0001日本@名無史さん2021/03/10(水) 16:36:13.41
立教大学志木キャンパスにある演劇サークルは
劇団志木
というんだよな
0953日本@名無史さん2022/04/18(月) 17:40:47.16
うちの家は江戸時代から曹洞宗なんだが、祖父が自分の妻(つまり自分の祖母)が死んだときに、
何を考えたのか臨済宗の寺に墓を作ってしまったようだ(その時すでに故郷を離れていた)。
もちろん、亡き祖父もその臨済宗の寺に葬られている。
たぶん祖父が禅宗としか記憶していなかったから起こった間違いだと思うが、
こんなやらかし、よくあるものだろうか。
0954日本@名無史さん2022/04/18(月) 17:42:52.33
>>953
つまり自分の祖母→つまり私の祖母
です。 0955日本@名無史さん2022/04/18(月) 18:03:21.34
>>953
そういえば、20年ほど前に明治初期の高祖父とその後の曾祖父墓の墓じまいをしたんだが、
甕棺墓だったと聞いた。つまり土葬だったんだね。当然火葬だと思っていたんで、ちょっと驚いた。
まあこういうのは、地域にもよるだろうけどね。 宗派でふと思った
家は曹洞宗なんだが先祖の墓に刻まれた戒名見ていると2人(どっちも女性)だけ真宗の戒名がいたな
その他の先祖は男女とも曹洞宗の戒名だし宗門改を見ても初代から菩提寺は曹洞宗の寺院なんだよ
真宗信徒を嫁に貰ったと考えたが普通は嫁ぎ先の宗派に改宗するよな?謎だわ
転籍を繰り返している人の戸籍を集めているのですが
死亡時の戸籍 (コンピュータ化後
改製原戸籍
↓
転籍していたので除籍謄本
↓
さらに転籍がわかり県外に従前戸籍請求予定
何度転籍しているのか、出生時の本籍がどこだったのかわかりません
役所に出生からの戸籍がそこにあるか調べて欲しいときなんと手紙をかけばよいでしょうか?
>>957 そのまま素直に問い合わせれば?
全ての転籍の履歴が現戸籍に書かれてる気がするけど、そうで無ければ転籍前の戸籍を聞いて辿っていくしかないね。 >>958
ありがとうございます
>全ての転籍の履歴が現戸籍
そうなんですか?
コンピュータ化後の横書きの戸籍謄本には全然書いてなかったです
従前戸籍も書いてなかった なんとか村から転籍、と記載があればそのなんとか村の今の役所に請求、というふうに辿っていくしかないのでは?
家の父方の祖母は、自分は臨済宗南禅寺派の寺の娘なのに、父方の家の浄土宗知恩院に死後入った。
>>957 >>959
全ての転籍履歴は書いていないよ
出生地は書いてあるから推測が可能な場合もあるけど、本籍地とは限らないので絶対ではない
手紙で問い合わせる意味は余りないと思う
請求権者であることの確認ができなければ通常答えてくれないし、確認書類を送るならそのまま請求した方が早い
中間を飛ばして出生時の戸籍が欲しいということかも知れないけど、
出生地の役所としてもそこに繋がる戸籍を示さなければ開示できない
尚、何らかの理由で二つ以上前の本籍地が書かれている場合は飛ばして請求できることもある
例えば、一旦他の家の戸籍に入籍したが離婚や離縁をして復籍した場合、その間の戸籍は飛ばせる >>956
その二人の女性は寺に入って死んだんじゃないかな。
昔は死期が近づくと寺に入って、そこで死ぬという形で身の始末をする人がけっこういた。
今のホスピスみたいな面もあったんだろうが、家族に迷惑をかけたくないとか、身寄りがない
とか、いろんな事情があったんだろう。純粋な信仰心からそうする人もいただろう。
寺で死ねば経をあげてもらい、それが葬式ということになる。頼めば戒名もつけてもらえた
はずである。その後骨になって引き取られていくんだろう。
死ぬための参籠を受け入れている寺があって、紫式部は石山寺のそういう僧坊で源氏物語を
書いたと言われている。
参籠というのは普通は広い一室に雑魚寝なんだが、個室もあったのだろう。
そういう寺で死ぬときには、阿弥陀仏の指に糸を結んで自分の部屋まで引いてくれ、
その糸にすがりながら往生するんだそうだ。
赤穂浪士の妻だか母親だか、浪士切腹後に残されて、寺に入って死んだ人が二人ぐらいいる
はずである。そんな話を読んだことがある。
南極探検の白瀬矗という軍人がいるが、あの人の妻も寺に入って死んだそうだ。
白瀬隊長が南極探検から帰ってきたら、寄付金を納めた貯金がなくなっていた。
貯金をあずかった後援会の誰かが引き出してしまったらしい。
それで隊員の給料を自分が立て替え、その借金を返すのにほとんど終生を費やした。
そもそも白瀬という人は軍に対する不満を新聞に投書して予備役に回された人だった。
予備役は暇なので南極探検などということもできたのだが、給料はすずめの涙である。
若いときからそういう状態で、しかも借金を背負ったのだから、赤貧洗うがごとき生活だった。
白瀬本人は昭和21年に85歳で死んだ。晩年は軍人恩給で暮らしていたが、敗戦後軍人の
恩給は切られた。それで生きていく気力を失ったのかも知れない。
次女の間借り先の部屋で死んだ。葬儀の祭壇は蜜柑箱で、その上にかぼちゃが二つ、
茄子がいくつか、うどんの乾麺が一束乗っていたという。
妻の「やす」という人は昭和26年に亡くなった。
病気になり、寺に入って死んだのだという。本人がそうすると言って聞かなかった。
愛知県の今の豊田市のあたりらしい。
その頃までは往生のための寺も存在したということになる。 0967日本@名無史さん2022/04/20(水) 19:11:30.40
都内に引っ越してきた家庭ならよくあるだろ
うちの母なんて都内に住んでたから縁もない父方の田舎の墓に入るのは嫌だと言って、自分の実家の墓に入ってるし。
>>966
>長文はやめて欲しいな
無駄な書き込みするなボケ
>>967
よその墓に入ったなら墓石に戒名刻まれてないだろ
>>956 見ると
>先祖の墓に刻まれた戒名見ていると
と書いてある。 0969日本@名無史さん2022/04/20(水) 19:54:48.63
戒名刻まれてるよ…実家だし
>>969
だから実家の墓に刻まれてるんだろ・・・実家だし >>959
待った
全ての転籍履歴なんて勿論書いていないが、従前戸籍もないということはあり得ない
それは見逃しているだけだろう >>967
お前のお母さんは夫の田舎の家の墓に入るのなんか嫌だと言って自分の実家の墓に入ったんだろ。
だったら夫の家の墓に戒名が刻んであるわけがなかろうが。
お骨入れてないのに戒名だけ刻むなんてありえない。 >>971
マイナンバーカードでコンビニでとれる「戸籍全部事項証明」のほうには書いてなかったんです
戸籍事項のとこにも身分事項のとこにも
あと親が離婚してるけど離婚や婚姻のことも載ってなかったです
でも「原戸籍」のほうを見たら従前の戸籍も婚姻離婚も載ってました 真宗の戒名は 男なら 釋○○ 女なら 釋尼○○
なお、真宗では戒名とはいわず「法名」というんだそうだ。
戒名というのは、戒律を守って修行を行いますという誓いを立てて授かる名前。
出家するときに師匠である僧(導師という)につけてもらう。
この出家の儀式と戒名をつけるという行為を、死んだ人の供養に転用したのが葬式なのだ。
浄土真宗では戒律はない。
戒律など守れない弱い人間でも阿弥陀様は救って下さる。
人間は阿弥陀様を信じておすがりすればよい。それだけで成仏できる。
そういう教義だから真宗には戒律はない。
戒律は無いから戒名も無いのである。
法名とは、親鸞上人の教えに随い阿弥陀信仰を持って生活する人、を表す名前である。
だから法名は死後に与えられるものではなく、生きている間に授かるものである。
北陸などでは子供のときに入信の儀式があり、その時点で法名が与えられた。
おかみそり(帰敬式)という儀式であるが、一部だけ髪を剃ったり切ったりした。
今は剃刀を当てるだけのことも多いらしい。
生きて間に法名を授かっていなかった人は葬式のときに地元の僧侶から法名を
つけてもらうことになる。
築地本願寺 帰敬式(ききょうしき)の宣伝
https://www.youtube.com/watch?v=HdS6jFnwAog
やたら法名は生きてる間にいただくもの、と強調している。
上記、死ぬために真宗寺院に参籠する人は、(その時に法名がなければ)お寺に入る段階で
法名を貰うらしい。生きている間にもらうのが原則だからである。 婚姻の件は、改製前に離婚していたのならば通常書かれない
従前戸籍の件も、改製前に筆頭者が死亡していたならばその人に関しては書かれないことが多い
それ以外の人に関しては書かれることも書かれないこともあるようである
以上のどれも、規定では「省略することができる」となっているので理論上はどちらも可能
>>973
ということで改製の場合に従前戸籍が書かれないことはあり得る
訂正してお詫びします 俺の経験では戸籍にどの項目を表示するかは、かなり係の人間の考え方が反映する。
通り一遍の憲法教育でプライバシーだの人権だの教え込まれ、情報を出さないのが
正しいと誤解してしまっている公務員がいる。
そういう奴は最低限必要な事項以外は出さない。
戸籍謄本なのに戸籍抄本と変わらないようなものまである。
俺は女房に頼まれて戸籍謄本を取りに行ったら、俺だけが載っており女房の方は
真っ白の謄本を渡されたことがある。
文句言ってやり直させたが。
コンビニで取れるような謄本だとほとんど何も載ってないんじゃないか。
こういう場合、戸籍の窓口まで行って、こうこうこういう用件だからこの項目はちゃんと
表示してくれと言わないとダメだろう。
真宗の戒名は 男なら 釋○○ 女なら 釋尼○○
なお、真宗では戒名とはいわず「法名」というんだそうだ。
戒名というのは、戒律を守って修行を行いますという誓いを立てて授かる名前。
出家するときに師匠である僧(導師という)につけてもらう。
この出家の儀式と戒名をつけるという行為を、死んだ人の供養に転用したのが葬式なのだ。
浄土真宗では戒律はない。
戒律など守れない弱い人間でも阿弥陀様は救って下さる。
人間は阿弥陀様を信じておすがりすればよい。それだけで成仏できる。
そういう教義だから真宗には戒律はない。
戒律は無いから戒名も無いのである。
法名とは、親鸞上人の教えに随い阿弥陀信仰を持って生活する人、を表す名前である。
だから法名は死後に与えられるものではなく、生きている間に授かるものである。
北陸などでは子供のときに入信の儀式があり、その時点で法名が与えられた。
おかみそり(帰敬式)という儀式であるが、一部だけ髪を剃ったり切ったりした。
今は剃刀を当てるだけのことも多いらしい。
生きて間に法名を授かっていなかった人は葬式のときに地元の僧侶から法名を
つけてもらうことになる。
築地本願寺 帰敬式(ききょうしき)の宣伝
https://www.youtube.com/watch?v=HdS6jFnwAog
上記、死ぬために真宗寺院に参籠する人は、(その時に法名がなければ)お寺に入る段階で
法名を貰うらしい。生きている間にもらうのが原則だからである。 >>977
原本には書いてあるのに、それを省略して謄本だの全部事項証明だの言っているということ?
それは流石に違法なのでは
それとも指摘されてから原本に書き加えたか? 0981日本@名無史さん2022/04/24(日) 15:47:27.22
だから後北条は多摩川沿いの新田開発に注力したのでは?
新田開発する人ってどこから募集するものなんだろうな
先祖は江戸時代に開発された富山のある村出身なんだがその村に移住する前はどこにいたのか分からない
郷土資料読んだら大阪や山形など全国から集まってきてたみたい
付近には先祖と同じ名字の家が数件くらいあるんだが小さい村だし恐らく同族。言い伝えがないか聞いてみたいが高祖父の代に北海道に移住したから今は他人同然で怪しまれるだろうし難しい
村落の寺も廃寺になってて荒れてたし原戸籍も残ってないと言われたしもうこれ以上は無理か
>>982
>郷土資料読んだら大阪や山形など全国から集まってきてたみたい
その村の村民が全国から集まってきた者で構成されていたって意味ね
代々富山だと思ってた先祖が実は他府県から移住してきたとかだったら面白いのにそれを知れないのがもどかしい 新田開発というのは、はじめから新田を作り出すことだけを目的として行われることは少ない。
たいがいは河川の改修とか開削事業が先にある。
河川工事が完了すると、今度は周辺での開拓が始まるわけだ。
例えば利根川の河床付け替え工事では、利根川が今のように銚子の方面に流れるようになった後、
それまで大湿地帯だった羽生から五霞町、関宿や野田などの流域が開発されていった。
その後、利根川の関宿・境町のあたりからさらに江戸川が開削されると、今度は江戸川流域の
開拓がはじまる。
幸手や粕壁(春日部)、流山などに新田が作られていくわけだ。
河川工事にはたくさんの人足が集まる。その人足は遠くからやってきた人足稼ぎの渡世人が多い。
その他に現場周辺の農家の二男や三男なども日傭稼ぎに出てくるが、数はそれほどでもない。
河川工事の主体は、工事の規模が大きいほど人足たちが中心になる。
飯場(はんば)を作って集団で管理しながら働かせるわけだ。
大人数の動員は都会の方が便利だから、人足は都市で集められて送り込まれることが多かった
のではないか。
周辺の新田開発となると今度は逆になる。
大部分は周辺の農民である。
開拓は江戸の大商人が金を出し、入植者たちが組合をつくって行う。
周辺の農村の二男三男の方がまとまりもよく、新しく村を作るには適しているに決まっている。
そもそも開拓に入るには数年の無収入を覚悟しなければならず、ある程度の資金力が必要だった。
しかしよそから来た人足でも働きぶりのよい者もいたのだろう。
流しの渡世人もいないことはなかった。
一例をあげよう。
利根川の河川工事が進むと、下流の方でも附属工事などが行われるようになった。
新利根川の開削工事などがそうである。
茨城県の取手のさらに下流、今の利根町や河内町のあたりである。
今は広大な水田の広がる農村地帯であるが、昔は高台の布川のあたりに人が住み、
傾斜地の棚田を耕している程度であった。
そこから東は一面の葦原であった。
人間の手が入るなど考えることすら出来ない土地であった。
そういう場所に川を通し、土手を築き、水を霞ヶ浦に落として両岸の土地を干し上げ、
芦を刈り、根を掘り上げ、土を運び入れ、水田にしたのである。
川を開鑿し水田を拓いたのはどのような人たちだったのか。
興味深いことに、地名からそれが分かるのである。
新利根川に接する地区は両岸にそれぞれ二つづつある。
集落側(南岸)に手栗新田、庄布川新田。対岸に羽子騎新田、古河林新田である。
変わった地名だが、どうしてこのような地名になったのか。
まず、手栗は幸手・栗橋を合わせた地名。(こうした地名を合成地名という)。
栗橋はかつて日光街道の宿場町で、日光街道を来た旅人たちが舟で利根川を渡る
渡し場のある町だった。関所もあった。栗橋関は日光街道唯一の関で、日本三大関所
の一つである。
もちろん利根川が東遷するまではここに利根川は無いのだから、渡し場や関所が
できたのは東遷工事後のことである。
利根川を渡る渡し場(房川渡、ぼうせんわたし)が設けられたのと関所が設置されたのは
同時である。
庄布川(しょうぶがわ)は、下総国葛飾郡にあった庄内藩領の庄の字と、
布河(布川、現利根町)をくっつけたもの。
下総国葛飾郡庄内藩領は江戸川右岸の43ヶ村であった。
後の北葛飾郡庄和町を中心とする地域。
江戸時代には地名として「ショーナイ」と呼ばれていたようである。
下総であるから本来は千葉県のはずだが、明治八年に千葉県から埼玉県に移管された。
庄内町は現在春日部市の一部となっている。
春日部市の東端、野田市に隣接する地域である。
幸手市の南、野田市の関宿も近い。
羽子騎(はねき)は現在埼玉県の羽生市の羽の字に子(ね)をつけて
羽子(はね)と読ませた上、騎西の騎をつけたものである。
「羽騎」ではどう読むのか分からないから、後から「子」の字を入れたのだろう。
騎西町は現在は加須市の一部で、羽生市の南側にある。
古河林(こがばやし)は、茨城県古河と群馬県館林の林をくっつけたものである。
要するに、現在の地名で言うと、埼玉の幸手・栗橋という同一地域から来た農民たちが
拓いたのが手栗新田。
北葛飾郡庄和町と地元の布川の農民たちが拓いたのが庄布川新田。
埼玉の羽生市と騎西町という同一地域から来た農民が拓いたのが羽子騎新田。
茨城県古河と群馬県館林という同一地域から来た農民たちが拓いたのが
古河林新田である。
総括。新田開発というのは河川の工事が終わった後に、川の周辺の付随的工事として
行われるもので、入植者はほとんどは地元の農民である。
現在の感覚だと、埼玉の幸手だの羽生だのといったところと茨城の利根町河内町というのは
かなり離れているように思える。
しかし、川船という水運を使えばおそらく一時間ぐらいのものだったろう。
おそらく、利根町・河内町が今の埼玉の村民を主体として開かれたのは、以下の理由による。
上流の羽生や関宿方面で長年河川工事や新田開発が行われたことで、工事に慣れきった村人が
多くなった。しかし彼らのすべてが自分の田を持てるようになるわけではない。
そこで、河川工事があればすかさず参加し、後の入植要員に選んでもらえるよう努力したのだろう。
上流部での開拓の勢いが下流に波及したということである。
流石にここまでの長文は読みたくないな、 元ネタのURL を貼れば済む話でしょ、
>>988
どこかネット上に元ネタがあると思ってるんだw
高卒は気楽だな 0992日本@名無史さん2022/04/25(月) 23:08:48.10
文章は中卒だな
長文だからというだけで読み辛いわけではない
文章が下手だから読み辛いのだ
要約能力がなく話題に関係ない無駄なことまで長々と書く癖は直さないといけない
間違いだらけで指摘されても直さないのは特に悪い
間違いを強引に押し通そうとするのは学問ではない
>>992
お前は言ってることがおかしい。文章は元ネタそのままかも知れんぞw
早く元ネタ出してみろボケ
そもそもお前の長文イヤンの書き込みでどんだけスレを消費してんだ?
お前だけだぞ、こんなこと書き込んでんのは
学校行ってないからまとまった文章が読めないんだよ
てめえが書き込むときは一本指打法で一行だろw どうしようもないな
5ちゃんは卒業しろ。
早いとこご先祖様のところに行った方がいいんじゃないか >>993
お前こそズレてる。
俺が書いたことは >>982 の質問にピッタリじゃないか
お前はそれに一行も加えることができず、揚げ足をとろうにも
とるだけの知識がない。
それで苦し紛れに文章が下手だとか要約能力がどうしたとか
糞みたいな悪口を書くしかなくなるわけだ。
内容的に反駁できなければ駄目だよ
学校へ行けなかったのは親のせいか?
それでも優秀なら道はあったはずだ。
結局アタマが人並みじゃなかったってことだよ
親と先祖を怨むしかないな。俺に当たるな >>982 のレスを補足
江戸時代の農家の二三男というのは外に働きにでるか、家に残って作男みたいになるか、
そういった選択肢しか無かった。
だから開拓→自作農になるチャンスがあればそれに飛びつくに決まっている。
目の前に開拓予定地があって、そこに開拓民として入植できるとなれば、むざむざ他人に
渡そうとは思わないだろう。
領主の側としても、河川工事に来た流れ者や渡世人の土方なんぞに土地を与える理由はない。
元々の領民に開拓させた方がいいに決まっている。
だから開拓するのは地元の住民だ。
地元といっても、水運による移動があるのでやや遠隔の村から来ることもあろうが、さほど
遠いところからは来ない。
また入植は団体で行う。開拓が成功すればそのまま村になる。
だからもともと気心が知れ合った仲間で開拓地jに入るのだ。
遠い大阪から来た人足を入植させるなど、この意味からもあり得ない。
入植して米が作れるようになると、三年ぐらいは作り取り(年貢無し)などの特権があったようだ。
それならそっちの方がいいやというので、地元の村が村ごと開拓地の方に移住してしまったと
いう例まであったらしい。
ということで、あなたのご先祖は遠いところから来た人ではないと思う。 「戸主」が出てくる大正の戸籍とったが書かれてる字がぐちゃぐちゃでわからないよ!
生年月日とか住所がよめねえ
0998日本@名無史さん2022/04/26(火) 12:54:31.61
だからパソコン入力時に間違いが多かったんだよ。
役場の係の人間の質によるんだろうな。
うちの戸籍は明治初めから始まり戸主も書かれているが、戦後苗字は当用漢字にしないといけないと言う話になって、旧字から当用漢字に変更した。
取り寄せた戸籍は全て当用漢字版になってたから戦後書き直されたものと思われる。
文政8年(1825年)生まれの高祖父までは生年月日がわかるが、その上の高曽祖父の生年月日は書かれていない。1700年代後半か1800年代初めだろうけど。
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