邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1610857148/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
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邪馬台国畿内説 Part674
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11 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:04:51.5921 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:05:37.22 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:06:19.58 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:07:04.06 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:07:41.41 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:07:52.20 >>907
>邪馬台国に関しては思いっきり見当違いの阿波
「其山有丹」でも「阿波」
「橘」でも「阿波」
「楠」でも「阿波」
「温暖」でも「阿波」
どれを取っても「阿波」 どれも該当しないのが、筑紫平野〜筑後平野。 わははははは @阿波
>邪馬台国に関しては思いっきり見当違いの阿波
「其山有丹」でも「阿波」
「橘」でも「阿波」
「楠」でも「阿波」
「温暖」でも「阿波」
どれを取っても「阿波」 どれも該当しないのが、筑紫平野〜筑後平野。 わははははは @阿波
71 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:08:14.81 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
81 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:08:48.15 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
91 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:09:19.36 (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
101 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:10:12.44 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
111 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:11:14.11 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
121 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:11:47.86 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
131 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:12:19.30 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
141 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:12:51.17 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
151 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:13:23.82 (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
161 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:13:56.73 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
171 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:14:44.10 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
181 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:15:19.35 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
191 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:15:47.06 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
201 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:16:18.91 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
211 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:16:51.97 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
221 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:17:24.13 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
23日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:17:26.39 妄想ですね
241 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:17:56.59 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
251 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:18:32.00 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
261 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:19:06.77 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
271 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:19:39.40 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
281 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:20:13.11 (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
291 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:20:49.01 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
301 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:21:24.58 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
311 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:21:57.23 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
321 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:22:22.60 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
331 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:23:06.95 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
341 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:23:42.29 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
351 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:24:20.16 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
361 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:24:58.65 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
371 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:25:31.96 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
381 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:26:04.63 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
39日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:26:21.18 さっさと終わらせ! うっとうしい! @阿波
401 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:26:38.39 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
411 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:27:13.86 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
421 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:27:48.61 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
431 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:28:24.93 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
44日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:28:41.12 さっさと終わらせ! うっとうしい! @阿波
451 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:29:16.73 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
461 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:29:55.10 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
471 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:30:33.47 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
481 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:31:10.48 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
49日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:31:22.25 さっさと終わらせ! うっとうしい! @阿波
501 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:31:55.29 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
511 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:32:31.05 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
521 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:33:15.89 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
531 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:33:48.29 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
541 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:34:22.28 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
551 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:34:56.16 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
56日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:35:28.81 無用の長文
571 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:35:31.72 ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
581 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:36:03.25 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
591 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:36:35.56 ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
601 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:37:08.84 (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
611 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:37:43.06 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
621 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:38:16.72 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
631 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:38:49.69 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半) 「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半) 「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
641 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:39:22.19 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
651 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:39:54.25 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
661 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:40:34.78 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
671 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:41:10.07 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
68日本@名無史さん
2021/01/20(水) 17:41:19.79 このテンプレに意味あるのか? @阿波
691 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:41:44.47 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
701 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:42:18.87 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
711 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:43:01.64 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
721 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:43:34.17 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
731 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:44:10.65 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
741 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:44:47.75 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
751 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:45:24.09 ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
761 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:45:56.95 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
771 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:46:32.24 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
781 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:47:04.22 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
791 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:47:52.74 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有栫B崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有栫B崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
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801 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/20(水) 17:48:32.00 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
81日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:08:34.78 さっさとやれ、長ったらしい! @阿波
82日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:12:41.09 >>988
>五王はヤマト王権だよ
すべてにおいて中国文化のパクリが顕著だからw
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「大和は、日本國者倭國之別種也の、倭國の東征毛人五十五國の一旧小国」であるから、
バツ
>五王はヤマト王権だよ
すべてにおいて中国文化のパクリが顕著だからw
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「大和は、日本國者倭國之別種也の、倭國の東征毛人五十五國の一旧小国」であるから、
バツ
83日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:30:42.95 無用の長文テンプレうざい
84日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:34:09.22 >>83
文字読める人には有用だから
文字読める人には有用だから
85日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:36:43.44 >>84
馬と鹿だろ? @阿波
馬と鹿だろ? @阿波
86日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:42:08.25 前レス
tps://i.imgur.com/puNLnRK.png
那珂八幡古墳、祇園山古墳 八女古墳 カワイソー。
まあ、お墓は郊外へ。by
tps://i.imgur.com/puNLnRK.png
那珂八幡古墳、祇園山古墳 八女古墳 カワイソー。
まあ、お墓は郊外へ。by
88日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:42:12.25 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
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投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
89日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:44:52.16 >>88
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
90日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:47:28.9992日本@名無史さん
2021/01/20(水) 18:53:22.77 >>91
お前がな @阿波
お前がな @阿波
94日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:00:09.68 ■畿内は東の倭種の国なので記録が無い(のちのヤマト王権)
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き記したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人は文盲である
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き記したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人は文盲である
95日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:04:30.59 >>91
つまり、ちゃんとブラウザ使えない無能な人にだけ有用でない
つまり、ちゃんとブラウザ使えない無能な人にだけ有用でない
96日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:05:11.72 中国史書を読むのは難しいよ
いろんな意味で
と教えてくれたのは香港人だったなw
いろんな意味で
と教えてくれたのは香港人だったなw
99日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:10:24.16100日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:13:22.20 ちなみに
>>90はちゃんと表示されていないから。
ご参考までにw @阿波
>>90はちゃんと表示されていないから。
ご参考までにw @阿波
101日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:16:51.71102日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:17:56.20 司馬遷の史記が正史の第一ということで
読んだことのない人にはとっつきにくい堅苦しいイメージを持たれがちがちだが
実際はすごく面白い
血沸き肉躍るドラマ、しんみり考えさせるドラマが無数に織り込まれている
文庫本も数種類あるし手軽に手に取れる
図書館で触れて見るのもいいと思う
読んだことのない人にはとっつきにくい堅苦しいイメージを持たれがちがちだが
実際はすごく面白い
血沸き肉躍るドラマ、しんみり考えさせるドラマが無数に織り込まれている
文庫本も数種類あるし手軽に手に取れる
図書館で触れて見るのもいいと思う
104日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:26:46.45105日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:28:47.15106日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:30:44.57108日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:32:13.36 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
109日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:33:17.67110日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:33:44.11111日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:34:29.84 >>109
読む価値ないという理由は?
読む価値ないという理由は?
112日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:34:48.81 >>94
考え方は面白い。
可五万?
前レス九州説(tps://i.imgur.com/puNLnRK.png)には
、有明海北から10日、陸1月の阿蘇 熊本あたり
そこから10日で鹿児島ぐるりと宮崎まで行く。
投馬国て女王国に属するの?by
考え方は面白い。
可五万?
前レス九州説(tps://i.imgur.com/puNLnRK.png)には
、有明海北から10日、陸1月の阿蘇 熊本あたり
そこから10日で鹿児島ぐるりと宮崎まで行く。
投馬国て女王国に属するの?by
113日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:35:55.80 ちなみに
>>90はちゃんと表示されていないから。
ご参考までにw @阿波
>>90はちゃんと表示されていないから。
ご参考までにw @阿波
115日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:37:28.10117日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:39:42.92 自分はPCのブラウザは16種類使っているけど
文字が小さくなるのは経験してない
文字が小さくなるのは経験してない
119日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:40:07.78120日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:40:24.15 ・・・w
どこの低脳なんだ、オマエの家の話ではないだろう?
『天財若子』ちなみに家は、このような家、
「もともと漢人(中華)だろう」と言っている人もいるし。
どこの低脳なんだ、オマエの家の話ではないだろう?
『天財若子』ちなみに家は、このような家、
「もともと漢人(中華)だろう」と言っている人もいるし。
122日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:44:34.10 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
124日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:46:49.76125日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:47:28.78126日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:47:44.01128日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:48:30.43 『天財若子』
とあるサイトの、謎の話。
「喪山」〜とか、
そういう話をしている人もいるし、お墓?
とあるサイトの、謎の話。
「喪山」〜とか、
そういう話をしている人もいるし、お墓?
129日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:49:45.04130日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:51:23.16133日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:56:33.50 「オレ様はIT屋だ、CRもLFも知ってるぞ」と嘯くおばかは
「オレ様は中国語に詳しいぞ四声を知ってる」と自慢した岡上級の低能
久々にワラタ
「オレ様は中国語に詳しいぞ四声を知ってる」と自慢した岡上級の低能
久々にワラタ
134日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:58:34.14 具体的なこと何も言えず罵る>>132は自分の無能を天下に晒した
135日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:58:38.98 いつもの低脳丸出し発言w
岡上って誰だよw
133 日本@名無史さん 2021/01/20(水) 19:56:33.50 ID:
「オレ様はIT屋だ、CRもLFも知ってるぞ」と嘯くおばかは
「オレ様は中国語に詳しいぞ四声を知ってる」と自慢した岡上級の低能
久々にワラタ
岡上って誰だよw
133 日本@名無史さん 2021/01/20(水) 19:56:33.50 ID:
「オレ様はIT屋だ、CRもLFも知ってるぞ」と嘯くおばかは
「オレ様は中国語に詳しいぞ四声を知ってる」と自慢した岡上級の低能
久々にワラタ
136日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:59:12.56 >>131
確かにいたな。 お前か? @阿波
確かにいたな。 お前か? @阿波
137日本@名無史さん
2021/01/20(水) 19:59:40.19139日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:01:24.23 >>135
低脳だっていう理由は?
低脳だっていう理由は?
140日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:01:50.45 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
141日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:04:05.66 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。
142日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:04:21.58 荒らしてごまかす九州説無能
144日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:06:35.12 本編へ 行ってくださいませ。
ちなみに、プラウザは、VivaldかChrome です。
by
ちなみに、プラウザは、VivaldかChrome です。
by
145日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:07:13.36 >>140
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
146日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:07:26.76147日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:07:37.61 >>140
いいんだけど、座礁と海賊が怖い。by
いいんだけど、座礁と海賊が怖い。by
148日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:10:35.62150日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:16:09.11 >>145
邪馬台国の送迎船に乗ってるから自分で漕いでないだろ
邪馬台国の送迎船に乗ってるから自分で漕いでないだろ
152日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:20:40.42 >>150
>自分で漕いでないだろ
アンポンタン 自分で漕いでなくても、誰かが漕いでるだろが! アホか? @阿波
>自分で漕いでないだろ
アンポンタン 自分で漕いでなくても、誰かが漕いでるだろが! アホか? @阿波
154日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:22:05.27 >>147
オレも特殊能力者として責任を持って神から受け取った情報をそのまま公開している
オレも特殊能力者として責任を持って神から受け取った情報をそのまま公開している
156日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:24:39.13 >>155
文字はOKでしょうか?
文字はOKでしょうか?
157日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:25:23.57 IT土方も大変ですな by
159日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:29:27.90160日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:31:12.16161日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:41:12.74 >>160
違うブラウザ使ってみることも思い付かないアホがIT稼業なわけないずら
違うブラウザ使ってみることも思い付かないアホがIT稼業なわけないずら
163日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:49:47.04 俺 自身 疎いもんで
しかし
>>自分はPCのブラウザは16種類使っている
にはびっくり。by
しかし
>>自分はPCのブラウザは16種類使っている
にはびっくり。by
164日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:51:41.83 【悲報】考古学者不要時代の幕開け
【AI】AIトップ学会で日本勢躍進、「後進国」返上なるか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1611055124/
【AI】AIトップ学会で日本勢躍進、「後進国」返上なるか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1611055124/
165日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:52:19.24 訳の分からないスレッドになってしまったな。
166日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:53:14.21 >>165
だな by
だな by
167日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:54:28.11 >>165
もともと、そういうスレだから。 わははははは @阿波
もともと、そういうスレだから。 わははははは @阿波
168日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:56:10.20 さて、女王の都をどこに比定しようか
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
169日本@名無史さん
2021/01/20(水) 20:58:27.13 >>168
比定しようにも、女王の都にふさわしい集落遺跡がないんだから、どうにもならんやろ。 わははははは @阿波
比定しようにも、女王の都にふさわしい集落遺跡がないんだから、どうにもならんやろ。 わははははは @阿波
170日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:02:05.97 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
171日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:04:56.92 >>110
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
脳が死んだ大和説信者
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
脳が死んだ大和説信者
172日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:06:29.34 魏に朝貢した倭人に対し、魏が女王の都までの道のりを訪ねた
倭人「まず、ここから船で南に20日ほど行けば投馬国があります」
魏の記録係「南至投馬国 水行二十日」とメモ
倭人「そして、また船で南に10日ほどで邪馬台国上陸、陸行1日で女王の都です」
魏の記録係「南至邪馬台国 女王の都 水行十日陸行一日」とメモ
なるほどねえ
倭人「まず、ここから船で南に20日ほど行けば投馬国があります」
魏の記録係「南至投馬国 水行二十日」とメモ
倭人「そして、また船で南に10日ほどで邪馬台国上陸、陸行1日で女王の都です」
魏の記録係「南至邪馬台国 女王の都 水行十日陸行一日」とメモ
なるほどねえ
173日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:14:17.63 >>129
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
それ、脳が死んでいる、ということでしょ
大和説死亡
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
それ、脳が死んでいる、ということでしょ
大和説死亡
174日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:16:04.87 >邪馬台国に関しては思いっきり見当違いの阿波
「其山有丹」でも「阿波」
「橘」でも「阿波」
「楠」でも「阿波」
「温暖」でも「阿波」
どれを取っても「阿波」 どれも該当しないのが、北部九州 と 奈良盆地。 わははははは @阿波
「其山有丹」でも「阿波」
「橘」でも「阿波」
「楠」でも「阿波」
「温暖」でも「阿波」
どれを取っても「阿波」 どれも該当しないのが、北部九州 と 奈良盆地。 わははははは @阿波
175日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:18:21.34 >>142
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
荒らしてごまかす無能
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使い、
オウム返しされと念仏しかできない大和説学者らは、
荒らしてごまかす無能
176日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:19:54.80 ある人の疑問:なぜか纏向遺跡の大型建物の柱穴だけ四角いのですね
半島式畿内説:「神殿だからニダ!」
【事実】
柱穴が四角になるのは、八世紀。少なくとも七世紀の後半からだそうです。
半島式畿内説:「神殿だからニダ!」
【事実】
柱穴が四角になるのは、八世紀。少なくとも七世紀の後半からだそうです。
177日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:22:14.25178日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:22:37.16 >>148
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使うのは、
大和説学者らって無能だ、ってことでしょ
大和説の人が論破されて大和説スレが荒らされるんだから
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使うのは、
大和説学者らって無能だ、ってことでしょ
大和説の人が論破されて大和説スレが荒らされるんだから
179日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:26:59.89 >>178
オウム返しは馬鹿がやる
オウム返しは馬鹿がやる
180日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:27:21.79181日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:28:56.07 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
182日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:30:37.00 >>179
オウム返されは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使う、
大和説学者らって、馬鹿がやる
オウム返されは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをし、
「邪馬台国や畿内などの存在もしなかった嘘吐き騙し文言」を使う、
大和説学者らって、馬鹿がやる
183日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:31:45.38 2021年の現時点で最もよく出てくる意見
「邪馬台国は九州に纏向には大和朝廷があったのでは?」
「邪馬台国は九州に纏向には大和朝廷があったのでは?」
184日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:35:59.51 纏向の大型建物が西向きなのは何でだろうね?
185日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:37:49.94 >>183
>2021年の現時点で最もよく出てくる意見
「邪馬台国は九州に纏向には大和朝廷があったのでは?」
邪馬台国も大和朝廷も、
卑弥呼の頃には存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
「纏向に大和朝廷があった」という大和説の方が、バツ。
>2021年の現時点で最もよく出てくる意見
「邪馬台国は九州に纏向には大和朝廷があったのでは?」
邪馬台国も大和朝廷も、
卑弥呼の頃には存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
「纏向に大和朝廷があった」という大和説の方が、バツ。
186日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:38:28.30 >>184
西向きとか、なんの根拠もない
西向きとか、なんの根拠もない
187日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:41:49.88188日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:43:03.15189日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:45:31.98 魏志倭人伝には西側に関する記述は一つも無い
それは視点が西の端だから
倭の西の端=九州=邪馬台国+狗奴国だから
それは視点が西の端だから
倭の西の端=九州=邪馬台国+狗奴国だから
190日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:48:45.16 出雲国の大国主命は、ご先祖の故郷である新羅の方角を向いてご鎮座なされておいでなのじゃ、
つまり西を向くのは、そもそもが新羅種族だからなのですぞ
つまり西を向くのは、そもそもが新羅種族だからなのですぞ
191日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:52:33.12 また謎が解けてしまったw
筑紫島(つくしのしま) - 九州。
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
【金・西と北西】 白日別(しらひわけ) - 筑紫国。
【水・北】豊日別(とよひわけ) - 豊国。
【木・東と南東】【土・中と鬼門と裏鬼門】
建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国と鬼門、裏鬼門。と日向国。
【火・南】建日別(たけひわけ) - 熊曽国。
↓阿蘇山を中心に五行&方位
https://i.imgur.com/ggakeHt.jpg
筑紫島(つくしのしま) - 九州。
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
【金・西と北西】 白日別(しらひわけ) - 筑紫国。
【水・北】豊日別(とよひわけ) - 豊国。
【木・東と南東】【土・中と鬼門と裏鬼門】
建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国と鬼門、裏鬼門。と日向国。
【火・南】建日別(たけひわけ) - 熊曽国。
↓阿蘇山を中心に五行&方位
https://i.imgur.com/ggakeHt.jpg
192日本@名無史さん
2021/01/20(水) 21:55:15.92 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
193日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:07:35.11 今年も予算を獲得出来なかった凍結纏向あわれ
194日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:08:12.59 奥山無残
195日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:19:07.49196日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:20:00.82 >>193
なんか馬鹿がまた妄想しているな
なんか馬鹿がまた妄想しているな
197日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:25:28.76199日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:47:09.02 奥山の堕落し切った生活は邪馬台国論争を解決するという
一つの望みによってなんとか保たれていた
しかし夢やぶれ一生を棒に振った奥山はもはや荒れ果てた
生涯をともす光を失い途方に暮れるしかなかった
今までの戦いはなんのためであったか、寝食をわすれ
掲示板に向き合った時間はなんのためであったか
邪馬台国論争に終止符を打つ栄光を手に入れる将来は
どこにいったのかと。今奥山は絶望の中で一つの結論に
至りつつあった。そうだ、九州説に教えを乞おう。
彼は心からの後悔と反省の中で、新たに掲示板に向き合う
今日は九州説にどんなことを話そう。喜んでもらえるかな
楽しんでもらえるかな、そう考えるだけで幸せな気分になるのであった
一つの望みによってなんとか保たれていた
しかし夢やぶれ一生を棒に振った奥山はもはや荒れ果てた
生涯をともす光を失い途方に暮れるしかなかった
今までの戦いはなんのためであったか、寝食をわすれ
掲示板に向き合った時間はなんのためであったか
邪馬台国論争に終止符を打つ栄光を手に入れる将来は
どこにいったのかと。今奥山は絶望の中で一つの結論に
至りつつあった。そうだ、九州説に教えを乞おう。
彼は心からの後悔と反省の中で、新たに掲示板に向き合う
今日は九州説にどんなことを話そう。喜んでもらえるかな
楽しんでもらえるかな、そう考えるだけで幸せな気分になるのであった
200日本@名無史さん
2021/01/20(水) 22:53:08.12201日本@名無史さん
2021/01/20(水) 23:13:30.27202日本@名無史さん
2021/01/20(水) 23:29:41.01 四国には30国のうちのどの国もない
倭国の領域外だが倭人が住んでいるとは認識していた
>女王國東 渡海千餘里
は女王国上陸地点(帯方郡から一万二千里)から見た記載
これが四国のことに触れた箇所
倭国の領域外だが倭人が住んでいるとは認識していた
>女王國東 渡海千餘里
は女王国上陸地点(帯方郡から一万二千里)から見た記載
これが四国のことに触れた箇所
203日本@名無史さん
2021/01/20(水) 23:37:36.63 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
204日本@名無史さん
2021/01/20(水) 23:50:21.67205日本@名無史さん
2021/01/21(木) 00:09:48.13 あとよく誤解する向きが多いのが
>當在會稽東治之東
の解釈
これは倭国でも、まして女王の都のある邪馬台国を指しているのでもない
これは倭地で最初に触れられている狗奴國について語ったもの
陳寿の記載はここでも正確
なおこの倭地から直接中国大陸に訪問した様子が描写されている
>當在會稽東治之東
の解釈
これは倭国でも、まして女王の都のある邪馬台国を指しているのでもない
これは倭地で最初に触れられている狗奴國について語ったもの
陳寿の記載はここでも正確
なおこの倭地から直接中国大陸に訪問した様子が描写されている
206日本@名無史さん
2021/01/21(木) 00:14:39.16 >>205
誤解だな
誤解だな
207日本@名無史さん
2021/01/21(木) 00:22:34.41208日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:16:01.77209日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:17:15.07 それにしても、ほんとーに気づいている人は気づいている。
『天財若子』
この家の名前だけを使用している、家などがある、実際は、その家の話ではない。
それと『菅野 力夫』かなり善人のような気がするんだけど。
wikiによると、お金も持っていなかった、持っていないんじゃないのかとか。
『天財若子』
この家の名前だけを使用している、家などがある、実際は、その家の話ではない。
それと『菅野 力夫』かなり善人のような気がするんだけど。
wikiによると、お金も持っていなかった、持っていないんじゃないのかとか。
210日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:17:47.99 投馬国はどこで女王国に属しているのか?
211日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:23:34.32 例。
誰かが『天財若子』を名乗ったり、使用したりしていて、
力夫氏の家には収入がないみたいな話だろう。
いまの福島県のほう?・・・おかしな話ばかり。
誰かが『天財若子』を名乗ったり、使用したりしていて、
力夫氏の家には収入がないみたいな話だろう。
いまの福島県のほう?・・・おかしな話ばかり。
212日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:38:16.83214日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:56:26.81 謎の日本昔話のようなエピソードwなど、
家の親戚(だとしても)でも、知らないんじゃないのかな。
父親も知らないような事を言っているし、
それとも覚えていないだけなのかな。
老婆「どこかの新聞記者だったかな〜、写真を撮らせてくださいと」
川崎区にある、家に来たという話。
家の親戚(だとしても)でも、知らないんじゃないのかな。
父親も知らないような事を言っているし、
それとも覚えていないだけなのかな。
老婆「どこかの新聞記者だったかな〜、写真を撮らせてくださいと」
川崎区にある、家に来たという話。
215日本@名無史さん
2021/01/21(木) 01:57:43.12 >>213
てっか不要だよ。by
てっか不要だよ。by
216日本@名無史さん
2021/01/21(木) 02:22:18.97 オージーン、オーディンみたいな話をしている人もいたり。
老婆によると、自殺したとか、しなかったとか。
女の親戚、『北斗の拳』?
老婆によると、自殺したとか、しなかったとか。
女の親戚、『北斗の拳』?
217日本@名無史さん
2021/01/21(木) 02:26:18.13 『日本昔話 石楠花』
このような話、女の親戚。
日本昔話なども、やっていなかった頃の話だと思うんだけど。
このような話、女の親戚。
日本昔話なども、やっていなかった頃の話だと思うんだけど。
218日本@名無史さん
2021/01/21(木) 02:32:26.75 ほんとーに、おかしな話ばかり、
ほとんど老婆談?と同じような、あの謎の曲(某、某・・・某)なども。
ほとんど老婆談?と同じような、あの謎の曲(某、某・・・某)なども。
219日本@名無史さん
2021/01/21(木) 02:46:23.10 その親戚(女の親戚。老婆とは血も繋がっていない。老婆の子には、自殺〜とかいないし。)の家の話なのかな?
子供(男の子)もいたとか。
子供(男の子)もいたとか。
220日本@名無史さん
2021/01/21(木) 03:54:31.17 凄い話(不明)ばかりだろう、
老婆の家ではなく、『天財若子』この家の話、わかりやすく言うと、家の親戚(?)。
まさか老婆の家は犯罪者なのかな、
家の近所に住んでいる人物の談によると、
家の周辺に、何か?住んでいるみたいな話をしているし。
老婆の家ではなく、『天財若子』この家の話、わかりやすく言うと、家の親戚(?)。
まさか老婆の家は犯罪者なのかな、
家の近所に住んでいる人物の談によると、
家の周辺に、何か?住んでいるみたいな話をしているし。
221日本@名無史さん
2021/01/21(木) 05:55:46.80 >>188
>それ、畿内説の人間の主張じゃないぞ
九州説じいさん脳停止しちゃって
もう誰が何を言ってるかも理解できてないだろ
また、東大理系博士号自称の極右の街宣車男が、
ヤクザ暴力団やヒトラーやトランプと同じように、アジテートして、
国民を興奮させて騙して、人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、としているな。
>それ、畿内説の人間の主張じゃないぞ
九州説じいさん脳停止しちゃって
もう誰が何を言ってるかも理解できてないだろ
また、東大理系博士号自称の極右の街宣車男が、
ヤクザ暴力団やヒトラーやトランプと同じように、アジテートして、
国民を興奮させて騙して、人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、としているな。
222日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:13:31.78 >>197
>>魏志倭人伝には西側に関する記述は一つも無い
それは視点が西の端だから
>南と東に進んできて女王の都に着いたと言ってるのにか?
言っていないな。
女王の都は、「列島の中での西方の九州にあった」と言っている。
しかし、さすがは東大理系博士号自称男?(=スレ主?)。
ヤクザ暴力団やタカ派戦争政党や、ヒトラーやトランプや麻原らと同じように、
アジテートして、国民を興奮させて騙して、また人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、としているな。
脳が死んでるな
>>魏志倭人伝には西側に関する記述は一つも無い
それは視点が西の端だから
>南と東に進んできて女王の都に着いたと言ってるのにか?
言っていないな。
女王の都は、「列島の中での西方の九州にあった」と言っている。
しかし、さすがは東大理系博士号自称男?(=スレ主?)。
ヤクザ暴力団やタカ派戦争政党や、ヒトラーやトランプや麻原らと同じように、
アジテートして、国民を興奮させて騙して、また人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、としているな。
脳が死んでるな
223日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:18:41.38 >>204
>こうして九州説信者は妄想に生き 九州説は死んだ
こうして、大和説学者らや大和説信者は、
ヤクザ暴力団やタカ派戦争政党や、ヒトラーやトランプや麻原らと同じように、
アジテートして、国民を興奮させて騙して、
また人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、として、死んだ。
>こうして九州説信者は妄想に生き 九州説は死んだ
こうして、大和説学者らや大和説信者は、
ヤクザ暴力団やタカ派戦争政党や、ヒトラーやトランプや麻原らと同じように、
アジテートして、国民を興奮させて騙して、
また人種差別的殺戮戦争に行かせて、
自分らは栄耀栄華に耽けよう、として、死んだ。
224日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:21:56.96225日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:26:27.04 >>212
>正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ。
纏向の大型建物群が何だったのかは、この5度の傾きの意味を解いたら分かる。
成程。
纏向は、母国の筑紫城の方向を大体知っていた可能性がある、
という事になるのか。
>正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ。
纏向の大型建物群が何だったのかは、この5度の傾きの意味を解いたら分かる。
成程。
纏向は、母国の筑紫城の方向を大体知っていた可能性がある、
という事になるのか。
226日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:32:27.31 >>213
>四国は鉄を持ってたのに、畿内に供給していなかったことが判明している
仲悪かったんじゃない?
四国の鉄は、当然、(出雲と同じように)、
北部九州の倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が齎したもので、
その後で、東征軍は、淡路や阿波や紀伊や大和に鉄を齎したの。
>四国は鉄を持ってたのに、畿内に供給していなかったことが判明している
仲悪かったんじゃない?
四国の鉄は、当然、(出雲と同じように)、
北部九州の倭國の「東征毛人五十五國」の征服軍が齎したもので、
その後で、東征軍は、淡路や阿波や紀伊や大和に鉄を齎したの。
227日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:33:17.65 >>224
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
228日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:49:57.13 魏志で筑紫国なるものは登場しない。
つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
229日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:58:35.05 >>228
>つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
違う!
邪馬台国と呼ばれた地域 に 筑紫があった。 同時に 日向や出雲などもあった。 ただし、これらは国名ではない。 @阿波
>つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
違う!
邪馬台国と呼ばれた地域 に 筑紫があった。 同時に 日向や出雲などもあった。 ただし、これらは国名ではない。 @阿波
230日本@名無史さん
2021/01/21(木) 06:58:53.82 >>208
狗奴国について書かれている部分
>自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
さらに気候風土に触れた後、
>其行來渡海詣中國
からの部分に危険な航海の無事を祈るために「持衰」という役目を担うものを選んだとある
この狗奴国の風俗を描く中で、海の男「倭人」は、気は優しいが力持ちで、ワンダーウーマン風のバイタリティーを感じさせる存在として描写されている
大人も子供も入れ墨をし、水に深く潜って魚や蛤を捕ることを好む倭の「水人」と呼んでいる
このスーパーヒーローのような存在が船で海から突然現れることを想像し、呉の人々は恐怖したと思う
狗奴国について書かれている部分
>自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
さらに気候風土に触れた後、
>其行來渡海詣中國
からの部分に危険な航海の無事を祈るために「持衰」という役目を担うものを選んだとある
この狗奴国の風俗を描く中で、海の男「倭人」は、気は優しいが力持ちで、ワンダーウーマン風のバイタリティーを感じさせる存在として描写されている
大人も子供も入れ墨をし、水に深く潜って魚や蛤を捕ることを好む倭の「水人」と呼んでいる
このスーパーヒーローのような存在が船で海から突然現れることを想像し、呉の人々は恐怖したと思う
231日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:03:33.12 「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 @阿波
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 @阿波
232日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:05:14.79233日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:07:03.23 >>210
投馬国は倭国の国々について記述している部分に登場するから倭国(女王国)に属している
不弥国から南水行く20日と書かれているが、ここは南でなく東の誤り
緻密な陳寿がこんな間違いをするはずがないから後世の写本による誤記だと思う
水行20日で到着する場所はおそらく出雲
さらに水行10と陸行一月で女王の都に達する
投馬国は倭国の国々について記述している部分に登場するから倭国(女王国)に属している
不弥国から南水行く20日と書かれているが、ここは南でなく東の誤り
緻密な陳寿がこんな間違いをするはずがないから後世の写本による誤記だと思う
水行20日で到着する場所はおそらく出雲
さらに水行10と陸行一月で女王の都に達する
234日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:08:26.49 >>232
日向も出雲も筑紫も、これらは国名ではない。 @阿波
日向も出雲も筑紫も、これらは国名ではない。 @阿波
235日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:10:42.82 >>233
>ここは南でなく東の誤り
南は南! @阿波
>ここは南でなく東の誤り
南は南! @阿波
236日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:13:25.30 >>233
正解。開拓地だからね。築し by
正解。開拓地だからね。築し by
237日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:15:41.29 >>234
魏志にそれらしきもんさえない。by
魏志にそれらしきもんさえない。by
238日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:18:57.50 私たちが今読んでいるこの資料は「魏志倭人伝」
倭人が住んでいる地域「倭」は、「倭国」とその周辺の「倭地」で構成されている
陳寿は厳密に区別して記述している
倭人が住んでいる地域「倭」は、「倭国」とその周辺の「倭地」で構成されている
陳寿は厳密に区別して記述している
239日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:20:24.80 >>233
>水行20日で到着する場所はおそらく出雲
出雲は国名でない。
水行20日で到着する場所は、投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯) @阿波
>水行20日で到着する場所はおそらく出雲
出雲は国名でない。
水行20日で到着する場所は、投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯) @阿波
240日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:23:18.19 記紀原理主義者にそこらへん聞きたい。by
241日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:28:46.09 それにしても、お爺ちゃんよりも、前の代の話。
黒いコートを着て、酒場(?)に行っていたとか、
謎の伝説と同じような話をしているしw何の話なんだろう。
葱の華?の写真。
黒いコートを着て、酒場(?)に行っていたとか、
謎の伝説と同じような話をしているしw何の話なんだろう。
葱の華?の写真。
242日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:34:02.11 地域でも島でもいいけど、不思議 by
243日本@名無史さん
2021/01/21(木) 07:55:10.26 母親の談。
ここに嫁に来た時には、お爺ちゃんの父親は、
すでに、いなかったから、どういう人物なのか、知らないんだけど、
みたいな話もしているし。
お爺ちゃんは背が低かった、でも、その父親は背も高かった、
そういう話は聞いたことがある。
・・・老婆から聞いた話なのかな、謎の刀(剣)の話もしているし。
ここに嫁に来た時には、お爺ちゃんの父親は、
すでに、いなかったから、どういう人物なのか、知らないんだけど、
みたいな話もしているし。
お爺ちゃんは背が低かった、でも、その父親は背も高かった、
そういう話は聞いたことがある。
・・・老婆から聞いた話なのかな、謎の刀(剣)の話もしているし。
244日本@名無史さん
2021/01/21(木) 08:05:48.22 >>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
245日本@名無史さん
2021/01/21(木) 08:33:12.23 最近、しきりに投馬国出雲説を唱えるのがいるようだ
おおかた、出雲の東の鳥取・青谷上寺地遺跡の殺傷人骨を倭国大乱の痕跡と見て熱を上げてるのだろうな。
どのみち、あそこの発掘関係者のひとり大立ち回りだろうな、、、
おおかた、出雲の東の鳥取・青谷上寺地遺跡の殺傷人骨を倭国大乱の痕跡と見て熱を上げてるのだろうな。
どのみち、あそこの発掘関係者のひとり大立ち回りだろうな、、、
246日本@名無史さん
2021/01/21(木) 08:49:36.87 以前、とあるスレに書いたことがあるんだけどw
偶然にしては、おかしな話ばかり。
謎の震災後(数週間くらい経ってからだったかな)、
家の中にカラスが入ってこようとしたり、そのときの鳴き声も、
「グァッ、グァッ、グァッ」アヒルのような感じ、「グァー、グァー」ではない。
専門家は何て言っているの?
偶然にしては、おかしな話ばかり。
謎の震災後(数週間くらい経ってからだったかな)、
家の中にカラスが入ってこようとしたり、そのときの鳴き声も、
「グァッ、グァッ、グァッ」アヒルのような感じ、「グァー、グァー」ではない。
専門家は何て言っているの?
247日本@名無史さん
2021/01/21(木) 08:55:57.34 >>228
>魏志で筑紫国なるものは登場しない。
つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
魏志には、勿論「筑紫という文言」は出現しない。
しかし、隋書は、裴清の上陸國として、「竹斯國」と記録し、
新唐書も、
日本國の『王年代紀』の
「・・・凡二十三世、並都於筑紫日向宮、彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮」からの引用として、
「其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以尊為號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以天皇為號,徙治大和州」
としており、
筑紫の「日向」の地に、(筑紫宮とされた)筑紫城の国があった事を認めている。
ちなみに、日向の地名は、日向峠や日向川のある場所である事になる。
>魏志で筑紫国なるものは登場しない。
つまり、邪馬台国と呼ばれた地域が筑紫になった。by
魏志には、勿論「筑紫という文言」は出現しない。
しかし、隋書は、裴清の上陸國として、「竹斯國」と記録し、
新唐書も、
日本國の『王年代紀』の
「・・・凡二十三世、並都於筑紫日向宮、彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮」からの引用として、
「其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以尊為號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以天皇為號,徙治大和州」
としており、
筑紫の「日向」の地に、(筑紫宮とされた)筑紫城の国があった事を認めている。
ちなみに、日向の地名は、日向峠や日向川のある場所である事になる。
248日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:00:07.60249日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:05:01.47 寒さで凍結しているうえに予算も凍結された纏向あわれ
250日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:11:39.69251日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:19:53.06 >>247
>初主號天御中主至彥瀲凡三十二世,皆以尊為號居築紫城。彥瀲子神武立更以天皇為號,
これを読んでまず不思議に思うのは、神武からいえば天御中主は33世まえの主になることである。
つまり天照大神より、遥か遥か(推定500-600年前の)古代の主であったわけだ。
ということは、天御中主系列の種族は、彥瀲の母方のご先祖さま(外戚)であったということにならざるを得ない。
実際に(その外戚の代々の宮が)、筑紫の「日向」の地に(筑紫宮つまり筑紫城として)居していた事を認めている。
だから同じミコトでも「命」と言わず、「尊」と称したのであろう。、
>初主號天御中主至彥瀲凡三十二世,皆以尊為號居築紫城。彥瀲子神武立更以天皇為號,
これを読んでまず不思議に思うのは、神武からいえば天御中主は33世まえの主になることである。
つまり天照大神より、遥か遥か(推定500-600年前の)古代の主であったわけだ。
ということは、天御中主系列の種族は、彥瀲の母方のご先祖さま(外戚)であったということにならざるを得ない。
実際に(その外戚の代々の宮が)、筑紫の「日向」の地に(筑紫宮つまり筑紫城として)居していた事を認めている。
だから同じミコトでも「命」と言わず、「尊」と称したのであろう。、
252日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:22:04.76 投馬国は半島南部の狗邪韓国
邪馬台国は北部九州
狗奴国は熊本
仮に日本列島が南北に長いと勘違いしていたとすれば
狗奴国は畿内
邪馬台国は北部九州
狗奴国は熊本
仮に日本列島が南北に長いと勘違いしていたとすれば
狗奴国は畿内
253日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:25:58.91254日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:31:58.60 >>251
伊弉冉以前かな?by
伊弉冉以前かな?by
255日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:41:25.53256日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:42:08.80 神武以前から東へと思うこの頃 by
257日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:45:44.68 倭王が筑紫に住んでた頃の畿内は何してたんだろう
258日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:51:08.29 >>257
山、沼、湖だな by
山、沼、湖だな by
259日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:52:44.89 >>257
>倭王が筑紫に住んでた
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
>倭王が筑紫に住んでた
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
260日本@名無史さん
2021/01/21(木) 09:54:36.95 >>258
>山、沼、湖だな by
なぜにそこへ引っ越しをするんだ? @阿波
>山、沼、湖だな by
なぜにそこへ引っ越しをするんだ? @阿波
261日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:00:35.33 まさか老婆は犯罪者だったのか?というのはウソだけど。
『日本昔話 石楠花』
ググると、なぜ他の作品(牛の話など)も出てくるんだろう。
老婆の家の実家、
本家というのがあって、牛を飼っていたという話もしているし、
食肉などではない。
その後、〜家(『』このような家w)と結婚した。
『日本昔話 石楠花』
ググると、なぜ他の作品(牛の話など)も出てくるんだろう。
老婆の家の実家、
本家というのがあって、牛を飼っていたという話もしているし、
食肉などではない。
その後、〜家(『』このような家w)と結婚した。
263日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:03:37.47 学術討論の場に、突然アワ踊りが乱入すると、どうしても座がシラケるのではないかな・・、
264日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:06:09.42 >>262
そんなに遠慮して、わざわざ墓地に引っ越しせんでもよろしいがな。 墓守するつもりか? わははははは @阿波
そんなに遠慮して、わざわざ墓地に引っ越しせんでもよろしいがな。 墓守するつもりか? わははははは @阿波
265日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:07:47.71 >>263
>学術討論の場に、突然アワ踊りが乱入すると、どうしても座がシラケるのではないかな・・、
そりゃ、アホ論議中に「阿波」がきたら、どうしても座がシラケるのではないかな・・、 わははははは @阿波
>学術討論の場に、突然アワ踊りが乱入すると、どうしても座がシラケるのではないかな・・、
そりゃ、アホ論議中に「阿波」がきたら、どうしても座がシラケるのではないかな・・、 わははははは @阿波
266日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:09:08.41 『牛郎織女』
この話?王母〜などの話。
『天財若子』
この話?王母〜などの話。
『天財若子』
267日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:10:00.23 >>238
>投馬国は倭国の国々について記述している部分に登場するから倭国(女王国)に属している
不弥国から南水行く20日と書かれているが、ここは南でなく東の誤り
緻密な陳寿がこんな間違いをするはずがないから後世の写本による誤記だと思う
水行20日で到着する場所はおそらく出雲
さらに水行10と陸行一月で女王の都に達する
「南でなく東の誤り」とした点がバツ。
倭人も東西南北は間違えておりません。
>投馬国は倭国の国々について記述している部分に登場するから倭国(女王国)に属している
不弥国から南水行く20日と書かれているが、ここは南でなく東の誤り
緻密な陳寿がこんな間違いをするはずがないから後世の写本による誤記だと思う
水行20日で到着する場所はおそらく出雲
さらに水行10と陸行一月で女王の都に達する
「南でなく東の誤り」とした点がバツ。
倭人も東西南北は間違えておりません。
268日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:10:22.11 >>255
>記紀が隠ぺいした古代博多湾岸の天御中主31世代の大帝国!!
「大帝国」って、ろくに集落遺跡もない、寒村のことか? わははははは @阿波
>記紀が隠ぺいした古代博多湾岸の天御中主31世代の大帝国!!
「大帝国」って、ろくに集落遺跡もない、寒村のことか? わははははは @阿波
269日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:11:44.19 アホ論議にわざわざ乱入するアワ踊りは、同じアホでも真正のアホではないのかな・・、
270日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:13:38.96 >>269
いいから、すこしはまともに反論してみろ! ヘタレ ずっとそんなことしか言えんのか! @阿波
いいから、すこしはまともに反論してみろ! ヘタレ ずっとそんなことしか言えんのか! @阿波
271日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:23:36.64 『姥清水』
なども、家の話、親戚の話なのかな?
たしか、いまの福島県のほうに。
なども、家の話、親戚の話なのかな?
たしか、いまの福島県のほうに。
272日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:25:49.47 アホ踊りには、この程度のヘタレか丁度適切なのではないかな・・、
273日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:30:28.61 >>272
がっかり それにしても、骨のあるやつおらんなあw @阿波
がっかり それにしても、骨のあるやつおらんなあw @阿波
274日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:32:03.38 タコの阿波に言われてもなあw
275日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:35:28.34 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
276日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:38:03.22 邪馬台国がヤマトだとすると瀬戸内ルートでは陸行一月の説明がつかないので山陰ルートしかない
つまり投馬国は出雲
つまり投馬国は出雲
277日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:38:05.01279日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:42:53.66 投馬国が薩摩だと狗奴国は畿内連合って事でいいのか?
280日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:43:05.21281日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:45:23.95 >>278
方角は間違いは無視な
方角は間違いは無視な
282日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:46:58.24 >>280
侏儒国は、「山海経」という謎の文章では、小人國だと記録されたのだ、という情報があるね。
侏儒国は、「山海経」という謎の文章では、小人國だと記録されたのだ、という情報があるね。
283日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:47:33.92 焦僥とは、何だろうか。。。
284日本@名無史さん
2021/01/21(木) 10:54:52.63 出雲神話時代の日本は、南西諸島の影響を受けていた可能性が、高いのだったな。
285日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:01:50.92 >>251
>まず不思議に思うのは、神武からいえば天御中主は33世まえの主になることである。
>つまり天照大神より、遥か遥か(推定500-600年前の)古代の主であったわけだ。
>ということは、天御中主系列の種族は、彥瀲の母方のご先祖さま(外戚)であったということにならざるを得ない
筑紫倭皇帝は、高祖山の筑紫城に居した博多大帝国の王・天御中主の後裔であったか、なるほど!
>まず不思議に思うのは、神武からいえば天御中主は33世まえの主になることである。
>つまり天照大神より、遥か遥か(推定500-600年前の)古代の主であったわけだ。
>ということは、天御中主系列の種族は、彥瀲の母方のご先祖さま(外戚)であったということにならざるを得ない
筑紫倭皇帝は、高祖山の筑紫城に居した博多大帝国の王・天御中主の後裔であったか、なるほど!
286日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:34:11.94 >>284
>2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
歳差運動というのは、自転軸の振れであって、
公転面は、全宇宙空間的なものであり、
人類の東西南北の認識は、東西の認識が先行して、それから天の北極の位置を計測する事になり、
その東西の認識が歳差運動に拠って変わる事はなく、
従って、緯度が変わっても、東西を間違える事はない。
>それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
成程。
>2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
歳差運動というのは、自転軸の振れであって、
公転面は、全宇宙空間的なものであり、
人類の東西南北の認識は、東西の認識が先行して、それから天の北極の位置を計測する事になり、
その東西の認識が歳差運動に拠って変わる事はなく、
従って、緯度が変わっても、東西を間違える事はない。
>それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
成程。
287日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:42:05.13 >>284
南西諸島からは、対馬海流が流れているので、少彦名命の関係者が、須玖岡本に来訪したのではないのかな。
南西諸島からは、対馬海流が流れているので、少彦名命の関係者が、須玖岡本に来訪したのではないのかな。
288日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:45:19.81 >>260
「東征」となっているが、実際は
他人様の領地を奪うわけにも行かず
戦火を逃れた人や渡来人を引き連れ
入植。鏡製作して販売?土産?で各地の王様とも関係構築
でよろず承りの阿波等と共同事業。
と妄想してみる。by
「東征」となっているが、実際は
他人様の領地を奪うわけにも行かず
戦火を逃れた人や渡来人を引き連れ
入植。鏡製作して販売?土産?で各地の王様とも関係構築
でよろず承りの阿波等と共同事業。
と妄想してみる。by
289日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:52:57.84 >>288
わははははは 大変だな。 そんなに苦労せずとも、「阿波」に居れば良いものを。 「阿波」は超大都会なんだぜ。 @阿波
わははははは 大変だな。 そんなに苦労せずとも、「阿波」に居れば良いものを。 「阿波」は超大都会なんだぜ。 @阿波
290日本@名無史さん
2021/01/21(木) 11:56:10.46291日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:00:51.31292日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:09:54.10293日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:19:28.48294日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:20:36.03295日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:41:12.80 スレごとにまとめて流し読みしてるだけだから詳しいことは分からんが
前スレにザラコクの書き込みで、歴史に興味を持って60年ってのがあった
やっぱり、70をとっくに過ぎた爺さんだったんだな
前スレにザラコクの書き込みで、歴史に興味を持って60年ってのがあった
やっぱり、70をとっくに過ぎた爺さんだったんだな
296日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:42:46.67 あと、阿波爺さんのパクリなのか知らんが、文末に「by」ってつけるやつは新参の初心者?
297日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:45:42.45 魏志倭人伝を曲解するオマエ等に
放送大学
2613 : 漢文の読み方−原典読解の基礎−
■著 者:宮本 徹 松江 崇 放送大学准教授
放送大学客員准教授・京都大学大学院准教授
■定 価:\2,860 (税込)
漢文の読み方−原典読解の基礎−
■発行年:’19年発行
■ISBN:978-4-595-31926-6
■サイズ:A5
■頁 数:280頁
■ 全体のねらい
古典中国語は東アジアを中心とする広大な地域で共有された古典語であり、近代に至るまで諸民族の精神構造のあり方を強く規定し続けたと同時に、その影響は現代にまで及んでいる。本書は、我が国で伝統的に用いられた訓読という手段を用いながら、このような古典中国語の読解法を解説する。「古典中国語の基本的な構造を理解する」、「辞書等を用いながら、標準的な漢文資料を読めるようになること」などが、学習目標となっている。
■ 章の構成
1.漢文とは何か
2.漢字と漢字音
3.漢文の構造とその成分(一)
4.漢文の構造とその成分(二)
5.機能語の体系と用法(一)−前置詞・構造助詞・文末助詞
6.機能語の体系と用法(二)−接続詞・助動詞・人称代詞
7.機能語の体系と用法(三)−指示代詞・疑問代詞・副詞
8.活用・構文・重要表現−品詞の活用・複合的構造・特殊語順・受動表現・数量表現
9.思想書講読(一)−墨子の言語論理学
10.思想書講読(二)−荘子の斉物論と郭象の注
11.文学書講読(一)
12.文学書講読(二)
13.歴史書講読(一)
14.歴史書講読(二)
15.漢文の座標
放送大学
2613 : 漢文の読み方−原典読解の基礎−
■著 者:宮本 徹 松江 崇 放送大学准教授
放送大学客員准教授・京都大学大学院准教授
■定 価:\2,860 (税込)
漢文の読み方−原典読解の基礎−
■発行年:’19年発行
■ISBN:978-4-595-31926-6
■サイズ:A5
■頁 数:280頁
■ 全体のねらい
古典中国語は東アジアを中心とする広大な地域で共有された古典語であり、近代に至るまで諸民族の精神構造のあり方を強く規定し続けたと同時に、その影響は現代にまで及んでいる。本書は、我が国で伝統的に用いられた訓読という手段を用いながら、このような古典中国語の読解法を解説する。「古典中国語の基本的な構造を理解する」、「辞書等を用いながら、標準的な漢文資料を読めるようになること」などが、学習目標となっている。
■ 章の構成
1.漢文とは何か
2.漢字と漢字音
3.漢文の構造とその成分(一)
4.漢文の構造とその成分(二)
5.機能語の体系と用法(一)−前置詞・構造助詞・文末助詞
6.機能語の体系と用法(二)−接続詞・助動詞・人称代詞
7.機能語の体系と用法(三)−指示代詞・疑問代詞・副詞
8.活用・構文・重要表現−品詞の活用・複合的構造・特殊語順・受動表現・数量表現
9.思想書講読(一)−墨子の言語論理学
10.思想書講読(二)−荘子の斉物論と郭象の注
11.文学書講読(一)
12.文学書講読(二)
13.歴史書講読(一)
14.歴史書講読(二)
15.漢文の座標
298日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:46:46.70 >>293
フェイク記事に踊らされて、何をトンデモなことを口走ってるのだ。
今の北極星であるポラリスは、太古の昔からあの辺りに光り輝いていた。
ただ真の北極からは、今よりやや離れており、誤差がやや大きかっただけだ。
其の誤差は2世紀ごろで西へ13-14度ほど、10世紀ごろで7度ほどだった。
といっても南が東になるほど大げさなものではない、
当時の社会一般にとって実用上は支障なく、その誤差は☆☆学者でなくてはわからない程度だった。
つまり、学者的に言えばかすかに大きい程度の誤差を承知で、ポラリスは北を指す星として実用的に用いられて来たのだ。
フェイク記事に踊らされて、何をトンデモなことを口走ってるのだ。
今の北極星であるポラリスは、太古の昔からあの辺りに光り輝いていた。
ただ真の北極からは、今よりやや離れており、誤差がやや大きかっただけだ。
其の誤差は2世紀ごろで西へ13-14度ほど、10世紀ごろで7度ほどだった。
といっても南が東になるほど大げさなものではない、
当時の社会一般にとって実用上は支障なく、その誤差は☆☆学者でなくてはわからない程度だった。
つまり、学者的に言えばかすかに大きい程度の誤差を承知で、ポラリスは北を指す星として実用的に用いられて来たのだ。
299日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:54:26.92 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
300日本@名無史さん
2021/01/21(木) 12:56:46.07 纏向の大型建物群の中心軸は、東西線に対して南へ5度振った方位となっている。
しかし、当初の議論は、大型建物は南北線に対して5度程度西に振って建てられている、というものだった。
それで、その大型建物の5度の傾きは北極星がその方位にあったためではないかとされた。
そこで起源200年頃にそこに北極星があったかどうか計算したところ、その5度の位置に北極星はなかったと分かり、議論はうやむやになったもの。
その後、誰かが言い出したのが、南北軸で見るのではなく東西軸で見るのが妥当とし、
建物群の中心軸は東西線に対して5度南に振った方位となっていると指摘した。
で、東西線に対して南に5度ふったその軸線は何を意味しているのか、との謎となったわけ。
しかし、この東西線に対して南へ5度の角度の謎は、実は簡単なことだったのだ。
卑弥呼の頃には、農耕暦の二十四節気暦がもたらされていたと想定して、この二十四節気を当てはめると、
纏向の大型建物の軸線の東西線より南へ5度の方位は啓蟄の節気の初日とぴったり重なることが分かった。
つまり、太陽が最も南へ寄った冬至の位置から5度ごとに各節気が北へ移動して行き、
東西線(春分点)から南へ5度の位置はちょうど啓蟄点となっているわけだ。
ということは、大型建物は二十四節気の啓蟄点に向けて建てられていることになり、
この二十四節気をもとにして、当時纏向では啓蟄点の夕日に向かって盛大に農耕祭祀が行われたことが推測できるのだ。
もちろん、その他の節気ごとにもそれぞれの農耕祭祀が行われただろうが、
そのうち最大の祭祀は大型建物が向っている方位に太陽が北上してきた啓蟄の初日だったということになる。
纏向の大型建物が東西線に対して南へ5度振った方位に建てられているのは、そういうことだったのだ。
ちなみに、啓蟄は気温が暖かくなり土中の虫が動き始める時期とされていて、農家ではこの時期になると農耕の準備を始めることになっている。
しかし、当初の議論は、大型建物は南北線に対して5度程度西に振って建てられている、というものだった。
それで、その大型建物の5度の傾きは北極星がその方位にあったためではないかとされた。
そこで起源200年頃にそこに北極星があったかどうか計算したところ、その5度の位置に北極星はなかったと分かり、議論はうやむやになったもの。
その後、誰かが言い出したのが、南北軸で見るのではなく東西軸で見るのが妥当とし、
建物群の中心軸は東西線に対して5度南に振った方位となっていると指摘した。
で、東西線に対して南に5度ふったその軸線は何を意味しているのか、との謎となったわけ。
しかし、この東西線に対して南へ5度の角度の謎は、実は簡単なことだったのだ。
卑弥呼の頃には、農耕暦の二十四節気暦がもたらされていたと想定して、この二十四節気を当てはめると、
纏向の大型建物の軸線の東西線より南へ5度の方位は啓蟄の節気の初日とぴったり重なることが分かった。
つまり、太陽が最も南へ寄った冬至の位置から5度ごとに各節気が北へ移動して行き、
東西線(春分点)から南へ5度の位置はちょうど啓蟄点となっているわけだ。
ということは、大型建物は二十四節気の啓蟄点に向けて建てられていることになり、
この二十四節気をもとにして、当時纏向では啓蟄点の夕日に向かって盛大に農耕祭祀が行われたことが推測できるのだ。
もちろん、その他の節気ごとにもそれぞれの農耕祭祀が行われただろうが、
そのうち最大の祭祀は大型建物が向っている方位に太陽が北上してきた啓蟄の初日だったということになる。
纏向の大型建物が東西線に対して南へ5度振った方位に建てられているのは、そういうことだったのだ。
ちなみに、啓蟄は気温が暖かくなり土中の虫が動き始める時期とされていて、農家ではこの時期になると農耕の準備を始めることになっている。
301日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:00:38.75 >>297
でもって、この准教授が倭人伝をどのように読んでいるのか、ぜひ知りたいもんだ。
でもって、この准教授が倭人伝をどのように読んでいるのか、ぜひ知りたいもんだ。
302日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:08:57.34 >>298
13〜14度も西にあったとすれば、5度の3倍近くも離れていたわけだから、
定点としては振れ過ぎて、利用不可だった。
だから、纏向の大型建物の軸線をそのポラリスに当てることは無理だったわけ。
13〜14度も西にあったとすれば、5度の3倍近くも離れていたわけだから、
定点としては振れ過ぎて、利用不可だった。
だから、纏向の大型建物の軸線をそのポラリスに当てることは無理だったわけ。
303日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:14:48.08 龗神という神は、どのような神なのだろうか。
304日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:19:23.47305日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:22:43.28 >>302
5度の誤差というと学者が専用の機械で計ってわかる程度、一般人にはほとんどゼロだ。
だから13-14度も、ほぼゼロの3倍に過ぎないから、社会一般的にはまず差し支えない。目で見ただけではキミにも区別はつかないだろう。
5度の誤差というと学者が専用の機械で計ってわかる程度、一般人にはほとんどゼロだ。
だから13-14度も、ほぼゼロの3倍に過ぎないから、社会一般的にはまず差し支えない。目で見ただけではキミにも区別はつかないだろう。
306日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:23:12.54 >>303
やはり、出雲神話時代には、竜や蛇への信仰が活発だった可能性があるな。
やはり、出雲神話時代には、竜や蛇への信仰が活発だった可能性があるな。
307日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:24:06.66 出雲神話時代とは、銅鐸王国の時代なのだろうか。
308日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:25:43.66 角度についての討論会で、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、論破されているのだろうか。。。
309日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:44:43.28 日本書紀や古事記には、銅鐸についての文章が、あるのだろうか。。。
311日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:54:58.75 天鈿女命とは、どのような人物なのだろうか。
312日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:57:38.30 邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまった。
313日本@名無史さん
2021/01/21(木) 13:59:34.37 >>311
阿波踊りの元祖 わははははは @阿波
阿波踊りの元祖 わははははは @阿波
314日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:00:31.71 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
315日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:04:52.26 高天原は、南西諸島の何処にあったのだろうか。。。
316日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:09:08.37317日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:09:45.24 天鈿女命とは、どのような人物なのだろうか。
318日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:12:45.68 常世思金神とは、どのような神なのだろうか。
319日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:22:14.56320日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:31:40.69 龗神という神は、どのような神なのだろうか。
321日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:32:06.36 角度についての討論会で、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、論破されているのだろうか。。。
322日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:35:50.96 やはり、八村塁氏が陽性だったのだろうか。。。
323日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:37:20.01 バンビシャスは、茨城に行くのだろうか。。。
324日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:38:36.84 茨城でのオールスターの闘いは、中止されてしまったね。
325日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:40:14.07 角度についての討論会で、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、論破されてしまったな。
326日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:41:06.82 >>298がフェイク
327日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:41:35.12 角度についての討論会で、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、論破されてしまった物事は、どのような物事なのだろうか。
328日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:43:04.94 驚いたな。。。これは、真実なのだろうか。
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
329日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:45:44.83330日本@名無史さん
2021/01/21(木) 14:45:47.43 >>328
首振り運動という謎の運動と、建物の軸線の傾き具合で、絶対年代が分かる可能性が、高まってきたのではないのかな。
首振り運動という謎の運動と、建物の軸線の傾き具合で、絶対年代が分かる可能性が、高まってきたのではないのかな。
331日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:36:32.34 肥前国庁跡(ひぜんこくちょうあと)
・佐賀県佐賀市大和町大字久池井、律令制下における地方行政機関の中心施設跡である。
>この国庁(国府)跡は、南北104.5メートル、東西77.2メートルである。
>建物は、約7度西に傾く南北中軸線上に、南から南門、前殿、正殿、後殿が並び、前殿の東西両側に各々2軒の脇殿が配置されている。
>また、正殿の左右に廊が取り付けられて、郭内を南北に二分している。(中略)
>建て替えは大きく前期・後期の二期に分かれるが、両期を通じて建物の規模や配置には基本的に変更はなかったようである。
>国庁築成時期は、出土した須恵器、土師器、多量の瓦などから、8世紀前半と推定されている。
つまり8世紀前半築造の此の国庁の南北中軸線は7度西に振っている。
この中軸線のズレは、当時の北極星のズレ角に相当する。
・佐賀県佐賀市大和町大字久池井、律令制下における地方行政機関の中心施設跡である。
>この国庁(国府)跡は、南北104.5メートル、東西77.2メートルである。
>建物は、約7度西に傾く南北中軸線上に、南から南門、前殿、正殿、後殿が並び、前殿の東西両側に各々2軒の脇殿が配置されている。
>また、正殿の左右に廊が取り付けられて、郭内を南北に二分している。(中略)
>建て替えは大きく前期・後期の二期に分かれるが、両期を通じて建物の規模や配置には基本的に変更はなかったようである。
>国庁築成時期は、出土した須恵器、土師器、多量の瓦などから、8世紀前半と推定されている。
つまり8世紀前半築造の此の国庁の南北中軸線は7度西に振っている。
この中軸線のズレは、当時の北極星のズレ角に相当する。
332日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:41:06.50 >>328
どんどんムー的疑似科学にハマって学問の世界から去っていく九州説
どんどんムー的疑似科学にハマって学問の世界から去っていく九州説
333日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:44:08.44334日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:49:33.77 これは、真実なのだろうか。
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
335日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:55:30.64 >>334
だが、巻向の相撲部屋の倉庫の向きを、東西線に合わせる必要があるのだろうか。。。
だが、巻向の相撲部屋の倉庫の向きを、東西線に合わせる必要があるのだろうか。。。
336日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:57:34.88 >>335
巻向の掘立柱小屋は、相撲部屋の倉庫ではなく、銅鐸王家の死体の霊魂を、封じ込める宗教のための小屋だった可能性もあるのではないのかな。
巻向の掘立柱小屋は、相撲部屋の倉庫ではなく、銅鐸王家の死体の霊魂を、封じ込める宗教のための小屋だった可能性もあるのではないのかな。
337日本@名無史さん
2021/01/21(木) 15:58:49.04 北部九州が邪馬台国の時代だった頃、畿内は南海トラフに見舞われ、纏向に避難していたんだろうね
南海トラフに超サイクル? 遺跡刻む履歴、巨石も動いた
https://www.asahi.com/articles/ASLDW4QR9LDWPTFC00C.html
弥生時代終末期〜古墳時代初めに土砂で埋まった集落跡とみられる笠嶋(かさしま)遺跡が眠っている。
南海トラフに超サイクル? 遺跡刻む履歴、巨石も動いた
https://www.asahi.com/articles/ASLDW4QR9LDWPTFC00C.html
弥生時代終末期〜古墳時代初めに土砂で埋まった集落跡とみられる笠嶋(かさしま)遺跡が眠っている。
338日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:05:15.38 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
339日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:23:39.03 >奈良・高取町ののろし台跡、国内防衛の緊張感示す 九州から1日で届く連絡網
>2021/01/20 22:05
>https://www.msn.com/ja-jp/news/national/奈良・高取町ののろし台跡、国内防衛の緊張感示す-九州から1日で届く連絡網/ar-BB1cVpGT
大壁建築からして、朝鮮半島渡来、避難民の遺跡だな。 @阿波
>2021/01/20 22:05
>https://www.msn.com/ja-jp/news/national/奈良・高取町ののろし台跡、国内防衛の緊張感示す-九州から1日で届く連絡網/ar-BB1cVpGT
大壁建築からして、朝鮮半島渡来、避難民の遺跡だな。 @阿波
340日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:27:46.76341日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:29:15.77 巻向の掘立柱小屋は、相撲部屋の倉庫ではなく、銅鐸王家の死体の霊魂を、封じ込める宗教のための、神社のような掘立小屋だったのだろうか。
342日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:42:44.84343日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:45:27.03 纒向は日本初の神社だったのかもな
崇神天皇の時代に大神神社が出来て廃社された
崇神天皇の時代に大神神社が出来て廃社された
344日本@名無史さん
2021/01/21(木) 16:49:15.49 「大神神社」 神社名からして、お粗末。
「大神神社」 神紋(杉)からして、お粗末。
「大御和神社」は鍵紋。 まさに「印鑰大明神」たる由縁。 @阿波
「大神神社」 神紋(杉)からして、お粗末。
「大御和神社」は鍵紋。 まさに「印鑰大明神」たる由縁。 @阿波
345日本@名無史さん
2021/01/21(木) 17:33:13.82346日本@名無史さん
2021/01/21(木) 17:55:24.73 大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、
この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
これは取りも直さず、文武天皇(七〇二年)の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことを表す。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、
この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
これは取りも直さず、文武天皇(七〇二年)の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことを表す。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm
347日本@名無史さん
2021/01/21(木) 17:56:30.31 >>337
近畿にある邪馬台国が救済したんだよ。
近畿にある邪馬台国が救済したんだよ。
348日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:00:22.57349日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:03:24.00350日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:04:22.39 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
351日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:04:31.88352日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:07:25.91 >>350
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
ブラタモリの「能島編」見たかい? 弥生時代によそ者の瀬戸内海通し航行は絶対無理。 @阿波
353日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:07:42.32 >>348
だから、邪馬台国。
だから、邪馬台国。
354日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:10:58.92355日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:11:24.08 高天原は、南西諸島の何処にあったのだろうか。。。
356日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:19:33.36357日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:22:30.25358日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:31:03.74359日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:33:06.36 纏向遺跡の真相はこれだw
纏向古墳造営基地局
兼
南海トラフ被害者の纏向避難所
w
纏向古墳造営基地局
兼
南海トラフ被害者の纏向避難所
w
360日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:33:41.07 高天原は上町台地やろ
大阪湾と河内湖、淀川に囲まれた島みたいな高台やな
押し照るなにわ
大阪湾と河内湖、淀川に囲まれた島みたいな高台やな
押し照るなにわ
362日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:35:47.26363日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:37:11.68 >>362
おいおい日本語になってないぞw
おいおい日本語になってないぞw
364日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:39:03.45 一般人にまったく信用して貰える見込みのないことを
ただ言い張って墓穴掘る掘る九州説
ただ言い張って墓穴掘る掘る九州説
365日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:41:43.49366日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:44:14.93 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
367日本@名無史さん
2021/01/21(木) 18:47:21.85 >>293
>現在のポラリスが北極星と認識されたのは紀元500年頃からで、
それ以前の紀元200年頃には北極の近くに北極星に当たる星はまだ現れていず、
北極星がなかった時期だとされている
周髀算経での東西南北の決め方は、一日の、日の出での8尺棒の影端の位置と、
日の入りでの八尺棒の影端の位置を結んで東西を決め、
その線と直交する方向で南北を決めており、
北極星を使っていないから、北極星を使ったこの男はバツ。
また礼記は、棒を立てて、その棒を中心とした円を描いて、
午前と午後にその棒の影端がその円を横切る所を印して、
その二点を結んで東西を決めて、その線と直行する方向で南北を決めているから
これも、北極星は関係なく、バツ。
>現在のポラリスが北極星と認識されたのは紀元500年頃からで、
それ以前の紀元200年頃には北極の近くに北極星に当たる星はまだ現れていず、
北極星がなかった時期だとされている
周髀算経での東西南北の決め方は、一日の、日の出での8尺棒の影端の位置と、
日の入りでの八尺棒の影端の位置を結んで東西を決め、
その線と直交する方向で南北を決めており、
北極星を使っていないから、北極星を使ったこの男はバツ。
また礼記は、棒を立てて、その棒を中心とした円を描いて、
午前と午後にその棒の影端がその円を横切る所を印して、
その二点を結んで東西を決めて、その線と直行する方向で南北を決めているから
これも、北極星は関係なく、バツ。
368日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:14:25.83 >>294
>原理主義ですから
違うな。
史料の史料批判に拠って信頼性や確率を推定して、
それから帰納的確率的な推論をする主義。
>白いもんでも、魏志に黒とあれば黒。
白いとあれば、白い確率が高く、
信頼性の高い魏志に黒とあれば、黒の確率が非常に高い。
>そこに登場する人物すべて完璧人間。
魏の役人らや陳寿は、実地の見聞計測記録を元にしているから、
その記録は確率が高い。
後代史家や記紀の筆者は、
実地の見聞計測の記録を元にしていない自己解釈部分があり、その部分は確率が低い。
>書き写しも完璧、誤字脱字もない。
写本や、記録の転写は、その部分に関しては、確率が非常に高い。
>原理主義ですから
違うな。
史料の史料批判に拠って信頼性や確率を推定して、
それから帰納的確率的な推論をする主義。
>白いもんでも、魏志に黒とあれば黒。
白いとあれば、白い確率が高く、
信頼性の高い魏志に黒とあれば、黒の確率が非常に高い。
>そこに登場する人物すべて完璧人間。
魏の役人らや陳寿は、実地の見聞計測記録を元にしているから、
その記録は確率が高い。
後代史家や記紀の筆者は、
実地の見聞計測の記録を元にしていない自己解釈部分があり、その部分は確率が低い。
>書き写しも完璧、誤字脱字もない。
写本や、記録の転写は、その部分に関しては、確率が非常に高い。
369日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:14:38.30 一般人にまったく信用して貰える見込みのないことを
ただ言い張って墓穴掘る掘る現実逃避中の畿内説
ただ言い張って墓穴掘る掘る現実逃避中の畿内説
370日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:15:34.66 >>328
地軸の極移動は10m以内の範囲で楕円形の周回を続けているが、
この程度の地軸移動では、東西線の南北移動は起こらないに等しい。
紀元200年頃の春分時、秋分時の東西線の位置は、現在のそれと変わらない。
ということは、東西線に対する5度の方位の位置は現在のそれと同じであるので、紀元200年頃も同じだったというこになる。
地軸の極移動は10m以内の範囲で楕円形の周回を続けているが、
この程度の地軸移動では、東西線の南北移動は起こらないに等しい。
紀元200年頃の春分時、秋分時の東西線の位置は、現在のそれと変わらない。
ということは、東西線に対する5度の方位の位置は現在のそれと同じであるので、紀元200年頃も同じだったというこになる。
371日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:18:55.54 このように九州説はインチキ擬似科学が好き
372日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:20:20.25 このように畿内説はインチキが好き
373日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:23:56.02374日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:26:54.45375日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:27:33.67 >>367
いや、纏向の大型建物が北極星を定点とした南北線に対して西に5度程度傾いて建てられているとしたのは発掘当初の学者たちであって、
ワイではないよ。
ワイは建物が春分、秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線に対して5度程度南に傾いた方位に建てられていると言ったの。
よく読んでちょ〜だい。
いや、纏向の大型建物が北極星を定点とした南北線に対して西に5度程度傾いて建てられているとしたのは発掘当初の学者たちであって、
ワイではないよ。
ワイは建物が春分、秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線に対して5度程度南に傾いた方位に建てられていると言ったの。
よく読んでちょ〜だい。
376日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:29:22.04 南海トラフと同時期に前方後円墳がわんさか造られたという事は、それだけ多くの権力者が死んだという事だな
377日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:32:00.30 >>368
やはり同一人物だったのか
見解の違いはどこでも起こりうる
問題は、どうそれに向き合ってゆくかと言うこと
自分の主張だけを繰り返しても何の解決にもならない
君の説の投馬國の場所では一般的な狗奴国比定地が南ではなく西になり、食い違いが生じる
また帯方郡から君の女王国の首都までの旅程を水行10日と陸行一月では説明できない
仮に韓国で1月近く徒歩で旅行する必要があったとしても、それは倭の地への行程とは関わりなく記載する必要がない
さらに仮に誤って記載したものだとしても、帯方郡から女王の都までは最短距離を選べば君の説だと10日と数日ということになる
つまり、女王国からは投馬国よりも帯方郡に移動する方が所要日数が少ないということになる
普通はここで変だなと思うべき
やはり同一人物だったのか
見解の違いはどこでも起こりうる
問題は、どうそれに向き合ってゆくかと言うこと
自分の主張だけを繰り返しても何の解決にもならない
君の説の投馬國の場所では一般的な狗奴国比定地が南ではなく西になり、食い違いが生じる
また帯方郡から君の女王国の首都までの旅程を水行10日と陸行一月では説明できない
仮に韓国で1月近く徒歩で旅行する必要があったとしても、それは倭の地への行程とは関わりなく記載する必要がない
さらに仮に誤って記載したものだとしても、帯方郡から女王の都までは最短距離を選べば君の説だと10日と数日ということになる
つまり、女王国からは投馬国よりも帯方郡に移動する方が所要日数が少ないということになる
普通はここで変だなと思うべき
378日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:32:44.75 >>301
>でもって、この准教授が倭人伝をどのように読んでいるのか、ぜひ知りたいもんだ。
その准教授が大和説者であったんなら、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しであった事が確定するだけだ。
>でもって、この准教授が倭人伝をどのように読んでいるのか、ぜひ知りたいもんだ。
その准教授が大和説者であったんなら、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しであった事が確定するだけだ。
379日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:36:47.16 >>1
どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか。
どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか。
380日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:36:51.45381日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:39:33.36 >>332
どんどんムー的疑似科学にハマって学問の世界から去っていく大和説学者ら。
どんどんムー的疑似科学にハマって学問の世界から去っていく大和説学者ら。
382日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:43:19.96 では、、、これは、嘘なのだろうか。
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
244日本@名無史さん2021/01/21(木) 08:05:48.22
>>225日本@名無史さん2021/01/21(木) 06:26:27.04
>>212 >正確には真西向きではなく、東西線に対して5度程度南に傾いた軸線に揃えているよ
おい、成程などと感心してるだけでよいのか
2万6000年で一巡する地球の歳差運動(首振り運動)という天然現象があってだな、古代1世紀ころの北極星は、今より約10度西に振っていた。
つまり(東西線の)西も当然南へ振っていた。
それが5度だったということは8世紀〜ごろのズレになってしまうが、誤差を考えても、あの建物群はそう古いものではない。
なんせ急いで埋め戻した柱穴が四角だったそうだから、このことからもそれはうかがえる。
(ちなみに今の北極星のズレは真の北極に最も近くて、2-3度程度だそうな。)
383日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:45:29.91 >>382
奥山氏は、九州学の立場の者に成り済まし、嘘をつくこともあるのだったね。
奥山氏は、九州学の立場の者に成り済まし、嘘をつくこともあるのだったね。
384日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:45:43.33 >>377
文中二度目の「女王国」を「女王国の都」に訂正します
文中二度目の「女王国」を「女王国の都」に訂正します
385日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:47:59.02 >>379
邪馬台国畿内説は、炭素についての物事を売り上げるための似非科学に、騙されてしまった。
邪馬台国畿内説は、炭素についての物事を売り上げるための似非科学に、騙されてしまった。
386日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:48:00.23 >>347
>近畿にある邪馬台国が救済したんだよ。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
近畿説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
バツ。
>近畿にある邪馬台国が救済したんだよ。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
近畿説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
バツ。
387日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:48:37.20 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
388日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:48:51.75 もっとスマートに辻褄の合う説を出せ
■畿内は東の倭種の国なので記録が無い(のちのヤマト王権)
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き足したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那、慕韓かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き
(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人はIQが低い
■畿内は東の倭種の国なので記録が無い(のちのヤマト王権)
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き足したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那、慕韓かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き
(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人はIQが低い
389日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:50:17.09390日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:52:14.73 >>382
だが、魏志倭人伝時代の研究とは全く別にしても、北極点が首振り運動という謎の運動で、最大、どのくらいの距離、奥山氏の鬘がズレるようにして、ズレるか、
貴方は、興味を抱いたのでは、ないのかな。
だが、魏志倭人伝時代の研究とは全く別にしても、北極点が首振り運動という謎の運動で、最大、どのくらいの距離、奥山氏の鬘がズレるようにして、ズレるか、
貴方は、興味を抱いたのでは、ないのかな。
391日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:53:16.58 北極点は、首振り運動という謎の運動で、最大、どのくらいの距離、奥山氏の鬘がズレるようにして、ズレるのだろうか。
392日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:55:11.80 >>389
そんな態度だと、誰とも議論できないよ
そんな態度だと、誰とも議論できないよ
393日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:57:26.95394日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:58:03.35 ..391
どっちにせよ、日本列島じゃ東西の地平線なんて見えないからな
正確な計測は出来てなくて当然
どっちにせよ、日本列島じゃ東西の地平線なんて見えないからな
正確な計測は出来てなくて当然
395日本@名無史さん
2021/01/21(木) 19:59:09.11396日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:02:17.79397日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:04:46.04 >>371
このように大和説学者らはら、インチキ擬似科学が好き
このように大和説学者らはら、インチキ擬似科学が好き
398日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:14:39.06 驚いたな。。。
北極点は、首振り運動という謎の運動だけではなく、プレートや気候変動でも、簡単にズレてしまうのだな。。。
北極点は、首振り運動という謎の運動だけではなく、プレートや気候変動でも、簡単にズレてしまうのだな。。。
399日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:15:42.20 >>398
北極点が、動けば、方角がズレるな。
北極点が、動けば、方角がズレるな。
400日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:16:26.15 400
401日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:18:24.44 >>398
プレートの運動は、安山岩の出現とも関係があるのだったね。
プレートの運動は、安山岩の出現とも関係があるのだったね。
402日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:19:55.33 魏志倭人伝時代から、北極点は、最大、どのくらいの距離、奥山氏の鬘がズレるようにして、ズレたのだろうか。
403日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:20:57.79 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
404日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:24:52.46 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。
405日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:27:13.14 羅族みたいな集団っていたのかな?
詳しい人いないかな
誰か北斗の拳羅王がどうのとか言ってたな
詳しい人いないかな
誰か北斗の拳羅王がどうのとか言ってたな
406日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:32:05.11407日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:35:08.43 370日本@名無史さん2021/01/21(木) 19:15:34.66
>>328
>地軸の極移動は10m以内の範囲で楕円形の周回を続けているが、
>この程度の地軸移動では、東西線の南北移動は起こらないに等しい。
地軸の極移動は10m以内の範囲というのは1日24時間の軸移動かなんかじゃないの
けた違い場違いのフェイクを垂れ流すんじゃないの。ここで言ってるのは2万6000年周期の歳差運動による地軸のブレだ
>>328
>地軸の極移動は10m以内の範囲で楕円形の周回を続けているが、
>この程度の地軸移動では、東西線の南北移動は起こらないに等しい。
地軸の極移動は10m以内の範囲というのは1日24時間の軸移動かなんかじゃないの
けた違い場違いのフェイクを垂れ流すんじゃないの。ここで言ってるのは2万6000年周期の歳差運動による地軸のブレだ
408日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:37:55.95 >>407
磁気の逆転もかんけいするの? by
磁気の逆転もかんけいするの? by
409日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:38:31.32 そもそも地軸で洛陽中心だと
↓こうなるんだよw
https://i.imgur.com/XeIVam4.jpg
しかも当時の中華は地球平面説なので
地上は平面、天はアンダーザドームな半球w
太陽の出る方角は「常に東」と言う認識だ
またまた俺は謎が解けてしまったw
↓こうなるんだよw
https://i.imgur.com/XeIVam4.jpg
しかも当時の中華は地球平面説なので
地上は平面、天はアンダーザドームな半球w
太陽の出る方角は「常に東」と言う認識だ
またまた俺は謎が解けてしまったw
410日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:39:29.69411日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:44:29.29 >>374
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
デタラメにオウム返しされてる大和説学者らは
ただウソついてるのと同じだ
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
デタラメにオウム返しされてる大和説学者らは
ただウソついてるのと同じだ
412日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:45:30.17413日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:46:09.08 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。
414日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:48:18.55 >>406
だから、奈良盆地は止めとけって言っただろ! @阿波
だから、奈良盆地は止めとけって言っただろ! @阿波
415日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:52:24.24416日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:54:34.30 >>328
地軸が、動くか、動かないかは、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったという真実とは、無関係だよ。
地軸が、動くか、動かないかは、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったという真実とは、無関係だよ。
417日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:56:23.23 >>375
>ワイは建物が春分、秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線に対して5度
>程度南に傾いた方位に建てられていると言ったの。
「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」に合わせて建てられたなら、当然ながらズレは生じない
しかし今、現にズレが生じているのであるから、
あれは「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」以外のものを参考指標にして建てられたという理屈になる。
それは何だったのであろうかと考えれば、北極星であったのではないかという推定は最も有力な提案のひとつである。
>ワイは建物が春分、秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線に対して5度
>程度南に傾いた方位に建てられていると言ったの。
「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」に合わせて建てられたなら、当然ながらズレは生じない
しかし今、現にズレが生じているのであるから、
あれは「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」以外のものを参考指標にして建てられたという理屈になる。
それは何だったのであろうかと考えれば、北極星であったのではないかという推定は最も有力な提案のひとつである。
418日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:59:30.76 >>416
九州説が破綻してしまったことと関係がある
九州説が破綻してしまったことと関係がある
419日本@名無史さん
2021/01/21(木) 20:59:51.09 >>406
>戦火からの避難民とか 行き場のない渡来人も。
水路、土木工事、田、畑耕作、銅鐸で鏡製作で産業
鉄など希少価値で、地消地産で木造文化と保存食が発展、
古墳で鎮魂 で7万戸 by
「7万戸」と言った時点で、邪馬壹國」の事になるから、
「b y」は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などに拠って、バツ。
>戦火からの避難民とか 行き場のない渡来人も。
水路、土木工事、田、畑耕作、銅鐸で鏡製作で産業
鉄など希少価値で、地消地産で木造文化と保存食が発展、
古墳で鎮魂 で7万戸 by
「7万戸」と言った時点で、邪馬壹國」の事になるから、
「b y」は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國中心は北部九州」などに拠って、バツ。
420日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:00:15.64 東へ水行20日で投馬国へ至る
東へ水行10日南へ陸行一月で邪馬台国へ至る
東へ水行10日南へ陸行一月で邪馬台国へ至る
421日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:01:09.45 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
422日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:03:19.85 数十年後発掘調査の結果邪馬台国は畿内にあったと結論づけられるであろう
ここの九州説派のじじいはその時まで生き残ってないだろうけど
ここの九州説派のじじいはその時まで生き残ってないだろうけど
423日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:04:08.42 >>408
少なくとも地磁気の逆転は、2万6000年周期の歳差運動による地軸のずれの原因にはならない
少なくとも地磁気の逆転は、2万6000年周期の歳差運動による地軸のずれの原因にはならない
424日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:05:23.08 >>329
最終的には南なんだよなー
最終的には南なんだよなー
425日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:05:32.86426日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:07:08.58 2016年の中国映画「轩辕大帝」というのをwebで見ました
黄帝(紀元前2510年〜紀元前2448年)の物語です
東洋医学の祖ともいわれ、ユンケル黄帝液に名を残しています
ま、ドラマですが当時の暮らしぶりを想像してみるきっかけになるかもしれません
興味がある人はお暇な折にどうぞ
黄帝(紀元前2510年〜紀元前2448年)の物語です
東洋医学の祖ともいわれ、ユンケル黄帝液に名を残しています
ま、ドラマですが当時の暮らしぶりを想像してみるきっかけになるかもしれません
興味がある人はお暇な折にどうぞ
427日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:07:09.67 >>422
>数十年後発掘調査の結果邪馬台国は畿内にあったと結論づけられるであろう
それは、「阿波」だ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波
>数十年後発掘調査の結果邪馬台国は畿内にあったと結論づけられるであろう
それは、「阿波」だ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波
428日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:09:24.42 >>407
>地軸の極移動は10m以内の範囲というのは1日24時間の軸移動かなんかじゃないの
けた違い場違いのフェイクを垂れ流すんじゃないの。
ここで言ってるのは2万6000年周期の歳差運動による地軸のブレだ
地軸の歳差運動は、
周髀算経や礼記の「昼間だけの半日での太陽位置を結んで東西を決める」方法には、
ほぼ全く関係がないから、この大和説男は、バツ。
>地軸の極移動は10m以内の範囲というのは1日24時間の軸移動かなんかじゃないの
けた違い場違いのフェイクを垂れ流すんじゃないの。
ここで言ってるのは2万6000年周期の歳差運動による地軸のブレだ
地軸の歳差運動は、
周髀算経や礼記の「昼間だけの半日での太陽位置を結んで東西を決める」方法には、
ほぼ全く関係がないから、この大和説男は、バツ。
429日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:09:51.24 >>423
サンクス。謎ばかり by
サンクス。謎ばかり by
430日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:11:45.91431日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:16:47.53 邪馬台国畿内説とは、どのような妄想なのだろうか。
432日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:17:34.67433日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:19:29.83 >>431
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想だよ。
邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想だよ。
434日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:19:57.08 >>417
>「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」に合わせて建てられたなら、当然ながらズレは生じない
しかし今、現にズレが生じているのであるから、
あれは「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」以外のものを参考指標にして建てられたという理屈になる。
それは何だったのであろうかと考えれば、北極星であったのではないかという推定は最も有力な提案のひとつである。
周髀算経や礼記や古代の人々は、
一日の昼間の午前と午後の対称的太陽位置を結んで、東西を決め、
それに直交する方向で南北を決めており、
北極星など始めから使っていないから、
この大和説男は、バツ。
>「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」に合わせて建てられたなら、当然ながらズレは生じない
しかし今、現にズレが生じているのであるから、
あれは「秋分時の日の出点、日の入り点を結んだ東西線」以外のものを参考指標にして建てられたという理屈になる。
それは何だったのであろうかと考えれば、北極星であったのではないかという推定は最も有力な提案のひとつである。
周髀算経や礼記や古代の人々は、
一日の昼間の午前と午後の対称的太陽位置を結んで、東西を決め、
それに直交する方向で南北を決めており、
北極星など始めから使っていないから、
この大和説男は、バツ。
435日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:20:36.14 >>433
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
436日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:20:52.90 >>418
大和説が破綻してしまったことと関係がある
大和説が破綻してしまったことと関係がある
437日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:21:14.84 >>428
東西線を決めるということは、必然的に南北線を決めることでもある。
だから、歳差運動によって南北線がズレれば東西線もズレる。
つまりズラコクの頭頂ズラがズレれば、必然的に前ズラもズレるのと同じ現象だ。。
東西線を決めるということは、必然的に南北線を決めることでもある。
だから、歳差運動によって南北線がズレれば東西線もズレる。
つまりズラコクの頭頂ズラがズレれば、必然的に前ズラもズレるのと同じ現象だ。。
438日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:21:51.52439日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:22:34.65 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
440日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:23:33.06441日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:25:24.14 奥山氏よ、脳の活動のレベルを上げろ。
442日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:25:26.17 >>434
地平線が山で隠れてしまう日本では使えないな
地平線が山で隠れてしまう日本では使えないな
443日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:27:24.67 >>422
>数十年後発掘調査の結果邪馬台国は畿内にあったと結論づけられるであろう
ここの九州説派のじじいはその時まで生き残ってないだろうけど
数十年後であろうと、今であろうと、
邪馬台国とか畿内とかは、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この大和説男は、バツであると、結論づけられるであろう。
>数十年後発掘調査の結果邪馬台国は畿内にあったと結論づけられるであろう
ここの九州説派のじじいはその時まで生き残ってないだろうけど
数十年後であろうと、今であろうと、
邪馬台国とか畿内とかは、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この大和説男は、バツであると、結論づけられるであろう。
444日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:38:03.70 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
445日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:40:46.17447日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:43:35.29 1800年程の地軸のズレでは、魏志倭人伝時代の方角に影響は無いので、地平線や水平線が確認できなければ、南北線が確定できないのか、それとも、確定できるのかは、あまり、意味のない討論なのだが、
「測定地点と太陽を結ぶ線」と「測定地点の水面」との角度を測るだけの簡単な分度器があれば、例えば、朝と夕、それぞれの、「測定地点と太陽を結ぶ線」と「測定地点の水面」が30度の角度になったときの、方角を測り、その方角同士の対称線を、南北線として決定できるな。
「測定地点と太陽を結ぶ線」と「測定地点の水面」との角度を測るだけの簡単な分度器があれば、例えば、朝と夕、それぞれの、「測定地点と太陽を結ぶ線」と「測定地点の水面」が30度の角度になったときの、方角を測り、その方角同士の対称線を、南北線として決定できるな。
448日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:44:21.53 奥山氏よ、脳の活動のレベルを上げろ。
449日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:47:49.76 >>328
地軸が、動くか、動かないかは、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったという真実とは、無関係だよ。
地軸が、動くか、動かないかは、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったという真実とは、無関係だよ。
450日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:50:55.27 >>1
おい、頭の出来栄えの悪いプロ固定、はっけよい。
おい、頭の出来栄えの悪いプロ固定、はっけよい。
451日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:51:27.99452日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:54:16.87 >>437
>東西線を決めるということは、必然的に南北線を決めることでもある。
だから、歳差運動によって南北線がズレれば東西線もズレる。
朝から夕までの半日以内という短時間内に東西線を先に決めており、
南北線の歳差運動誤差が発生する筈もない。
つまり東大理系博士号自称男の頭がずれても、前ズラには関係がないのと同じ現象だ。
>東西線を決めるということは、必然的に南北線を決めることでもある。
だから、歳差運動によって南北線がズレれば東西線もズレる。
朝から夕までの半日以内という短時間内に東西線を先に決めており、
南北線の歳差運動誤差が発生する筈もない。
つまり東大理系博士号自称男の頭がずれても、前ズラには関係がないのと同じ現象だ。
453日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:57:31.14 奥山のズラのズレが何度だって?
454日本@名無史さん
2021/01/21(木) 21:58:24.26 >>432
九州くんだりから、遠路はるばる引っ越しせんでも、「阿波」の「忌部はん」に任せとけって。
「忌部はん」はお墓づくりのプロなんだから。 九州土民は、よう造らんだろ。 わははははは @阿波
九州くんだりから、遠路はるばる引っ越しせんでも、「阿波」の「忌部はん」に任せとけって。
「忌部はん」はお墓づくりのプロなんだから。 九州土民は、よう造らんだろ。 わははははは @阿波
455日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:02:33.65 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
456日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:17:43.57 >>439
(笑)
(笑)
457日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:25:37.13458日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:26:32.88 邪馬台国候補の鉄板となる条件(畿内説宣伝係談)
・鉄器が跡形も無く溶ける地域である
・カエルの骨が溶けない地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・纏向近くの別の遺構から桃の種が発見される。
・7万戸を誇る大都市だが人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・全く無関係だが木のお面が、発見できる。
・卑弥呼の墓からは奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できる。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・鉄器が跡形も無く溶ける地域である
・カエルの骨が溶けない地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・纏向近くの別の遺構から桃の種が発見される。
・7万戸を誇る大都市だが人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・全く無関係だが木のお面が、発見できる。
・卑弥呼の墓からは奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できる。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
459日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:41:31.65 魏志倭人伝を読む限り九州だけど
水行30日陸行一月で全てが台無しになる
水行30日陸行一月で全てが台無しになる
461日本@名無史さん
2021/01/21(木) 22:51:29.95 既存の九州説、畿内説ともに距離の里が急に日数表現に変わってしまう理由を述べていない
重要なヒントなのに
重要なヒントなのに
462日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:00:57.15463日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:27:50.64 韓国南部から九州北部まで水行3-5日くらいじゃね?
10日もかかってたら遭難するだろ
10日もかかってたら遭難するだろ
464日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:41:05.65465日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:43:47.88466日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:45:32.69467日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:54:20.47 もう位置論争は畿内で決着ついてるよ
筑紫だの伊都だのは全て否定済み
筑紫だの伊都だのは全て否定済み
468日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:56:00.07 >>466
> 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?
倭人が朝貢に来る前に中国が入手していた情報だろう(魏略など)
それらのコピペを完了した後で倭人から得た情報をまた差し込んだ
要するに情報を得るたびに再編集していておかしくなったんだろうよ
> 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?
倭人が朝貢に来る前に中国が入手していた情報だろう(魏略など)
それらのコピペを完了した後で倭人から得た情報をまた差し込んだ
要するに情報を得るたびに再編集していておかしくなったんだろうよ
469日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:57:22.83470日本@名無史さん
2021/01/22(金) 00:58:49.49 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
471日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:14:26.97 また始まりましたよ(笑)
魏志倭人伝を読むに温暖な気候、酒好きの人間、コメのとれにくい地域、魚がよくとれる、男尊女卑…これ九州だろ…
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1611119080/
魏志倭人伝を読むに温暖な気候、酒好きの人間、コメのとれにくい地域、魚がよくとれる、男尊女卑…これ九州だろ…
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1611119080/
472日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:24:10.82 また『倭猿』の話、なぜだと思う?
473日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:25:43.15474日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:26:26.26 畿内で最終的には落ち着くだろうな
九州では新たな発見も期待できそうにないし
九州では新たな発見も期待できそうにないし
475日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:26:40.98 日本史などのスレの話ではないんだけど、
何かしたんだろう?みたいな事を言っている人がいたり。
芸能、オカルト関係のスレの話でもない。
何かした奴がいるんだろう?とか。
何かしたんだろう?みたいな事を言っている人がいたり。
芸能、オカルト関係のスレの話でもない。
何かした奴がいるんだろう?とか。
476日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:30:44.04477日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:35:09.20 >>469
畿内からは景初や正始と彫ってある魏で作られた鏡の
三角縁神獣鏡が多く見つかってる
そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたりと
ありえない位置が書いてある
畿内からは景初や正始と彫ってある魏で作られた鏡の
三角縁神獣鏡が多く見つかってる
そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたりと
ありえない位置が書いてある
478日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:43:20.44 会稽東治て魏にあったけ?by
479日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:48:05.58480日本@名無史さん
2021/01/22(金) 01:58:34.73 魏略からの追加は、水行30日1月はのみ。(引っ越し先2カ所)
実測はそのまま。のこり魏の役人が実測していない、聞いただけの南へ
水行30日陸1月で実際にはない陸地になってしまい
温暖な地域になってしまいました。
陳寿の頭の中。by
実測はそのまま。のこり魏の役人が実測していない、聞いただけの南へ
水行30日陸1月で実際にはない陸地になってしまい
温暖な地域になってしまいました。
陳寿の頭の中。by
481日本@名無史さん
2021/01/22(金) 02:35:28.58 >>407
春分点が天球上をぐるっと一周するのにかかる年数が2万5800年であることと、地軸の傾きとは無関係。
地軸の傾きは一定しており、2万5800年たっても同じということ。
なので、地上の春分初日の朝日と夕日を結ぶ東西線に対して南に5度傾いている軸線の角度は、2万5800年の間少しも変化しないということ。
春分点が天球上をぐるっと一周するのにかかる年数が2万5800年であることと、地軸の傾きとは無関係。
地軸の傾きは一定しており、2万5800年たっても同じということ。
なので、地上の春分初日の朝日と夕日を結ぶ東西線に対して南に5度傾いている軸線の角度は、2万5800年の間少しも変化しないということ。
482日本@名無史さん
2021/01/22(金) 02:41:10.60483日本@名無史さん
2021/01/22(金) 03:13:39.70 >>407
現在の自転軸の23.4度が確定した原因として考えられている理論は、原始地球に火星大の惑星衝突があった結果だとするもの。
その際には月が生成した、としているそうだ。
つまり、自転軸の角度が変化するとすれば、そのような天体規模のエネルギーを必要とするということ。
いわゆるポールシフトのようなことは、オカルト界での話だという。
一方、方位磁石が北を指す北磁極は、これは頻繁に移動しているそうだ。
しかし、その北磁極の移動でも、地球の自転軸の角度が変わらないのはいうまでもない。
現在の自転軸の23.4度が確定した原因として考えられている理論は、原始地球に火星大の惑星衝突があった結果だとするもの。
その際には月が生成した、としているそうだ。
つまり、自転軸の角度が変化するとすれば、そのような天体規模のエネルギーを必要とするということ。
いわゆるポールシフトのようなことは、オカルト界での話だという。
一方、方位磁石が北を指す北磁極は、これは頻繁に移動しているそうだ。
しかし、その北磁極の移動でも、地球の自転軸の角度が変わらないのはいうまでもない。
484日本@名無史さん
2021/01/22(金) 04:11:39.08 それにしても、漫画、アニメ・・・ゲームなどがあるでしょ、
宇宙何やらなど、ほんとーは日本の話(神話?)ではないんだと言っているのに。
宇宙何やらなど、ほんとーは日本の話(神話?)ではないんだと言っているのに。
485日本@名無史さん
2021/01/22(金) 04:21:56.95 例『天若日子命』
機織り(七夕)などの話、〜〜〜〜結婚したとか。
その後(?)の宇宙戦艦、
・・・、・・・、・・・、などの話だろう。
機織り(七夕)などの話、〜〜〜〜結婚したとか。
その後(?)の宇宙戦艦、
・・・、・・・、・・・、などの話だろう。
486日本@名無史さん
2021/01/22(金) 04:35:56.88 『王母』の家、〜サルタ(不明)?
・・・池沼の話にはついていけない。
・・・池沼の話にはついていけない。
487日本@名無史さん
2021/01/22(金) 04:48:11.22 『クレクレタコラ』〜『タコは哺乳類』ほんとんど同じネタ。
488日本@名無史さん
2021/01/22(金) 04:55:30.99 『天財若子』
489日本@名無史さん
2021/01/22(金) 05:05:02.87 『仏教』・・・「え?何だって」みたいなネタとか。
490日本@名無史さん
2021/01/22(金) 05:22:15.65 何かの先生(?)のような人物だったのかな、
たしか、当時、住んでいたという家があって、
本棚に本や書なんかが、だーっと並んでいたと言っているし。
松の木(植えられている、立てられている)・・・立っている人物の写真、その家のなんだけど。
たしか、当時、住んでいたという家があって、
本棚に本や書なんかが、だーっと並んでいたと言っているし。
松の木(植えられている、立てられている)・・・立っている人物の写真、その家のなんだけど。
491日本@名無史さん
2021/01/22(金) 05:50:26.68 チンピラの考えは理解できない、どう考えても、ほとんど家の話。
成り済まし、騙り・・・?詳しいことはわからないけど、
何がしたいんだと聞いているだけ。
成り済まし、騙り・・・?詳しいことはわからないけど、
何がしたいんだと聞いているだけ。
492日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:00:47.72 有名人なのかな、あの写真。
老婆によると、
葱の華のほうに、母親だという人がいるんだけど、
その人物だけが裸足(素足に足袋、下駄)、松(の木)〜と同じ家。
わかりやすく言うと、この書き込みをしている家。
老婆によると、
葱の華のほうに、母親だという人がいるんだけど、
その人物だけが裸足(素足に足袋、下駄)、松(の木)〜と同じ家。
わかりやすく言うと、この書き込みをしている家。
493日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:12:36.74 成り済まし、騙り乙。
上皇〜皇后とか言っている池沼は何なんだ?
精神病院に行けと言っているのが、わからないのか?
上皇〜皇后とか言っている池沼は何なんだ?
精神病院に行けと言っているのが、わからないのか?
494日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:16:47.76 何の先生なのか?
わかりやすく言うと、家の老婆の家の先生みたいな話。
老婆の旧姓:渡辺というんだけどw
『渡辺 源氏』
わかりやすく言うと、家の老婆の家の先生みたいな話。
老婆の旧姓:渡辺というんだけどw
『渡辺 源氏』
495日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:23:43.59 勝手に名乗ったり、自称するなと言っただろう。
「❓」どこの低脳なんだ。
「❓」どこの低脳なんだ。
496日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:30:43.06 尼寺があって、そこに行ったりしていた。
オマエの家の話ではないだろう、老婆もw肉(牛肉)なども食べなかったしな。
オマエの家の話ではないだろう、老婆もw肉(牛肉)なども食べなかったしな。
497日本@名無史さん
2021/01/22(金) 06:50:23.60 肉屋が〜とか、そういう職業ついて、どうこう言っているわけではない。
オマエの家の話ではないだろうと言っているだけ。
あの謎の写真の人物は肉なども食べなかったと、言っていたしな・・・w
オマエの家の話ではないだろうと言っているだけ。
あの謎の写真の人物は肉なども食べなかったと、言っていたしな・・・w
498日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:12:19.72 >>468
双六になったな。
双六になったな。
499日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:37:24.71500日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:39:04.28 >>459
魏志倭人伝を読む限り九州であり、
水行二十日は、博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明であり、
水行十日陸行一月は、郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
これだけでも、大和説は全てが破綻する
魏志倭人伝を読む限り九州であり、
水行二十日は、博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明であり、
水行十日陸行一月は、郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
これだけでも、大和説は全てが破綻する
501日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:42:24.65 >>499
要するに、地軸がどうたらこうたら、アホ論議なのではないであろうかww @阿波
要するに、地軸がどうたらこうたら、アホ論議なのではないであろうかww @阿波
502日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:50:03.83 >>461
>既存の九州説、畿内説ともに距離の里が急に日数表現に変わってしまう理由を述べていない
重要なヒントなのに
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男の人間性がバツであり、
投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
水行十日陸行一月は、その前の「郡から目的地」である「女王之所都」への説明文言になり、
郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
その事も、これまで数え切れない位説明して来た事であるから、
この投稿子は、その事を伏せているインチキ男である。
>既存の九州説、畿内説ともに距離の里が急に日数表現に変わってしまう理由を述べていない
重要なヒントなのに
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男の人間性がバツであり、
投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
水行十日陸行一月は、その前の「郡から目的地」である「女王之所都」への説明文言になり、
郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
その事も、これまで数え切れない位説明して来た事であるから、
この投稿子は、その事を伏せているインチキ男である。
503日本@名無史さん
2021/01/22(金) 07:56:33.34 >>461
>既存の九州説、畿内説ともに距離の里が急に日数表現に変わってしまう理由を述べていない
重要なヒントなのに
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日 直線距離(170km) 2300里
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道) 直線距離(350km) 4700里
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
おそらく、陳寿が距離表示を書いていない理由は、
はるか1000里を超える距離だから、あえて表示しなかったんだろう。 @阿波
>既存の九州説、畿内説ともに距離の里が急に日数表現に変わってしまう理由を述べていない
重要なヒントなのに
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日 直線距離(170km) 2300里
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道) 直線距離(350km) 4700里
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
おそらく、陳寿が距離表示を書いていない理由は、
はるか1000里を超える距離だから、あえて表示しなかったんだろう。 @阿波
504日本@名無史さん
2021/01/22(金) 08:06:16.17 >>502
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
魏志倭人伝も、魏略も、廣志も、倭国に上陸したら東南へ進めと書いているのであり、
このことからとうぜん博多湾岸の不彌國なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男の人間性がバツであり、
この投稿子は、魏志倭人伝や魏略や廣志の貴重な記述の事を伏せているインチキ男である。
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
魏志倭人伝も、魏略も、廣志も、倭国に上陸したら東南へ進めと書いているのであり、
このことからとうぜん博多湾岸の不彌國なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男の人間性がバツであり、
この投稿子は、魏志倭人伝や魏略や廣志の貴重な記述の事を伏せているインチキ男である。
505日本@名無史さん
2021/01/22(金) 08:34:18.15 >>502
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
>水行十日陸行一月は、その前の「郡から目的地」である「女王之所都」への説明文言になり、
>郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
>その事も、これまで数え切れない位説明して来た事であるから、
「至」の前に途中移動の説明文言がないと側副傍線だとか
「郡から目的地」への説明文言だとか
理由をこれまで一言も説明したこと無いよね
この
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
>水行十日陸行一月は、その前の「郡から目的地」である「女王之所都」への説明文言になり、
>郡から女王之所都へ所要日数説明であり、
>その事も、これまで数え切れない位説明して来た事であるから、
「至」の前に途中移動の説明文言がないと側副傍線だとか
「郡から目的地」への説明文言だとか
理由をこれまで一言も説明したこと無いよね
この
506日本@名無史さん
2021/01/22(金) 08:40:54.26 それにしても、なぜ詳しいんだろう、
松の木が立てられていて、そこに立っている人物は、
「 □勝」でもないんだけど。
ネタでいうと、オジーちゃん。(お爺ちゃんという意味)、
『姥清水』
この周辺の話もしていた、馬に乗っていて〜とか。
松の木が立てられていて、そこに立っている人物は、
「 □勝」でもないんだけど。
ネタでいうと、オジーちゃん。(お爺ちゃんという意味)、
『姥清水』
この周辺の話もしていた、馬に乗っていて〜とか。
507日本@名無史さん
2021/01/22(金) 08:48:00.91 >>462
>投馬国のどこから出発し水行10日でどこの国に上陸するの? by
b yは、根本的に解釈がクルっている。
投馬國説明には、「至「の前に途中移動をした事を示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、
不彌國からの南方への側副傍線国としての説明文であり、
「水行二十日」がその所要日数の説明であり、
その大体の位置は、「水行二十日」では大体南九州に相当する。
>投馬国のどこから出発し水行10日でどこの国に上陸するの? by
b yは、根本的に解釈がクルっている。
投馬國説明には、「至「の前に途中移動をした事を示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、
不彌國からの南方への側副傍線国としての説明文であり、
「水行二十日」がその所要日数の説明であり、
その大体の位置は、「水行二十日」では大体南九州に相当する。
508日本@名無史さん
2021/01/22(金) 08:56:24.12 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
509日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:01:00.11 >>507
で邪馬壹はどこ?
で邪馬壹はどこ?
510日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:12:48.27 3時間で潮の流れを利用して有明海北側から天草まで行くよ。3日もあれば枕崎まで行く。
511日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:50:57.72 >>510
まあ、ヨットレースだろう。
スピード1/3に落とす。 9日に枕崎だ。 by
まあ、ヨットレースだろう。
スピード1/3に落とす。 9日に枕崎だ。 by
512日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:55:53.16 高天原は、南西諸島の何処にあったのだろうか。。。
513日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:57:02.07 鰹節についての討論なのではないのかな。
514日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:57:47.79 >>463
>韓国南部から九州北部まで水行3-5日くらいじゃね?
10日もかかってたら遭難するだろ
「水行十日陸行一月」の「水行十日」は、
「循海岸水行」部分の四日位と、三渡海の各二日位の六日の、合計日数。
>韓国南部から九州北部まで水行3-5日くらいじゃね?
10日もかかってたら遭難するだろ
「水行十日陸行一月」の「水行十日」は、
「循海岸水行」部分の四日位と、三渡海の各二日位の六日の、合計日数。
515日本@名無史さん
2021/01/22(金) 09:59:51.09 長江から、南西諸島の何処かに、銅器が伝来した可能性もあるな。
516日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:02:07.65 銅器が伝来した南西諸島の何処かの海岸は、今は、海になり、遺蹟は発見できないのだったな。
517日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:05:14.01 南西諸島の宝島という島は、須玖式という式の土器が埋まっていたのではないのかな。
518日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:06:45.10 小人国は、南西諸島の何処にあったのだろうか。。。
519日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:07:54.72 >>466
>末廬國上陸して伊都国(審査受けて)
南に陸1月。1日3km×28 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?by
当然、魏使らは伊都国の後も、(奴国は側副傍線国説明であるから行かず)、
不彌國からその南直ぐの「邪馬壹國女王之所都」に行っている。
そして、陸行一月は、
歴韓國乍南乍東と、對海國と一大國の海岸沿い二辺陸行と、
末盧國〜伊都國〜不彌國〜邪馬壹國女王之所都の、合計日数。
b yは、アホ。
>末廬國上陸して伊都国(審査受けて)
南に陸1月。1日3km×28 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?by
当然、魏使らは伊都国の後も、(奴国は側副傍線国説明であるから行かず)、
不彌國からその南直ぐの「邪馬壹國女王之所都」に行っている。
そして、陸行一月は、
歴韓國乍南乍東と、對海國と一大國の海岸沿い二辺陸行と、
末盧國〜伊都國〜不彌國〜邪馬壹國女王之所都の、合計日数。
b yは、アホ。
520日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:08:53.54 >>511
続き、で邪馬壹はどこ?by
続き、で邪馬壹はどこ?by
521日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:11:06.24522日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:11:30.75 >>518
魏志倭人伝の中の侏儒國は、山海経という文章の中の小人国のことを書き替えたのだと、貴方は、ついに、見破ったのだな。。。
魏志倭人伝の中の侏儒國は、山海経という文章の中の小人国のことを書き替えたのだと、貴方は、ついに、見破ったのだな。。。
523日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:12:24.85 >>521
>阿波だのは全て否定済み
否定できないくせに。 わははははは @阿波
>阿波だのは全て否定済み
否定できないくせに。 わははははは @阿波
524日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:13:15.44 少彦名大神は、小人国から来訪したのだったな。
525日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:16:59.43 大荒東經
有小人國名靖人
有小人國名靖人
526日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:22:00.11 角川春樹さんの野生号は帯方郡から奴国まで47日かかって航海したという
ただ、現代人はどうしても上から目線で古代の技術水準を低めに見がちなバイアスがかかってしまうので、何度も実験を繰り返せば新たな発見があると思う
ただ、現代人はどうしても上から目線で古代の技術水準を低めに見がちなバイアスがかかってしまうので、何度も実験を繰り返せば新たな発見があると思う
527日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:23:26.39 >>526のリンク
科学する邪馬台国 古代の船と航海ルート
http://inoues.net/science/war.html
科学する邪馬台国 古代の船と航海ルート
http://inoues.net/science/war.html
528日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:27:16.22 东海之外大壑,少昊之国。少昊孺帝颛顼于此,弃其琴瑟。
有甘山者,甘水出焉,生甘渊。
大荒东南隅有,名皮母地丘。
东海之外,大荒之中,有山名曰大言,日月所出。
有波谷山者,有大人之国。有大人之市,名曰大人之堂。有一大人踆其上,张其两耳。
有小人国,名靖人。
有神,人面兽身,名曰犂【霝鬼】(líng)。
有潏山,杨水出焉。
有甘山者,甘水出焉,生甘渊。
大荒东南隅有,名皮母地丘。
东海之外,大荒之中,有山名曰大言,日月所出。
有波谷山者,有大人之国。有大人之市,名曰大人之堂。有一大人踆其上,张其两耳。
有小人国,名靖人。
有神,人面兽身,名曰犂【霝鬼】(líng)。
有潏山,杨水出焉。
529日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:30:00.59 >>526
>角川春樹さんの野生号は帯方郡から奴国まで47日かかって航海したという
えい航してもらって だろ。 @阿波
>角川春樹さんの野生号は帯方郡から奴国まで47日かかって航海したという
えい航してもらって だろ。 @阿波
530日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:30:01.73 季節ごとの風を予測することのできたマッチョな倭人の漕ぐシンプルな丸木船の船団の方が、速いな。
526日本@名無史さん2021/01/22(金) 10:22:00.11
角川春樹さんの野生号は帯方郡から奴国まで47日かかって航海したという
ただ、現代人はどうしても上から目線で古代の技術水準を低めに見がちなバイアスがかかってしまうので、何度も実験を繰り返せば新たな発見があると思う
526日本@名無史さん2021/01/22(金) 10:22:00.11
角川春樹さんの野生号は帯方郡から奴国まで47日かかって航海したという
ただ、現代人はどうしても上から目線で古代の技術水準を低めに見がちなバイアスがかかってしまうので、何度も実験を繰り返せば新たな発見があると思う
531日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:32:20.47 >>530
渡海に重要なことは、船の中途半端な頑丈さではなく、兎に角、速度が重要なのだったね。
渡海に重要なことは、船の中途半端な頑丈さではなく、兎に角、速度が重要なのだったね。
532日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:34:46.19 >>530
季節ごとの風を予測することのできたマッチョな倭人の漕ぐシンプルな丸木舟は、北前船のような帆船よりも、速いのだったな。
季節ごとの風を予測することのできたマッチョな倭人の漕ぐシンプルな丸木舟は、北前船のような帆船よりも、速いのだったな。
533日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:34:53.62534日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:35:00.75535日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:36:23.97 >>531
>渡海に重要なことは、船の中途半端な頑丈さではなく、兎に角、速度が重要なのだったね。
違う!
対馬海流をうまく利用することだ。 逆らったら、土左衛門。 @阿波
>渡海に重要なことは、船の中途半端な頑丈さではなく、兎に角、速度が重要なのだったね。
違う!
対馬海流をうまく利用することだ。 逆らったら、土左衛門。 @阿波
536日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:45:30.20 >>531
東西方向の海流は、南北方向の海面上の風を受ければ、帆が無くても、簡単に乗り越えられるのだったな。
東西方向の海流は、南北方向の海面上の風を受ければ、帆が無くても、簡単に乗り越えられるのだったな。
537日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:54:02.93538日本@名無史さん
2021/01/22(金) 10:58:53.81 長江から、南西諸島の何処かに、銅器が伝来した可能性もあるな。
539日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:10:39.36 不彌國〜邪馬壹國女王之所都
里数で表さない理由がわからん。by
里数で表さない理由がわからん。by
540日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:13:33.17 それにしても、
・・・テレビ(日本のメディア)などの報道、
ほとんどウソの話なんだけどなという話、なぜだと思う?
・・・テレビ(日本のメディア)などの報道、
ほとんどウソの話なんだけどなという話、なぜだと思う?
541日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:15:02.73 スイジガイとは、どのような貝なのだろうか。
542日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:23:11.54 貝の道とは、どのような道なのだろうか。。。
543日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:28:23.30 >>536
丸木舟が影響を受ける流れは、水深数十センチメートルの表層の流れなのだね。
丸木舟が影響を受ける流れは、水深数十センチメートルの表層の流れなのだね。
544日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:28:56.52 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
545日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:30:35.31 >>535
だな、命や大事な貢物、下賜のせている by
だな、命や大事な貢物、下賜のせている by
546日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:32:50.42547日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:35:44.28 スイジガイとは、どのような貝なのだろうか。
548日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:36:24.09 >>547
クグレばいいのに?
クグレばいいのに?
549日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:37:36.93 貝の道とは、どのような道なのだろうか。。。
550日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:40:23.30 韓国式思考を以て長年かけて創作した妄想作文が考古学者の頭の悪さを証明する論文と化してしまった畿内説あわれ
551日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:52:48.27 >>502
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
魏志倭人伝も、魏略も、廣志も、倭国に上陸したら東南へ進めと書いているのであり、
この記述から、博多湾岸の不彌國なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男の人間性がバツのヨコロ者であり、
この投稿子は、魏志倭人伝や魏略や廣志が記録した正確な記述の事を、わざと伏せているインチキ男である。
>投馬國への水行二十日は、「至」の前に途中移動の説明文言がないから、
>博多湾岸の不彌國から南の側副傍線國の投馬國への所要日数説明になり、
魏志倭人伝も、魏略も、廣志も、倭国に上陸したら東南へ進めと書いているのであり、
この記述から、博多湾岸の不彌國なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男の人間性がバツのヨコロ者であり、
この投稿子は、魏志倭人伝や魏略や廣志が記録した正確な記述の事を、わざと伏せているインチキ男である。
552日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:55:33.54 >>468
>> 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?
>倭人が朝貢に来る前に中国が入手していた情報だろう(魏略など)
それらのコピペを完了した後で倭人から得た情報をまた差し込んだ
要するに情報を得るたびに再編集していておかしくなったんだろうよ
魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
明らかに粗雑な部分的な引用や、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならない。
>> 最初の東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里は何だった?
>倭人が朝貢に来る前に中国が入手していた情報だろう(魏略など)
それらのコピペを完了した後で倭人から得た情報をまた差し込んだ
要するに情報を得るたびに再編集していておかしくなったんだろうよ
魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
明らかに粗雑な部分的な引用や、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならない。
553日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:56:42.34 あのスレなども同じw
創価、日蓮〜(系統)なんじゃないのか?みたいな話ばかりしているしな。
創価、日蓮〜(系統)なんじゃないのか?みたいな話ばかりしているしな。
554日本@名無史さん
2021/01/22(金) 11:57:42.45555日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:04:07.70 >>554
「阿波」で最初っから決定済み。
ガラパ説の九州や大和では新たな発見も期待できそうにないし。 @阿波
「阿波」で最初っから決定済み。
ガラパ説の九州や大和では新たな発見も期待できそうにないし。 @阿波
556日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:06:30.81 >>477
>畿内からは、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツである、
>景初や正始と彫ってある魏で作られた鏡の三角縁神獣鏡が多く見つかってる
△は、「魏で作られた」のではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であるし、
大和の△は4世紀であるから、バツである。
>そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
邪馬台国なんても、魏志にも存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツである。
>会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたりと
ありえない位置が書いてある
「福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたり」とは書いておらず、
ほぼ「九州島付近になる」と書いてあるから、
この男がバツ男である。
>畿内からは、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツである、
>景初や正始と彫ってある魏で作られた鏡の三角縁神獣鏡が多く見つかってる
△は、「魏で作られた」のではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であるし、
大和の△は4世紀であるから、バツである。
>そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は
邪馬台国なんても、魏志にも存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツである。
>会稽東治の東つまり
現在の福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたりと
ありえない位置が書いてある
「福建省福州市の東で沖縄や台湾になるあたり」とは書いておらず、
ほぼ「九州島付近になる」と書いてあるから、
この男がバツ男である。
557日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:07:08.01 不彌國からの放射とか直列とか
今度は郡から陸路全工程が1月。
ほぼ終わってるとか?行かなくていいとか?
さっぱり by
今度は郡から陸路全工程が1月。
ほぼ終わってるとか?行かなくていいとか?
さっぱり by
558日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:07:11.33 >>552
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならない。
倭人伝の東南陸行も、魏略の東南500里も、廣志の東南も、
もし誤りを含むのであれば、後世何らかの注がなされたはずであるが、
後世史家による校勘修正は全く入っておらず、極めて信頼性は高いのに、
信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならないというこの男は、
長い歴史による証明を踏み倒そうとする半分バツよりもっと悪質な
全バツのインチキ男である。。
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならない。
倭人伝の東南陸行も、魏略の東南500里も、廣志の東南も、
もし誤りを含むのであれば、後世何らかの注がなされたはずであるが、
後世史家による校勘修正は全く入っておらず、極めて信頼性は高いのに、
信頼性がかなり落ち、半分バツであり、根拠にならないというこの男は、
長い歴史による証明を踏み倒そうとする半分バツよりもっと悪質な
全バツのインチキ男である。。
559日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:09:44.73 >>558
そういうお前もトンデモ熊本説。 @阿波
そういうお前もトンデモ熊本説。 @阿波
560日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:12:34.53 >>578
>会稽東治て魏にあったけ?by
魏代頃には「東治」という地名の存在は不明であり、
元々は「(会稽の)東の治所」という熟語であったが、
その後、会稽の東方の「上海付近の地名」になっていたようである。
>会稽東治て魏にあったけ?by
魏代頃には「東治」という地名の存在は不明であり、
元々は「(会稽の)東の治所」という熟語であったが、
その後、会稽の東方の「上海付近の地名」になっていたようである。
561日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:16:51.61 >>552
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>明らかに粗雑な部分的な引用や、
>後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えがあったと、明白に事実に反する
既述をしているこの男は、全バツのインチキ男でヨコロもんである。
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>明らかに粗雑な部分的な引用や、
>後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えがあったと、明白に事実に反する
既述をしているこの男は、全バツのインチキ男でヨコロもんである。
562日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:18:16.85 「計其道里當在会稽東治之東」
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。 @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm
会稽東治(江蘇省宿遷市宿城区)と同じ緯度(北緯33度56分〜58分)に女王国(阿波)がある。
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
中国史年表220 二世皇帝一 陳勝・呉広挙兵 前209年(前)
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」とある。
下相(現在の宿遷市)の人の項梁は会稽郡守の慇通を殺し、甥の項羽と共に「呉」で挙兵する。
項梁、項羽は会稽郡の役所があった所の実力者であった。
すなわち、会稽郡領内の下相(宿遷市宿城区)に、文献上から「会稽の治所」があったことがわかる。 @阿波
「項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見」
http://japanese.china.org.cn/japanese/231067.htm
563日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:22:40.17 邪馬台国畿内説が完全に破綻したので、ついに、九州の何処に卑弥呼の城が有ったのか、という物事についての討論が、始まってしまったな。
561日本@名無史さん2021/01/22(金) 12:16:51.61
>>552
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>明らかに粗雑な部分的な引用や、
>後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えがあったと、明白に事実に反する
既述をしているこの男は、全バツのインチキ男でヨコロもんである。
561日本@名無史さん2021/01/22(金) 12:16:51.61
>>552
>魏略などの、後代史書での「逸文」としての引用文は、魏志に比べて、
>明らかに粗雑な部分的な引用や、
>後代史家の自己解釈に拠る書き換えと思われる文言が多く、
倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに、
後代史家の自己解釈に拠る書き換えがあったと、明白に事実に反する
既述をしているこの男は、全バツのインチキ男でヨコロもんである。
564日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:23:58.47565日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:26:02.41 >>563
まず、卑弥呼の城が何処にあったのかという討論の前に、「壱岐と南北に交易していた南側の地点であるマツラ国」が何処にあったのかを討論すれば良いのではないのかな。
まず、卑弥呼の城が何処にあったのかという討論の前に、「壱岐と南北に交易していた南側の地点であるマツラ国」が何処にあったのかを討論すれば良いのではないのかな。
566日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:26:30.65 「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
567日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:31:46.97 >>565
壱岐の原の辻という遺蹟は、魏志倭人伝時代の壱岐の本部なのか、それとも、他に本部が有ったのかを、考えるのが先なのではないのかな。
壱岐の原の辻という遺蹟は、魏志倭人伝時代の壱岐の本部なのか、それとも、他に本部が有ったのかを、考えるのが先なのではないのかな。
568日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:34:14.41 >>567
魏志倭人伝時代の者達の気持ちになって、考えれば良いよ。
魏志倭人伝時代の者達の気持ちになって、考えれば良いよ。
569日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:36:59.27 >>568
郷ノ浦に近い方が便利だな。
郷ノ浦に近い方が便利だな。
570日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:39:33.38 >>569
382号線を利用すれば、対馬に近い島の北端にも、島の西方にもアプローチできるね。
382号線を利用すれば、対馬に近い島の北端にも、島の西方にもアプローチできるね。
571日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:40:10.14 >>569
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町) @阿波
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町) @阿波
572日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:40:36.87 つまり、郷ノ浦から「壱岐と南北に交易していた南側の地点であるマツラ国」と交易していたのだね。。。
573日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:41:32.62 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
574日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:41:48.82 .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
575日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:42:18.64 やはり、「壱岐と南北に交易していた南側の地点であるマツラ国」は、長崎県松浦市だな。
576日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:43:14.12 他のスレでソウカか、何かなんだろう?という話(書き込み)をしていた。
その後「俺は本当は創価なんだけどな」という書き込みもあった。
家の父親は創価が嫌いだと知っているとか?有名な話なのかな。
漫画、アニメ〜ゲーム、芸能など、本当は、ほとんど家の話だろう、すとーかー?
その後「俺は本当は創価なんだけどな」という書き込みもあった。
家の父親は創価が嫌いだと知っているとか?有名な話なのかな。
漫画、アニメ〜ゲーム、芸能など、本当は、ほとんど家の話だろう、すとーかー?
577日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:44:23.26 >>575
4世紀には、馬渡島で、輸送中の馬を休ませた可能性もあるね。。。
4世紀には、馬渡島で、輸送中の馬を休ませた可能性もあるね。。。
578日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:47:38.77 >>575
上げ潮ならば、一気に伊(万里)津=伊都まで、辿り着くこともできた可能性があるね。
上げ潮ならば、一気に伊(万里)津=伊都まで、辿り着くこともできた可能性があるね。
579日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:50:32.15 >>572
行きはよいよい、帰りは土左衛門。 @阿波
行きはよいよい、帰りは土左衛門。 @阿波
580日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:51:00.58 >>578
狗奴国の海の軍隊が恐ろしくなかった時には、伊万里から鹿島まで進めば、熊本城まで、有明海を再び渡海できるな。
狗奴国の海の軍隊が恐ろしくなかった時には、伊万里から鹿島まで進めば、熊本城まで、有明海を再び渡海できるな。
581日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:52:11.69 >>580
帯方から卑弥呼城までの、最も合理的な行程だな。
帯方から卑弥呼城までの、最も合理的な行程だな。
582日本@名無史さん
2021/01/22(金) 12:55:54.26 >>572
行きはよいよい、帰りは土左衛門。 @阿波
行きはよいよい、帰りは土左衛門。 @阿波
583日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:06:28.86 有明海は、潮が反時計回りに周回しているから、
沿岸諸国の相互交流は寝ててもできるし、土座衛門になっても可能 わはははは
沿岸諸国の相互交流は寝ててもできるし、土座衛門になっても可能 わはははは
584日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:08:58.40 ほんとーに、数年前の、とあるスレ。
なぜ人の家の、お金を無断で使用しているんだ?
みたいな話をしている人もいたしな(むかーしから、無断で、使っているような話)
他人の家から、盗んだりした、お金(財)なんだろう?
なぜ人の家の、お金を無断で使用しているんだ?
みたいな話をしている人もいたしな(むかーしから、無断で、使っているような話)
他人の家から、盗んだりした、お金(財)なんだろう?
585日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:09:58.93 >>583
壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。 @阿波
壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。 @阿波
586日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:12:09.73 それとも財(?)から、借りたりしていたとか?
もともと、財の家から出ていたりした、お金。
もともと、財の家から出ていたりした、お金。
587日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:12:32.70 >>585
>壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。
と言うよりも、松浦へ行こうとしても着いた先は福辺りというのが落ち。 @阿波
>壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。
と言うよりも、松浦へ行こうとしても着いた先は福辺りというのが落ち。 @阿波
588日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:13:03.73 >>585
>壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。
と言うよりも、松浦へ行こうとしても着いた先は福津辺りというのが落ち。 @阿波
>壱岐から松浦へ向かえば、土左衛門。
と言うよりも、松浦へ行こうとしても着いた先は福津辺りというのが落ち。 @阿波
589日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:14:33.60 阿波のいう通りにして東へ流され、土座衛門になると、
そのうち太平洋に流れて、アラスカから北米へ漂着する みじめだー
そのうち太平洋に流れて、アラスカから北米へ漂着する みじめだー
590日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:16:42.14 奥山氏が出現しないな。
591日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:19:36.12 『日本昔話 夢の売り買い』の話とか。あと『もののけ姫』ではなくて・・・。
592日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:20:03.93 阿波のいう通りにして東へ流され、土座衛門になると、太平洋ではなく、能登半島以西の日本海側の海岸に流れ着くのではないのかな。
589日本@名無史さん2021/01/22(金) 13:14:33.60
阿波のいう通りにして東へ流され、土座衛門になると、
そのうち太平洋に流れて、アラスカから北米へ漂着する みじめだー
589日本@名無史さん2021/01/22(金) 13:14:33.60
阿波のいう通りにして東へ流され、土座衛門になると、
そのうち太平洋に流れて、アラスカから北米へ漂着する みじめだー
593日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:21:49.72 >>592
対馬海流が、何処まで、東に流れるかは、季節にもよりそうだな。
対馬海流が、何処まで、東に流れるかは、季節にもよりそうだな。
594日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:25:38.12 家の老婆談があるでしょ、なぜかような同じ話をしているんだけど。
泥棒のようなものに入られたのかな?何だったかな?お金なども〜とか。
泥棒のようなものに入られたのかな?何だったかな?お金なども〜とか。
595日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:27:15.05 奥山氏が出現したな。
594日本@名無史さん2021/01/22(金) 13:25:38.12
家の老婆談があるでしょ、なぜかような同じ話をしているんだけど。
泥棒のようなものに入られたのかな?何だったかな?お金なども〜とか。
594日本@名無史さん2021/01/22(金) 13:25:38.12
家の老婆談があるでしょ、なぜかような同じ話をしているんだけど。
泥棒のようなものに入られたのかな?何だったかな?お金なども〜とか。
596日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:29:02.44 奥山が松傾やってるのか
なるほど
なるほど
597日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:32:59.84 やはり対馬や壱岐の住民は小船を操って、
南北の島々や陸地のスーパーマーケットへ
気軽に日用品の買い出しに行っていたのではないかな
南北の島々や陸地のスーパーマーケットへ
気軽に日用品の買い出しに行っていたのではないかな
599日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:40:37.37 なぜかジークフリート(関係)?の話と同じような話をしている、どういう事なんだろう。
本や書なども持っていないし、読んだことあるとも言っていない。
・・・老婆談。
本や書なども持っていないし、読んだことあるとも言っていない。
・・・老婆談。
600日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:41:29.96 600
601日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:48:40.57 『クレクレタコラ』
ジークフリート(不明)などの真似をしている話なのかな、何なんだろう。
同じような気がする。
ジークフリート(不明)などの真似をしている話なのかな、何なんだろう。
同じような気がする。
602日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:49:18.79 NBA安全衛生プロトコルは、八村塁氏の自由を、どの程度制限しているのだろうか。
603日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:49:37.00 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
604日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:56:02.75 奥山氏は、奥山氏自身の自由を、どの程度制限しているのだろうか。
605日本@名無史さん
2021/01/22(金) 13:56:22.28 『【クレクレタコラ】第7話 死んでもらいますの巻 』
観てみた?結婚が〜みたいな話もあったしな、
youtube、最初に観たときは「死んでもらいますの巻」の、
すぐ「→」のほうに、〜結婚の巻があった、関連していた?
観てみた?結婚が〜みたいな話もあったしな、
youtube、最初に観たときは「死んでもらいますの巻」の、
すぐ「→」のほうに、〜結婚の巻があった、関連していた?
606日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:04:32.66 〜結婚の巻じゃなかった。
『【クレクレタコラ】 第114話 タコラの独裁者の巻 』
『【クレクレタコラ】 第114話 タコラの独裁者の巻 』
607日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:08:04.09 『王母 聖造』〜『天財若子』・・・同じ家。
608日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:13:58.71 ほんとーに、おかしな話ばかりだと言っているだろう。
何度も説明している『天財若子』このような名前の家。
当時の嫁(嫁の家だったかな)がいるんだけど、
何やら様(ひみこ、ではない)なんて言われていたとか。
何度も説明している『天財若子』このような名前の家。
当時の嫁(嫁の家だったかな)がいるんだけど、
何やら様(ひみこ、ではない)なんて言われていたとか。
609日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:25:57.79610日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:27:16.14 老婆談から考えてみると・・・、
老婆(その家の嫁)も、なんとか様なんだろう?あと家の母親も。
老婆(その家の嫁)も、なんとか様なんだろう?あと家の母親も。
611日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:31:19.41 >>505
>「至」の前に途中移動の説明文言がないと側副傍線だとか
「郡から目的地」への説明文言だとか
理由をこれまで一言も説明したこと無いよね
何度の説明して来た事。
奴國と投馬國にだけ、「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、
他の記述では、全て、「至(到)の前に途中移動があった事を示す文言がある。
>「至」の前に途中移動の説明文言がないと側副傍線だとか
「郡から目的地」への説明文言だとか
理由をこれまで一言も説明したこと無いよね
何度の説明して来た事。
奴國と投馬國にだけ、「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、
他の記述では、全て、「至(到)の前に途中移動があった事を示す文言がある。
612日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:34:10.94613日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:38:49.29 >>612
>福岡平野中央部に入り口があり、それから筑紫平野及びその周辺丘陵地。
希望的妄想! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い筑紫平野及びその周辺丘陵地に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
>福岡平野中央部に入り口があり、それから筑紫平野及びその周辺丘陵地。
希望的妄想! 碌な弥生集落遺跡や資源の無い筑紫平野及びその周辺丘陵地に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 と何度言えばw @阿波
614日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:49:15.22 至と到の違い?到伊都国のみ
後は至である。漢文上はどうなんの?
「或い、又」もないので直線読み。
漢文て決まりや文法法則てないのかな?
女王にお会いしたい by
後は至である。漢文上はどうなんの?
「或い、又」もないので直線読み。
漢文て決まりや文法法則てないのかな?
女王にお会いしたい by
615日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:51:21.37 >>537
>不彌國〜邪馬壹國女王之所都
で何里?by
国間里数記載の最小単位は百里であり、だからほぼ50〜150里であり
書いてなければ、50里以下であり、
不彌國から邪馬壹國女王之所都は、
途中移動説明なしに「南至〜」としか書かれておらず、
だから移動距離が50里以下で邪馬壹國の入り口に着いた事になる。
>不彌國〜邪馬壹國女王之所都
で何里?by
国間里数記載の最小単位は百里であり、だからほぼ50〜150里であり
書いてなければ、50里以下であり、
不彌國から邪馬壹國女王之所都は、
途中移動説明なしに「南至〜」としか書かれておらず、
だから移動距離が50里以下で邪馬壹國の入り口に着いた事になる。
616日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:58:58.53 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
617日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:59:38.94618日本@名無史さん
2021/01/22(金) 14:59:42.94 >>558
>倭人伝の東南陸行も、魏略の東南500里も、廣志の東南も、
もし誤りを含むのであれば、後世何らかの注がなされたはずであるが・・・
魏略逸文も廣志も後漢書も唐代以後の史書も、
特には「注」などとしては記載していない。
>倭人伝の東南陸行も、魏略の東南500里も、廣志の東南も、
もし誤りを含むのであれば、後世何らかの注がなされたはずであるが・・・
魏略逸文も廣志も後漢書も唐代以後の史書も、
特には「注」などとしては記載していない。
619日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:02:43.99 >>561
>倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに・・・
いずれも「出発時点での出発方向」としての記載であり、
伊都國方向を示すものではなかったから。
>倭人伝も東南と書き、魏略も東南と書き、廣志も東南と書いていて、
皆が前史書の通りを繰り返しているのに・・・
いずれも「出発時点での出発方向」としての記載であり、
伊都國方向を示すものではなかったから。
620日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:03:37.97 >>617
示すよな。
示すよな。
621日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:10:51.67 以前から書いていることなんだけど、
おかしなスレッド(書き込み)など、なぜ相手にされていないんだと思う?
詳しいことは、わからないけど『王母〜』かなり有名人なんだろう。
漫画、アニメ〜などにも登場するんだけど、・・・仮名、キャラクター名とか?
おかしなスレッド(書き込み)など、なぜ相手にされていないんだと思う?
詳しいことは、わからないけど『王母〜』かなり有名人なんだろう。
漫画、アニメ〜などにも登場するんだけど、・・・仮名、キャラクター名とか?
622日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:12:27.83 東行至不彌国は東に行ったら不彌国があるという意味であり、不彌国には行ってない
郡の使者が伊都国で女王の入国許可を待っている間に倭人から受けた説明だろう
郡の使者が伊都国で女王の入国許可を待っている間に倭人から受けた説明だろう
623日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:13:35.56 直線距離(?)出しても
道路整備どうなんだろう?by
道路整備どうなんだろう?by
624日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:15:17.74 >>614
>至と到の違い?到伊都国のみ
違うな。狗邪韓國にも「到」が付いている。
おそらく狗邪韓國は、倭地にとうとう到達した、という意味であり、
伊都國は、倭國や女王國の「特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國」という、
軍事的な中心地(おそらく筑紫城)にまで到達した、という意味。
>至と到の違い?到伊都国のみ
違うな。狗邪韓國にも「到」が付いている。
おそらく狗邪韓國は、倭地にとうとう到達した、という意味であり、
伊都國は、倭國や女王國の「特置一大率檢察,諸國畏憚之。常治伊都國」という、
軍事的な中心地(おそらく筑紫城)にまで到達した、という意味。
625日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:22:54.15626日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:25:17.26 >>499
天球上の歳差運動で地軸の傾きが変化していると思い込んだ天文知識ゼロ爺の「歳差」遠吠え。
天球上の歳差運動で地軸の傾きが変化していると思い込んだ天文知識ゼロ爺の「歳差」遠吠え。
627日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:34:59.58628日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:41:23.37 天球上の歳差運動という謎の物事で、地軸の傾きが変化しているかどうかではなく、
天球上の歳差運動という謎の物事で、北極点の位置が奥山氏の鬘のようにズレるかどうかが、
巻向の東西南北をズラすのかズラさないかに関わるのではないのかな。
626 名前:日本@名無史さん 2021/01/22(金) 15:25:17.26
>>499
天球上の歳差運動で地軸の傾きが変化していると思い込んだ天文知識ゼロ爺の「歳差」遠吠え。
天球上の歳差運動という謎の物事で、北極点の位置が奥山氏の鬘のようにズレるかどうかが、
巻向の東西南北をズラすのかズラさないかに関わるのではないのかな。
626 名前:日本@名無史さん 2021/01/22(金) 15:25:17.26
>>499
天球上の歳差運動で地軸の傾きが変化していると思い込んだ天文知識ゼロ爺の「歳差」遠吠え。
629日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:44:38.60630日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:48:27.43 纏向の大型建物群は東西線に対して南へ5度程度振った軸線上に建てられていて、
その5度程度の角度の意味について合理的な説明はこれまで特になされていない。
しかし、纏向のプロトタイプと考えられる近江伊勢遺跡の円周上の建物群の配置と合わせて考えると、
纏向の大型建物群が東西線に対して南へ5度程度の傾きの軸線上に建てられているその5度の角度は、
二十四節気暦の一節気の単位であるとみなすことが可能であり、
このことからすると纏向の建物群は啓蟄の初日の夕日に向かって建てられていると推定することができる。
つまりは、纏向では二十四節気の季節暦にもとづいた農耕祭祀が行われていて、纏向政権では当初から国家的な計画水田稲作が進められていたことが想定できるのである。
その5度程度の角度の意味について合理的な説明はこれまで特になされていない。
しかし、纏向のプロトタイプと考えられる近江伊勢遺跡の円周上の建物群の配置と合わせて考えると、
纏向の大型建物群が東西線に対して南へ5度程度の傾きの軸線上に建てられているその5度の角度は、
二十四節気暦の一節気の単位であるとみなすことが可能であり、
このことからすると纏向の建物群は啓蟄の初日の夕日に向かって建てられていると推定することができる。
つまりは、纏向では二十四節気の季節暦にもとづいた農耕祭祀が行われていて、纏向政権では当初から国家的な計画水田稲作が進められていたことが想定できるのである。
631日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:48:56.13632日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:54:41.10 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
633日本@名無史さん
2021/01/22(金) 15:59:50.80634日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:04:06.39 九州説の諸君
あれやこれや迷っていたようだけど
最終的な結論にたどり着けたのか
今日だけでも女王は熊本城とかユニークな説があったけど
その人も文句ない?
では、最終的な結論をクリスタルクリアーにポンと述べて見なさい
またどこかで九州説を披露するとき
あれこれ迷ってたりしないように
あれやこれや迷っていたようだけど
最終的な結論にたどり着けたのか
今日だけでも女王は熊本城とかユニークな説があったけど
その人も文句ない?
では、最終的な結論をクリスタルクリアーにポンと述べて見なさい
またどこかで九州説を披露するとき
あれこれ迷ってたりしないように
635日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:07:45.62 >>633
韓国がうるさいから大きな声では言えないだけだろ
「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
韓国がうるさいから大きな声では言えないだけだろ
「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
636日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:08:41.80 >>617
>そりゃ、おかしな。
奴国通過せず伊都国から至不彌國 の距離?
奴國には、
「東南至奴國百里」は「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは奴國へ移動しておらず、奴國は側副傍線国説明になり、
従って、伊都国の次は不彌國になり、
「東行至不彌國百里」には「行」という途中移動を示す文言があるから、
百里移動している事になる。
>そりゃ、おかしな。
奴国通過せず伊都国から至不彌國 の距離?
奴國には、
「東南至奴國百里」は「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは奴國へ移動しておらず、奴國は側副傍線国説明になり、
従って、伊都国の次は不彌國になり、
「東行至不彌國百里」には「行」という途中移動を示す文言があるから、
百里移動している事になる。
637日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:11:59.23 半島南部の倭人が開拓したと思われる沿岸部が「投馬国」と呼ばれていたのであろう
「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
638日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:13:33.36 >>622
>東行至不彌国は東に行ったら不彌国があるという意味であり、不彌国には行ってない
郡の使者が伊都国で女王の入国許可を待っている間に倭人から受けた説明だろう
書かれている文字は、その通りに正確に順次式に読むべし。
「東するなり、行くなり、不彌國なり、百里なり」。
>東行至不彌国は東に行ったら不彌国があるという意味であり、不彌国には行ってない
郡の使者が伊都国で女王の入国許可を待っている間に倭人から受けた説明だろう
書かれている文字は、その通りに正確に順次式に読むべし。
「東するなり、行くなり、不彌國なり、百里なり」。
639日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:18:03.36 帯方から水行20日で、投馬国大分県大分市へ、
帯方から水行10日で、長崎県松浦市へ、そこから2泊で、伊(万里)津へ、そこから1泊で、女王の入口である奴国へ、そこから21泊で熊本城へ、予備日数日を足せば、
水行10日陸行1月。
帯方から水行10日で、長崎県松浦市へ、そこから2泊で、伊(万里)津へ、そこから1泊で、女王の入口である奴国へ、そこから21泊で熊本城へ、予備日数日を足せば、
水行10日陸行1月。
640日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:19:00.73 帯方から水行10日で、長崎県松浦市へ、そこから2泊で、伊(万里)津へ、そこから1泊で、女王の入口である奴国へ、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
641日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:20:49.39643日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:24:36.33644日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:24:47.17645日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:26:49.61647日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:39:10.56648日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:39:59.07 >>646
「倭人伝は間違いだ」は九州説の自殺
「倭人伝は間違いだ」は九州説の自殺
651日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:42:36.76652日本@名無史さん
2021/01/22(金) 16:43:32.26 >>630
そして、九州の瀬高山門でも大水田を取り巻く各集落にこの二十四節気暦の各節気の配置をみることが可能であり、
卑弥呼の山門では壮大なスケールの農耕祭祀が各集落ごとに継続的に巡回されていたようなのだ。
つまり、3世紀前半頃には西日本の地方王権ごとに二十四節気の農耕暦を基にした計画的な水田稲作が進められていたとみることができるのである。
このことは、日本の古代史の王権の理解にとって、画期的な視野をもたらすことになると思われる。
そして、九州の瀬高山門でも大水田を取り巻く各集落にこの二十四節気暦の各節気の配置をみることが可能であり、
卑弥呼の山門では壮大なスケールの農耕祭祀が各集落ごとに継続的に巡回されていたようなのだ。
つまり、3世紀前半頃には西日本の地方王権ごとに二十四節気の農耕暦を基にした計画的な水田稲作が進められていたとみることができるのである。
このことは、日本の古代史の王権の理解にとって、画期的な視野をもたらすことになると思われる。
653日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:01:47.67 ありゃ、2説。
投馬国 大分説
奴国が入口、一方では奴国には行っていない。by
投馬国 大分説
奴国が入口、一方では奴国には行っていない。by
654日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:03:31.05 >>650
祇園山さん、でしょ?by
祇園山さん、でしょ?by
655日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:14:44.03 同じ九州説でも細部が異なるのなら
×と言って自説を開陳すればいい
それとも九州説ならどこでもいいのか
×と言って自説を開陳すればいい
それとも九州説ならどこでもいいのか
656日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:24:53.39 破綻した畿内説の後片付けを上手くやらなければ社会から隔離される恐れのある奥山あわれ
657日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:28:38.47 半島南部説 陸路の総日数1月
荷物があり、いちいち陸路取るかな?by
荷物があり、いちいち陸路取るかな?by
658日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:31:00.79 九州王朝説とか言うトンデモ説を崇拝してる原理主義者が怖すぎる
659日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:45:41.33660日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:46:11.41661日本@名無史さん
2021/01/22(金) 17:52:23.05662日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:01:30.01 今日、畿内に行くけどオススメの上手いラーメン屋ってある?
663日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:07:15.77 >>662
今どこにいるの?
今どこにいるの?
664日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:07:54.83 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
665日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:12:12.54 >>661
>島調べるなら船から2、3人で探索。
又、海へ出て一時停泊し船上で大きさ測量。
わざわざ、陸路がわからん by
いや、魏使らは、「安全」が第1。
海路は、松浦水軍家の「都市牛利」らに任せ、可能な限り、陸路第1選択。
うっかり停泊したら、対馬海流や偏西風の西風で、どこへ流されるかも知れず、
漂流してしまうもの。
>島調べるなら船から2、3人で探索。
又、海へ出て一時停泊し船上で大きさ測量。
わざわざ、陸路がわからん by
いや、魏使らは、「安全」が第1。
海路は、松浦水軍家の「都市牛利」らに任せ、可能な限り、陸路第1選択。
うっかり停泊したら、対馬海流や偏西風の西風で、どこへ流されるかも知れず、
漂流してしまうもの。
666日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:18:41.98667日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:22:22.98 半島南部に至るまで、何回停泊したのだろう。
王様に挨拶とか、1月で足りるのか疑問?by
王様に挨拶とか、1月で足りるのか疑問?by
668日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:33:52.53 あ、そうか
1月は倭人から聞いたのみだから、
おそらく もっとかかる by
1月は倭人から聞いたのみだから、
おそらく もっとかかる by
669日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:35:01.20 >>663
大阪難波
大阪難波
670日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:41:05.55 >>669
営業時間短縮だからどこでも目に付いたところで食べた方がいい
営業時間短縮だからどこでも目に付いたところで食べた方がいい
671日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:41:38.85 >>611
>奴國と投馬國にだけ、「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、
>他の記述では、全て、「至(到)の前に途中移動があった事を示す文言がある。
奴國と投馬國だけでなく、邪馬台国女王之所都にも「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、邪馬台国女王之所都にもいっていない。
つまり不彌国と邪馬台国間女王之所都の里数が50里以下でも、邪馬台国女王之所都の都城門はぐっていないことを示している。
>奴國と投馬國にだけ、「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、
>他の記述では、全て、「至(到)の前に途中移動があった事を示す文言がある。
奴國と投馬國だけでなく、邪馬台国女王之所都にも「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、邪馬台国女王之所都にもいっていない。
つまり不彌国と邪馬台国間女王之所都の里数が50里以下でも、邪馬台国女王之所都の都城門はぐっていないことを示している。
672日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:46:00.76 >>671
という理由は?
という理由は?
673日本@名無史さん
2021/01/22(金) 18:55:46.40 >>670
奈良も時短やってるのか?
奈良も時短やってるのか?
674日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:00:16.21675日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:07:48.26 >>673
時間短縮は大阪、京都、兵庫
時間短縮は大阪、京都、兵庫
676日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:08:38.12 >>675
やっぱり、奈良は田舎 by
やっぱり、奈良は田舎 by
677日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:27:19.79 >>676
>やっぱり、奈良は田舎 by
だから、奈良盆地は止めとけ! @阿波
>やっぱり、奈良は田舎 by
だから、奈良盆地は止めとけ! @阿波
678日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:32:19.22679日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:36:38.28680日本@名無史さん
2021/01/22(金) 19:37:33.17 プロ固定よ、たまには、意味のある意見を発表しろ。
681日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:11:37.57 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。
682日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:12:46.09683日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:18:24.90 公園の砂場で砂遊びに興じていた子どもたちがいなくなったように静かになったね
では、せっかく一生懸命書きこんでくれたので一括して評価したい
まず朝鮮半島南部が倭国の一部だったという説、これはもしそうなら陳寿は明確に国名を記すはず それを避ける理由もない
次に熊本城に女王がいたという説、狗奴国の存在を無視しているし、九州西部の海賊を避けて陸路を移動したというのも、そういう海賊のいるそばに女王がいるのは不自然
吉野ケ里も先日話したように最前線の防衛拠点に女王がいるのは想定しがたい
不弥国近辺説には昨日コメントさせていただいた
総じて九州内に30国を配置するのは困難
九州と本州は最短で600mしか離れていないのにそこに倭国が展開していないのは考えられない 当時は陸上輸送より海上輸送 大分に行くよりも本州に行く方が楽
九州説の方々のさらなる検討を待ちたい
では、せっかく一生懸命書きこんでくれたので一括して評価したい
まず朝鮮半島南部が倭国の一部だったという説、これはもしそうなら陳寿は明確に国名を記すはず それを避ける理由もない
次に熊本城に女王がいたという説、狗奴国の存在を無視しているし、九州西部の海賊を避けて陸路を移動したというのも、そういう海賊のいるそばに女王がいるのは不自然
吉野ケ里も先日話したように最前線の防衛拠点に女王がいるのは想定しがたい
不弥国近辺説には昨日コメントさせていただいた
総じて九州内に30国を配置するのは困難
九州と本州は最短で600mしか離れていないのにそこに倭国が展開していないのは考えられない 当時は陸上輸送より海上輸送 大分に行くよりも本州に行く方が楽
九州説の方々のさらなる検討を待ちたい
684日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:25:19.28 >>683
「阿波」一択。 @阿波
「阿波」一択。 @阿波
686日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:41:36.27 >>685
だから、「阿波」一択。 @阿波
だから、「阿波」一択。 @阿波
688日本@名無史さん
2021/01/22(金) 20:57:51.64 >>687
そう言いながら、「阿波」にへこまされるトンデモ。 @阿波
そう言いながら、「阿波」にへこまされるトンデモ。 @阿波
689日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:03:42.26690日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:04:24.49 >>1
プロ固定よ、意味の無い意見を発表しても、スレッドは、ウンコ塗れのままだぞ。
プロ固定よ、意味の無い意見を発表しても、スレッドは、ウンコ塗れのままだぞ。
691日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:05:12.69692日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:05:16.54693日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:05:23.78694日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:14:10.82695日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:17:26.88 奥山説(笑)
696日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:22:06.45 >>685
だという理由が言えない九州説は死亡ずみ
だという理由が言えない九州説は死亡ずみ
697日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:23:31.98 魏の使者て郡から、
どこまで行ったかわからんけど、40日ぐらい?by
どこまで行ったかわからんけど、40日ぐらい?by
698日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:28:05.97 九州説のみなさん、反論があるときは個所を示してどう間違ってるのかを示してください
699日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:30:26.32 >>527
資料 ありがとう by
資料 ありがとう by
700日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:32:38.60 >>1
プロ固定よ、意味の無い意見を発表しても、スレッドは、ウンコ塗れのままだぞ。
プロ固定よ、意味の無い意見を発表しても、スレッドは、ウンコ塗れのままだぞ。
701日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:35:10.78 >>699
取り組みの真摯さが伝わる資料ですよね
取り組みの真摯さが伝わる資料ですよね
702日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:36:08.18 邪馬台国畿内説は、
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
1000キロメートル程も離れた陸続きでもない地層を、幾つもの併行関係という物事で、年代を恣意的にずらしながら、細々と繋げることが、絶対年代を決定する証拠なのだ、という非学問的な嘘をつき、
さらには、一般の科学的学問の手法としては、完全に破綻してしまった要素還元主義に基づき、近畿第V様式土器の埋まっていた範囲が邪馬台国なのだ、とする、完全に非科学的な妄想なのだったな。
703日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:37:06.10 >>702
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
一部の、古ぼけた物事を好む学芸会の者達が、炭素についての物事を売り上げる者達に、騙され踊り、最後には、笑われ者になってしまい、
さらには、近畿第V様式土器という謎の物体を売り上げていた、大昔のほんの一部の要素でしかない者に、自称考古学者が、勝手に騙されてしまったのだったね。
704日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:37:26.67705日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:38:47.21706日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:41:20.21 >>687
そう言いながら、「阿波」にへこまされるトンデモ。 @阿波
そう言いながら、「阿波」にへこまされるトンデモ。 @阿波
707日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:42:33.85 >>704
そうなら 君がここにいる理由もない
そうなら 君がここにいる理由もない
708日本@名無史さん
2021/01/22(金) 21:45:32.59 >>701
ありがたい by
ありがたい by
709日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:00:23.92 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
710日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:00:38.54 .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
711日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:03:33.35 常識により邪馬台国は九州とあいなりました
魏志倭人伝を読むに温暖な気候、酒好きの人間、コメのとれにくい地域、魚がよくとれる、男尊女卑…これ九州だろ… [688397906]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1611119080/
魏志倭人伝を読むに温暖な気候、酒好きの人間、コメのとれにくい地域、魚がよくとれる、男尊女卑…これ九州だろ… [688397906]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1611119080/
712日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:11:17.55 >>711
狗奴国から南西諸島にかけての「倭地」についての記述とすでに論じてある
狗奴国から南西諸島にかけての「倭地」についての記述とすでに論じてある
713日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:13:02.59 >>711
あと、邪馬台国は倭国の首都があるところ、国名と混同させるような言説は避けてほしい
あと、邪馬台国は倭国の首都があるところ、国名と混同させるような言説は避けてほしい
714日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:17:57.31 奥山ももうダメだ 畿内説は終わりだぁ
715日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:20:11.72 「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
なるほどねえ
従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ
倭人が進出した結果と見られる」
なるほどねえ
716日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:24:34.17 >周旋可五千餘里
倭人の締めがこれで、「周」王朝にかけてるわ
さすが陳寿w
しかも周旋=周の亶は、さすがに深読みかw
今日も謎が解けてしまったw
倭人の締めがこれで、「周」王朝にかけてるわ
さすが陳寿w
しかも周旋=周の亶は、さすがに深読みかw
今日も謎が解けてしまったw
717日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:34:43.96718日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:45:50.81 妄想も延々と連呼していればそのうち現実になるという
カルト宗教思想からの派生が九州説
カルト宗教思想からの派生が九州説
719日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:48:10.44 >>671
>奴國と投馬國だけでなく、邪馬台国女王之所都にも「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、邪馬台国女王之所都にもいっていない。
つまり不彌国と邪馬台国間女王之所都の里数が50里以下でも、邪馬台国女王之所都の都城門はぐっていないことを示している
これも説明済み。
不彌國で萬二千余里もほぼ終わっており、
その南の邪馬女王之所都へは「約0里」
(最小記載里が百里であり、四捨五入して0里だから50里以下)
であり、という事は、
邪馬壹國は、不彌國の南出口から直ぐの所に入口の門がある、という事になる。
>奴國と投馬國だけでなく、邪馬台国女王之所都にも「至〜」の前の途中移動を示す文言がなく、邪馬台国女王之所都にもいっていない。
つまり不彌国と邪馬台国間女王之所都の里数が50里以下でも、邪馬台国女王之所都の都城門はぐっていないことを示している
これも説明済み。
不彌國で萬二千余里もほぼ終わっており、
その南の邪馬女王之所都へは「約0里」
(最小記載里が百里であり、四捨五入して0里だから50里以下)
であり、という事は、
邪馬壹國は、不彌國の南出口から直ぐの所に入口の門がある、という事になる。
720日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:51:51.93 >青銅器の鋳型は、九州よりも近畿地方において多く出土する。この事実は、青銅器を日本で生産できるようになった時期には、すでに権勢の実権は近畿に移っていた事を窺わせる。
科学する邪馬台国 銅製品古代の製造技術
http://inoues.net/science/wao.html
科学する邪馬台国 銅製品古代の製造技術
http://inoues.net/science/wao.html
721日本@名無史さん
2021/01/22(金) 22:54:56.09 >>674
>邪馬台国女王之所都の文の「至〜」の前に途中移動を示す文言がない。
しかし、もしその後の水行10日陸行1月が途中移動を示すというのであれば、
不彌国ー邪馬台国女王之所都の間には、かなりの里数が有ることになる。
ならない。
「水行十日陸行一月」という数量説明文言は、
原則として、その前の文言の説明である事になるから、
この行程の目的地である「女王之所都」に対する所要日数説明文言になり、
だから、出発地である「郡」からの所要日数である事になる。
>邪馬台国女王之所都の文の「至〜」の前に途中移動を示す文言がない。
しかし、もしその後の水行10日陸行1月が途中移動を示すというのであれば、
不彌国ー邪馬台国女王之所都の間には、かなりの里数が有ることになる。
ならない。
「水行十日陸行一月」という数量説明文言は、
原則として、その前の文言の説明である事になるから、
この行程の目的地である「女王之所都」に対する所要日数説明文言になり、
だから、出発地である「郡」からの所要日数である事になる。
722日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:04:41.89723日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:05:56.07 >>682
>三角縁神獣鏡が一番多く見つかる地域は畿内
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
大和の△は、4世紀以後。
>景初や正始など魏の年号が彫ってあるものも見つかっている
魏の楽浪帯方征服戦争から避難逃亡して渡来して来た、
陳氏らの呉系の楽浪鏡師らの関与鏡である。
>ちなみに景初や正始は卑弥呼が魏に使いを出した年と魏志倭人伝にある
「卑弥呼が魏に使いを出した年」は景初二年であり、
明帝の銅鏡百枚の下賜も景初二年であり、
陳氏らの関与鏡は、古いもので景初三年であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚ではないから、
この大和説男は、バツ。
>三角縁神獣鏡が一番多く見つかる地域は畿内
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
大和の△は、4世紀以後。
>景初や正始など魏の年号が彫ってあるものも見つかっている
魏の楽浪帯方征服戦争から避難逃亡して渡来して来た、
陳氏らの呉系の楽浪鏡師らの関与鏡である。
>ちなみに景初や正始は卑弥呼が魏に使いを出した年と魏志倭人伝にある
「卑弥呼が魏に使いを出した年」は景初二年であり、
明帝の銅鏡百枚の下賜も景初二年であり、
陳氏らの関与鏡は、古いもので景初三年であり、
明帝の下賜の銅鏡百枚ではないから、
この大和説男は、バツ。
724日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:09:02.78 あげ
725日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:09:32.90 >>684
>・・・総じて九州内に30国を配置するのは困難
九州と本州は最短で600mしか離れていないのにそこに倭国が展開していないのは考えられない 当時は陸上輸送より海上輸送 大分に行くよりも本州に行く方が楽
九州説の方々のさらなる検討を待ちたい
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この大和説男は、バツ男。
>・・・総じて九州内に30国を配置するのは困難
九州と本州は最短で600mしか離れていないのにそこに倭国が展開していないのは考えられない 当時は陸上輸送より海上輸送 大分に行くよりも本州に行く方が楽
九州説の方々のさらなる検討を待ちたい
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この大和説男は、バツ男。
726日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:14:29.87727日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:16:20.32 >>696
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、大和説だ、
という根拠や理由が言えない大和説学者らは、死亡済み。
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、大和説だ、
という根拠や理由が言えない大和説学者らは、死亡済み。
728日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:19:05.91729日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:21:46.14 >>719
>邪馬壹國は、不彌國の南出口から直ぐの所に入口の門がある、という事になる。
途中の対馬めぐりで400×2=800里と、壱岐の島めぐりで300×2=600里を稼ぎ、
合計1400里で、邪馬壹国を不彌国の門前まで引き寄せたわけだ。
まるで出雲の国引き神話みたい。、
>邪馬壹國は、不彌國の南出口から直ぐの所に入口の門がある、という事になる。
途中の対馬めぐりで400×2=800里と、壱岐の島めぐりで300×2=600里を稼ぎ、
合計1400里で、邪馬壹国を不彌国の門前まで引き寄せたわけだ。
まるで出雲の国引き神話みたい。、
730日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:27:22.73 >>719
フンフン、手品のタネは島で稼いだ1400里かww
フンフン、手品のタネは島で稼いだ1400里かww
731日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:28:07.01 >>729
そこが不思議 by
そこが不思議 by
732日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:28:19.26 >>718
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
妄想も延々と連呼していればそのうち現実になるという
皇国史観カルト宗教思想からの派生が大和説
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
妄想も延々と連呼していればそのうち現実になるという
皇国史観カルト宗教思想からの派生が大和説
733日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:28:25.76 銅鐸は楽器のようなものではないかと空想はしていましたが
判りやすく、おもしろく説明している動画を見つけました
今日の楽器I 「銅鐸」
https://www.youtube.com/watch?v=_53X5A1WpRE
判りやすく、おもしろく説明している動画を見つけました
今日の楽器I 「銅鐸」
https://www.youtube.com/watch?v=_53X5A1WpRE
734日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:30:10.45735日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:35:25.34736日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:35:47.97737日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:38:32.28 >>722
>最短距離で帯方郡と女王の都間の所要日数を考えると君の説では水行10日程となる
そんな短時間で移動できたとするのは無理がある
水行は、循海岸水行の四日位と、三渡海の計六日位であり、
歴韓國乍南乍東は、韓國陸行であり、
無理はない。
>最短距離で帯方郡と女王の都間の所要日数を考えると君の説では水行10日程となる
そんな短時間で移動できたとするのは無理がある
水行は、循海岸水行の四日位と、三渡海の計六日位であり、
歴韓國乍南乍東は、韓國陸行であり、
無理はない。
738日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:40:26.63739日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:45:34.02740日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:48:27.51 使者はそれに続く使者の道標。
再度或いは別の使者を考えると端から端へ陸路よる理由を記するよ。端から端への陸路とした記もない。by
再度或いは別の使者を考えると端から端へ陸路よる理由を記するよ。端から端への陸路とした記もない。by
741日本@名無史さん
2021/01/22(金) 23:58:20.13 >>735
>倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、途中説明ではないと自己解釈し、
そして自分説に合うよう、強引に北東へ進むわけだww
魏略や廣志の記載事実は、知らんよ。
Yahoo時代に見ていた天誅の「漢籍の書棚」は、現代私のPCでは見れなくなっているし、
イリヒコという大和説者のサイトも、無くなってしまったよ。
>倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、途中説明ではないと自己解釈し、
そして自分説に合うよう、強引に北東へ進むわけだww
魏略や廣志の記載事実は、知らんよ。
Yahoo時代に見ていた天誅の「漢籍の書棚」は、現代私のPCでは見れなくなっているし、
イリヒコという大和説者のサイトも、無くなってしまったよ。
742日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:06:36.11 >>738
>そうなんですか
でも大きくても音はしますよね
なんか楽器のイメージから離れられません
Yahoo時代のmutouha(無党派)氏らの紹介では、
元は、ラクダや馬に付けた「鈴」のようなものであったのであり、
それが、「鐸」のようなものに進化し、
更に「鐘」のようなものに進化したようだった。
>そうなんですか
でも大きくても音はしますよね
なんか楽器のイメージから離れられません
Yahoo時代のmutouha(無党派)氏らの紹介では、
元は、ラクダや馬に付けた「鈴」のようなものであったのであり、
それが、「鐸」のようなものに進化し、
更に「鐘」のようなものに進化したようだった。
743日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:10:35.93744日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:11:48.88745日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:13:27.03 >>733
この高校教師が動画で日本の銅鐸と一緒に紹介してるのは朝鮮小銅鐸ではない
泉屋博古館所蔵の中国戦国時代(紀元前4世紀ごろ)の編鍾の複製品
https://aucfree.com/items/323392601
この高校教師が動画で日本の銅鐸と一緒に紹介してるのは朝鮮小銅鐸ではない
泉屋博古館所蔵の中国戦国時代(紀元前4世紀ごろ)の編鍾の複製品
https://aucfree.com/items/323392601
746日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:13:37.91 >>743
君が、君自身の言葉で説明する責任がある
君が、君自身の言葉で説明する責任がある
747日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:15:05.51748日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:17:12.98749日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:18:12.95750日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:21:36.16751日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:21:41.79 だからあ
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き
(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
なんだよ
郡使は伊都国にいて連絡係の倭人が女王の都と伊都国を何度も行き来して、話がついたら都へ移動できるわけで
それに一か月を要するということだ
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き
(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
なんだよ
郡使は伊都国にいて連絡係の倭人が女王の都と伊都国を何度も行き来して、話がついたら都へ移動できるわけで
それに一か月を要するということだ
752日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:22:10.50753日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:23:53.33 卑弥呼は鬼道で占って「吉」と出た日に郡使を招くんだよ
754日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:24:27.52755日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:28:51.51 >>752
仮に国伝いに移動したなら道中の国名や官の名が記載されたはずだ
仮に国伝いに移動したなら道中の国名や官の名が記載されたはずだ
756日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:31:53.66 >>751
君のは、水行部分の日数や、投馬国がかつての狗邪韓国など勝手な解釈
しかし、もし君の言うとおりだとしても、帯方郡の使者が到着したら女王は何をおいてもすぐに面会しただろう
1カ月も放っておいたら外交問題になる
君のは、水行部分の日数や、投馬国がかつての狗邪韓国など勝手な解釈
しかし、もし君の言うとおりだとしても、帯方郡の使者が到着したら女王は何をおいてもすぐに面会しただろう
1カ月も放っておいたら外交問題になる
757日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:35:01.49758日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:43:50.92759日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:46:45.70 by 忘れ
760日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:55:15.63761日本@名無史さん
2021/01/23(土) 00:57:27.05 中国まで行ける邪馬台国がたった1000km離れてるだけの畿内を知らないはずが無いんだよな
762日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:06:09.15763日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:11:27.08764日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:12:01.43 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
765日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:14:25.83 >>761
魏志倭人伝読んだのか?
後漢時代の倭は100国が朝貢してたが、今は30国しか交流が無い
九州の邪馬台国と畿内含む倭種の国は分裂したと考えられる
女王国30国、その他の倭種70国という状況だぞ??
魏志倭人伝読んだのか?
後漢時代の倭は100国が朝貢してたが、今は30国しか交流が無い
九州の邪馬台国と畿内含む倭種の国は分裂したと考えられる
女王国30国、その他の倭種70国という状況だぞ??
766日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:17:15.22767日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:20:10.74 >>757
>>758
IQ低い?
■畿内は東の倭種の国なので記録が無い(のちのヤマト王権)
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き記したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人は文盲である
>>758
IQ低い?
■畿内は東の倭種の国なので記録が無い(のちのヤマト王権)
魏志倭人伝における投馬国、邪馬台国に至る行程は、魏に朝貢した倭人の説明に基づき、改めて帯方郡から女王の都までの行程を書き記したものである
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
※魏志倭人伝の素となった魏略には「女王国」の文字はあるが国名「邪馬台国」はまだない→情報不足
■魏志韓伝より
「韓国領土は東西が海で南は倭と接する」
「狗邪韓国」は記載されていない
よって、半島南部は倭の一部であったと考えられる
※のちの任那かもしれない
■卑弥呼の朝貢により判明した女王の都までの行程(日数表記部分)
帯方郡
↓南に船で20日
半島南部:投馬国=かつての狗邪韓国
↓南に船で10日
北部九州:邪馬台国=かつて詳細不明だった噂の女王国
※北部九州〜山陰まで含むかもしれない
↓
伊都国で入国手続き(女王との面会は簡単には出来ない)
↓一か月(一日)後許可が下りる
邪馬台国内の女王の都に到着
■考えられること
・陳寿はいわゆる文書屋であり地理感も無いので、単純に不彌国の後に追記してしまった
・短い里による1万2千里を魏の里(435m)で解釈し、それを意識したがために不彌国の後に続く行程だと勘違いしてしまった
・奴国の紹介が重複しているあたり、陳寿は古い記録の後に新しい情報を単純に追記していた可能性がある
・この文章の意味が判らない人は文盲である
768日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:23:46.38 倭人からの口頭説明だとすれば、「月」という単位は出ないはずだ
倭人は暦をしらなかったのだからね
だから俺は「一月:は「一日」の転載ミスだと考えている
そして女王の都は伊都国のすぐ南だ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
倭人は暦をしらなかったのだからね
だから俺は「一月:は「一日」の転載ミスだと考えている
そして女王の都は伊都国のすぐ南だ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
769日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:24:00.26 >>765
つまり狗奴国は畿内勢力って事?
つまり狗奴国は畿内勢力って事?
770日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:26:49.19 >>769
畿内勢力というより、狗奴国の傘下に畿内も含まれていた可能性は否定できない
畿内勢力というより、狗奴国の傘下に畿内も含まれていた可能性は否定できない
771日本@名無史さん
2021/01/23(土) 01:45:51.57772日本@名無史さん
2021/01/23(土) 02:32:15.07 >>767
のちの任那かもしれない は理解できるよー。
追加も認めるよ。でも勘違いでなく
実際にあるんだよ。南に伸びて会稽東治の東
となり、倭国全体が温暖と勘違い。
そうでないと可2万戸、5万戸は出てこない。
のちの任那かもしれない は理解できるよー。
追加も認めるよ。でも勘違いでなく
実際にあるんだよ。南に伸びて会稽東治の東
となり、倭国全体が温暖と勘違い。
そうでないと可2万戸、5万戸は出てこない。
773日本@名無史さん
2021/01/23(土) 02:36:24.93774日本@名無史さん
2021/01/23(土) 02:43:13.39775日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:30:25.03 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
776日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:38:44.30 >>755
>仮に国伝いに移動したなら道中の国名や官の名が記載されたはずだ
韓地の歴韓國乍南乍東の移動では、韓伝に既に国名が記載されており、
倭人伝に記載された狗邪韓國以後の国名は、倭地倭人の国の名称であった、
と受け止めるべきだ。
>仮に国伝いに移動したなら道中の国名や官の名が記載されたはずだ
韓地の歴韓國乍南乍東の移動では、韓伝に既に国名が記載されており、
倭人伝に記載された狗邪韓國以後の国名は、倭地倭人の国の名称であった、
と受け止めるべきだ。
777日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:39:04.79778日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:43:36.15 >>757
>あり得ない解釈ですよね
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
ここに陸行の区間があるのなら必ず明記されるはずです
韓伝に既に書かれていた国名は、
倭人伝には、必要でない限り、書く必要がありません。
狗邪韓國は、倭地の倭人支配の国です。
>あり得ない解釈ですよね
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
ここに陸行の区間があるのなら必ず明記されるはずです
韓伝に既に書かれていた国名は、
倭人伝には、必要でない限り、書く必要がありません。
狗邪韓國は、倭地の倭人支配の国です。
779日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:49:25.57 >>639-640
帯方からは、女王国(の直轄の領土)の入口である奴国は、
女王からは、その直轄の領土の境界の尽きる処でもあるのだったね。
自郡至女王國萬二千餘里。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
次有奴國此女王境界所盡。
帯方からは、女王国(の直轄の領土)の入口である奴国は、
女王からは、その直轄の領土の境界の尽きる処でもあるのだったね。
自郡至女王國萬二千餘里。
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
次有奴國此女王境界所盡。
780日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:50:03.04 780
781日本@名無史さん
2021/01/23(土) 06:54:34.65 >>758
>南下して東て港かな。停泊して韓の王様に挨拶
貢ぎ物、下賜あるから、陸路は無理。
「歴韓國乍南乍東」は、全「循海岸水行」では、危険が一杯あって無理であり、
陸路です。
>下賜品チェックは伊都国で終わって倭国の役人に引き渡す。
それは間違いです。
当然「邪馬壹國女王之所都」に着いて、卑弥呼に謁見してから引き渡すものです。
>奴国までは行っていたと推測 2万戸の実地食糧調査。
「至の前に途中移動をした」という事を示す文言がないから、
魏の役人らは、奴國へは行っておらず、
遠くから見えていたから、目測や倭人からの伝聞で記録しただけです。
>南下して東て港かな。停泊して韓の王様に挨拶
貢ぎ物、下賜あるから、陸路は無理。
「歴韓國乍南乍東」は、全「循海岸水行」では、危険が一杯あって無理であり、
陸路です。
>下賜品チェックは伊都国で終わって倭国の役人に引き渡す。
それは間違いです。
当然「邪馬壹國女王之所都」に着いて、卑弥呼に謁見してから引き渡すものです。
>奴国までは行っていたと推測 2万戸の実地食糧調査。
「至の前に途中移動をした」という事を示す文言がないから、
魏の役人らは、奴國へは行っておらず、
遠くから見えていたから、目測や倭人からの伝聞で記録しただけです。
782日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:02:46.85 >>761
>中国まで行ける邪馬台国がたった1000km離れてるだけの畿内を知らないはずが無いんだよな
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるからバツであり、
大和は、国生み神話期にニギハヤヒにらが来ていたようであるし、
五瀬命や神武の東征で、九州倭國は、当然、大和を、
九州倭國の別種の倭種や「市を監督する大倭職」として知ってはいただろうが、
魏の役人らが行けたのは、足摺付近の侏儒國付近まで。
>中国まで行ける邪馬台国がたった1000km離れてるだけの畿内を知らないはずが無いんだよな
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるからバツであり、
大和は、国生み神話期にニギハヤヒにらが来ていたようであるし、
五瀬命や神武の東征で、九州倭國は、当然、大和を、
九州倭國の別種の倭種や「市を監督する大倭職」として知ってはいただろうが、
魏の役人らが行けたのは、足摺付近の侏儒國付近まで。
783日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:08:43.75 >>762
>魏の役人が水行聞いて、諦めた?
伊都国、奴国で目的が達した時点で終わる。by
これもバツ。
魏使らは、邪馬壹國女王之所都まで行って、卑弥呼に面会して、
詔書や親魏倭王印や大量の下賜品を渡さなくっちゃ、役目が終わらない。
勿論、卑弥呼を実見しなければ、「年已長大」などという観察記録も出来ない。
>魏の役人が水行聞いて、諦めた?
伊都国、奴国で目的が達した時点で終わる。by
これもバツ。
魏使らは、邪馬壹國女王之所都まで行って、卑弥呼に面会して、
詔書や親魏倭王印や大量の下賜品を渡さなくっちゃ、役目が終わらない。
勿論、卑弥呼を実見しなければ、「年已長大」などという観察記録も出来ない。
784日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:21:19.24 ※九州説の論拠(wikipediaから抜粋)
・魏志倭人伝の距離は直線距離じゃなく行程であくまで南に十日
・魏志倭人伝では北部九州の小国は紹介してるが阿岐国、吉備国、出雲国の仔細が無い。
・記紀では景行天皇が熊襲討伐したから3世紀に九州は大和朝廷の勢力圏ではない
・同時代朝鮮が小国並立状態なのに倭国が先行して広域連合政権を生み出したとは考え難い。
・魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解だから畿内の古墳は当てはまらない
・福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型という説
・福岡の祇園山古墳が卑弥呼の墓記載と一致するとの説から
・奈良の箸墓古墳は当時最大の墳丘だが国内が乱れてる時には造営できないはずという見解
・当時の朝鮮半島では一辺30メートル前後の墳丘墓なのに倭国だけが巨大な墳丘墓を作れるはずがないという意見から
・三角縁神獣鏡は朝鮮の遺跡から一面も出土していないから
ツッコミ所が多い
・魏志倭人伝の距離は直線距離じゃなく行程であくまで南に十日
・魏志倭人伝では北部九州の小国は紹介してるが阿岐国、吉備国、出雲国の仔細が無い。
・記紀では景行天皇が熊襲討伐したから3世紀に九州は大和朝廷の勢力圏ではない
・同時代朝鮮が小国並立状態なのに倭国が先行して広域連合政権を生み出したとは考え難い。
・魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解だから畿内の古墳は当てはまらない
・福岡県糸島市の平原遺跡出土の大型内行花文鏡が伊勢神宮の神道五部書に伝わる八咫鏡と同型という説
・福岡の祇園山古墳が卑弥呼の墓記載と一致するとの説から
・奈良の箸墓古墳は当時最大の墳丘だが国内が乱れてる時には造営できないはずという見解
・当時の朝鮮半島では一辺30メートル前後の墳丘墓なのに倭国だけが巨大な墳丘墓を作れるはずがないという意見から
・三角縁神獣鏡は朝鮮の遺跡から一面も出土していないから
ツッコミ所が多い
785日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:21:43.69 ※畿内説の論拠
・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
・纒向型前方後円墳の発祥地であり3世紀日本列島最大の墳丘規模
・全国各地の土器が搬入されている
・建物の柱穴が100箇所以上で祭祀場も検出
・巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
・居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
・『記紀』『倭名類聚抄』『万葉集』にも地名が記載されている
・魏の年号を記した紀年鏡10枚のうち5枚が畿内に分布
・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視
・纒向遺跡から大量の桃の種が見つかる、唐古・鍵遺跡からは禹余粮が出土される(道教)
・淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認
・弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡は淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡
・近世以前の中国や朝鮮の地図では日本列島が南に延びるように描かれている
・畿内の古墳の方が副葬品が立派であり一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見される
・三角縁神獣鏡は日本製説が有ったが丹後で魏の清龍3年鏡の発見され見直される
畿内が3世紀に国内最大規模の勢力だった客観的根拠は多い
・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
・纒向型前方後円墳の発祥地であり3世紀日本列島最大の墳丘規模
・全国各地の土器が搬入されている
・建物の柱穴が100箇所以上で祭祀場も検出
・巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
・居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
・『記紀』『倭名類聚抄』『万葉集』にも地名が記載されている
・魏の年号を記した紀年鏡10枚のうち5枚が畿内に分布
・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視
・纒向遺跡から大量の桃の種が見つかる、唐古・鍵遺跡からは禹余粮が出土される(道教)
・淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認
・弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡は淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡
・近世以前の中国や朝鮮の地図では日本列島が南に延びるように描かれている
・畿内の古墳の方が副葬品が立派であり一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見される
・三角縁神獣鏡は日本製説が有ったが丹後で魏の清龍3年鏡の発見され見直される
畿内が3世紀に国内最大規模の勢力だった客観的根拠は多い
786日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:27:35.78 魏使らは、邪馬壹國女王之所都まで行って、卑弥呼に面会し、邪馬壹國女王之所都で、一寸千里の法も実行し、
そこが、倭人の風俗そっくりの越国の最後の首都の八方位でちょうど東にあることを知った可能性が、高いな。
そこが、倭人の風俗そっくりの越国の最後の首都の八方位でちょうど東にあることを知った可能性が、高いな。
787日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:29:31.54 邪馬台国候補となる条件(仮)
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
・カエルの骨が溶けない地域である
・鉄が溶ける地域である
・魏志倭人伝時代が終わった後に吉備から西日本各地に伝来したが、庄内式と名付けられたので、「畿内から九州に伝来したという誤認をされている」土器が埋まっている。
・4世紀以降の古墳がある
・中国から飛んできた砂よりも軽い花粉が発見される。
・中国の骨董屋で売りに出された鏡と同じ4世紀の国産鏡が4世紀以降の古墳に埋まっている。
・桃の種が発見される。
・火星との交易が盛んだった地域である
・人民の住居がない。
・対馬の真東にある。
・古墳を積み上げる土方のための大下水道がある。
・布留式という式の土器の時代に5世紀の馬がいる。
・最初に、相撲が始まった地域である。
・4世紀に朝鮮半島で捕獲、連行された馬によって積み上げられた前方後円型の物体がある。
・木のお面が、発見できた。
・卑弥呼は桃とカエルを食いながら木の面をつけて全裸で踊っていた。
・奴隷の死体を乗せる4世紀の埴輪が、発見できた。
・冬は大雪だが、一年中、裸足で駆け回り、一年中、生野菜が食べられる。
・卑弥呼の着ぐるみに自治体の予算が出る。
・自治体が自称考古学者に給料を払う。
・自治体が観光を活発化しようとして財政が破綻寸前。
・若者達が、自治体の方針にうんざりしている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎることに不信を抱き始めている。
・若者達が、自治体の予算配分に、教育費の割合が多すぎる割には、教育水準が高まらないことに不信を抱き始めている。
・奥山氏の鬘は、海外交差編年のように、ズレる。
788日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:31:02.84 >>765
>魏志倭人伝読んだのか 後漢時代の倭は100国が朝貢してたが、
「舊百餘國,漢時有朝見者」であるから、「舊」は漢時の前だな。
それに「有朝見者」であるから、全部が朝貢したのではない。
>今は30国しか交流が無い
狗邪韓國から投馬國までの30国であり、
奴國は同名のままで二つに分かれていたようであり、
狗奴國は、使譯を通していなかったようである。
>九州の邪馬台国と畿内含む倭種の国は分裂したと考えられる
女王国30国、その他の倭種70国という状況だぞ??
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」として、女王國の30国位と区別されているから、
倭種の国々は、「今使譯所通三十國」には入っていない。
>魏志倭人伝読んだのか 後漢時代の倭は100国が朝貢してたが、
「舊百餘國,漢時有朝見者」であるから、「舊」は漢時の前だな。
それに「有朝見者」であるから、全部が朝貢したのではない。
>今は30国しか交流が無い
狗邪韓國から投馬國までの30国であり、
奴國は同名のままで二つに分かれていたようであり、
狗奴國は、使譯を通していなかったようである。
>九州の邪馬台国と畿内含む倭種の国は分裂したと考えられる
女王国30国、その他の倭種70国という状況だぞ??
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」として、女王國の30国位と区別されているから、
倭種の国々は、「今使譯所通三十國」には入っていない。
789日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:33:03.73790日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:33:10.96 様々な分野の優れた学者が集合し、あらゆる柵みとは無関係に意見を闘わせ、日本政府が公式に設置した機関が、「邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い。」と判断し、広く、発表したのだったな。
791日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:35:46.24 >>790
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあったが、他の様々な分野の優れた学者達には、あまり、真面目には取り合って貰えなかったのだったな。
様々な学問の分野の中には、ゴッドハンドを出現させてしまった分野もあったが、他の様々な分野の優れた学者達には、あまり、真面目には取り合って貰えなかったのだったな。
792日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:36:39.41 庄内式と名付けられてしまった「吉備の土器」が出現した時期は、博多と巻向では、本当は、どちらが先なのだろうか。
464 名前:日本@名無史さん 2021/01/16(土) 08:24:36.30
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
464 名前:日本@名無史さん 2021/01/16(土) 08:24:36.30
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
793日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:38:12.21 「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
794日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:38:45.17795日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:38:49.61 >>769
>つまり狗奴国は畿内勢力って事?
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実は史料実態に拠っても、バツ。
>つまり狗奴国は畿内勢力って事?
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、バツであり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実は史料実態に拠っても、バツ。
796日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:39:29.32 始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、上海市浦東新区東治と並ぶ、魏志倭人伝の会稽東治の候補の一つであり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A=
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、
上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A=
797日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:41:28.75 もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg
あえて、会稽東治の東と書いたのは、やはり、上海市浦東新区東治から、あるいは、良渚城の東の治所から、あるいは、「初めて会稽郡が置かれた秦の時の郡域の東部にある、今の蘇州にあった会稽郡治」から「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「元々の会稽郡治」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg
798日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:45:28.93799日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:48:25.32 >>797
貴方は、魏志倭人伝時代に作られた地図を書き写し緯度を付け加えた地図を、紹介したな。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg
貴方は、魏志倭人伝時代に作られた地図を書き写し緯度を付け加えた地図を、紹介したな。
https://i2.kknews.cc/SIG=3dq28vf/ctp-vzntr/s2n8q3698028459380q44r7or7po1p5p.jpg
800日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:51:34.90 800
801日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:53:47.51 >>799
邪馬台国畿内説に、完全なトドメになってしまったことが、わかるね。
邪馬台国畿内説に、完全なトドメになってしまったことが、わかるね。
802日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:55:04.91 >>765
そんなことは書かれていない
昔は百余国に分かれていたが今は三十国に併合されたということ
この三十国は倭国内に29国 倭地には国の体をなすのは狗奴国が一国
もし君の説のようにこの他に70国があるとしたら
それら倭人の住む国々について陳寿が触れないわけがない
そんなことは書かれていない
昔は百余国に分かれていたが今は三十国に併合されたということ
この三十国は倭国内に29国 倭地には国の体をなすのは狗奴国が一国
もし君の説のようにこの他に70国があるとしたら
それら倭人の住む国々について陳寿が触れないわけがない
803日本@名無史さん
2021/01/23(土) 07:59:42.84804日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:04:35.51 >>785
>・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
調査範囲が広いだけの、つまらない遺跡。 @阿波
>・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
調査範囲が広いだけの、つまらない遺跡。 @阿波
805日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:05:52.39 >>785
>・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
「忌部はん」が造った開拓地。 @阿波
>・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
「忌部はん」が造った開拓地。 @阿波
806日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:07:06.10 >>785
>・纒向型前方後円墳の発祥地であり
「前方後円墳」の発祥地は「阿波」。 @阿波
>・纒向型前方後円墳の発祥地であり
「前方後円墳」の発祥地は「阿波」。 @阿波
807日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:08:55.53 >>767
陳寿は倭人の住んでいる領域はすべてカバーしている
倭国と周辺の倭地の狗奴国と南西諸島および四国
ただ、四国は倭人が住んでいるとは認識していたが国としては認識していなかった
倭国は北九州から関東あたりまでの領域で、その以北には倭人ではないと認識していた者たちが住む領域があった
陳寿は倭人の住んでいる領域はすべてカバーしている
倭国と周辺の倭地の狗奴国と南西諸島および四国
ただ、四国は倭人が住んでいるとは認識していたが国としては認識していなかった
倭国は北九州から関東あたりまでの領域で、その以北には倭人ではないと認識していた者たちが住む領域があった
808日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:15:41.03809日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:17:50.56 畿内のヤマト説や、九州のヤス・フル説は
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引に北東の糸島・博多・宇美方向へ進むわけだww
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引に北東の糸島・博多・宇美方向へ進むわけだww
810日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:18:23.59 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。
811日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:18:44.89 >>769
狗奴国=句呉国=太伯の後裔
狗奴国=句呉国=太伯の後裔
812日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:23:37.13 >>809
畿内のヤマト説や、九州のヤス・フル説は、もはやガラパ説。 @阿波
畿内のヤマト説や、九州のヤス・フル説は、もはやガラパ説。 @阿波
813日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:27:55.26 出雲神話時代、ナとマは、区別されていなかったのだな。
沼河姫は、ヌナカワヒメ。
球磨は、クナ。
沼河姫は、ヌナカワヒメ。
球磨は、クナ。
814日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:30:31.07 >>813
魏志倭人伝では、球磨の直ぐ北が、邪馬壹だったね。
魏志倭人伝では、球磨の直ぐ北が、邪馬壹だったね。
815日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:30:53.46816日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:33:24.23 合戦場は、有明海南部や緑川だった可能性が高いな。
817日本@名無史さん
2021/01/23(土) 08:38:26.85 >>815
>まだ、1割にも発掘が進んでいません。
どこの遺跡でも、ごく一部しか発掘していない。 纏向遺跡だけ特別じゃない。
纏向遺跡ほど発掘回数が多いところはない。
それでこの有様。 いかにつまらない遺跡と言えよう。 @阿波
>まだ、1割にも発掘が進んでいません。
どこの遺跡でも、ごく一部しか発掘していない。 纏向遺跡だけ特別じゃない。
纏向遺跡ほど発掘回数が多いところはない。
それでこの有様。 いかにつまらない遺跡と言えよう。 @阿波
818日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:09:59.98819日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:14:29.33820日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:18:23.30 820
821日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:20:48.32822日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:23:10.01823日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:24:07.91 >>819
All about Wajin で通訳で交流の可能な国は三十国ということ
関東以北の居住民は通訳でも交流ができない人びとで倭人ではないと見なしていた
「侏儒国、裸国、etc」は倭人の住む領域の外側について簡単に触れたもの
All about Wajin で通訳で交流の可能な国は三十国ということ
関東以北の居住民は通訳でも交流ができない人びとで倭人ではないと見なしていた
「侏儒国、裸国、etc」は倭人の住む領域の外側について簡単に触れたもの
824日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:24:15.05 呉の太伯とは、何者なのだろうか。
825日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:27:37.72 >>807
陳寿は倭人に関する記録を収集してまとめただけであり、実際に来日したわけではない
そしてよくわからない地域は「倭種の国」と記載している
このあたりでも、朝貢に来た倭人から聞いた話を記載したことが伺える
黒歯国なども倭人から得た情報かもしれない
倭人は縄文時代から広範囲を航海していたようなので
陳寿は倭人に関する記録を収集してまとめただけであり、実際に来日したわけではない
そしてよくわからない地域は「倭種の国」と記載している
このあたりでも、朝貢に来た倭人から聞いた話を記載したことが伺える
黒歯国なども倭人から得た情報かもしれない
倭人は縄文時代から広範囲を航海していたようなので
826日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:28:14.49827日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:28:22.23 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。
828日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:29:20.10 呉の太伯とは、何者なのだろうか。
829日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:30:04.67830日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:32:58.70831日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:33:11.22 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
832日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:34:16.99 >>825
倭国、倭地と区別して記述しているのはご説の通り
陳寿が実際に倭国を訪れていなくても問題はない
魏志倭人伝自体も陳寿自身が書いた部分とそうでない部分があるのだろうが、それも問題はない
一つの記録として残され多くの人々の目に触れて来た そこに重みがある
倭国、倭地と区別して記述しているのはご説の通り
陳寿が実際に倭国を訪れていなくても問題はない
魏志倭人伝自体も陳寿自身が書いた部分とそうでない部分があるのだろうが、それも問題はない
一つの記録として残され多くの人々の目に触れて来た そこに重みがある
833日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:36:18.59 >>832
>一つの記録として残され多くの人々の目に触れて来た そこに重みがある
で、君たちはなにを論争してるんだい? @阿波
>一つの記録として残され多くの人々の目に触れて来た そこに重みがある
で、君たちはなにを論争してるんだい? @阿波
834日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:36:49.09 >>829
それは四国について記述した部分 倭人が居住していたとは認識していたが国としては認識していなかった
それは四国について記述した部分 倭人が居住していたとは認識していたが国としては認識していなかった
835日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:38:40.21837日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:45:09.31838日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:47:07.65839日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:50:48.31 >>834
>それは四国について記述した部分
君は、倭種の四国に「其山有丹」があったというのかね? @阿波
>それは四国について記述した部分
君は、倭種の四国に「其山有丹」があったというのかね? @阿波
840日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:52:41.46 申し訳ないが史学を弄ぶ人との会話は遠慮したい
841日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:52:55.62 >>838
>都につながる礎 by
>その側に3世紀出現した纏向遺跡そして飛鳥京
その間は、単なる墓地でしかなかった。 @阿波
>都につながる礎 by
>その側に3世紀出現した纏向遺跡そして飛鳥京
その間は、単なる墓地でしかなかった。 @阿波
842日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:56:24.23843日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:56:38.67 >>841
そして、その飛鳥京と言われている遺跡は、倭国(阿波)王権が保護した朝鮮半島避難民遺跡にすぎない。 @阿波
そして、その飛鳥京と言われている遺跡は、倭国(阿波)王権が保護した朝鮮半島避難民遺跡にすぎない。 @阿波
844日本@名無史さん
2021/01/23(土) 09:57:54.27 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
846日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:01:19.16 >>842
後漢書は魏志の後に作成された文献ですね
後漢書は魏志の後に作成された文献ですね
847日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:01:24.78 今年まだ無敗で、破竹の連続勝利中のバンビシャスが、久しぶりに闘うのだったな。
848日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:03:24.52 「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。
849日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:03:36.39850日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:04:18.67851日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:06:38.29 魏時代は大乱を終えた倭人と久しぶりに交流出来た時代だったので、史書に書かれた倭に関する情報量が一気に増えた
■過去からある倭に関する情報
始度一海千餘里 至對馬國・・・乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國・・・皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國・・・郡使往來常所駐
東南至奴國百里 ・・・ 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 ・・・ 有千餘家
■以降は倭人が朝貢に来た際に確認した記録
(郡より)
(狗邪韓国)南至投馬國 水行二十日 ・・・ 可五萬餘戸
(北部九州上陸)南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月(一日)・・・可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶(長崎,大分方面)・・・ 此女王境界所盡
(熊本)其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
(陳寿による里数換算)自郡至女王國 萬二千餘里
■図
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
■過去からある倭に関する情報
始度一海千餘里 至對馬國・・・乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國・・・皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國・・・郡使往來常所駐
東南至奴國百里 ・・・ 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 ・・・ 有千餘家
■以降は倭人が朝貢に来た際に確認した記録
(郡より)
(狗邪韓国)南至投馬國 水行二十日 ・・・ 可五萬餘戸
(北部九州上陸)南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月(一日)・・・可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶(長崎,大分方面)・・・ 此女王境界所盡
(熊本)其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
(陳寿による里数換算)自郡至女王國 萬二千餘里
■図
https://i.imgur.com/f5k43VJ.png
852日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:14:25.38853日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:21:20.56 >>852
根拠は、距離の表記方法が変わると同時に、官の呼び名、規模の表記における規則性を破ってるから
>帯方郡から女王の都まで水行10日、陸行一月(日でもいいが)と
俺は半島南部から女王の都まで水行10日+伊都国一泊
だと思う
根拠は、距離の表記方法が変わると同時に、官の呼び名、規模の表記における規則性を破ってるから
>帯方郡から女王の都まで水行10日、陸行一月(日でもいいが)と
俺は半島南部から女王の都まで水行10日+伊都国一泊
だと思う
854日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:22:36.72855日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:24:19.74 >>854
それは倭人の表現方法と異なる「過去の記録の転載」部分だ
それは倭人の表現方法と異なる「過去の記録の転載」部分だ
856日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:24:30.04 >>850
>後にまだ、藤原京、平城京と続きます。by
倭国(阿波)が遷都したからね。 @阿波
>後にまだ、藤原京、平城京と続きます。by
倭国(阿波)が遷都したからね。 @阿波
857日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:28:28.27858日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:29:24.77859日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:30:35.00 >>850
>後にまだ、藤原京、平城京と続きます。by
倭国(阿波)が遷都したからね。
遷都する前は、ただの墓地。 わははははは @阿波
>後にまだ、藤原京、平城京と続きます。by
倭国(阿波)が遷都したからね。
遷都する前は、ただの墓地。 わははははは @阿波
860日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:32:27.79861日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:34:26.18 >>857
そこからが魏と倭の交流の記録だということよ
>帯方郡から半島南部まではどう解釈するのか
その区間は韓国だから簡単に「韓国を経て」で片付いている
半島南部は鉄を取りに来た倭人が大勢いたのだろう
特に韓国に属するわけでもないので魏志韓伝には記載されず、倭人伝に記載されたとみる
そこからが魏と倭の交流の記録だということよ
>帯方郡から半島南部まではどう解釈するのか
その区間は韓国だから簡単に「韓国を経て」で片付いている
半島南部は鉄を取りに来た倭人が大勢いたのだろう
特に韓国に属するわけでもないので魏志韓伝には記載されず、倭人伝に記載されたとみる
862日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:36:00.64 もっと古い文献が必要だね
後世で書かれた後漢書じゃ判別出来ない
その後の史書も結局は魏志を参照しているし
後世で書かれた後漢書じゃ判別出来ない
その後の史書も結局は魏志を参照しているし
863日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:37:40.60864日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:41:07.12865日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:41:30.54 >>770
>畿内勢力というより、狗奴国の傘下に畿内も含まれていた可能性は否定できない
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
後漢書の「拘奴國」は、
おそらく狗奴國の事を言おうとしているんだろうが、断定できず、
後漢書自体が半分偽書的な文書であるから、記載そのものが信頼性もなく、
仮に「拘奴國」があったとしても、
後漢代ではなく、5世紀の情報である可能性の方が高く、
大和に関しては、元々は、
倭奴國や伊都國の筑紫城の阿毎氏系の東征毛人五十五國の支配地であり、
だから、(姫氏系であるらしい)狗奴國系ではない、という事になる。
>畿内勢力というより、狗奴国の傘下に畿内も含まれていた可能性は否定できない
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
後漢書の「拘奴國」は、
おそらく狗奴國の事を言おうとしているんだろうが、断定できず、
後漢書自体が半分偽書的な文書であるから、記載そのものが信頼性もなく、
仮に「拘奴國」があったとしても、
後漢代ではなく、5世紀の情報である可能性の方が高く、
大和に関しては、元々は、
倭奴國や伊都國の筑紫城の阿毎氏系の東征毛人五十五國の支配地であり、
だから、(姫氏系であるらしい)狗奴國系ではない、という事になる。
866日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:45:31.86867日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:46:36.65 >>865
狗奴国は魏志倭人伝に女王国の南にあったと書かれているんだよ
狗奴国は魏志倭人伝に女王国の南にあったと書かれているんだよ
868日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:48:54.76869日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:54:41.96 >>864
>国庫の鍵 あげる by
あげる っていっても、もともと自分の物だから。 お気遣いなく。 @阿波
>国庫の鍵 あげる by
あげる っていっても、もともと自分の物だから。 お気遣いなく。 @阿波
870日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:56:16.82871日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:56:38.98 >>867
>狗奴国は魏志倭人伝に女王国の南にあったと書かれているんだよ
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力) @阿波
>狗奴国は魏志倭人伝に女王国の南にあったと書かれているんだよ
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力) @阿波
872日本@名無史さん
2021/01/23(土) 10:59:43.28 隋書琉球伝では、中国が琉球から連れ帰った倭人の服について、朝貢に来ていた倭人に尋ねるシーンがある
そうやって倭人にあれこれ聞きながら作成され、記載された文章もあるわけで
そうやって倭人にあれこれ聞きながら作成され、記載された文章もあるわけで
873日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:01:18.25 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
874日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:01:41.52 ところで動画で四国説見たんだけど、出てくる国がすべて四国内に比定されててカオスだったw
875日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:03:48.26876日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:16:28.22877日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:17:16.69 >>872
その頃に既にシーサーがある。
その頃に既にシーサーがある。
878日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:22:48.42879日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:23:18.67 >>876
>帯方郡→狗邪韓国が7000里(倭人いわく船で20日)
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
>帯方郡→狗邪韓国が7000里(倭人いわく船で20日)
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
880日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:25:08.08881日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:25:35.42 >>878
>そういった地域を投馬国と呼んでいたと考えてる
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
>そういった地域を投馬国と呼んでいたと考えてる
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
882日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:26:45.26 >>876
里数表記をしている部分は実際に測定したもの
帯方郡の役人は常時伊都国に駐在して、任期が終われば後任と交代する
そこに倭人の伝聞情報を入れる必要は無い
また、帯方郡の役人が何度女王の都を訪れたのかは不明だが
確実に一度は
>詔書、印綬を奉じて倭国に詣り詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。
とあるので女王の都を訪れている おみやげがたくさんあるのでそれなりの人数の使節団だったろう
里数表記をしている部分は実際に測定したもの
帯方郡の役人は常時伊都国に駐在して、任期が終われば後任と交代する
そこに倭人の伝聞情報を入れる必要は無い
また、帯方郡の役人が何度女王の都を訪れたのかは不明だが
確実に一度は
>詔書、印綬を奉じて倭国に詣り詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。
とあるので女王の都を訪れている おみやげがたくさんあるのでそれなりの人数の使節団だったろう
883日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:27:20.83 トンデモ阿波説発狂w
884日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:29:02.03885日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:29:31.17886日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:30:27.13 畿内のヤマト説や、九州のヤス・フル説は
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引かつ猪突猛進で、北東の糸島・博多・宇美方向へ進んだわけだww
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引かつ猪突猛進で、北東の糸島・博多・宇美方向へ進んだわけだww
887日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:35:22.69888日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:35:47.48 >>885
陳寿自身が記録したのではなく、陳寿は単に倭人や使者の伝聞を並べて文書化したんだよ
投馬国というものが国という体を成していなかったんだろう
よくわからん海賊地帯のような土地で
唯一立ち寄る場所だった狗邪韓国(投馬国)だけ記載されたということよ
陳寿自身が記録したのではなく、陳寿は単に倭人や使者の伝聞を並べて文書化したんだよ
投馬国というものが国という体を成していなかったんだろう
よくわからん海賊地帯のような土地で
唯一立ち寄る場所だった狗邪韓国(投馬国)だけ記載されたということよ
889日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:36:25.00 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
890日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:39:10.99 >>785
>※畿内説の論拠
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、バツ。
>・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
広いが、「最大級の集落跡」ではなく、まばらな集落跡であり、弥生銀座には全く負けている。
>・纒向型前方後円墳の発祥地であり3世紀日本列島最大の墳丘規模
3世紀として、卑弥呼の頃にしたのが嘘つき騙し。実際は石塚で3世紀末であり、殆どは4世紀。
>・全国各地の土器が搬入されている
九州倭國の地方の「市」を監督する「大倭」職がいたからだが、筑紫の土器は搬入されていない。
>・建物の柱穴が100箇所以上で祭祀場も検出
地方の「市」の祭祀や、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして巨大墓を造らせた祭祀地。
>※畿内説の論拠
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、バツ。
>・纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡
・自然発生的なムラではなく人工的に造られた都市
広いが、「最大級の集落跡」ではなく、まばらな集落跡であり、弥生銀座には全く負けている。
>・纒向型前方後円墳の発祥地であり3世紀日本列島最大の墳丘規模
3世紀として、卑弥呼の頃にしたのが嘘つき騙し。実際は石塚で3世紀末であり、殆どは4世紀。
>・全国各地の土器が搬入されている
九州倭國の地方の「市」を監督する「大倭」職がいたからだが、筑紫の土器は搬入されていない。
>・建物の柱穴が100箇所以上で祭祀場も検出
地方の「市」の祭祀や、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして巨大墓を造らせた祭祀地。
891日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:39:45.10892日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:40:03.28 >>888
>投馬国というものが国という体を成していなかったんだろう
アホか。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
>投馬国というものが国という体を成していなかったんだろう
アホか。
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
893日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:43:36.88894日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:45:20.64895日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:47:13.29 >>893
つまり、朝鮮半島南部に倭の領域も無かったし、投馬国も無かったということ
つまり、朝鮮半島南部に倭の領域も無かったし、投馬国も無かったということ
896日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:49:17.46 >>892
狗というのは「反目」を意味し、狗邪韓国は韓国に属さない、あるいは反韓国国家という意味
同様に狗奴国は反奴国の国家という意味であり、女王国30国に対し、反女王国は70国あったはずだ
これからすると女王の都は奴国にあったと考えられる
狗というのは「反目」を意味し、狗邪韓国は韓国に属さない、あるいは反韓国国家という意味
同様に狗奴国は反奴国の国家という意味であり、女王国30国に対し、反女王国は70国あったはずだ
これからすると女王の都は奴国にあったと考えられる
897日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:50:42.78898日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:51:41.80 >>896
また珍説かよ九州説w
また珍説かよ九州説w
899日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:52:07.39 魏によって半島を征されてたが狗邪韓国は倭の支配域だぞ
だから王もいる
だから王もいる
900日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:52:08.91901日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:52:17.29 豆知識
「狗」は蔑視するさいに使われる文字
「狗」は蔑視するさいに使われる文字
902日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:53:11.00 >>785の続き
>・巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
弥生銀座の方が、何本もの大道や運河もあり、はるかに大規模。
>・居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
石塚で3世紀末であり、箸墓は4世紀であるから、卑弥呼の3世紀前半とは全く関係がない。
>・『記紀』『倭名類聚抄』『万葉集』にも地名が記載されている
元々、九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職の地。
>・魏の年号を記した紀年鏡10枚のうち5枚が畿内に分布
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
大和の「鏡の副葬」は、3世紀最末〜4世紀のホケノ以後であり、
魏の年号の紀年鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、明帝鏡ではない。
>・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視
後代史家の隋書の魏徴らは、自己解釈に拠る書き換えを実行している形だから、証拠にならず、バツ。
>・纒向遺跡から大量の桃の種が見つかる、唐古・鍵遺跡からは禹余粮が出土される(道教)
卑弥呼の証拠になっておらず、吉備の部族が東征に参加していた、という事を示すのみ。
>・巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
弥生銀座の方が、何本もの大道や運河もあり、はるかに大規模。
>・居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
石塚で3世紀末であり、箸墓は4世紀であるから、卑弥呼の3世紀前半とは全く関係がない。
>・『記紀』『倭名類聚抄』『万葉集』にも地名が記載されている
元々、九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職の地。
>・魏の年号を記した紀年鏡10枚のうち5枚が畿内に分布
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
大和の「鏡の副葬」は、3世紀最末〜4世紀のホケノ以後であり、
魏の年号の紀年鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、明帝鏡ではない。
>・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視
後代史家の隋書の魏徴らは、自己解釈に拠る書き換えを実行している形だから、証拠にならず、バツ。
>・纒向遺跡から大量の桃の種が見つかる、唐古・鍵遺跡からは禹余粮が出土される(道教)
卑弥呼の証拠になっておらず、吉備の部族が東征に参加していた、という事を示すのみ。
903日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:53:44.74 「卑彌呼」の卑もだろ。 @阿波
904日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:54:26.60905日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:55:19.61 >>904
まさに、その通り! @阿波
まさに、その通り! @阿波
906日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:55:56.89 >>899
狗邪韓国が倭国の領域だとしたら官や副を記述し風土についても紹介するだろう
狗邪韓国が倭国の領域だとしたら官や副を記述し風土についても紹介するだろう
907日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:56:39.81 >>904
ただし、その倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「認められた」ところ。
その心は、「阿波」が嘗ての「倭の地」だったから。 @阿波
ただし、その倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「認められた」ところ。
その心は、「阿波」が嘗ての「倭の地」だったから。 @阿波
908日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:56:46.74909日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:57:12.31 >>904
お説の通り
お説の通り
910日本@名無史さん
2021/01/23(土) 11:58:57.14911日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:00:10.71912日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:01:42.88 >>910
狗〜は今でいうと頭に「クソ」と付けるようなものだ
狗〜は今でいうと頭に「クソ」と付けるようなものだ
913日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:02:55.48 >>912
しかし実際は、
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
しかし実際は、
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
914日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:03:35.40 倭国・倭地にかかわる地名・人名は現地の音を写し中国語の文字で表現したもの
元来中国語の文字との結びつきは無い
元来中国語の文字との結びつきは無い
915日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:06:52.95916日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:08:16.20 九州説って倭人伝を随分と軽んじてるんだな
917日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:08:22.18918日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:10:33.48 >>786の続き
>・淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認
弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡は淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡
当然、九州倭國の東征軍が、淡路島に鉄器武器などの拠点を造った事になるだけ。
>・近世以前の中国や朝鮮の地図では日本列島が南に延びるように描かれている
後代の「知的退化」を示すような文献や地図は、3世紀の証拠にならない。
>・畿内の古墳の方が副葬品が立派であり
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
大和の古墳は、東征将軍らが獲得した生口や守墓人にし、
示しをつけなければならなかったから、副葬品を出来るだけ立派にした。
>一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見される
中国製ではない。237〜238年頃の、
魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難して来た、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>・三角縁神獣鏡は日本製説が有ったが丹後で魏の清龍3年鏡の発見され見直される
高槻と丹後の青龍三年(235年)の顔氏作鏡の方格規矩四神鏡は同范鏡であり、
そんなインチキ鏡を明帝が下賜する筈がなく、
やはり、魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難して来た渡来の呉系楽浪鏡師らの同范での「関与鏡。
大和が3世紀に国内最大規模の勢力だった客観的根拠はない
>・淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認
弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡は淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡
当然、九州倭國の東征軍が、淡路島に鉄器武器などの拠点を造った事になるだけ。
>・近世以前の中国や朝鮮の地図では日本列島が南に延びるように描かれている
後代の「知的退化」を示すような文献や地図は、3世紀の証拠にならない。
>・畿内の古墳の方が副葬品が立派であり
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
大和の古墳は、東征将軍らが獲得した生口や守墓人にし、
示しをつけなければならなかったから、副葬品を出来るだけ立派にした。
>一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見される
中国製ではない。237〜238年頃の、
魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難して来た、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>・三角縁神獣鏡は日本製説が有ったが丹後で魏の清龍3年鏡の発見され見直される
高槻と丹後の青龍三年(235年)の顔氏作鏡の方格規矩四神鏡は同范鏡であり、
そんなインチキ鏡を明帝が下賜する筈がなく、
やはり、魏の楽浪帯方攻撃戦争から避難して来た渡来の呉系楽浪鏡師らの同范での「関与鏡。
大和が3世紀に国内最大規模の勢力だった客観的根拠はない
919日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:11:36.88 >>906
支配域な、倭に属していた韓の一国
支配域な、倭に属していた韓の一国
920日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:12:23.08921日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:12:54.86 超初心者の畿内説が何か言ってるぞ
915 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/01/23(土) 12:06:52.95
>>911
狗邪韓国は実際に使節が何度も往復している場所
畿内には女王国があった
915 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2021/01/23(土) 12:06:52.95
>>911
狗邪韓国は実際に使節が何度も往復している場所
畿内には女王国があった
922日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:14:58.25923日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:16:23.09 邪馬台国はやっぱ4世紀に大和によって滅ぼされたのだろうか?
924日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:16:52.00 >>922
この人たちのおかげだ
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
この人たちのおかげだ
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
925日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:18:13.52 >>918
君は×氏と同一人物だったのか
キャラクターを変えて熱心に書き込んでも無駄な事
事実と正直に向き合って思うことを述べたらいい
私は九州南部の人々は実直で、馬鹿正直なくらい誠実な人びとだったと考えている
そう言う人々こそ、いざというときは強い 命を投げ出して闘う
後の隼人が武勇を認められたのも当然だった
あれこれ画策する人は結局は弱い
君は×氏と同一人物だったのか
キャラクターを変えて熱心に書き込んでも無駄な事
事実と正直に向き合って思うことを述べたらいい
私は九州南部の人々は実直で、馬鹿正直なくらい誠実な人びとだったと考えている
そう言う人々こそ、いざというときは強い 命を投げ出して闘う
後の隼人が武勇を認められたのも当然だった
あれこれ画策する人は結局は弱い
926日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:19:47.81 3世紀からの畿内の平和っぷりを見るに広域での強固な同盟関係と安定した政治体制が確立してたと見ていいんだろうな
927日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:20:44.98928日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:21:22.81 >>915
開拓地ですけどね。
九州の戦争バカが
共立王としてかつぎ出した。
治るけど、死んでまた戦争で
また卑弥呼宗女を担ぐ。
古墳、墓の祭祀、鎮魂、暦に支障きたす。
「何をやっているんだ本家!」て処 by
なので墓地公園でいいのです。
開拓地ですけどね。
九州の戦争バカが
共立王としてかつぎ出した。
治るけど、死んでまた戦争で
また卑弥呼宗女を担ぐ。
古墳、墓の祭祀、鎮魂、暦に支障きたす。
「何をやっているんだ本家!」て処 by
なので墓地公園でいいのです。
929日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:21:53.73930日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:21:59.07931日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:22:43.23932日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:23:17.47933日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:23:32.03934日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:24:42.62 >>926
3世紀からの畿内の平和っぷりを見るに、墓場以外有り得ない。 @阿波
3世紀からの畿内の平和っぷりを見るに、墓場以外有り得ない。 @阿波
935日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:26:06.13 狗奴国は大和で4世紀に邪馬台国は熊襲と一緒に滅ぼされたのでは?
936日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:26:53.72 >>934
正解、だから卑弥呼が共立王
正解、だから卑弥呼が共立王
938日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:27:20.47 >>928
共立したのは北部九州から関東までの国々
共立したのは北部九州から関東までの国々
939日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:27:28.08 >>935
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
「狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無いところに、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波
940日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:29:01.64941日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:29:03.53 狗奴国=句呉国=太伯の後裔
942日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:30:58.83 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
943日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:32:01.86 >>940
>半島、大陸、戦火から逃れた人
それは、白村江の戦以後からだな。 @阿波
>半島、大陸、戦火から逃れた人
それは、白村江の戦以後からだな。 @阿波
944日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:36:23.61945日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:39:41.28 >>944
>纏向遺跡から、読み取れます。by
アホか。 纏向遺跡は、「忌部はん」の「古墳造営前線基地」にすぎん。 @阿波
>纏向遺跡から、読み取れます。by
アホか。 纏向遺跡は、「忌部はん」の「古墳造営前線基地」にすぎん。 @阿波
946日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:40:07.35 仏教 取り入れてたのも
そういう下地があった土地だったかもしれません by
そういう下地があった土地だったかもしれません by
947日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:41:15.60 狗邪は、巨済島なのだが、狗奴国にも邪馬壹国にも支配されていた可能性が、あるな。
948日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:44:41.96 >>947
倭人は、巨済島以外にも、朝鮮半島を支配していた可能性が、高いのだったね。
倭人は、巨済島以外にも、朝鮮半島を支配していた可能性が、高いのだったね。
950日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:50:51.35 高句麗に滅ぼされた楽浪帯方漢人系の百済人の秦氏、東漢氏が最初だろ
ただし縄文末に渡来定着した弥生人は半島系じゃないぞ
朝鮮土器を全く作らない沿海州系土器を作る人々
ただし縄文末に渡来定着した弥生人は半島系じゃないぞ
朝鮮土器を全く作らない沿海州系土器を作る人々
951日本@名無史さん
2021/01/23(土) 12:57:02.93 >>950
後の鏡職人になります。by
後の鏡職人になります。by
952日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:02:46.00 >>944
>纏向遺跡から、読み取れます。by
アホか。 纏向遺跡は、「忌部はん」の「古墳造営前線基地」にすぎん。 @阿波
>纏向遺跡から、読み取れます。by
アホか。 纏向遺跡は、「忌部はん」の「古墳造営前線基地」にすぎん。 @阿波
953日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:03:54.71 邪馬台国の場所がどこかを考えるより纒向遺跡や古墳調査にリソース使った方がいいと思う
954日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:07:42.699561 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/01/23(土) 13:17:30.19 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1611372898/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1611372898/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
957日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:20:51.43 >>955
そういう事です by
そういう事です by
958日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:23:28.33959日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:31:04.25 畿内のヤマト説や、九州のヤス・フル説は
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引猪突猛進で、北東の糸島・博多・宇美方向へ 憑き進んだのではないかな、
魏志倭人伝の東南や、魏略の東南や、廣志の東南は、出発方向の説明であって途中説明ではないと自己弁護し、
そして自分らの説に合うよう、強引猪突猛進で、北東の糸島・博多・宇美方向へ 憑き進んだのではないかな、
960日本@名無史さん
2021/01/23(土) 13:32:35.88 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
961日本@名無史さん
2021/01/23(土) 14:20:23.79962日本@名無史さん
2021/01/23(土) 14:21:49.11963日本@名無史さん
2021/01/23(土) 15:21:41.71 >>962
そんな変な書き方が人類の常識だという根拠が一切ないな
そんな変な書き方が人類の常識だという根拠が一切ないな
964日本@名無史さん
2021/01/23(土) 15:23:25.55 倭人伝の狗邪韓国の狗邪はクヤの発音。
魏略では拘邪と書いてあり、この発音もクヤである。
このクヤ(狗)は、カヤ(伽耶)の現地音を漢音に音写したものとされる。
カヤ(伽耶)はカラ(加羅)の変化したものとみられ、語頭のカ音は同じである。
そうすると、漢音のクヤ(狗邪)は原音のカヤの忠実な音写ではなく、
カ音を野蛮の意を持つ狗(ク)音に変えたものだとすることができる。
このこのように、倭人伝と魏略のクヤが現地音のカヤを野蛮の意を表すために語頭音をわざわざ変えたものだとすると、
倭国のヒミコ(卑弥呼)のヒ(婢)音も邪馬台国の現地音を忠実に音写したものではない可能性が高くなる。
そして、倭国の女王ヒミコ(卑弥呼)と狗奴国の男王ヒミクコ(卑弥弓呼)の名は、ヒミクコ(卑弥弓呼)のク(狗)を取り除けばまったく同じヒミコ(卑弥呼)となることから、
ヒミコ(卑弥呼)は日巫女の意であるとする通説は誤りである可能性が出てくる。
ヒミコの語頭のヒ(卑)はクヤカンコク(狗邪韓国)のク音の場合と同じく、野蛮の意を表すために現地音をヒ(卑)音に変えたものであることが考えられるのだ。
では、卑弥呼がいた邪馬台国の現地音は、どのような発音がなされていただろうか。
女王と男王はともにシャーマン(祭祀者)だった可能性が高いことからして、清めた所(祭祀所)の意のイミコ(斎み処)がその現地音の呼称だったと思われる。
天皇の宮の門である御門(ミカド)が天皇自身の呼称となったように、斎み処(イミコ)が倭国などの最高祭祀者の呼称となっていたとすることは妥当だ。
そして、その斎み処(イミコ)を魏の役人が野蛮の意を持つ呼称に変えたのが卑弥呼(ヒミコ)ということになる。
このように、狗邪韓国(クヤカンコク)のケースを考えると、卑弥呼(ヒミコ)は現地発音ではヒミコではなく別の発音がなされていて、それは斎み処(イミコ)だったということになってくるのである。
これは、おそらく間違いないだろう。
真実の歴史が今、あざやかに幕を開けたといえる。
魏略では拘邪と書いてあり、この発音もクヤである。
このクヤ(狗)は、カヤ(伽耶)の現地音を漢音に音写したものとされる。
カヤ(伽耶)はカラ(加羅)の変化したものとみられ、語頭のカ音は同じである。
そうすると、漢音のクヤ(狗邪)は原音のカヤの忠実な音写ではなく、
カ音を野蛮の意を持つ狗(ク)音に変えたものだとすることができる。
このこのように、倭人伝と魏略のクヤが現地音のカヤを野蛮の意を表すために語頭音をわざわざ変えたものだとすると、
倭国のヒミコ(卑弥呼)のヒ(婢)音も邪馬台国の現地音を忠実に音写したものではない可能性が高くなる。
そして、倭国の女王ヒミコ(卑弥呼)と狗奴国の男王ヒミクコ(卑弥弓呼)の名は、ヒミクコ(卑弥弓呼)のク(狗)を取り除けばまったく同じヒミコ(卑弥呼)となることから、
ヒミコ(卑弥呼)は日巫女の意であるとする通説は誤りである可能性が出てくる。
ヒミコの語頭のヒ(卑)はクヤカンコク(狗邪韓国)のク音の場合と同じく、野蛮の意を表すために現地音をヒ(卑)音に変えたものであることが考えられるのだ。
では、卑弥呼がいた邪馬台国の現地音は、どのような発音がなされていただろうか。
女王と男王はともにシャーマン(祭祀者)だった可能性が高いことからして、清めた所(祭祀所)の意のイミコ(斎み処)がその現地音の呼称だったと思われる。
天皇の宮の門である御門(ミカド)が天皇自身の呼称となったように、斎み処(イミコ)が倭国などの最高祭祀者の呼称となっていたとすることは妥当だ。
そして、その斎み処(イミコ)を魏の役人が野蛮の意を持つ呼称に変えたのが卑弥呼(ヒミコ)ということになる。
このように、狗邪韓国(クヤカンコク)のケースを考えると、卑弥呼(ヒミコ)は現地発音ではヒミコではなく別の発音がなされていて、それは斎み処(イミコ)だったということになってくるのである。
これは、おそらく間違いないだろう。
真実の歴史が今、あざやかに幕を開けたといえる。
965日本@名無史さん
2021/01/23(土) 15:30:14.97 >>964
いくら発音がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
いくら発音がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
966日本@名無史さん
2021/01/23(土) 15:32:17.54 魏志倭人伝が編纂された3世紀の終り頃は台与が倭国の女王に在位していた
その後ほぼ一世紀が空白の時代となる
この間に台与かその後継者の時代に日向国から神武が東征をし邪馬台国の後裔を征服したものだろう
私自身は台与の時代は平穏に過ぎその後継者の時代だと思う
なぜなら、神話に残る卑弥呼を土台とした皇祖神のイメージは尊敬・敬愛の対象で損なわれていないから
神武が少数の軍事力でこの転換を成し得た背景には、天候の悪化などによる凶作で国力の低下があったと想像する
卑弥呼と台与の時代の安定は農業政策が成功していた証しだと思う
その後ほぼ一世紀が空白の時代となる
この間に台与かその後継者の時代に日向国から神武が東征をし邪馬台国の後裔を征服したものだろう
私自身は台与の時代は平穏に過ぎその後継者の時代だと思う
なぜなら、神話に残る卑弥呼を土台とした皇祖神のイメージは尊敬・敬愛の対象で損なわれていないから
神武が少数の軍事力でこの転換を成し得た背景には、天候の悪化などによる凶作で国力の低下があったと想像する
卑弥呼と台与の時代の安定は農業政策が成功していた証しだと思う
967日本@名無史さん
2021/01/23(土) 15:37:45.79 >>966
北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
北史倭国伝
「正始中、卑彌呼死、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命」
>正始中、卑彌呼死
「卑彌呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
>卑彌呼死、更立男王
その男王とは「須佐之男命」
>卑彌呼宗女臺與
その臺與とは「神武天皇」の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
>其後復立男王
その男王とは「神武天皇」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
968日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:03:37.58 1C末:神武
2C初め:綏靖(帥升)
2C後半:孝昭、倭国大乱に
190年頃:卑弥呼(宇那比姫)共立
249年頃:孝霊(侵略王フトニ)即位
266年:臺与(百襲姫=フトニの娘)、晋に朝貢
331年:崇神没
370年:景行没
37?年:成務没
380年:仲哀没
389年:神功没
430年:応神没
2C初め:綏靖(帥升)
2C後半:孝昭、倭国大乱に
190年頃:卑弥呼(宇那比姫)共立
249年頃:孝霊(侵略王フトニ)即位
266年:臺与(百襲姫=フトニの娘)、晋に朝貢
331年:崇神没
370年:景行没
37?年:成務没
380年:仲哀没
389年:神功没
430年:応神没
969日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:06:27.43 >>968
たわごとは聞き飽きた。 @阿波
たわごとは聞き飽きた。 @阿波
970日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:13:57.60 箸墓の伝承が異常だよな、昼は人がつくり夜は神が作ったとかさ
それに巨大古墳に女性が埋葬されること自体も異常な感じがする
魏志倭人伝読んで卑弥呼の墓と言う設定にしたとしか思えんわ
それに巨大古墳に女性が埋葬されること自体も異常な感じがする
魏志倭人伝読んで卑弥呼の墓と言う設定にしたとしか思えんわ
971日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:17:57.63 >>970
>それに巨大古墳に女性が埋葬されること自体も異常な感じがする
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。
神は山稜に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波
>それに巨大古墳に女性が埋葬されること自体も異常な感じがする
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。
神は山稜に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波
972日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:20:25.32973日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:22:20.19974日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:22:34.88 >>972
>神武は東征の最初から奈良にある政権を倒すことを目標にしていた
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
>神武は東征の最初から奈良にある政権を倒すことを目標にしていた
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
975日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:24:06.93 266年に即位して晋に朝貢した臺与の次の男王はタイムスケジュール的に考えて
4C前半の崇神
崇神と来たら百襲姫
つまり百襲姫の生前の本名は臺与で、後に崇神に譲位して上皇として連名で
晋に朝貢してともに爵位を賜った事実が伺える
4C前半の崇神
崇神と来たら百襲姫
つまり百襲姫の生前の本名は臺与で、後に崇神に譲位して上皇として連名で
晋に朝貢してともに爵位を賜った事実が伺える
976日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:30:36.56977日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:31:28.01 >>975
266年に即位して晋に朝貢した臺与(豊玉比売命)の次の男王はタイムスケジュール的に考えて
神武天皇。 @阿波
266年に即位して晋に朝貢した臺与(豊玉比売命)の次の男王はタイムスケジュール的に考えて
神武天皇。 @阿波
978日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:33:26.57 >>976
八女山門には「邪馬臺国」にふさわしい集落遺跡がない。
諦めたまえ。 わははははは @阿波
八女山門には「邪馬臺国」にふさわしい集落遺跡がない。
諦めたまえ。 わははははは @阿波
979日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:35:12.48980日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:38:14.33 >>973
以前は秦氏は新羅系との見方が有力だったが、ここ最近では百済系との見方も有力らしい
まあ、どちらかだろうけど
単に列島内ではO1b2a1a1が選択されて、それ以外のOは減少したり消滅しただけの話だろ
列島のO関係はすべて沿海州から入っている
半島から朝鮮帰化人が来たときにはすでにOは本州中に広がっていて、
O1b2a1a1が選択されている段階だよ
以前は秦氏は新羅系との見方が有力だったが、ここ最近では百済系との見方も有力らしい
まあ、どちらかだろうけど
単に列島内ではO1b2a1a1が選択されて、それ以外のOは減少したり消滅しただけの話だろ
列島のO関係はすべて沿海州から入っている
半島から朝鮮帰化人が来たときにはすでにOは本州中に広がっていて、
O1b2a1a1が選択されている段階だよ
981日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:39:01.15 >>979
>箸墓は寿陵であって、崇神の墓だよ。
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。
神は山稜に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波
>箸墓は寿陵であって、崇神の墓だよ。
そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。
神は山稜に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波
982日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:39:04.51983日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:43:46.56984日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:45:17.56 >>981
阿波となんとかは、高いとこが好きらしいからな。
阿波となんとかは、高いとこが好きらしいからな。
985日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:45:53.46986日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:48:11.40 >>983
いくらY染色体がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
いくらY染色体がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
987日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:50:14.15 >>984
神は山稜を好む。 おまえは平民だから、低地の沼地を好む。 わははははは @阿波
神は山稜を好む。 おまえは平民だから、低地の沼地を好む。 わははははは @阿波
988日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:53:30.13 >>979
確かに箸墓を作ったのは崇神だな
ただ百襲姫のために作ったもので自分のものではない
なぜ百襲姫のために作ったのか?
百襲姫が臺与で、百襲姫から譲位されて自分が大王になってるから
それだけじゃない
謀反を事前に予知して崇神が命拾いしたのも百襲姫のおかげ
崇神にとって百襲姫は大王の手本であり、命の恩人でもある存在
確かに箸墓を作ったのは崇神だな
ただ百襲姫のために作ったもので自分のものではない
なぜ百襲姫のために作ったのか?
百襲姫が臺与で、百襲姫から譲位されて自分が大王になってるから
それだけじゃない
謀反を事前に予知して崇神が命拾いしたのも百襲姫のおかげ
崇神にとって百襲姫は大王の手本であり、命の恩人でもある存在
989日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:54:51.06 >>988
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
トンデモよ、いい加減にしとけ! @阿波
990日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:57:15.88 神武が奈良の勢力を武力制圧して橿原に都を置いたというのは、大河ドラマ。
神武とされる人物は崇神・応神がモデルだが、その崇神・応神は奈良の政権の招請により、
南九州阿多から瀬戸内海を経て、難波、河内、龍田、橿原へと入り、大歓迎されて最高祭祀者の座についた大シャーマン。
崇神が南九州阿多から戴いて来た日神は火とつながっており、
崇神が橿原に宮を置いたのは畝傍山が火の神の聖地だったから。
これが歴史の真実。
神武とされる人物は崇神・応神がモデルだが、その崇神・応神は奈良の政権の招請により、
南九州阿多から瀬戸内海を経て、難波、河内、龍田、橿原へと入り、大歓迎されて最高祭祀者の座についた大シャーマン。
崇神が南九州阿多から戴いて来た日神は火とつながっており、
崇神が橿原に宮を置いたのは畝傍山が火の神の聖地だったから。
これが歴史の真実。
991日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:58:51.45 九州には「阿毎」一族が残る。
邇邇芸、伊奘冉等の文字から
官名や国名に当てる。
逆に魏志等を基に記紀を製作したかも?by
邇邇芸、伊奘冉等の文字から
官名や国名に当てる。
逆に魏志等を基に記紀を製作したかも?by
992日本@名無史さん
2021/01/23(土) 16:59:46.32993日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:01:45.65994日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:02:45.65 >>992
無理無理。
無理無理。
995日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:04:55.89 >>994
確かにおまえの中卒脳では遺伝学は無理無理w
確かにおまえの中卒脳では遺伝学は無理無理w
996日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:07:26.65 >>980
新羅、百済ならすぐ正体がばれるから、それはないだろう。
新羅、百済ならすぐ正体がばれるから、それはないだろう。
997日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:07:59.94 >>992
いくらY染色体がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
いくらY染色体がどうたらこうたら言ったところで、「邪馬臺国」にはたどり着けまいて。 @阿波
998日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:08:11.40 >>995
おぬしは脳卒中だろ。
おぬしは脳卒中だろ。
999日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:09:30.24 本来、神武はモーゼみたいなもんだったかも by
1000日本@名無史さん
2021/01/23(土) 17:09:56.1010011001
Over 1000Thread このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 0時間 5分 5秒
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