「誰であれ君の親父(思悼世子)を王として追崇するなら、この国従事の逆賊だ。これが君と私の義理だ」〔英祖(ヨンジョ)〕
「肝に銘じます」〔正祖(チョンジョ)〕
「今日から君の親父の名前を口にするな。痛恨は痛恨で、義理は義理だ」(営祖)
思悼世子の悲劇的な死を扱った映画『思悼(サド)』に出る台詞だ。映画『思悼』には、とりわけ「義理」という言葉が多く登場する。この対話は臨終を控えた英祖が王位を継続する世孫・正祖に頼む場面だ。英・正祖時代は言葉通りに「義理で生き、義理で死ぬ」時代だった。「義理」は300年前の政治を理解するキーワードだ。
(1)思悼世子の悲劇を呼んだ辛壬義理=19代王である粛宗が死亡したごろ、1700年代の朝鮮朝廷は跡継ぎ(景宗)を支持する少論(ソロン)と弟であるヨニングン(英祖)を支持する老論(ノロン)に分かれた。
辛任義理とは、1721年(新丑年)〜1722年(壬寅年)に景宗の代わりにヨニングンを支持して困難を強いられた老論側の義理を呼ぶ言葉だ。
老論は景宗にヨニングンを王位継承者である王世弟として冊封し、代理聴政まで任せなければならないと主張したが、領議政の金昌集(キム・チャンジプ)など数百人が死んで島流しされた。
そのおかげで英祖が即位すると、老論の世界になった。彼らは辛任義理を積極的に前面に出し、長期間にわたって「与党」の座を掌握した。
だが、英祖が思悼世子に代理清浄を任せながら状況が変わった。血気盛んな跡継ぎは老論の特殊な既得権を認めず、両側は尖鋭な対立をした。
思悼世子の本意とは関係なく、辛任義理に対する不正が父の英祖の王位正統性に対する挑戦のように受け止められ、父王が跡継ぎを米びつに閉じ込めて死なせた朝鮮王朝最大の悲劇を生んだ。
英祖は思悼世子の悲劇がもたらす禍根を除去しようと思った。思悼世子を批判した臣下の行動を「大義」に評価し、これを1762年「壬午義理」と規定した。映画『思悼』のように世孫である正祖にも今後、壬午年の悲劇については口にしないように呼びかけた。
「壬午年に大義を明らかにしなかったなら、倫理がその時から廃止されただろう。そうでなかったら、どのように今日私がいただろうし、世孫にとってもどのように今日があっただろうか」(『英祖実録』)
2つの「義理」は英祖時代の「ドクトリン」だった。王位を受け継ぐためには辛任義理と壬午義理を受け入れなければならなかった。
(2)正祖の反撃、壬午義理=約束はそのまま守られなかった。1792年(正祖16年)嶺南(ヨンナム)儒者1万57人が連名して思悼世子の悔しい死と謀略を解明してほしいと上訴を上げた。いわゆる「嶺南万人疏」事件だ。
正祖は時を待っていたかのように封印を解除した。思悼世子を荘祖に追尊し、京畿道華城(キョンギド・ファソン)の髣ヒ(ユンヌン)に思悼世子の墓地を作るなど、父の政治的復権に出た。
壬午義理も覆して修正本を提示した。英祖の意思とは反対に、思悼世子を保護しようと努めてきた少論と南人(ナムイン)側を「本当の」義理として包装したわけだ。「辛任義理を認めて老論の地位に触れないから、私の壬午義理も認めよ」というのが正祖のメッセージだった。
正祖は老論側を相手に報復はしなかったが、思悼世子を窮地に追い詰めた老論側は萎縮するほかはならなかった。
正祖の義理論も結局は悲劇で幕を下ろした。正祖が死ぬと老論は壬午義理の修正に関わった勢力を弾圧し、この過程で党派が共倒れすることで勢道政治が始まった。
(3)親朴系の義理論、その行方は?=最近、自由韓国党で朴槿恵(パク・クネ)前大統領に対する「義理」を論じる議員が多い。洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表が朴槿恵前大統領に対する自主離党を推進してからだ。
親朴系の金鎮太(キム・ジンテ)議員は「このように義理もなく、非情な党には未来がない」とソーシャルメディアに書き込んだ。崔ギョン煥(チェ・ギョンファン)議員は朴前大統領の党除名推進を「政治的に非人間的な行為であり裏切り行為」と規定した。
http://japanese.joins.com/article/678/234678.html
(>>2以降に続く)
「肝に銘じます」〔正祖(チョンジョ)〕
「今日から君の親父の名前を口にするな。痛恨は痛恨で、義理は義理だ」(営祖)
思悼世子の悲劇的な死を扱った映画『思悼(サド)』に出る台詞だ。映画『思悼』には、とりわけ「義理」という言葉が多く登場する。この対話は臨終を控えた英祖が王位を継続する世孫・正祖に頼む場面だ。英・正祖時代は言葉通りに「義理で生き、義理で死ぬ」時代だった。「義理」は300年前の政治を理解するキーワードだ。
(1)思悼世子の悲劇を呼んだ辛壬義理=19代王である粛宗が死亡したごろ、1700年代の朝鮮朝廷は跡継ぎ(景宗)を支持する少論(ソロン)と弟であるヨニングン(英祖)を支持する老論(ノロン)に分かれた。
辛任義理とは、1721年(新丑年)〜1722年(壬寅年)に景宗の代わりにヨニングンを支持して困難を強いられた老論側の義理を呼ぶ言葉だ。
老論は景宗にヨニングンを王位継承者である王世弟として冊封し、代理聴政まで任せなければならないと主張したが、領議政の金昌集(キム・チャンジプ)など数百人が死んで島流しされた。
そのおかげで英祖が即位すると、老論の世界になった。彼らは辛任義理を積極的に前面に出し、長期間にわたって「与党」の座を掌握した。
だが、英祖が思悼世子に代理清浄を任せながら状況が変わった。血気盛んな跡継ぎは老論の特殊な既得権を認めず、両側は尖鋭な対立をした。
思悼世子の本意とは関係なく、辛任義理に対する不正が父の英祖の王位正統性に対する挑戦のように受け止められ、父王が跡継ぎを米びつに閉じ込めて死なせた朝鮮王朝最大の悲劇を生んだ。
英祖は思悼世子の悲劇がもたらす禍根を除去しようと思った。思悼世子を批判した臣下の行動を「大義」に評価し、これを1762年「壬午義理」と規定した。映画『思悼』のように世孫である正祖にも今後、壬午年の悲劇については口にしないように呼びかけた。
「壬午年に大義を明らかにしなかったなら、倫理がその時から廃止されただろう。そうでなかったら、どのように今日私がいただろうし、世孫にとってもどのように今日があっただろうか」(『英祖実録』)
2つの「義理」は英祖時代の「ドクトリン」だった。王位を受け継ぐためには辛任義理と壬午義理を受け入れなければならなかった。
(2)正祖の反撃、壬午義理=約束はそのまま守られなかった。1792年(正祖16年)嶺南(ヨンナム)儒者1万57人が連名して思悼世子の悔しい死と謀略を解明してほしいと上訴を上げた。いわゆる「嶺南万人疏」事件だ。
正祖は時を待っていたかのように封印を解除した。思悼世子を荘祖に追尊し、京畿道華城(キョンギド・ファソン)の髣ヒ(ユンヌン)に思悼世子の墓地を作るなど、父の政治的復権に出た。
壬午義理も覆して修正本を提示した。英祖の意思とは反対に、思悼世子を保護しようと努めてきた少論と南人(ナムイン)側を「本当の」義理として包装したわけだ。「辛任義理を認めて老論の地位に触れないから、私の壬午義理も認めよ」というのが正祖のメッセージだった。
正祖は老論側を相手に報復はしなかったが、思悼世子を窮地に追い詰めた老論側は萎縮するほかはならなかった。
正祖の義理論も結局は悲劇で幕を下ろした。正祖が死ぬと老論は壬午義理の修正に関わった勢力を弾圧し、この過程で党派が共倒れすることで勢道政治が始まった。
(3)親朴系の義理論、その行方は?=最近、自由韓国党で朴槿恵(パク・クネ)前大統領に対する「義理」を論じる議員が多い。洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表が朴槿恵前大統領に対する自主離党を推進してからだ。
親朴系の金鎮太(キム・ジンテ)議員は「このように義理もなく、非情な党には未来がない」とソーシャルメディアに書き込んだ。崔ギョン煥(チェ・ギョンファン)議員は朴前大統領の党除名推進を「政治的に非人間的な行為であり裏切り行為」と規定した。
http://japanese.joins.com/article/678/234678.html
(>>2以降に続く)