は、形から見て精子に似ていないわけではないからである。精子の頭部で丸くなっている人物は、後で述べる脳人間を想起させる。脳の解剖学的な構造と、その各部に付けられた名前には、神秘学的な意味に関するあるヒントが含まれている。形は力の表れであり、それを産み出す衝動の目的に沿って形成される。
かくして延髄(《メデュラ・オブロンガタ》)は、古い著作家を参照すれば見いだされるように、フリーメーソン的に大変示唆に富む言葉である。《メデュラ》の古い意味の一つは「髄」であり、「骨あるいは頭蓋の中の髄」はフランスの伝統において特に興味のあるものである。実際にそれは「殺害した者を隠す場所」であるからである。
《メデュラ》はまた、精髄、要約、大要、錬金術師の完成、「キリスト教密儀」の「コト終ワレリ」を意味する。《メデュラ》の各部が解剖学者によって、前《ピラミッド》、後《ピラミッド》、《オリーヴ》体、索状体などという風変わりな名称で区別されているのを知るとき、この分野の研究がいかに豊かなものかは容易に理解される。つまり、魂が「ピラミッド」の密儀を経験するのは《メデュラ》のなかにおいてである。ここにはまた、オリーヴ山があり、そこから油が絞られることに加えて、聖書への言及がある点でも意義なしとしない。
《索状》という語は「紐状」を意味する。キリストが紐で縛られたのはオリーヴ山においてであり、「結び目」が解かれるのは「カドシュ」の葬祭の説教においてである。脳全体がこのような方法で扱われなければならない。そのような分析こそ人間の神性の研究には不可欠だからである。
2025/03/05(水) 15:02:34.08ID:QpFoJsjF0
p249 第十三章 脊柱と世界木

脊柱は三十三の節もしくは椎骨(ウェルテブラ)(「回る(ウェルテレ)」という意味の語源より)からなる柔軟な柱である。その椎骨は、五つの群に分けられ、それらの占める位置の名前がついている。すなわち、(一)《頸椎》七個(二)《胸椎》十二個(各肋骨に一個)、(三)《腰椎》五個、(四)《仙骨》(五節あって成人では結合して一本の骨となる)、(五)《尾骨》(小さな四節の骨で、脊柱でもっとも退化した器官)である。
椎骨は、「互いに積み重なり合って、頭蓋と胴を支えるしっかりとした柱となる」と説明されており、脊柱全体は中空の円柱と考えてよく、その主目的の一つは、脊髄を保護することである。この梯子のような骨は、古代人の宗教的象徴体系にあって非常に重要な役割を演じ、よく螺旋状の道路とか階段(狭く細い通路)、時には蛇、さらに魔法の杖や王笏として言及されている。「撥弦楽器ヴィーナやハープの背骨のように、胴にそって人間の頭まで延びている多数の関節のついた長い道のような骨は脊柱(メル・ダンダ)と呼ばれる」(『ウッタラ・ギーター』を見よ)。
数三十三は大いに意味がある。それというのもダヴィデはエルサレムで三十三年間君臨し、キリストの生涯は三十三年間だったし、三十三階級はフリーメーソンの儀礼で認められ、三十三はフランシス・ベーコン卿の暗号のサインだったからである。
エジプト人のタットの柱はプタハ神の背骨、後にオシリスの背骨になったと述べて、ジェラルド・マッセイはこう言っている。「背骨は、棒の比喩であって、時にはストの背骨、またときにはアヌプやプタハ、オシリスの背骨である。──背骨は力を維持する自然な典型だからである。『魔法のパピルス』ではこの比喩は、ネムマたるプタハの長い背骨と呼ばれている。『おお、偉大な顔の、背骨の長い、脚の不格好なネムマよ。おお、上下(両)天界で始まる長い柱。おお、アンヌで安らぐ巨大な体の主よ。』アンヌとは、柱や棒の場所のことで、今はアメンタで二重にされている(『魔法のパピルス』)(『古代エジプト、世界の光』を見よ。)
「アメンタで二重にされている」タットとは、人類の来るべき第六の根本民族が有する二重の脊柱のことではないのか。その民族については、交感神経節が環状となり、第二の脊柱を形成し、これが結局第一の脊柱と合同して、肉体の究極的な型を生むと書かれている。ここに二重棒、一つの体内の二本柱の神秘がある。
カバリストによれば、アダムとイヴは背を合わせて作られていた──脊柱が一本の二人の人間である。彼らはデーミウルゴスの意思により分離されたが、完全な体作りの際に、二本の柱が融合して脳脊髄神経と交感神経とが究極的に結合すれば、この神秘は達成されるであろう。
双頭のフェニックスはこの達成の象徴であるが、錬金術師の二面の王が表すものと同じである。
2025/03/06(木) 14:34:59.39ID:Cz4wkyEX0
p300
人類の太古の生存競争を胎児期を通して再演したばかりの嬰児は、頭頂部に極めて敏感な部分を持っている。そこでは頭蓋骨がまだ閉じていないのである。稀にこの隙間が全く閉じないこともあるが、七歳から九歳の間にこの縫合線が縫い合わされるのが普通である。幼児は、頭部の第三の眼の上にある。この部分が極めて敏感で、誰でも一種の透視能力を持っている。少なくとも神経過敏症的微候を持つ。子供はまだ不可視の世界に生きることが多い。肉体の生理機構がまだ不完全なため、充分働いていない間、子供はあの不可視の世界で行われる影のようなものをもっている。
胎児期に子供は松果腺という開かれた門を通して完全にその世界と結びついていたのである。ラテン人がエゴと呼ぶ高次の知性が肉体の成長とともに次第に衰えてゆき、やがて、この天への門は閉ざされてしまう。こうして人間が肉体へ入り込むことは、松果腺の中で形成される「魂の結晶(アケルウルス・ケレブリ)」という神秘的な関わりを結んでいるのである。
前に述べた「世界木」というスカンディナヴィアの密儀伝説のなかに第三の眼の秘密が非常に美しく語られている。エッダ伝承の語るところによれば、「ユグドラシルの木」の一番上の小枝に一羽の鷲が宇宙を睥睨して止まっている。さらにその鷲の頭の上、両目の真ん中に一羽の鷹がいる。一般に鷹は風の元素を意味すると考えられてきた。そして鷹は宇宙のエーテルである。だがエジプト人にとって鷹はあの奇妙なホルスの目であったこと、そしてその単眼が疑いもなくホルスの密儀を受けた者にとって松果腺を表すことを思い起こすと、この奇妙な図が新しい重要性を帯びてくる。
前世紀のある博学なカバリストの明らかにするところによれば、『ゾハール』の研究や「生命の木」のセフィロト「コクマー」と「ビナー」は、その両側におかれていることから右脳と左脳であったという。ヘブライ語の聖書には間接的に松果腺を語っているのだと解釈できる箇所がいくつか見られる。
この小さな器官はかわいい指のような突起が先端にあって、そこが接合部から最も離れている。この突起は「神の杖」と呼ばれ、「聖杯の密儀」において、「聖なる槍」に相当する。松果腺全体は蒸溜器つまり錬金術師が言うレトルトの形をしている。この腺の先端にある振動する指がエッサイの杖であり、大司祭の笏である。
東西オカルティズムの秘密教団のなかでは、ある人がある段階に達するとこの指を計り知れない速度で振動させるようなある行法が課される。その結果として頭のなかに前に述べたブーンと唸るような音が聞こえてくるのである。この現象が耐え難い苦しみを引き起こすことがある。オカルト世界に対し十分な知識をもたないで行うと悲惨な結果を招くことすらある。松果腺と下垂体はそれぞれ「知恵」という「龍」の頭と尻尾だと言われている。脊椎を伝わって上ってきた心霊的、オカルト的な流れが頭のなかを動く際(「クンダリニーと交感神経」の章を見よ)脳の中を通らねばならないが、それは松果腺という落とし戸によって閉じられている。
この器官──エジプト人の鴇(トキ)がいわば尻餅をつく格好で、「後ろ向きになる」時、それは第四脳室への入り口を閉ざし、一種の障壁を形成する。こうして第三脳室の中身を封じ込めて、第四脳室に入るのを防ぐのである。クンダリニーによって刺激されると、松果腺は真っ直に立ち上がり、噛みつかんばかりのコブラのように鎌首をもたげる。そしてこの蛇の頭のように松果腺は膨らんで、小さな指のような突起が蛇の舌と同じスピードで素早く動くのである。第三脳室から第四脳室への通路を遮っていた松果腺は、自ら障壁たることをやめ、脳中の精髄が混合して霊的錬金術が行われるのを許す。
フリーメーソンの導師の「全てを見る目」、聖書のなかに出てくる肉体がそれによって光に満たされる「一つの目」、あらゆる「密儀」を知ることを可能にしたオーディンの「一つ目」、テュフォンがあるとき飲み込んだ「ホルスの目」、ベーメのいう「万物を見そなわす主の目」、これら全てはあの原始的な器官をほのめかす象徴に他ならない。
2025/03/06(木) 14:35:15.43ID:Cz4wkyEX0
『秘密教義』の基礎をなす注釈によれば、松果腺は「次第に石化」して視界から消え、「深く頭のなかに」引き籠り「髪の毛の下に深く」埋められたという。とすればプロクロスが『プラトンの神学』の第一巻に書いてあることもこの事である。そこで彼が言ってることだが、魂はその本性の奥の院、つまり最も深いところに入ったとき初めて、「神々の種族」や「事物の一性」を肉眼の助けを借りないで眺める。このとき肉眼は「閉じられる」という。従って松果腺とは神話作りの上手な「古代人」の第三の目であると断言するのは非科学的なことであろうか。ベロッソスはカルデア人の起源について論じた断片のなかでそのように書いているし、ギリシア人は松果腺をキュクロブス伝説のなかで記録した。神秘家は松果腺がダングマの目つまり悟りに達した賢者の内的目とか、神々や覚者の額に垂直に描かれている「シヴァの目」の名残であるということを知っている。
このことは霊的な目が彼らのなかに輝いていることを意味している。観世音菩薩の不可思議な顔を見て、注釈のなかにある第三の目を思い出していただきたい。そこには内なる「人間」が活動すると、その目は膨らみ大きくなると書かれている。阿羅漢はこの活動を感じ見ることができる。そして自分の行動をそれに従って規制することができるのである。
https://i.imgur.com/P3pl8Y1.jpeg
2025/03/06(木) 15:56:40.32ID:Cz4wkyEX0
p218
フォン・ハマーは、三つの顔を持ち、その体が目、耳、惑星の象徴で覆われたバフォメットの偶像について説明している。その像は蛇に巻かれ、歪んで醜い姿勢で立っている。フォン・ハマーは、それが聖堂騎士団によって崇拝されたとされる「古老」と同じであるとした。
https://i.imgur.com/mZ6mcvD.jpeg
2025/03/06(木) 16:48:28.09ID:Cz4wkyEX0
p282
フォン・ウェリングは、霊的太陽が「父なる神」、知的(もしくは魂的な)太陽が「贖罪者クリストス」、物質的(もしくは肉体的)太陽がルシフェルを表し、ルシフェルは天から墜落し、奈落で王国を築き、今は、彼の火を包む四大元素からなる体の内に「閉じ込められている」とした。
https://i.imgur.com/YBrU9MS.jpeg
2025/03/06(木) 18:23:29.91ID:Cz4wkyEX0
>>1
種村季弘 著『悪魔礼拝』,桃源社,1979.5. https://dl.ndl.go.jp/pid/12218256
2025/03/07(金) 07:05:08.67ID:bc+gjBUb0
p3 サタンと大母神(マグナ・マーテル)
悪魔主義(サタニズム)とは、一体、いかなるものであろうか?はじめに、簡単な定義を下しておくのが適当であろう。『カトリック百科事典(エンチクロペディア・カットリカ)』によれば、悪魔主義とは「悪魔的(サタニック)であることの、すなわちサタンの行為に服従したり、かかる神の敵手に帰依したり、その霊に犯されたりすることの状態」である。「かかる神の敵手」という言葉にアクセントがある。従ってここで早くも次の命題が明らかになる。
一、神の敵対者であるサタンはキリスト教独特の神の反像である。それゆえにまた、悪魔主義もキリスト教的伝統と切っても切れない関係がある。
一、キリスト教出現以前、教会以前(おそらく以後も)の空間には悪魔主義は存在しなかったし、今も存在していない。
二つの命題はむしろ表裏の関係にある。要するに悪魔主義はなによりも特殊キリスト教的現象なのである。そして、サタニズムというこの「状態」が、もっとも鮮明かつ集約的に顕現するのが悪魔礼拝の儀式である。それは、神の敵対者サタンを礼拝するのだから、当然のことながらキリスト礼拝の反対命題であり、その倒錯、ないしパロディの形式をとるのでなくてはならない。教会のキリスト礼拝がミサを中心として昴まるならば、悪魔礼拝もローマ教会のミサの倒錯形態である儀式において絶頂に達する。カトリックの慣習がミサの象徴的付属物に清浄な色彩である白を用いれば、こちらは黒い聖餅、黒い塗油など、「黒」によるパロディを貫徹する。十九世紀末人口に膾炙した「黒ミサ」という悪魔礼拝ミサのこの色彩倒錯の側面から着想された通俗的イメージに他ならなかった。
さて、悪魔礼拝は、このように、いたずらに放恣な淫祠邪教ではなくて、厳密にキリスト教的な倒錯である。しかしキリスト教以前にも、悪魔礼拝そのものではないにしても、《悪魔礼拝らしきもの》が皆無だったのではない。ある意味では至るところ野放しに盛りすぎたくらいであった(なぜなら、当時にあってはキリスト教的《禁止》が存在しなかったから)。
リーヴィウスの『ローマ史』に描かれているバッカナリアの狂宴や、アプレイウスの『黄金の驢馬』の魔女フォティスが執り行う魔法を見ると、これら異教的古代の非キリスト教的密儀がしばしばキリスト教内部の悪魔礼拝と瓜二つぇあるのに驚かされる。同種の悪魔礼拝類似の密儀は、古代ケルトのドルイド教にも、エトルリア文化にも、地中海周辺のインド-イラン的二元論の影響下にあるグノーシス-マニ教信仰の広大な分布圏のなかにも、いたるところに看取されたのであった。両者を結びつけて、キリスト教的中世の魔女の宴の悪魔礼拝に古代エジプトの豊穣信仰の名残を発見したのは英国のエジプト学者マーガレット・マリー教授であったが、現在では、エジプト古代信仰がその特殊形態の一つである。
それならば、先の命題に反して、キリスト教以前にも悪魔礼拝は存在していたと言うべきなのであろうか?そうではない。仮にキリスト教出現以前の異教的密儀が特殊キリスト教的悪魔礼拝と源泉を共有し、多くの点で外形的一致を示しているとしても、両者はその《意味》を百八十度異にしているからである。端的に言えば、キリスト教以前の悪魔礼拝(らしきもの)は倒錯を知らず、悪の自意識を知らなかった。それはキリスト教の出現を待って初めて、悪または罪の烙印を押されて正統教会から追放され、サタンの王国という隔離された特殊地帯に封じ込められたのであった。
異教的密儀も、外見上は黒ミサと瓜二つの、蛇や蟇蛙や殺された嬰児の血のような象徴的付属物を用いることはあるが、それはまだ不浄や深いを意味しているだけで、いまわしい悪として意識されてはいない。異教の神々は、悪と善とに価値の上で貴賤のない、悪にもそれなりの神性のある善悪二元論の立場から、あるいは悪が悪としてまだ分離されておらず、神性の暗い面としてその全一性のなかに抱懐されている高い調和において、これらの恐ろしい供物をも要求しはしたけれども、専一反キリスト教的悪のみを請い求めるサタンとはおのずから範疇を異にしている。従って、その密儀が外見上いかにいまわしい恐怖に装われていようとも、信仰の当事者にはなんら罪の意識はなく、彼らはひたすらおのが信じるところにしたがって聖なる心酔に浸りきっていたに違いないのである。
2025/03/07(金) 16:04:25.63ID:bc+gjBUb0
p5
それ自体としてはこのように無邪気な異神崇拝をこととする密儀が悪の汚染を受けたのは、正統キリスト教がいわば自らの絶対的清浄を確信するためにありとあらゆる悪の要素をこれに押し付け、水も漏らさぬ悪の体系のなかに相手を封印したからであった。悪魔学(デモノロギア)はそもそもが体制の学問である。すでに原罪の観念に汚染された中世においてさえ、民衆レベルでは、審問官たちが死をもって報いるべき極悪と見なした魔女の所業の数々も、現代で言えば小市民のピクニックや夜桜見物のような無邪気な気晴らしにすぎなかったといえば誇張になろうか。

悪の化身サタンがキリスト教のなかに鮮明にたちあらわれてくる過程は、言うまでもなくキリスト教的悪の観念の成立と密接なつながりがある。悪の観念が定立していなければ、超越的存在の中のどれが悪魔で、どれが神なのか、区別のつけようがないからである。したがって、悪の観念がどこで、どのようにして発生したかが重要な問題となろう。一体悪とはなんなのか?しかし短兵急な返答は慎んだ方がいい。天地創成が渾沌の腑分けからはじまり、特殊キリスト教的悪魔礼拝が普遍的な大母神崇拝の胎内にすでに潜在していたのと同じく、悪もまた悪以前のもののなかに長い胎生生活を経験してきたのである。そこで、悪の発生を明確に定義するには、その原母たる悪以前のものにしばし眼を注ぐ必要がある。
2025/03/08(土) 06:07:30.24ID:5/rPvr2S0
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カール・ケレーニーが『神話学における悪の問題』のなかで明らかにしたところによれば「悪とは何か?」という問いは、そもそもすぐれて人間的な問いであって、神の問いではない。ヘラクレイトスは、「神にとっては、一切が美しく、善く、正しい。人間にとっては、あるものは不正だが、他のあるものは正しい」と語った。神にとっては一切が無差別的に正しいので、善と悪とを区別する必要がない。ただ人間だけが、この無差別的に美しく、善く、正しい一切に亀裂を生じさせて、一方を正、他方を不正と分割する。部分的な原理である悪はこうして人間に特有な問題なのである。
なぜかと言えば、この原理としての悪の部分性は、神が不死であるのにひきかえ、人間が死すべき存在であるという点に起因するからである。古代ギリシアでは、このような不死なる神々の軽やかな生と死すべき人間の絶えず死の脅威にさらされた重い生とが対照を形づくっていた。「われらは《彼らの》死を生き、彼らは《われらの》死を生きる」(ヘラクレイトス)という有名な言葉も、不死性と死すべき存在とに世界が両分されたという認識に基づいている。とはいえ、一面には神々とその住居である鉱(あらかね)の天上、他面には人間の世界と両分されながら、両者とも、そもそもは原母ガイアから生の息吹を授かっているために、決して相互に無関係ではない。
「鉱(あらかね)の天上、それは」とケレーニーは右の消息をふまえて語っている。「不死なる神々の硬さであって、人間たちはよしんば彼らが神々を畏敬しているにもせよ、これを頭にぶつけるのである。神はそれぞれ、祝祭の際に生け贄を受け入れるときでさえも、その貌(かんばせ)に不死性の硬い表情を帯びている。この表情は人間たちにとってのみ、神に死の脅威を受ける人間たちにとってのみ、硬いのである。それは決して悪意の表情なのではなく、光輝く微笑みもしくは安らいだ光彩に満ちた厳粛さなのだ。それなのに!このような光輝く堅固な存在──私たちの周囲の世界はそんな風に存立している!──に直面して自らの死に想いを馳せるとき、人は神々の残酷さをいかばかり身近に感ぜざるを得ないことだろうか!」
ここで注意してほしいのは、神々は意識的に残酷に、悪意をもって振る舞っているのではないということである。それを残酷と感じているのは人間(神に死の脅威を受ける人間)であって、神々は「光輝く微笑」を浮かべながら、いとも軽やかにことを行っているのだ。正確には、それは今日的な意味での悪ではなくて、禍いとか、死の脅威とか、言うべきものであろう。事実、ギリシア世界の悪の観念はそうしたものであって、ギリシア語の悪に当たるkakosは「禍い」の意味を併せ持ち、苦悩や死の原因となる「能動的、行動的なもの」の意である。それは潜在的な能動性として普段は隠されているが、何かのきっかけに禍いを及ぼす悪意に集中される、ある怒れる本質である。それゆえに、ケレーニーはギリシア的な悪の観念について次のように語る。
「悪とは、人間の共同生活のうち、いや人間と神々の共同生活のうち、私たちの世界の自然的な状態のうちにあって、adikiaすなわち不正を意味する。当然の、かつ軽はずみに喚起される神々の怒りは、それがいかに残酷なものであろうと、悪に完全に酷似し、本当に悪しき形態のうち、世界の死の相貌の放縦な激発のうちにあらわれることがあろうとも、不正ではない。」
なぜなら一般的な定義として、
「悪とは(神はこちら、人間はこちらという意味での)双方の面の自然的な関係を勝手にかき乱し、死すべき存在に対して死の面を早まって喚び起こす行為である。」
「私たちの世界にあって永遠に存在するもの、もしくは周期的に必ず回帰してくるものすべてに内在する、不本意の残酷さが作為的な《諸行為》に転移されるとき、はじめて悪について語ることができる。」
生と死、人間の世界とオリュムポスの天界の自然な平衡関係が維持されている限り、悪は問題にならない。仮にこの平衡関係がかき乱されても、不死である神々は「死すべき存在に早まって喚び起こされる死の面」になんら脅威を受けることはない。ティターンの神々はディオニソスの子供を八つ裂きにする。しかし、それは残酷ではあるが、(まだ)悪ではない。燔祭の生け贄の対象が人間に向けられようと、動物(雄牛、山羊)に向けられようと事は同断である。そこでは同一の神話のなかに残酷さと没倫理的な無垢もしくは不感無覚が共存しているのである。少年神ヘルメースはこの上なく晴朗な天真さをそなえていながら、路上で拾った亀を残酷に弄んで殺し、泥棒、詐欺、夜盗、嘘言のようなありとあらゆる悪行を働く。神々は、猛獣が獲物を殺戮する前にさんざんなぶって楽しむように、生け贄を殺しながら嬉々として無邪気に戯れさえする。
2025/03/08(土) 11:05:30.09ID:5/rPvr2S0
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ギリシア神話以外の神話系のなかにも後の悪魔と同一視されることもある、悪行を働く残酷な神はしばしば登場してくる。古代ケルト吟唱詩人たちが好んで歌った悪しき神ロキは、狡猾で、二枚舌で、虚栄的で、策謀家で、卑劣で、媚びるようになめらかな顔に装われながら狂暴である。ロキはやがてキリスト教的観念の影響下に悪の原理の人格化としてほとんど「キリスト教の悪魔の原型」とされたが、本来は、デュメジルが論証しているように、小アジアのヒッタイト王国の神話文書の中に祖型を有するインド-イラン系の神話であった。そしてこの悪神も──その残忍さにおいてはむしろクロノスに近いが──一面にはヘルメースのように憎めない諧謔精神の持ち主で、口の悪いユーモリストなのだ。
こうした異教の神々は後代に到ってしばしばキリスト教的悪魔の原型と見なされたが、しかし、どんなにその悪の面を分離的に誇張しても悪魔の姿と完全に重なり合うことはなかった。後に私たちは、近代文学における悪魔のメトロポールとなったヴェネツィアにおける悪魔の暗躍を述べることになるが、そこでも神々の使者ヘルメースは、悪魔と至近距離まで接近しながら同一化することはない。ヘルメース(やロキ)の策謀も、二枚舌も一見極めて人間的な悪の相貌を帯びてはいるが、実はいかなる倒錯も知らない神的軽快さの産物だからである。ケレーニイの先に引用した悪の一般的定義の中に「不本意な残酷さが作為的な諸行為に転化するとき」という注目すべき限定句がある。悪は「不本意」の産物ではなく、意識的な「作為性」の必然的な結末でなければならないのである。何気ないこの指摘は、サタニズムが真にサタニズムとして完成されるのが何故特に十九世紀末であったかを正確に洞察している。不本意な残酷さとして世界に常に潜在している能動性は、神々の晴朗な遊戯の園から失墜して、人間の意識という反射装置を通じて初めて悪の禍々しい姿を映し出すからである。
2025/03/08(土) 16:01:28.81ID:5/rPvr2S0
p10
ロマン派以後の自意識のドラマが極点に達するその瞬間に、作為としての悪が洗練の極みに達し、「芸術のための芸術(ラール・プール・ラール)」の平行として、悪のための悪、殺人のための殺人が出現する。かくて悪は純粋の極みにまで洗練されて、ついに虚構となり、装飾となり、道化たパロディーとなり、悪による超越が定式化されたスローガンと化したとき、超越の契機となる豊穣な生命力を失って自意識の内部に空しい堂々巡りを繰り返すのだ。
世紀末芸術家たちとほぼ時を同じうしてこの不毛な空転の消息に気づいていたのは、哲学的ベシミストたちであった。ショーペンハウエルは悪について次のように考察する。
「哲学的思考を促す驚愕の仔細な状態は、明らかに万有のうちなる《禍と悪》を見たために生じるのである。…それゆえ、まず悪を片付けるために、意思の自由が考え出された。…ついで人々は、禍から脱却しようとして、その責を物質に、だがまた自然の不可避の必然性に負わせた。そうしながら人々は、そもそもが正当なる所与の状態における方便(エクスペディエンス・アドホック)たる悪魔に与(くみ)したがらなかった。《死》は禍いの不可欠の一部である。悪はしかし、単にその都度の禍いを他者に押しつけることに過ぎない。」(『意思と表象としての世界』)
この逆説的な悪と自由意思の相互関係の裏側が有名なマーヤのヴェールの比喩である。
「未熟な個人の眼差しは…マーヤのヴェールに曇らせられる。彼の眼には物自体は見えず、代わりに時空の、個別化の原理の、根底の文脈の余剰状態のうちなる現象しか見えない。彼の限られた認識というこの形態のなかでは、本来ひとつのものである事物の本質は見えず、分離され、分断され、教えきれず、極めてまちまちで、相互に撞着さえしているその現象のみが眼に映るのである。そこで彼には快楽が一つのものとして見え、苦痛がこれとは別なものとして見え、この人は拷問吏殺人者、あの人は受刑者犠牲者と思われる。…彼は世界のなかに禍いを見、悪を見る。しかし両者が生への意思という現象の異なる面に過ぎないことを認識するにはほど遠いのである。彼は両者を相異なる、相対立するものとさえ考えているが、しばしば悪を通じて、すなわち他者に苦悩を惹き起こさせることによって、おのれ個人の苦悩である禍いから逃れようとする、個別化の原理にとらわれ、マーヤのヴェールに欺かれて。」
2025/03/08(土) 18:32:43.14ID:5/rPvr2S0
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個別化の原理にとらわれた人間は、悪を運命的な禍いの一面として全一的な神聖のうちに内包している一なる本質から分断され、あれとこれとの間に立ち迷う。この分裂と孤立の深淵からマーヤのヴェールをかいくぐってショーペンハウエルが垣間見たものは、不覚無覚のニルヴァーナである。同様にしてニーチェは「善悪の彼岸」について語り、フロイトは「快不快の彼岸」を語った。
同じ認識からデカダンス芸術家はあえてショーペンハウエルのいわゆる「所与の状態の正当なる方便たる悪魔」に与したのだった。人々が禍いを自然の(あるいは歴史の)不可避の必然性に押しつけて事足れりとしているのに対して、彼らは進んでその責を一身に負い、禍いの攻撃性を他に導く悪の作為性を洗練させ、悪をいよいよ部分化し鈍化して、サタンの純粋な輝きに就くことを選択し、そのイロニーの極限からニルヴァーナへの帰還をはかった。「魔王連」のボードレールがペシミストたちと同じ東方憧憬の結論に達したのは異とするには及ばない。「旅への誘い」のリフレインは、さながら悪の(悪以前のもののうちなる胎生への)還帰願望であるかのように響く。

彼処では、ものみな秩序と美、
豪奢、静寂、また快楽。

鬼面人を驚かすような悪魔主義者たちの大多数が東方崇拝者であったという事実は、いささかも驚くには当たらないのだ。個別化の原理によって純粋抽出された悪を仮面として装いながら、彼らの関心は個別化の君臨するここにはなく、悪が未分化のままに(あるいは今日とは全く異なる価値観のもとに)サフランや山羊の乳の香りのように大気の中に混じり合い、共棲している、荒々しい生命力に包摂された彼処(かしこ)にあった。キリスト教的伝統の下に生を享けた宿命が悪魔主義を完成によって破壊に導くという逆説的苦役を彼らに課し、東方に属している本質が、西欧におけるいまとここを流謫の感情に染め上げるために、本質とは似もつかぬ演技を命じたとも言えようか。
2025/03/09(日) 04:58:13.17ID:jluJ/D/Y0
p12
「ロマンティックな空想に対する大きな反動が、1890年代におとずれた。それは二種類あって、まず悪魔主義者がいた。この一派は、文学上のデカダン主義と手をつなぐことが多かった。デカダン派は、病める魂を心のうちに秘めてローマ・カトリック教会の門をくぐり、ヴィクトリア朝の趣味と気取った道徳的な伝統を侮蔑して、ひたすら異国情緒に耽った。なかにはサリー州の仏教徒団に身を投じる者もいたが、大多数はマニ教と東方の二元論的な宗教に帰っていった。エリファス・レヴィは、パリで呪術に関する書物を出版した。偽悪という青年期独特な感情と、複雑精巧な地中海的祭儀の知的な魅力に引かれて書き上げたものである。」(P・ヒューズ)
2025/03/09(日) 06:16:00.68ID:jluJ/D/Y0
p12
軽薄に戯画化されてはいるが、大筋において当時のオリエンタリズム流行を叙した記述と言えよう。東方を憧憬しながらローマ・カトリック教会の門をくぐるという二律背反が流行したのであった。なぜなら東方は彼方にあるが、教会の門をくぐればそこには彼方とは相隔たること最も遠い正当信仰が存在し、それを倒錯させることによって、今ここでサタンの王国に、すなわちさかしまの形で東方と交感し通底している異界に推参できるからだ。言い換えれば、悪魔主義者こそは教会の架構した悪魔とは最も無縁な存在で、詐術的にローマ教会に属しながら最も非カトリック的だったのである。
東方を精神の拠り所としながら西欧に生きていたこれらの貴種流離譚の人物たちは、そのさらに倒立した姿を西欧以外の空間における悪魔礼拝者たちのなかに見い出だすこともできるだろう。西インド諸島のヴードゥー教徒、北西部イランの回教徒クルド人のイェジデ派、ブラジルのクレオールのマクンバ信仰は「悪魔主義的」であるが、これらの諸地域が例外なくキリスト教に汚染された白人支配の旧植民地であったことを考え併せるなら、悪魔礼拝とは正当信仰とアジア・オリエント的土着宗教の諸神混淆の場に必ず発生する倒錯的擬態に他ならないことがたちどころに判然とする。
聖堂騎士団からネルヴァルとボードレールにいたるまでの東方旅行者ないし東方崇拝者たちは、同じ道程を逆にたどったのである。植民地の原住民も悪魔主義的騎士や詩人も、いずれも、自らが真に所属すべき世界を不当に追放され、見知らぬ世界をさまよっているという被投企の感情から、正にその不当な「所与の状態における方便として」悪魔に与したことに変わりはなかった。
2025/03/09(日) 07:56:55.16ID:jluJ/D/Y0
p13
さてしかし、ここでキリスト教以後の全ての悪魔礼拝の諸相を検討し尽くすことは不可能に近い。とりあえず今は、キリスト教成立前後の、悪と悪魔の像が次第に鮮明となるにつれて、没落しながらキリスト教内部に悪魔の大群として収斂吸収されていった異教の神々の運命に簡単に触れておきたい。
キリスト教の世界征服を待つまでもなく、すでに古代ギリシアにおいて、劣勢となった異教の神々は悪の領分を割り振られていた。旧約聖書で「悪」を意味するギリシア語penerosは「艱難に苦しめられる者」「悪者」の他に、「役に立たない者」を指し、また前述のkakosは「劣敗者」の意をも含んでいる。すなわち「負けたものから悪が生まれた」(ケレーニイ)のである。ギリシャ神話でいえば、それは明るいアポローンに対する暗いディオニュソスであり、さらに勝利に輝くオリュムポスの神々に対する打倒されたティターン族である。
むしろ明-暗が合してひとつの全一性を形作っているギリシアでは、暗いものすなわち悪を意味してはいない。しかしディオニュソスやティターンの暗さは少なくとも大母神の地下的(クトーニッシュ)な性質を代表する属性ではあった。特に世代交替劇の犠牲となったティターンの場合には、その敗残の生き残りの中から多くの前悪魔的な形象が輩出してくる。ゲルハルト・ツァハリアスの要約を借りよう。
「大地的なティターンはオリュムポス神の祖先でもあれば激しい敵対者でもあるように思われる。ピュトンの蛇はアポローンに征服されてからデルポイの世界の臍の番人となる。魂の導者にして神々の使者たるヘルメースは同時に──しばしば残酷な──悪漢である。その息子パンのなかには荒々しい本能的性格が体現されている。」(『悪魔礼拝と黒ミサ』)
敗残のティターン族の子ヘルメースやその子パンはティターンを廃して新しい支配者層となったオリュムポス神の環の中では上位に位する神ではない。その役割も死霊の導者や使者といった賤業であって、英雄的な神々の勇姿とは相隔たること遠い。とりわけパンは、後にその半身山羊の淫蕩な姿がサタンのモデルとされることしばしばであった。エロチックな含意はいうまでもないが、それとともに、劣敗者=悪という観念と大地的なティターン族につながる意図的な暗さが、彼らを悪魔の先駆形態と見立たせたのである。ちなみにパン=サタンの血縁関係はディオニュソス(バッカス)=悪魔の関係と相等しい。
ローマは早くからエジプトやカルデアの文化の影響下にあったが、同時にイラン系の二元論に由来する奇怪な密儀をしこたま抱え込んでいた。その淵源は善神(アフラ・マツダ)と悪神(アーラ・マンニウ)の絶対的対立を教義とするゾロアスター教にあり、キリスト教のローマ浸透初期にもアフラ・マツダと同系の光の神ミトラを崇拝する強大な勢力が残存していた。
インド-イラン的二元論では生け贄の肉を糧として生きる悪神の存在が公然と認められていたので、ヘレニズムのアポローン-ディオニュソス的な明暗の全一性はローマにいたってすでに事実上崩壊していたのであった。この二元論的思考はキリスト教初期最大の(一時は正統派の勢力を凌駕さえした)異端グノーシス派のなかに顕著に継承されている。
ヘレニズムの残照とローマの退廃を背景に徐々に頭角を現してきたキリスト教は、言うまでもなくユダヤの諸伝統を母胎としていた。サタンの前身はここにも胚胎していたのであった。ユダヤ的色彩の濃厚な旧約聖書におけるサタンの形成過程を分析したシェルフのような学者は、はじめに両極端な神の形象の暗い面を体現していた天使が「神の息子」としてのサタンを経て、ヤーヴェの対立者サタンとなり、ついに神から分離して独立の悪霊(デーモン)となる道程を逐一論証している。天使の中の一人から堕天使が生まれてくる過程を叙べたヴィンケルホーファーもこれと同工である。いずれにせよヘブライ的思考もまた、神的なものの明-暗の全一性からヤーヴェの敵対者としてサタンが分離していく二元論的傾向を帯びているのである。
2025/03/09(日) 14:14:13.73ID:jluJ/D/Y0
p15
こうしてヘレニズム文化、ローマの異教、ユダヤ教の遺産が三つ巴に絡み合った複雑な状況にキリスト教は直面する。ゲルハルト・ツァハリアスはヘレニズム文化とユダヤ教の遺産を巧みに融合させながらローマのあまたの異教を壊滅させた初期の教会の対応策を次のように分析している。
「ここで《初期の教会》は、その鋭い反対(コントラ)を携え、当時全面的崩壊の潮流のなかに信仰の根をはびこらせていた暗い神的な諸力の神性を剥奪してこれを悪魔化することによって、またその道徳的要請を携えて、介入した。後期ユダヤ教の二元論的構想に立脚し、ヘレニズムの悪霊(デーモン)信仰とグノーシス的二元論の影響下にありながら──教会はグノーシスと争っただけではなく、同時に多様な形でその影響下にあった──初期教会は<ディオニュソス的なもの>の原理に対する<アポローン的なもの>の原理を、すなわちサタンにおいて絶頂に達する反神的諸力の暗黒と怨念に対する、キリストにおいて受肉された、明るい、善き神の原理を代表したのであった。」
大雑把に言えば、正統教会はグノーシス派やユダヤ教の二元論を援用してまず悪を二元的に分離させ、ついでその対立的な価値を否定してアポローン的秩序思考の下位に置くのである。インド-イラン系の二元論も悪の絶対的存在を認めてはいるが、それは価値として善神より賤しいものではいささかもない。キリスト教的価値観を持って初めて、悪は劣敗卑賤の同義語となった。それゆえにサタンの面影のなかには、二元論的に神から分離して独立の王国を打ち立てる高貴な反逆児の貌と、劣敗者として卑しめられた卑賤が同居している。これがこの他の前悪魔的悪霊とキリスト教的サタンを分かつ最も重要な特徴と言えよう。一旦教会の秩序が制定され、教権の拡張過程に入ると、伝導の足跡の及ぶ先々の地方神土着神を次々に制圧してサタンの軍勢に繰り入れる。キリスト教が拡張するだけ、敗者サタンの影の王国も拡張されるのである。もはや制圧すべき異神が見当たらぬ場合には教会の内部から異端分子を摘発するであろう。こうして永久粛清の無窮動の輪はいっかなとどまるところを知らないのである。
2025/03/10(月) 11:53:26.87ID:HkTTzW2N0
p17
このように正当教会は、全世界を神の恩寵に俗して明るいアポローン的光明で覆い尽くす擬似一元論を定立し、当初悪を分離するために援用した二元論的思考を放棄したかに見えるが、その痕跡は意外にしぶとくわだかまったのである。よしんば教会が忘れても、分離された側は遺恨を忘れはしない。グノーシス的二元論はたえず復活の機会を窺っている。事実、それは三世紀頃のマニ教や、その隔世遺伝と見られるボゴミール派やカタリ派の中に強力に息を吹き返してくるのである。悪魔礼拝のための、近代にいたるあまたの結社や宗教については言うまでもあるまい。
二元論的対立はしばしば兄弟や双生児の比喩を用いて記述された。アフラ・マツダとアーラ・マンニウは双生児であった。ケレーニイによれば、これすらも原神話ではなく、ミュケーナイ時代の英雄の卵で、「母親の胎内ですでに掴み合いを演じていた」という恐るべき兄弟アクリシオスとプロイトスのつがいの方が原神話的であるという。カインとアベルもやや脱神話的な同種の形態と見ていいだろう。
面白いのは、キリストそのものがこの関連に関わっているということである。すなわちグノーシス派の考えによると、神は二人の息子を持ち、キリストはその内の第二子で、サタン(サタナエル)こそが長子なのであった。マリアを母とするイエスは、母の胸に抱かれるように、マリアと同一視された教会(エクレシア)の中に入る。しかるにグノーシス派は「魂の教会(エクレシア・スピリチュアリス)」をもとめて実際の教会を持たず、野ざらしの路傍をさまようのである。それは第二子キリストに正当な権利を奪われて、定住する場所もなく、いたずらに野をさまよう孤独なサタンの似姿でもあろう。グノーシス派の圧倒的な影響下にあった錬金術師たちはこのようなサタンを孤児になぞらえ、キリストにおけるマリアに相当する彼らの普遍的な母性を「寡婦」と名づけた。
2025/03/10(月) 12:47:59.29ID:HkTTzW2N0
国立国会図書館デジタルのサイトで本のページの画像を読み込まず映らなくなってしまった。
『世界魔法大全5』も同じように半日位読み込めなくてその後、フリーメーソンはテンプル騎士団から続く悪魔崇拝という記述が消えたり、「二等辺三角形は悪魔」という記述が見当たらなくなったような気がする。
気のせいならいいけど
2025/03/10(月) 13:44:18.81ID:HkTTzW2N0
『悪魔礼拝』
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2025/03/10(月) 15:43:07.93ID:HkTTzW2N0
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錬金術師たちに守護神ヘルメースはいみじくも洞窟に住む寡婦マイアの子であった。マニ教徒も自ら「寡婦の子」を名のり、マニ教的二元論を奉じるフリーメーソン団員は同じく「寡婦の子」を自称している。この寡婦の正体があの暗い地下的な大母神に他ならないことはあらためて言うまでもあるまい。
ディオニュソス的なものと大母神のつながりは果然ここに明快になる。ニーチェがディオニュソスを陶酔の化身と見たことはあまりにも有名だが、今日ではこの解釈は一面的であったことがわかっている。ディオニュソス的なものは植物的-自然的な存在を、包摂しているのだ。ディオニュソス信仰の発祥地であるクレタ島の祭儀の中心では「一面では洞窟の中に祀られていることによって、一面ではまた、蛇を象徴的付属物に持っていることによって、地下的な暗黒への関連を物語っている大母神」(G・ツァハリアス)が座を占めている。
恐ろしい蛇の女神の像が大母神(マグナ・マーテル)の像であるのか、それともたんに女司祭の祭具であるのかは未確認である。だがいずれにしても、植物-自然の加護者ディオニュソスは、この恐ろしい大母神にさらに包摂され、その愛(いつく)しみを享けているのである。父なる神に見捨てられたこの寡婦と孤児のつがいは、やがて捲土重来、第二子の支配する世界に正嫡の長子として、失った一切を請求しに帰還してくるであろう。
久しい放浪生活に憔悴した孤児は飢えて顔面蒼白となり、手足は獣のように節くれて異様に奇形化しているかもしれない。その底知れぬ怨恨に冷たく光る眼はこの世の人のものとは思えぬでもあろう。そして彼の背後には清浄なマリアとその子の幸福に燃えるような嫉妬の眼差しを注いでいる。醜怪な、忌まわしい母親がうずくまって、不気味な人形師が操り人形を操るようにサタンを操縦しているのだとすれば!これがサタニズムのロマネスクな恐怖の根拠である。
2025/03/10(月) 16:35:55.75ID:HkTTzW2N0
p18
アルメニア-ギリシアのダニエル黙示録では、アンチ・キリスト=悪魔の到来に先だって一人の寡婦(祖母)の世界支配が行われていたとされている。祖母-悪魔のつがいは、クリスチアン・グラッペの『諧謔、風刺、反語、ならびにより深い意味』に登場する、グロテスクな悪魔(トイフェル)とその若い美人の祖母を彷彿とさせよう。グラッペの戯曲を顧みながら、かつてハイネは次のように語ったことがある。「悪魔(トイフェル)には母親があるということもすでに見た通りである。多くの人の説によれば、悪魔にはもともと祖母しかいないということだ。その祖母もやはり時には地上に現れる。おそらく〈悪魔(トイフェル)は自分の手に負えないところへは、老婆を行かせる〉という格言はその祖母と関係があるだろう。普通にはしかし、彼女は地獄の台所で働いているか、あるいは赤い安楽椅子に座っている。そして悪魔は夜になって、昼間の仕事に疲れて帰ってくると、母親が作ってくれたのを飲み込むように大急ぎでむさぼり食べ、それから母親の膝を枕に横になって、シラミとりをしてもらい、眠り込んでしまう。」(小沢俊夫訳『精霊物語』)
しかも、この種の通俗的な恐怖像は、今もって身近なところにいくらでも転がっているのである。例えばハドリー・チェイスの『ミス・ブランディッシュの蘭』に、不能のサディストのギャングとその醜怪な母親(おふくろ)との、世にも恐ろしい交情関係が活写されているのを覚えておいでの読者は多いだろう。白状しておくなら、私もまた高級な悪魔主義論議よりは、この種の大衆社会の白昼夢にも似たむごたらしい貴種流離譚の方に、なぜかアンチ・キリストの襲来を幻視する倒立した「黙示録」の迫真味を覚えることしきりなのである。
2025/03/10(月) 22:31:08.85ID:HkTTzW2N0
p20 魔女の霊薬

十六世紀ドイツの画家ハンス・バルドゥングス・グリーンに「魔女たち」と題して、数人の魔女が恍惚状態で飛翔したり、そのための準備をしているらしい情景を描いた一幅の銅板画がある。後方に水平に浮遊している老婆が片方の手に尖りの二股状になった杖を持ち、もう一方の手で、半ば浮き上がった若い娘の腰を抱えて何処(いづく)かへ拉そ去ろうとしている。前景右手には、片手にもうもうと煙をあげる魔香器を掲げて今にも地を離れんばかりのエクスタシーに浸っている女がいる。注目すべきはしかし、それよりさらに前景左手の女である。彼女は左の手に何やら呪文のようなものを記入した紙片を持ち、もう一方の手を股間に挿入して(後方にグツグツ煮えている釜から取り出したものであろう)塗り膏(あぶら)らしきものを陰部に塗布しているのである。呪文と見えたのは、あるいは塗り膏の製法または用法を書き留めた処方箋でもあろうか。仔細に見ると、この銅版画は映画的な連続画面で構成されていて、最前景の塗り膏を塗布している魔女が遠景に退くのにつれて、徐々にエクスタシーに陥りながら催眠状態で飛翔する(もしくは飛行感覚に襲われる)過程を刻明に記述していることがわかる。
バルドゥングス・グリーンばかりではない、ゴヤも(「サバトへの道」)、アントワーヌ・ウィルツも、レオノール・フィニーも、古来魔女を描いたほとんどの画家が、箒にまたがって空中を飛行する魔女を描いた。魔女は飛ぶのである。しかも股間に怪しげな塗り膏をなすりこむことによって!これこそが悪名高い「魔女の塗り膏」であった。
ところで、一体、魔女の塗り膏の成分はどんなものだったのであろうか?血やグロテスクな小動物のような、様々の呪術的成分を混じてはいるけれども、主成分は概ね幻覚剤的な薬用植物であったようだ。
2025/03/11(火) 07:22:38.36ID:Hlfju86k0
p21
ゲッチンゲン大学の精神病理学者H・ロイナー教授は魔女の塗膏の成分を分析して、混合されたアルカロイドの種類をおよそ五種に大別した。
一、イヌホオズキ属のアトロパ・ベラドンナから抽出されるアトロピン。
二、ヒヨスから抽出したヒヨスキアミン。
三、トリカブトのアコニチン。
四、ダトゥラ・ストニモニウムから取ったスコポラミン。
五、オランダぱせりからのアフロディシアクム。
などであるという。これらの各成分から醸し出される効果はまず深い昏睡状態であり、次いで、しばしば性的に儀式化された夢幻的幻視、飛行体験などである。おそらく媚薬(アフロディシアクム)として常用されたオランダぱせりは性的狂宴の幻視的効果を高めたであろう。魔女審問の記録(十六、七世紀)には、実際に行われたものか、それとも単なる幻覚であったのか定かではないが、ソドミー、ペデラスティー、近親相姦のような倒錯性愛の告白が至るところに見られる。
2025/03/11(火) 07:23:06.31ID:Hlfju86k0
告白された淫行の中には悪魔の肛門接吻(アナル
・キス)のように入社儀式化されているものがあった。アコニチンによる動悸不全はおそらく飛翔からの失墜感覚を惹起した。またベラドンナによる幻覚は、激しい舞踊と結びつくと運動性の不安──すなわち飛行感覚を喚起する。睡眠への墜落、性的興奮、飛行感覚は、こうして各成分の作用の時差によって交互に複雑に出没する消長を遂げたものに違いない。
使用法は右のアルカロイド抽出物の混合液を煮詰めたものに、新生児の血や脂、煤などを加えて軟膏状にこしらえたものを太ももの内側、肩の窪み、女陰のまわりなどにすり込むのである。さて、細工は流々、はたして所期の効果が得られるであろうか?
2025/03/11(火) 07:23:22.82ID:Hlfju86k0
現代の学者で魔女の塗り膏を実際に当時の処方通りに造って人体実験をしてみた人がいる。自然魔術と汎知論、さてパラケルスやシュレジア地方の伝統採集の研究で高名な民俗学者ウィル-エーリッヒ・ポイケルト教授である。1960年、ポイケルトと知人のある法律家は、十七世紀の魔女の塗り膏を処方通りに復元して試みに自分の額と肩の窪みに擦り込んでみた。
成分はベラドンナ、ヒヨス、朝鮮朝顔、その他の毒性植物を混合したものであった。服用後まもなく、二人は気だるい疲労に襲われ、ついで一種の陶酔状態で朦朧となり、それから深い昏睡状態に陥った。眼が覚めたのはようやく二十四時間後で、かなりの頭痛を覚え、口腔はからからに渇ききっていた。二人はそれから時を移さずにそれぞれ別個に「体験」を記述した。結果はほとんど口裏を合わせたように一致し、しかも、三百年前、異端審問官の拷問によって無理矢理吐き出させられた魔女たちの告白と驚くべき一致を示したのである。
「私たちの長時間睡眠の中で体験されたものは無限の空間へのファンタスティックな飛翔、顔というよりは厭らしい醜面をぶら下げている、様々な生き物に囲まれているグロテスクな祭り、原始的な地獄めぐり、深い失墜、悪魔の冒険などであった。」(ポイケルト『部屋の中の悪魔の亡霊』)
2025/03/11(火) 15:56:14.30ID:gQEUqVCL0
>>171
https://i.imgur.com/WUlgVh7.jpeg
https://i.imgur.com/9Fc1iBQ.jpeg
2025/03/11(火) 17:05:50.24ID:gQEUqVCL0
p193
『創世記』(第四章)に従えば、エホバの許を去って、エデンの東に住み、自らは都市建設者となったカインは、それぞれ牧人と音楽家と鍛冶屋の先祖となる子供を産んだ。マンにおける音楽家アドリアーン・レーヴァーキューンがカインの子孫ユバルの末裔であるとするならば、「地の底の兵器庫を明らかな目で見ぬき」、「硝石と硫黄を混ぜる街をわれら(二月革命の暴徒)」──に教えたのは、「銅(あらがね)と鉄(てつ)の諸々(もろもろ)の刃物を鍛う者」たるチラ、トバルカインの末裔、武器製造人、錬金術師、工学家の徒であろう。
旧約の悪魔はこのように必ずしも世界創造から排除されてはいない。都市建築、音楽、鍛冶という三つの発明は、以来、文化の根元的基盤である。古代の鍛冶屋は悪魔の化身と考えられていた。破壊と殺人のための凶器を製作する彼らは、しかしながらその殺戮と破壊の衝動を外形化することによって無数の工学機械を発明するという「昇華」を実践してきた種族でもある。文化が本能の昇華であるとするならば、悪魔の末裔こそは文化形成の推進力ではなかったであろうか。ちなみにボードレールが「尊敬すべき三つのもの」に数えた「僧侶、軍人、詩人。知ること、殺すこと、創造すること」は、それぞれ都市設計、鍛冶、音楽の本質に関わっている。
2025/03/12(水) 19:08:09.23ID:K7qeUx0W0
p193
レオパルディがその分裂の狭間に落ち、ボードレールが分裂を積極的に促進することによって超えようとしたキリスト教的二元論は、その精神主義的表層の下におよそ右のような豊沃な鉱脈を隠していた。すなわち二元的分裂の彼方にある、失われた全一性の世界である。
しかしながら、必ずしも全ての詩人がキリスト教的倒錯の隘路を通過したわけではない。ゲーテがそのもっとも高貴な典型であったように、霊肉分離の苦悩の体験を《知らず》に、直接的に異教的古代へ復帰する術を知っている詩人もいた。悪魔の末裔の一人である都市建築家の直系に相当する、石工たちの結社フリーメーソンに属する詩人カルドゥッチの場合がそれである。1869年、後にフリーメーソンの祝典歌として歌われた『サタンに』は、詩句の至るところでサタン=アングラ・マイニュウに仕える「大理石建築」や「錬金術師」や「魔術師」を顕彰している。にもかかわらずここでは、サタンはレオパルディにおけるような自然の盲目的暴力の象徴でもなければ、ボードレールにおける抑圧された暗い衝動でもない。奇妙なことに、抑圧され、復讐の蜂起をたくらんでいるのは、明るい啓蒙主義的理性なのである。

祝福されてあれ、おお、サタンよ、
おお 反逆の
おお、理性の
復讐する力よ!
2025/03/12(水) 21:26:59.83ID:K7qeUx0W0
p194
カルドゥッチが「理性の復讐」を謳ったのは、この詩の成立がヴァチカンのピオ九世による謬説表公付の直後であったことに関係があるという。ピオ九世の謬説表はあらゆるリベラリズムを厳しく罰していたからである。「蛇と世界創造神」の章にも述べたように、カルドゥッチの進歩主義的理性信仰の根底には、「物質の内部にとらわれた光明的な母」を解き放つというグノーシス派の発想が生きている。カルドゥッチのサタンは「物質にして精神、理性にして官能」である以上、むろん単純な近代的理性ではない。
おそらくそれは、グノーシス教徒の天上的な母ピスティス・ソフィアのように知と敬虔な愛の結びついた実践的知性であって、それゆえに「復讐する力」というディオニュソス的激情とも結びつくのである。カルドゥッチは古代からキリスト教的中世にいたる数千年のうちに、荒れ狂う火刑台も剿滅することのなかった予言的な声」を訪ね歩き、ブレシアのアルノルトやヴィクリフやフスのような異端者のなかにきたるべきメシア=サタンの予兆を見る。そして「今や時熟し」、未成に終わった数々の試みのあとにサタンの王国がついに来臨するのだ。黙示録のアンチ・キリストとメシアの役割が顛倒した光景が、このサタン待望の幻視の内実と見て大過ないであろう。
「見よ、ミカエルの/神秘の剣(つるぎ)は/錆びに蝕まれ/忠実なる//翼をもがれた天使長は/虚空に失墜する。/雷(いかづち)はエホバの/手の中で凍てついて。//蒼ざめたる隕石、/光褪せた遊星群、/天使たちは雨霰と/蒼穹から墜ちる。」
2025/03/13(木) 15:18:09.16ID:itzS0jPj0
p195
カルドゥッチはレオパルディやボードレールのようにキリスト教の内部から発想しているのではない。キリスト教神学が二元的に分離した悪魔像と無縁のままに、分離以前の神との全一的一体のうちなる前悪魔を喚び出している点は、むしろゲーテに近い。しかしゲーテのメフィストがその前悪魔的性格に自足してあえて攻撃的な挙に出ることはないのにひきかえ、カルドゥッチのサタンはキリスト教神学という囚われの殻を破り、古代の現状態の奪還(復讐)を呼号する分だけ攻撃的-涜神的である。
だが、それにしてもこの攻撃は、ボードレールにおけるようにキリスト教的二元論の内部から、従って同時にメスでも傷口でもある自意識の劇として営まれているのではないために、批判は外在的なものにとどまり、悪魔的なものに不可欠の肉体的-物質的現実性が稀薄であるように見える。
しかしボードレールを通過した眼でカルドゥッチのオプティミズムをあげつらうのは、いささか酷であろう。ここではむしろ、カルドゥッチの思想的背後関係をなすフリーメーソンの悪魔解釈と、ヴァチカンのそれとを同時に一望の下に鳥瞰させるような実際の一スキャンダルにしばらく眼を注いでみよう。事件は世紀末の風俗としての悪魔主義的風潮を雄弁に物語っている。

文学的悪魔主義は必ずしも常に純粋な想像力の産物ではなかった。概してそれは、同時代の現実のなかにモデルとは言わぬまでも対応物となるような事件を持っている。フランス革命前夜のパリでは、裸の女を祭壇に上げていかがわしい乱交に耽るいくつかの秘密集会が行われた。二月革命直前にも、文士やボヘミアンのサロンでは「なかば真面目、なかば冗談に、悪魔ミサを挙げるのが流行」となり、「それは文学的モードというよりむしろ文士のモード」(ドライカント)であった。ボードレールはこれらの風俗的反社会的グループと接触し、その雰囲気の中で『魔王への連』以下の詩篇が成立したのである。
2025/03/13(木) 15:23:50.12ID:itzS0jPj0
悪魔崇拝にはまりこみ子供を多く殺したジルドレはジャンヌ・ダルクの盟友だが、フランス革命当時のこういった>>179悪魔崇拝の流行をきっかけにはまりこんだのだろうか?
魔女裁判で処刑されたジャンヌ・ダルクも本当に悪魔崇拝とは無関係だった?

ジル・ド・レ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC
2025/03/13(木) 21:46:02.04ID:itzS0jPj0
p196
世紀末の悪魔文学を代表するユイスマンスの『彼方』には、修道僧ドークルの黒ミサを始め、同時代の悪魔集会の数々が網羅的に活写されているが、そのなかに、どちらかと言えば中世的な雰囲気を残しているこれらの地方的な悪魔集会の他に、「さらに広範囲にわたって新旧両大陸を荒らしている近代的結社」が存在していることが指摘される件りがある。話者は作中人物の一人デ・ゼルミーである。
「それはいかにも近代的結社で、悪魔主義は行政的な機構をとってきて、あえていえば、中央集権の実をあげている。多くの委員会があり、専任委員があり、また法王の元老院と同じくヨーロッパおよびアメリカを統轄する元老院のようなものがある。」(田辺貞之助訳)
その例としてデ・ゼルミーは、「更新幻術者協会」と「降魔新マージ教」の名を挙げているが、いずれも混乱に乗じて世界を乗っ取り、教王に対抗する長老を選出してサタン崇拝による世界支配の野望に燃えている結社であるという。ユイスマンスの記述はやや曖昧であるが、反教権主義と近代的組織性においてこの悪魔主義結社がフリーメーソンに一脈相通ずる性格があることは確実である。むろんフリーメーソンが左様に大それた世界支配をたくらんでいるという論争的批判をそのまま鵜呑みにはし難いが、当時、カトリックの普遍主義に対抗する唯一の普遍主義がフリーメーソンのそれであったことを考え合わせるなら、教会にとって最大の強敵はもはや風変わりな個人の主宰する地方的な黒ミサではなくて、今や全世界に組織網をしくフリーメーソンであったことに間違いなく、それだけで旧体制側があの手この手の中傷で正体不明のこの秘密結社を怪物的存在に仕立て上げようと躍起になるのも道理であった。
事実、ユイスマンスの語っている悪魔主義的世界結社は当時両大陸に猛威を振るっていた。カルドゥッチのサタン礼賛もフリーメーソンの後援のもとで行われたのだった。当時のことながら、この世界結社と教会とはすさまじい死闘を演じた。さて、この闘争に乗じて、両者を巧みに煽動しながら両者をともに手玉にとり、まんまと全世界の鼻を明かすにいたった稀代の大ペテン師が、世紀末ヨーロッパの一角に不敵な姿を現したのである。彼の名はレオ・タクシル、その活動の最盛期はちょうど『彼方』出版の年(1884年)の前後に当たっている。
2025/03/13(木) 21:48:49.17ID:itzS0jPj0
>>167
p198-199
https://i.imgur.com/mqfRn38.jpeg
2025/03/13(木) 22:30:34.89ID:itzS0jPj0
p198
する憎悪に目覚め、在学中から反教権的社会主義的煽動パンフレットの類いを書き始めた。1871年、社会主義系の新聞「エガリテ」の編集部に入り、風刺新聞を発行する。タクシルの才筆はたちまち公衆を魅惑し、中でも教権に対する中傷文『偽善をひっぺがせ』はなんと13万部を売りつくした。以来、タクシルは毎度のように名誉毀損と公衆道徳壊乱の廉をもって起訴され、押しも押されぬ札付きの悪党となる。だが、筆力よりもむしろ天才的な弁舌の才と行動力に長けたタクシルがこの間やりとげた最大の事業は、様々な自由思想家グループと密かに接触し、1880年から1885年までの六年間に、有名無実と化していた自由思想家の諸結社281、結社員総計として一万七千人を組織して息を吹き返させ、一挙に自由思想界の黒幕にのしあがったことであろう。
タクシルがフリーメーソンに加入したのは1881年のことである。自称では「徒弟」の位階にまで昇進していたという。だが、後に見るように、フリーメーソン内部で彼が実際にどんな役割を演じていたかは、一切謎に包まれているのだ。いずれにせよ、今やフリーメーソンをバックに迎えて彼の反教権主義的論調は一段とあざとい攻撃性を加え、1885年頃までに「フランス最大のパンフレテール」と呼ばれるまでになる。
ところがここでタクシルは鮮やかに変節してしまうのである。彼はフリーメーソンと手を切って、ふたたびカトリックに改宗した。タクシルの劇的な改宗はセンセーションを巻き起こした。改宗と同時にフリーメーソンの内情を暴露した『フリーメーソン完全暴露』や『元フリーメーソン団員の告白』を公刊し、その合本はフランスだけでも十万部以上も版を重ねた。
彼の暴露文書は明らかにレオ十三世の反フリーメーソン-回勅を当て込んでいた。フリーメーソンの密やかな浸透に怯えていたカトリック教徒たちは先を争って、この位階制度によって悪魔を礼拝する結社の不気味な儀式を描いたいかがわしい著作に飛びついた。タクシルが次に出した『メーソンの修道女たち』は、悪魔礼拝暴露を口実とした春本であった。つまり、「フリーメーソンのいわゆる性の儀式のさらに猥褻な細部が事細かに描かれていた」(アルフォンス・ローゼンベルク)のである。
一連の暴露文書はフリーメーソンを窮地に追い込んだ。名うての自由思想家メーソンの高位者が結社のイカサマ儀式を内部から暴露したのだから、誇張や出鱈目があるにしても充分センセーショナルである。一方、教会側は掌を翻すようにタクシルを大歓迎した。高位聖職者たちが彼に親交(ちかづき)を求め、1887年には教王自らが直々にこの悪名高い元自由思想家に謁見した。教王はタクシルのいわゆる「暴露」を頭から信じていたのである。
2025/03/13(木) 23:09:09.67ID:itzS0jPj0
>>182
>>183
この、フリーメーソンで悪魔崇拝をしているという暴露事件は最後まで読むとタクシルが教会もフリーメーソンも手玉にとってペテンにかけて騙して世間を騒がせたという事件だった。
だから転載しなくてもよい文章で無駄だった
壮大なペテンではあるが、タクシルはフリーメーソン脱会の際に友人に奇妙な約束をしていて、「改宗しても、私は君たちを裏切りはしない」と言っている。
2025/03/13(木) 23:51:42.78ID:itzS0jPj0
黙示録の竜
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%81%AE%E7%8D%A3

また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた(新共同訳12:3)

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(新共同訳12:79)

ちなみに千年後に深淵から開放されたサタンである赤い竜は、ゴグ・マゴグを招集して千年王国の都を包囲するが、天から降ってきた火によって滅ぼされ火と硫黄の池に投げ込まれ、今度は永遠に苦しむことになるとされている。

ゴグ・マゴグ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B0%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%82%B0
2025/03/14(金) 00:20:53.41ID:ij8FQVHO0
悪魔は赤い角
赤い三角帽子のサンタ
魔女の三角帽子
ユダヤ人の三角帽子
2025/03/14(金) 05:56:56.91ID:ij8FQVHO0
>>186
p251
ドークルの赤い角が見えた。ドークルは今は腰を下ろして、激怒のため口元に泡を吹きながら、無酵のパンを噛んで吐き出して、それを自分の手足になすりつけ、あるいは女たちに配っていた。女たちはわめき罵りながらその噛みかすを口に押し込み、またはそれをすために押し合いへしあいした」
ドークルの黒ミサには、私たちがこれまでに見てきた中世のサバトや黒ミサの断片がいたるところに刻められている。
https://i.imgur.com/uUcZwfl.jpeg

ユイスマンス著『彼方』の抜粋に赤い角の記載がある。
悪魔主義者の修行僧ドークルは黒ミサを司っている
2025/03/14(金) 05:57:44.45ID:ij8FQVHO0
>>187
種村季弘 著『悪魔礼拝 : 種村季弘のラビリントス8』,青土社,1979.10. https://dl.ndl.go.jp/pid/12218443
2025/03/14(金) 06:18:25.00ID:ij8FQVHO0
>>184
タクシルが、フリーメーソンが行う悪魔崇拝の証言者として、架空のミス・ヴォーンを作り上げ、カトリック教会と民衆をペテンにかけた事件では、タクシルを信じていた民衆はペテンにかけられたあとこうなった。
まるでQアノンに騙された信者のよう。
現代の陰謀は小出しに真実をリークしながら、それを信じる人が増えると、それを信じるのは低学歴と言ってバカにして、結局は民衆が信じないように操作してると感じることもしばしばある。



種村季弘 著『悪魔礼拝』,桃源社,1979.5. https://dl.ndl.go.jp/pid/12218256
p203
だが、反フリーメーソン回勅に熱狂的にのせられた大部分のタクシル信者たちは、憐れにも取り残されて泣きを見る羽目に立ち到ったのである。自己正当化のために、彼らは裏の裏をせんさくしにかかった。フリーメーソンの大首長「大オリエント」がミス・ヴォーンを消すために大枚の金を払ってタクシルを買収したのだとか、あまつさえ四月十九日地理学協会ホールで告白をしたのはタクシルその人ではなく、彼そっくりの替え玉で、真物はフリーメーソンに監禁されていたのだ、とか言う類いである。
https://i.imgur.com/KihoJQS.jpeg
2025/03/14(金) 06:42:42.40ID:ij8FQVHO0
>>187
種村季弘 著『悪魔礼拝』,桃源社,1979.5. https://dl.ndl.go.jp/pid/12218256だとp206
2025/03/16(日) 06:16:53.29ID:EGgoi7uw0
>>125 続き
G.アレン, L.エブラハム 著 ほか『Insider : 〈世界統一〉を謀る恐怖のシナリオ』part 1,太陽出版,1987.2. https://dl.ndl.go.jp/pid/12242171

p35 超富豪の権力のための社会主義

アドルフ・ヒトラーは一つの歴史的現実である。また彼に由来するテロや破壊も同様に歴史的現実である。ヒトラーは貧しい家庭の息子として生まれ、自分の家からは何の社会的援助も期待できなかった。彼は高校時代に失敗し、また特に才能があるとは決して評価されていなかった。しかし彼は、これらの不利な諸条件にもかかわらず、幸いにして最後に至って失敗したものの、世界を征服しようとしたのである。ヒトラーに似た生い立ちを持つ者がウラジミール・イリッチ・レーニンであり、彼の家もまたヒトラーのように社会的エリートではなかった。彼は平凡なサラリーマンの息子であって、その生涯のほとんどを貧困のうちに送った。それにもかかわらずレーニンは、数百万の自国民の死と、十億人以上の人々の奴隷化の責任者となったのである。これもまた打ち消すことのできない歴史的事実となっているのである。この二人の独裁者は、財力とか適切な教育といった重要な指導者の条件に欠けていたにもかかわらず、無限の権力を我が物にすることができた。
それゆえ大富豪なら、その輝かしい教育と大きな財力に支えられて、ずっとたやすく権力の獲得計画を実行できるはずだ。このような推量の方がもっともらしくはないだろうか。これは少なくとも理論的には可能であると認めざるを得ないであろう。歴史は、有利な要素を無限の私的権力に転換した一つの典型を我々に伝えている。それは貴族主義者ジュリアス・シーザーの場合である。教育と富と知性のある男として、彼には自分と同じ考えを持つ者と同盟関係を結ぶことは簡単であった。このような男たちは今日でもまた、そのすばらしい教育で高い社会的名声を教授するであろう。彼らはまた、当然彼の計画を実現するために巨額の資金を調達できる立場にあるだろう。
2025/03/16(日) 09:22:04.17ID:EGgoi7uw0
p36
平均的人間にとって、もうほとんど倒錯的なとしかいいようのないほど強大な彼らの権力欲を理解するのは難しいものである。平均的人間はまた、ふつう、自分と家族のために適当な生活水準を保つために努力することで満足するものである。
そしてその野心は大抵、自分の家族の広い意味での幸福を目指している。それゆえにこのような平均的人間の眼には、絶えず最大の権力の獲得に努め、それにのみ自分の存在の意味を求める人間がいるということは、全く合点がいかないこととして映る。しかし、歴史は繰り返し繰り返し、そのような人間を生み出してきたのである。ところがそのようなことが現在に限って起こらないとどうしていえるだろうか。このような「金権力者」には、より多くの権力をわがものにするため、チェスの駒のように、指導的な政治家たちさえも利用できるのではないだろうか。
これら全ての事柄は、今のところ読者を確信させるには至らないが、現実はまさにそうなのである。本書で私は、大地が平らな皿ではなく、球体であると人々に確信させようとしたコロンブスの方法をとろうと思う。そして、共産主義が──あるいはそのようにいわれているものが──モスクワや北京からやって来るのではなく、ロンドン、パリ、ニューヨークを出発点とするもっと大きな陰謀の手からやって来ていることを論証しようと思う。
この運動の最上位にいる男たちは、この概念の持つ伝統的な意味では共産主義者ではない。彼らはモスクワや北京に対して、忠誠心など全く持ち合わせてない。彼らは自分自身と自分の企業に対してのみ忠実であろうとしている。これらの男たちにとって、共産主義の偽哲学は信じるに値するものではなく、また行動の指針でもない。彼らは自分の財産を誰かに分かち与えるという考えなど絶対に持っていない。社会主義とは、超富豪が自分の陰謀のために利用する一つの哲学となっている。この哲学に対する信仰は、無知でナイーヴな者にだけ見出だされる。
本書は、世界を征服するために、いかに資本主義が金敷きとして、そして共産主義がハンマーとして用いられるか、その方法を根本的に解明しようとするものである。共産主義が、共産主義より大きな陰謀の手以外の何者でもないということは、筆者の広範な調査によって漸次明らかにされた。私は、軍の秘密情報部の上層部の四人の将校と非常に有益な会談をする幸運に恵まれた。そこで得られた情報は、非常に価値のあるものであったし、ある大きなサークルでは既知のものである。さらに私は、長い間議会のいろいろな委員会の捜査官をしていた六人にインタビューをすることができた。そのうちの一人、ノーマン・ドッド氏は1953年、リース委員会がなした免税財団についての調査を指揮した。ドッド氏が世界の革命行動に対して演じた国際的な金融勢力の役割究明に本格的に従事しはじめたとき、彼の調査報告はアイゼンハウアーに率いられているホワイトハウスの指令によって潰されてしまった。ドッドはここから、過激な爆弾男をとらえるのは許されるが、その動機を察知しようとする試みは許されないのだという結論を引き出した。そこからは「政治の鉄のカーテン」が降りるとドットはいう。
2025/03/16(日) 11:39:24.81ID:EGgoi7uw0
p38
「多くのことが共産主義によってなされている」と指摘してもよいが、「共産主義は高い名声をほしいままにしている人々がやっている陰謀の手段である」と指摘すれば、かの集団の激しい抵抗にぶつかってしまう。活動的な反共産主義者に対して、「共産主義に対するあなたの懸念はよくわかるが、共産主義的な陰謀が合衆国に対して大きな影響力を持っているというあなたの考えはばかげている」という異論がよく唱えられる。その異論というのは、「アメリカ人の大半は反共産主義者であり、共産主義を承認しようとは全く考えていない。一般的に言って、アフリカやアジアや南米の共産主義化を心配するのはよくわかる──なぜならそこの住民の貧困と無知と悲惨は当然そのきっかけになるだろうから。しかし共産化の試みは大半の人間が共産主義的世界観になんの親近感も持っていないアメリカでは徒労に終わる」というもので、これがごく一般的な考えではなかろうか。
以上の説明は実際、極めて明解にひびく。大半のアメリカ人が反共産主義者であることは、争う余地のない事実だからである。
共産主義に対するアメリカ人の態度に対する世論調査が、共産主義のなんであるかを示すことにはならない。それゆえ、内部からの共産主義の脅威を心配する反共産主義者に対する反感には一応もっともなところもあるようだが、それは見かけに過ぎないのである。「共産主義」という概念の定義についての質問を内容とする世論調査から、それについての実に様々な考え方が示されるであろう。
ある人はそれを社会主義の暴君的変種と考えるだろうし、またある人は「マルクスが最初に考えたように一つのよいアイデアだが、しかしまだ一度もそのようには実行されたことがなく、それどころかロシアによってすっかり歪められてしまった」と考えるだろう。「〈共産主義とは何か〉という問いはしかしながら全く単純化されている。それはあまりにも錯綜とした状況がある。今日の共産主義は──アメリカの右翼の過激派が考えるのとは逆に──国際的・統一的運動ではなく、むしろ中心を多く持つ民族的運動であり、その性格はこれまで民族的指導者のその都度のカリスマによって色付けられていたし、今もまたそうである。たしかに、ヘーゲルの弁証法に、フォイエルバッハの唯物論を結びつけることが共産党の共通目的であるが、前述のように〈共産主義とは何か〉を問うことは記念碑的な過剰単純化である。
2025/03/16(日) 16:24:26.48ID:EGgoi7uw0
p40
正しい問いは〈毛沢東の共産主義は何か、ホー・チ・ミンの、フィデル・カストロの、あるいはチトー共産主義とはどういうものか〉というものでなければならない」。アメリカの国務省や大学での支配的な考えもまさにこのように表現されるのである。
この定義に対して、われわれは自分の定義をどうしても持たなければならない。反共産主義的なアメリカ人で、まさに彼らが反対していることに同意するかもしれない人たちがあまりにも多い。これは驚くべきことではないだろうか。われわれはここに、ほとんど全ての人々が同意しているが、それはよくないことであり、それには反対しなければならないことを示そうとしているわけである。
われわれの敵は一体誰なのであろうか。フットボール・チーム内で選手が互いに対立し、またコーチにも対立してそこに一致がなければ、守りはどうなるのだろうか。そのチームは混乱する。フットボールであれ戦争であれ、またそれが熱かろうが冷たかろうが、およそ全ての対決に通ずる第一法則は「汝の敵を知れ」である。これがこの本の原則でなければならない。
そこで本書は共産主義を次のように定義しよう。「共産主義とは上層部にいる人間の地球征服のための国際的で、陰謀的な努力である」。彼らにとっては、地球征服という目的を実現するためにならあらゆる手段も許される。本書は、共産主義という概念のこの定義だけが正しいものであることを証明しようと試みるものである。
マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーが発展させたような共産主義の技術、すなわちブルジョアとプロレタリアートの対立、弁証法的唯物論、二、三の偽国民経済学、あるいは共産主義の政治哲学──これらが共産主義的陰謀と取り違えられてはならない。共産主義の陰謀的性格を理解することは、その真相の中に有効なメスを切り込む基本的な条件である。
マスメディアは共産主義の悪意だけを私たちに示すだけだ。ところが、もし誰かが「陰謀-共産主義」という結合理論を述べれば、自由主義的なエスタブリッシュメントの報道や職業的自由主義者は大いに怒る。反共産主義的な考え方や態度のもとにも、一つの不可解なタブーが存在しているのである。
歴史書は、陰謀をめぐらし、権力を手に入れようとした多くのグループについて報告している。ライフ誌でさえ、犯罪によって金を作ることを目的とするコーザ・ノストラのごとき陰謀家の存在を信じている。数年前、ライフ誌は、ジョーゼフ・ヴァラキがマックレラン委員会でなした証言についての記事を連載した。この暴露には二、三の注目すべき観点が含まれている。われわれ全ての者が、この機関がコーザ・ノストラという名前であることを知らず、マフィアという呼び名を用いていた。名前と同じように、これらの集団が一世紀も古く、長い間多くの国々で指導的人物を会員にし、たえず自己再生産されていた徒党と結びついて活動していたにもかかわらず、これについてなにも重要なことは知られていなかった。本書が取り扱う政治的陰謀においても、同様な状況だというのだろうか。キャロル・キグリー博士の役割は、ジョーゼフ・ヴァラキの証言に似てはいないだろうか。
2025/03/16(日) 22:24:21.97ID:EGgoi7uw0
p42
ライフ誌でさえ信じているのであるから、誰でもある種の陰謀があることくらいは知っているであろう。しかしここで問題なのは、この上もなく危険な陰謀が、刑事犯的陰謀ではなく、政治的な陰謀であるということである。コーザ・ノストラメンバーと共産主義者、より適切に言えばインサイダーとの本質的な相違は、一体何であろうか。その手腕で犯罪組織のボスにのしあがったラッキー・ルチアーノのような男たちは、その都度必要に迫られて悪魔的ひらめきをもって働かなければならなかったし、また海千山千の絶対的な冷血漢でなければならなかった。しかし彼らは、ほとんど例外なしにまともな教育も受けておらず、ナポリやニューヨークやシカゴの裏街で《手仕事》を身につけた者たちばかりである。
2025/03/18(火) 06:06:38.67ID:wrb/1oS20
p42
さてここで、これと同様に不道徳な性質をもち、しかし、格式ある豊かな家庭に生まれ、最高の大学に学んだある人物を取り上げてみよう。彼は、ハーヴァード、イェール、プリンストン、あるいはまたオックスフォードのうちの一大学で卒業した。これらの教育機関を通してこの某氏は、歴史、国民経済、心理学、社会科学、経済学などについての広く深い知識を身につけた。この種の教育によってこの人は、実際の権力を得ようとする者は誰でも政治的に活動的でなければならず、またもし可能ならば政府のメンバーにならなければならないということをよく認識している。だから「政治家になるか、さもなくば君のために働く二、三の操り人形をつかまえろ」、この掟こそ実際の政治権力と大金への王道である。
「政治権力を目標とする陰謀」という概念は「政府そのもの」と同じように古い。古代ギリシャのアルキビアデスや古代ローマのシーザーの陰謀は、人道的な色彩を持った一般的思想に属している。現在このような人物が存在することは一般には考えられていないし、あるグループでは嫌悪の情をもって退けられる。
陰謀家には若干の共通点がある。彼らは完全な嘘つきであり、また長期的な計画者でなければならない。有名に、あるいは悪名高くなったどの陰謀家にも、ほとんど圧倒的なまでに確固とした計画が見出だされる。ルーズヴェルト大統領のあの主張が、再びここで繰り返されるべきであろう。つまり「政治的には偶然に起こるものは何もない。もし何かが起きればそれはそのように計画されていたのだと考えて間違いない」というのが真実なのである。
共産主義の現実は、権力の獲得をたくらむ圧政であり、その最も有効な武器は大うそである。もし共産主義の全てのうそを集め、それらを煮詰めることができれば、そこから次の二つの主要なうそが浮かび上がってくるであろう。その一、共産主義は不可避である。その二、それは搾取者に反抗する抑圧された大衆の連動である、というものである。
2025/03/18(火) 10:36:29.32ID:wrb/1oS20
p44
そこで、前出の仮想の世論調査を想い出していただきたい。ここで不可避性という共産主義の第一の大うそを分析してみよう。アメリカ人はたいてい「われわれはアメリカで共産主義が不可避であるとは思わない。われわれはアメリカの現状を知っている。われわれは危険に対して反応するのが少し遅い。パールハーバーを想い出すでしょう。しかし、アメリカ人は共産主義がやって来るのを決して傍観してはいないだろう」と言うであろう。また彼らは、社会主義についてもほとんど同じ回答をするであろう。
ところで、「この国はもう社会主義化されつつあるが、あなたはそれに対して何もしないのか」という問いには、「私は社会主義者ではない。しかし私はこの国で何が起ころうとしているか知っている。さよう、社会主義は不可避ですね」という答えが返ってくる。「ではどうしてそれに対してなにもしないのか」という問いには、「一個人にすぎない。あなただって市議会を牛耳ることはできないでしょう」と彼らは答える。反抗的な者に、その防衛に有効なもの何もないという考えを植えつけることは、戦略そのものと同じように古い。中国の兵法の哲学者孫子は、西暦前五百年頃に、「戦略の最高の形は、攻撃を防ごうとする敵の一切の意思を破壊することである」と述べている。これを今日、近代の心理戦略とわれわれは呼んでいる。
こうして次のようなアメリカ人像ができあがるのである。すなわち、彼らは共産主義を定義することができない反共産主義者であり、そして社会主義は不可避であると信じている反社会主義者である。マルクスは共産主義を一体どうみていたのか。「共産主義の不可避性」は共産主義者にとっていかに重要であるのか。何についてこの不可避性はいわれているのか。共産主義についてか、あるいは社会主義についてなのであろうか。
そこでマルクスの『共産党宣言』を研究すると、マルクスは「プロレタリアート革命を通してプロレタリアートが社会主義的独裁を確立するためであろう」と主張していることが明らかになってくる。彼はそこで、この独裁に到達するためには、次の三つのことが遂行されなければならいという。すなわち、私的所有に対するあらゆる権利の焼却、家庭的統一の解消、そしてマルクスが人民の阿片と称した宗教の破壊、この三つである。続けてマルクスは、もしプロレタリアートの独裁がこの三つのことを全世界に貫徹したなら、全能の国家の権力要素はしばらく衰えてゆき、国家社会主義は共産主義に道を譲るであろう。全ての共産主義者は社会主義を確立すべく働かなければならない。そしてそのとき、どんな政府ももはや不必要になり全ての人はこの生活様式に幸福感を感じるだろう、と言う。
2025/03/18(火) 15:55:11.58ID:wrb/1oS20
p45
「全能の国家が衰えてゆく」というカール・マルクスの主張は承服できるものであろうか。スターリンのような男が、あるいは強大な独裁体制の頂点に立つために必要なずるさと冷酷さを持ち合わせた男が、恐怖とテロで自ら築いた権力を自由意思によって分解するということは考えられるだろうか。
社会主義は独裁制を確立するため、人民に与えられるエサでなければならない。独裁制は理想主義的な手段だけではほとんど買い手がつかないので、独裁制が歴史的に一時的には必然的にやってくるという考えが付け加えられなければならなかった。これを信じるという幼稚さがさらにこれに加わることが肝心ではあるが、無数の人は確かにこれを信じているのである。
共産主義ではなく、社会主義を確立しようとする努力こそ、共産主義とインサイダーが実践する中核である。マルクスと、共産主義運動を行ったマルクスの全ての相続人は、その後継者たちに社会主義の創設のために働くように指示した。アメリカの共産主義の代表者に聞いても、共産主義という言葉は決して出てこないであろう。彼はただ、アメリカの社会主義を実現するという熱心な努力についてのみ語るはずだ。あらゆる共産主義の文献もまた同様に共産主義の確立ではなく、社会主義の確立を要請している。
2025/03/19(水) 05:56:35.19ID:7gBjVwsg0
p45
エスタブリッシュメントに属する人々の行動もまた同様である。1970年代のニューヨーク・マガジンは、誰もが認める社会主義者で、ハーヴァード大学教授のJ・ケネス・ガルブレイスの書いた「リチャード・ニクソンと社会主義の偉大なる再生」というタイトルの記事を載せている。ガルブレイスは彼が「ニクソンの行動計画」と名づけるものを次のように説明している。
「ニクソン氏はたぶんマルクスの愛読者であろう。しかし、〈彼の顧問たち〉であるバーンズ、シュルツ、そしてマックラッケンという博士たちは、マルクスをよく知っている極めて優秀な学者であり、それゆえ大統領をこの面で同じ水準まで高めることができたはずだ。そして社会主義への移行の助けとなる危機が当局によって巧妙に企てられたということにはなんの疑いもない…」。
2025/03/19(水) 07:04:41.87ID:7gBjVwsg0
p47
ガルブレイス博士のこの記事は、次のような説明から始まっている。
「ニクソン政府の動きは確かにほぼ予告されなかった。しかしそれは、社会主義への新しい大いなる移行だった。多くの人々は依然としてこの事に気がついていない。また他の人々は自分の眼を疑っている。なぜならこの人たちは今まさにその前兆を間近に見ていると思っているからである。社会主義の敵手として、ニクソン氏はその目標をはっきり意識しているように見えたのだが…」。
ガルブレイスは、ニクソン政府によって企てられた社会主義への壮大な前進を示すリストによって説明を続けている。この記事が引き出さなければならない結論は、社会主義が──共和党によってであれ、民主党によってであれ──不可避であるということである。社会主義者であり、またハーヴァード会員であるアーサー・シュレジンガー博士も、ほとんどこれと同じようなことを次のように述べている。
「保守主義者が権力を挽回しても、自由主義者の過去における最大の収穫は六法全書に生きつづけている。自由主義者はますます自由主義的になり、つねに事の中核で増大し、これと同じ理由から保守主義者は保守的でなくなって敗北しなければならなくなる」。
2025/03/19(水) 10:37:39.98ID:7gBjVwsg0
p48
このようにして、多くの熱烈な愛国者たちは、何も知らないまま陰謀家のとりこになっている。シカゴ・トリビューンの元記者で、アメリカの卓越した政治評論家であるウォルター・トロハンは、このことについて次のように言っている。
「現代の政府の政策は、それが共和党によってであれ、民主党によってであれ、かの危機的な1932年の彼ら自身の綱領から、当時の共産党の党綱領のプラットホームに近いということは一般に知られた事実である。このことは100年以上も前に、正確には1848年にカール・マルクスが『共産党宣言』の中で社会主義の綱領として宣言していた…」。
トロハン氏もまた、この傾向が不可避であるという信仰に惑わされて、さらに次のように言っている。
「この国は深く社会主義の間に入っており、政権につくのが共和党であれ民主党であれ、連邦政府の権力の爆発的増大を経験しているのであるが、このことを認識するためには、保守主義者たちは十分現実的でなければならないだろう。保守主義者に許される唯一の慰めは、リチャード・ニクソンの進むペースが、ヒューバード・H・ハンフリーの進むであろうペースよりずっと緩やかであろうというところにある……。民主党政府が社会主義をもっとうまく実行するとただ言っているのに反し、ニクソン政府は民主党の言っている社会主義の大半を現に引き受けてやるだろうということを保守主義者たちはよく認識しなければならないだろう」。
エスタブリッシュメントは、政治的スペクトル(図1参照)を描く際に利用される諸概念を歪めて、共産主義の不可避性という観念を広めている。政治的スペクトルの一番左には共産主義を見いだすことができると人々は言う。さらに人々は、左端の反対側に──同様にいやな──ファシズムという右端があるともいう。われわれはこの道路の真ん中を動かなければならないと絶えず教え込まれている。そしてこの真ん中は、民主主義と呼ばれる。
だがエスタブリッシュメントはこのスペクトルの真ん中の部分がフェビアン(または緩慢な)社会主義であると考えている。しかし、スペクトルの真ん中が過去四十年間に情け容赦なく左の方にずれてきたという事実は無視されている。
2025/03/19(水) 15:24:52.08ID:7gBjVwsg0
p50
ここで、間違った二者択一を行う典型的な例を挙げてみよう。人々は共産主義(国際社会主義)とナチズム(民族社会主義)のどちらかを選ばさせられる。つまり、全ての政治的スペクトルは社会主義的であるというのである。しかしこれは不条理である。このスペクトルの中には無政府主義を信ずる人や、立憲共和制と自由な企業を信じる人の場所が一体どこにあるのだろうか。90%程度の国民がこのスペクトルを用いて、自分の典型的な政治思想を定義しているにもかかわらず、ここには彼ら自身の場所が欠けているのである。
ここに正確な政治スペクトルを示してみよう。(図二参照)。共産主義は全体主義的な政治形態である。共産主義、ファシズム、社会主義、皇帝主義、ファラオ主義というように、全体主義を分類することは政治のスペクトルにとって重要ではない。それはこれら体制のどれかに生きている人の立場から見れば区別などはないのである。さて、もしここで全体主義的政治形態──偽名のもとで──が左端に位置すれば、当然、右側はアナーキーか政府のない形態を表すことになる。われわれアメリカの国家創立者たちは、なるほど英国君主の準全体主義的政治形態には同意しなかったが、政府のない道はカオスに到らなければならないことを知っていた。
憲法の中では自由な企業活動の組織について特別に何も論じられていない。しかし、この組織は立憲共和制においてのみ存在できるものである。集団主義的な体制のもとでは、憲法に定められていない全ての権力は政府のものとされている。それに対しアメリカの創立者は、市民からその生産の成果を奪い、働かないものにそれを分かち与える政府をつくろうとは考えなかった。それゆえ、その政府には、分立し、制限された権限だけが委譲されなければならなかったのであり、政府にはこれ以上の権力は与えられていないのである。
トーマス・ジェファーソンは、「権力に関わる事柄で、人間を信頼してはならない。権力を持つ者を憲法という鎖で諸悪から遠ざけることが肝心だ」と言った。ジェファーソンは、もし政府が無制限の力を持てば、人民はすぐ鎖につながれてしまうことを知っていたのである。
2025/03/20(木) 17:31:06.41ID:WWCdFk6Y0
p51
「政府は可能な限り少なく支配するとき、もっともよく支配する」というのがジェファーソンの考えであった。そしてこの国家は、最小限度の政府機能によってつくられたのである。国家創設者たちは今よりは技術化されていない世界に生きていたのであるが、あるいはまさにそれゆえにこそ、彼らは政治の方向を決定する際に、今日の大多数のアメリカ人よりはもっと適切に人間の本性に対処していたのである。
時代と技術は変わるが、これらの基本的原則は時間を超えて有効なのである。政府は主に国家的防衛組織をつくり、それを堅持し、法体系をつくり、維持するために存在する。しかし、ジェファーソンが語った鎖はちぎられ、ある時期からわれわれはあの政治的スペクトルの上を集団主義、全体主義的政体の方向へ、つまり左へと移動し始めた。
アメリカの政治的指導者のなす提案はどれも──例えばニクソンの利益配分計画のように分権的な効果をめざしていると一見思わせるようなものさえ──われわれをさらに左へ、つまり中央集権的政府へとつれてゆくものである。このようなことが起こるのは社会主義が不可避であるからではない。左への傾斜はむしろ、彼らの利口な計画と、堅固で段階的な前進に負っているのである。全ての共産主義者とインサイダーは継続的に、また熱心に社会主義のために努力するのであるから、私たちはこの概念をいま次のように定義しなおした方がよいであろう。社会主義は通常、財物とサーヴィスの生産及び分配の基礎的手段に対する政府の所有権ないし管理支配である。
この定義を分析すれば、政府が全てを管理支配するということ、すなわち根本においては全ての「人間」を管理支配するということが明らかになる。もし政府がこれらの領域を管理支配すれば、政府は結局マルクスが言った私的所有権の廃止、家庭の解消、宗教の廃止を実行することが出きるようになるのである。
アメリカが社会主義化されつつあることは、全ての人が知っている。さてここで誰かが、例えばよりにもよってケネディー家、フォード家、ロックフェラー家などのような非常に豊かな人々が、一体なにゆえに社会主義のために弁明しているのかを問いたくなるであろう。超富豪たちは最も多く失うものを持っているのではなかろうか。これはもっともな話である。しかし社会主義の推進者がこれこそが社会主義であると言っているものと、彼が実践しているところのものとの間には、大きな相違があるのである。
「社会主義は財産分配のプログラムである」という考えは、実は、正確に言って、人々をくどき落としてその自由を強大で集団主義的な政府に従属させる農民捕獲法であり、策略なのだ。インサイダーがわれわれに「われわれは地上に楽園を建設するだろう」と言い聞かせている間に、われわれは自分達の刑務所をつくっているのである。
2025/03/20(木) 18:02:00.57ID:WWCdFk6Y0
p53
社会主義を最も強力に推し進めている人々が、自分達の富を、家族トラストと免税財団とによって確保したということは、最も公正な観察者の目には実に奇妙に見えるのではないだろうか。ロックフェラー、フォード、ケネディーのような人々は、人間が思いつく全ての社会的計画と、アメリカ人の税金を増やす政策に賛成している。
ところが彼ら自身は全然と言ってよいほど税金を払わないのである。「北アメリカ新聞連盟」紙に、1967年8月に載ったある記事は、なぜロックフェラーがその巨大な財産にもかかわらず事実上全く所得税を払わなかったかを説明報告している。この記事は、ロックフェラー家の一人が過去数年間のある年に、実にたったの685ドルしか個人的な所得税を払わなかったことをすっぱ抜いている。ケネディー家は、シカゴ卸売市場、家屋群、数隻のヨット、何機かの飛行機を持っているが、それらはみんな彼らの無数の家族財団、家族トラストの所有物なのである。これに反して人は納税なるものを、寛大にも単純な国民のふところにのみ委ねているのである。
このような事情にもかかわらず、ロックフェラー家とか、フォード家とか、ケネディー家といった偽善者は、被抑圧者解放の偉大なる先駆者のようなポーズをとっている。彼らが貧困者のおかれている社会的状況を本当に心配しているのなら、彼らの財産は貧しい人々のために、はかりしれないことをすることができるだろう。彼らは、社会的領域で被抑圧者解放の実例を示すことができるのにもかかわらず、実際はそれとは逆に、社会主義の助けを借りてますます個人的な権力を獲得しつつあるのだ。
彼らは、中産階級を始めほとんど全ての納税者に対してではなく、彼ら自身に対して社会主義的改革をはじめるべきではないだろうか。財産の分配とは、国民平均の水準に達するまで彼らの財産が放出されなければならないことを意味しているはずだ。しかし、テッディ・ケネディーが自分の別荘や飛行機やヨットを放棄し、二万ドルの抵当に入れてある二万五千ドルの家屋に家移りするなどと、誰が信じることができようか。
大金持ちが社会主義的関心をもつ動機の一つは、単に相続しただけの財産ゆえの罪意識であろうが、これまでに見てきたように、その気にさえなれば、自分自身の稼がなかった富を手放すことによって、この罪意識から簡単に解放されるはずである。しかしこの動機は、もっぱら権力を目指すインサイダーたちの行動を説明しないものである。
2025/03/20(木) 18:05:13.70ID:WWCdFk6Y0
>>204
https://i.imgur.com/rEMjaiJ.jpeg
2025/03/21(金) 15:04:13.50ID:4wAu2kdK0
p54
彼らは社会主義に賛同する富豪ではあるが、徹底的な偽善者であるわけではない。社会主義に対する一見矛盾した彼らの傾倒ぶりと、またここから生じる自由な企業精神の破壊は、本当は互いによく説明できるものなのである。
ほとんどの人は、社会主義者がわれわれに信じ込ませようとしているように、社会主義とは一つの財産分配計画であると信じている。信じているものはしかし理論である。
さて、実際に体制もそのように機能しているであろうか。この問いは──社会主義者自身の定義による──社会主義諸国の現状を調査することによって答えられるであろう。社会主義諸国とは共産主義諸国のことであるが、そこでは実際のところ、薄い層からなる少数者の派閥が全体の頭上を占めている。通常総人口の三%を越えることのない層が、残りの九七%の層の財産、生産、生活の全体を統制している。
ブレジネフ氏が、ロシアの草原に住む貧しい小農民のような生活をしていないということは、最も素朴で無知な人にも秘密ではないであろう。しかし、他の何を、社会主義理論はこの素朴で無知な人から期待しているのであろうか。
社会主義とは財産分配計画ではなく、所有物を統轄・統制する方法であると理解すれば社会主義にこのように傾倒する超富豪の見かけの逆接の持っている謎は既に解かれたことになる。
かくて社会主義は、権力を手に入れようとするインサイダーたちの、理論的に首尾一貫した、つまり完全な道具なのである。共産主義、より正確に言って社会主義は、このようにして抑圧されている大衆の運動としてではなく、国民経済的エリートの運動として表現される。インサイダーの計画はそれゆえ、合衆国を社会主義化することであって、共産主義化することではない。
では、この計画は、どのようにして実現されうるのであろうか。図3は、われわれの建国の父たちが設定した政府の当時の構造を示している。憲法は政府の権力を工夫をこらして分割している。彼らは、政府のどの部分の権力も、それが連邦、州地方のどれであれ、用心深く考え尽くされて決して中央の統制下にはおかれないだろうと信じていた。福祉や教育のような生活に深く関わる色々な分野も、政治家の介入から遠ざけられていた。この組織のもとでは、独裁制が生まれることは不可能だった。政府のどの部分も単独でそれに充分な権力を持ち合わせていなかったからである。独裁制は、権力の糸が一ヵ所に集中していることを前提にしている。この集中化がはじまれば、独裁制は不可避となる。英国の哲学者トーマス・ホップスはかつて「自由とは小さな部分に分けられた政府である」と言った。
2025/03/21(金) 21:30:30.08ID:4wAu2kdK0
p57
ウッドロウ・ウィルソンは、このテーマについて、「自由の歴史は政府権力の拡大の歴史ではなく、政府権力の制限の歴史である」と言ったが、彼がこう言ったのは、彼がインサイダーの道具になる以前のことであった。また歴史上有名な英国の貴族アクトンは、「権力は腐敗へと傾き、絶対的権力は絶対的腐敗に傾く」と説明した。われわれアメリカの建国者たちには、これらの原理がまだ大原則として働いていたのだが、前述の人たちはわれわれの建国者たちがもういない時代に生きていたのである。
では、この現代には、一体どのようなことが起こっているのであろうか。われわれ国民があの政治的スペクトル上を左の社会主義の方向に移動するにしたがって、連邦政府の行政府に権力が集中していく。このことの大半は、立法行為と連邦の補助金によって達成された。連邦の金は餌として利用され、また連邦の統制はとめ金として利用された。連邦の最高裁判所はこの場合極めて論理的に、「補助内容を規制するために政府の手続きを欠いてはならない」と決定した。
アメリカ合衆国を支配するには、どこの市長になっても、どこの郡議会や州議会を手中に収めてもダメである。だが、もし連邦行政府の長が全権力を持っているとすれば、その一人の男だけを支配するだけで、その彼を通して分岐した全機構を支配できるのである。
全ての加工生産、商業、金融、交通運輸、原料を支配するには、中央の権力中枢を支配するその頂上を手に入れるだけでよい。彼はこうして独占者となり、全ての競争相手は排除されるだろう。国家的独占を望むなら、国家の社会主義的政府を支配しなければならない。そして結局、世界的な独占を得ようとする者は、一つの社会主義的な世界政府を支配しなければならない。これが権力運動の根本法則である。
このように共産主義は抑圧されている大衆の運動ではなく、全世界に対する統制力を獲得するために、権力欲と金銭力の強いインサイダーたちがあみだした運動であることがお分かりいただけると思う。まず最初にここの民族において社会主義政府が確立され、次にこれらが合併によって大合同し、全能にして、社会主義的な超国家にならなければならないが、それはたぶん、国際連合の後援のもとでなされるであろう。この目標に近づくために、この共産主義の利用方法については次章で見てゆきたい。
2025/03/21(金) 21:54:58.49ID:4wAu2kdK0
p58
〔1985年最新情報〕
チェース・マンハッタン銀行の副頭取であるジョン・ハリー氏の言葉を聞こう。彼は「銀行家にとって究極的な危険は政府の交替ではなく、政府の欠除、無政府状態である」と言う。
1980年2月7日、放送界の旗艦であるWNETは、「デヴィッド・ロックフェラーの世界」という番組を放送した。これは「ビル・モイヤーズ・ジャーナル」というシリーズ番組の一部であった。これは多くの点でキャロル・キグリーの本のように啓発的なので、番組のコピーの大部分をここに引用しようと思う。
番組のイントロとして、ビル・モイヤーズは次のように言っている。
「ロックフェラー家、国際的な銀行、多国籍企業、世界の金融エリートについてのドキュメンタリーは、たくさんあります。これは、一つのアプローチの方法にすぎません。デヴィッド・グラビンなるプロデューサーと私は、世界で最もよく知られた資本家、すなわち一人のロックフェラーがどのように銀行家としての仕事をやっているかを、一週間見聞しようと試みた」。
モイヤーズはまず、「国際的な金貸業界の方法は、特に権力、富、人的接触が集中しているところでは陰謀を余分なものにしてしまう」と言っていた。
余分だって?われわれは陰謀がどのように余分であるかすぐ見るだろう。
定評のある報道機関の一員がデヴィッド・ロックフェラーをどう眺めているかを理解させるために、モイヤーズはイントロの結論として、「デヴィッド・ロックフェラー、つまりロックフェラー兄弟の末弟で、チェース・マンハッタン銀行の頭取で、なるほどアメリカン・エスタブリッシュメントの不選ではあるが、まずは皆が認める首席であることは、一つの転職になりつつある……」。
2025/03/21(金) 21:56:26.89ID:4wAu2kdK0
>>208
誤、転職
正、天職
2025/03/22(土) 07:52:11.88ID:ST5LAzAp0
p60
「彼は金のかなたで計られるあるものを代表している。彼は力を代表しているのだ」。
「ロックフェラーは地球を包囲する力量を持っている金融家、産業家、政治家の巨大なネットワークの中心にいる」と言っている。
ロックフェラーの旧友であり、現在チェース銀行のために働いているリッジウェイ・ナイトとモイヤーズの対話を次に紹介しよう。

モイヤーズ──あなたをデヴィッド・ロックフェラーの無任所大臣として位置付けてもよいでしょうか。
ナイト──お世辞どうもありがとう。それが本当なら非常に私も嬉しいでしょう(笑い)。
モイヤーズ──さて、あなたは自分は彼の私的な代理人であると言われましたが、どんなことをされるのですか。彼のために外交的な旅行をしますか。
ナイト──そう、例えば、私はインドシナとベトナムに出かけました。彼自身が出かけていって、サダトに会うことができないときは、私が行って会いました。そして……、私は彼より人の注意をひきません。
モイヤーズ──彼の世界では一国家のように銀行が動くというのは、なかなかおもしろいですね。
ナイト──そう、私にとって最も印象深いことは、私は多くの大統領の代理を務め、そして多くの国務長官に代わってしゃべってきましたが、相手側のドアが最も簡単に開かれたのは私がデヴィッド・ロックフェラーのためにやって来た時だったということです。驚きです。
2025/03/22(土) 11:06:19.78ID:ST5LAzAp0
p61
注意!大統領の代理をする……。多くの国務長官に代わってしゃべった……。そして彼らのうちで誰もデヴィッド・ロックフェラーほどに政治権力を持っていなかったというのか。それではモイヤーズ氏に聞くが、もし陰謀は余分であれば、何がそこで進行してるというのか。
フランスに立ち寄ってから、モイヤーズとロックフェラーとその友人たちは、世界金融の指導者たちが世界銀行とIFMの会議のために集まっているユーゴスラヴィアのベルグラードに向かう。ここでデヴィットは、前チェース・マンハッタン銀行の幹部で現在連邦準備理事長のポール・ヴォルカーのような大指導者と会い、それからウィリアム・ミラー財務長官と会い、そしてもちろん、接待主のチトー元帥と会う(これは1980年のことであり、カーターがまだ大統領であった頃のことであることを想い出していただきたい)。モイヤーズは「ユーゴスラヴィアは10億ドルの負債を支える道を探っている。チュースは、チトーがスターリンと決別した後にユーゴスラヴィア銀行の返済期限を延期してやった最初の銀行だった。いまチトーはロックフェラーがそれをもう一度してくれることを期待している」と報告している。
ロックフェラーはチトーに、「世界はあなたを必要としており、私はあなたが大変重要な役割を演じたハバナでの最近のこれらの会議で、あなたがこの事をいっそうはっきりと示されたと思っています」という(数万の自国民を殺したチトーのような人々を世界が必要としているとデヴィッドが考えるなら、彼が思い描く世界はわたしが生きようとする世界ではない)。
2025/03/22(土) 11:53:10.28ID:ST5LAzAp0
p62
モイヤーズ──マスコミ的事件は終わりました。《本当のビジネスがはじまり、マスコミは締め出されています》チトーとロックフェラーが財政について話し合っている間、私たちはロスアンゼルス・タイムズのマーレイ・シージャーとしゃべっていました。
マーレイ・シージャー──ロックフェラーという名前の国際的名声は大したものです。それは世界中に通じる魔力的な名前です。私はモスクワで彼についての特別な体験をしました。私はチェース・マンハッタン銀行がアメリカの銀行としてはじめて事務所を開いたとき、特派員として働いていました。ロックフェラー氏がやって来て、彼らは銀行のための場所を貸しました。そして彼ら固有の方法で、大カクテル・パーティーの準備をします。
彼らはモスクワの歴史的な建物であるメトロポール・ホテルの食堂を接収し、彼らが生まれてから見たごちそうの中で最高のものをそこに並べました。ソ連の役人たちはカクテル・パーティーのはじまる三十分前から整列していました。アメリカに住んでいる者には、このようなことは信じられないでしょう。しかし、この人々はモスクワの道路に立ち尽くしていたのです。そこに住んでいるわれわれにとって皮肉なことは、たった数日前に公式のソ連の報道機関がロックフェラーをチリやペルー、そして他のラテン・アメリカの国々に投資する人物を非難したばかりだということです。
そして、特に、デヴィッド・ロックフェラーの兄であるネルソンに言及し、彼を第三世界、特にラテン・アメリカにおける金融帝国主義者であるロックフェラー家の一人であると名指していました。この種の矛盾は、ソ連人には全く気になりません。彼はおそらく、記事など一度も読んだことがないか、あるいは読んだとしても、どんな注意も払いませんでした。彼らはメトロポール・ホテルに立っているチャーミングな資本主義者であるこの銀行家を連想できなかったでしょう。
2025/03/22(土) 15:14:42.01ID:ST5LAzAp0
p63
私は、マーレイ・シンジャー氏がこの物語をロスアンゼルス・タイムズの読者に話すことが適切であると考えたかどうか疑っている。私は本当にその事を疑っている。というのは、この種のナンセンスは西側の大使館や、ニュースが集まる主な機関の内部で数年間も続けられ、彼らの「モスクワの男」が好んでけなされたということを考えるからである。
これらの話はみなひどく似ている。マルコム・マガリッジはこの物語を、伝記の中で次のように語っている。
「新聞の経営者たちや放送局の代理人たちには、それにもかかわらず、この汚れたニュースがモスクワにいるわれわれ自身の特派員からやって来たということができるため、このニュースを入手するためには多額の金を払う用意があった。イメージというものは、いつも事実に対応するのだ。振り返ってみると、モスクワから私が送った電報の中で唯一正しい文章であったかもしれない。それは、私が一時的にアメリカの通信社の代わりをして、外国駐在のソ連大使館が行うスラブ的接待に対する平均的ソ連人の反応をたずねている電信を受け取ったときでした。なにも考えないで私は、〈平均的な人々の反応、強い願望は、自分から最も近くにあるごちそうに手を出すことである〉という電文返答でした」。
2025/03/23(日) 11:40:30.64ID:JMOSwuCh0
p64
親愛なる読者の皆さん、それは1930年代に遡る話である。変わるものが多ければ多いほど、それだけ多く彼らは同じものにとどまるのだ。
デヴィッドと彼の子供は、共産主義国の支配者たちとの取引について、本当に一体なにを考えているのだろうか。ここで、この疑問に対して、モイヤーズはどう問い直すかを見てみよう。

モイヤーズ──あなたはどのように、ある日は共産主義政権と取引し、また次の日には資本主義政権と取引をするのですか。
ロックフェラー──そうですね、この仕事を始めてからこれまで三十三年経ちますが、これらの事例について、ひとはきわめて実際的でまた弾力的でなければなりません。彼らが属している政治的ラベルを度外視した政府との関係は、広い領域にわたって人民および人間関係のいかんにかかっています。それは一国が共産主義であると技術的に呼ばれるというまさにその理由で、チェース銀行のような資本主義的機関が彼らと相互的関係で取引ができないということにはなりません。そして事実、私たちは世界のほとんどの、いわゆる共産主義国とこれまで非常にうまくいったペースで取引をしています。それは、双方のためになると私は考えています。
「技術的にいって共産主義者」、……「いわゆる共産主義者」。これは『インサイダー』で指摘したのと正確に同じものである。すなわち、あなた方や私が共産主義と呼んでいるものが、平均的な人間が操作されて信じ込んでいるものとは全く異なっているということを、本当の権力者はよく知っている。彼の行動の道徳性についていえば、デヴィッドは次のように説明し続ける。
「私個人としては非常に様々な見方を持った人々との私たちの取引に不道徳なことや、不適切なことは全然見出だしていません。例え彼らが私たちにとっては本当に嫌な方法で仕事を進めているとしてもそう言えるのです」。
この注目すべき旅行談をさらに数ページにわたって引用することもできるのだが、それをビル・モイヤーズに代わってやってもらおう。なんと言ってもこれは彼の番組なのだから。

モイヤーズ──比較的少数の世界的起業家達が国際連盟と国際連合をはぐらかすようなことをやってのけたということで、つまりある見方によれば、彼らは利潤という冷たい論理で支配されている世界統一(One World)を創造したということで、私はこの部屋のここで、すっかり打ちのめされ、少なからず恐怖を覚えています。……対策はいつも同じです。つまり金を絶えず動かし、それを増やすことです。あるチェースの重役は、多国籍銀行を「世界を支えている血を吸う巨大心臓に例えた。血とは金のことである」。

しかり、まさにそうである。ビル・モイヤーズ氏の言う通りだ。だが、あなたは、あるいは現存するマスコミの誰かが、「金はいかに多くの血を流しているか」と自問したことがあるだろうか。
2025/03/23(日) 21:35:23.32ID:JMOSwuCh0
p66

(1)マルクスは「人間の同盟」(Liga der Menschen)という神秘的な集団に雇われて、大衆を煽動する餌として、『共産党宣言』を書いた。彼の名はこの革命的な小冊子の著者として有名になるずっと以前から「K・M」というイニシャルで広まっていた。彼が実際にやったことの全ては、ドイツのバーバリアで啓明会(Illuminanten)を創立したアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)がこの70年前に書いた革命的な計画と原理に肉付けして、これを教典化したことである。この方面のことをよく知る者は、「人間の同盟」が1786年バーバリア当局によって禁止されて消滅した啓明会を拡張したものに他ならないことを証明する。
https://imgur.com/Rkm52WZ


マルクスはイルミナティw
2025/03/23(日) 22:01:17.33ID:JMOSwuCh0
p68 第三章 彼らが通貨を操っている

歴史の先生は、大学で学生たちに、教授が使うテキストは「客観的である」と教えている。しかし、歴史書を特定の見地を離れて書くことは一体可能であろうか。毎日、世界では無数のことが起きているが、それらについての完全な、何事ももれていない記録というものはまったくありえず、そのようなものがあるという話はまことにばかげている。
歴史を客観的に再現する歴史家の能力は、出来事の単なる広がりによって制限されてるのみならず、多くの重大な出来事が文書や回記録にも決して記されないことがあるという事実によっても制限されている。歴史を動かす大物によって世論を排除する形で決定される事柄は報道されないことがある。印刷に適しているニュースは全て(全ての適当なニュースというのが正しいであろう)報道すると自称しているニューヨーク・タイムズでさえ、そうなのである。
歴史家はしたがって、知られている小さな、不完全なデータを自分の仕事のために選び出すよう強いられている。では一体、どのようにして彼は──もし特定の見地に立たなければ──重要ではないデータを重要なデータから分けるのであろうか。
適切にもスチュアート・クレイン教授が言っているように、つまりどの書物もその著者の命題を「証明する」ことになるのである。こうしていかなる書物も客観的であるとの自己主張はできないのであり、この本もまた同様である。本書の情報は、ここに提起されている主張を証明せんがために選択されたデータに基づいている。ほとんどの歴史家は、あまりにも外面的な現象に眼を向けることによって、歴史的現実を見誤っていると私は思う。本書で扱われているほとんどのデータは、大きな図書館でならどこでも容易に検証できるものである。私はこれらのデータを歴史の本当の意味を正しく示すように整えたつもりである。歴史の本当の意味を暴露することは、エスタブリッシュメントの利益にはならないであろうが。
現在、無数のアメリカ人の頭脳が、アメリカで起きつつある出来事によって混乱させられている。まるで、最初の部分を見ておかなければ、頭が混乱して何が何だかわからなくなるような刑事物映画を見るときのようだ。そのような場合、本当の意味、つまりあの隠し絵がわかるようにするためには、ここで全ての部分を年月順に正しく並べなければならない。
2025/03/24(月) 18:35:32.38ID:bO3tZ6FK0
p69
《陰謀を認識するためには、銀行業、特に国際的な銀行家たち(international bankers)についての基礎的な知識を持つことがどうしても必要である。》しかし、この本で取り扱う陰謀の全てを、国際的な銀行家たちのせいにするのは誤りだろう。なぜならば、彼らはその中心的役割を演じていなかったからである。陰謀は一つの手であると考えなければならない。そしてこの手の指一本が「国際的な銀行業(international banking)」であり、他の四本の指が「財団」「反宗教的運動」「フェビアン社会主義(エスタブリッシュメントの社会主義)」そして「共産主義」である。
キグリー教授は、国際的な銀行家たちに触れ、「《彼らの目標は金融上の権力を用いて全世界を統制することそのものである》」と言っている。
さて、政府は必要とする巨額の金を、どこから手に入れているのであろうか。そのほとんどはもちろん税収入からである。政府はしかし、しばしば税収入以上のものを支出している。こうして政府は誰かに信用貸しをしてもらわなければならなくなる。アメリカ合衆国の国家負債は、約4550億ドルにのぼっている。また政府は、このための利息の最後の一セントまで誰かに借りている。
2025/03/25(火) 16:16:39.86ID:eG8fxw660
p70
世論は、われわれの政府が利付買証券によってこれを借りていると信じ込まされている。しかし実際は、国家の負債のごくほんの少しだけがこの形をとっているのであり、政府自身の信用基金を除く政府の質証券のほとんどは、われわれが「国際的な銀行」と呼んでいる大銀行が所有しているのである。
過去数世紀にわたって、政府の財政は国際的な銀行家たちによって多いに助けられてきた。だがこのような工作に際しては、一定の問題がいつもからまってきたものである。われわれは小さな銀行が操業中止保証によって保護されていることを知っている。だが、どのような操業中止保証が、政府や、もし昔なら王との力関係にふさわしいだろうか。政府からその負債の弁済を請求する訴訟は、大学の商学部で教えられるものであって、われわれのテーマではない。ところで「王向け金融業」というものがあって、王、つまり政府からの取り立てを保証できる者たちにとって、これは儲かる仕事である。
経済学の教授、スチュアート・クレインによれば、政府に対する貸付を保証するには二つの方法がある。ある商社に多額の金を貸すとき、その信用供与者はこの投資を保証するため、この商社の経営陣で一票を獲得する。このような取引の場合と同様に、信用供与者に対し担保としてある政府権限を委ねる用意もなく巨額の金を借りる政府などあり得ない。このようなわけで、世界中の政府にそれぞれ何億ドルも貸し付けた国際的な銀行家たちは、それらの政府の政策に非常に大きな影響力を行使するのである。
信用供与者が政府または王に対して持っているもっとも基本的な強みは、与党(または王)が方針を変えれば、銀行家は政敵を金で助けることができるところにある。それゆえに信用供与者にとって、このような与党の政敵を用意していることは不可欠であり、またもしそれが存在していなければそれを作り出さなければならないし、そうすることは彼らの知恵にかかっているわけである。
このゲームに秀でていたのは、かの有名なロスチャイルド家であった。
ドイツはフランクフルト・アム・マイン出身であるこの創立者マイヤ=アムシェエル・ロスチャイルド(Meyer Amschel Rothschild 1743-1812)は、フランクフルトの銀行を営業するため五人息子の一人を当地にとどめておき、他の四人の息子をロンドン、パリ、ウィーン、ナポリに送った。互いに戦い合うそれらの政府に財政援助をすることによって、ロスチャイルド家は十九世紀の間に信じられないほど豊かになった。これについてクレイン教授は次のように言っている。
「もし十九世紀に起きたヨーロッパの諸戦争をかえりみれば、これらがいつも諸勢力間に均衡が再び成立し始めるときに終わったことを、あなたは確かめるであろう。勢力関係が組み替えられた後には、イギリス、フランス、オーストリアのロスチャイルド家の周りに新しい組み合わせによる均衡した勢力関係が出来上がっていた。
彼らは、彼らが望む線からはずれた全ての王に戦争を起こさせ、その王たちに、財務援助の定める道を取らせるように諸民族を組み合わせたのである。諸民族(政府)のその都度の負債額を研究してみると、いつも罰せられるべきであったものが現れてくる」。
ロスチャイルド家や他の国際的な銀行家の性格を描写するとき、キグリー教授は、彼らはいろんな点で通常の銀行家から区別されると言っている。彼らはまず世界市民的で、また国際的であった。彼らはまた、諸政府と強く信頼関係で結ばれていたが、とくに自国の政府は言うに及ばず、外国の政府の負債にも深く関わっていた。これらの銀行家たちを「国際的な銀行家たち」という。(キグリー『悲劇と希望』52頁)
2025/03/25(火) 16:28:02.60ID:eG8fxw660
p72
国際的な銀行家たちが政治史上で果たしている役割は歴史的には秘密にされているが、その主な理由はロスチャイルド家がユダヤ人であったことにある。反ユダヤ主義者は陰謀家の手中に陥り、全ての陰謀をユダヤ人の陰謀として示そうとした。これはしかし、真実にはほど遠いものである。伝統的なアングロサクソン系のJ・P・モルガンと、ロックフェラーの国際的銀行組織は、なるほど陰謀の主役を演じてきたし、ロスチャイルド家とその取り巻き連中の果たした役割の意味も無視できないが、すべてのユダヤ人にロスチャイルド家の犯罪の責めを負わせるのは、すべてのバプテスト族にロックフェラー家の犯罪の責めを負わせるのと同様に不合理であり、かつ不正義でもあろう。
https://imgur.com/LV5IItB
2025/03/26(水) 19:22:32.93ID:vNItN2XP0
p73
陰謀家たちのユダヤ人会員は、「反名誉毀損連盟」(Anti Defamation League=ADL)という機関を道具として使い、ロスチャイルド家とその連盟者に対する否定的な発言は、すべて全ユダヤ人に対する攻撃であるという風に人に信じ込ませようとしている。こうして彼らは国際的な銀行家たちについてのほとんど全ての確かな情報を隠し、アメリカの諸大学でもこれをテーマにすることをタブーにしてしまったのである。
この分野を研究する人たちなら誰でも、またどんな書物でも、全国に散らばっている無数のADL委員にすぐ攻撃される。ADLは中傷することを専門としており、その際、いかなる真理や論理にも惑わされない。いわゆる「マッカーシズム」にがん強に抗ったADLは、人々をゆえなくして「潜在的反ユダヤ主義者」と非難する。しかし逆に彼らのことを「潜在的共産主義者」と言えば、彼らは大声で抗議するであろう。
実際のところ、誰もユダヤ人自身以上にロスチャイルドに対して怒る資格はないだろう。ロスチャイルド帝国の一部をなすヴァールブルグ家は、アドルフ・ヒトラーを財政的に援助した。ロスチャイルド家とヴァールブルグ家の人たちは、ナチの強制収容所には一人もいなかった。彼らは戦争の外に、つまりパリの豪華なホテルにいたか、アメリカか、あるいはイギリスに移住していた。権力に飢えたナチの手中でもっとも苦しんだ集団はユダヤ人である。ところが、ユダヤ人であるロスチャイルド家の人々の運命は、ブタペストやブロンクス出身のユダヤ人の仕立て屋の運命より、ロックフェラー家の運命にずっと似ている。
政府の出す国債が国際的な銀行帝国の基礎となって以来、政府の負債額を増大させることが彼らの重大関心事となった。負債が多ければ多いほど、利息も大きくなる。戦争以上に政府を負債状態に陥れるものは他にはない。国際的な銀行家たちにとって、軍事的に均衡し、血を流している二国の双方に金を貸すことは、大した困難な仕事ではなかった。
たとえば、アメリカの南北戦争中、北部はロスチャイルド家が遣わしたアメリカ代理人、オーギュスト・ベルモントを通してロスチャイルド家が援助し、南部はロスチャイルド家の親類であるエルランガー家が援助した。
https://imgur.com/lIF6TSd
2025/03/31(月) 14:56:33.06ID:L8vx2vbD0
p74
政府に対する影響力を獲得し、それをいっそう大きくするためには、戦争と革命が国際的な銀行家にとっては非常に有益であるが、このような影響力を手に入れる本来のカギは昔から金融業であった。負債を抱える政府をコントロールすることは容易だ。信用供与者は負債者に対して、支配者の独占という特権を要求できる立場にある。金に飢える政府は、中央銀行の独占、地下資源についての独占、石油利権の独占、そして運輸行の独占などを承諾する。だが、《国際的な金融業者が最も熱心に求める独占は、一国の通貨に対する全面的な統制である。》
ついに、これらの国際的な銀行家たちは、実際、私的な法人として、ヨーロッパ諸国の中央銀行を我が物としたのである。イギリス銀行、フランス銀行、ドイツ銀行は大抵の人が考えているような、そこの政府の所有物ではなく、国家元首から授けられた私的独占なのである。イギリスのミッドランズ銀行の会頭マックケナは、この組織に仕えているが、彼は「金と信用を分配し、供与する者は、政府の政策を指揮し、国民の運命を手中に収める」と言った。
驚くべきことが1912年9月26日付のロンドン・フィナンシャル・タイムズに掲載された。それは「五つの大銀行の頂点にいる半ダースの人々は、短期的な大蔵省証券の更新を思い止まることによって、政府の財政の骨組みを壊すことが出きるだろう」というものである。
近代的な国民に対する独占的支配を手に入れようとする者は、誰でも中央銀行の必要性を認識した。『共産党宣言』で言っているカール・マルクスの征服計画の第五番目は、「国家資本と排他的独占を備えた国家銀行によって国家がクレジットを中央化することである」というものである。
レーニンはその後、中央銀行の創設はその国家が90%共産化したことを意味すると言った。そのような陰謀家は、「一国を軍隊なしには支配できない。しかしその国の国家経済を支配するための中央銀行があれば話はまた別である」ということを知っている。無政府主義者バクーニンは、カール・マルクスとその一派について辛辣にも、「彼らは片足を銀行に、もう片方の足を社会主義運動に突っ込んでいる」と言った。
国際的な金融業者は、ヨーロッパの全ての中央銀行に人形をすえ、それを監督している。キグリー教授は次のように言っている。
「世界の諸中央銀行の頂点にいる者自らが、世界金融における事実上の権力者であると考えてはならない。彼らはむしろ、彼らの国の支配的な投資銀行家から送り込まれてきた技師であり、代理人である。その投資銀行家が彼らを持ち上げたのであり、またそれゆえに彼らを再び引っ込めることもできるのである。世界の事実上の金融権力はこれらの投資銀行家(国際的な銀行家、もしくは大銀行家=merchants bankersともいう)の手中にあり、彼らのほとんどは合併していない彼ら自身の私的銀行の舞台裏に隠れている。彼らが国際協力と国内勢力の体系を形作っており、この体系は中央銀行に送られている彼らの代理人よりは私的で、強力で、また秘密に満ちたものなのである」(326頁-327頁)
2025/03/31(月) 15:45:01.58ID:L8vx2vbD0
p76
キグリー博士はまた、イギリスとフランスの銀行を従属させ、統制している国際的な銀行家たちは、これらの銀行が理論的に言って公有化した後でさえも彼らの力を堅持した、と言っている。
ヨーロッパの中央銀行をコントロールするこれらの人々が、アメリカでも同じ組織を熱心に作り始めたことは言うまでもない。アメリカの創立者たちはずっと以前から、アメリカを通貨操作によってコントロールしようとする試みがあることに気がついて、そのような国際的な銀行家たちと絶えず戦っていた。トーマス・ジェファーソンは書簡の中でジョン・アダムスに、「…私たちは貴殿と同じように、銀行というものは現にある軍隊よりもずっと危険であると本当に信じています」と言っている。
中央銀行が1836年にジャクソン大統領によって廃止され、アメリカからなくなったにもかかわらず、それからもずっとヨーロッパの金融業者とそのアメリカでの代理人たちは、アメリカの通貨制度をほぼ支配することに成功している。グスタヴス・マイヤーズはその著書『アメリカの大いなる幸運の歴史』の中で次のように言っている。
「ロスチャイルド家は長い間、アメリカの金融法規の施行運営に関し、その事象の影で大きな影響力を行使していた。法規に関する記録は、彼らが合衆国の当時の(アンドリュー・ジャクソンによって廃止された)銀行業界の支配者であったことを示している」
十九世紀には、大都市を持つ東部の指導的な金融業者たちは、しばしば互いののどをかき切り合っていた。ところが、農村である西部にいるその犠牲者たちが、東部に対して政治的に組織化し始めたとき、これら東部の「猛獣たち」は、自らも利益団体を作り、無数の農夫や企業好きな競争相手から自分達を守るために、共同して働かなければならないことを思い知った。経済権力のこの分裂が、これから企業家たらんとする者と、金融独占家を刺激して中央銀行を要求させた主な要因のひとつであった。
『略奪の時代』という自著で、この時代に生きたプロクター・ハンスルは次のように言っている。
「モルガン家、クーン=レプ家、および産業界で、これに似た役割を果たしているその保護者たちの間には、金融界を混乱におとしいれるような不一致をできるだけ避けようとする傾向があった。これに対し、非常に有利な結果をもたらす一つの利益団体が誕生した」。
しかし、東部の中心部を除けば、大抵のアメリカの銀行家やその顧客は、この考えには不信感を抱いていた。一つの中央銀行組織が必要であるということを奥地に教えるために、国際的な銀行家たちはその実力を誇示するため、またそれと同時に残りの銀行家たちがこの線から外れると何が生じるかを警告するため、一連のパニックを作り出した。この懲罰行動の演出家は生粋のアメリカ人であるが、イギリスとドイツで教育を受けたJ・ピアモント・モルガン(J.Piermont.Morgan)であった。このモルガンは、下院議員であるルイス・マックファデン(十年間、私設銀行家および通貨委員会を指揮した銀行家)や多くの人々からは、イギリスに住むロスチャイルド家の在米最高代理人であると考えられていた。
世紀末には、このJ・P・モルガンは、すでに人工的パニックの製造法に熟練していた。このような事件はよく計画調整されていた。連邦準備法をつくった一人、上院議員ロバート・オーエン(彼の果たしたこの役割はその後大いに怨まれた)は、院内委員会で、彼の所属している銀行は「貴殿はただちに貴殿の持っている通貨貨幣の三分の一を取引市場からひっこめ、貴殿の貸付金の半分について回収報告をするだろう」という内容の『1893年のパニック回状』という名で知られた回状を、国民銀行家連合(The National Bankers' Association)から受け取ったと証言した。
2025/03/31(月) 16:33:14.99ID:L8vx2vbD0
p79
歴史家フレデリック・ルイス・アレンは、1949年4月25日付のライフ誌で、ニッカポッカー銀行とアメリカン・トラスト・カンパニーが支払不能の状態にあるという噂が広まった際に果たしたモルガンの役割について報告している。この噂が、1907年のパニックの発端となったのである。モルガンがこのパニックに勢いをつけたかどうかという問いに、アレンは次のように答えている。
「このトラスト・カンパニーの会長であるオークレイ・ソーンは、その後ある院内委員会で、自分の銀行はただ大規模な払い戻しに見舞われただけであり…自分自身は救済の請求はしなかったし、ただ<モルガン>の主張が自分<ソーン>の銀行に対する殺到を惹起しただけだと証言した。この証言によって、ハインツェ銀行、モース銀行、トーマス銀行や、またおそらくこれらの銀行と関わりのある他のことがらに対する浄化委員会の懲戒処置によって、多くの頭の鋭い年代記作者は、次のような適切な結論に至ったのである。すなわちモルガンの利益団体がパニックに勢いをつけ、その伝播を巧妙に操って、その結果、ライバルの銀行を潰し、モルガンの勢力下にある諸銀行の優越性を強化するために、1907年秋の不安定な状況を利用した、というのがその結論である」。
自分で作り出した「パニック」を、モルガンはほとんど自分一人で終わらせた。ここから彼は、来るべき将来に自分のためになるあるものを確信することができた。これをアレンは次のように説明している。
「1907年のパニックが与えた教訓は、はっきりしていた。立法化によってパニックに確かな根拠を与えるということには、その後六年間も気がつかなかったとしても事態は同じである。そしてその立法化とは、合衆国は中央銀行組織を本当に必要としているというものであった…」。
アメリカにこの中央銀行を備え付ける際に、最も重要な役割を演じたであろう人物は、パウル・ヴァールブルク(Paul Warburg)だった。彼はその兄弟であるフェリックスと一緒に1902年、ドイツから合衆国に移住した(図4参照)。彼らはまたその兄弟であるマックス(後のロシア革命の主要なスポンサーとなる)をフランクフルトにとどめ、彼にはそこで一族の銀行(M.N.Warburg&Co.)をさらに営業させた。
パウル・ヴァールブルクは、アメリカきっての国際的な銀行家であるクーン=レプ商会の後に控える指導的な実力者、ヤーコブ・シップ(Jakob Schiff)の娘、フリーダ・シッフと結婚した。ステフン・バーミンガムは彼の著書『我らが仲間』(Our Crowd)で正当にも、「十八世紀にシッフ家とロスチャイルド家はフランクフルトで一双子会社を分割した」と書いている。すでに述べたように、シッフはクーン=レプの経営参加権をロスチャイルド家の金で買った。パウルとフェリックスの両者はこうしてクーン=レプ商会の共同経営者になったのである。
モルガンの演出でパニックが起きた1907年には、パウル・ヴァールブルクはほとんど毎日「銀行改革」の必要性について書いたり、講演をしていた。「公共の福祉」に奉仕する彼に、クーン=レプ商会は次の六年間、五十万ドルの年棒を支払った。世論はその「公益的な」配慮を高く評価した。
ヴァールブルクはこの「銀行改革」を促進する際に、モルガンの上院における踏み台役として知られるネルソン・オールドリッチ(Nelson Aldrich)に支持された。オールドリッチの娘アビーはジョン・D・ロックフェラーJr.(ニューヨーク州の知事になったN・ロックフェラーはその母方の祖父にちなんで名付けられた)と結婚した。

図4
https://dl.ndl.go.jp/pid/12242171/1/44
2025/04/01(火) 11:06:23.27ID:vozPQDSa0
p82
1907年のパニック後、オールドリッチは国家通貨委員の長に任命された。オールドリッチとその仲間は、銀行制度についての技術的な知識は何も持っていなかったにも関わらず、中央銀行制度を「研究する」ため約二年にわたる修学旅行を行い、ヨーロッパの中央銀行のオーナーとの飲食に三十万ドルの税金を使った。"贅沢な散歩"から帰ってから、この委員会は、二年近くの間、報告会も開かなければ、「修学旅行」で得た知識を発表することもなかった。それにもかかわらずオールドリッチ上院議員は事の「準備」に忙しかった。パウル・ヴァールブルクと他の国際的な銀行家たちと一緒に、オールドリッチは合衆国史上最も重要な秘密集会を催した。ロックフェラーの代理人フランク・ファンダーリップ(Frank Vanderlip)は、その後何年も経ってから、回想録の中で次のように打ち明けている。
「私は、世論の注意を団体にまつわる事件に向け、その世論を社会の利益のために用いようと考えている。しかしそれに反し、私は(陰謀家がそうするように、実際まことに秘かに)沈黙していたことがある。さて私が沈黙していたことというのは、1910年に起きたことである。それは我々のジェカイル島への秘密旅行であるが、これこそが最後に連邦準備制度という形になって現れたものの本来の始まりであるといっても、私には誇張ではないと思われる」。
このことについて、秘密を守ることにも確かに根拠もあるだろう。しかし、これにはアメリカの全経済の統制が賭けられていたのである。さて、オールドリッチ上院議員は信頼に満ちた紹介状をJ・P・モルガン社のヘンリー・P・デヴィソン、ロックフェラー所有のナショナル・シティー銀行の会頭フランク・A・ファンダーリップ、財務省次官A・ピアット・アンドリュー、モルガン所有のバンカー・トラスト・カンパニーのベンジャミン・ストロング、そしてパウル・ヴァーブルクに送った。それは彼らが全員、国家通貨委員会報告の最終的な勧告文を書き下ろすため、オールドリッチと一緒にジョージア州のジェカイル島におも向くという内容のものである。
B・C・フォーブスは著書『アメリカをつくっている男たち』(Men Who Are Making America)の中で次のように言っている。
「一般的な討議の後、全員一致の総括的原則を掲げることが決定された。このグループの全員は、全ての銀行組織にとって理想的な土台として中央銀行を設立することに賛成した」(399頁)。
ヴァーブルクは「中央銀行」という名はどうしても避けなければならないと強調した。そこで、州の様々な行政区に四つ(その後に十二になる)の部局をもった地方準備制度(地方反衝組織)計画が採択された。インサイダーたちは、ニューヨークの銀行が、世論に対して彼らを代弁するであろう諸銀行を支配することを知っていた。
2025/04/01(火) 12:07:24.13ID:vozPQDSa0
p84
ジェカイル島の集会後、通貨委員会とオールドリッチ法案に関する報告書が完成した。ヴァールブルクは法案を連邦準備制度(連邦反衝組織)と名づけることを提案した。しかしオールドリッチは、自分の名前が銀行改革との関係ですでに人々の記憶の中に根をおろしていることを主張してやまなかった。彼はなかんづく、彼の名前のついていない法案が提出されれば、疑いが生じると言って、自分の主張を正当化した。オールドリッチという名前はしかし、この法案をはじめからお流れにするトリックであることがわかる。なぜなら、この名前をつけて現れた全ての法律は、明らかに国際的な銀行家たちの計画だったからである。オールドリッチ法案が議会を通過できなかったとき、新しい戦略が工夫されなければならなかった。
さて、共和党はウォール街とあまりにも密接に結びついていた。中央銀行を実現する唯一の望みは、ウォール街を無力にするため、計画を隠し、それを民主党員の力を借りて実現することにあった。
このためのチャンスは、1912年の大統領選挙が近づいたときにやって来た。共和党員のウィリアム・ハウワード・タフト大統領は、オールドリッチ法案に反対していた。このタフトの前任者である共和党員テディ・ルーズヴェルトが革新政党の名簿の中から大統領に立候補することに同意するまで、タフトの再選は確実であると一般に思われていた。フェルディナンド・ランドバーグ(Ferdinand Lundberg)は『アメリカの六十の家族』(America's 60 Families)という著書の中で次のように証言している。
「ルーズヴェルトがタフトに再び挑戦すると知らせるやいなや、タフトの大統領選の敗北は避けがたいものとなった。三角戦争(タフト─ルーズヴェルト─ウィルソン)の全期間を通して、ルーズヴェルトの背後にはモルガンの代理人フランク・マンシーとジョージ・パーキンスが控えていた。彼らはルーズヴェルトのスポンサーとなり、ルーズヴェルトの話を前もって調べあげ、ウォール街の人々の援助を引き出して、反タフト運動という仕事を全部引き受けたのである…。パーキンスとJ・P・モルガン社こそ、革新政党の実体であり、他は全てその飾りだった。要するにルーズヴェルトの選挙資金の大半は、タフトの頭皮を狙うこのモルガンの両戦士によってつくられたのであった」(110-112頁)。
民主党の候補者ウッドロー・ウィルソンも、また同様にモルガンの「所有物」だった。ガブリエル・コルコ(Gabriel Kolko)博士は『保守主義の勝利』(The Triumph of Conservatism)という著書の中で、「1907年の秋、彼(ウィルソン)はオールドリッチの銀行法案を支持し、アメリカ社会におけるモルガンの役割を完全に承認した」(205頁)と報告し、さらにランドバーグによれば、「候補に指名される前までウッドロー・ウィルソンは約二十年間、ウォール街の裏道をうごめいていた」(同書112頁)と報告している。
ウッドロー・ウィルソンとT・ルーズヴェルトは、ウォール・ストリート・マネー・トラストに対する花とへつらいで飾られた中傷や密告やらでしのぎを削っていたが、この同じグループがまたウィルソンとルーズヴェルト双方に選挙資金を出していたのである。
コルコ博士はさらに、1912年初頭、銀行改革は「死亡した事項のように見えた…。銀行改革運動は完全に他から孤絶していた」と言っている。ウィルソンはこの事項を再生させ、通貨制度をウォール街の国際的な銀行家たちの支配から解放すると国民に約束した。これについての民主党の原則的説明は「われわれは中央銀行に関するオールドリッチ計画には反対である」と明確に言い切っている。しかし「大ボスたち」は、かつて自分達が誰を買収したかまだよく覚えていた。ウィルソンの運動を強力に支持していた国際的な銀行家たち(すなわち「大ボスたち」)の中には、すでに挙げた名前の他に、ヤーコブ・シッフ、バーナード・バルフ、ヘンリー・モルゲンソー、トーマス・フォーチュン・ライアン、ニューヨーク・タイムズの編集者アドルフ・オックスの名前が見出だされる。
2025/04/01(火) 15:21:33.69ID:vozPQDSa0
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ウィルソンを操る計画を議院の中で推進していたインサイダーの原動力は、謎に満ちた「連隊長」エドワード・マンデル・ハウス("Colonel"Edward Mandel House)であり、彼はアメリカ南部に住むイギリス金融利権代表者の息子であり、イギリスで教育を受けた。「連隊長」とはハウスが名誉職として用いた名前であって、彼は一度も兵役についたことはなかった。彼は舞台裏に控える厳しい黒幕で、多くの歴史家によってウィルソン在任中、合衆国の真の大統領と記された人物である。ハウスは自分の『行政官フィリップ・ドル』(Philip Dru,Administrator)という著書の中で「カール・マルクスが夢見た社会主義」の建設について書いている。この目標に一歩近づくため、ハウスはこの自著の中で、累進所得税の課税と中央銀行は共産党宣言にある十項目の計画のうちの二つなのである。
『ハウス連隊長の親書』(The Intimate Papers of Colonel House)という書物で、チャールズ・セイムーア教授は、連隊長こそ連邦準備法の「見えざる保護の天使」と言っている。セイムーアの本は、連邦準備法が準備され、議員の中で推し進められている期間中、ハウスとパウル・ヴァールブルクの間に成立していた切れ目のない接触を示す多くの記録とスケッチを見せてくれる。伝記作家ジョージ・ヴィーレックは、「シッフ家、ヴァールブルク家、カーン(Kahn)家、ロックフェラー家、モルガン家がハウスを信用していた…」ことを保証している。そして彼らの信頼は十分報われたのである。
連邦準備法が「国民の法」であるというフィクションを支えるため、インサイダーの銀行家たちは偽の敵をつくった。この戦術は、クロバー畑にさらされないようにと願うウサギの物語を思い出させる。つまり、実際、オールドリッチとファンダーリップは、自分達の法案を激しく批判したのである。これから二十年ほどしてファンダーリップは、「さて、連邦準備計画がオールドリッチの名前を持っていたとき、その計画は崩れたけれど、その中にはその後実現した本質的なものは全て含まれていた」と告白している。
議会がクリスマス閉会にさしかかる直前、連邦準備法は1913年12月22日、258票対60票で下院を、そして43票対25票で上院を通過した。ウィルソンは大統領になるため、インサイダーとの約束を果たしていた。ヴァールブルクはハウスに、「さてこれでよし、全てが今われわれの思うようにはならなくてもよい。足りないところは後から行政訴訟で補えるのだから」と言った。
この法律の真の反対者もいたが、彼らは政敵や、この法律の賛同者たちの力の前にはどうすることもできなかった。保守主義者ヘンリー・キャボット・ロッジSr.は、将来をはっきり予見して次のように告げた。「この法案は支払手段のすさまじいインフレーションを招来するように私には思われる…。私は、金貨を兌換のできない紙幣の洪水に溺れさすような法律が採択されうるとは考えたくない」(1932年6月10日議事録)。
採択後、有名な飛行士の父であるチャールズ・A・リンドバークSr.は、議会で次のように述べている。
「この法律は地上最大のトラストを確立するものである。もし大統領がこの文書に署名すれば、金権の不透明な政府が──マネー・トラスト・投資によってそれが実在しているということは証明されている──合法化されるだろう…。これは偽装したオールドリッチ法案である…。トラストがインフレーションを欲するときはいつでも、新法がインフレーションを起こすだろう」。
連邦準備法はマネー・トラストに対する民主主義 の勝利として称賛され、そして現在でも依然として賞賛され続けている。しかし、真実はその逆なのである。
2025/04/02(水) 11:04:19.33ID:ksk5mNNH0
p89
中央銀行の全構想は、これがないと自分達の勢力に奪われるのではないかと考えたグループによって企てられた。マネー・トラストの衣ははがされたという神話は、本来なら、パウル・ヴァールブルクが初代連邦準備理事に(その会員はハウス連隊長に探し出された)任命されたときに、崩れ去っていなければならなかったはずである。ヴァーブルクは、連邦準備からの一万二千ドルの年棒に甘んじ、他の五十万ドルの年棒を諦めた。アメリカの大学で「歴史の偶然論」を教え、擁護している向きは、ヴァーブルクが「あきらめ」を「社会的、市民的精神」から行っていると人々に信じ込ませようとしている。
さらに最初の危険な一年間、ニューヨーク準備銀行の会頭は、モルガン利益集団に属するベンジャミン・ストロングであった。そしてこの彼こそ、オールドリッチ法案を作成するため、ヴァーブルク、デヴィソン、ファンダーリップ、そして「ニュー・ライン」を擁護する他の男たちを、ジョージア州のジェカイル島に連れていった男なのである。
ところで、この「中央銀行」はどのように強力なのであろうか。連邦準備は、われわれの通貨の供給と利息率を統制することによって、全経済を操作している。この中央銀行はインフレかデフレかを、不景気か好景気かを作り出し、自らの裁量にしたがって金融市場を活発にしたり不活発にしたりする。この銀行があまりにも強力なので、その強力さは、院内銀行業委員会の委員長であるライト・パットマン議員が、
「合衆国には今日、実際には二つの政府が存在している。一つは正当な、憲法上の政府であり……、もう一つは連邦準備内にあって、独立した、統制外の、バラバラな政府である。この政府は金融力を有し、この金融力は憲法が議会に与えたものであった」
と主張するほどである。
大統領も、議会も、財務省の長官も、この銀行に関する権限を持っていない。いや逆に、金のことについては、彼らはこの銀行から命令すら受けるのである。この機関の持つ統制外の権力について、財務省長官デヴィッド・M・ケネディーは、1969年5月5日付のUSニューズ&ワールド・リポートとのインタビューで次のように告白した。
「(質問)あなたは最近の信用懲罰運動をよいと思いますか。(答)それを承認するか否かは私の課題ではない。それは連邦準備の仕事である」。
そして奇妙なことに、連邦準備は一度の検査を受けたこともなく、院内銀行業委員会のライト・パットマン委員長のこれに関わる一切の試みはきれいに退けられたのである(ニューヨーク・タイムズ、1967年9月14日付)。

写真1 キャロル・キグリー教授は、世界を政治と金融の舞台裏からコントロールしようとする国際的な銀行家たちの計画を暴露している。これらの億万長者は自分達の独裁制に労働者の民主主義という衣を着せている。

写真2 J・P・モルガンは連邦準備銀行法を実行に移す口実として人為的なパニックを作り出した。彼は彼のイギリス政府に対する貸付金を確保するため、合衆国を第一次世界大戦のなかに巻き込ませる道具として働いた。彼は、国際的な銀行家たちの頂点にあって、舞台裏からコントロールできる全能で、中央集権化した政府をつくるため、社会主義的な集団のスポンサーとなった。彼の死後は、彼の仲間たちがロシアのボルシェビキ革命のスポンサーとなった。
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p92
連邦準備の仕事は、これまでどれほど効果的であったろうか。この評価は、それを見る者の立場によって違ってくる。ウッドロー・ウィルソンが宣誓して以来、国家負債は十億ドルから4550億ドルにのぼった。これまでに(債権者としての)国際的な銀行家たちに支払われた利息高は驚異的なものである。この利息は国家予算の中で実に第三位を占めている。国家負債の利息は毎年220億ドルにも上り、それは、インフレが国際の利息高を突きあげるにしたがって、常に急上昇している。その間にわれわれの金(きん)の全てはヨーロッパの諸中央銀行に押さえられてしまい、銀は全て売却されてしまった。目前にせまった経済的破局について言えば、歴史的現実を否認するもののみが、これが偶然によってのみ起きたと信じることができるのである。
連邦準備ができあがれば(つまり実のところ何も知らないアメリカ国民が秘かに連邦準備の肩代わりをさせられたときには)、景気と恐慌の循環はもはやないだろうという保証がなされた。その舞台裏で国際的な銀行家たちのために中央銀行計画を貫徹した人々は、「今や恒久的な成長と、前進する福祉があるのみだ」と約束したものである。しかし、チャールズ・A・リンドバークSr.議員は辛辣にも、「今からは恐慌が科学的に作り出されるようになった」と宣言した。中央銀行を利用してインフレとデフレを交互に作り出して、国民の大きな利益を押さえるという方法は、今や国際的な銀行家たちの手によって精密科学にまで仕上げられている。
2025/04/03(木) 11:07:23.30ID:rzRtaYoV0
p92
国際的な銀行家たちが富を合併し、それをコントロールする道具として準備連邦をつくってから、これが今では彼らの破壊的な一撃のためのものとなってしまっている。1922年から1929年の間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張(あるいはインフレを招来)させた。新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われたのである。
巨額の信用貸付金が手に入るようになったちょうどその頃、マスメディアは証券取引で急速に財をなしたというセンセーショナルな話を一般に広め始めた。フェルディナンド・ランドバーグによれば、
「この基金から利潤を引き出すために、一般人が投機へとそそのかされなければならなかった。そしてそれは誘惑的な新聞報道によって実現された。それらはよく買われ、証券取引劇を演じ続ける相場によってまかなわれたのである」。
1928年、ドルの購買力安定化に関する院内公聴会は、連邦準備理事会がヨーロッパの諸中央銀行の指導的人物と緊密に協力していたことを示して警告を発した。院内委員会の警告によれば、連邦準備理事会とヨーロッパの諸中央銀行の指導者たちの秘密会食の場で、国際的な銀行家たちは引き締め政策をとることを決定していたのである。
イングランド銀行の会頭であったモンターギュ・ノーマンは、アメリカの財務省長官アンドリュー・メロンと話し合うため、1929年2月6日ワシントンにやってきた。1927年11月11日付のウォール・ストリート・ジャーナルは、ノーマン氏を「現代ヨーロッパの独裁者」であると表現した。キャロル・キグリー教授は、J・P・モルガンの腹心であるこノーマンが、「私は世界の覇者の地位を享受している」と言ったと書いている。ノーマンのこの謎めいた訪問後、ただちに連邦準備理事会は「軽い通貨」の政策を急転回させ、手形割引歩合を上げ始めた。ほぼ七年間膨れ続けてきた風船が、こうして破裂寸前の状態となったのである。
それは12月24日に起きた。ウィリアム・ブライアン(William Bryan)は『合衆国の未解決の財政的、政治的諸問題』(The United States Unresolved Monetary and Political Problems)という著書(自費出版)の中で次のように言っている。
「すべてが済んだとき、ニューヨークの金融業者たちは相場師に<24時間引き出し可能な貸付金>の弁済を要求し始めた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できるようにするためには、いまや株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味している。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させることとなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速に尽き果て、その結果、閉鎖されなければならなくなったのである。
連邦準備は弾力性のある通貨を堅持するよう法律によって義務付けられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意識的に出さなかった。投資していた国民の一部は、大半の相場師や銀行家と同じように決定的な打撃をこうむった。だがしかし、インサイダーたちはそうではなかった。彼らは取引所の投資から手を引いていたが、彼らのもっている株を「短期間に」売り払い、株式相場が垂直に下落する直前に、巨額の利益を手に入れていたのである。彼らは、パウル・ヴァールブルクの解説から売る合図をかぎとっていた。この合図はフィナンシャル・クロニカルが1929年3月9日、ヴァールブルグの次のような言葉を引用したときに与えられた。それは、
「もし行きすぎる投機が無制限に許されるなら…、ついに崩壊がやって来るのは当然であり、それは国中を巻き込むような一般的な恐慌に至る」
というものであった。この情報の意味を知っている者は、もと自分がもっていた株券をたかが10%の値で買い戻すことができた。
科学的に組み立てられた1929年の崩壊が、一つの災難か、もしくは愚かさの結果であると信じることは、あらゆる論理を無視することに等しい。インフレ政策を推進し、取引所を吸い上げるようなプロパガンダをする国際的な銀行家たちは、自分もこの「大恐慌」に偶然にも落ち込むには多くの世代を経て集めた知識を持ちすぎていた。
院内銀行業委員会と院内通貨委員会の委員長であったルイス・マックファデン議員は、次のように説明している。
2025/04/03(木) 15:43:44.13ID:KDGtFOAj0
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「それ(恐慌)は偶然ではなかった。それは一つの用心深く工夫され、構築された出来事だった…。国際的な銀行家たちは、統治者としてわれわれ全員の上に君臨できるように、われわれにとって絶望的な状態を作り出すことを目指したのである」。
たしかに1929年以来、このような規模の恐慌はもうないが、しかし不景気には規則的におそわれている。これらの不景気はみな一定の周期を持っており、その都度連邦準備はアクセルを踏んだり、ブレーキをかけたりしている。1929年以来、この種の操作によって次のような不景気が引き起こされた。
1936-37年  株式相場が50%暴落
1948年   株式相場が16%下落
1953年   株式相場が13%下落
1956-57年 証券取引が13%後退
1957年   年末に相場が13%騰落
1960年   株式市場が17%後退
1966年   株式相場が25%下落
1970年   証券取引が25%以上下落
図5は評価の高い金融誌、インディケイター・ダイジェスト1969年6月24日付に基づいている。同誌には通貨供給の緩和と引き締めという連邦準備計画が、いかに工業関係株式の平均相場に働きかけたかを示している。それは証券取引所を操作し、恐慌ないし不景気を科学的に作り出す方法を暗示している。連邦準備の金融政策が、まさにどの方向をとるかということについての信頼すべき情報を持っている者は、これで思いがけない富にありつけることができるのである。
連邦準備理事会の理事は、大統領によって十四年の任期で任命される。この地位から国の全経済がコントロールされるようになって以来、この地位は官僚の地位よりずっと重要なものになった。しかし誰かが一度でも、これらの地位に着いている人について何かを聞いたことがあるだろうか。唯一の例外は多分、理事長のアーサー・バーンズについてであろう。本来なら上院で総括的に議論されてはじめてなされるはずのこの任命は、ただ機械的にだけ承認されている。だが、ここではヨーロッパの場合と同じように、これらの人々はただの操り人形にしか過ぎず、国際的な銀行家たちの指図に基づいてこれらの地位に据えられるのである。このことのためにも、全能の銀行家たちは、両政党の大統領選挙運動に金を出してきた。このすべての権力と金融の操作の最終結果は、インサイダーの希望通りに行けば、「世界金融の覇権が、完全で超国家的な統制機構として、どこでも、また全てを超えて支配すべきである」というバンク・オブ・イングランドのモンターギュ・ノーマンの夢の実現だろう。

図5 https://dl.ndl.go.jp/pid/12242171/1/52
2025/04/03(木) 18:05:32.79ID:KDGtFOAj0
p98
〔1985年最新情報〕
1971年以来、われわれは二回の大規模なインフレと三回にわたる不景気を目撃してきた。トラックを廻る度に、物価指数のインフレは前回のラウンドの水準を上回ったし、引戻しの間により高い基礎水準で落ち着いた。言い替えれば、どの新しい高さも以前の高さより高かった。そして、どの新しい低さも以前の低さより高かったのである。
70年代と80年代のインフレは南北戦争終結以来、われわれが経験したどんなインフレよりも悪質だった。そこで私は、ドルはもはや金とは兌換されえないだろうというニクソン大統領の1971年8月15日の宣言を昨日ホノルルで聞いたように錯覚した。彼は同じ演説の中で、インフレを「抑える」ため賃金・物価調整を発動しつつあるとも言っていた。その日こそ、ドルの最期を意味した。
1985年のはじめのドルは現に強い、しかし何と比較して強いのだろうか。他の不換紙幣と比較してなのか。投資家たちは──たぶん外国の通貨や投資物を売っているアメリカの投資家だけが──ドルに飛び付いた。しかし、それはドル自体よりもっとひどいインフレに見舞われた他の通貨に比べて強かったからだけだし、あるいは合衆国の経済が外国の社会主義経済よりいくぶんなりとも強かったからにすぎない。私はこの問題については、そのままそっくり以下の章で再び取り上げたいと思うが、ここでは連邦準備の役割は今日、かつてない強さを持つに至っているというにとどめておこう。
ゲイリーと私が連邦準備制度の役割と、その株式市場の動きと関係の要点を述べたときはほとんど誰も注意しなかった。現在もなおラジオを聞き、テレビを観て、連邦準備の政策と利率の持つ効果との関係から、市場がどう動くかということに関する説明を得ることは不可能である。各人が「レートの観察者」を手に入れていたのだった。
いつもわれわれが繰り返しこれらのインフレ・不景気サイクルの一つを通り抜ける度ごとに、政治の支配者はぎょうぎょうしく、いかに「われわれはインフレの山を越した」かをしゃべる。それをニクソンは1972年に、フォードは1976年に、レーガンは今やりつつある。実際のところ、通貨制度において金統制抜きでインフレを抑えることは、キングコブラを取っ組み合いで地にねじ伏せるようなものである。その頭を叩き落とさない限り、逆に「ざまあ見ろ」である。
インフレが全世界を呑み込むということを考えれば、以前に引用したモンターギュ・ノーマンの言葉と夢を思い起こすことは極めて大切である。ドルは、しまいには暴落する。ドルを含めて、すべての国の通貨の死を告げ、知らせる一つの貨幣制度を、世界金融のインサイダーは待ち構えている。あなたはこのことに最後のクリューガー金貨を賭けてもよいだろう。
どのくらい大きなインフレがこれ(通貨の死亡)をもたらすであろうか。正直にいって私にはわからない。だが、もしそれが生じれば、誰が「新通貨」を出そうと、世界は万能薬としてのこの「新通貨」に飛び付くだろう。これは私個人の意見だが、その源は世界銀行か、それにそっくりの未来版であろう。
CFR誌である「フォーリン・アフェアズ」の1984年秋季号で、リチャード・N・クーパーは、「未来の通貨組織」という題の記事でこの問題についての自分の考えを要約している。クーパー教授は、「すべての民主主義的な工業国にとって、一つの共通の通貨政策に基づく一つの共通な通貨の創設と、その通貨政策を決定するための一つの連合造幣銀行の創設」を要求している。そしてさらに次のように続けている。
「しかし、単一の通貨は、単一の通貨政策と、通貨を発行しつつ通貨政策を指揮する単一の権威を伴うときにのみ可能である。独立国はどのようにそれを遂行できるだろうか。そのためには、各国は通貨政策の決定権を一つの超国家的組織体(a supernational body)へと譲渡しなければならない…」。

また、あなたが、これは象牙の塔の学術的沈思の類いではないのかと考えるかもしれないので、そのようなことのないように、私は今ここで、クーパー教授がハーヴァードの国際経済学の(The Maurits C,Boas)教授であり、1977年から1981年まで経済次官をし、1972年から1974年までエール大学の教務部長をしていたという事実を指摘しておかなければならない。彼はまた、この記事の締めくくりで、「簡潔にいって、より高い責任を引き受ける一つの内部集団(Innerclub)なるものができるだろう…」(太字は著者による)と明らかにしているように、これらの事柄がどのようになされるかを完全に理解しているのである。
本当に「内部集団」ができるだろう。ビル・モイヤーズは自分のテレビ番組の中で、「力の世界は閉ざされた戸の向こうで動いている」といって、このことをはっきりさせている。
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