0001世界@名無史さん2015/08/28(金) 10:31:39.750
ギボンにもイスラム教成立までの繋ぎ扱い
資料が少ない
華のあるビザンツ帝国のほうが面白い
と苦難だらけの西ローマ帝国を語ろう!
Wikipediaから一覧
395年 - 423年 ホノリウス(西ローマ初代・テオドシウス朝第2代)
423年 - 455年 ウァレンティニアヌス3世(テオドシウス朝最後)
455年 - 455年 ペトロニウス・マクシムス(テオドシウス朝断絶後の初代)
475年 - 476年 ロムルス・アウグストゥルス(最後)
474年 - 480年 ユリウス・ネポス(事実上最後)
0218世界@名無史さん2020/09/04(金) 18:52:48.260
西ローマ帝国が穀倉地帯である北アフリカを失わなかったら、
もう少し延命できたのかな
東ローマ帝国はエジプト・シリアを領有し続けていたから存続できた
0219世界@名無史さん2020/09/06(日) 19:13:43.720
食料を属州から輸入してイタリアの農地が荒廃→自作農衰退→ローマ軍兵力の蛮族依存高まる
というふうにローマが衰退していったのなら、
むしろ属州からの食糧供給が無くなって逆コースでローマ帝国が活力を取り戻してもよさそうな。
>>219
イタリア半島では五賢帝の時代から産業の空洞化が始まっていたから無理だったのでは
そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていた ゲルマン人みたいな野蛮な人種が文明の最先端を行っていてかつ強力な重装歩兵による兵隊を持っていたローマによく勝てたよな
ガリアだかゲルマンだったか忘れたけど、
撤退したローマ兵が置いてった攻城兵器を持ち帰って改良して
1年後の侵攻で逆にローマ兵に向けて使ってきたという話が好き
まあ西ローマ関係ないか
後期ローマ帝国時代になると、黒海の北岸にいたゴート人が航海術を学んで
海に乗り出し、240年頃からボスフォラス・ダーダネルス両海峡をこえて、
エーゲ海へと侵入してきた
蛮族も技術的に進歩している
黒海の北岸にいたゴート人はサルマタイを模倣して
騎兵を主力にすると航海術が廃れてしまった
フン族に襲われたゴート人は船で逃げなかった
ゴート人は船で小アジアへ移住しなかった
ゴート人が航海術を失ったので
東ローマではなく西ローマが滅亡する事になった
0225世界@名無史さん2020/09/07(月) 18:53:25.940
375年にドナウ川を渡った西ゴート人は、378年にはアドリアノープルの戦いで
東皇帝ウァレンスを敗死させた
そのあと東皇帝となったテオドシウス1世は西ゴート人をおさえ、ローマ帝国の
「同盟者」としてトラキア地方に定住させた
ヒトラーがいうアーリア人とゲルマン人というのは違うみたいね
0227世界@名無史さん2020/09/08(火) 05:26:19.960
ローマ人は、蛮族が、現実には変わっていったのに、変わらないままであると考えたがった
4世紀までに、ゲルマン人は以前より少数の、より大きな部族に組織されていた
農業の集約化は、人口の増加と経済の成長をいやがうえにも促進した
ゲルマン社会は政治的な集権化と社会的な階層分化をおしすすめ、
比較的安定した王朝と「生成さなかの貴族層」のような戦士中のエリートを出現させた
そして部族民に対して行使される強制権が拡大し、それにより戦闘に際して行使されうる
指揮権と統制権も増大したらしい
ゲルマン人はより大規模なものとなり、よりよく装備され、騎兵と弓兵の数も増加した
しかしローマ人はこれらの現実を認めようとしなかった
ローマ人の間では「蛮族には建築技術が無い」という蔑視も長らく受け継がれ、
419年に至っても東西ローマ帝国で「蛮族に造船技術を教えた者は死罪に処す」という
意味のない勅令が下るという事態になっている。
既に一五〇年以上に渡って諸々の蛮族が海賊行為を繰り返しているのに、である。
ゲルマニアという今のドイツ地方の辺りは鬱蒼とした密林でこれといった産業もなく、またそこに住んでるのは蛮族のゲルマン人ということでローマとしては統治することに全く魅力を感じなかった。
ローマはゲルマニアには侵攻することなく放置した。
千年後にモンゴルが東からヨーロッパに侵攻して圧勝を重ねるもあと一歩のところでクリルタイとなりウィーンを目の前にして退却した。
クリルタイ後にもう一度ヨーロッパに侵攻して瞬く間にポーランドを占有するもそれ以西の深い森に覆われた中央ヨーロッパには興味を示すことがなかった。
ケルト人やダキア人は敵に攻められると城塞に籠城したけど
城塞を築かないゲルマン人は森林や沼沢地で抵抗したので
城攻めが出来ないのでローマはゲルマニア征服を諦めた
中世のドイツ人は石や焼き煉瓦で城塞を築くようになったので
モンゴル軍は征服を諦めて撤退した
当時のロシア東欧の城壁はまだ木製だったので易々と陥落した
東西のローマ帝国はしばしば敵対関係にあり、ギリシアを含むイリュリクム道が
両帝国の対立の焦点となることもあった
0232世界@名無史さん2020/09/10(木) 22:35:42.200
ローマ帝国が東西に分かれても
防衛正面が多くなるだけコスト的に不利か
ローマ帝国を東西に分けるとドナウ軍団が分割されてしまう
ローマ帝国の東西分割はオクタウィアヌスとアントニウスの東西分割に
由来しており当時はドナウ地方はまだローマ領ではなかった
ローマ帝国はガリアとドナウとオリエントの3分割にすると
効率良く防衛する事が出来る
0234世界@名無史さん2020/09/11(金) 19:11:29.750
当初は東西の皇帝は協調路線をとり、「東」は相対的に弱体な「西」に多くの
支援を行った
しかし北アフリカを占領したヴァンダル人に対する大規模な軍事作戦が
468年に無惨に失敗したあとは「東」も西方に対して精力的な介入を行う
余力を失った
この間に「西」の宮廷では、異民族出自の有力な軍人が傀儡皇帝を擁立して
実権を握る事態が常態化していた
ローマ帝国の統一を維持し続ける唯一の方法は
アウグストゥスの計画通りにエルベ河を国境にして
ライン軍団とドナウ軍団をエルベ・ドナウ軍団に統合する他ない
0236世界@名無史さん2020/09/17(木) 17:46:47.730
ハドリアノポリスの戦いで、ローマ皇帝ウァレンスは
ゴート軍を包囲しようとして失敗した
包囲殲滅戦って、そんなに難しいことなの?
ゴート軍は複数の部族に分かれていたから各個撃破すべき
いずれかの部族をローマ側に寝返らせれば良かった
ローマ帝国を東西に分割したのは
ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟
コンスタンティヌス1世は3人の息子達に
ガリアとイタリアとオリエントを分け与えた
テオドシオス法典の発布後、実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に
分裂を始めた
現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でも
コンスタンティノープルの法が実施されなくなった
0240世界@名無史さん2020/09/25(金) 11:10:40.110
西ローマ帝国が生き延びるには、東ローマ帝国のような皇帝の専制政治にして、
蛮族出身の武官たちによる一元的な「武官政治体制」を構築するしかなかったのでは。
>>239
テオドシウス法典は、西方でも実施されている
やがてゲルマン法と融合していった
法の分裂をいつのころに置くのかは難しいが、ユスティニアヌス法典は、東ゴート滅亡後の
イイタリア半島では適用されていたが、それ以外の西方では適用されていない
イタリア半島でもやがてユスティニアヌス法典は利用されなくなったが
その時期の特定についても議論がある
最終的にランゴバルト法の適用が広まったため、以前はランゴバルド法典出現とともに
ローマ法は利用されなくなったと思われていたが、現在ではそのように単純には思われていない その千年は一神教のイスラムで科学が凄い進歩しとるで
一方、多神教だった日本では・・・
イタリア人はローマ攻められてる時
何してたんだよ
人口も国力も増えてるから共和制ローマ以上の
兵力と力発揮できただろ
> イタリア人はローマ攻められてる時
> 何してたんだよ
> 人口も国力も増えてるから共和制ローマ以上の
> 兵力と力発揮できただろ
ずっと前から人口は減少傾向
加えて貧富の差が深刻化したせいで、貧乏なローマ人は自らローマ略奪に加わったり地方で一揆を起こしたりしてる
0248世界@名無史さん2021/05/09(日) 19:29:01.700
分裂せんかったらよかった
分裂はローマ帝国の常
そして分裂した地方の一つ一つが一つのローマ帝国
古典的な古代ローマ史家は分裂ではなく、ローマ帝国からのギリシアの独立と呼んでた。
>>234
日本で喩えると徳川家康が皇位継承に口出ししてたようなものか >>238
たわけ者ということね。
地面を分割相続すると、宗家も分家も倒れてしまうという >>252
日本で例えると
朝廷が元老院
幕府が皇帝
大名がゲルマン人の将軍 >>254
徳川が大名埒外のような言いようだけれど…… 大名の盟主が徳川家なように皇帝も将軍の一人なのでだいたいあってる
皇帝は地方ごとに何人かいるが、征夷大将軍は1人しかいない
従四位下の征夷大将軍の上に
従三位の近衛大将が左右二席あるよ?
そりゃまぁ、異なる時代の異なる文化圏の異なる制度を例えに使ってるんだから違う所はたくさんあるわな
>>262
> 官職には叙任に必要な官位があるんだが
ある程度の相関はあるが根本的にそれらは別物 官職と位階ごっちゃになってる人は「官位相当制」あたりで検索すると幸せになれるかも
慶長期に西園寺実益よりも徳川家康が上席で相対したのは、近衛右大将よりも征夷大将軍が上位だからではなくて、
西園寺実益が正三位右近衛大将、徳川家康が正二位内大臣の立場で相対したから。
ローマ市民というのは清の満洲旗人のようなものだったんだろうな
最初は兵として強かったがそのうち堕落して弱くなる
清国ではホンタイジ皇帝・ドルゴン摂政の初期はともかく、順治帝が親政を始めてからは従軍したからって旗人にはなれなったろ。
ローマだと、解放奴隷や外国出生者も25年間従軍するか、従軍中に著しい戦功あれば、田畑付の家貰って晴れてローマ市民だ。