邪馬台国畿内説 Part397
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541475577/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 後円部墳丘が造られた後に前方部墳丘が造られた発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
孰れも、丘尾切断・基壇部削出→円丘造成・墓壙構築→前方部完成などの施工順
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
https://i.imgur.com/MRmSyqP.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84−1
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
(この項、続く) (続き)
◆FAQ 84−2
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 23に加筆 184日本@名無史さん2018/11/08(木) 08:02:21.61
荒らし行為は禁止します。。。 183日本@名無史さん2018/11/08(木) 08:01:59.43
荒らし行為は禁止します。。。 182日本@名無史さん2018/11/08(木) 08:00:47.39
荒らし行為は禁止します。。。 タウポ火山の大噴火は181年である。
※金印が重要で 、「漢委奴国王」を初代天皇として数えていたとすると年代が合う。
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦181年 ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 (『後漢書』)
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 (『後漢書』)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。(『新羅本記』)
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から宗教色の強い大和に移る。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。
西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
・西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
・西暦57年 倭人の脱解尼師今が新羅の王になった。(『新羅本記』)
『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
そして昔氏の始祖は、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。
※「漢委奴国王」を 初代天皇として数えていたとすると『新撰姓氏録』と『新羅本記』の記述が一致する。 前方後円墳は、もともとは円墳部分のみが墓である。
前方部分は陸橋(祭祀スペース)が進化したものである。
箸墓も円墳部分の大きさは、径百余歩と一致する。
やはり箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高い 。
https://i.imgur.com/dmUorAj.png
https://i.imgur.com/WgmofEq.jpg 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 >>98
>前方後円墳は、もともとは円墳部分のみが墓である。
だから、萩原墳丘墓が前方後円墳の元祖と、何度言えばw @阿波 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 >>104
>萩原墳丘墓はこれらの古墳を参考にして
>これらの古墳の後にできたものです。
「円形周溝墓」かね?
その「円形周溝墓」に先立つ「方形周溝墓」から倭国(阿波)の墓制なんだよ。
「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も全て在るのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 長江やら江南なんて提唱している頭の湧いた考古学者なんて一人もいないが何か?
いるなら出してみな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 >>416
>大和朝廷はそれほど非情な権力者だったからこそ、今まで続いているのである。
これが邪馬台国の痕跡を残してしまうような権力者だったら、とっくの昔に別の王家に乗っ取られて滅びていただろう<
何だか、箸墓を、卑弥呼の墓の上に壹與の墓を被せて隠した?、とかとの、
変な分裂幻覚の妄想のような事を言っている投稿子だが、
邪馬台国も大和朝廷もなかったからでも、×だよ。 >>420
>王都は京都
河内から日本海に及ぶ京都
奈良は墓地 狗奴国は紀伊半島か沿岸沿いの伊勢、知多半島<
「南≠東」に拠って、×。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 >>428
>もう邪馬台国の重要な痕跡はすべて大和朝廷の巨大古墳の地下に埋められてるんだから、
おまいらが下っ端の墓をいくら議論したところで、時間の無駄だよ。<
邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
墓の上に別人の墓を造って元の墓を消すなんて事も、古代人もする筈がないから、
いくら「独り言のような妄想」を投稿したところで、時間の無駄だよ。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 >>428
>もう邪馬台国の重要な痕跡はすべて大和朝廷の巨大古墳の地下に埋められてるんだから、
おまいらが下っ端の墓をいくら議論したところで、時間の無駄だよ。<
邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
墓の上に別人の墓を造って元の墓を消すなんて事も、古代人もする筈がないから、
いくら「独り言のような妄想」を投稿したところで、時間の無駄だよ。 >>435
>今月中旬には白石太一郎先生の「古墳の被葬者を推理する」って本が出版されるから各自図書館に注文しとくようにな
もちろん箸墓古墳も対象だぞ <
白石では、「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師である事が見え見えであり、
国民のためにもならず、害になるばかりであり、
嫌だ。 前スレ>988
>左端の標高を示す図(グラフ)では、標高差 36.5m
左側スロープ君の塚
https://i.imgur.com/hgPuwjG.jpg
箸墓
https://i.imgur.com/0P6GY0q.jpg
箸墓の左端の標高差を示す図(グラフ)を見てもらえば分かるが、
塚だったら上がって下がる様子が見えるんだよ
左側スロープ君のは、ただの平坦面から下がるだけ
>完全な塚だwww
完全なバカだろww >>971
>情報が少なすぎるから、「憶測、想像の隣」の程度の論証しかできないし
情報は少ないが、皆無ではない。
キナイコシは文献を無視しすぎる。
それは史学ではない。 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 白石太一郎氏という謎の無名作家が、推理小説を発行しようとしているようだが、売上金が少ないと、発行機関の商業が危険になるのではないのかな。。。 >>134
>塚だったら上がって下がる様子が見えるんだよ
左側スロープ君のは、ただの平坦面から下がるだけ
山の傾斜を利用してる塚なら一方が平たんに近くても構わない。
なにしろトヨ津媛やヒメ(蹈鞴五十鈴)が住んだ葛城である。
下人の土地である箸バカ古墳支持者の君は黙るように。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>132
立ち読みで充分。
大したことは書いてない。 阿波には優秀な土建屋集団がいたようだね
>「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も全て在るのは倭国(阿波)だけ。 まー土蜘蛛塚の方が奥まった方にあるって事は大した身分の人じゃ無いな >>143
場所が神々のいる高天原という事なので通常の古墳とは比較できない。
美人とブスを比較したらブスが可哀想だろ。
特に箸墓のような大ブスはw >>144
>阿波には優秀な土建屋集団がいたようだね
倭国(阿波)の「青石積み」が基本技術だね。
不思議なことに、「庄・蔵本遺跡」周辺には多種多様の墓制墓がある。 @阿波 >>149
神武の高尾張邑伝承。
箸墓には何もない。 I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
邪馬台国は葛城である。 事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
邪馬台国は葛城である。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 九州キチガイの後は葛城キチガイか
色とりどりのキチガイが湧いて出てきて飽きないな 葛城ションベン爺 孤軍奮闘 ストレス溜まりすぎ 死ぬぞ トンデモの毎度の思考回路だな
少しでもネタがあると他の全ても無理やりこじつけてあらゆるものの根源とか言い出す
低能にふさわしいアホさだな >>148
>不思議なことに、「庄・蔵本遺跡」周辺には多種多様の墓制墓がある。
さすが土建屋なので見本市があったんだね 纏向遺蹟が、邪馬台国だと考えてしまった、頭の悪い老人たちのことではないのかな。。。
160日本@名無史さん2018/11/08(木) 12:46:48.12
トンデモの毎度の思考回路だな
少しでもネタがあると他の全ても無理やりこじつけてあらゆるものの根源とか言い出す
低能にふさわしいアホさだな >>162
だが、纏向遺蹟には、ネタは全くないのでは、無かったのではないのかな、、、 >>163
畿内馬具や、馬が通行した痕の存在する、古墳はどうだろうか、、、 ただの品部を氏族としての忌部と勘違いして
「すげー!日本全国に分布してる!これは日本の支配者に間違いない!」
とかバカ丸出しのこと喚き続ける阿波バカとかな
そもそも本貫が橿原市周辺なのにな
バカはこれだから >>164
箸墓古墳という天皇の娘の墓は、4世紀の終わる頃に、製作されたのだし、第一、畿内説の宣伝係のキナイコシが、卑弥呼は天皇の娘ではないと発表したのではなかったのかな。。。 うわーテンプレ貼り始めたよ
本格的に乗っ取る気だな >>164
魏使が来たとき
馬は連れてきてるだろうね。 >>163
>だが、纏向遺蹟には、ネタは全くないのでは、無かったのではないのかな、、、
だから、ネタに事欠かないのは、倭国(阿波)だけ と、何度言えばw @阿波
トンデモ諸君 どこからでもいらっしゃい。
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波 神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 >>171
では、沼地があったことは、どうだろうか、、、 月極駐車場を月極さんとか言う人が仕切ってると思ってた子供の頃の友達思い出したわw
阿波バカはその程度のアホ >>174
沼があっても、あまり邪馬台国とは関係が無いな。。。 桃は、生産するためには、どのような大地に適した樹木なのだろうか。。。 例えばAとBのものがあって、その間にAからBに変化する過程のものがある
その過程を踏まえて他の物とも組み合わせて重層的に配置して年代や文化の伝播、発展などを構築していくわけだ
こういう過程を全部無視して突然全ての物がある一点から始まったとか、全ての根源だったとか言い出す
これが珍説バカの珍説バカたる由縁
本人たちはそういう過程を一切知らない無知低能の人間だから脳内の妄想を喚くだけと
会話しても無駄だとよく分かる 馬を育てるためには、どのような餌を与える必要が、あるのだろうか。。。 畿内説が完全に破綻してしまったのだから、馬の育て方や、桃の育て方を研究するスレッドに、変換すれば良いのではないのかな。。。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>181
邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、今後は、空想科学小説として扱われるので、掲示板を変換すれば良いな、、、
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/l50 こういう荒らしの存在で、広く人々は九州説が完全に死んだことを知る >>158
いや大丈夫。
相手はただ喚き散らすだけの雑魚。
それより前スレの終わりの頃に。
「(邪馬台国は)大和朝廷発祥地の葛城であるのは当たり前だろ」と言ってくれる人がいた。
俺の自作自演ではないぞ。
賛同者が増えてきている。
一方箸バカ古墳は支持者激減、とうとう寺沢さんまで逃げる始末w 庄内式も吉備の技法と大和の技法が合わさって河内で誕生したのが分かってる
阿波は元々大和のX式土器の伝播先で阿波から何かが伝わってるわけではない
前方後円墳も吉備→播磨、讃岐、阿波という過程で形が作られている
順序的には播磨、讃岐が先行してる
初期の纏向型は葺石をしない等の独自点もあるからそのストレートな流れで来たわけでもないと言われている
だけどバカは全部阿波が起源だとか喚くと
その根拠がずっと後の品部の分布と来たもんだ
これが珍説 で、この流れと同様の理由で九州説とかいう物が成り立たないのが分かる
庄内の誕生と伝播の動き
前方後円墳の成立の動き
ここに九州など微塵も絡んでない
一方的に受け入れてるだけの場所
それも卑弥呼の時代に
でも九州説は全ての起源が九州だとか喚き散らして九州に邪馬台国があったとかのたうち回る
これが珍説の珍説たる由縁 珍説というのは、
物部の伝承があり、
前方後円墳の発祥地であり物部の祖地である瀬戸内の要素が色濃くあるにもかかわらず、
物部の墓や遺跡とは見なさず、
纏向に卑弥呼がいた、箸墓古墳が卑弥呼墓だと言う奇妙な説、
これが本当の珍説。 鏡についても既に完形鏡を出土させない九州に漢鏡の中心地など存在しない
この時期の漢鏡の完形鏡はむしろ吉備や近畿北部で現れる
鏡文化とやらの流れは九州ではなくこちらの方にあると考えるのが自然
そもそも近畿では既に独自の小型鏡を作成配布しているので九州の存在など何の影響も与えてない 物部氏の影響が強く出るのは布留式以降の話
邪馬台国が大和に成立してその中枢にいる豪族の存在感が色濃くなってから
4世紀〜5世紀以降
物部氏の本拠地の布留遺跡を見るとその時期に発展がみられる >>191
播磨の物部 筑紫の物部(複数) 讃岐三野物部
双方中円墳
赤穂・有年原田中→吉備・楯築遺跡→纏向・櫛山古墳(崇神の近縁者) 物部氏にの本拠地は古墳時代初期にはまだ集落としての規模はそこまでではない
王権が強大化してその主要構成員としての存在感が大きくなってから成長していく
半島系土器や鍛冶の痕跡が見つかり武器生産をしていたことが分かる
史書にある通り朝廷の武器保管を担当していたことが分かる ほらな?
後の時代の氏族や品部の分布と混同して何でもかんでも結び付けて起源とか言い出すだろ?
これが珍説だよ
みんなもよく見ておくように 纏向はニギハヤヒの奥津城
ここで神武に屈した
金鵄伝説の場所は桜井市外山(とび) >>193
それがなんで物部の祖地が瀬戸内だという理由になるんだ? 特殊器台は吉備から出てきた物
播磨には吉備式の物は出てこないが吉備の影響を受けて出たと思われる大型器台は出てくる
播磨から吉備に何か影響を与えていると言う状況にはない
そもそも円形周溝墓は吉備にはあまり出てこない >>199
瀬戸内ではないか。
沖縄に見えるのか? 敏達天皇の皇居は百済大井宮
舒明天皇の皇居は百済宮
百済に住んでいた
つまり百済の王子が倭国に人質として来ていたように、
倭の王子も交換人質として百済に行っていたってわけだよ
「百済宮」って書いてあるのに無理矢理日本の地名に当てはめようとする旧来の解釈は意味がわからないわな
普通に考えて、同盟の条件として百済が王子を人質に出すなら、倭国も同じことをするだろう 庄内式も吉備と大和の土器の技法を受けて河内で出来て大和で作られるようになった後に播磨から播磨式の物が出てくる形
吉備の影響が港の河内に集積して大和と結合した後に周囲に拡散する様子が見える 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. そうだな、纏向は本当に吉備の影響が強いね。
つまりヒミコなどいないという事だね。 葛城氏も物部氏も重要な氏族だけど珍説はちゃんとその実像を調べようとしないで思い込みで日本の支配者だったとか言う妄想を叫ぶだけ
何でもかんでも結び付けて壮大な「俺だけが見抜いた日本の真実」とやらを信じ込むようになると 葛城氏が日本の支配者だったとか誰か言ってるのかな?
葛城にいた鴨族、
事代主神や鴨王(おおきみ)こと天日方奇日方がいる王族の話しだったのだがな。
神と王がいるのなら王権だろ。
その神の娘ヒメと神武が結婚する。
そして神武が先立つ。
残ったヒメは「歳すでに長大 夫はない」という状況だ。
7世紀にヒメは蹈鞴や五十鈴を付け加えられ媛蹈鞴五十鈴姫とされ、
新称号の皇后に格下げさせられた。 なんか文章が無駄に偉そうでしかも意味不明なところが九州バカにそっくりだな
九州バカから鞍替えしたのかね
それともバカはみんな似たような感じになるのかな >文章が無駄に偉そうでしかも意味不明なところが九州バカにそっくりだな
>>208の事だね?w >>201
物部は瀬戸内以外にいないとか思ってる? >>162
>纏向遺蹟が、邪馬台国だと考えてしまった、頭の悪い老人たちのことではないのかな。。。
>
>160日本@名無史さん2018/11/08(木) 12:46:48.12
>トンデモの毎度の思考回路だな
>少しでもネタがあると他の全ても無理やりこじつけてあらゆるものの根源とか言い出す
>低能にふさわしいアホさだな
素晴らしい。 >>194
史書を無視した詭弁だね。
もともと畿内の支配的勢力は物部氏の祖であった饒速日のはず。 史書を鵜呑みにするだけなら卑弥呼は神功皇后で決まりだな
良かったな 自分の独自説の根拠がまた自分の独自説だという
葛城タマネギ頭 物部なんてな、所詮は部なんだよ
大王家の被官たちが擬制的同族を作った成り上がり者だ
だから伝説の古代人の子孫を名乗っただけさ >>217
で?
物部は瀬戸内以外にいないとか思ってる? >>218
ニギハヤヒは瀬戸内勢力を引き連れて大和入り。 >>219
防人集団だから山陰あたりにもいたかもね、それがどうした? 纏向は本当に吉備の影響が強いね。
つまりヒミコなどいないという事だね。
吉備とヒミコの関係を上手く説明してくれたなら話しも別だが、
ここの>>1あたりでは無理であろうw 相変わらず葛城ジーさんの言うことは何一つ根拠が出て来ないな >>224
吉備とヒミコの関係を?
全然説明されてない。
多分誰も理解できない。 >>227
爺の知能が低いから理解できないだけだな オリジナル説の多くは認知バイアスかかってるから正気に戻るのを待つしか無いんだ >>229
吉備とヒミコの関係の説明がスレタイのどこなのか明示せよ。
夜にまた見るから。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>233
「邪馬台国畿内説」という7文字の中の
どこに書いてあるかと聞かれても
こりゃ返答に窮するね まあ、共立された女王が、ナンバー2の大国と無縁と思う奴の脳は3g以上はとても有るまいがな 朝日遺跡の変遷は興味深い
紀元前後
木棺、玉作り勢力→銅鐸埋葬→日本海側と共通点が見られる勢力に変わったみたいだな
弥生末期、朝日遺跡の人々は何処に行ってしまったのか?
ヤマトに攻め込んだんじゃないのか?
アイチ、アユチ、アチ、アチメ、朝日
只の偶然なんだろうか? 銅剣分布圏って出雲と吉備だが両方とも様相が全然違うしその発展と衰退の時期も全然違う
しかも九州と別の祭器として展開してる
その上、銅剣祭祀が終わった後にも全く違う文化的過程をたどっている
双方を安易に結びつけるような状況は何もない
剣=武力=物部氏
とか言う事実を完全に無視した妄想だけで話をしてるのがよく分かる
これが珍説ですよ皆さん >>241
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、討論で、論破されたので、悪口を言い放ったて来たのではないのかな。。。
242日本@名無史さん2018/11/08(木) 16:52:25.23
>>241
破綻したのは連句点男の脳だけ >>243
破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、討論で、論破されたので、発狂し、逆恨みを抱いた可能性が高いのではないのかな。。。 >>241
畿内説は、完全に破綻し、テンプレートは論破されたので、スレッドでの討論の新しい議題が、必要だな。。。 >>245
神武天皇に捕獲され、神社の前に、大量に埋められた、土蜘蛛とは、何だったのかを討論すれば良いのではないのかな。。。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが、発狂して、意味の分からないことを呟き始めたな。。。
246日本@名無史さん2018/11/08(木) 17:00:15.50
ほら、効いてる効いてる連句点沸騰 >>247
そうだね、、、
だが、左側スロープを登って、土や石を運搬した、高句麗の馬がどうやって、日本に渡来したのかも、重要な議題ではないのかな。。。 >>250
日本国が、倭国に物々交換を申し込んだのではないのかな。。。。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>251
桃と馬を、交換した可能性が高いな。。。 >>247
しかし、今日は驚いたな。。。
小便男の話は、地元では有名な、史実だったことが、僕たちの現地調査で、判明したな。。。 椿井大塚山古墳(京都府 木津川市山城町)
墳丘は全長約175メートル、後円部は直径約110メートル・高さ20メートルで丘陵を断ち切る形で作られた関係上形が少し歪になっており、
前方部は長さ約80メートル・高さ約10メートルと推定されている。
前方部が撥(ばち)形に開き、濠が認められていない。水をたたえていない古墳は畿内では稀である。
古墳は山塊のなかに造営され、盛土も部分的におこなっている。
墳丘の大部分は自然地形の高まり、つまり、自然の山を利用しているので、一見、丘陵の一部のようである。
このような造り方は、最古級の古墳に多いという。3世紀築造と考えられる。
出土物
三角縁神獣鏡32面が出土。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、
漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土している。このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。 珍説は積み重ねられた情報を一切知りもしないで妄想だけでトンチンカンな結論出してそれを平気で叫ぶからな
自分が珍説サイト流し読みしかしたことない知識なの分かってるだろうにな
なんでこんなに自信満々なのか理解に苦しむ >>255
「椿井大塚山古墳」も「忌部はん」のお墓だと、何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>257
高すぎ自意識、低すぎ実力がトンデモの定番だから >文章が無駄に偉そうでしかも意味不明なところが九州バカにそっくりだな
>>206そのままだな。 >>262
なぜ、土蜘蛛の神社の地元住民は、地元を高天原だと誤認定してしまったのだろうか 鴨族は畿内を開拓した一族(三島溝杭耳)だが、後に饒速日を畿内の王(天神の子)として迎えたとある。
そこに居候する形で神武も転がり込んでくる。
そう記紀に明記してあるので、鴨厨(葛城厨)の言うことも半分は正しい。
しかしいずれの氏族も、卑弥呼とは関係ない。 >>262
現代の闇の勢力との関係性が、あるのではないのかな。。。 >>240
>剣=武力=物部氏
王都である筑紫に矛と鏡を持つ天孫族、出雲に剣を持つ出雲の国津神、瀬戸内から畿内に饒速日(後の物部)。
わかりやすいぞ。 >>264
>そこに居候する形で神武も転がり込んでくる。
そんなアホな。 辺鄙な奈良盆地なんぞへ行くわけないでしょ! @阿波 >>266
>王都である筑紫に
筑紫に王都? そんなアホな。 @阿波 >>478
畿内説スレが荒らされてれば、
「南→東」などもウソつき騙しの大和説が、
追い詰められてる感が出るだけだろ。 ほらな?
積み上げられてる事実を全部無視してこうやって妄想を平気で叫ぶ
何一つ知らないのになんでこんなに自信に満ち満ちているのやら
あー何も知らないから自分が恥かいてるの気が付かないのか
全裸が恥だと知らない奴は平気で裸で歩けるだろうしな
バカは無敵だなと毎度思う ほらな?
積み上げられてる史書を全部無視してこうやって妄想を平気で叫ぶ
何一つ知らないのになんでこんなに自信に満ち満ちているのやら
アホの>>1
アホのキナイコシ >>271
>神武は筑紫からの都落ちだよ。
今や貴重なガラパゴス説。 @阿波 >>271
>神武は筑紫からの都落ちだよ。
よりによって、辺鄙な奈良盆地へ行かずともよかろうにw @阿波 >>139
>山の傾斜を利用してる塚なら一方が平たんに近くても構わない。
トンデモ説の特徴
・自分ルールでオールオッケーにするww >>274
その通り
奈良盆地は辺境
そしてその奈良盆地の一番奥地である纏向に連合王国の中心があったとか無理がある >>151
>もう誰か葛城スレ立ててやれよw
あるよ、左側スロープ君が立てたスレが
「★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★」
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1524110756/
誰も書き込まない過疎スレだけどね >>222
纏向は筑紫や吉備の連合王国の東国進出の前線基地なだけだかやね 阿波バカと葛城バカと九州バカがお互いに同意レスつけあってて笑うw
珍説バカはやっぱり底辺同士波長が合うんだなw >>278
>纏向は筑紫や吉備の連合王国の東国進出の前線基地なだけだかやね
よりによって、辺鄙な奈良盆地へ行かずともよかろうにw @阿波 >>231
>それ、偽書
先代舊事本紀十巻本の方は、一定程度の史料価値を認めてあげて
特に国造本紀の辺りは意味がある
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/sendaikuji_top.htm
同じ「舊事本紀」と名前がついていても「舊事本紀大成経」は紛うことなき偽書だけど >>280
あの場所高見山地を東に抜ければ伊勢に出れる
東国へ進出する場合の前線基地には最適 ヒミコと吉備の関係について、
>>224
>もうシッカリ説明されてなくね?
>>234
>スレタイに書いてあると思う知能が極貧
どっちなのか、はっきりしろ。 西日本から朝鮮半島南部にかけての連合政権であった倭国において
中心は博多湾周辺である 剣は物部ではなく孝昭以下の尾張氏だよ
海部と吉備に別れる前の >>283
>>スレタイに書いてあると思う知能が極貧
>どっちなのか、はっきりしろ。
>>234は、>>233の
「吉備とヒミコの関係の説明が『スレタイ』のどこなのか明示せよ」をおちょくってるだけだよ
「スレタイ」じゃなくて「テンプレ」だろ?ww
テンプレの>>5-9だねw 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 土蜘蛛とはアイヌ語で何か特別な意味があるのではないかな、、、 >>287
なるほど。
どちらにしても、高天原から来て畿内を征服した饒速日の一族だということ。 特に蜘蛛は朱を知る虫だという言い伝えがあるな、、、 >>288
>テンプレの>>5-9だねw
読むのが面倒くさい、5行に要約せよ。 葛城にほど近い吉野には光る井戸から出てきたという、、、
水銀を採掘していた言い伝えがあるな、、、 椿井大塚山古墳(京都府 木津川市山城町)
墳丘は全長約175メートル、後円部は直径約110メートル・高さ20メートルで丘陵を断ち切る形で作られた関係上形が少し歪になっており、
前方部は長さ約80メートル・高さ約10メートルと推定されている。
前方部が撥(ばち)形に開き、濠が認められていない。水をたたえていない古墳は畿内では稀である。
古墳は山塊のなかに造営され、盛土も部分的におこなっている。
墳丘の大部分は自然地形の高まり、つまり、自然の山を利用しているので、一見、丘陵の一部のようである。
このような造り方は、最古級の古墳に多いという。3世紀築造と考えられる。
出土物
三角縁神獣鏡32面が出土。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、
漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土している。このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。 >>510
>邪馬台国を乗っ取った大和朝廷により、
卑弥呼の冢は箸墓の、台与の冢は西殿塚の地下に埋め立てられてしまった。・・・<
邪馬台国も大和朝廷も台予も存在しないし、
「南≠東」に拠っても、×ね。 >>293
>読むのが面倒くさい、5行に要約せよ。
知識を得ることを面倒に思う人は、意味のある議論には向かない
というより、基本的な知的能力に欠けている
さっさと、自分の巣にお帰りw
高天彦神社の近くには、塚なんてないんだからww >>295
「椿井大塚山古墳」も「忌部はん」のお墓だと、何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>297
難しい言葉ならべれば知的でかっこいいと思い込んでるだけ。
内容はスカスカw
纏向には吉備の要素が強い。
それとヒミコが全然結びついてない。
何がクロスナ層が屁をこいたなんだかw 単純明快というのは以下のような文章。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
トヨ津もヒメ踏鞴も葛城に住んだ。
邪馬台国とhあ葛城である。 >>138
>山の傾斜を利用してる塚なら一方が平たんに近くても構わない。
山の傾斜を利用している渋谷向山古墳でも、行燈山古墳でも、
高低を同じようにYahoo!mapで見ると、ちゃんと墳丘が見えるよ
https://i.imgur.com/qLDuHIR.jpg
一方が平坦だったら、塚じゃないのは一目瞭然w >>297
難しい言葉ならべれば知的でかっこいいと思い込んでるだけ。
>>1のことですかあ〜 単純明快というのは以下のような文章。
国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の系図にトヨもヒミコもいる。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
邪馬台国とはトヨ津媛とヒメ踏鞴五十鈴が住んだ葛城である。 >>303
>トヨ津媛とヒメ踏鞴五十鈴が住んだ葛城
これの根拠が、「高天彦神社近くに卑弥呼の塚がある」からだっただろw
その「塚がない」んだから、根本から成り立たないんだよ
始める前に破綻してるw
トンデモ説は、相手にされないうちは自由に気持ちよさそうに語ってるけど、
ちょっと具体的に「根拠w」を確かめられてしまうと、あっという間に瓦解する 「漢委奴国王」金印は「委奴」=イト国に贈られたもの
井原鑓溝遺跡の主は倭国王師升
卑弥呼は平原一号墓
博多湾周辺におけるイト倭国が邪馬台国と呼ばれていただけ >>301
>山の傾斜を利用している渋谷向山古墳でも、行燈山古墳でも、
高低を同じようにYahoo!mapで見ると、ちゃんと墳丘が見えるよ
平野部の下人の墓など参考にならない。
気高い神々の墓は山稜にあるのだから。
https://i.imgur.com/qLDuHIR.jpg
[待機中]
高低差36mもあるのだから、塚であるのは一目瞭然w >>305
>これの根拠が、「高天彦神社近くに卑弥呼の塚がある」からだっただろw
は?何言ってるの。
ヒミコもトヨも文献に登場するという話だよ。
崇神4c前半でいい?
ならば邪馬台国は決まりなのだが。
>その「塚がない」んだから、根本から成り立たないんだよ
そして高低差36mに塚があるから成立するわけだ。 >>297
>基本的な知的能力に欠けている
基本的な知的能力に欠けているのは崇神とヒミコが同じ時代と言ってたおまえなのだがw >>307
>高低差36mもあるのだから、塚であるのは一目瞭然w
あのさぁ、坂を36メートル分下ったら、高低差36メートルになるんだけどww
それを塚と呼ぶことはないww
さすが、「他人には見えない左側スロープが見える」だけのことはあるね!
「左側スロープ」君、改め「ただの斜面でも塚」君にしようか?ww >>308
>ヒミコもトヨも文献に登場するという話だよ。
その「文献のどこに『葛城に住んでいる』」と書いてある?
書いてないのに、住んでいたと言い張るための
それを繋ぐための、「葛城高天彦神社近くに卑弥呼の塚がある」からそれが根拠って筋書きじゃないか
その「塚がない」ンだから、まるっきり成り立つ余地がないんだよ それから、倭國豐秋狹太媛じゃダメな理由はなんだい? >>522
>>作者(鏡師)は、、「魏の年号」を入れなければならない、という特殊な事情や理由があったんだろう、<
>一番普通に考えて、その理由は「魏の領民だから」<
当時中国は戦乱期。
例えば、魏の支配から呉の支配に変わって、
「魏年号の鏡」を使っている事が呉軍に見つかれば、当然咎められる事になり、
そのような危険は鏡の所有は、普通は避ける。 >>310
>あのさぁ、坂を36メートル分下ったら、高低差36メートルになるんだけどww
それを塚と呼ぶことはないww
だから東側のこんもりした部分をヤフーマップのポイントで示しただろ。
高低差36mなんて見事な塚だ。
奴婢埋葬痕跡のかけらもない箸バカ古墳支持者が偉そうに言うなよw >>311
>その「文献のどこに『葛城に住んでいる』」と書いてある?
夫も子供も葛城なんだよね。
だから葛城なんだよ。
ヒミコもトヨも鴨族の女性が住んだであろう名柄の「姫の宮」であろう。 左側スロープ君は、自分のスレに書いてればいいんじゃないの?
誰も止めないよ?
★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1524110756/ >>297
>基本的な知的能力に欠けている
基本的な知的能力に欠けているのは崇神とヒミコが同じ時代と言ってたおまえなのだがw >>315
>夫も子供も葛城なんだよね。
神武がいつ葛城に住んだんだ?
神武は磐余彦だぞ
磐余彦の王だ 葛城は畿内なので畿内説スレに書くのは構わないであろう。 >>524
>何がそれらの証拠になるの?<
列島の△には、統一性が殆どない、という実態。 >>317
>基本的な知的能力に欠けているのは崇神とヒミコが同じ時代と言ってたおまえなのだがw
崇神の方を少し後だとする人も多いけれど、卑弥呼も崇神も
ヤマト王権の始祖王としての性格を持ち、ヤマト王権が立ち上がる時期の王であるのは確実
この2人が、卑弥呼が倭王となったときの「彦姫」だと考えるのが一番据わりがよい >>297
>基本的な知的能力に欠けている
基本的な知的能力に欠けているのは崇神とヒミコが同じ時代と言ってたおまえなのだがw >>322
応神、神功皇后、仲哀の時代は動かせない。
なのになんで崇神が3世紀前半になるんだよバカ。
自分勝手に都合よく擦り合わせてるだけではないか。
常識人は崇神を4世紀前半だ。 >>321
>カシハラという地名は御所にしかない。
えーと、橿原市は全無視でしょうか? >>322
>崇神の方を少し後だとする人も多いけれど、卑弥呼も崇神も
ヤマト王権の始祖王としての性格を持ち、ヤマト王権が立ち上がる時期の王であるのは確実
卑弥呼は2世紀前半の其の国の男王から続く王権の延長戦上にいるのでヤマト王権が立ち上がる時期の王ではない。 >>323
ただのコピペ?
5行以下の文しか読めないような人は、基本的な知的能力に欠けているって話だろ?
まあ、人に見えない塚が見える人もかなり欠落してるけどさ
判断能力とか、整合性をはかる論理力とか、諸々の知的能力が欠けてると思うよw >>325
>えーと、橿原市は全無視でしょうか?
橿原市って橿原神宮ができてからできたのだよ。
その橿原神宮は明治になってできたのだが。 >>295
木津川沿いに集落群はあるが難しい
縄文じゃねえか >>327
>卑弥呼は2世紀前半の其の国の男王から続く王権の延長戦上にいる
これはないな
男王の国が行き詰ったから、倭国乱の状態になり、
その収拾のために、新しい秩序を作ったのが卑弥呼の共立だ
断絶してるよ
ただ、卑弥呼の共立理由に血統がものをいった可能性はある
その血統をいうための説話が神武の東征説話とすれば、一応の筋は通る
まあ、憶測の域を出ないから、いってもあまり意味はないけれど
ただ、卑弥呼と神武(実在したとして)は100年単位で年代がずれているから、
これを夫婦と考える人はトンデモ説の信奉者以外には居ない >>328
>5行以下の文しか読めないような人は、基本的な知的能力に欠けているって話だろ?
5行に要約できないのは駄文。 >>332
>断絶してるよ
してない。
男王の系譜が卑弥呼を擁立。 >>332
>ただ、卑弥呼と神武(実在したとして)は100年単位で年代がずれているから、
先代旧事本紀の物部と鴨系図では崇神から神武迄6世代。
記紀の9世代をまともに信じてる人間などいないであろう。
ならば1世代間20年で神武とヒミコは同じ時代になる。
>これを夫婦と考える人はトンデモ説の信奉者以外には居ない
それを見抜けないボンクラが纏向説なるもはやトンデモを唱えてるだけ。 >>324
筑紫にいた卑弥呼の死の影響を受けた畿内の変動の主人公が崇神天皇だったのではないかな?
景行天皇が4世紀前半だろう。 >>298
耄碌してねーか
何でも「忌部はん」で片付かねえー
忌部なんて随分、後の話だろ せいぜい5世紀 >>332
>断絶してるよ
>ただ、卑弥呼の共立理由に血統がものをいった可能性はある
断絶していないということだよ。
少なくとも、おそらく1世紀まで遡る卑弥呼の前の男王たちの痕跡がない纒向も葛城も、邪馬台国とは関係ない。 >>336
>少なくとも、おそらく1世紀まで遡る卑弥呼の前の男王たちの痕跡がない纒向も葛城も、邪馬台国とは関係ない。
纏向と同じにしないでくれ。
葛城には弥生中期から続く遺跡に式内・名神大社がある。
また事代主の系譜はスサノオまで遡る。
倭国王帥升だ。 >>298
耄碌してねーか
何でも「忌部はん」で片付かねえー
忌部なんて随分、後の話だろ せいぜい5世紀 >>295
木津川沿いに集落群はあるが難しい
縄文じゃねえか 揉めてる理由は読む気全くせんのでお話しぶった切りますが?
辻地区の高床建物が230には廃絶されたんなら崇神さんの母系以外の候補他にありますか?
挙手して答えよ? >>339
椿井大塚山古墳(京都府 木津川市山城町)だよ >>341
よく読んで欲しいな
椿井大塚山古墳の出土物
三角縁神獣鏡32面が出土。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、
漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土している。このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。 >>337
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
と、何度言えばw @阿波 >>335
>ならば1世代間20年で神武とヒミコは同じ時代になる。
それ、どこ基準?ww >>531
>>前方後円墳そのものが邪馬台国と関係ないだろ。 時代錯誤なんだよ。<
>ということにしたいんだねw
でも、卑弥呼の時代は既に古墳時代に踏み込んでいるんだよ
そして弥生時代終末期と古墳時代草創期は古墳を作るかどうか以外の差異はない <
大和説者が言う「古墳時代」という文言も、インチキ騙しだよ。
大和説者は、大和では前方後円墳から古墳時代と呼んでいるようであり、
大和以外では、墳丘墓や冢などから古墳時代に入れよう、とする。
>前方後円墳の分布中心が邪馬台国の所在地なのは疑問を差し挟む余地もない<
卑弥呼の墓は、前方後円墳ではなく、「冢」であるから、
邪馬壹國女王之所都は「冢」があるところである事に、疑問の余地はない。 >>344
「椿井大塚山古墳」も「忌部はん」のお墓だと、何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 辻の高床は物部さんの遺跡でOKやね?
異議ある人は挙手の上対案をどうぞ? >>344
すごい内容だが、三種の神器が揃っていないから、大王ではない。
筑紫から東征した王族将軍といったところか。 異議無しと認めます
辻地区柵付掘っ立て高床建物はうましまじの館!決定! >>353
>すごい内容だが、三種の神器が揃っていないから、大王ではない。
だから、
「椿井大塚山古墳」も「忌部はん」のお墓だと、何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 やや?辻のはモロ吉備やん?
物部さんは吉備からきはったんや!
異議無し? >>342
辻地区が早くに廃絶されるから、という人に
3世紀半ばの居館域はもう少し山側に想定されている
https://i.imgur.com/qvazzyo.jpg
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」より引用
橋本輝彦: 東アジアにおける都市の成立
(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol. 22), pp.81-102
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/handle/10935/2741
この辺が早く発掘できるといいんだけどね 物部さん吉備由来に異議無しと認めます(まー御歓談あれ? >>346
>それ、どこ基準?ww
世代では崇神=4世紀前半
代数では応神元年390年から30代後の平均在位が11年弱。
神功皇后を入れて15代遡れば神武とヒミコの時代が合う。 ん?ジョカー君か?橋本くんのは読む気せんがホケノの山側にあるんじゃね?まーなんも賭けませんが >>359
>物部さん吉備由来に異議無しと認めます(まー御歓談あれ?
物部のご先祖様さえ、祀らない分際で、頭が高い。 @阿波 上田正昭さんも森浩一さんも先代旧事本紀の復権を言われてた。
先代旧事本紀を偽書だと言ってるええかっこしいが纏向が物部の遺跡だと分からないのだ。
先代旧事本紀は山城の五塚原古墳、大阪交野の雷塚古墳という、
箸墓と強い関係にある古墳の被葬者をピンポイントで示してくれている。
それぞれ長溝とタベノ宿祢だ。 >>365
>三好君も楽しめ?
ずっと、楽しませてもらっとります。 @阿波 記紀は神話だが
仏教について記紀にどの程度記述されてるかな?
記紀編纂時、朝廷は仏教に傾いてたと思うが >>366
>先代旧事本紀を偽書だと言ってるええかっこしいが纏向が物部の遺跡だと分からないのだ。
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、
伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたる。
伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、
日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
「伊加加志」(イカガシ)を社名・御祭神とする神社は、全国でここ一箇所だけなのである。
それが、忌部の郷 麻植の地に鎮座している。
徳島の神社 延喜式式内社 伊加々志神社
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>532
景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、
また、魏志は、同時代の記録で信頼性の高いが、
唐代史家らは、「自己解釈に拠る書き換え」が多いから、信頼性は低く、
その事をちゃんと考えている人は、
「景初二年12月の詔書」で正しいと考えているよww。 むしろ
>>354
吉備ではなく熊野との相関を考えるべきよ。 >>369
畿内は倭人と百済人の九州連合が制圧したのだよ >>368
実家というか枚方市伊加賀という地名ね。
交野に近いらしいね。
ただ交野開拓は肩野物部以外にないので雷塚古墳は交野連事タベノ宿祢であろう。
イカガノシコオの子供だね。 >>371
まぁ物部が滅んで阿波に逃げたのだろうねwww
筑豊の鞍手に物部の痕跡が多いのも、物部守屋の子である片野田が筑豊に流されたからだともいわれる。
というか筑豊はもともと物部の祖地であり里帰りみたいなものか。 話し飛ばしますが吉備三次と出雲の熊野近いな
江川やら卓やら掛布やら? >>533
>>福永の 「鈕孔長方形」論は、
www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
に拠って、否定されている。<
>読んでみたけどさ、「3枚」の三角縁神獣鏡を見た結果、古田氏が違うと判断したってだけじゃん<
いや、上の論考の4枚の写真では、
長方形に近いものは1個であるが、その反対側の鈕孔は長方形ではなかった筈で、
残りの写真はいずれも全く長方形になっておらず、
また、福永が「長方形だ」と示したものも、
ほぼ全て「大体長方形」という曖昧なものであった、という事であった筈。
要するに、福永の「長方形鈕孔」論は、絶対的な論理にはならず、不完全なもの。
福永の判断の内容も、「南→東」などの嘘つき騙しの時と全く同じであり、
すべて、いつものことながらチェリーピッキングによる
思い込み以上のものはないな。 zarakoku76歳はチェリーピッキングという言葉を覚えたんだねw >>347
>>前方後円墳の分布中心が邪馬台国の所在地なのは疑問を差し挟む余地もない<
>卑弥呼の墓は、前方後円墳ではなく、「冢」であるから、
>邪馬壹國女王之所都は「冢」があるところである事に、疑問の余地はない。
おっ、zarakokuの意見に賛成w >>378
>まぁ物部が滅んで阿波に逃げたのだろうねwww
「忌部はん」は最初っから、倭国(阿波)だよ。 @阿波 >>537
>纒向型前方後円墳が作られ始めた頃から古墳時代とするのが大勢になってるよ?
何か問題でもあるかな?<
勿論、大和説者は、
「卑弥呼の冢」をも纏向型前方後円墳に含める嘘つき騙しをしているんだし、
石塚や箸墓の「撥型前方後円墳」より古い前方後円墳の那珂八幡を、
纏向型前方後円墳だとするのか?、するのか?、を曖昧にしている。 >>541
「南→東」などのような嘘つき騙しの大和説学者の怪しげな情報を、
見境なくツルッと信じる、
大和説者の脇の甘さがよく出てる。 >>369
>記紀は神話だが
いや違うよ。
実在の人物をあえて神話にしたのだ。
そうしなければいけない切実な事情があった。
それは2世紀初頭の倭国王帥升がスサノオだからだ。
日本の歴史の始まりが中華皇帝への土下座なんて、こんな屈辱的なことはないだろ。
だから5世代後のヒミコの時代を神武東征紀でマッチョな男王国に変え、
その神武をBC660年という途方もA時代にもっていき、スサノオを神話にしたのだ。
ヒミコとはスサノオから約5世代後のヒメだ。
7世紀に媛踏鞴五十鈴姫という長い名前にされた。 >>544
>>どう見ても魏志倭人伝の里は短いだろ。<
>理由も言わず「どう見ても」 それが九州説<
これまでに、
韓や三渡海の記載里が「長里の6分の1」位の短い里になる、
という 「理由」は、もう何度も言い尽くされていた事なのに、
今更「理由も言わず」という嘘つき騙しのヘイトスピーチをする、
それが、大和説者の詐欺師性。 >>547
>だから、これ
「これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。」
情報の出所がまったく書いてない記事は信用してはダメ <
大和説者は、「魏志」という「情報の出所」を幾ら出して上げても、
「南」などのようは「大和説にとっては都合の悪い情報」は、信用しなかったね。 >>551
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の狂ったガキらは、
どんな嘘でも平気でつくと、
このスレにいる人はよく知ってる筈だよな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>361
関係ないわけない。
同じ倭国の歴史なんだぜ? >>369
記紀には仏教の伝来も載っているよ。
記紀は信用しないというのなら、聖徳太子もいなかったし、大化の改新もなかったことになる。
記紀のどこからどこまでを神話とするかは、かなり恣意的に都合よく解職されていると思う。 >>388
>日本の歴史の始まりが中華皇帝への土下座なんて、こんな屈辱的なことはないだろ。
遣唐使を送って中華皇帝に土下座外交しながら書いたのが記紀だよ。
寝ぼけんな。 >>398
ヤマト王権なんて最近の造語だよ。
卑弥呼は倭王。
ではその倭とは? 宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書) >>397
記紀はね 北朝鮮の将軍様の神格化と同じ >>400
>卑弥呼は倭王。
>ではその倭とは?
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で「阿波」にしかない。 他所にあれば倭国(阿波)とは言わない。
ゆえに、唯一「阿波」が倭国(阿波)である。 @阿波 >>403
>卑弥呼の墓は椿井大塚山古墳なのです
だから、
「椿井大塚山古墳」も「忌部はん」のお墓だと、何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>399
>遣唐使を送って中華皇帝に土下座外交しながら書いたのが記紀だよ。
アホか。
王が自ら出向いて土下座するのと使いが土下座するのとでは天と地ほどの差があるわ。
寝ぼけんな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>347
前方後円墳=冢なんだろ
しかも卑弥呼の墓は大きな冢と魏志倭人伝にある >>408
そういう説もあるけど王だというのが根強い。 >>403
>卑弥呼の墓は椿井大塚山古墳なのです
崇神に反乱を起こした武埴安彦 大和説も筆休めのあと、まったく振るわんな。
とうとう、へこたれた。
万歳三唱。
拍手ぱちぱち。
神社参拝。
お土産購入。
家族、とても喜ぶ。 >>399
記紀はむしろ古代の朝貢の事実を隠して書かれてる >>582
一晩で凄い進んでるから何かと思ったらキチガイ大和説が荒らしてたのか。
大和説は「南→東」などの嘘吐き騙しをするとる、
大和に女王國が出てくると思い込んでる異常者の集まりだからな。
理解を絶する異常者だと分かる。 >>414
まったくそうだね。
5世紀の倭の五王の時代も記と紀で年代が違うのは、
誰が五王なのか分からせないためにわざとそうしてるのではないかと思えてきた。 >>413
九州説はとうとう安い挑発ぐらいしか出来なくなってしまったようだ 倭王武の上表文なんて自ら臣下になりたいと言ってるのだからなぁ。
まぁ雄略であろうが。 >>417
記紀が書かれた当初は中国と朝貢じゃない関係を結んでいて有頂天だったんだろう
そこに古代の朝貢していた記録は邪魔だったと >>419
倭王武を雄略に否定するのはおかしいだろ。
倭武天皇はなんと読み、誰のことだ?
倭武命なら?
日本史の常識とやらは二枚舌が多すぎる。 当時のキャラクタセット未詳なるも
太○→大率
太○→太宰 の可能性無きにしもあらず
○は ttp://www.kxue.com/static/zi/21A14.gif 率と帥は、意味も発音も同じとされている。
帥升も大率も、筑紫の帥、倭王のこと。
卑弥呼は倭王の上に君臨する天皇のような存在とされたのだろう。
ただしそれは倭国の中だけの話で、中華皇帝はそのようなことは認めるわけもなく、卑弥呼はあくまでも倭王の称号に落ち着いたというわけだ。 >>424
それでも隋・唐と日出処天子…と対等な関係を結んだのは凄いだろ しかし中国の史書も懐良親王や足利義昭が日本国王だったり結構時代が下っても騙されてるよな >>427
それは白村江より前で、それがもとで隋とは国交が断絶した。
あと、その国書を送ったのは、筑紫に都する倭王アメノタラシヒコと記録されている。
記紀はそのずっと後、白村江で敗戦してから復興する中で唐に朝貢しながら書かれている。 >>429
隋と対等な関係を結ぼうとして失敗したとも言える。 大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。
使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。
その国書にいう。
”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々”
帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。 >>431
都督を置いて直轄地にしたから、金印すら与えられなかった。 >>200
ヨコから。
円形周溝墓の発祥は、吉備らしい。
弥生前期。
中期には吉備にはみられなくなり、播磨に現れる。
後期には再び吉備で造られるようになるそうだ。 >>434
神武も饒速日も吉備を出て大和に移動したから。 2回目が話題の遣隋使だけどその後も5回目までは継続してるらしいじゃん >>437
遣唐使が朝貢でないと思っているなら、とんでもない歴史オンチだな。 >>436
謝罪しようとしたけれど、結局受け入れてもらえず、国交断絶。
対等外交は失敗した。 金印とか征東将軍の証とかそういうの何か貰ってたのか? >>255
椿井大塚古墳。
築造3世紀末。
副葬品に鉄鎌あり。
石包丁が姿消してから百数十年後。
その間、稲刈りの農具には何を使っていたの?
答え。手で引き抜いていた。 鎮火祭
水神、瓢箪、芹、埴山姫
関東、八幡神?、田村大神?、埴山姫 >>443
天智天皇が日本国王になったんだろ。
敗戦直後だから傀儡政権だな。 >>402
なんでちゃんと訳せてるのに
まとめ方がおかしいの?笑 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
(まとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
・倭国が日本に改名した。
・日本と倭国は別の国である。
・日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので
中国は倭国の使者の話を信用できなかった。(旧唐書) >>451
倭国が日本に改名したが正解だろうな。
中国が考えてくれた「倭国」という漢字が雅ではないからという理由で
改名したと話すと中国が激怒して
倭国の使者は殺されるかもしれないからね 女王国は吉野ヶ里
邪馬台国は佐賀平野
卑弥呼の塚は祇園山古墳 >>456
不正解だが
遺物を見る限り、纒向・箸墓よりはマシ程度かな 九州説には九州の地理も知らんクズしか残ってないのが、なんともお寂しい現状か >>420
普通に読めば帥升等…というのは、
帥升がお供と生口を連れて…だ。
こういうように21世紀になってもまだ王自らの土下座を認めたくない連中がいるわけで、
7世紀の朝廷なんて何をかいわんやだ、
これが記紀の天皇が100歳を超える理由だ。
スサノオ=帥升隠しのために時代を大きくずらしたわけだから。
ならばスサノオの5世代後のヒミコは簡単、事代主の娘ヒメだ。
邪馬台国は葛城だ。 >>458
そういう書き込みを見れば
発言者の程度の低さがよくわかるね
どういう何を見てそう結論が出たのか?
まったく内容が無い
つまり
頭の中に元々あった結論が
ただ口を衝いて出てきただけで
なにも思考していないってことだ >>461
ヤマト説を畿内説に広げるよりマシじゃねーか
邪馬台国に限定せず倭国内に卑弥呼の墓があってもいいと思うよ >>461
ヤマト説を畿内説に広げるよりマシじゃねーか
邪馬台国に限定せず倭国内に卑弥呼の墓があってもいいと思うよ 邪馬台国に卑弥呼の墓が無い合理的な理由は無いでしょ >>626
>>邪馬台国探しというのは、文献に記録されているものを探すことなんだよ。<
>ヨコだが一言
文献に書かれているものをどうやって文献だけで探すんだよ?
物証と突き合わせるしかないだろが<
関係がない。口先で誤魔化してはいけない。
文献も考古も物証であり、
自然や歴史においては、殆どが不可知部分であったのであり、
その中の僅かに得られた事実や孤立的物証や人類の常識などから、
(結論先にありきではなく)
自然や歴史の実態を帰納的に確率的な推論をするしかないのだ。
>文献には30ヶ国の連合とあるが、祭政一致の時代なんだから、
祭祀の観点で30ヶ国の連合を探るのは有力な方法だろ<
ダメだ。「祭政一致の時代だ」という断定から、既に結論先にありきだ。
>実際、後世その祭祀連合を発展させて、日本は統一されたんだ<
これも、結論先にありきだ。
列島は「多元 」であったのであり、
複数以上の人がいる限り、それぞれがで個人の自由で独立的であり、不統一だ。
>日本の古代史を根底から否定しようとしてるが、それならきちんと根拠を示せばいいだけ<
この男も、おそらく、戦前の万世一系皇国史観の、
唯我独尊の排他的人種差別戦争狂の・・・・なんだろうなあ。 zarakoku爺さん、そろそろスレ2周遅れになるのかw >>645
スレ主に畿内厨に纏向厨に箸墓厨に、ssnに大和張り付け厨など,
なんでまあ,交代で一日中ウソついてんだろうかねえ。 >>434
> 円形周溝墓の発祥は、吉備らしい。
倭国(阿波)だよ。 @阿波
「名東遺跡」では、これまでに「方形周溝墓」が27基発見されているが、「円形周溝墓」は今回が初めての発見
「昼間遺跡(西貝川地区)」:弥生時代の円形周溝墓
「芝遺跡中期中頃〜後半」にかけての円形周溝墓を4基検出 >>255
>椿井大塚古墳。
>築造3世紀末。
>副葬品に鉄鎌あり。
その「椿井大塚古墳」も「忌部はん」のお墓だよ。
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>446
>神武も寄らない鳴門阿波。
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m
墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土
棺外からは鉄槍や土器が出土した
3世紀半ばの築造と推定されている。 @阿波
「西山谷2号墳」
http://awakouko.info/uploads/webphoto/photos/y00178y4da2b05f09c57.pdf#search=%27%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E5%A2%B3%27 >>444
倭国(阿波)には大抵の物があるよ。
鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1。 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽
?)のみの出土の点などからして,弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に
竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や勾玉,鉄剣,鉄刀子,
鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。(7)
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。 @阿波 >>657
>おかしなことを書いてるやつがいるな
纏向遺跡は2世紀末から4世紀始め頃までの遺跡ってのが常識だろ? <
纏向は、第X様式からなんだろうが、
庄内が、(卑弥呼の冢の後の)前方後円墳の石塚が3世紀末になるんだから、
2世紀末、っていうのがちょっと眉唾なんだろ?。
いずれにしても、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったんだから、
第X様式も庄内も、筑紫からの伝来模倣であったんだろう、とするしかない。 >>473
>鉄製品 (飽?)のみの出土の点などからして,弥生時代の墳墓の可能性が
単に弱小だっただけじゃね? >>666
>大和に出現した邪馬台国の文化的要素の波及元をたどっていくと・・・<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
「南≠東」などによっても、始めから×。 >>668
>景行天皇の熊襲征伐伝説と九州の初期古墳の分布は奇妙な一致を見せるな <
天皇なんて、いなかったから、始めから結論先にありきであり、×。
>初期の大和朝廷による九州征服の流れを描いていると思われる <
大和朝廷なんてもなかったから、これも×。
>ただその動きも4世紀に入ってからの物だから
邪馬台国以後の畿内による九州への征服行動の物語だろうかね <
これも、九州倭国の「東征毛人五十五國」と反対の事を言ったから、×。 >>671
>大和は確かに邪馬台国の出現場所だけど
ここに何かの中心地があったわけじゃないんだよね<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に協力した国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国。 >>680
>歴代天皇の系譜がそのままあってるとは言えないが、
畿内から広まる影響の過程と記紀の伝説は面白い一致が見えるな<
天皇も畿内も存在しなかったから×であるし、
「記紀の伝説」も、半分×の偽書。 Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している
これが今のおおよその意見。
でもこれは見つけられない人たちの言い訳。 >>684
>歴代天皇陵とされた古墳の新古も意外と順番が合ってて、
七世紀頃にはなんか情報が残ってたのかも知れない
逆に言えば年代の合わない古墳を当てられてる人は系譜が怪しい<
大和には、「歴代天皇」というものそのものがいなかったから、×。
記紀は、半分偽書。 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>695
>景行天皇の遠征経路とこの地域の古墳の分布を考えると景行天皇の時代は3世紀末〜4世紀前半だな
その前の崇神天皇、垂仁天皇の時代は3世紀半ば〜3世紀末と言う事になるな
箸墓の被葬者を崇神天皇や垂仁天皇と考えるのも妥当と言える<
「天皇」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×。 >>475
>単に弱小だっただけじゃね?
大代古墳は全長約54mの前方後円墳
後円部南北径31m・東西径45m 前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m
前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)
後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。
石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。
原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。
石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。4世紀末の築造と推定されている。さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。 @阿波 >>475
>単に弱小だっただけじゃね?
名東町節句山2号墳は箱式石棺に 竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や勾玉,鉄剣,鉄刀子,
鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。 @阿波 「倭奴国は倭国の極南界」
1世紀の倭国の領地は朝鮮半島南部、九州北部、本州日本海側
王都は倭奴国=博多
王族は安曇氏
朝鮮半島南部には倭人が雑居→新羅建国に関わる
倭国大乱により倭国(本国)政権交代
朝鮮半島南部の倭人の分裂
邪馬台国に従いたくない倭奴国系勢力→新羅と合流
邪馬台国に従う勢力→狗邪韓国 県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島
>>475
>単に弱小だっただけじゃね?
石井町教委は31日、2014年度から進めていた気延山の「山ノ神(やまのかみ)古墳」(同町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
4世紀半ば以降、畿内で栄えた政権とのつながりがあった可能性を示す資料とみられる。
古墳は全長約56メートル、最大幅約30メートル、高さ6・7メートルに達し、前方後円墳としては、県内3番目の規模であることも分かった。
筒形銅器は円筒型で長さ11センチ、最大直径は2・7センチ。前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14メートル)の周辺部から出土した。
やりの底の部分に飾りとして付けたり、祭事で楽器のような役割を果たしたりしたと推測される。
町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、この筒形銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
4世紀中期以降、奈良南部から河内地方にかけて成立した大和政権内部の新興勢力が、同盟や交流の証しに配った可能性が高いとされることから、気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。
古墳の築造時期は、前方後円墳が大代古墳(鳴門市)と同じ4世紀後半ごろ、円墳は4世紀末とした。県内で10基以上確認されている前方後円墳では、渋野丸山(徳島市)、愛宕山(板野町)の両古墳に次ぐ規模だった。
一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、古墳に段を築いたりした形跡が見られず、県内の前方後円墳では初のケースだった。
町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設がないか調査する方針。石井町教委は5日午前10時から現地説明会を開き、筒形銅器も展示する。
山ノ神古墳 1978年、宅地造成工事で発見された。本格調査は行われておらず、町や県の史跡には未指定。
町教委は保存活用のため、2014年度から古墳の一部で発掘調査を行い、これまで形象埴輪の破片や鉄鎌と鉄斧(てっぷ)が出土した。 @阿波 >>475
>単に弱小だっただけじゃね?
県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島
石井町教委は31日、2014年度から進めていた気延山の「山ノ神(やまのかみ)古墳」(同町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
4世紀半ば以降、畿内で栄えた政権とのつながりがあった可能性を示す資料とみられる。
古墳は全長約56メートル、最大幅約30メートル、高さ6・7メートルに達し、前方後円墳としては、県内3番目の規模であることも分かった。
筒形銅器は円筒型で長さ11センチ、最大直径は2・7センチ。前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14メートル)の周辺部から出土した。
やりの底の部分に飾りとして付けたり、祭事で楽器のような役割を果たしたりしたと推測される。
町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、この筒形銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
4世紀中期以降、奈良南部から河内地方にかけて成立した大和政権内部の新興勢力が、同盟や交流の証しに配った可能性が高いとされることから、気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。
古墳の築造時期は、前方後円墳が大代古墳(鳴門市)と同じ4世紀後半ごろ、円墳は4世紀末とした。県内で10基以上確認されている前方後円墳では、渋野丸山(徳島市)、愛宕山(板野町)の両古墳に次ぐ規模だった。
一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、古墳に段を築いたりした形跡が見られず、県内の前方後円墳では初のケースだった。
町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設がないか調査する方針。石井町教委は5日午前10時から現地説明会を開き、筒形銅器も展示する。
山ノ神古墳 1978年、宅地造成工事で発見された。本格調査は行われておらず、町や県の史跡には未指定。
町教委は保存活用のため、2014年度から古墳の一部で発掘調査を行い、これまで形象埴輪の破片や鉄鎌と鉄斧(てっぷ)が出土した。 @阿波 邪馬台国を乗っ取った大和朝廷により、卑弥呼の冢(直径150m)は箸墓(後円部直径160m)の、台与の冢(130m)は西殿塚(後円部直径140m)の地下に完全に埋め立てられてしまった。
ちょうど徳川幕府が豊臣大坂城を埋め立てて、その痕跡を消し、現在我々が見ている巨大な大阪城を築いたように。
だから、箸墓を卑弥呼の墓、西殿塚を台与の墓と言うのは、現在の大阪城を豊臣秀吉の大坂城と言うのと同じで、誤認。
これら現在我々が見ている箸墓や西殿塚の後円部墳丘を地表に至るまで完全に取り除かない限り、残念ながらもう永久に見ることはできないのである。 >>703
そんな、わけもなく、
アンタの「南→東」などの嘘つき騙しの、
「戦前の万世一系皇国史観の唯我独尊の殺戮戦争狂」の、
大和説思想を演説されてもな。 >>490
何万人も動員して作った墳丘は同じ人数を動員しないと崩せないね…orz
これほど完璧な証拠隠滅があるだろうか? >>714
>陵墓参考地を貶す書き込みができるあたり、
価値観を共有できないかの国と同じ感性なんだね<
ふーん。
この男も、やっぱり、
憲法の「平和共存」の価値観を共有できず、
ナチスやトランプや安部自民らの「排他的人種差別殺戮戦争」狂と同じような、
「戦前の万世一系皇国史観の大和説者」であったんだね?。 >>715
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者は、
神話結び付け馬鹿であり、
テキトーに大した根拠もなく物語を作り出して妄想喚いてるからな。。。
手に負えん。 >>493
漏れたちの邪馬台国論争を嘲笑っているだろう宮内庁(天皇家)が箸墓の【墳丘表面は調査させている】のは、調査させても証拠隠滅がバレないと知っているから。
後円部墳丘にトレンチを入れ、地中レーダーで墳丘の地下を調べたいと言い出せば、宮内庁(天皇家)は断固拒否するはずw >>726
まぁ確かに葛城氏とても重要な一族だからな。
しかし、纏向キチガイや阿波キチガイなどとも、どっちもどっちであり、
「南→東」などの嘘つき騙しの、同じ穴の貉とは言えなくもないが。 >>771
>景行天皇の熊襲征伐伝説と九州の初期古墳の分布は奇妙な一致を見せるな<
天皇なんて存在もしなかったし、もしなかったし、半分偽書の記紀のでっちあげだし。
>初期の大和王権による九州征服の流れを描いていると思われる <
逆だな。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の、地方の市を監督する大倭職の国であったから、
景行は、九州倭国の南九州の東テイ人ら征伐らの将軍であったんだろうな。
>ただその動きも4世紀に入ってからの物だから<
卑弥呼の頃には投馬國という呼称に変わっているから、卑弥呼の共立前後の頃だな。
>卑弥呼以後の畿内による九州倭国への征服行動の物語だろうかね<
畿内なんて存在もせず、「南≠東」などに拠っても×だな。 >>783
≫高天原は対馬海峡周辺のどこかだと思う。
出雲や筑紫に行き来しているからね。
大和まで来ると、饒速日のように「行ったきり」扱いされてしまっているから、大和の近くではないだろう。
あと、神代の巻の後半は筑紫から見た視点になっている。<
賛成です。 >>480
>これが今のおおよその意見。
>でもこれは見つけられない人たちの言い訳。
通常は、倭迹迹日百襲姫命がそうだろうとされているけれど、
情報量が少ないし、どうやっても確定しないから、これ以上の検討は無意味ということ なんの理由も言わず、ただ結論を呟き続ける
それがトンデモ説 優れた、謎の考古学者が再び出現して、土蜘蛛とは、何者だったかについての重大な発表をしたのではないのかな。。。
290日本@名無史さん2018/11/08(木) 18:39:37.77
土蜘蛛とはアイヌ語で何か特別な意味があるのではないかな、、、
292日本@名無史さん2018/11/08(木) 18:40:46.79
特に蜘蛛は朱を知る虫だという言い伝えがあるな、、、
294日本@名無史さん2018/11/08(木) 18:43:08.07
葛城にほど近い吉野には光る井戸から出てきたという、、、
水銀を採掘していた言い伝えがあるな、、、 >>788
>>明帝が、景初二年大晦日から景初三年元旦にかけて亡くなったんだから、 景初二年12月の詔書は、明帝にしかならず、
それを否定するキミのような人間は、「口先での嘘吐き詐欺師」なのであり、 人間の屑なのではありませんか?。<
>景初二年なら明帝で当たり前。誰もそれを否定していませんねぇ。<
この男は、「否定していた」ねえ。
>景初三年の誤というのが主流であって、かつ「明帝詔」という記録は存在しません。
どこに嘘がありますかぁ?<
「景初三年」という情報は、
唐代以後の後代の「自己解釈に拠る書き換え」が沢山あった信頼性が半分以下の史家などの記載であり、
写本版本などの「景初二年」など記録を否定してまでして、
そんなモノを根拠にする事が嘘つき騙しだろうねえ。
>>晋書は、はるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い唐代史書であるから、
「ついうっかり」記載以外は、信頼性がなく、根拠にならない。<
>《通史》《通典》の話に、突然《晋書》が出てくるのか、さっぱりわかりませんねぇ。<
後代の史家の「二年→三年」という「自己解釈に拠る書き換え」の、
論理の出発点や原因になったのが、晋書の「曖昧な記載」であったから。
>「ついうっかり」とか呆れます。「イイとこ取り」なのでしょうね。<
99.5%以上の確率のある写本版本の「二年」を否定してまでして、
はるか後代学者の「自己解釈に拠る書き換え」の、確率が殆どない「三年」を採用するなんて、
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者には、呆れます。
「イイとこ取り」なのでしょうね。 >>505
計算根拠のない確率なんて
冗談以上の価値はないだろう >>500
>通常は、倭迹迹日百襲姫命がそうだろうとされているけれど、
モモソ姫なら崇神時代まで生きてるわけで、通常では崇神は4世紀前半とされてるので時代が合わないね。
>情報量が少ないし、どうやっても確定しないから、これ以上の検討は無意味ということ
それ単なる怠慢。
崇神の数十年前の最高位のトヨなら一人に絞られる。
しかも3世代前にヒメもいる。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
邪馬台国は葛城だからね。 >>795
>流行とか妄想でしょう。 「ついうっかり」で「イイとこ取り」ですかぁ。<
99.5%以上の確率のある写本版版の「景初二年」記載を否定して、
はるか後代の唐代史家や、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の「景初三年」を採用するなんて、
流行とか妄想でしょう。 「イイとこ取り」ですかぁ。
>まさに全文献の否定ですねぇ。 日本書紀の引用は北宋の刊本より古いのですよ。<
まさに、信頼性や客観性の高い同時代記録文献の「全否定」ですねぇ。
日本書紀も、倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であり、
魏志の卑弥呼と壹與の事績を神功紀に挿入したり、ついうっかり「明帝」と書いてしまったりの、
全く信頼性がないのですよ。 怪しげな数字の確率とやらを振り回す人の言葉がいちばん信頼性ない >>508
>邪馬台国は葛城だからね。
それは絶対、ない。 @阿波 >>489
淡路安曇の近くだからな。
葛城〜和歌山〜淡路福良〜鳴門〜高松→九州
関係作っとかんと。 >>795
>>叙勲が終わった瞬間から、卑弥呼や難升米らは魏の臣下であり、 当然業務の打ち合わせがあり、
その間に明帝が亡くなってしまったら、卑弥呼や難升米らも、喪に服さなければならない。<
>それって君の思い付きでしょ。<
いや、史料事実や史料実態からの「人類の常識」的な判断だよ。
>・「漢魏の制」前漢文帝によるもので三十六日喪。<
「魏」は、関係がなく、入らないよ。
>・儒教では「三年の喪」(袁紹や趙雲が服喪。) ・曹操の遺令では「葬畢、皆除服。」つまり埋葬まで。
明帝の葬は「癸丑、葬高平陵」だから、服喪期間は三年正月癸丑まででしょうか。<
景初三年の12月の次に「景初三年の後十二月」を置いたんだから、1年余り喪に服したんだよ。
>>劉マらは戦争が主任務であって、終わった後は、行政が主任務であった劉夏が着任していても、何らおかしくもない<
>公孫淵を倒すまでは作戦中だから終わっていませんね。それに正始元年には、弓遵に代っています。
<
いや、劉マは、帯方の「越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬」までが任務であり、
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」であった事も史料事実であり、
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國」であった事も史料事実であり、
「部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。
時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓」という順番であった事も史料事実だ。
>劉夏が「行政が主任務」なら短期間で代らないでしょう。<
おそらく、劉マらは、公孫氏戦に出動しており、劉夏は、公孫氏征伐完了時点頃までの後役の太守だな。 >>472
新手の“九州王朝”。
いや、鳴門王朝。 >>514
神武東征を逆から辿っているようにしか見えない。 >>516
理由のない思いつきを、これまた理由なく常識と言い張ってるだけ 土蜘蛛塚の痕跡を辿ると、葛城そのものになるのはどういうことだろうか、、、 >>517
>いや、鳴門王朝。
まぁ、妄想だけの説とは、毛色が違うでしょ? @阿波 神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
「建布都神」の陵墓は「阿波市 伊笠山」山頂。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 竹内宿禰の子孫たちが韓地遠征を成功させて、葛城を復興したようだね、、、 >>521
世間でいう「史料事実」とはぜんぜん違う意味の造語な
w
w どうして天理市が発展したのだろうか、、、
笛吹にいた村雲命はそのあと磯城に移ったそうだね、、、 >>525
>竹内宿禰の子孫たちが韓地遠征を成功させて、葛城を復興したようだね、、、
武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。 @阿波 畿内説は大和ありきだから大和川流域にこだわるのかな?
俺は淀川流域だと思うんだけどなあ。 >>529
>笛吹にいた村雲命はそのあと磯城に移ったそうだね、、、
饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。
「天村雲命」は,
(1)饒速日命が大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
(2)邇邇芸命に命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,邇邇芸命より天二上命,小橋命という名を賜った。
「小橋」と言えば,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」は,日向時代に,阿多小橋君の女(むすめ)の阿比良比売を妻としている。
小橋命とよばれた「天村雲命」の孫あるいは曾孫が阿比良比売で,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」に嫁いだとしても不思議ではない。
「天村雲命」の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。
「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 @阿波 やっぱり最大勢力だった磯城が佐保を勢力下に置くため
婚姻とかで結びつきを作りながら
北にだんだん本拠を移して
ゾーンプレスしたんじゃない? どーなんだろね
戦国時代には大和川は北上して淀川と合流してたし >>535
巨大古墳の北上も垂仁の伝承も存在するんだが? 奈良盆地に入るのは淀川ー木津川ルート、河内湾ー生駒越えルートと、河内湾ー大和川ルートがあるだろう?
磯城の勢力が大和川コースの大阪と大和にかけて勢力を持ったるんだから。ここが一番なんじゃないの? 勘違いしているようだが、ヤマトは河内のコピー
主体は河内側 葛城の勢力は磯城と仲違いすると紀ノ川ルートでしか海に出られなくなるから、磯城と仲良くして上手にナンバー2の位置をキープするのが得な道なんだよ
そして現に磯城は近江とも北陸とも交易ルートを持ってるから佐保とは友好的だったってこと
そして磯城勢力が衰えたあと中河内と組んだ葛城が佐保ー近江組と覇権を争って勝つんだよ >>508
>通常では崇神は4世紀前半とされてるので時代が合わないね。
崇神が4世紀前半というのが間違っている可能性は?ww ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 神武天皇が征服する前、大和には、土蜘蛛達が居住していたのではないのかな。。。 >>531
>俺は淀川流域だと思うんだけどなあ。
そこにはそこの勢力があるけれど(三島藍野陵)、奈良盆地と比べると
量的、質的に小勢力なんだよな
纏向遺跡と同時代の淀川流域には、見るべき遺跡がない レベルの高い謎の考古学者が出現して、レベルの高いことを発表しているな。。。
笛吹にいた村雲命とは、一体、何者なのだろうか、、、 >>540
>そして磯城勢力が衰えたあと中河内と組んだ葛城が佐保ー近江組と覇権を争って勝つんだよ
それが、応神・仁徳朝って認識なのかな? 仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではなかったのだろうか。。。 >>546
レベルの高い発表を実行したのは、連続句読点を使用するという、岡上氏なのだろうか。。。 >>549
岡上氏というのは、破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシを恐れさせている、優れた考古学者ではなかったのかな。。。 >>550
そうだったな、、、
キナイコシが、僕たちを岡上氏だと誤認した理由が、連続句読点だったね、、、 >>551
僕たちは、キナイコシが僕たちを岡上氏と誤認して、怖がるのを見るのが楽しいので、連続句読点をつけずにはいられなくなったのだったな。。。 笛吹にいた村雲命とは、一体、何者なのだろうか、、、 仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではなかったのだろうか。。。 >>797
>畿内説は磐石だからねぇ<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであったし、
「南≠東」なども嘘つき騙しであったから、大和説は盤弱だよ。
>箸墓が卑弥呼の墓かどうかは、編年次第だよ<
始めから「南≠東」まどに拠って、×。
>三日月湖年縞による14C年代のスタンダードが作られたら、さらに精密な編年が
できるようになるだろうし <
AMSを使う限り、プラズマ化の失敗は何時までも残り、
更に、三日月湖と、検査対象植物との気候変動の同一性が保証されない限り、
確率的な判断にしかならないよ。 三日月湖と、検査対象植物との気候変動の同一性が保証されないので、畿内説が破綻してしまったのでは、無いのかな。。。 三日月湖は、洪水が発生して、誕生するのではないのかな。。。 奈良にあった、三日月湖のほとりには、どのような植物が、生えていて、どのような気候変動があったのだろうか。。。 うつし国、現世の意味にとられるが、コピーということだろう ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが作製した、テンプレートの全体が、論破されてしまったので、スレッドが寂れてしまったな。。。 >>559
>奈良にあった、三日月湖のほとりには、
白痴的なアンチ畿内説の老人が、なにか決定的なカンチガイをしてるな >>811の追加
>狗奴国は東海か北陸かは決めかねています<
「南≠東」に拠って、×。 奈良にあった農作物が、洪水で全滅してしまったので、三日月湖のほとりには、古墳を作製したのではないのかな。。。 >>814
>>邪馬台国の南なのだから狗奴国が東海や北陸にあるわけ無いじゃん
ここだけ読み替えるなんて変なの <
>魏志倭人伝は、帯方郡に近いところから順に記載する体裁で書かれており、
遠くの国ほど、より南にある、ということになっている <
なっていない。
行程でも、「南」と「東」とを書き分けており、
更に遠くになる、
「東女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
も、南と東とを書き分けている。
>「ここだけ読み替える」ではなくて、順番が後のものほど
「南と書いてある」=「帯方郡から遠い」と読めばいいんだよ<
「東」と書いてあるものがあるから、×。 >>542
ほぼないよ。
仲哀が津堂城山4世紀第3四半期。
崇神の行燈山4c前、武埴安彦の椿井大塚山4c前、吉備津彦の中山茶臼山4c前、
四道将軍ゆかりの会津一簣古墳群4c前、
稲荷山鉄刀のヲワケから7世代前のオオヒコ4c前。
ならば崇神の数十年前のトヨも一人しかいないので決定、3世代前のヒミコも決定。
邪馬台国は葛城なのです。 結局トンデモ説というのは
単に強引にオレ様ルールを押し付ける輩
ということだな >>815
>径百歩は纒向だが
箸墓の前方後円墳の径なんてどうでもいいし倭人伝の記述の径百歩と土器の炭化物だけで
卑弥呼の墓なんて((´∀`*))ヶラヶラ 発掘物では葛城
ヤマト王権の発生の地は葛城王朝だよ
一部の九州説もおかしいな 東遷は邪馬台国じゃねーよ
邪馬台国に変わる九州勢力か連合体が倭種の別国を制圧したのだよ<
何か?また変なのが変な事を書いているが、
邪馬台国なんて存在もしないし、
纏向も箸墓も葛城も、「南≠東」などに拠って、×だよ。 >>570
>邪馬台国は葛城なのです。
いくら連呼しても、それは、無い。 @阿波 >>570
途中で突然に古墳編年から離れる論理破綻にワラ >>483
>私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
高天原を全く無視してるからこんなアホな説になるのだ。
名柄や櫛羅や上牧でで出雲系銅鐸が出土しており、水源支配してる王がいたことは確実。
纏向遺跡に住んだ勢力はその王を4世紀まで征服していない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>575
古墳編年でなく崇神の時代の証明。
崇神4世紀前半なら邪馬台国は決定。
破綻したのは纏向説だよw >>578
お前さんの論理破綻は確定だよ
反論できないだろ? >>578
>古墳編年でなく崇神の時代の証明。
その崇神の時代の証明に古墳編年を使ったんだよね?
ならば、それ以前の時代に関して突然翻って
古墳編年を放棄したんだから
論理破綻してるよね >>572
日本で唯一、奴婢埋葬痕跡のある塚。
高天原にある。
西側が平地だという女々しい反論は通用しない。
箸バカ古墳には一切奴婢埋葬痕跡がない。
だいたい径百余歩でもないしねw >>580
>古墳編年を放棄したんだから
>論理破綻してるよね
鴨族は平地の下人の前方後円墳に埋葬されません。
なんでも前方後円墳だと思ってる古墳バカw >>581
>日本で唯一、奴婢埋葬痕跡のある塚。
あるという証拠がいっさい無いんだよね?
>西側が平地だという女々しい反論は通用しない。
西側が平地なら、墳丘だという主張は通用しない
はまかですか >>583
>あるという証拠がいっさい無いんだよね?
蜘蛛塚。
そして神武東征紀と言う文献。
>西側が平地なら、墳丘だという主張は通用しない
東側から36mの高さがあるので墳丘である。
また地元の墓域であることは確認済み。 >>582
>鴨族は平地の下人の前方後円墳に埋葬されません。
>なんでも前方後円墳だと思ってる古墳バカw
じゃあ、崇神の墓だという巨大前方後円墳の三世代くらい前に作られてる巨大前方後円墳は誰の墓なんだ? >古墳編年を放棄
高天原の神々の墓は前方後円墳ではない。
纏向の前方後円墳は瀬戸内の下人の墓である。 >>585
>東側から36mの高さがあるので墳丘である。
西側が平地なら、それは墳丘じゃない
ただの崖だ >>586
>じゃあ、崇神の墓だという巨大前方後円墳の三世代くらい前に作られてる巨大前方後円墳は誰の墓なんだ?
3世代とは思わない、歴博のフライング。
箸墓はイカガノシコオ。
だから五塚原や雷塚とも関連してる。 >>588
>高天原の神々の墓は前方後円墳ではない。
なんで神々に墓があるんだ? >>589
同じことばかり繰り返すなボンクラ。
悔しかったら箸バカから奴婢埋葬痕跡を探してこい。 崇神天皇の時代は、なぜ、4世紀後半なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
だから、崇神天皇は4世紀後半の人物です。。。
2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。
だから、崇神天皇は4世紀後半の人物です。。。
3つ目の理由
崇神天皇が箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
だから、崇神天皇は4世紀後半の人物です。。。 >>582
>鴨族は平地の下人の前方後円墳に埋葬されません。
崇神が下人なわけ? >>585
>蜘蛛塚。
蜘蛛塚って、どこにあるの?
あなた以外に蜘蛛塚があると言ってる人は誰? だいたい高天原をはじめ葛城は式内・名神大社の宝庫だ。
だから王族の痕跡がことごとく式内・名神大社になってるのだ。
箸バカのある纏向遺跡って崇神以前は王族の痕跡が全然ないのでどんどん掘れるんだよね。
いいなぁ下人さんの土地はww >>592
そんなモノが、無いといけない
という理由は? >>598
>だから王族の痕跡がことごとく式内・名神大社になってるのだ。
というは? >>597
蜘蛛塚は高天彦神社の拝殿左。
何度も言ってるぞ、一回で覚えろ。
>あなた以外に蜘蛛塚があると言ってる人は誰?
高鴨神社の神主で高天彦神社の管理をしているSさん。 >>598
>箸バカのある纏向遺跡って崇神以前は王族の痕跡が全然ないのでどんどん掘れるんだよね。
カッツの脳内で
崇神というのは
王族なの? 下人なの?
はっきりしてくれ >>601
その人が、蜘蛛塚だと言ったという証拠は? >>822
>短里なわけ無いって
夏侯淵は3日で500里6日で千里って行軍する速度を称えられてるのに
短里だったらショボすぎるわ<
まずその、
「夏侯淵は3日で500里6日で千里って行軍する」という情報元の史料批判が必要。
また、陳寿は、出来るだけ史料記載事実に拠った記載をしており、
「夏侯淵は漢代の人」であるから、
魏朝代の短里ではなく、漢朝代の長里を使って記載された可能性もあり、
また、「行軍」も、
個人的な移動や数騎馬などでの無補給の移動ではなく、
軍隊全体の移動であって、騎馬であっても補給や馬の交換が欠かせず、
時には戦闘を交えながらの行軍であった場合もあり、
個人的な旅程よりもはるかに遅くなる場合だってあるもの。
江戸期の東海道の旅人は450km位(長里で千里位)を15日位。
という事は3日で90km位。
で、その情報の500里は、長里で220km位で、短里なら38km位。
だから、長里であったのか?短里であったのか?は、不明である情報。 >>602
>王族なの? 下人なの?
オカンは瀬戸内下人の物部のイカガノシコメだね。
オトンは分からんが血筋を神武まで遡れても所謂日向から来た婿だからね。
日本では一度だけクーデターがあったのだよ。
大物主を殺した崇神は怨霊を怖れて大神神社を建てる。
そして手元にあった鏡を放逐。
今も行き場がない鏡は伊勢神宮境内を20年に一度式内遷宮という形で彷徨う。
だから皇室は伊勢神宮を怖れ、1500年間だれも伊勢神宮を参拝しなかったんだ。 >>833
大和説者もイライラするくらいなら、
このスレに書き込まなければいいじゃないか。 >>605
んで、崇神以前の巨大前方後円墳はぜんぶ無視かい? 社殿の左脇には土蜘蛛を埋めた跡とされる蜘蛛塚があります。
ガイド本に紹介されることもなく、現地に案内板もないので、
多くの方は見落とされます。
見つけた方も何か分からずに帰ってしまわれることも多いことでしょう。
土蜘蛛とは日本の先住の人々のことです。
高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに
蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。
画像が弾かれるので文だけね。 >>>その人が、蜘蛛塚だと言ったという証拠は?
>>直接聞いたが。
>つまり証拠が、無いんだな
まえから思ってるのだが>>1は精神病院の隔離棟から書き込みしてるのであろうか。 >>611
つまり、奴婢埋葬痕跡があると言ってるのは
葛城ジーさんただの一人なんだな? >>612
罵倒しか出来なくなるのは論破された証拠 >>610
>んで、崇神以前の巨大前方後円墳はぜんぶ無視かい?
とんでもない、ウマシマジからイカガノシコオまで約5世代の物部族の墓が纏向古墳群。 >>615
なんでそんな人々が列島で最大の古墳に葬られるんだ? >>613
普通にいるよ、おまえ頭おかしいの?
あと蜘蛛窟も高尾張邑伝承であろうから神武軍に誅殺されてるね。
埋められたのであろう。 >>616
>なんでそんな人々が列島で最大の古墳に葬られるんだ?
ウマシマジ以降、物部3代は申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)
今で言えば総理か官房長官。
そりゃ造れるでしょう。 結局あるのは葛城ジーさん一人が奴婢埋葬痕跡と言ってる小さな塚と、墳丘でも何でもない崖だけか
ww ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>863
>河内潟が完全に姿を消すのは江戸時代なのを古田は知らずに大恥をかいた
今でも盲目的な信者が恥をかき続けている<
私は「河内湾」と書いた。
「河内潟」なんて書かなかった筈。
「潟」では、「南方」付近の大阪湾への出口が狭い浅瀬状態であり、
五瀬命や神武らは、南方で食い止められて日下にまでは、舟では全く行けないし、
敗戦後も大阪湾にまで逃げられない。
それは、河内湾状態であっても同じ。
だから、紀元前1世紀頃の五瀬命や神武の頃は、
南方付近が完全に開いた「河内湾」状態であったんだろう、
という話。 なぜ、神武天皇は捕獲した大勢の土蜘蛛を、神社のそばに埋めたのだろうか。。。 神社が先にあったのだろうか、、、それとも、先に土蜘蛛が埋められたのだろうか。。。 土蜘蛛に、尾があり、光っていたとは、どのような事を、表現しているのだろうか。。。 河内湾や、奈良の三日月湖は、神武東征とどのような関係性があるのだろうか。。。 >>630
土蜘蛛は、人類と同じ種族だったのだろうか、、、 >>873
>>周朝と魏朝と西晋朝の「歩」は、
一寸千里の「1里≒76,5m」と「1里=300歩」に拠って、
1歩≒25.5cm≒1尺」の「短歩」であり「単歩」。<
>逆だ逆。
歩が1.45メートルだから、1里=435メートルで、短里がないことが分かるんだよ
短里原理主義とか意味ないってww<
逆だ逆。
周髀算経から「1歩≒25.5cmだ」と分かるから、
1里=76.5メートルで、長里がないことが分かるんだよ 。
長里原理主義とか意味ないってww。 奈良に有利な判定を実行させた、闇の勢力は、本当に、土蜘蛛と関係性があるのだろうか、、、 >>878
>>勿論、魏志などの短里記載情報の踏襲例もあるが、
梁書は、文身國や大漢國の位置説明に短里を使っており<
>天柱山も含め既に全部否定されてるよw<
天柱山も含めて、
既に、Yahoo時代からの議論で、
魏志の魏代以後の里記載は、ほぼ全て「長里」が否定され、
短里であった事になっているよ。 >>880
長里説は勿論諦めるべきだが、
安部自民文部省や、右翼マスコミ学会教育界や、
「戦前の万世一系皇国史観の排他的人種差別殺戮戦争狂のキョクウの教祖様」らが、
国民を騙してまた侵略戦争を起こそうとしている限りは、
命尽きるまでは頑張るしか無いのだ。 >>884
>横レスだが、ヒミコの時代の王統は大物主。<
大和の話に卑弥呼を持ち出せば、当然、「南≠東」などに拠って、×。 >>639
お経いくら唱えても
死んだ九州説は生き返らない >>640
>お経いくら唱えても
>死んだ九州説は生き返らない
今、生きているのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻し、テンプレートも論破されてしまったのだね。。。 >>897
>筑紫側の庄内の年代比定…という意味が分からんが。
大和の庄内式と時期が合う筑紫の土器は西新町式だが。<
久住の土器編年論での、
筑紫胎土での筑紫の土器の編年と、大和胎土での大和からの搬入土器とを、
どのような根拠で結び付けたのか?が知りたいだけ。 >>642
常にウソをつく連句点が事実上畿内説を盤石と称えている >>642
邪馬台国畿内説は、破綻したのだから、このスレッドは、神社の傍らに埋められた、土蜘蛛とは何者だったのかを討論するスレッドにすれば、良いのではないのかな。。。 >>645
そうだな、、、
僕たちは、もう、破綻してしまった邪馬台国畿内説の討論からは、卒業して、土蜘蛛とは何者だったのかという、レベルの高い研究を開始したな。。。 破綻してしまった畿内説の宣伝係のキナイコシが、テンプレートを論破されたので、発狂し、意味の通じないことを呟いたな、、、
644日本@名無史さん2018/11/09(金) 16:53:06.91
>>642
常にウソをつく連句点が事実上畿内説を盤石と称えている ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>645
その通りだよ。
日本の古墳に奴婢を埋葬する習慣はなかったし、その痕跡もない。
という事はヒミコの奴婢の話は何か特異な事件なのだ。
「神武軍による土蜘蛛誅殺」
どうだ、筋が通っただろ、いやマジで。 >>650
トンデモ説には、もう倭人伝もヘッタクレも無いようだな I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒミコことヒメ(踏鞴五十鈴)の時代、土蜘蛛を征したのは神武である。
神武は土蜘蛛を征し、束ね、カシハラに住んだ。
その土蜘蛛の末裔はヒミコの時代から1700年後に声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。
だから今でもカシハラでは水平社博物館と神武天皇社が並んでいるのだ。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png つまり高天では、斜面の人より土蜘蛛のほうが偉らかった 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国と日本は完全に別の国である。
B 倭国と日本は同じ国である。
C 日本は小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者はウソをついているようなので
中国は倭国の使者の話を信用しなかった。 破綻してしまった畿内説の宣伝係が、論破されてしまったことを、荒らし行為ということに、変換してしまっているな、、、
649 名前:日本@名無史さん 2018/11/09(金) 17:12:01.87
荒らし専業化は九州説の死亡証明
なむ >>654
水源を巡って争ってたのであろう。
箸墓古墳と奴婢の関係は? >>568
>三日月湖のほとりには、古墳を作製したのではないのかな。。。
三日月湖は福井県の若狭湾に程近い三方五湖のうちの一つ
http://satoyama.pref.fukui.lg.jp/feature/varve
奈良県の話じゃないよ
ここはある意味軌跡のような条件が揃ったために、7万年前まで
1年単位で絶対年代の分かる炭素試料が得られる場所なんだよ
これが、炭素試料の世界標準として認定されている
これを用いた14C年代較正曲線のスタンダードが作られれば、
そこからの補正で各地の14C年代推定値の信頼度を高めることができる
文句ばっかり言ってないで、新しい情報を入れた方が、人生が豊かになるよ
がんばれ! >>570
>仲哀が津堂城山4世紀第3四半期。
津堂城山は、ヤマトタケルだよ
その辺の古墳の年代推定値は、起点が変われば変更される
これが正しいというわけではないが、左側スロープ君よりは
緻密に検討している人のブログ
https://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2011-09-11-7 >>937
>>周朝が採用した一寸千里の法が、<
>これが大ウソ 周朝はそんなものを採用していない <
周髀算経は、
昔者周公問於商高曰:「竊聞乎大夫善數也,請問古者包犧立周天曆度。夫天不可階而升,地不可得尺寸而度。請問數安從出?」
と話があって、その続きとして、
昔者榮方問於陳子・・・
として、一寸千里の法の説明をしているから。 >>653
説明する必要は別にないよな
だって、高天の他人に見えない幻の墳丘とやらにだって
奴婢は埋葬されてないんだろ? >>576
>高天原を全く無視してるからこんなアホな説になるのだ。
高天原が葛城だったら、天孫降臨とか国譲りとか、
どうしてあっちに行ったりこっちに行ったりしなきゃいけないんだ?
江戸時代にそう思われてたってだけの土地を、そこまで持ち上げても意味ないよ >>660
つまり周の国で一寸千里を採用したとかいう話は書かれていない >>581
>日本で唯一、奴婢埋葬痕跡のある塚。
これ、発掘とかされた仏性じゃなくて、単に「蜘蛛」と名前に入っている後世の石碑一つしか
証拠としてあげてないじゃないかww
しかも、この蜘蛛が土蜘蛛であるところまではいいとして、土蜘蛛が殉葬奴婢に当たるってところが
まったく論証論拠のない思いつき
奴婢埋葬痕跡なんて、まったくないよ
ただ、左側スロープ君の脳内だけにある思いつき
「箸墓の左側スロープ」や、「平坦に下る雑木林の『塚』」と同じww >>585
>東側から36mの高さがあるので墳丘である。
それ、前に「単に坂を36メートル分計っただけ」って言われたのに一切反論できてないよね?
それから、何度も左側スロープ君が張っているYahoo!mapの地図、前に自分で言ってた
道の傾斜が変わるところとまったく関係ないところを起点にして、長さが150メートルになるように
調節してる
いい加減な捏造体質の人にはそれで十分なのかもしれないが、「塚なんてない」ことが
ほかの全員には一目瞭然 >>659
>津堂城山は、ヤマトタケルだよ
「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波
県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島
石井町教委は31日、2014年度から進めていた気延山の「山ノ神(やまのかみ)古墳」(同町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
4世紀半ば以降、畿内で栄えた政権とのつながりがあった可能性を示す資料とみられる。古墳は全長約56メートル、最大幅約30メートル、高さ6・7メートルに達し、前方後円墳としては、県内3番目の規模であることも分かった。
筒形銅器は円筒型で長さ11センチ、最大直径は2・7センチ。前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14メートル)の周辺部から出土した。やりの底の部分に飾りとして付けたり、祭事で楽器のような役割を果たしたりしたと推測される。
町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、この筒形銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
4世紀中期以降、奈良南部から河内地方にかけて成立した大和政権内部の新興勢力が、同盟や交流の証しに配った可能性が高いとされることから、気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。
古墳の築造時期は、前方後円墳が大代古墳(鳴門市)と同じ4世紀後半ごろ、円墳は4世紀末とした。県内で10基以上確認されている前方後円墳では、渋野丸山(徳島市)、愛宕山(板野町)の両古墳に次ぐ規模だった。
一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、古墳に段を築いたりした形跡が見られず、県内の前方後円墳では初のケースだった。
町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設がないか調査する方針。石井町教委は5日午前10時から現地説明会を開き、筒形銅器も展示する。
山ノ神古墳 1978年、宅地造成工事で発見された。
本格調査は行われておらず、町や県の史跡には未指定。町教委は保存活用のため、2014年度から古墳の一部で発掘調査を行い、これまで形象埴輪の破片や鉄鎌と鉄斧(てっぷ)が出土した。 @阿波 >>942
>「有棺無槨」の「槨」とは【埋葬後に人が出入りできる出入り口付の】構造物を言う。<
「【埋葬後に人が出入りできる出入り口付の】構造物」だなんて変な事、
誰が言ったの?。
根拠は?。 14C年代推定値の信頼度を高めることは、あまりレベルの高い話ではないな。。。 >>669
そうだね、、、
14C年代推定値の信頼度を高めることは、国民の興味が無いから、捏造に使われてしまう可能性があるな、、、 14C年代とは、14世紀のことを調べるのではないのかな。。。 >>944
>度量衡変えるくらいなら漢字も元に戻すわな
秦や漢で整えられた漢字を使う必要は無い<
魏朝は、周代の周髀算経で使われた度量衡の文字を使っている。 >>671
魏志倭人伝時代とは、関係が無いな。。。 >>633
>周髀算経から「1歩≒25.5cmだ」と分かるから、
周髀算経にはそんなことは書いてない
周髀算経の中で、1里=300歩=1800尺が確認できる
そして、八尺棒を立てて影を計っているが、これが短尺wwではないことは明らか
つまり、1里=1800尺である以上、短里ではありえない
つまり、周髀算経の一寸千里がそもそも間違っていた、というだけの話にしかならない >>635
>ほぼ全て「長里」が否定され、
ほぼをつければ否定されないとか、バカなことを考えて保険をかけてんじゃねーよww
>天柱山も含めて、
天柱山の話は、古田氏が言い始めた瞬間に、同じ九州説の安本美典氏に
速攻で否定・論破された事実があるんだが、古田史学関係者のみそれを認めていないww >>645
>神社の傍らに埋められた、土蜘蛛とは何者だったのかを討論するスレッドにすれば
そのスレはもうあるから、その議論がしたいなら書き込んできてあげれば?
★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1524110756/
そうすれば、左側スロープ君もこんなところで生き恥をさらさなくて済むかもしれないww >>650
>日本の古墳に奴婢を埋葬する習慣はなかったし、その痕跡もない。
左側スロープ君は、その論拠に記紀の記述を使っている
記紀の記述を信頼して論拠とするならば、垂仁紀に垂仁天皇のときに
殉葬を埴輪に代えた記事があるのだから垂仁陵以前の古墳には殉葬があったことになる
左側スロープ君が、記紀の土蜘蛛征伐という「殉葬とまったく無縁の記事」を論拠とするなら
直接に殉葬があったとする垂仁紀の記事から初期古墳には殉葬があったことが明記されていることになる
痕跡どころじゃないねww なんかなーーなんだろうな???
巻向や箸墓は邪馬台国論争の末席に居るようなスレ
識者は笛吹けども踊らず、畿内説を鼻で笑ってるし・・・・
キナイコシのお馬鹿さんは何を言いたいのだろうか?????
石野さんも寺澤さんも迷惑だよ・・彼らの過去は過去、学問は進化するの知らないのかな???
特に石野さんが可哀そうだよ、論調が変わってきてるが彼が纒向を王都と断定したことないよ
マスコミも悪いし、>>1のような奴もイカン
>>1は確実に寺澤さんにとっては迷惑な奴 >>950
>古墳時代は邪馬台国の痕跡を消しつつ、大和朝廷の威光を示すために、前方後円墳が全国に造られていった。
その国家事業が完了したからこそ、飛鳥時代の仏教祭祀へと埋葬方式が変化したのである<
関係がない。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
前方後円墳は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍たちが、
毛人を威圧し支配するために造ったもの。
大和は、その東征将軍らを「手助け」した。 @阿波
は簡単だよ 九州勢力が畿内を制圧する前線基地 >>954
>なるへそ...4世紀初頭にはすでに東アジア標準となっていた仏教を、
倭国が受容するのは6世紀末だもんね<
筑紫の雷山の千如寺にインド僧が来たのは、4〜5世紀頃であった筈。 阿波も倭国の有力な地
中国地方に狗奴国があったから倭国としては重要な地だよ >>681
>九州勢力が畿内を制圧する前線基地
ははは、九州のどこにそんな勢力があるのかね? まさか筑紫忌部じゃないよね? @阿波 >>684
きみね あのねーー
筑紫忌部の歴史を教えてくれよ >>686
>@阿波 も 最近 結論ありきの論調じゃないか
これまでは、@阿波が根拠を挙げてたってことがいいたいのだね? @阿波 >>684
きみね あのねーー
筑紫忌部の歴史を教えてくれよ
筑紫に忌部が来る前の筑紫の歴史も教えてくれよ >>973
>大間違い
「邪馬台国=大和国」中心の祭祀連合が成立=「卑弥呼の共立=ヒメ王・祭祀王の統一」
前方後円墳は、その連合に参加しているという証<
大間違い。
前方後円墳は、筑紫に始まり、
九州倭国の東征毛人五十五國の将軍たちが、
支配出来た毛人を(好太王碑にも記された)墓守り人にして造らせたもの。 >>690
まったく証拠のないトンデモ説だな、九州説は >>687
>筑紫忌部の歴史を教えてくれよ
「筑紫忌部の歴史」は、筑紫に前方後円墳や軽量薄型土器などの流入以後の歴史全般だよ。 @阿波 >>974
>>万世一系とは、「ワシら元は皆兄弟」の意味か!<
>そうだよ 日本(倭国)は、擬制的家族として国家を表現している
皇統はその総本家・本宗家で、天皇は本宗家の家長 日本はそういう構造<
違うな。
人類は、全て万世一系であるもの。
そして、明治政府が、
天皇家だけが特別に万世一系であったかのような嘘つき騙しをして、
それで国民を支配して、近隣諸国への侵略戦争をやらせる詐欺に使った。 >>679
こういうウソを平気でつける九州説の人って
正直スゴいと思う ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>95
>西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。
首都が筑紫から宗教色の強い大和に移る。<
大和は、九州倭国の別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>98
>前方後円墳は、もともとは円墳部分のみが墓である。
前方部分は陸橋(祭祀スペース)が進化したものである。
箸墓も円墳部分の大きさは、径百余歩と一致する。
やはり箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高い 。・・・<
「南≠東」だけで、始めから、×。 >>392
ありがとう
ヤマト王政の発祥の地は阿波だとする説だね
邪馬台国と関係ないかも 失礼
>>692
ありがとう
ヤマト王政の発祥の地は阿波だとする説だね
邪馬台国と関係ないかも >>697
>「南≠東」だけで、始めから、×。
残念だったな
九州説最後の頼みの綱「南≠東」が、とっくに「会稽東治之東」で、×。 そういえば叢雲の剣は三種の神器の一つとして、熱田神宮にあるそうだね、、、 中国の史書にも日本の王は村雲から始まったと書いてあるそうだね、、、 最初の王ということは天叢雲命は神武天皇ということだろうか?
ひょっとすると神武天皇にされてしまったということかな、、、 奈良盆地の開発はどこから始まったのだろうか、、、
畝傍山のあるという三輪山よりも笛吹を北に高鴨神社がある葛城の方が速いのではないかな、、、 逆に土蜘蛛伝説が葛城外に現れないのはどういうことだろうね、、、 >>659
>津堂城山は、ヤマトタケルだよ
何の根拠もないやんけw
百歩譲って津堂城山がヤマトタケル陵墓であったとしても、
その時代は4世紀後半。
そこから崇神の時代を考察すれば4世紀前半になるね。
ならばその数十年前のトヨとはトヨ津媛。
国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖・孝昭天王の母。
住んだのは葛城である。
したがって邪馬台国は葛城である。 ところで、天叢雲の父は天香山命らしいね、、、
天香山は石凝ドメと同一人物らしいね、、、
鏡作をしていたということだろうか、、、 奈良盆地に鏡が現れるのは、いつ頃になるのかな、、、 そういえば、伝世鏡として名高い鏡が元伊勢の籠神社にあるそうだね、、、 籠神社は丹波にあるのだから、丹波人が葛城にやってきたということだね、、、
そういえば、丹後半島は製鉄遺跡があるそうだね、、、鉄を求めて葛城に来たのだろうか、、、 >>705
>逆に土蜘蛛伝説が葛城外に現れないのはどういうことだろうね
全くその通り。
古代の奴婢って概念は土蜘蛛以外にない。
つまり土蜘蛛のいる所に卑弥呼がいたのだ。 >>707
>ところで、天叢雲の父は天香山命らしいね、、、
「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。
阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。
饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)
延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。
祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。 @阿波 >>678
>記紀の記述を信頼して論拠とするならば、垂仁紀に垂仁天皇のときに
殉葬を埴輪に代えた記事があるのだから垂仁陵以前の古墳には殉葬があったことになる
考古学的痕跡がなし。 ひょっとして神武天皇は2人いるのではないかな、、、 うましまじという人が葛城にやって来て、磐余彦と呼ばれるようになったらしいね、、、
柏原で即位した神武天皇と磐余彦になった神武天皇がいるのではないかな、、、 >>715
>考古学的痕跡がなし。
それ、左側スロープ君がずっと言われ続けていることなんだが?ww
蜘蛛塚とかいう石碑も、いつのものだか分からないし、
発掘もまったくされてないから考古学的痕跡はまったくない
さらに「塚」と言い張っているところは単に西から引かしに下る尾根上の雑木林ww
考古学的根拠、痕跡がまったくないww 名神大社が五つもある葛城では、
各社に詣でると必ず蜘蛛塚があるね、、、
ひょっとすると土蜘蛛と呼ばれてる人たちが奈良盆地の先住者だったのではないかな、、、 神武天皇と呼ばれる人は
兄の五瀬命が倒れるまで、ひょっとして何もしていないのではないかな、、、 宇陀から墨坂を通るにせよ
椎根津彦という人が活躍しているね、、、 葛城にいた鴨氏はどうして山城に移り住んだのかな、、、 >>545
>そこにはそこの勢力があるけれど(三島藍野陵)、奈良盆地と比べると
>量的、質的に小勢力なんだよな
三島溝杭耳の領土かな?
でも三島の神(鴨主)は京にも奈良にも進出しているから、そこだけ見て判断はできないよ。
上賀茂神社、下鴨神社、葛城も鴨主つまり三島の神の領土だからね。
饒速日に取られたけど。 土蜘蛛たちはだまし討ちで皆ごろしだったらしいね、、、 鴨氏の本貫地は三島大社がある愛媛県だけどね。
瀬戸内の文化を畿内に持ち込んで畿内を開拓した先駆者だよ。
葛城はその末端の一地域に過ぎない。
畿内説は近視眼的になり過ぎて、史料を無視し過ぎている。 箸墓の後円部先造説は一応箸墓古墳って本に言及されてるんだな
後円部と前方部のくびれの部分の処理が特殊らしいけど
結局トレンチ入れないと分かんねーな >>718
>蜘蛛塚とかいう石碑も、いつのものだか分からないし、
>発掘もまったくされてないから考古学的痕跡はまったくない
発掘もまったくされてない箸墓には奴婢の謂れや痕跡すらない。
一方、高天原には謂れがあるから石碑が立った。
特に日本最古の神社に痕跡があることは無視できまい。
箸バカ古墳支持者は消えなさい。 倭王武
倭武
倭武天皇
倭武命
用語の使い分け、人物の比定について、誰が明確に説明できる? >>727
>鴨氏の本貫地は三島大社がある愛媛県だけどね。
出雲 武と書いてタケルと読ませるのは訓読みなので後世に創作した人物なのだろう 大物主の話は、あとからこじつけたもの。
なぜなら、同類の話がいくつかあるから。
父親が不明なので、とりあえず大物主の子供ということにしたらしい。 >>730
>一方、高天原には謂れがあるから石碑が立った。
だから、それは土蜘蛛の謂れだろ?
それが殉葬奴婢とは、「まったく関係がない」ってことだよ
考古学的根拠も痕跡もなければ、肝心要の殉葬されるべき「塚がない」wwwww
あるのは、東の葛城が倭に向かって下る尾根筋の雑木林だけ
「斜面のある区間を取ったら高低差が36メートルになりました」って
いうのは「塚があるとは言わない」ww >>696
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。
(わかりやすくまとめ)
日本の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国と日本は完全に別の国である。
B 倭国と日本は同じ国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
日本の使者はウソをついているようなので
中国は日本の使者の話を信用しなかった。 >>733
>武と書いてタケルと読ませるのは訓読みなので後世に創作した人物なのだろう
「武」と書いてタケルと読ませるのは日本書紀
古事記ではタケルは「建」を使う
>>731
倭王武 宋書の記載 比定者は雄略天皇
倭武 典拠はどこ?
倭武天皇 常陸国風土記の記載 比定者はヤマトタケルとすることが多いが不明といえば不明
倭武命 典拠はどこ?
ヤマトタケルは、日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命 孝霊天皇の宮が葛城から移動したのはなぜだろうか、、、 >>727
>鴨氏の本貫地は三島大社がある愛媛県だけどね。
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。
また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、
更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。
鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」 @阿波 >>740
>孝霊天皇の宮が葛城から移動したのはなぜだろうか、、、
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、
百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内天佐自能和気神社で祀られている。
王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。 @阿波 >>736
>だから、それは土蜘蛛の謂れだろ?
それが殉葬奴婢とは、「まったく関係がない」ってことだよ
考古学的痕跡など箸墓も高天原も発掘できないので同じ。
ところが高天原には土蜘蛛が埋葬されてる謂れがあると言ってるわけだ。
おまえほんと女の腐ったような性格だな。 >>505
>この男は、「否定していた」ねえ。
そんな投稿してないねぇ。
>「景初三年」という情報は、 唐代以後の後代の「自己解釈に拠る書き換え」
>が沢山あった信頼性が半分以下の史家などの記載であり、
なんの根拠もありませんねぇ。
>写本版本などの「景初二年」など記録を否定してまでして、
写本から引用した日本書紀は「景初三年」なんだよね。
>>《通史》《通典》の話に、突然《晋書》が出てくるのか、さっぱりわかりませんねぇ。<
>後代の史家の「二年→三年」という「自己解釈に拠る書き換え」の、
>論理の出発点や原因になったのが、晋書の「曖昧な記載」であったから。
的外れですね。
日本書紀の引用は北宋の刊本以前の魏志の写本からですからねぇ。
刊本を元にした《通典》ではねぇ。
>99.5%以上の確率のある写本版本の「二年」を否定してまでして、
>はるか後代学者の「自己解釈に拠る書き換え」の、確率が殆どない「三年」を採用するなんて、
>この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者には、呆れます。
>「イイとこ取り」なのでしょうね。
「ついうっかり」と99.5%がどう結びつくのかなぁ?
それに99.5%があてにならない数字だったの忘れたのかなぁ?
以前、三國志の文字数と裴注の文字数を教えてあげたのにね。
まだ言うんだぁ。
「景初二年は三年の誤」と言うのが中国でも主流なんだってば。 >>510
>まさに、信頼性や客観性の高い同時代記録文献の「全否定」ですねぇ。
>日本書紀も、倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であり、
>魏志の卑弥呼と壹與の事績を神功紀に挿入したり、ついうっかり「明帝」と書いてしまったりの、
>全く信頼性がないのですよ。
こちらは多数の文献から誤記を判定してるだけなんですがね。
今度は日本書紀の否定ですかぁ。
やっぱり全文献の否定の一環ですねぇ。 >>749
>邪馬台国はわからないが天皇のルーツは四国だろうね
天皇のルーツが邪馬台国だよ。 @阿波 >>747
>刊本を元にした《通典》ではねぇ。
《通典》は〜(801年)でした。
間違っておりました。謹んで訂正します。 >>751
>神武東征では四国に立ち寄らないんだよね。
それ、もうガラパ説だよ。 @阿波 >>516
>景初三年の12月の次に「景初三年の後十二月」を置いたんだから、1年余り喪に服したんだよ。
《通典》卷八十
『魏武帝遺詔:「百官當臨殿中者,十五舉音。葬畢便除。」文帝崩,國內服三日。蜀劉備,臣下發喪滿三日,除服,至葬復如禮。此則魏蜀又異於漢也。』
文帝が崩御した時はたった三日らしいぞ。
一年なんて何の根拠もないようだね。
>いや、劉マは、帯方の「越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬」までが任務であり、
「までが任務」というのも君の思い付きですよね。
それを「景初二年六月」以前に終えて、後任が来て交代なんて出来ないでしょ。
>おそらく、劉マらは、公孫氏戦に出動しており、
これも妄想ですよね。「おそらく」だし、どこにもそんな記事ないし。
>劉夏は、公孫氏征伐完了時点頃までの後役の太守だな。
「時点頃」ってどういう時間的範囲を指すのかなぁ?
公孫氏征伐完了は景初二年八月。
劉夏が太守と確認できるのが六月。
二年だと矛盾があるよね。 >>449
金印紫綬も称号付与もなし
これを朝貢とは言わん
間違いを認めて謝罪せい それよりも
『エレクトリカルパレード』〜『午前0時のMERRY-GO-ROUND』
同じような雰囲気じゃない?
老婆が言うには「くもすけ」が何やらと言っていた事があったり、
テレビに「ジギー」が出てきたときの話なんだけど、なぜ詳しいんだと思う あと『ザ・モモタロウ』に出てくるウラシマンの台詞
ぼく、ドザエモン(どらえも〜ん)とか 「本物だぞ」
という書き込み、見たことがあるでしょ、
家の写真のことだと思うんだけど
何度、説明してもわからない? 僕たちもそろそろ、いい加減な捏造体質の人の本格的な研究を、始めるべきなのかもしれないな。。。 他のスレ、サイトなどでも言われていない?
どこそこ、誰々は、偽の〜・・・・などを祀っているとか レベルの高い謎の考古学者が出現して、レベルの高いことを発表しているな。。。
鏡作をしていた石凝ドメと同一人物の、天香山命とは、一体、何者なのだろうか、、、 『サイバーパンクspecial』
ロトちゃんというキャラででしょ、
電車、汽車のようなものが出てきて、
母親が何やらと言っていたり
なぜか川崎区に住んでいる >>157
大和朝廷キチガイの後は畿内キチガイで、
畿内キチガイの後は阿波キチガイで、
阿波キチガイの後は纏向キチガイで、
纏向キチガイの後は葛城キチガイで、
葛城キチガイの後はまた戻って大和朝廷キチガイか。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のグループは、
色とりどりのキチガイが湧いて出てきて飽きないな。 >>160
「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説の、毎度の思考回路だな。
少しでもネタがあると、他の全ても無理やりこじつけて、
あらゆるものの根源とか言い出す。
低能にふさわしいアホさだな。 >>184
こういう荒らしの存在で、広く人々は、
「南→東」などの嘘吐き騙しのの大和説が、
反論が出来なくて、完全に死んだことを知る。 とある時代になり、
テキトーに作ったのがいるんじゃないの?
実際は家の話なのに、
家系のようなものも、勝手に繋げたり >>186
>庄内式も吉備の技法と大和の技法が合わさって河内で誕生したのが分かってる<
おや?、この「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
筑紫の庄内の事を言わない。
>阿波は元々大和のX式土器の伝播先で阿波から何かが伝わってるわけではない
前方後円墳も吉備→播磨、讃岐、阿波という過程で形が作られている
順序的には播磨、讃岐が先行してる 初期の纏向型は葺石をしない等の独自点もあるからそのストレートな流れで来たわけでもないと言われている >>772の追加(また途中で投稿ボタンを押した事になっていた)
>前方後円墳も吉備→播磨、讃岐、阿波という過程で形が作られている
順序的には播磨、讃岐が先行してる 初期の纏向型は葺石をしない等の独自点もあるから
そのストレートな流れで来たわけでもないと言われている<
おや?、この大和説男は、また、筑紫の冢や前方後円墳の事を言わないな。 第七十三世竹内宿禰が言っていた、外国人が攻めて来たとはどういうことだろうか、、、 川崎区に住んでいるんだ
と言っているんだよw
神奈川県の 倭人伝にいう倭国大乱となにか関係があるのだろうか、、、 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>187
>で、この流れと同様の理由で九州説とかいう物が成り立たないのが分かる
庄内の誕生と伝播の動き<
庄内は、楽浪土器の技術や金属器やガラスの溶融技能が必須であり、
発生は卑弥呼の頃の筑紫。
大和の石塚の庄内は3世紀末。
>前方後円墳の成立の動き ここに九州など微塵も絡んでない
一方的に受け入れてるだけの場所 それも卑弥呼の時代に <
卑弥呼の墓は冢であり、筑紫の那珂八幡などの前方後円墳がその後であり、
大和などが更に後。 謎の地震?
最近、千葉県のほうばかりみたいなだなw
と言ってる人がいたり
どういう事だと思う?
創価、なんていう宗派? もし、この年代で孝霊天皇が戦っていたとしたらどうだろうか、、、
孝霊天皇は負けたから宮都が動いたのではないかな、、、 >>190
>鏡についても既に完形鏡を出土させない九州に漢鏡の中心地など存在しない<
この「南→東」などの嘘吐き騙しの纏向男は、また「完成鏡」なんて騙し文言で、
△を隠蔽して、世間の人々を騙そうとしている。
筑紫には、勿論漢鏡は非常に沢山出ているし、△も沢山出ているが、
大和からは、3世紀末以後の「粗悪な副葬用」の△が中心。 頭の良い人は気づいている
うらしまん・・・・その他・・・・・・
の本名〜〜〜〜『松傾』でしょ? 2世紀末に栄えたというのは、唐古・鍵遺跡ではなかったのかな、、、 何かの家なんだろう?
と知っているのか?気づいているような人がいたり
かなーり前からの話 池上曽根遺跡は河内にあるから、ナカソオネヒコではなく、ナカソフネヒコというのが本当なのではないかな、、、 添の地には、ワニニイマス赤坂比古神社があるね、、、 「うだうだ 銀』?
というキャラが出てくる作品があるんだけど、
なぜか同じような話だし
わにぱーく?船長が〜みたいな、
そういうシーンがあったり ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>518
瀬戸内南岸は、神武通ってないし。
神武は、瀬戸内北岸。
瀬戸内南岸は、完全無視。 上の名前も・・・『松傾』?
謎の刀の話も同じ、
泥棒のようなものに入られた?みたいな話も同じだしな・・・、
何なんだろう 銅鐸がなくなったのはうましまじを擁立した磯城氏と高鴨氏も認めざるを得なかったというわけだね、、、 『何者にもなれない お前たち』
これも、ほとんど同じだし >>792
南岸と北岸なんて、目と鼻の先だろ。
それに南岸には、神武を助けたと言われる三島溝杭耳の本拠地である伊予の大三島神社があるから、すでに領土だったと考えられる。
三島溝杭耳の足跡は、大阪の溝杭神社、京都の賀茂神社などにあり、大和葛城などにも進出している。
行き違いで鴨一族の登美の長髄彦は神武と戦うことになったが、饒速日により成敗されて、長髄彦の姪のイスケヨリ姫が神武の妃となった。 ダンボ?サーカスではないんだけど、
芝居、歌舞伎〜という話とか、同じような気がする 『鼻』〜筋肉少女帯『福耳の子供』福助人形?
老婆というか、・・・なぜ詳しいのか?なんだよ 孝霊天皇の次の孝元天皇とは彦国牽というが
彦国葺という人物が和邇氏にもいるのはどういうことだろうか、、、 >>801
関係無いよ、雨と飴とか?
そういう事(話などを、おかしく)
をしようとしているのがいるだけ、
何か嫌な事があったのかもしれない グーグルで検索
『ボーボボ』〜『NARUTO』?の画像を見てみて この謎の鳥の置物とか、
同じ家(キュウリのような葉、葱の華・・・などの写真)の写真なんだけど、
何なんだろう、福助人形もあるし、かなり詳しい?
http://iup.2ch-library.com/i/i1948406-1541781654.jpg むかしはイナリ?
みたいなものを祀っていたと言っていたり、
ほとんど老婆が捨てたとか 日本の話なんですよw
と言ってる人もいたような
何の話なんだろう、でっど・おあ・あらいぶ? 『うらしまマリン』
同じような画像ばかりが出てくるし 荒れ過ぎだろ
狂人の様な書き込みしてる奴はリアルは大丈夫なんか 数年前だったかな?
また何か発明したのか?と言ってる人がいたような・・・
『ぼやっきー 会津』? お前に言ってるわけではない
あと、これも数年前のとあるスレ
実在してたのか!と言ってる人がいたり 人の家の話ではないのか?
と言ってる人もいたような その貼り付けた写真があるでしょ、
それも数十年も前の写真
あと会津赤べえ(赤い牛)の
写真もあるんだけどw
どういうことだと思う 貼り付けている写真など・・・
『松傾』と同じ家だと言っているんだよ、わからない? 本当のデスラーのような人物の写真なんだと思う、
白い制服のようなものを着ている子供が写っているんだけど、
その子供自身も後に軍人などになったわけでもない、
親も軍人ではないと言っていたり 京都大学考古学研究室編 『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』 >>257
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和珍説は、
積み重ねられた情報を一切知りもしないで、
妄想だけでトンチンカンな結論出して、それを平気で叫ぶからな。
自分が珍説サイト流し読みしかしたことない知識なの分かってるだろうにな。
なんでこんなに自信満々なのか理解に苦しむ。 いくら勉強をしても、わからないことがあるんだろう。
寺院に通っていたような事も言っていた。
これも確実、山の上のほうに住んでいたんだよ
と言っていた。 >>261
文章が無駄に偉そうでしかも意味不明なところが、
「南→東などの嘘吐き騙し」の大和説バカにそっくりだな。 279
阿波バカと葛城バカと纏向バカが、お互いに同意レスつけあってて笑うw。
珍説バカはやっぱり底辺同士波長が合うんだなw。 これも同じ家の写真なんだけど、
なぜ偉そうにしているんだと思うw
『オジギソウ』
年代的には
泥棒のようなもの(老婆談)に入られた後のもの
http://iup.2ch-library.com/i/i1948445-1541799418.jpg >>300
>邪馬台国とhあ葛城である。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>303
>邪馬台国とはトヨ津媛とヒメ踏鞴五十鈴が住んだ葛城である<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても×ね。 >>322
>崇神の方を少し後だとする人も多いけれど、卑弥呼も崇神も
ヤマト王権の始祖王としての性格を持ち、ヤマト王権が立ち上がる時期の王であるのは確実<
「南≠東」などに拠って、×。 ソテツ?ヤシの木じゃないんだけど、
そういう類の植物も植えてあった
その植物があったというのは、
もれ(仮)も知っている
松(もみ?)の木は見たことない >>801
各士族のトーテムみたいなものがあったとも言われているね。 >>796
>イスケヨリ姫が神武の妃となった。
神武がヒメの婿だ。通い婚だからな。
またどうしても使うのなら「后」であって「妃」ではない。 母親が言うには(母親の知っている限りでは)
あまりペラペラ話をしたりもしないし、
偉そうにもしていなかったという話なんだけど
どういう事なんだろう >>784
唐古・鍵遺跡が2世紀の大和の都だとは思わないが、
2世紀の大和が銅鐸文化であったことが分かる。
という事は2世紀前半の其国の男王は銅鐸文化の王だ。
ならそれは誰なのか、もう明らか。
カモ地名に銅鐸ありと言われる鴨族だ。
物部の史書である先代旧事本紀でも天皇家以外に系図が書かれてるのが鴨である。
鴨(神)が王であったからだ。
ヒミコもその鴨族の中にいるしトヨもそう。
場所は鴨族の聖地・高天原。
纏向なんて言ってるやつはほぼ知恵遅れに等しい。 もはや九州説はキチガイめいたたわごとだけしか言ってないな >>835
そいつは畿内説だろ
大和の葛城が王都だと言っているのだから >>834
>カモ地名に銅鐸ありと言われる鴨族だ。
鴨が卑弥呼と関係ないということだよ
卑弥呼は銅鏡文化だからね >卑弥呼も崇神も
ヤマト王権の始祖王としての性格を持ち、
ヒミコは始祖ではない。
2世紀からの男王王権が倭国大乱で弱ってしまい、仕方なく便宜的に擁立した女王だ。
ヒミコが始祖王なんてのは、
纏向説者が纏向遺跡の様相に無理にすり合わせようとしてるだけ。
その代表がここのアホの>>1 それにしても、何なんだろう、
ストーカーがいるのかな?
また、あの写真を貼り付けるしかない・・・?、
キュウリのような葉、葱の華などの写っている写真 >>838
倭人社会には鏡文化と銅鐸文化が存在。
2世紀前半からの王権は銅鐸文化。
ヒミコの鬼道が鏡なら、
中国発祥の鏡祭祀を中国側が鬼道とは呼ばない。 >>836
これで上手いこと言った積もりになってるんだから
頭悪 >>837
そいつもキチガイだけど
九州説はそいつと同じかそれ以上 九州にそれらしい勢力が無いから畿内に回答を求めるのは自然なんだよな カモカモ短絡してるおバカさんもいるけど、欠史八代の「皇后」って圧倒的に三輪大物主系統だろ
つまり新時代に適応できなかった遅れた連中が奥地に取り残さただけじゃないか
確かに葛城は奈良盆地の大勢力だけど、利口な連中は纏向に行って出世してるんだよ
葛城も神別葛城と皇別葛城は同じじゃない
4世紀後半から活躍するのは皇別葛城だ
なんでも一緒くたにする単純の上は歴史など解らないよ そもそも畿内説スレに九州説が突撃してくる事の意味がわからん
そんなにこのスレの存在が気になるのか 物部の郷である纏向を王都(笑)
イカガノシコオの墓である箸墓を卑弥呼墓(笑)
いい加減、間違いに気づけよ(笑) >>842
そうね
小学生脳zarakoku以下のオウムだな 本当に何なんだろう、
もれ(仮)の、おばさんのストーカーとか?
そのような気がするんだけど >>846
>欠史八代の「皇后」って圧倒的に三輪大物主系統だろ
当時に天皇皇后って称号はないからね。
神武や懿徳は女王の婿。 >>839
>ヒミコは始祖ではない。
>2世紀からの男王王権が倭国大乱で弱ってしまい、仕方なく便宜的に擁立した女王だ。
>ヒミコが始祖王なんてのは、
>纏向説者が纏向遺跡の様相に無理にすり合わせようとしてるだけ。
同意
>その代表がここのアホの>>1
同意 >>841
>2世紀前半からの王権は銅鐸文化。
2世紀の銅鏡文化の中心はどこだ? >>841
張魯の五斗米道が鬼道の典型ですが、何か? >>849
理由ナシ断定じいさんは
存在しない墳丘やスロープが見える
空飛ぶ円盤目撃者クラスのオツム
ww 葛城が王都であり
土蜘蛛が先住者であり
神武天皇とされたうましまじがヤソタケルをだまし討ちにしたことがはっきりしたね、、、
うましまじの力を借りて孝元天皇が擁立されたから孝元天皇には物部の夫人がいるのだね、、、
村雲に始まる海王朝は孝霊天皇で終わってしまったのだね、、、 >>846
>確かに葛城は奈良盆地の大勢力だけど、利口な連中は纏向に行って出世してるんだよ
目糞鼻糞
奈良盆地全体が、畿内の中でも阻害された(河内からハブられている)田舎で、その畿内も越や出雲や吉備や筑紫に比べたらまだ未開の地だよ。 >>855
2世紀の銅鏡文化の中心は北部九州だろうね。 三輪氏のアタカタスの子に和邇古という人がいるね、、、
海王朝は物部と三輪氏の両方から夫人を娶ることで婿入り婚特有の政治体制に革新を起こしたのではないかな、、、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>859
いくら脳内で妄想してもダメでしょ
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 王都である筑紫を追われた磐余彦は、遠縁である饒速日を頼って大和にたどり着き、やはり遠縁である鴨族の娘であるイスケヨリヒメに婿入りした。 とあるゲーム内の知人との会話、
実際の知り合いではない
静岡、幸区が何やら〜、
と言ってる人がいたり >>868
こういう一切論拠を出せない奴が
トンデモの典型と呼ばれます それで孝元天皇の家系が祭祀を司り
開化天皇から引き続き王統を続けたということだね、、、
第七十三世竹内宿禰もそう言っているからそういうことなんだろうね、、、 祭祀を司っていたのは神八井耳ではなかったのかな、、、 長々と他人の発言を引用して「賛成」と一言だけ書くのは
1.誰も賛成してくれなかったトンデモ男の惨めな自演
2.思考能力のない可哀想な人の付和雷同
どっちも悲惨だな おばさんの話
結婚して、かなり経ってからの話になるんだけど、
越していった先が静岡
・・・・・・・・・・何なんだろう ところで彦坐王という人が丹波や近江若狭但馬因幡にたくさん伝承があるのはなぜだろうか、、、 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の中では瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。 『ボーボボ』でググると出てくるマリン?
なぜか広島のほうの方言だし、少し違う? >>328
「南→東」などの嘘つき騙しでしか読めないような人は、
基本的な知的能力に欠けているって話だろ?。
まあ、人に見えない「東」が見える人もかなり欠落してるけどさ。
判断能力とか、整合性をはかる論理力とか、諸々の知的能力が欠けてると思うよw。 卑弥呼の鬼道が五斗米道だと言っているわけではなく、鏡を使った祭祀を鬼道と呼ぶ例を挙げてあるだけでは?
いやまあ、五斗米道の説明を読んだら、思った以上に邪馬台国らしくて驚いたけどな。 >>879は日本語読む能力がなさすぎだね
「中国発祥の鏡祭祀を中国側が鬼道とは呼ばない」
って妄言の見事な反証だろ
初期道教は鏡祭祀と切っても切れない関係だ 漫画などの話になるんだけど
もれ(仮)と、銀□?という人が〜同化しているのかな、
親戚に、銀□というのがいて・・・・・
むか−し、家に謎の刀が・・・、それで弟なの? >>882
ほら、まったく証拠が出せない発言をする
だから九州説はトンデモから一歩も出られない もれ(仮)の妹というのが『5月15日』生まれでしょ、
兄、弟・・・。 卑弥呼の鬼道が鏡を使ったなんてのは確証とまでは言わないけど論拠があるものなのだろうか
なんか現代では絵に描かれるとそうなってるけど 前方後円墳と前方後方墳の分布をよく確認した方がいいよ
前方後方墳は近畿以東を中心に分布するが
吉野ヶ里遺跡にあるのは前方後方墳
「狗奴国」の範囲がわかるじゃん
つまり狗奴国は「卑弥呼共立に反対した国」であって
各国の連合勢力であった
その中心は佐賀であって、邪馬台国勢力(前方後円墳勢力、北部九州〜瀬戸内海〜奈良)を避けた、奈良以東に広がっていた
そして卑弥呼とヒミココはもとより和せず、なのだから、
仲の悪い近隣国なわけじゃん
狗奴国=佐賀、邪馬台国=福岡ってわかるよね 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが作製した、テンプレートの全体が、論破されてしまったので、スレッドが寂れてしまったな。。。。 >>888
卑弥呼が魏から大量の鏡を受け取っているから、卑弥呼が祭祀に用いて権威を示したと考えられる。
逆に銅鐸は魏志倭人伝に登場しない。
そして五斗米道(鬼道)といえば鏡と剣がシンボル。 崇神天皇がアマテラスを宮中から出して
アマテラスが放浪したからではないかな、、、 >>889
>狗奴国=佐賀、邪馬台国=福岡ってわかるよね
狗奴国=肥国、邪馬台国=筑紫 >>359
>「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」より引用
橋本輝彦: 東アジアにおける都市の成立
(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集Vol. 22), pp.81-102<
橋本輝彦も、「南→東」などの嘘つき騙しの「大和説先にありき」の学者であるから、
×人間。 老婆談というか、
あの時代にドラクエとかも無かったしな・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どういう話なんだろう ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 神八井耳の庶兄タギシミミは高鴨氏の祖神
アジスキタカヒコネの弟らしいね、、、 神武天皇にまつわる色々は時代が錯綜しているのではないかな、、、 銅鐸がなくなったのはうましまじが鏡崇拝を強要したからではないかな、、、 東海に銅鐸が独自発展するのはどういうことだろうか、、、 銅鐸を作っていた人たちが伊勢ー美濃ー尾張と移り住んだからではないかな、、、 >>743
>考古学的痕跡など箸墓も高天原も発掘できないので同じ。
発掘されていないという一点が同じなだけ
纒向には巨大な塚・古墳がいくつもあるのに
高天には「東に下る傾斜地の雑木林」を、「塚だと言い張る自称天才」が
いるだけで「塚など一切ない」
「塚がない」時点で高天は候補にかすりもしない
>ところが高天原には土蜘蛛が埋葬されてる謂れがあると言ってるわけだ。
蜘蛛塚という名称は「民間伝承」で、土蜘蛛との関連は認められても殉葬奴婢とは無関係
古墳に殉葬が垂仁朝まであったというのは国家権力が編纂した公式史書での記録
こちらは殉葬に関する直接記述だ
どちらも未確認だが、信頼度には当然差がある
まあ、信頼度がどうこうの前に、殉葬対象の「塚がない」時点で問題外のそとなんだが
>おまえほんと女の腐ったような性格だな。
まともな反論ができなくなると、情緒的な人格攻撃に走るのはトンデモ説に共通だなw 葛城にも纏向にも終わりにも特徴的な土器が存在するらしいね、、、 >>893
なぜ?
俺は前方後方墳という根拠を示してるんだが 弥生最大の遺跡である佐賀吉野ヶ里遺跡
そこに作られたのが前方後方墳
この意味を考えたほうがいいよ
倭国大乱とはなんなのか、
もっといえば倭国王帥升の本拠地はどこなのか 倭国王帥升
別の書によると倭面土国の帥升
面土国=メタ国=佐賀の米多郷=吉野ヶ里だろ
帥升の時代と吉野ヶ里の最盛期も一致する >>398
>邪馬台国=ヤマト王権じゃん<
邪馬台国なんて存在もしないし、「南≠東」などに拠っても×。 馬鹿じゃね?
倭国乱後も作られてんだから前方後方墳は邪馬台国側だろが。 >>907
邪馬台国=ヤマト朝廷論なら、邪馬台国は奈良だろ 九州の前方後方墳は古墳時代以降のが多いから、
むしろ東日本の前方後方墳勢力が邪馬台国に加勢して勝利して、
政略結婚とかで九州に入って来たんだろうな。 たまたま保存状態が良かった吉野ケ里を何かに当てはめるのは慎重にした方が良くね ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>847
>そんなにこのスレの存在が気になるのか
スレそのものより、テンプレが嫌いみたいだよ
九州説の根拠wが、論破されてきたのが全部記録されてるからね
ばっちり根拠が着いた状態でww >>403
>卑弥呼の墓は椿井大塚山古墳なのです<
前方後円墳だから、卑弥呼の冢ではなく、
「南≠東」に拠っても、×。
鉄武具が非常に多いから、おそらく、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍的な地位の人の墓。 >>908
倭面土国(ヤマト国)
顔に朱(土)を塗った人がいたので倭面土を当て字した。 >>913
それはすべての遺跡や古墳に当てはまる
箸墓も巻向もたまたま保存状態が良かっただけ >>918
あなたしつこく
自説に都合のいい解釈ばかりしてるね。
倭人伝通りなら九州もあてはまらないだろ。
倭人伝通りなら邪馬台国は沖縄付近になる。 >>889
>吉野ヶ里遺跡にあるのは前方後方墳
それ、何? どこにあるの?
吉野ヶ里の首長墓は、北墳丘墓でしょ? >>919
ヤマトと読んでもいいけど、だとしたら場所はどこなの?奈良なの? また、頭の悪いことが発表されたな。。。
畿内説が論破されてしまったので狂ってしまったのではないかな。。。
>>903
>>>743
>>考古学的痕跡など箸墓も高天原も発掘できないので同じ。
>
>発掘されていないという一点が同じなだけ
>纒向には巨大な塚・古墳がいくつもあるのに
>高天には「東に下る傾斜地の雑木林」を、「塚だと言い張る自称天才」が
>いるだけで「塚など一切ない」
>「塚がない」時点で高天は候補にかすりもしない
>
>>ところが高天原には土蜘蛛が埋葬されてる謂れがあると言ってるわけだ。
>
>蜘蛛塚という名称は「民間伝承」で、土蜘蛛との関連は認められても殉葬奴婢とは無関係
>古墳に殉葬が垂仁朝まであったというのは国家権力が編纂した公式史書での記録
>こちらは殉葬に関する直接記述だ
>
>どちらも未確認だが、信頼度には当然差がある
>まあ、信頼度がどうこうの前に、殉葬対象の「塚がない」時点で問題外のそとなんだが
>
>>おまえほんと女の腐ったような性格だな。
>
>まともな反論ができなくなると、情緒的な人格攻撃に走るのはトンデモ説に共通だなw >>923
もちろん首都は奈良だろ。奈良は筑紫まで支配してたが >>894
>橋本輝彦も、「南→東」などの嘘つき騙しの「大和説先にありき」の学者であるから、
いや、現在まともな研究をしている研究者は全員「畿内に3世紀の倭国の政治状況の中心があった」と
いうのは、既に共通の基盤になってるんだから当たり前だろう >>410
>前方後円墳=冢なんだろ<
「墳」と名付けられるような墓は、「冢」ではない。
>しかも卑弥呼の墓は大きな冢と魏志倭人伝にある<
「大きな墓」は間違い。「墓を大いに作った」という意味。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>901
>東海に銅鐸が独自発展するのはどういうことだろうか、、、
倭国(阿波)を発った東海忌部がもたらしたものと、何度言えばw @阿波
http://www.tokushima-u.ac.jp/docs/2013021800045/
蔵本キャンパスで弥生時代から古墳時代の大規模集落と銅鐸片等が発見されました
平成24年4月から行われた立体駐車場建設予定地内の発掘調査で、弥生時代から古墳時代の大規模集落と銅鐸片等が発見され、2月9日に地域の方々に公開し、説明会を行いました。
蔵本キャンパスの庄・蔵本遺跡は、四国では最大級の弥生時代の初期農耕集落跡です。同遺跡は1980年代から調査が行われ、これまでにも集落、畑、用水路の遺構などが発見されています。
今回発見された遺構は、住居跡約10棟、井戸4基、お墓3基などで、土器や木製品も多く出土しました。
今回発見された銅鐸片は、銅鐸の飾耳の破片と考えられ、中央部に穴を開けて紐を通し、ペンダントのように使用されていたと推測されます。
このような銅鐸の二次利用は東海地方では確認されていますが、西日本では今回の出土例が初めてです。当時の住民が海を越えて東海地方とも交流があった可能性も考えられます。 継体天皇の話からは、越も筑紫も、畿内と交流はあるが別の国のようだ。
畿内の王統が途絶えて、遠い縁者の越から次の王を迎えた。
もちろん、卑弥呼は郡使が駐在した九州北部の側だ。 >>921
それは誤読しているからだよ。
ちゃんと九州におさまるよ。 >>920
箸墓や巻向が推されるのは年代的な可能性や同時期としては隔絶した規模の大きさによるものだから違うでしょ
吉野ケ里は復元展示の威容がかなり影響してると思うな
吉野ケ里から邪馬台国が見えるだっけ良いキャッチコピーだわこれには脱帽 >>905
>俺は前方後方墳という根拠を示してるんだが
全国最大の前方後方墳も奈良盆地東部の大倭・柳本古墳群にあることから、
前方後方墳を好む勢力も畿内政権に参画していることが確認できるよね
「100メートルを超える前方後方墳5基が大和に集中している。また、日本最長の前方後方墳は、
天理市の西山古墳(180メートル、古墳時代前期)である。同市には羽多子塚古墳(144メートル、
同前期)、新山古墳(137メートル)、下池山古墳(120メートル、同初期)、フサギ塚古墳
(110メートル、)マバカ古墳(74メートル、同最初期か)、ノムギ古墳(63メートル、同最初期か)、
星塚古墳(56メートル)などが存在する。」ウィキペディアより >>418
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
とうとう安い挑発ぐらいしか出来なくなってしまったようだ。 倭奴国(博多)の領域が広がり、首都が南遷→吉野ヶ里へ
遷都の理由
博多は外国勢力の影響を受けやすく不安定なため
帥升の大量生口朝貢
=征服した吉野ヶ里の原住民捕虜を奴隷として漢に贈る
倭国大乱→南遷倭奴国の反対勢力が決起
反乱の神輿が卑弥呼
邪馬台国=福岡の朝倉〜日田
邪馬台国連合=北部九州〜瀬戸内海〜奈良(遠絶のため不可得詳の国々)
邪馬台国の東遷
狗奴国からの圧力と戦乱を避けるため、王都を奈良に移す >>938
規模は比較できるじゃん
吉野ケ里は標準サイズなのが分かってるのだし >>933
倭人伝にははっきりと
倭国の位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東(沖縄付近)にあると書いてある。 >>419
>倭王武の上表文なんて自ら臣下になりたいと言ってるのだからなぁ。
まぁ雄略であろうが。<
雄略は、倭王武と、名前も、年次も、事績も全く合わないから、×。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>940
吉野ヶ里は王都ではないよ。
規模からいえばふつうの九州のクニの一つ。
王都は筑紫の日向、すなわち伊都国と奴国を合わせた高祖山周辺。 >>944
短里で報告された距離を長里で解釈したので、九州の邪馬台国が会稽の東くらいに来ると思っただのだろう。
畿内はどうやっても会稽の東にならない。 佐賀の田舎もんが吉野ヶ里の発掘で舞い上がっちゃったんだろうな >>906
>弥生最大の遺跡である佐賀吉野ヶ里遺跡
これ、間違いだよ
吉野ヶ里は墓域まで環濠で囲っているので、「環濠の規模」が最大なだけ
よく最大の環濠集落と言われるけれど、「最大の環濠」集落であって、
集落規模としては最大ではないよ
集落規模としては、池上曽根遺跡や唐古鍵遺跡の方が大きい
まあ、大集落遺跡なのは間違いないけど 吉野ヶ里からは銅剣の鋳型が出てる
銅剣文化圏の中心 >>952
唐古鍵からは銅鐸の鋳型がでてる
銅鐸の文化圏の中心だな >>907
>土蜘蛛は公式にも記録されてますが、何か?
土蜘蛛と殉葬奴婢には、なんの関係もない
そこを脳内妄想で結びつけているだけのトンデモだっていうこと
しかも殉葬奴婢を埋めるべき塚がそもそも高天にはない
根本から破綻してるのに何をがんばっているんだか
左側スロープもなかったのにww >>933
>ちゃんと九州におさまるよ。
そのためには「短里の捏造が必要」で、
水行、陸行記述の「アクロバット珍解釈」が必要なんでしょ?
分かりますww >>948
なんで短里なんかで報告するの?
魏の役人じゃないの?
畿内が会稽の東にならないって証拠は?
理由もなく支離滅裂なその場限りの思いつきを言い張るだけが九州説ですか? 西暦57年
筑紫(倭奴国)と大和には別の国があったのは明らか。
西暦180〜190年
大和が筑紫を支配して邪馬台国(大和)が首都の倭国ができあがっている >>889
福岡(奴国、不彌国)から水行、船出した先にあるのが邪馬台国と
魏志倭人伝に書いてあるぞ 卑弥呼は祭祀に鏡を用いていたから、中国人から見て鬼道(鏡と剣を用いる五斗米道)のように見えた。
銅鐸文化圏の畿内は邪馬台国ではない。
後に筑紫の銅鏡文化や瀬戸内の銅剣文化が奈良盆地にも流入し、銅鐸文化は放棄される。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>948
自説のためには都合のいい解釈をなんの根拠もなく採用するのねw 方位的には畿内の方が距離があるからより東に近くなるんじゃね
九州が北北東なら畿内は北東とか 西暦57年
筑紫(倭奴国)と大和には別の国があったのは明らか。
西暦180〜190年
筑紫における倭国大乱の余波が大和にも及び、銅鐸文化は放棄させられる。
筑紫では大乱を収拾するため卑弥呼が共立される。 >>935
>吉野ケ里から邪馬台国が見えるだっけ良いキャッチコピーだわこれには脱帽
高島先生の言葉だね
高島先生は今もがんばって九州説の立場をとられてるけど、吉野ヶ里遺跡の保存に
尽力された方だから、行きがかり上旗を降ろせないってこともある
吉野ヶ里遺跡の保存には「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」という高島先生の言葉が
効いてるからね
まあ、邪馬台国の会のページでは、この言葉が「邪馬台国は吉野ヶ里の楼観から見えた」に
化けちゃってるんだがw
まあ、正確には「邪馬台国が見えてきた」だったらしいんだけれどw
本来の意味は「弥生時代の集落のあり方が分かってきた」
⇒吉野ヶ里の発掘で「邪馬台国(の時代の暮らし)が見えてきた」 >>967
>筑紫における倭国大乱
なんで筑紫限定の話にしたの?どこにも筑紫の話だとは書いてないのに >>961
>川だよ
川には水行の語は使わない
川の移動は、泝流か順流 >>970
朝倉は発掘が進んでいないから、根拠が薄いまま。
糸島を超える3世紀前半の遺跡はない。 邪馬台国vs狗奴国
=筑後平野vs佐賀平野
ここを中心に、
それぞれの属国が九州と本州に点在していた
この「点在していた」というのを理解したほうがいいよ
それぞれの領域は面上に、連続的に広がっていたわけではない
だから邪馬台国連合には「遠絶のため不可得詳」の国があったわけだし
それは、倭国大乱で倭国が一旦バラバラになった状態から
卑弥呼とヒミココの二人を中心に、各国に「どっちにつくか」を迫った結果なわけだから >>972
高地性集落と倭國の大乱の関係が否定されたので、筑紫から瀬戸内、畿内にかけての広域の大乱はなくなった。
邪馬台国が北部九州なら、大乱は玄界灘連合と佐賀・筑後平野連合の戦いが、最も合理的。
長期間の騒乱のようだから、背振山地で南北勢力のこぜりあいが続いたとするモデルでその説明がつく。
平野部での抗争なら、短期間で決着がつくので、倭國大乱のような長期間の抗争は平野部で起こったことではない。 つまり壬申の乱みたいなもんだよ
大友皇子側につくか、大海人皇子側につくか
各豪族を二分したわけだ なるほど。
倭国の王統の分裂なら、それもあり得るかもしれない。 >>960
いくら言いはっても卑弥呼が誰なのか永遠に言えないのだからむなしいね。 >>977
>いや使うよ
>用例たくさんある
ないよ
大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない
全例検索、全例検討したからこれ以外ないと断言できる
用例たくさんあると言いながら、例示しない時点でお察しw >>914
畿内の、特に最初期の100m超の大型前方後円墳に見られる特殊器台
・特殊器台は最初期の大型前方後円墳にしか見られないから
被葬者のその当時の有力人物に対する儀式に使われた
・日本書紀に有力な人物が古墳に埋葬される際には
古来から殉葬が行われてきたと記述
・日本書紀には殉葬で古墳の周りに奴婢を生き埋めにしたと
記述されているが
国内のどの古墳周りからも奴婢を生き埋めにした跡は見つかっていない
・殉葬は古来から行われてきた風習とあるけれどそんな痕跡が見つからないなら
殉葬とは奴婢を生き埋めにするものではないという事
・代わりに古い時代の円墳、最前期の100m超の有力者が埋葬されていると
考えられる大規模な前方後円墳からは特殊器台、円筒埴輪が見つかる
・恐らくこれに供物か、奴婢または動物の血を捧げる儀式が存在していたと考えられる
殉葬で有名な古代中国の殷にも同様の儀式があった痕跡があり
血という字は皿に盛った生贄の血という漢字の成り立ちからも
それが証されているようにも思える
倭はそれを輸入し同様の儀式を行っていた可能性
・そして人物埴輪が古墳に登場するようになると特殊器台は姿を消す
日本書紀に垂仁天皇の時代殉葬される奴婢を哀れんで
殉葬を中止し人物埴輪を用いるようになったとの記述とも一致する >>955
>土蜘蛛と殉葬奴婢には、なんの関係もない
古墳に殉葬する文化は日本にない。
したがって卑弥呼の殉葬は特異な事件である。
崇神4世紀前なので卑弥呼と神武の時代が合う。
奴婢埋葬とは神武軍の奴婢征伐の事であり場所は葛城の高天原である。
>しかも殉葬奴婢を埋めるべき塚がそもそも高天にはない
標高差36mの楕円形で盛り上がった墓地がある。
代々地元高天原での墓地である。
箸墓古墳には一切の奴婢埋葬痕跡はない。
あの箸バカ古墳がヒミコ墓などとは知恵遅れの咆哮なのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>984
天皇陵の多くは発掘調査されないんだから
殉葬された奴婢が見つからないのは当然でしょ >>928
前方後円墳は江戸時代の国学者が名づけたものだって
あと大いに作ったって卑弥呼の墓は径百歩(約140m)
径百歩の墓が沢山まとまってる所なんてあるか?
しいて言うなら畿内の特に奈良になるけども >>983
残念ながら海に水行は使わないんだよ
海を渡るときは水行ではなく「渡海」とか「海岸水行」と「海岸」をつけて言ったりする ×神武軍の奴婢征伐の事であり
〇神武軍の土蜘蛛征伐の事であり 川に水行を使った記述は3例ある
海に水行を使った記述はゼロ
川だね >>988
殉葬は古来から行われて来た、だから
殉葬が奴婢を古墳の周りに生き埋めにするものなら
畿内の前方後円墳より前のそこらの円墳からも見つからなくてはいけない
しかし古い円墳の周りからも奴婢を生き埋めにした跡の発見はなく
代わりに見つかるのはやっぱり特殊器台と円筒埴輪 >>992
九州北部から南に川を水行20日だと川をさかのぼる事になるんだが
しかも20日間も
歩けや 水行十日は、帯方郡から倭国の北縁である狗邪韓国までの、朝鮮半島西岸の沿岸航行にかかった日数。 >>995
そうなると投馬国と狗邪韓国は同じ国になってしまうから違うぞ このスレッドは1000を超えました。
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