邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516586955/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 0952日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:04:34.34
>>949
征伐した有力勢力の姫を娶るのは乗っ取りの常套手段。
三島溝咋。
あくまで咋。 0953日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:06:57.45
イスケヨリ姫の母方の祖父が三島溝杙(賀茂建角身、陶津耳)、曽祖父は志賀島の大山祇。
イスケヨリ姫の父方の祖父が出雲の大国主。
イスケヨリ姫と神武の子孫が天皇家。
0954日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:09:36.33
>>952
身もふたもないですね。
まあ、イスケヨリ姫の叔父が、神武が戦った登美王家の長髄彦だから、そうも言えなくもないですけど。 0955日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:20:21.54
『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』
<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> :
長曽根(長髄彦)は現代語に直すと中州(大和)根(川)彦(男子、英雄)の意。
報告者:この説によると「ナガスネヒコは、大和を流れる川である富雄川流域地方の指導者」の意となるでしょう。
『日本書紀』には
「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。
これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている。
『日本書紀』に神武の軍隊が
「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」
とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。
0956日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:24:00.03
纏向の地は東出雲王家の登美家(事代主系)の地盤であり
九代当主の太田田根子に因んで現代も太田の地名が残っています。
0957日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:28:52.06
何れにせよ、倭国大乱は出雲など山陰尾張阿波宮崎遠賀川など縄文系勢力(卑弥呼を共立した勢力)と渡来人勢力の闘い。
2世紀半ば、南海トラフ地震で沿岸部が拠点だった渡来人勢力が大ダメージを受ける。
その弱った処に尾張や出雲、阿波などの勢力が攻勢を始めたのが引き金。
倭国大乱は縄文系勢力の圧勝で終わり、大和朝廷が出来る。
大和朝廷は更に四道将軍を派遣し、関東東北など各地を征伐して回る。
0958日本@名無史さん2018/01/30(火) 01:32:53.87
2世紀に南海トラフ地震なんてあったか?
あったとしても筑紫は被害を受けない。
紀伊半島や畿内は大ダメージを受けて、筑紫の支配に下っただろうね。
0959日本@名無史さん2018/01/30(火) 02:21:35.00
被災地で盗みでも働きそうな連中の妄想だな
>>876
九州からも分銅は出てるぞ、しかも畿内より新しいから。
それに九州の棺は当時ほとんどベンガラだよw 09621 ◆UiepmfCeDJqf 2018/01/30(火) 06:31:44.21
0963日本@名無史さん2018/01/30(火) 06:32:40.95
>>960
方形木棺海外交流の広域支配者としては吉武高木が祖
これが全ての原型だろうな
宗像の田熊石畑なども追随しているし 0964日本@名無史さん2018/01/30(火) 08:56:31.24
>>830
>倭人は里数を知らず日数で距離を表すと魏志倭人伝にある
ゆえに日数で表記された行程は倭人からの情報である
これ以外の解釈があるなら逆に聞きたい <
全くの・・・・だねえ。
「夷人不知里數、但計以日」は、隋書情報であるんだし、
この男は、
魏使らは、日数も里数も記録出来る、
という実態が全く判ららないアホであるらしい。 0965日本@名無史さん2018/01/30(火) 09:19:00.28
>>830
>それならばなぜ不弥国から南○○里で邪馬台国、
という表記でないのか<
だから、不彌國の南に(里数ほぼ0里で)や邪馬壹國があった、という事を示しているんであり、
古田さんは、不彌國の南に邪馬壹國の入り口があった、という説明をされた。
>また日程で書かれた邪馬台国までの距離はどう解釈するべきか <
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」という構文であるんだから、
「数量説明」の「水行十日陸行一月」は、
その前に書かれた「女王之所都」という文言の説明であり、
邪馬壹國に対する日数説明ではなく、
だから、「從郡至倭」の目的地までの日数だ、という事になる。 0966日本@名無史さん2018/01/30(火) 09:29:17.84
>>834
>まずはじめからおかしいね 「魏志には、魏略には書かれていない情報が沢山」あっても
魏志が魏略を下敷きにしなかった証拠にはならないね
そのあとは何かそれっぽい事書いてるだけで内容が支離滅裂だね <
この男は、全くの・・・・アホなんだな。
倭人地の現地情報は、魏使らの記録が最も詳細で確かであるのであり、
魏志が、魏略には書かれていない情報を沢山書けている、という事は、
魏志は、魏略には関係なく魏略を殆ど見ずに、魏使らの記録を見て書いた、
という事にしかならないではないか。
という事は、 0967日本@名無史さん2018/01/30(火) 09:37:34.17
>>837
>突然魏の使者なんてものが出てくる解釈の方が不自然で不思議<
郡使らが卑弥呼に合った訳でもなく、
魏使らが卑弥呼に直接会っていて、倭人地の詳細を記録したんだから、
魏使らの実地での見聞記録が元になっている、
という事を否定しようとする大和説者の、頭の中が、
クルっているとしか言いようがなく、不思議。 0968日本@名無史さん2018/01/30(火) 09:51:07.72
>>842
>魏の使者じゃなくて、郡の使者だろw<
明帝の詔書の実行者であるんだから、魏使そのものであり、
実際にも、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
のように、「京都」と「帯方郡」を書き分けている。 0969日本@名無史さん2018/01/30(火) 10:08:27.35
0970日本@名無史さん2018/01/30(火) 10:17:12.80
>>853
>八尾の亀井遺跡の分銅は弥生前、中期の物ですよ。今のところ国内最古です。
水銀朱の付着していた物もあり、水銀朱の計測に使った物と見られてますよ。
つまり紀元前時点で中国人と交易していた事は
確定していますよ、近くで貨泉も出土してますから。<
付近の曽根遺跡の「貨銭」は、当然、
倭國東征で出来た「倭國の地方の市」での交易にも使われているんであり、
だから、亀井遺跡の分銅も、同じように倭國の地方の市で使われていたのだ、
という可能性が高い事になる。 >>968
>「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
無茶苦茶なところに読点つけてるな。
意味を理解できてるの?w 0973日本@名無史さん2018/01/30(火) 10:37:50.46
>>855
>まぁはっきり言ってしまうと九州説の可能性は現時点でもうないですよ。<
まぁ、はっきり言ってしまうと、孝霊は、皇国史観に狂った権力学者の、
「南→東の嘘つき騙しの大和説」を妄信隷従した・・・・アホですよ。
>倭人伝における邪馬台国は畿内、河内湖から矢田丘陵、馬見丘陵から奈良盆地南部に
かけてですね。 それ以外の可能性はもうかなり低い、女王国は
瀬戸内海の国々でしょう。<
「南≠東」ですから、全部×です。 畿内説では、
・北部九州で陸行する理由
・伊都国に駐する理由
はどう考えてるの?
0975日本@名無史さん2018/01/30(火) 11:05:02.17
>>858
>箸墓か、那珂八幡や津古生掛や原口の後での「形状の模倣」だとか
どこのトンデモ屋さんが言ってるの? 少なくとも、学者じゃないよね <
撥型的形状。 0976日本@名無史さん2018/01/30(火) 11:42:51.34
>>865
>貨泉は亀井遺跡に隣接した同時期遺
跡ですよ。 加美遺跡には朱を使った二重木棺に大規模な方形周溝墓等、
この時期既に半島経由で交易があった事を 否定するものはありません。<
筑紫倭國の東征と、その結果の「市」での交易で、説明が付いてしまいます。 0977日本@名無史さん2018/01/30(火) 11:45:39.56
>>868
>九州脳では貨泉や二重木棺も九州発祥なんだよw<
いや、筑紫倭国の東征と、それに拠って各地に造られた「市」の存在で、
説明が付いてしまう。 0978日本@名無史さん2018/01/30(火) 11:52:00.42
説明で頷くのは朝鮮部落民だけ
0979日本@名無史さん2018/01/30(火) 12:02:18.35
>>871
>弥生中期の時点で河内に朱を用いた二重木棺に 貨泉、計量する分銅。
更に奈良盆地奥には水銀朱精製跡も沢山確認出来てるわけですからね。
おまけに信貴山と葛城地区では多鈕細文鏡まで 確認済ですから。<
全部、筑紫倭國の東征と、倭國の地方の市の存在で説明が付いてしまう事ばかり。
>この時点で畿内はある程度まとまった集団が 大陸方面と交易していたのは確実ですよ。
現実を否定するのはダメですね。<
実際、欠史八代の頃は、大和盆地内ですら不統一状態であったんだから、
河内と大和は、別の「市」の国であったのであり、
河内や近江が、纏向政権下にあった、という妄想をする方がアホ。
>河内と奈良盆地は旧地名の シキという地名で共通性もありますからね。<
類似地名など、日本中に一杯あったんだから、
そんなものは根拠にはならないよ。 全て願望のみで反論の体になってませんよ。
年代も全く考慮されてませんし、何より
二重木棺に貨泉は九州発祥ですらありません。
さすがにもはや畿内説憎しで錯乱してるとしか。
>>974
北部九州のやや内陸部に伊都があるから
当然陸行は必要です。
また半島や大陸に行くには当然港は
必要ですよ、海や天候の良い状態まで
留まる場所は必要です。また
そこが先行して栄えるのは当然ですよ。 0982日本@名無史さん2018/01/30(火) 12:33:15.35
邪馬台国大和説でいいよ。
他の畿内を巻き込まないでね。
0983日本@名無史さん2018/01/30(火) 12:40:42.73
他の畿内を巻き込まないでねと言ってる奴は
他の畿内を巻き込むなよ
0985subo2018/01/30(火) 13:04:21.55
>.981
孝霊厨は末蘆国から伊都国の5百里は何キロだと思ってるんだ?(正直に言え
正直に言って里数解釈はあまり意味はないと
思いますね。
九州説の人達と解釈は大差ないですから。
伊都は大宰府辺りにあり、諸国への港が海岸線にもあると解釈してます。
それに基本的に国境線は常に移動していると
認識しています。
0987日本@名無史さん2018/01/30(火) 16:43:19.13
>>904
>出発の「南」と、到着の「至投馬國」の間に、
途中移動説明文言が存在していないから、魏使らは移動しておらず、とするなら
少なくても魏志の中に他にそういう使われ方が明確にされている箇所を示さなければ
ただ適当に思いついたデタラメを言っているのと変わらない <
例えば、
「東南陸行五百里到伊都國」は、「東南す」が出発、「陸行五百里」が途中移動、
「到伊都國」が到着。
「東南至奴國」は、「東南」が方向指示、途中はなく(だから魏使らは通っておらず)、
「至奴國」が到着。
「東行至不彌國」は、「東す」が出発、「行く」が途中移動、
「至不彌國」が到着。 0989日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:33:44.87
>>920
>丸木舟の発見例おおよそ200例のうち 関東地方が最も多く150例近く
次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、
福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく<
そりゃ面白いデータだね。
丸木舟は、やはり南洋系縄文なんだろうから、
関東は、伊豆七島との関連もあり、
東テイ人や、侏儒國と、同じく南洋系縄文であった可能性がある、
という事であり、
琵琶湖や福井は、越という国名や大漢國という国名もあって、
中国の呉の南の「越」の海人部族の渡来があった?という事にもなりそう。 0990日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:42:55.89
>>932
>途中はもう味方の土地だよって 途中は倭国に入ってないんだろw<
九州倭人の東征の最初は、
「国生み神話」の日本海側と瀬戸内の両方向であり、
その後で、五瀬命や神武らの東征があり、
その更に後で、卑弥呼の姫氏の東征もあった、という事。 0991日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:49:39.76
>>935
>宗像が別だから東征できないんだよ<
陶ケンの宗像は、元は縄文出雲の支配地であり、
「国ゆずり」に拠って、天孫族系に支配地になった。
>沖ノ島祭祀はヤマト主導 <
だから、沖ノ島祭祀は、筑紫の天孫族の主導であり、
大和は、継体の反乱で糟屋を手に入れたから、その後、参加しただけ。 0992日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:00:31.30
筑紫には自然崇拝の遺構はない
0993日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:15:23.32
>>938
>糸島はまず出雲に支配されたんだよ <
縄文の西日本の盟主であった出雲は、
No.2であった天孫族に「国ゆずり」をして、盟主の座は失ったが、
梁代までは「文身國」として、半独立的な国として存続していたらしい。
>庄内期から博多沿岸で畿内の影響が強くなる<
これは×ね。
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江で大敗した本家の倭國を併合吸収継承して、初めて西日本の盟主になれた。
従って、それまでは、大和が倭国の影響を受け続けた。 0994日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:19:19.13
皇国史観ではどうしても記紀を根拠にする
0995日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:19:20.53
>>951
>筑紫は3世紀くらいから倭国の従属国だよ <
これは、×ね。
筑紫が倭国の中心であった。 0996日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:23:21.74
筑紫が倭国の中心という言い方で隠しているが
筑紫に植民したと言ってるから、まず筑紫を征服したという願望なんだよな
筑紫を征服できる勢力って具体的にどこ?
筑紫=伊都+奴国+甕棺墓分布地域
(銅矛を始めとして、筑紫王の下に文化的に同一)
これを征服できる勢力を具体的に考古学的遺跡名で挙げて味噌。
0998日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:33:14.16
>>972
>>「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
>無茶苦茶なところに読点つけてるな。 意味を理解できてるの?w
>誤読だね <
この男らも、漢籍の書棚の天誅と同じ間違いをしているらしいな。
「王遣使詣京都、帶方郡諸韓國及郡使倭國・・・」としたら、
「帶方郡」と「郡」が重複することになる、という矛盾が発生する、
という事が判らんアホであるらしい。 0999日本@名無史さん2018/01/30(火) 18:35:44.10
いや、その卵棺朝鮮ポコが植民したと言ってるのだろ
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