>>516
私が主張したかった根源的なことを説明するね。
客観性を得られるくらい十分の人の脳手術をしなければいけない。なおかつ、脳手術を受けていない人からは参加者が本当に哲学的ゾンビでないか分からない。
これは本当に客観的と言えるのだろうか?
主観の共有とは結局その程度、普通の客観と一人称の主観の中間くらいになる。

果たしてこれが、客観的と言えるのか?←これが言いたかった

客観的というのはそもそもそ誰が見てない、神の視点からの記述のようなものだろう?
クオリア共有ってのは、脳手術を受けていなければ老若男女問わず誰でも見れないということで、客観的でないと言えるのではないか?