先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ ていっても先祖探しするなんて大抵先祖が侍か庄屋ぐらいだろ。 >>3
俺の家は農民だが先祖調べてる
ぜーんぜん楽しくない >>4農民っても小作人じゃ記録はほとんどないだろうし、自作農なら家系辿っていくと
本家は庄屋だろうしな。庄屋排除はどうなんだろうか? 庄屋基地外はただマウンティングしたいだけだからな
武士を馬鹿にしたり
皆から嫌われて当然だ
百姓の子孫のくせに謙虚さが無い >>3 から>>6 は庄屋馬鹿の自演?
庄屋馬鹿なんかどうでもいいんだって。とりあげる意味もない。みんなそう思ってる。
だからお前は書き込むな。 江戸時代直前まではわかるが、それよりも前はわからんな。 >>7先祖は武士のみとかに限定したら?農村の頂点たる郷士・名主は農村を調べれば
必然的に登場してしまう 代々伝わる話は幾つかあるけどあまり古い時代の事は判らない >>9
>農村の頂点たる郷士・名主
ただの農民だよ ↑
こういうのも自演。だんだんそっちの方へ持って行く、と・・・・w 農家、農民の先祖・・・『神農』?
日本にも伝わっている、渡ってきているの?
話、伝承なども同じでしょ?
凄い上のほうの存在 浦島太郎・・・、
本当は河伯、日本では河童でしょ?
・・・・・・・『神仙界』 今更だか、スレタイに誤植がある。
誤→先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る
正→先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る
次からは必ず訂正しておくように。 書き間違い、あるいは誤変換を誤植とは言わないだろ
今更だが>>15 の知能に問題がある。
次からは日本語の分かる人にチェックもらうように 昔って、子供作りすぎたから貧乏なんて事情ザラにあったのかな?
うちの曾祖父の弟は10人子供がいたんだけど、皆健康に育って幼児死亡がいないの。
結果養えなくて兄である曾祖父が交代で何人かずつ預かって面倒見たらしい。曾祖父は7人子供がいるが半分は早死にした。 >>18
和同開珎あるじゃん
流石に江戸時代に銭として流通してたとも思えんし、ご先祖にコレクターがいたのかな? 前スレで書いたが、昔は間引きが当たり前で、産婆が出産直後の子を始末するということが
行われた。しかし明治になると簡単にはできなくなる。
ここに詳しく書かれている。
https://www.nurse.or.jp/nursing/josan/oyakudachi/kanren/sasshi/room/index03.html
「明治時代、近代国家として出発した新政府の富国強兵策や人口・衛生政策によって、
産婆の歴史も大きな転換点を迎えます。
明治元年には、明治政府が太政官布達で産婆規則を布告し、堕胎や売薬の取り扱いを禁止しました。
当時、庶民の暮らしは厳しく、堕胎(だたい)や間引き、捨て子、餓死者は後を絶ちませんでした。
産婆は妊産婦を幇助(ほうじょ)するために、ときに堕胎等を余儀なくされていたのです。
新政府は子どもを”生産力”と捉え、国や家の経済発展のために育児を奨励していくようになります。
明治7年に発布された医政によって、産婆の資格・役割などが規定され、医師と産婆の業務が
法的に区別されていきました。
産婆を教育する方針も示され、西洋医学に基づく本格的な産婆教育が展開されるようになって
いったのも明治時代でした。
明治34年には、産婆の資格が法制上明確にされ、専門職としての土台となる制度が確立されます。」
取上げ婆に金さえ払えば何でも出来たが、国家資格の助産婦さんはそうはいかない。
子堕ろしだの間引きだのが簡単に出来なくなったのは「富国強兵」という国家目的のためだった。
江戸時代末期には三千万人といわれた人口が昭和42年には一億人となる。
100年で三倍に増えたのである。
江戸時代には間引きで無理矢理子どもの数を抑えていたのである。
明治になると子どもの数を抑える手段がなくなり、出来た子は産む他なくなった。
(戦後は優生保護法という抜け道ができたが)。
戦前は子ども五人以上は当たり前、十人の家庭なども珍しくなかった。 代々農家か名門武家、公家以外は江戸以前が辿れないんだから、そもそもこのスレは意味なし。 >>23
お前バカだろ
そんなこと言ったら全てのスレは意味ねえよ まあ、戦前でも闇で子どもを堕ろしてた医者はいるんだけどね。
医者なら適当な所見で堕胎を正当化できたので。
大原富枝という作家が戦時中の堕胎経験を書いている。
それによると気球法というのが行われたようである。
産道の奥に風船(もちろん普通のより丈夫なやつ)を入れ膨らませる。
何日もかけて少しずつ膨らませていって産道を押し開き、風船を取り出してから
奧の胎児を鉗子で引っ張り出すというもの。 >>24
お前バカだろ
日本史板、「日本」史1400年を辿れそうな見込みもない家系はどうでもいいだろ。
どうやっても江戸以前不明みたいな下賤の家は。 400年程度しか遡れないんじゃ、中世、近世渡来人子孫や強姦なんでら某新井やドナルド・キーンさんが日本史掲示板で私の先祖は?といってるようなもんだしな。 >>25
>何日もかけて少しずつ膨らませていって産道を押し開き、風船を取り出してから
「産道を押し開き」は間違いであった。「子宮口を押し開き」に訂正する。
しかしこれをやっちゃうと子宮口がビロンビロンに伸びて戻らなくなり、本当に子どもが
産みたくなったときに胎児が自然に流れてしまうようになるらしいね。
なお、江戸時代の子堕ろし婆というのは、家に妊婦を引き取って数日かけて堕胎する商売。
もちろん昔は外科的な技術はないから薬を使う。
ホオヅキの煎じ汁などを使ったとか。子宮を強烈に充血させて早産にしてしまうものらしい。
あとは毒草のようなものを煎じて飲ませ、胎児を殺して死産という形で排出させるとか。
とにかく母胎もただでは済まない、悪くすれば死んでしまう危険性がある行為。
だからこういう処置は水商売女が受けさせられるものだった。
さっさと堕ろして商売を続けさせるためで、妊婦の命を何とも思っていなければ出来ないことだった。
江戸時代の人口ピラミッドを作ってみると、性別で明らかに男性の人数が女性の人数を上回っている
時期がほとんどである。
とくに18世紀後半(安永とか天明)には女性は男性の70パーセント程度しかいない。
当時は女性の平均寿命の方が男性より短く(出産の負担のためと思われる)、さらに20歳から30歳の
間に女性の一割は死んでいる(出産時の死亡率の高さによると思われる)。
しかし、それだけでは説明がつかない。
おそらく間引きや子殺しは、多くの場合女児を対象に行われたと思われる。
しかし100年も経った天保の頃になると女子の出生数は男子と同じ程度になる。
明治になると女児は男児に比べて106パーセントほど。
社会生活でも家庭生活でも女性の働きの部分が大きくなったためと思われる。 >>22,25
書かれてたけど、産婆から医者に変わっただけで間引きなんて普通に行なわれていた。
いまでも(?) >>26
うん、だから真っ先に下級武士と河原者はスレ的には省くべき。 名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 他者を貶めて上から目線じゃないと自尊心を保てないんでしょ。
持てる者は余裕があるから寛容になれる。 >>30
土豪、下層民上がりでも織豊徳川は天下人出してるほどだから、近い流れに限りだったら500年位遡るお手伝いしたらどうか? >>26
いやいや自分の家系を調べたいだけだろ。意味あるとかないとかアホか 百年前ひい爺さんとか四百年前爺さんとか大差ないだろ。
「日本」人なら1400年前元祖の方が興味あるんじゃないの? 仮に家系が戸籍や系図によって明らかで、代々の先祖が辿れるとしても、だ。
100年前の先祖(家系上の先祖)と自分が血がつながっているかは怪しい。
150年前、明治維新の頃の先祖と血が繋がっているのは非常に稀だろう。
400年前の先祖と血がつながっているなんて絶対無理。
江戸時代、士格や徒格の相続は実子七割、養子三割というのがおおかたの見方。
庶民の場合もほぼ同じだっただろう。
養子の場合、家付き娘や後家に婿を迎えることが多い。
後家というのは死んだ当主の未亡人である。この未亡人に親戚の男などを
娶せるのである。こういう場合、後家が再婚後産んだ子が跡継ぎとなれば、その子は
死んだ当主と血縁関係はほとんどないということになる。
娘に婿をとったが娘が産で死に、その後、婿と親戚の娘を再婚させる場合もある。
この場合も、再婚後に生まれた子は死んだ当主の血筋とは遠い存在である。
娘がおらず、親戚の男の子を養子にして跡継ぎにするというパターンも勿論多い。
名家や家禄の多い家には、男子がいないと主家や上役の家から養子を押しつけられる
ことも多い。この場合は血脈は絶えてしまうわけである。
養子三割となれば、250年を10代で繋いだとして、そのうち三回は養子での承継になる。
明治以降の150年を六代で繋いだとして、そのうち二回は養子での承継である。
400年間に五回も養子での相続をしたら、血縁関係など全く無いか、ほぼ無いに等しいと
いうことになるだろう。
前スレで土佐山内家の相続状況を見たが、側室を何人も持ち、子孫を残すことが仕事のような
大名でも直系では何代も続かない。明治の世を迎えたときは、赤の他人の家のようになって
いるのである。 >>37
誰も読まないと言いながらレスまでつけて・・・・。暇なんだろうなぁ w 蜂須賀家は十一代将軍家斉の息子を養子として押し込まれ、家を乗っ取られた形に
なったのは有名。
しかし、その前から事実上他人の家になっていた。
八代・九代とたてつづけに高松松平家から養子が入る。そのあと佐竹家から養子。
佐竹の血筋が三代続く。徳川家からの養子はその後のこと。
家祖 蜂須賀正勝(小六)
↓
藩祖 家政 ここまでは藩主として数えない。
小六は秀吉が死ぬ12年も前に死んだ。秀吉の四国征伐の後、小六は隠居していたので
長男の家昌が秀吉から阿波18万石をもらった。
家昌は関ヶ原合戦に際し領地を豊臣家に返上して徳川に味方した。
その功により戦後徳川家より新たに阿波25万石を与えられた。
これによって蜂須賀家は晴れて徳川大名になったわけである。
しかし家昌は豊臣家との関係から自分では受けず、息子の至鎮の名で拝領した。
だから蜂須賀家の初代藩主は小六の孫・至鎮とされている。 1.至鎮
↓
2.忠英
↓
3.光隆
↓
4.綱通× 23歳で死。実子なし。ここで直系断絶。
二代藩主忠英の四男・綱矩を養子にする。綱矩は綱通から見て大叔父にあたる。
→5.綱矩
↓
6.宗員× 28歳で死。次男がいたが幼少のため一族中から宗英を
末期養子に迎え承継。宗英は二代藩主忠英の五男の子。
→7.宗英× 子は娘のみ。隠居して松平大膳家より養子をとる。※
※二代藩主忠英の五男の子。娘しかなく讃岐高松藩一門松平大膳家より養子をとったので、
正勝・家政・至鎮の男系子孫である藩主はこの七代宗英で最後。
−−−−−−−−−−−−−
(隣藩・高松松平家の系統)
8.宗鎮× 隠居して家督を弟(実家の松平家の弟)に譲る。
→9.至央× 藩主となってわずか60日で死。秋田阿竹家より末期養子をとる。
−−−−−−−−−−−−−
(佐竹家の系統)
10.重喜
↓
11.治昭
↓
12.斉昌× 実子なし。十一代将軍家斉の二十二男を養子にする。 −−−−−−−−−−−−−
(徳川将軍家の系統)
→13.斉裕 ※
↓
14.茂韶 明治をむかえる。
※将軍の息子である十三代斉裕は、正室に鷹司政通の娘である鷹司標子を迎えた。
鷹司政通は東山天皇の男系四世の子孫である。その父親の政煕は藤原氏の氏の長者で関白。
徳川将軍家の息子と関白鷹司家の娘の子なのだから十四代茂韶は大名中最高の血筋と
いっても過言でなかった。
現在の当主は昭和17年生まれの女性。19代目にあたるが、結婚しておらず子供もない。
養子をとって継がせる気持ちもないという。蜂須賀家は絶家となることが確定している。
当主である女性が絶家を選択したのは分かるような気がする。
蜂須賀家といっても、当主本人は一滴も血を受け継いでいないのである。
蜂須賀家も宗家でなければ血脈を継いだ子孫はいるのだから、そうした人々が後嗣を絶やさぬ
ようにしていけばよい。
当主の先祖は徳川将軍家斉の二十二男斉裕であり、自分は徳川将軍家の血筋であるが、
徳川将軍家は現在も続いており、御三家もそれぞれ健在である。
徳川家の関係でもとくに自分が系統を伝える必要もないと考えたのだろう。 そして蜂須賀家は、出自どおりに任侠により財産奪われる。
家風としての因果応報を地でいった典型的下克上大名 >>41
興味深く読んだ。断絶確定、しそうな名門最近よく聞くけど 徳川慶喜家とかあちこち 藤堂家はかなり前に絶家したそうだね。
十数年前まで、おしろいを真っ白に塗ったお婆さんがいたそうだが、
その人でお終いだったみたい。
傍系の子孫はいるだろうけどさ 某大河ドラマの主人公の分家のほうも断絶みたいなもんだね http://gos.but.jp/intnd.htm
「墓地に堅牢な塀を巡らして施錠している家は、私が知る限り、家系を粉飾している家が多い印象があります。
・・・
盗んだ墓は偽系図以上に見破るのは簡単ですが、お墓も盗難に遭うことも考えて、墓地も時々写真を撮って
記録しておくことくらいは必要かも知れません。盗まれる墓は江戸初期の無銘の墓ばかりです。
何も彫られていないから、これは我が家のものと転用がし易いのです。情報が伏せられていると書き換えられる
という系図の場合と同じです。」
古い墓って盗まれちゃうことがあるんだね。
盗むというより、この墓は無縁だしちょこっと敷地を使わせてもらおう、とかやってるうちに
いつのまにか自分の家の墓になってしまうんだろうね。
代が代われば、うちの墓に何やら訳のわからない古い墓石が積んである。失礼な話だ。
きちんと始末しないとご先祖様に申し訳ないとか言って捨ててしまうとか。
今の墓地ではなかなか無いだろうが、昔はいくらでもあったんだろう >>41
現在の徳川家
宗家→次期当主に跡継ぎなし
尾張家→鍋島の血筋の人が養子になったのは良いにしても、跡継ぎがどうなるか
紀州家→半分断絶してるようなもの
水戸家→まだ大丈夫
慶喜家→一昨年断絶
御三卿もほとんどが途絶えそうな状態 馬鹿だよ
お前みたいな犬猫の類が心配することないってw
徳川宗家は当主が健在で息子がまだ50代。これからだって何とかなる。
尾張も紀州も水戸も問題なし。
徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。慶喜は家督を田安家の当主に譲り、
別家を立てたが、その家の宗教は皇室に配慮して神道とした。
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
もともとは水戸家だが将軍家に養子に入ったときに関係は絶えた。
だから宗家とも水戸家とも何の関係もない。 >>51
一つ一つ流れと関係ない的外れなこと書いてて笑うw
この方、相当頭が悪いらしい >>52
犬や猫の類に口なし
覚えておくんだな家畜 >>53
なんかムカつくなコイツ
仏罰当たって死ね!
南無妙法蓮華経 >>51
お前バカなの?
次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。
徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。
ちょっと何を言ってるのかわからない。
尾張も紀州も水戸も問題なし。
紀州家は当代で断絶が確定してるし、
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?
最後の養子云々の話はもう意味不明。 >>55
お前、詩人か?w
何が書いてあるのか分からない。
ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。
少しだけ分かるのは、お前が徳川宗家の断絶が心配で仕方ないらしいこと。
それなら徳川さんの家に行って「お宅は跡継ぎが50歳越えてるらしいが、ダイジョブですか。
そろそろ何とかしなさい。お家が絶えますよ。」と言って来いボケ >>56
>>ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。
自分で自覚があるんなら直せ
まず、事実誤認しまくってるので訂正してるだけなんだか?
何書いてあるのかわからないのはお前が読解力のない馬鹿なだけ
>>55のどこをどう読んで徳川宗家の断絶が心配で仕方がないと読み取ったのか知らんが、こちらは明らかな事実を提示したまで 50代の跡継ぎのおっさんがこれから頑張って子をつくるのか、養子をとるのか、
子をつくらず養子もとらず絶家になるのか、なんて誰にも分からないだろ。
>次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。
どうにかなるかも知れないしならないかも知れない。しかし、そんなこと当事者でもない
他人が議論してたって仕方ないだろ。
お前は50過ぎじゃもう駄目だ、徳川宗家は絶家確実と思ってるのだろうが、お前みたいな犬猫が
他家のことまで心配しなくていいんだよ。勝手に決めるな。てめえの心配してろボケ
>神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?
当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
事実を提示したまでとか嘘言うな。自分の考えを言ってるだけじゃないか。
犬猫の考えなんか聞かされたって困るんだよ、徳川さんもこのスレの住民も。
いい加減にしろ糞が >>58
最初に言っておくが徳川宗家の相続についてはもちろん関係ないから、
養子を迎えて継がせようが、絶やそうが自分の関知するところではないからそこは別にいい。
>>当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
上でも言ったが、あくまで慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって、
家が神道となった訳ではないと何度言えばわかるんだ。
ついでに言っておくが、慶喜は晩年息子の慶久に家督を譲って隠居してるので当主でもない。
>>あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
完全な事実誤認。何を根拠に徳川一門ではないとさっきから喚いているのか。
一生謹慎状態のまま生涯を終えた公爵ですか?凄いですね。理論崩壊してるの気づいてる?
慶喜は娘たちを徳川宗家の家達の元へ預けて養育して東京の学校に通わせていたのに何言ってんの?
慶喜の謹慎自体も明治2年に明治天皇によって解かれ、さらに公爵に授爵されているため、
一生謹慎状態のまま生涯は終えてないし、趣味三昧で遊んで暮らして生涯を終えてる。
>>自分の考えを言ってるだけじゃないか。
自己紹介してるの? 議論が見事に大人と子供だなw
公開処刑なみに論破されててちょっと可哀想 >>58
横からだけと君なんかおかしいよ大丈夫?
周りから思いこみが激しいねって言われない? 徳川家も由緒ある家ではなく、三河の松平郷に流れ着いた坊主が始祖だと言われているからな
成り上がり系の家だから、どうでも良いだろ
豊臣家と同じように新興の家だよ 長い目で見れば >>59
>養子を迎えて継がせようが、絶やそうが自分の関知するところではないからそこは別にいい。
当たり前だ。現に50代の生きのいい跡継ぎがいるんだから「お家御安泰で祝着至極でございます」と
言ってりゃいいんだよ。
それを、お前みたいな犬猫が存続の危機みたいな生意気なこと言うから噛みつかれる。
>上でも言ったが、あくまで慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって、
>家が神道となった訳ではないと何度言えばわかるんだ。
なんで思いこみでこういう出鱈目言うかな。
谷中の饅頭型の墓地には正室もお妾さんたちも入ってるじゃないか。
同じ敷地内に慶久さんやその家族の墓もある。もちろん饅頭型神道式。
これでなんで「慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって」ということになるの?
>ついでに言っておくが、慶喜は晩年息子の慶久に家督を譲って隠居してるので当主でもない。
形式的には当主でないかも知れないが死ぬ何日か前までぴんぴんしてたんだから実質当主だろ。
隠居したからって口を出せなくなるわけじゃない。慶喜は九男が男爵を受爵した際も宮中に参内しており、
公的にも家の主としての立場は保持していた。
そもそも隠居したのも息子のためだ。後でも触れるが、慶喜は晩年は息子の出世しか頭になかった。
そのために以前に増して皇室に迎合的であった。 >一生謹慎状態のまま生涯を終えた公爵ですか?凄いですね。理論崩壊してるの気づいてる?
慶喜は謹慎して皇室に対し恭順の態度をとり続けた。一生だ。天皇より謹慎を解かれても公務に携わらず、
静岡に引っ込んだままで、旧幕臣が訪ねてきてもほとんど会わなかった。
そして写真にこったり、銀製の飯盒で自分でご飯を炊いてみたり、屋敷の周りで鉄砲を撃ったりと遊び暮らした
のは有名。これは謹慎の態度以外の何物でもなかろーが。
慶喜は何やら自分が殺されるのではないかという強迫観念を抱いていたらしい。
夜側室たちと寝るときの寝方などにそういう気配が感じられる。(どういう寝方をしたかは自分で調べろ)
明治30年にようやく東京に戻る。翌年皇居(もとの自分の城)で天皇に拝謁するという屈辱的なことも平気で
やっている。東京に戻り、拝謁をやったから爵位が貰えた。東京に戻ったのは息子のためだ。
(もちろん一番の理由はもう帰っても大丈夫と思ったからだろうが)。
要請されるままに貴族院議員もやった。貴族院議員は息子の慶久に引き継がれる。尻尾振りまくりであった。
慶喜にとって公爵という爵位を賜ったのは何よりも嬉しいことだったらしい。爵位は家に与えられるもので、
息子や子々孫々までの安泰が約束されることだったからだ(現在は憲法に規定されているとおり栄典の授与は
一代限り)。爵位授与に感謝し、それにとどまらず、さらに天皇への恭順の意を表するため神道への
宗旨替えを申し出たのだ。徳川慶喜公爵家の創設を許されたが、この公爵家(慶喜家)は天皇家に忠誠を
尽くしまするという証しのためであった。 家代々の信仰を捨て、一種の天皇教ともいえる神道に宗旨を変えたのはいかにもこの人物らしい思い切りである。
鳥羽伏見の戦いにあたり、大阪城で指揮官の立場にあったにもかかわらずまさかの敵前逃亡。さっさと船で
江戸に帰ってきてしまった、そういう身代わりの早さを感じさせる。
肺炎で死んだのだが、なんで肺炎になったかというと、九男誠の男爵受爵をむやみに喜び、そのお礼を進上する
ため宮中に参内したのが原因。風邪を引いているのに、こちらから申し出た参内を中止することはできないと
無理をして急性肺炎になってしまった。天皇家に対し媚びへつらうこと尋常でなかった。
何だか落ち着きがなく、一生バタバタしてたような人物であった。
>何を根拠に徳川一門ではないとさっきから喚いているのか。
分かってないな〜。慶喜は上野寛永寺で謹慎し隠居した。徳川将軍家の当主の地位は田安家の家達が継いだ。
この徳川宗家は明治17年に公爵を受爵している。
隠居したからといって徳川家との縁が切れるわけではないが、慶喜はさらに大政奉還の功を以て受爵したのだ。
宗家はもう公爵なのだから、慶喜が爵位を受けるにはさらに別家を立てる必要がある。
そのために別家を立て、この家に爵位を頂戴したのだ。
そしてこの家の宗旨を神道とした。もはや祖先の祭祀は行わないとの意思表示でもある。
実質的に先祖との縁を切ったのだ。
普通はここまでやらない。慶喜という転変きわまりない男だからこういうことがやれたのだ。
娘を家達のところから女子学習院に通わせたなどというのは表面的なことだ。
こういう些末なことではなく、物事は構造的に捉えないといけない。
教育を受けていない人が知識を得ると逆に本質が見えなくなる。表面的な知識に固執し頑迷になる。
あなたはその典型。
>>60 >>61 なんか自演丸出しじゃないか。なんだか哀れだな、、 >そういう身代わりの早さを感じさせる。 ×
そういう変わり身の早さを感じさせる。 ○ >>65
そんな長文を朝から連投してお前はなんなの?
暇人なの?
必死んなってネットの情報でも漁ってたのかな?
長すぎてマジで読む気が起きないし、もういちいち訂正を突っ込む気も起きないからもういいよ。
長いの連投したって誰も読まないからな。
あと自演するくらい暇じゃないから上のレスやらは当たり前だか無関係。 >>68
俺は議論なんかする気はなかった。
お前が絡んできたんじゃないか。
慶喜は徳川宗家(家達)に養われていた。そりゃそうだろ。家達は慶喜の養子なんだから。
形式的には親子。
静岡での道楽生活は宗家のお陰で成りたっていたのだ。
だが何かの拍子にいつ援助を切られるか分からない。
慶喜の生活は不安定であった。だから慶喜は金銭の出納には几帳面であった。
小さな出費でも帳面につける習慣があった。
だが、こういう金の管理の仕方は自分一人のものでしかない。子だくさんだったので、
子どもが大きくなってくるとその将来が心配になった。
自分亡き後、子どもたちまで宗家が面倒をみてくれるとは限らない。
だから東京へ出てきて天皇に謁見したり、子どもたちの道をつける努力を始めた。
公爵にしてもらえたのは望外の喜びであった。
公爵は華族の中でも最高の地位であり、華族は国家で養われる。潤沢な賄い金が
給付された。華族は豪奢や屋敷に住み、別荘を持つのが普通であった。
華族の子弟は無試験で京都大学に進める等の特権もあった。
これまでは実家である徳川宗家に養われる身分であったのが、宗家と同じ公爵になり、
子々孫々まで豪奢な暮らしが約束されたのである。
慶喜が天皇に感謝すること甚大であった。
たしかに、初老の人間が、これからあなたに年金を差し上げましょう。月に500万円です、
とか言われたら喜ぶだろう。さらに、この年金はあなた一代ではなく、子々孫々に支払われます、
なんて言われたら喜ぶどころの騒ぎではないだろう。
慶喜にはそういうことが起きたのである。
その喜びと感謝の表し方が神道への宗旨替えであった。
一方、宗家への態度は全く変わった。日記に家達のことを書くのでも、以前は「殿様」として
いたのが、「千駄ヶ谷」などと住まいの場所で言うようになった。
九男の誠に男爵が授位されたときもひとかたならぬ喜びようであった。
だから何としてもお礼に参上したく、無理をして肺炎になったのである。
慶喜に関して言えば、慶喜の心の動きまで分からないと、真に歴史を理解したとはいえない。
浅はかな知識で突っ込みをやり、やばくなると自演したり、相手を暇だと罵倒したり。
それじゃ悲しすぎるだろ。相手をしてもらえたんだから感謝しなくちゃ。
慶喜みたいな変節漢になってしまうよ。 庄屋基地外の次は、徳川基地外か
どうしようもないな
マウンティングとりたいだけの基地外は ↑ アスペルガーチョン 低学歴バレバレ(^。^)y-.。o○
お前は半島の歴史でもやってれ >>71
空気を読めない馬鹿丸出しのクソ長い講釈は終わった?
まだ他にもなんか言いたいことある?
長文連投されると読む気が起きないから質問なら手短にかつ理論的にお願いね。 このクソ長い文章の連続は何なんだ!読む奴いるのか? 慶喜の父の斉昭が廃仏毀釈に積極的で、神道への親和性が高い人だったから、慶喜もそうしたのかなと思う。
そもそも水戸徳川家の墓所は神道色が強め。 > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 先祖を知ってると言っても、一から百まで先祖の名前を知ってる子孫もいれば、戦国時代の戦火などの理由で消失して戦国時代からの先祖の名前しか分からない子孫もいる。
先祖は辿れば扇状に広がるが、日本人の中で、先祖の名前を一から百まで知ってる人は、そうそういないだろう。
ましてや男系の血筋に限った場合、先祖の名前を一から百まで知ってる子孫はどれ程いるのだろうか? 幸いにもワイの場合は、男系の血筋に限る先祖の名前を一から百まで知ってる。
今数えてみたらワイは清和天皇から37世だった。男系の血筋で先祖を数えた場合だ。
清和天皇から神武天皇まで、男系の血筋で辿ると、何世あるんだろう?
また、神武天皇から国常立尊(天之御中主神)までは、何世あるんだろう? 清和天皇から神武天皇までの男系の辿り方は皇統譜見ればすぐに分かるからいいとして、
問題は神武天皇から国常立尊までの男系の辿り方なんだよな。
神武天皇、ウガヤフキアエズ、山幸彦、ニニギ、アメノオシホミミ、と続いて、
アメノオシホミミの父親はどっち?という議論があると思う
俺は、アメノオシホミミの父親はスサノオだと思う
本朝皇胤紹運録には、アメノオシホミミの父はスサノオとある
スサノオの父親がイザナギ
神武天皇からイザナギまでは分かった
次にイザナギから国常立尊までの男系を辿ろう! その前に、藤原氏と天皇家の繋がりを説明しよう。
天皇家と藤原氏は男系の先祖を辿ると天之御中主神で繋がっている。
尊卑分脈の藤原氏系図では、藤原氏の先祖を辿ると、最終的には天之御中主神まで辿れる。
尊卑分脈の藤原氏系図の天之御中主神の所に、国常立尊の別名と但し書きが書いてある。
本朝皇胤紹運録の天皇家の系図では、天皇家は国常立尊まで辿れる。
これによって、天皇家と藤原氏は国常立尊(天御中主神)で先祖が繋がる。 これまでは、尊卑分脈や本朝皇胤紹運録を根拠に説明した。
では、イザナギから国常立尊までの男系の辿り方はどうすればいいのだろう?
本朝皇胤紹運録の天皇家の系図には、イザナギから国常立尊まで、2系統の系譜を記載しているのはご存知だろうか?
国常立尊、国狭槌尊、豊雲野神、埿土煮尊、大戸之道尊、面足尊、伊奘諾尊、
という系図の他に、
国常立尊、天鏡尊、天萬尊、沫蕩尊、伊奘諾尊、とある。
実は、国常立尊から伊奘諾尊までの父子関係を記してるのは、日本書紀に書かれてある、
国常立尊
天鏡尊(あまのかがみのみこと)
国常立尊の子。
天万尊(あめよろずのみこと)
天鏡尊の子。
沫蕩尊(あわなぎのみこと)
天万尊の子。
伊弉諾尊
沫蕩尊の子。
の部分くらいしか無いのだ!
国常立尊、国狭槌尊、豊雲野神、埿土煮尊、大戸之道尊、面足尊、伊奘諾尊、の系図は、実は父子関係、親子関係を述べているところを探しても見つからない。
唯一、国常立尊、天鏡尊、天萬尊、沫蕩尊、伊奘諾尊、の親子関係、父子関係しか見当たらなかった。 国常立尊─天鏡尊─天萬尊─沫蕩尊─伊弉諾尊─素戔男尊─正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊─瓊瓊杵尊─彦火火出見尊─彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊─神武天皇
つまり、これが国常立尊から神武天皇までの男系の血筋の系図である。 もう一つ、おさえておきたいのが、実は
今と神代の時代の昔って夫婦制度が同じだったんだよな。って事に気づくはず。
神代の時代も、今の時代も、一夫多妻ではなくら一夫一妻だったんだよな。 古事記には神世七代は性別を記してないが、正史の方である日本書紀では神世七代は性別が
記してあって一夫一妻だ。
ちなみに日本書紀は陰陽で説明してるから、俺は陰陽も勉強した。 >>75
アスペルガーってのは長文が嫌いらしい。
パッと見て分からないと不安感に襲われるらしい。
アスペルガーの人は映画も好き嫌いが激しい。
登場人物が善人だか悪人だか分からないミステリーみたいのはすごく嫌う。
登場人物が好き同士なのに悪口を言い合うみたいなラブロマンスも受け付けない。
女は男のことを嫌いだと言ったのに何故キスをしているのか理解できない。
それと、気持ちが不安定なので常に自演する。
ここにはアスペルガーの典型的症例の人がいるようだ。
>>78
水戸家の墓は儒教一色だ。葬儀も儒式。
「神道色が強め」なんてどこから出てくる? なんの動きもないところ見ると長文連投馬鹿は逃亡したのか? 源蔵人くん。ここは先祖探しのエピソードを語るスレだぞ
関係ないことは話さないように。 >>91
源蔵人は、荒らしやぞw
たまに、このスレに現れるw
無視しておくのが、得策w >>75 >>76
内容的に反論しなきゃ駄目だろ
出来ないなら引っ込んでな 負け犬爺イ (藁 藁 藁 江戸時代の通婚圏の研究をした学者がいるんだが、貧しい村は通婚圏が狭く、
豊かな村は通婚圏が広いんだそうだ。
早い話、貧しい村だと嫁さんは隣村とか近場からしか来ない。
豊かな村だと遠いところからも嫁が来る。これは婿取りにしても同じ。
さらに貧しい村だと隣村からすら来ない。自村内での嫁取り・婿取りばかりになる。
こうなるとイトコ・ハトコ婚なんか有りまくり。
欧米ではイトコ婚は認めらず、日本ではイトコ同士でも結婚できるというと驚かれるという。
日本でイトコ婚が認められるのは、貧しい山中の村などでは近親婚にならざるを
得なかったという社会的背景もあるのかも知れない。
自村内で血族結婚に踏み切った村などを除き、普通の村では通婚圏はほぼ三里内という。
三里というと12キロ。朝出て日帰りができる距離である。
近交弱勢といって、血が近くなると様々な悪影響が現れる。乳幼児の死亡率なんかも高く
なるらしい。明治初期の日本人が非常に小さかったのは江戸期に近親婚が多かったせいだ
という人もいる。
その後あちこちの出身者が混じり合って結婚したことが日本人の背が伸びた一因だそうだ。
一種の雑種強勢というか。 >>96
欧米っていうけど、欧州では認められてるし、叔父姪、叔母甥での結婚が認められてる国もある。
むしろ米国が少数派だよ 欧米ではイトコ婚は認められず、、、、なんて書いたからまた突っ込みを入れてくる池沼がいるな。
「一般に欧米では否定的」と訂正しておこう。昔に遡ると、ヨーロッパでは王族の婚姻にイトコ婚なんか
けっこうあったしな。アメリカでは州によって違い、法的に禁止していない州もある。
あー、めんどくさいわ。
ともかく昔の日本ではイトコ同士の結婚は奇異なものでも何でもなかった。 すでに遅かりし。
>>97 みたいな馬鹿は必ず現れる(爆 え?むしろ本当は許されてるものを許されていないのが多数派見たいに書いてる方が頭おかしいだろ。 ここで嫌がられる庄屋の家系だが・・・成り上がり系の家と婚姻すると、その伝を辿って次から次へと我が親戚と婚姻を重ねようとする傾向があるよ。だから、一度親戚になると次から次へと親戚が増えるが同じ系統の家 ここで嫌がられる庄屋の家系だが・・・成り上がり系の家と婚姻すると、その伝を辿って次から次へと我が親戚と婚姻を重ねようとする傾向があるよ。だから、一度親戚になると次から次へと親戚が増えるが同じ系統の家 >>101
また出た犬猫w
血が近い同士の結婚は望ましくないというのは人類が昔から気づいていたこと。
しかしヨーロッパの王族同士とか古代日本の天皇家とか、血の希少性や純血性の価値が
優先された場合もある。庶民でも子孫を絶やさないため、或いは家の便宜のため容認されて
きた歴史があるということだ。
イトコ同士程度なら弊害が顕著には見られないということも立法の理由にはなる。
しかし、血族結婚は本当は望ましくない、本当はやめた方がいいというのは間違いないことだよ。
これは普遍的な真理だ。
>え?むしろ本当は許されてるものを許されていないのが多数派見たいに書いてる方が頭おかしいだろ。
お前は頭がおかしい。 >>96
逆、大地主の庄屋あたりが一族外へ財産流出防ぐためイトコ婚。 >>102
庄屋=農民なんだから、それで十分だろ
成り上がりがどうのこうのと言える家系じゃ無いよ 庄屋なんて >>106
嫁取り婿取りすると何で財産流出するんだボケw
そもそも金持ちがイトコ婚なんて沁みったれた事するわけないだろ
世の中にいい女はいくらでもいるのに、何でわざわざ親戚の娘と結婚するんだよ。
そもそも、血族結婚を何代も続けたらどういうことになるんだ?
お前の家みたいに池沼だの片輪続出になってしまうわ。
名主・庄屋階級は、今日でいう社会事業を広く手がけている例が多い。
庄内の本間家の防風林づくりとか有名。
藩にも幾たびも献金してその窮状を救っている。
伊能忠敬は佐倉の商人で名主であったが、五十歳で隠居して基礎的な学問の修得から
始め、全国を測量して日本地図を作り上げた。最初の蝦夷地測量の費用は全額負担。
その後、幕府御用となったがそれでも費用の大部分を負担した。
各地の堤防への松や桜の植栽は地元の名主階級の負担で行われたものが多い。
作家・有吉佐和子の母方の実家は紀州の大庄屋で、先祖は溜め池造りに励んだという。
お前が考えるようなこととはレベルが違うのだ。
財産流出が怖くて血族結婚なんて、どこまでケチな発想してんだ。
少しは恥を知れ鼻糞 >>107
君には近親婚どころか結婚しないで側室たちと遊び暮らした殿様を紹介しよう。
紀州徳川家第六代藩主徳川宗直。
藩主でありながら生涯正室を持たず、側室を11人もかかえて16人の子を作った。
妻なんぞ面倒くさい、いらない、と言って気に入りの女たちに取り巻かれて暮らした。
出来た子どもは享楽の結果に過ぎないが、それを有効に利用した。
息女はみんないいところに嫁いだぞ。
伊達家や細川家、池田家、丹羽家、常陸府中松平家、高松松平家など
身分の高い人たちはだな、みんな少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそうと
努力していたのだ。財産が流出するから嫁取り婿取りは身内でやろうなんて
考えるかよ。馬鹿としか言いようがない。 >110
>少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそう
時代、藩主レベル同士の子息や子女の婚姻はありふれてるけど
係累を作ったとしても勢力というか具体的な成果はないですよ
江戸幕府は将軍家直属の大目附を配置し
幕政維持の最重要事項でもあり全国の藩を監察組織であり
全国の藩主同士の繋がりは監視が非情に厳格だったから
譜代大名や親藩に至るまで係累を作っても何の意味も持たなかったんですけど >>110
>少しでも有力な係累を作って勢力を伸ばそう
江戸時代、藩主レベル同士の子息や子女の婚姻はありふれてるけど
係累を作ったとしても勢力というか具体的な成果はないですよ
江戸幕府は将軍家直属の大目附を配置し
幕政維持の最重要事項で全国の藩を監察組織であり
全国の藩主同士の繋がりは監視が非情に厳格だったから
譜代大名や親藩に至るまで係累を作っても何の意味も持たなかったんですけど 何でお前は二回ずつ書き込むんだ。スレ資源を無駄にすんなチンカスが うちの父方の先祖親戚は近親婚ばっかりで家系図がとんでもなくややこしいわw 近親婚の代名詞といえばハプスブルク家。
しかし近親婚の影響で断絶したのはエスパーニャ・アブスブルゴ家で1700年にカルロス2世の崩御によって断絶。
スペイン継承戦争が勃発し、最終的にブルボン家のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)がスペイン王に即位、幾度かの革命と王政復古を経て今に至る。
一方、オーストリアの近親婚はスペインよりマシだったが、カール6世が男子に恵まれずマリア・テレジアが後継者となり、ハプスブルク家を相続するがオーストリア継承戦争が勃発。
最終的にマリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ・シュテファンの皇帝即位が認められ、彼女の子孫がハプスブルク家として現代まで続いている。 近衛尚嗣-基熙-家熙のラインなんてもろに近親婚だし 池田小学事件 宅間
>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。 >>112
有力な係累を作って勢力を伸ばそうと言ったって、お前が言うような、親戚に
なった大名と組んで勢威を張ろうというようなことではない。
戦国時代じゃないんだから。そんなことしたら返って存立が危うくなるわ。
馬鹿なこと言うんじゃない
創設以来幕府の大名統制は婚姻政策を中心としていた。
外様大名には譜代の大名家から養子や室を入れる。徳川一門からも、そして
将軍家からも入れる。そういう政策が採られている中で、御三家の一員が
16人も子を作り、いくつもの有力大名に押し込むことに成功したとあれば
これは功績だろうが。高得点を取ったということだよ。
それに嫁入りや養子になると気の利いた家臣が付いて行く。
これは行った先の大名家の家臣になるのであり、送り出した側からいうと
リストラにもなり、また勢力拡張でもあるのだ。
送り出された家臣は先方では今までより良い地位に就けるのは間違いない。
他社に自社社員を送り込んで系列下する現代の企業の手法に似ていると
言えなくもない。
>>115
ヨーロッパの王族は人間というより人形のような扱いだった。
結婚して初夜の床には立会人が付き、結合すると大声で告知された。
カーテンで覆われたベッドの周りや次の間では、貴族たちが拍手した。
居間も寝室も召使いや家臣で満ち、プライバシーは全く無かった。
食事の様子も公開されていた。
排泄も人の目に晒される場所であった。トイレというものはなかった。
出産も公開であった。
マリーアントワネットの公開出産の様子
https://blog.goo.ne.jp/asumirio63/e/0ab1d3c4f7832fbd136cda67b6a62d2e >>116
俺は>>104 で
「しかしヨーロッパの王族同士とか古代日本の天皇家とか、血の希少性や
純血性の価値が 優先された場合もある」と書いてやっただろ。
天皇家と藤原家は皇族の血を保有しあって伝えてきた。
血族結婚が多くなったのは当然だ。
しかし、貴顕の血と庶民の話を一緒にするな。
エタや非人、サンカなどには血族結婚が多かった。この話は後でするかも。 ブラジルにある日系人コミュニティ弓場(ゆば)農場
日本人・日系人だけで運営されている農園で、ほぼ共同生活。
クリスチャンばかりのように見える。
https://tabicoffret.com/article/34586/index.html
ここから弓場農場のサイトに飛ぶと良い。読む価値あり。
ピアノ、バイオリン等は当たり前にひく。女の子たちはバレエに打ち込む。
取材のカメラの前をバレエのレッスンをしている女の子たちが横切るという
場面も見た。
日本人と日系人以外受け入れない決まりという。
10年ほど前テレビで見たが、20台後半のここの娘が白人の男を連れてきた。
フィアンセだという。連れてきてしまえば何とかなると思ったらしい。
だが白人は駄目だ。日本人みたいにキビキビしていない。
いつも笑顔だがタラタラマイペース。彼女といつもベタベタ。
結局二人で姿を消した。
だが日本人だけでやっていくのは難しいという。
長老たちが、あと10年後に現状のままなら、血族結婚に踏み切らざるを得ないと
語っていた。深刻な表情だった。
中年の夫婦の旦那は、農大生だったときにブラジルの農業見学に来てここに立ち寄り、
そのときに今の婦人から「好きです」と言われ、ここの人になった。
周囲はブラジル人ばかり。そういう出会いしかなかった。
しかし、このあたりを見ると状況は好転しているのではないかと思う。
http://sekaishinbun.net/2017/10/19/201710-spt-yuba-brazil/
これは一種のお見合い大作戦である。ネットのお陰で未来が開けたか。 「天平2年1月13日、帥(かみ)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。」
天平2年1月13日、太宰府の帥老(そちろう。大伴旅人のこと)の邸宅に集まって、
「梅花の宴」を開いた。
「時に初春の令月、気淑く風和(な)ぐ。」
時は、初春のよき月夜(十三夜)で、空気は澄んで風は穏やかである。
「梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後の香を薫らす。」
梅は女性が鏡の前で白粉の蓋を開けたように花開き、梅の香りは、通り過ぎた
女性の匂い袋の残り香のように漂っている。 図書館にある書籍とか全部電子化して、先祖の名前で検索できるようにならないかな 池田小学事件 宅間
>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた 大量殺人犯のハプログループを調べたら武家由来ばかりになりそうだね >>127
江戸の下級武士は戦国の出自がヤバイからな ここで嫌がられる旧庄屋の家系だが家系にまつわるその手の話は旧庄屋家にも多い。
八墓村のごとく、あの家の先祖は旧城主だったので多くの人を殺しているので短命の家系だとか。
呪われた家系だとかetc
田舎の噂話だからどこまで本当かは不明だけどね。 >>130
庄屋ですらない一般百姓ですが…
発言しちゃいけないのか? 普通に書くのならOK
彼は自分の先祖こそ最高で、他者を否定し武士を馬鹿にするような最低の人格
だから叩かれているんだよ 嫉妬して批判してるだけだろうな。
ちなみにうちは庄屋だよ。
武士は底辺だよ、今で言う肉体労働者みたいなもん。
普通の百姓と同じレベルだと思っていい、血統もカス。
将軍家や大名家なら少しはマシだが、それでも公家と比べるとやはり駄目だね。 うちの曾祖父、最近知ったんだけど1880年代に10歳で養子に入って今の姓になったんだわ。
で、養父が岡山県出身なのに家族も連れず(妻はすでに故人)単身で和歌山県の田舎に転籍してきてるの。年齢は当時35歳くらい。
スゴく不自然で、何があったのかスゴく気になるんだけどこう言った事情に推測つく人いない?
個人的には借金や犯罪なんかで村八分と言うあまり考えたくない事情が思い付くんだが・・・
都市部なら出稼ぎや仕事求めての引っ越しが自然だが、岡山から和歌山、しかも田舎。不自然すぎる。
明治半ばころ、岡山と和歌山に何か繋がりってあった? 庄屋に嫉妬なんてしないよ
百姓の顔役ってだけだし、底辺じゃん 先祖が山伏だったのは知ってたけど、忍者でもあったっていう話を聞いて調べたら兵法とか剣術なんかをやっていた事が判った
藩校で使われていた教科書の兵法や軍学に関するところに先祖の名前が載っていたんだけど、
よく分からないのは、坊さんなのに名字と名前が書いてあった事
自分の今の名字と一緒
坊さんに名字はないっていう認識だったので。
父方祖母の先祖は名主だったらしいけど
名字が水野でそれなりに由緒があるみたいな話。
本当の事は分からないけど
いつか調べてみたい。
今は半信半疑。盛ってる可能性もあるし 少なくとも >>126 から 上の >>138 まで10以上の書き込み。書いてる奴は一人だよな
必死こいてるよなw 何を書いても庄屋が底辺なのは変わらないよ
高貴な血筋?
笑わせるな どこの馬の骨とも解らないのが庄屋だよ >>140
高貴だよ
少なくとも士族よりは上
武士はただの力だけしか取り柄のない乱暴者だろ
平気で人殺しするし
皇族>華族≧庄屋>>>>>士族>平民>エタヒニン >>140
もう一つ言うが
俺の家系に人殺しは1人もいない。 >>134
スレタイぴったりの話してるのに見事なスルーで同じような庄屋の話ばかり。大丈夫かこのスレ >>144
じゃあお前が話し広げろよ
それとも何かエピソードあるなら喋れや >>145
だから>>134は具体的な話してるがな >>146
じゃあ134に答えてやれよ
人にばかり頼むな >>134 元岡山県人から一言コメント
真面目な話、一口に「岡山県」といっても「和歌山県」と同様に結構広いです。古くは備前、備中、美作
の3国に分かれていて、それぞれに郡部があります。
例えば備前国ですと、邑久郡、赤坂郡、上道郡、御津郡、津高郡、児島郡、和気郡、それに磐梨郡が
存在しており、各郡部で多少の言葉や文化が違いますので、それぞれの歴史史料をあたってみなけ
れば分からない事の方が多いです。
…、と書いたら「身も蓋もない」話になりますね。個人的に一番考えやすいというか、ありきたりの話で
すけど、ミカンの収穫時期の一部が岡山県南部の米作農家では農閑期に入りますので、「出稼ぎ」で
縁があった可能性もゼロではありません。
ネットリテラシーというモノがありますので、詳細に書けとまではいいませんが、岡山県のどのエリアか
ら、和歌山県のどのエリアへ御先祖様が移住したかをもう少し詳しくしていただかないと、調べようが
ありません。それを元に国立国会図書館などで該当郡部の郡史をあたってみるのも一つの方法では
ないかと思います。どうぞ御検討下さい。 天領地域だと長男が庄屋で次男が武士として出仕ってこともあるからな。
大坂の陣も大体このパターンだろ。長男に死なれると困るわけだろ >>148
出稼ぎのまま養子まで取って永住ってのも何か特殊そうですね。
岡山の浅口郡から和歌山の有田市です。共通点は、両住所ともかなり海に近い。頃は1880年代末です。 >>150
>>148 です。とりあえず、有田市図書館に「有田郡誌」が所蔵されています。禁帯出本ですので、市立
図書館へ行って閲覧しなければなりませんが、明治中期頃の様子をうかがう資料になると思います。
図書館では該当するページをコピーさせてもらうこともできますから、時代背景を知るための手元資料
として入手しておくことをお勧めします。
次に、近所の古老の方とか御親戚筋に尋ねてみるなど、明治期における御家の職業変遷に関する
家伝(言い伝え)を再確認してみると参考になると思います。この点では「屋号」がヒントになることも
多いです。例えば、拙宅の屋号は「○○○店」ですので、今はやっていませんが、昔は商店を営んで
いたことが分かります。
また、有田といえばミカンの大産地として有名です。そこで、「紀州有田みかんの起源と発達史」という
論文をネットで検索・参照すれば、1880年代に有田周辺で何が起きていたかを知ることができます。
これも参考文献に値すると思います。
それから、和歌山からだと結構距離があるのでなかなか難しいでしょうが、岡山県浅口市立図書館に、
「浅口郡誌」が所蔵されています。こちらも禁帯出本ですので、岡山県への出張調査になりますけれど、
御先祖様のルーツを調べるために有用な資料になり得ると思います。
あと、有効と考えられる手として「戸籍調査」があります。自分が子孫であることを証明可能な公文書、
つまり有田市役所で交付してくれる戸籍謄本の写しと除籍簿の写しを岡山県浅口市役所へ持参し、
「家系図を作りたいので、御先祖様の除籍簿を閲覧させて欲しい」と頼めば、当時の戸籍情報を入手
することができます。これは、結構強力な資料になると思います。
以上のように、事実関係を一つ一つ積み重ねて確認し、次のステップへと情報収集の範囲を広げて
いけば、有田市と岡山県浅口郡の接点が出てくるかも知れません。時間と労力が必要ですが、根気
よく調査することが大切です。頑張って下さい。
中身の割に長文かつ駄文で申し訳ない。ここまで読んでくれてありがとう。 横レス
「浅口郡誌」でググると、国会図書館に所蔵があるのを見る余地もある
取り扱ってる古本屋で買うって手もあるけど、今ググって出てきたのは16200円、安くはない。
交通費往復分+宿代とどっちが安いか判断しかねる程度の値段とは思うが。 何を一人でやってんだ馬鹿が
庄屋馬鹿ってのは厨房か?
とくに
>>154 の「横レス」は余計だったw ひとりにみえてるのか
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか >>154
>>153 です。フォローありがとう。国立国会図書館デジタルコレクションで確認するのを完璧に忘れてたわ。(笑) 私は全くの第三者で横レス失礼します。
国立国会図書館デジタルコレクションを教えていただいてよかったです。
これからも書き込んでいろいろ教えて下さい。
ありがとう。ほんとうにありがとう。
>>155
妄想を治せ。心の汚い馬鹿者め >>158
御参考になるかどうか分かりませんが、国立国会図書館デジタルコレクション以外では、
下記のデータベースもありますので、日本史を勉強するには便利な世の中になってます。
必要に応じて参照してみて下さい。(URLは2019年5月1日現在のもの)
1.宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/
2.国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/
3.谷本玲大のページ・倉庫(大日本地名辞書や大日本年表などを収蔵)
http://tanimoto.to/lumber/
4.古文自動翻訳研究センター(ソフト開発中・現行バージョンは3.1)
http://honnyaku.okunohosomichi.net/
5.木簡・くずし字解読システム(奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所)
https://mojizo.nabunken.go.jp/
6.日本図書館協会図書館リンク集
https://www.jla.or.jp/link/tabid/95/Default.aspx >>142
庄屋は下層階級
百姓のまとめ役に過ぎない
武士より遙かに下の身分
自覚しろ >>159
一連の書き込みとは関係の無い全くの第三者である私に対してこのようなご厚意を
頂戴しまして有り難うございます。
ますます貴兄のファンになってしまいそうです。
全く関係の無い、通りすがりの第三者ではありますが、これからも貴兄の書き込みから
学ばせていただきたいと思っております。
ありがとう。本当にありがとうございました。 >>161
>>159 です。たいへん御丁寧なレスをありがとうございます。昔から「袖すりあうも他生の縁」と
言われているとおり、この掲示板では、「先祖探し」という同じ方向を向いて勉強してるお仲間
ですから、彼我関係なくお互いに知識を交換し、助け合うのは当然のことだと考えております。
私も諸般の事情で「先祖探し」を継続進行しておりまして、そのプロセスに関係した物事を紹介
すれば、いつか誰かの役に立つかなと考え、気の向くままに駄文を書き散らしている次第です。
身に余る評価を頂戴し、恐縮に存じます。それでは、またどこかで御一緒させて下さい。 自作自演か?
庄屋をバカにしてる底辺がいるようだが…
庄屋が一番尊敬される立場だぞ 庄屋は底辺
田舎に行くと先祖は庄屋って奴が一杯いるけど誰も尊敬なんてしてないよ
「あの家、昔は庄屋だったんだって」
「ふーん、百姓か」
でお終い >>163 >>164
客観的証拠や言葉の定義、それに時代設定を含む議論の前提条件もなしに、庄屋と呼ばれる存在の
社会的地位を、現代の価値観で語っても、説得力を含め全然意味が無いのは明々白々なんだが…。
不毛で下らん言い合いをする前に、事実に基づく歴史学的論考をするなど、やるべき事が多々ある
はずだが、そこらあたりの学問的価値観を互いに認めたくないのかな。双方ともに、ただの「構って
ちゃん心理」の持ち主ならば心底呆れるし、幼稚園生なみの喧嘩もどきなら、放置するしかないね。 馬鹿w どっちも自演だよ
それ以外も、ここんとこずっと自演 >>165
お前が庄屋は尊敬されてるって書いたから、そんな事無いよと示しただけ
庄屋は尊敬なんてされてない
それが事実 庄屋が裕福であったことは全国的に間違いではないだろうね。
地方の庄屋は余り知らないけど。 地方でも神社の氏子代表は庄屋が多いのでは?
庄屋の屋敷は文化財指定されてるのが多いね。 金があったから当然と言えば当然。
金があったのでは、商人、網元なども入るな。 庄屋は名家と言われるが、武士はただの成り上がり者で偉くない かなり裕福な暮らしをしてた庄屋は多い。 うちの先祖の庄屋は藤原氏を名乗ってた。
庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな >>171
>庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな
庄屋の脳内庭園はいつも花盛りで満開だね。さすがに笑ったわ。 庄屋は日本国の中で実質的には最高の地位にあると思う。
道で庄屋に会ったら天皇が土下座したとか聞いたことがある。l >>169
普通に今話題の駿河銀行の創業者は庄屋だがな。 失敬。スルガ銀行の現会長兼創業者、岡野家は名主と書かれてる 今やってるお宝鑑定のテレビ特番も、皆500年以上続く庄屋大地主だらけだよね。
一介の藩士なんて全く出てこない ダイアナ妃の実家のルーツは日本から渡って来た庄屋だったらしい そうやって庄屋を蔑む手段しかないのは虚しいからやめたほうがいい >>169
ちなみに新一万札の肖像画は、豪農渋沢だよね。
彼は庄屋ではない豪農だが、幕臣旗本にまで上り詰めてる。さらにその後は列記とした財閥。もう桁が違う別格な家柄だが。 江戸時代の先祖は庄屋でも武士でもないけど
どちらか選べと言われたら武士を選ぶな
昔テレビの街頭インタビューで、お宅の先祖はどんな人?って言うのを観てたら
「武士って聞いてるよ」と答えている人が結構いた記憶があるけど、
真偽はともかく、格好いいし他人に自慢できるからだろうね
貶す訳じゃないけど自分の先祖が庄屋だったとしても自慢もしないし
別に何とも思わないと思う それは仕方がないよね。時代劇がそう印象操作しているんだから。
現実は庄屋は長屋門ある豪邸に住んで、村方支配を行い、
城下の官舎住まいの下士は、内職して凌ぐか、株売って町人の先祖帰り。
こんなリアルな現実は描かれない。
それどころか、いまだに農民ガー農民ガーとひたすら辱しめることでしか表現されない。
そら幻想の世界である時代劇の中の武士がいいのは当たり前ですよ。 >>181 >>182
なに会話調で書いてんだボケ
評論家気取りでベタなこと書きやがって笑えるっw >>183
人品が文章に出てるんだよな
自分で気付いていないみたいだけど ここは2/5ちゃんだぞ。
人品が文章に出てるってダイジョブか?
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか 庄屋には初夜権というのがあって、村娘たちが嫁に行く前に
処女をいただくことができたんだよな。 >>185
やっぱり品性下劣だね
先祖がそう言う身分だったとしても俺はその人をバカにしたり貶したりしないし
5ちゃんだから当たり前だと思っている鈍感さが重症だな よーわからんながれだが、
テレビはとにかく農民を見下した説明だよな。
百姓ではあったが、
百姓にもかかわらず
百姓のくせに
百姓ごとき
百姓にも優しくしろ
など
在郷武士は有力開発百姓が平安から武士化していったのに、
なんだこの百姓は人にあらずみたいな口の聞き方は。
いつから江戸の一介の武士ごときが旧村方支配層の有力百姓を名実ともに並べる位置になったよって話だわな
格下の分際が、いつも下級武士どもは態度が糞横柄でよ
庄屋層は武力がないとおもってんだよな えたヒニンなんてどーでもいいよ
江戸の武士だって、秀吉みたいなんだらけなんだから。 やっぱり知能低劣だね
評論家気取りで書いた>>181 >>182 を貶されて悔しくてならず
けど言い返せないものだから今度は品性なんてものを持ち出す。
品性とか人品とか、そこいらへんの気取った婆アみたいなことしか
言えない時点でお前は詰んでるんだよ
お前みたいな利口ぶった馬鹿をエッタといわれて当然だ。
お前は5ちゃんに向いてないよ やめとけって馬〜〜〜〜か 自分の認識では、ある程度の庄屋なら士分も持っている認識なんだが?士分を持っていない庄屋って、ある程度未満の庄屋という認識だが、違うのかな? 自分も渋沢家とは親交があるが、渋沢家は士分持ってるだろ。 渋谷家の話題が出たから、自分の渋谷家との親交の話しをしよう。
俺が渋谷んちに遊びに行ったとき、渋谷んちの人たちに挨拶したんだよね、そりゃ挨拶するのは当たり前だが。
俺の苗字を言ったら驚かれたよ。そりゃそうだよな、俺の先祖の苗字のルーツは深谷市だもん。
俺と渋谷が友達になったのも何かの縁なんだろうな。 ま、とにもかくにもみんなの先祖に優劣なし!優劣があるとすれば他人の先祖を敬える人と他人の先祖も敬えない人の心に優劣がある! 士分を持ってるのは小藩の庄屋か商業で成功した商人だろう。
由緒ある武家だった家でも苗字帯刀がせいぜい
良けりゃ浪人扱いかもっと良ければ郷士 知ってる身内の話だが。
長野の庄屋だった家が、明治になって、献金すれば士族にしてやると言われて断ったって話は聞いたことがある。
茨城の組頭だった家は、幕末に功績が加味されて一代帯刀になり、その後の親族の出世で士族になった。 壬申戸籍(明治五年)の場合、戸籍作成は戸長の職責だった。
戸長というのは、江戸時代の名主に代わる行政官。
基本的に収税官吏でもあり、租税が金納になったため、村人から税金を集める役目だった。
税金が集められなければ職責を果たせない。取り立ては厳しかった。
村人の方からすると鬼みたいな存在だが、戸長としては相手が老人だろうが病気していようが
払わせるしかなかった。
その他、明治になると小学校も作らなければならなかったが、国は金を出さず、
地元の自主的な建設に期待していた。小学校が出来ればそこの教師の給料は出すが、
建物は用意してくれない。
小学校建設も戸長が音頭をとってやらなければならない仕事だった。
ただし、小学校建設といっても、今我々が考えるような木造小学校は試行錯誤を経て
明治の終わりごろから建てられるようになったもので、明治初期は寺に間借りしたり、
民家の一部を改造したりしたものだった。
こうした背景から考えると、戸籍簿を士族としてやる代わりに献金を求めるというのは
大いにあり得ることである。税金が払われないとか、小学校を建てるための寄付が
集まらないとかだったのだろう。戸長もたいへんだったのである。 本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だったわけでしょ?
あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな? >>202
あの、そもそも戸長が名誉職とする規定になってるの。
戸長に選ばれること自体が名誉とされたわけで、士族なんて関係ない。 >>203
>本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。
おそらくだけど、結構地域差があったと思う。母方の田舎では、武士の子弟が通う「藩校」が、公的には
明治4(1871)年に閉校されてる。明治新政府による学校制度は、明治5(1872)年8月付けで公布
されたものだから、新教育制度への準備がここから始まり、やっと明治8(1875)年に小学校が開設さ
れた。名目で約4年間のブランクがあるね。
元々子弟教育に熱心な藩であったことと、廃城令によって解体された城の廃材を使えたので、経費が
安くて済んだことが新しい学校制度の早期実現に繋がった模様。あと、藩校の先生がこぞって学校の
教員に転じたので、小学校開設当初からかなりハイレベルな教育環境だったと伝えられてる。
藩校で儒学を修め、小学校の校長を務めた人が京都府の某地方に移住した際、人々の教育レベル
と民度の差に驚いたという記事を寄稿してるぐらいだから、基本的な学校教育システムは同じでも、
地域によっては授業の内容も違った可能性があるね。 >>203
本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だった
わけでしょ?
明治五年に学校令が出て、日本国中小学校作りに狂奔することになる。明治六年ごろから
続々と作られ、明治八、九年ごろは津々浦々至る所にという状態になる。
小学校の建物が無ければ、従来の寺子屋をそのまま小学校ということにすればよく、
とにかく建物があって先生がいれば小学校なのだから、学校を作ること自体はさほど困難
ではなかった。ただし、机だの黒板だの教卓だの、中身を備えていくのは大変だった。
一般的に言って、建物まで小学校らしくなるのはもっと後の話である。
なお、小学校が出来るまで学校制度は有名無実だったということはない。子どもの教育は
小学校の有る無しを問わず、子どもがいるかぎり施さないわけにはいかないからだ。
長野県では開智学校が有名。
当初は廃寺を改造して小学校とした(明治六年)。
その後松本市民から寄付を集め西洋建築の壮麗な校舎を作ったのだ。
最初は廃寺を利用したということの時代背景は分かるだろう。
廃仏毀釈で坊主は逃げ出し、寺は廃寺になるところも多かったのだ。
関係ないが、長野県では旧幕時代に国学の徒が多く、廃仏毀釈運動はかなりきつかった。
馬込宿の名主だった島崎藤村の父親も国学の徒で、通過する水戸天狗党の隊列を
尊敬の念を持って見送ったという日記が残っている。 明治になってからの学校建設の動きは、旧幕時代の教育を理解しないと分からない。
江戸時代の教育は寺子屋が担ったというのは誰でも知っているが、寺子屋にも
二種あった。田舎の寺子屋と江戸や京・大坂などの都会の寺子屋である。
田舎では寺子屋は旦那衆の茗荷金(寄付)で営まれていた。寺の隅に小屋などを建て、
師匠は流れ者でも何でも適当な人間を置き、無料で教えていたのである。
(ただし、親が師匠に野菜や米を持っていったりはした。)。
松下村塾の建物などをイメージしたらいいかも知れない。
都会では今の塾と同じように商売として営まれていた。しかも束脩(そくしゅう)や月謝の
取り方が絶妙であった。親の収入により五段階ぐらいにランク分けしたのである。
親としては良い家の子として目に掛けてもらいたいから、無理しても上のランクで払う。
そういう仕組みで一銭でも高くとろうとしたのである。
だから都会では基本的に余裕のある家の子でないと寺子屋には行けなかった。
無学で目に一丁字もない貧民は増えるばかりだったのである。
都会の貧民には、子どもに教育を受けさせるなど夢にも思わない者がいくらもいたのである。
明治になって学校教育を始めたときに、教育レベルや親の熱意には地域によって
大きな差があったと思われる。 >」あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に>登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな?
山本博文という人の本に出てくるよ。
旧幕時代、藩校で儒学を学べるのは上級武士の子弟だけだった。
(藩校にもいろいろあるが、突っ込みはしないこと。)
そこで学ぶ漢字は唐流(唐様)であった。
唐様というのは、楷書を基本とする中国風の書跡のこと。
江戸時代に唐様の文字を書くなどというのは本当に特殊なことだったのである。
http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2014/01/20095326.html
下級武士が学んだのは「御家流」であった。御家流とは和洋の書跡のこと。
町人や百姓が学んだのも御家流。
藩の公文書や制札、商人の帳簿や多種多様の法令文書など、ありとあらゆる文書は
今でいう楷書できっちり書かれたものではなく、御家流の崩しまくった和風文字であった。
下級武士は藩校に通えなかったが、字を学ばないわけにはいかない。
どこで教育を受けたかというと、学識のある老人のところに通ったようである。
長年帳簿係や書き役などを勤めた隠居老人のところへ行って教わっていたのだろう。
老人の方では教えるのは今でいうボランティアで、謝礼などは取らないものであった。
御家流といっても崩し方には癖というか種類があり、藩ごとに違っていただろう。
逆に言うと、藩ごとに統一されていたのではないか。
昔の崩し文字は本当に複雑なので、統一しておかないと不便だからである。
こういう文字を学んだ下級武士が明治になって下級官吏となり、戸籍簿などを作る。
そうすると皆同じように旧藩時代の御家流を書き、だから奇妙キテレツな文字という
ことになるのだろう。大正の頃までそれが続いたというのは、旧藩の武士たちが使って
いた御家流の書体が、その地方の標準的書体となっていたということだろう。 × 御家流とは和洋の書跡のこと。
○ 御家流とは和様の書跡のこと。
和洋ではなく和様 昔の子どもたちはどんなふうに文字を習ったのか。
女子の場合だが、以下のような資料がある。
山川菊栄の「武家の娘」という本 水戸藩の武士の娘の回想録
水戸では女の子は満六歳になると手習いのお師匠さんに弟子入りした。
武家の娘は当然の教養だったし、町人の娘も、女中奉公などを
目指している場合は読み書きができなければならないからである。
水戸藩では、藩士の娘と同心や町人の娘とでは教室が違った。
(ここはよく分からないが、教わる師匠自体が別だったのだろう。
なお水戸の御城下なので百姓はいない)。
同心の娘は町人の娘と同じ教室というところは面白い。
水戸では同心は武家扱いではなかったということである。
朝、早く行くのが競争のようになっていて、朝ご飯が済むとすぐに家を出る。
夏は朝霧の中を、冬は霜柱を踏んで出かけていった。
お師匠さんは下級武士の妻だった。その人は能筆で知られていて、
頼まれて師匠をしていたのである。
子持ちの主婦なので、いつも教室にいるわけではなく、手本を書いてあてがい、
娘たちは紙が真っ黒になるまで練習し、ときどき清書して出す。
それがよければ次の手本をもらうという具合だった。
習った内容は、最初は「いろは」、次に女大学などの女訓書で、字の練習だけ
ではなく、文章を読む練習にもなったし、修身の勉強的な意味もあった。
「大名づくし」という大名の苗字を並べた手本もあって、娘たちは社会科的な
知識も得たのである。 男子の場合も同じような指導法であったと思われる。
学習時間は早朝に行って数時間といったところだろう。子どもはそんなに長く
集中できないからである。弁当をもっていくようなこともなかったろう。
午前十時頃には終わったのではないか。
女の子の場合、ひととおりの勉強で済ませたので、稽古に通うのはきわめて
短期間であったようである。
さらに、娘たちは十二、三歳の頃から、お縫子として裁縫の師匠のもとに通った。
こちらの方は武家も町人も関係がなかった。
お縫子は十人ほどで、そのうち三人ほどが町人や同心の娘だった。
師匠は身分の低い貧乏な老藩士の妻で、その家では主人や息子が傘張りの
内職をやっていた。師匠はちょいちょい出かけて居なくなる。
その間、武家の娘ばかりならおとなしく針を運んでいるが、町人の娘がいると
口三味線やら芝居のこわいろ、寄席の物真似を始める。
武家の娘も釣り込まれて一緒に笑うという具合だったという。 >>210 の山川菊栄「武家の娘」は「武家の女性」に訂正。この本って以前は「武士の娘」
という題名だったんだよな。題名が変わったので混乱した。
でわ上記の続き−−−
昔の子ども達は、(藩校で学ぶ上流武士の子弟を除き)はじめから崩された御家流の
漢字を勉強した。習字をやりながら字を覚えていくのだが、今の文字(唐様、楷書)とは
大いに異なるものであった。
覚え方も今とは全然違う。
驚いたことに、九九を覚えるように、歌のような調子を付けて覚えていったのである。
例えば
木はうめよ、
人はあなどる
水はうみ
日はくらす也
心くやしき
これで、梅、侮、海、晦、悔という文字をいっぺんに覚えてしまう。 笑い話がある。
松平定信が老中首座になったときに目付を勤めた森山孝盛という武士がいた。
この侍が出世前、大阪在番の番士だった頃、同僚が無学だったことを書き残している。
(番士だったのだから徒である。森山自身は旗本で徒頭だった。)
同僚で親友の江馬という武士が無学なので、暇なときに四書の素読を教えてやった。
教えてみて吃驚した。この江馬某は、素読は字を覚えるためのものだと思いこんでいた
というのである。子どものときに調子をつけた歌のようなもので漢字を覚えたので、
四書もその類と思ったらしいのである。
孔孟の哲理も、下級武士にとってはその程度のものであった。
ついでに。森山孝盛のウィキの項目は面白いぞ。 庶民に縁のない唐様の文字というのは一種特別のものであった。
上級武士の家には、漢籍の一部を扁額や衝立に書いて飾ってあったりしたが、
唐様の漢字にはそうするだけの価値があったということである。
朝鮮通信使が日本に来ると、物見高い日本人が群衆し、物をせがんだ。
珍奇な物品が目当てだったのだろうが、書をせがむ日本人も多かった。
さすがに日本に派遣されてくるだけあって使者一行の端々まで字が書けたらしい。
書く文字は当然唐様であった。本場の唐様文字ということで、日本人は大いに
有り難がったのである。
唐様の文字を見ると、ふつうは御家流の漢字しか知らない日本人は、「あの
漢字は本当はこういうふうな文字なのか。へー、、、」とマジマジと見入った
はずである。 一方、御家流の文字というのは、日本人が漢字を使いこなすために工夫した
一種の記号であった。漢字をもとに崩しに崩して作られた文字で、平仮名や
片仮名の仲間と考えた方がいいかも知れない。
漢字をマスターするには膨大な時間とエネルギーが必要である。
日本人はそれを省略しようとした。漢字を正面から受け入れることを避け、
縦棒と曲線だけで似ても似つかない文字を作りだした。
略字であり記号であるから、間違いが起こるのは当然覚悟の上である。
そもそもがいい加減で適当で、楽をしたいという気持ちだけで作られた
冗談みたいな文字なのである。
だから、御家流の文字で書かれた文書で、間違いを指摘するような者は
いなかった。
書く方にとってはこんな気楽な文字はない。
どんな漢字を使っても読めればよい。読めない部分は前後から適当に読んで
クダサイというようなもので、判じ物と同じで意味が分からない方が馬鹿と
いうことなのである。 幕末でも日本人の識字率は高く、当時日本に来た西洋人も驚き、世界一の
教育国だったのではないかとまで言われる。
しかし、識字率世界一とされたのには事情もある。
日本人のほとんど誰もが「いろは」程度は書けたのである。
いろはをカタカナで書ければそれだけで最低限の用は足りる。
50字にも充たない仮名を知っていればそれでよいとした場合には確かに
世界一だったかも知れないが、他の国とは比較しようがない。
例えば、欧米ではアルファベット21文字を覚えただけでは何にもならない。
これに対し、日本語は類を見ないほど発音が単純といわれる。
母音と子音の組み合わせが極端に少ないのだ。だから、いろは47文字と
濁音に点々、半濁音に丸を付けるということだけ覚えれば表記できる。
「コンドアソビニイキマス。マテイテクダサイ」で手紙になる。
昔はもっと適当で、濁音や半濁音など意にもかけない人も多かった。
単なる想像だが、当時は「いろは」をカタカタとひらがなで書け、漢字を三百も
覚えていれば、堂々と胸を張って字が書けるといえたのではないか。
昔の人の文書で特徴的なのは漢字の使い方が適当であることだ。
しかしこれもいい加減ということでなく、知っている漢字が少ないので、読みが同じ
自分の知っている漢字を宛てているだけなのではないかと思う。 当時中国では、もちろん簡略化前の複雑な漢字であった。中国では、漢字は
一万字覚えなければ役には立たないと言われていた。
同じような漢字がいくつもあり、こういう場合にはこの文字、と使い方も複雑である。
ちょっとぐらい字を習っても、書けば書くほど無知が目立ち、恥をかくだけである。
最低限で一万字というのは誇張でも何でもなかった。
複雑な文字を一万字覚えるには、最低限6歳から15歳ぐらいまで勉学に集中できる
環境が必要である。誰もがこんな環境で育てられるわけがない。だから中国の
識字率は低かったのである。日本と単純には比較できない。 やたら長い文章を書く人は、本当にそれが読まれるのだと思って書いているのだろうか。 ↑
なるほど、気の毒だな。君のような人もいるんだから
もう一つ低学歴者用のスレを立てるべきだと思う。
文久三年一月、江戸にいた坂本龍馬の手控え(メモ)が残っている。
「正月十八日、勝先生大広間にて、将軍職自退の義、大義論の由、
麟太郎先生より咄承地す・・・・・」
辞退 を自退 議論 を義論 承知 を承地 としている。
他のメモには 弐人不知(弐人扶持) などという宛字もある。
読みが同じなら字は何でもかまわないという感じである。
上の森山孝盛は、松平定信が字が読めたので周囲の役人が困ったという話を
書き残している。役人が文書を読み上げて報告しているときに、読みを間違えて
しまった。そのときに定信が「その文字はこう読むのだ」と文書を読みもしない
ままで教えたのだという。
「御老中様ハ字ヲオ読ミニナラレルノデドウニモナラヌ」と役人は愚痴った。
この話は定信が字が読めたというより、それまでの老中は字がまともに読め
なかったことを示唆している。老中といえば大名で、家柄で上り詰めてきた
人たちだった。子供のときの勉強も形だけだったのだろう。老中になっても
ほとんど字も読めぬまま目暗判を押しているだけだったようである。
松平定信のような学のある殿様は珍しかったのである。 それと、上記唐流と御家流で誤解を生むかも知れない。
上級武士は唐流を習ったが、ふつうは御家流で書いていた。
唐流も書けるので、揮毫を求められたり特別な場合は唐流だったが、それ以外は
将軍でも大名でも御家流で書いていた。
公家には公家の書法があった。天皇の綸旨などは当然唐流と思われがちであるが、
書記(蔵人)の私文書の形式であり、思い切り崩した文字で斜めに書いてある。
戦国大名の手紙のような長いものではなく、一枚の半紙に雑に書き付けてある。
紙はわざと漉き返しの鼠色のものを用いた。
古い手紙や文書を漉き返した紙で、墨が溶けて鼠色なのである。
天皇の言葉は女房が間接的に伝える形をとり、女房奉書という散らし書きでさらさらと
書く書法があったが、明治の初めごろに絶えた。こういう文書を渡すときは、女房が
立ち去りながらわざとポトリと落とすような仕草をして相手に拾わせたのである。 いるよね、聞いてもないことをベラベラ一方的に話す人。相手が白けてても見えていない、感じられない。 >>224
君はこっちの方に行ってなさい。
matsuri.5ch.net/test/read.cgi/bakanews/1557047588/
江戸時代の武士の教育を担った藩校について。
藩校はそんなに古くからあったわけではない。
松平定信による寛政の改革あたりから教育熱が高まり、武士の子弟に漢学を
教える学校の設立が盛んになった。
日本における藩校の最初の成功例が熊本細川家の時習館である。
宝暦4年(1754)の設立。時習館の教育が世に名高くなり、他の藩でも寛政の頃
をピークとして設立するところが多くなった。だいたい1790年前後である。
十九世紀になって設立したところも多い。
水戸の弘道館などは天保12年(1841)になってからである。
会津藩の日新館は享和3年(1803)の設立。
教育内容は最初のうちは漢文の素読をするだけだった。
そのうち徐々に漢文の解釈もするようになり、中国の歴史なども学ぶように
なった。優秀な生徒なら、十五歳ぐらいで戦前の高等師範に相当する学力まで
達したといわれる。
ただし、高水準に至ったのは漢学に限った話だった。他は何もない。
一応算術も課目にあったらしいが、それが教えられたかは不明である。
そもそも武士の間では、算術を軽蔑する風潮があったのだという。
東京帝国大学総長になった科学者・山川健次郎は日新館の生徒だったが、
戊辰戦争で中断される十四歳までは授業を受けていた。
しかし、九九を覚えたのはアメリカ留学直前の十七歳のときだったという。
算術が教えられなかったか、誰も勉強しなかったかのどちらかだろう。 日新館には水練のためのプールもあった。これは体育というより武道としての
鍛錬だった。入学は十歳で、千人ほどの子供が学んでいた。
最初は誰でも受け入れたが、入学希望者が多くなり、結局上士の子だけを
受け入れるようになった。
会津藩では伝統的に子供が六歳になると「什」(じゅう)という地域ごとの子供の
グループに入り、年長者から指導を受けた。薩摩のク中のようなものである。
文字もここで年長の子供から教わった。
規律は厳しく、違反すると円くなった座の中央に座らせ、追求を受けた。
一同の前で「無念でありました」と謝罪すれば済む場合もあれば、全員から打擲
されることもあり、最も重い罰が「派切れ」という村八分であった。
年長者の言うことに背いてはなりませぬ、というのが第一の誓いであった。
会津白虎隊の悲劇は、この什の組織のままに戦った結果である。
大人の武士が率いていたが、途中から行方をくらましてしまった。
その後は、年長者が率いた。
そして年長者が切腹と決めれば全員迷わず死ぬほかなかったのである。 長ッ!よっぽど普段話をきいてくれる人がいないんだな。 >>226
興味深く読みました
先祖の事を調べている最中、日新館で使われていた教科書に父方先祖の名前や人物紹介が書かれていたのを発見したので
漢文でおおよそしか解らなかったけど >>>222理科系の教授連らと変わらん気もするがな・・・字の間違い指摘したら切れそうなとこもwww >>227
ふ〜〜ん、これで長いか
短いのが好きだったら俳句スレとか行けば
金玉や ひねもす ブラリブラリかな とか
>>228
あなたの御先祖は教授とか助教だったのだろうか。それとも句読師とか。
教授や助教の数はわずかで、子供たちを実際に教えていたのは句読師、習書師などと
いう名前の現場の先生だったようだ。
ここは時習館についてかみ砕いて書いてあるブログ
ameblo.jp/psi-distalengine/entry-11999591157.html
このページから
『連』および受け持ちの句読師についての説明はこちら → 『自治組織・連について』
に飛ぶとよい。
18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。 習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。
俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。 >>230 >>231
まず、これは喧嘩を売りたい訳じゃなくて、もう少し工夫してくれたら嬉しいという意見だと理解して欲しい。
投稿が長文でも、内容が伴えば許容するのはやぶさかではないが、あなたの記事はとにかく読み難い。
当方も、他人に要求するほど優れた文章を書いている訳ではないけれど、どこから始まって、どこまでが
一つのフレーズなのかを明確にすれば、読み手により一層分かって貰えるのかを考えてみて欲しい。
1文の長さを工夫して簡潔に書いてるつもりなんだろうが、それが塊で書いてあるから、読み手側として
どこで話が区切れているのか、一瞬判断に困る人も少なくないだろう。これは知的レベルの話じゃない。
あなたの投稿は、やたらだらだらと文字を書き連ねて、段落分けが大雑把すぎるのが欠点のように見える。
何でも詰め込めば良いってものじゃなくて、読み手に親切な書き方を工夫してくれると、嬉しいんだがね。
ここでは「読み手」の知識や読解レベルじゃなく、「書き手」の技術なり技量が問われてるんだと思うよ。
いずれにせよ、少しでも多くの人に物事を述べ伝えるのが、電子掲示板の存在意義だと思うが如何。 >>232
よく綺麗にまとめてくれた!
本当に、中身はあるが冗長で読みにくいんだよね。国立大学は入試で記述力を求められるが、私立大学は知識しか求められない。
中途半端に有名な私立大学出身者なのかな。だからプライドはあるが表現力が無い。 ↑
この爺さん自演癖があるんだよな
先祖探しどころじゃないのに。もうすぐ自分が先祖だろw
−−−−
藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
時習館では、初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供
たちを引率して登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をしたはず。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。 版籍奉還後の「藩」について一応書いておこう。
そうしないと廃藩置県までの動きが掴めない。
明治2年に版籍奉還。これは日本中の大名(徳川家も静岡の大名になっていた。)が
領地と領民を天皇にお返し申し上げるということだ。
では奉還を受けた天皇が土地や人民を直接統治したかというとそうではなかった。
相変わらず大名に統治させていた。ただし、大名の呼び名が変わった。
「知藩事」という名称になった。(知藩事が正しいらしいが、一般的には藩知事と呼ばれて
いるので以下藩知事と書く。)。一方、武士たちは士族と呼ばれるようになった。
藩知事になるのは旧大名の息子たちが多かった。
江戸時代の大名が、新時代にそのまま藩知事になるのは気が引けたのだろう。
例えば島津久光は隠居し、息子の忠義が藩知事になった。
山内容堂も息子の豊範を藩知事にした。
旧大名家の若殿たちを藩知事にしたメリットは二つあった。
一つは藩知事が例外なく馬鹿殿で、明治政府の言いなりであったこと。
もう一つは、藩知事を藩のトップに置くことによって、士族達の反乱を防げたことである。
もし藩知事を政府の選んだ役人などにやらせたら、たちまちに地元士族に殺されただろう。
旧主家の殿様に刃向かう武士はいないので平穏に済んだのだ。 明治政府はこの体制で10年ぐらい統治するつもりだった。
政府といっても実体は薩長土肥の寄せ集めで、財政力も軍事力も弱体だった。
藩という旧大名家の権威に乗っかって治めていくしかないと考えていた。
しかし武士たちは疲弊して反乱の気力もないことが分かり、かつ薩長土が兵を差し
出して御親兵という自前の軍事力を持つことができたので、一気に旧体制の始末に
取りかかった。明治四年の廃藩置県である。
日本中の武士が憤激するかも知れない政策であり、ビクビクものであった。
だから東京にいた藩知事全員を皇居に呼び出し、そこで天皇がいきなり詔(みことのり)の
形で宣言したのである。士族たちへは知藩事から言い渡す形を取った。
抜き打ちだったので翌日の政府の閣議は紛糾した。しかし、西郷の「もし各藩にて異議等
起こり候わば、兵を以て撃ち潰すの他ありません。」との一喝で決着した。 ということで、明治四年までは藩はそのままで、殿様(名称は藩知事)もいたのである。
その一年後の明治五年に散髪脱刀令。これは断髪令という名称で知られているが、
断髪にせよという内容ではない。
「散髪にしてもかまわない」こと、そして「帯刀しなくてもかまいませんよ」という内容
なのである。つまり「髪をきちんと結髪にして刀を差せ」という江戸時代の武士の
身なりに関する規律を緩めるものなのである。
おまけに、礼服を着るときは帯刀しなさいということまで定めている。
(なお、その2年前に「武士でないのに武士の格好をしてはいけない」という政令を
出している。武家風の装束に二本差しで歩き回る百姓町人がいたのである。)。
断髪を命ずるものではなかったから、丁髷を切らないままの武士も多かった。
同年に欧米に出立した岩倉遣欧使節団の中にも丁髷帯刀のままの者が多かった。
岩倉自身も髷を結い帯刀していた。
アメリカに渡ってから人々の好奇の目にさらされ、恥ずかしくなって散髪にしたのである。
このように、明治五、六ぐらいまでは政治も習俗もほぼ江戸時代そのままであった。
明治天皇も散髪にしたのは明治六年である。
それまでは公家風の髷(総髪で内裏雛と同じ髷)に衣冠束帯であった。 なお、関係ないが、藩という言葉は明治になってから使われた言葉だということは
知っておいた方がいい。(例外的に幕末に勤皇派の浪士などが使ったりはした。)
版籍奉還によって旧大名家が藩となったのである。
明治になってからの行政単位だから、薩摩藩とか長州藩とか昔の国名を使った
古くさい名称はつけない。藩庁のある場所の地名がつけられた。
鹿児島藩、山口藩とかである(萩ではなく山口に藩庁を置いた)。
土佐藩などとは言わず高知藩である。
加賀藩などというものもない。金沢藩である。
大名の苗字に藩をつけて呼ぶようなこともあるが、とんでもない間違い。
伊達藩などあるわけもない。仙台藩である。
会津松平家は斗南に転封されたので斗南藩である。
会津藩などというものが存在したことは一度もなかった。
徳川将軍家は静岡藩である。
藩校、藩士、藩主、藩領、藩祖、などは皆明治になってから出来た言葉である。
小説などで、武士たちが自分を「○○藩士」などと言ったり、「貴藩は、、」
などと言ったりしているのはすべて間違いである。
武士が名乗るときは、薩摩藩なら「松平三郎家来○○」などと名乗った。
なお、藩庁というのは明治政府の行政機関である藩の庁舎のこと。
江戸時代に藩庁などというものはない。藩の役所は会所と呼ばれた。 版籍奉還により領土・領民を天皇にお返ししたわけだから、旧大名は徴税権も
失うわけである。それでは旧藩主や士族はどうやって暮らしたのか。
明治三年九月十日、右大臣三条実美が藩政改革を布告。
各藩の実高の十分の一を藩知事の家禄とすること。その残高の十分の一を海
陸軍費用に、さらにその残高を藩庁諸経費と藩士改め士族・卒族の俸給に
充てることとされた。これによって藩知事や士族たちは定収入を得て一息ついた。
ただし、平均すると高禄だった家臣ほど大きく減俸され、不平は大きかった。
版籍奉還の内容を見ると、明治新政府の財政的基盤はまことに脆弱であった。
徳川将軍家の領地(天領)から静岡藩七十万石を引いた残りにすぎない。
さらに、藩は通貨発行権を持ち、藩札を乱発したり、せっせと贋札贋貨造りに
励んでいる。それでも財政に行き詰まり、廃藩を願い出る藩もあった。
高崎藩では、若殿が英学校や藩営の生糸問屋を設立したりと開明的な改革を
目指したが、大赤字を抱え込むことになった。
藩などがあっては中央集権国家は樹立できない。
次の目標が廃藩置県に絞られたのは当然である。
そこからの流れは上述した通りである。
西郷は御親兵設立に際し、薩摩士族四大隊を率いて上京してきていた。
反乱あり次第、自分が連れてきた薩摩兵だけを率いて討伐に向かうつもりで
あった。西郷は反乱を期待していたふしがある。 廃藩置県により藩知事たちは当然免官となったが、収入はどうなったのか。
明治五年に身分族称を決定。皇族、華族、士族、平民とする。
旧大名たちは免官となる代わりに新たな特権階級たる華族にしてもらった。
華族制度の創設によって、大名に関する限り、反乱の危険性は消滅した
のである。
ともかくも、明治四年七月の廃藩置県によってようやく大名という旧時代の
遺物が姿を消した。県では中央から派遣された県令が政治を司ることになった。
これによって、日本全国に中央政府の威令が届くようになった。
廃藩置県の翌年、明治五年ぐらいから本格的に明治政府が本格的に始動
しはじめたのである。
教育に関していえば、学校令は明治五年の施行である。
その前までは、実質は大名家である藩があり、武士もいたのである。
したがって明治になって数年の間は、教育も寺子屋や私塾や藩校に
よって行われていた。 明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。
藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
pleasure-bit.com/698.html
剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。 土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
actland.jp/contents/kobako/11.html
(リンクされないときはhttp://を頭に付ける)。
明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。
藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。 >>234
>>232 です。私の意見具申と第3者からの反応を、「自演」呼ばわりで罵り、「黙って俺様の駄文を読め」という態度は、
さぞかし楽しいことでしょう。あなたのことを、もう少し世間一般に存在する、「常識人」だと思った私が悪いのですね。
それはともあれ、「学窮の徒」という存在は、「世に用いられない研究者」のことですが、そのような生き方まで否定は
しません。どうぞ今後ともそのプライドを保ったまま、「孤高の存在」として、「俺様式駄文書き」に専念して下さい。
いずれにせよここは、サイバー空間における「トイレの落書き」なのですから、何を書こうがあなたの自由です。ただ、
ここで人文科学系学術議論をするべき有用な御高説が出てきたとしても、誰にも相手してもらえず、雨ざらしのまま
で放置される可能性があることを鑑みると、あなたがやっているアプローチの仕方を残念に思う次第です。 >長文さん
時間がある時に読んでるが、興味深いので続けていいよ。
確かに連続投稿には驚いたけど、どうでもよい短文のやりとりよりはるかに良い。 擁護者は一人。
レスが付かないことからもアンチが多いのを自覚すべき。 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>245 >>246
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| また自演が始まったようだな…
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/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いてるのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 >>249
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| また自演認定妄想が始まったな…
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/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いているのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 >>246
擁護とかアンチとか、実に下らん
嵐初心者だなw >>251
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| またよくエサに釣られるクマだな…
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/ つ二二lニl
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`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いてるのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 上田晋也やウド鈴木のような平たい顔がTHE 百姓顔
本物の武家は彫りが深い せんせー、どちらかと言えば彫りが浅いように見える坂本龍馬はどちらに分類されますか? 鍋島氏の男系は少弐氏だけど、祖先の武藤資頼の出自が不詳
松平氏の徳阿弥とならんで謎の人物 >>256
せんせー再度質問いいですか。郷士と武士の境界はどこにあるのでしょう。
例えば、伊賀者無足人は一応武士扱いされてたように記憶していますが…。 >>230
228ですが先祖は坊さんです
勉強になります。ありがとうございました >>249 〜 >>252
A.A.で自演とはよくやるわ。ふざけすぎだろ。
長文がどうしたとか言う資格ないわな。
子供かよ
−−−−−−
「学制」は明治5年8月に発布された日本で最初の学校制度に関する基本法令である。
この「学制」は百九章よりなる大部な法令であり、「学校の事(小学・中学・大学)」、
「教員の事」「学費の事」などに分けて規定されている。
● 学校は大・中・小の概念で分けられている。
● 尋常小学は下等4年、上等4年に分けられている。
● 尋常小学という名称の由来は何か。尋常とは普通の、という意味。
「学制」には小学校の種類として、尋常小学校のほか女子小学校や村落小学校、さらに
貧人小学校なども規定されていた。
村落小学は僻(へき)遠の村落において教則を少し省略して教えるものとし、多くは
夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。
貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によって授業料もなく、
文房具等も支給しようというものであった。
これら特殊の小学校に対して「尋常」と名付けられたのである。 「学制」は、制度面ではフランスの公教育制度をほとんどそのまま導入したものである。
(教育の内容面ではアメリカの影響が強い。)。
18世紀後半の産業革命以降、イギリスやフランスは都市プロレタリアートの貧困化という
問題を抱えていた。街はスラム化し、子供達は教育も受けずに過酷な労働に従事し、犯罪に
走る者も多かった。こうした子供達にも初等教育を受けさせるべく、貧人小学校というものが
創案されたのである。
一方、農村では子供達は10歳程度になると大人と同じような重労働に従事していた。
文盲の多いフランスの農村では、子供を小学校にやろうとしない親も多かった。
村落小学校は、こうした農村の特殊事情に対応すべく考え出されたもので、授業時間数を
減らし農繁期は休みにする等、農村生活との妥協を図ったものであった。
これらは本国でも試験的に導入されただけで終わり、日本に移入されることはなかった。
しかし、こうした特殊な小学校がなければ、日本の小学校が尋常小学校と名付けられる
ことはなかった。「尋常」はフランス語のコモン(Commun)の訳だったわけである。
学制の実施によって全国に多数の小学校がつくられた。
明治8年の小学校数は約2万4千3百。
それから30年経った明治38年でも2万7千4百だから、制度開始3年にして
ほぼ必要数を充たしていたといえる。
ちなみに平成17年の小学校数は2万3千ほどである。 学校設立の費用はどうしたかというと、学制の原案作成の段階で文部省が予算に計上
するつもりでいたが、大蔵省が強い反対を示した。結局費用については審議も何も
なされず、未決定のままで発布された。
予算の裏付けもないまま、学校を作れという法令だけが出されたのである。
学校設立の費用は土地の有力者などから寄付を募って工面するしかなかった。
さらに学校の運営費まで地元負担だった。
しかし住民が教師を勝手に決めることはできなかった。
公教育制度が始まって30年近く、授業料は親が負担した。
(ただし親が授業料を支払えないことを戸長が証明して無償とすることは可能だった。)
授業料が無償となったのは明治33年の小学校令改訂公布からである。
現代の感覚からすると公教育は無償が当たり前だが、そうではなかったのである。
小学校の実態は学制が想定したものとはほど遠かった。
大半は寺子屋を母体にした小規模校だった。
学制は下等小学校4年、上等小学校4年で、学齢を6歳から13歳までと定めていたが、
下等だけの小学校がほとんどであった。
学齢の点では4、5歳から入ってくる子供も多く、さらに20歳ぐらいの者もいて、年齢が
雑多なままに机を並べていた。
東京の市街地では、立派な校舎に正規の教員を集めて高い授業料をとるものが多かった。
設立の寄付をした金持ちたちが、自分の子を貧乏人の子と一緒にするのを嫌がった
ためでもある。貧しい家の子供たちは寺子屋に通った。 明治10年の広重によるといわれる「東京小学校教授双録」。
明治10年以前に東京に設置されていた44の学校を紹介した双六である。
開智小学校のような建物は東京では珍しくなかった。
一番下の右側の「東京師範学校」が振り出しになっている。
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/sugoroku/1-03.html
非常に近代的で豪華な建物である。
貧乏人の子供が行けるような小学校ではなかったことが分かるはずである。
東京でも立派な建物ばかりではない。いわんや地方においておやである。
明治8年の時点で、明治以降に新築された小学校は18%、残りの82%は
間借りであった。寺の空き部屋を借りたり、馬小屋を改造したりしたものもあった。
寺子屋を借り、師匠がそのまま先生に、というパターンが一番多かっただろう。
旧城下町などでは小学校設立とともに多数の私塾が開設された。
小学校へ行けば士族も平民も一緒だが、士族と平民の同席をどちらの親も嫌がった
のである。基本的に、士族の子が私塾に、町民の子が寺子屋に通ったのだろう。
ただ、明治維新の頃から、寺子屋と並んで私塾に通う子供が多くなっていた。
商人の子であれば、十歳ぐらいまで習字塾で字を習い、その後そろばん塾に通うという
ような形である。寺子屋なのか私塾なのか明確でないものもあった。
城下町に塾が多かったのは失業した武士たちが塾を開いたという理由ももちろんあった
だろう。 松本の開智学校は、商人たちの寄付によって作られた。もともと松本には材木商が
多かったが、幕末明治にかけて大火が何度も起こり、その度に材木商は巨額の利益を
得ていた。また、大火の経験から、松本の商人たちは漆喰塗り蔵造りの家を建てる
ようになっていた。漆喰塗りの左官たちの技術は絶頂に達していた。
資金と技術とがあったため、疑似洋館造りの学校を作ることができたのである。
商人の資金によって作られたため、ここで学ぶ子弟は商人の子供が多かったと
思われる。おそらく授業料も高かったと思われ、貧窮する一方の士族の子は通うことは
困難だったのではないか。
疑似洋館の小学校に通うなど、ごくごく一部の子供たちだけだった。
相変わらず寺子屋に通う子供も多かったため、文部省も一定の条件を満たした寺子屋を
小学校として認めざるを得なかった。
当時の小学校の中には、江戸時代からの寺子屋そのままで運営されていたものも
相当数あったということである。小学校という名前で寺子屋式の授業をやっているという
のが実態であった。 学制が公布された翌年の明治6年、就学率はどの程度だったかというと、男子が約40%、
女子が約15%。合計すると30%に充たない。学校に来るのは三人に一人以下であった。
江戸時代、寺子屋に通った子供がどの程度いたかというと、男子の場合は期間の長短を
問わなければほぼすべての子供が通っただろうと言われている。
明治になって学制を敷いた結果、就学率はかえって下がってしまったわけである。
その原因は、小学校が授業料を徴集したことである。
江戸時代の寺子屋は(都市の金持ちの子供相手のものを除き)ほぼ無償であった。
しかし、教育は有償というのが当たり前になり、寺子屋を支えていた地元有力者も
小学校を支援するようになる。無償の寺子屋は消えていき、小学校の就学率は
上がっていった。
明治12年で男子の就学率は58%を越え、女子は23%近くになる。
明治23年には男子が65%、女子が30%、その後急速に上昇していき、明治33年の
小学校令改正で授業料が無償になると特に女子の就学率が伸びた。
明治末年ごろには男女とも就学率100%となる。 教員は、講習所や教員伝習所などで短期間の訓練を受けた寺子屋の師匠や士族の青年
たちであった。
明治五年に東京師範学校、翌年に大阪と仙台に、その翌年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
これらは後の府県立師範学校と区別して、官立師範学校と呼ばれるようになる。
その後、東京師範学校ただ一校を残し、それ以外の官立師範学校はすべて廃校になった。
その一方で府県立の師範学校がどんどん作られていった。
東京師範学校を頂点とするヒエラルキーを構築しようとしたためと思われる。
たとえば大阪では明治8年、それまでに有った講習所、教員伝習所をまとめて
大阪府師範学校が設立された。一方で明治11年に官立大阪師範学校は廃校となった。
これが戦後の新学制まで続く教員養成体制の原型である。 >>259
>>257 です。遅レス失礼 風呂→飯→酔 で離席しました、相済みません。
そうですか、私の記憶が間違ってたということで、伊賀市役所に別途問い合わせてみます。お世話様でした。 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>259 先生
>>267 です。よく眠ったので酔いが覚めました。(笑)
とりあえず、「伊賀市史第2巻通史編近世(三重県伊賀市編纂/以下史料1)」と「伊賀国における郷土集落
と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」の二つを入手しました。(ネット社会は便利ですね)
伊賀国の無足人に関する記述はというと、「藤堂藩には、無足人と称される郷士がおり、藩によって帯刀を
許可されていた。(史料1−89ページ)」また、「無足人とは知行地をもたない準士分のことをいう。このよう
な存在のことを多くの藩では郷士と呼称したが、藤堂藩では無足人と呼称した。(史料2−229ページ)」
次に、「無足人同士の養子縁組はよいが、無足人と百姓との養子縁組はいけないという定めになっていた。
(史料1−240ページ)」という記述から、少なくとも無足人は士農工商という身分制度の下で、下級といえ
ども武士扱いされていたことが分かります。
そして、「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)」で、以下のような社会システムが
規定されていたとあります。
加判奉行−郡奉行−郡代官−+−無足人頭−藪廻無足人−御目見無足人−山廻・平無足人
|
+−大庄屋−庄屋組合頭−庄屋−年寄−組頭−農民
よって、無足人(郷士)は、軽輩といえども武士階級の末端レベルを担っていたと考えるのが合理的だと考えます。
となると、>>256 の御主張「郷士は武士じゃないですから」と、>>253 の御主張「本物の武士は彫りが深い」の論拠
が少し怪しくなると思われます。これらの御主張を成立させるためには、武士にも2種類あり、「知行地を持つ武士
は本物」、「それ以外の侍は士(卒)分を持つ下級の人々」という分類を採用するのが妥当かと考えます。
とりあえず、こういう認識でよろしいでしょうか? >>270 ミスタイプがありました。すみません。
誤 : 「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)
正 : 「地方統治機構と郷士編成機構との関係図」(史料2−70ページ) 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、
昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の
名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>270
彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長 >>260 書き出し … 度量と感性がなさすぎ。これも酷評しないとね。
冬月 : 「(また自演妄想癖が)始まったな。」
・・・ (エヴァンゲリオンAA略) ・・・
碇 : 「ああ、すべてはこれからだ。(唯我独尊だとみんな気付いているからね)」 ↑
けっこう自演叩きに慣れてるじゃん(藁 藁 藁 藁 藁 藁 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ >>269
長男や長女でもなく、続柄も中途半端な間柄で襲名なんかあるの? 彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長
こういう場合は襲名があるんだな 先祖代々の土地について。
江戸時代は土地って最初はどうやって取得するの?
俺の先祖は江戸後期頃、別の藩から逃げてきて今の土地(俺が住んでる場所)に来たみたいなんだが、山とか田んぼとか大量に土地がある。 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ 東京師範学校は、他に大阪師範学校などの官立師範学校が出来るまで、単に「師範学校」と
いう名称だった。この「東京の」師範学校にアメリカ人教師を招聘、アメリカの師範学校を
モデルにした教員養成が開始された。
明治政府がモデルにした師範学校や初等教育の内容がアメリカであったのは、当時、初等
教育の最先進国がアメリカと目されていたからだ。
ヨーロッパでは伝統的に教会が子供の教育を担っていた。また、長い貴族制度の伝統から、
上流階級の子弟の教育は家庭教師によってなされる場合が多かった。
さらに、公教育が施されても、その中身はエリート主義であった。
誰にでも公教育を与えようとするアメリカの態度は、「村々に無学の戸なからしめん」とする
日本の方針に合致していた。
アメリカで初等教育の普及が熱心に行われたのは、移民の国であることから、子供にアメリカ人
としての意識を持たせ、きちんとした英語を教える必要があったためである。
オランダやドイツ、スカンジナビア、フランスからの移民など、第一世代は英語を話さない人々も
多かった。(イタリアからの移民は、1880年代からが多い。なお、ドイツ系アメリカ人・有名人
でググってみると驚く。ディカプリオとかジョニー・デップとか。)。
余談だが、アメリカにはペンシルバニア・ドイツ語という、ドイツ系移民の言葉を今でも使って
いる人々が多数いるという。フランス系のケベック語なども同様である。
日本の初等教育に最も影響を与えた「お雇い外国人」は、明治4年から14年という創生期に
活動したマリオン.M..スコットというアメリカ人である。
「日本に最初に教員養成法ならびに近代教授法方法を導入した人物として知られる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1990/1991/17/1991_17_43/_pdf 師範学校は、明治5年8月に入学試験を実施して54人の入学を許可した。
授業は同年9月からはじまった。授業の仕方は以下のようなものであった。
まずスコットの言うとおりの黒板を用意し、そこにスコットが伝えんとするところを書く。それを
通弁官が訳す。「彼の国の事をそっくり取ってやる」と待ちかまえている日本人たち(師範学校
生徒たち)が通弁の訳したところをせっせと筆記するという形であった。
ところで、教授方とは実技である。筆記してそれで終わりではない。
日本には後の小学校教則もまだ確定していなかったから、小学校でどのような授業をする
のか皆目分からなかった。課目も決まっていないのだから、内容をどんな風に教えるのか
分かるはずもない。だからアメリカの授業法をコピーするしかなかったのである。
そのためにまずアメリカの小学校の再現からはじまった。
小学校の教場は、日本のように正座でなく、机と腰掛で授業をするのでなければいけない
らしいというので、わざわざ昌平黌の畳を剥がして、穴だらけの板の間を用いたという。
(師範学校は最初は昌平坂学問所の建物を利用した。)。
生徒の中で学力優秀な者を机に座らせ、スコットがこれを小学児童とみなして小学校の
授業をやってみせた。その後、今度はその生徒役をやった生徒が先生となり、他の生徒を
児童として授業をして見せたのである。この一連の伝習を見学していた師範学校校長
諸葛信澄が明治6年、学級教授法を説明した「小学教師必携」を出版した。 明治6年2月、師範学校に練習小学校を付設した。附属小学校の前身である。
同年6月には学科を本科と予科に分け、本科は修業年限一年の師範科とした。
7年4月には在学期限を二年とした。
8年7月には予科を廃止し、予科生徒の代わりに試験生をおくこととなった。
入学希望者は年齢も経歴も様々、学力も千差万別であった。
いきなり予科生とするより、試験生として学習に耐えられるかを見た方がいいと判断した
らしい。本科生の選別はたいへんだったろうと思われる。
最初の師範学校生徒は一年で卒業すると、ただちに府県各所で行われる講習会の教師と
なり授業法を教授した。「スコットが授業→スコットの授業を真似た授業→スコットの授業を
真似た授業を受けた講習会の受講生が授業」という形で小学校の授業は行われて
いったのえある。ねずみ講のようなやり方であった。
(東京)師範学校に続いて、翌明治6年に大阪と仙台に、7年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
最初の師範学校生徒のうち優秀な者は、一年程度の学習で師範学校教授になったのである。
師範学校が東京だけでは足りなかったのは、教育できる生徒数だけの問題ではない。
当時は新橋−横浜間に鉄道が通った程度であった。交通機関が未発達で、全国の生徒を
集めるのが困難だったのである。明治5年当時は四日市から横浜まで汽船が運航されていた。
大阪の人間なら四日市まで歩いて横浜まで船で行き、そこから汽車で東京へというのが
一番早く着く方法だった。その後、京都−神戸間の鉄道が開通、さらに神戸−長崎間に
汽船が運航されるようになった。けれど東海道線の全面開通までには20年近くかかった
のである。とりあえず大阪と仙台に師範学校をつくり、立て続けに名古屋・広島・・・などに
開校していったのは必要不可欠なことであった。 終わってんなこのスレ。誰も読まない長文垂れ流し、たまに書き込む人がいても長文に埋もれてレスは無し。
どうなってんだよ >>285
あのですね、このスレッドには何種類かのヒトがいて、歴史の面白さを半減させようと日夜努力しているのです。
1.自称、高学歴で知識はあるが、長文で書き込むしか能が無く、他人の論評は一切受け付けないヒト。
2.何か意味がありそうなやりとりがあると、必ず「自演」と決めつけて、自分の優越感を満足させるヒト。
3.古代から近世に至る事象を、すべて現代の価値観でしか評価できず、反論の存在を認めないヒト。
4.社会階層の話が出ると、ヒエラルキーやファクトの存在を無視して、自説絶対主義に逃げ込むヒト。
5.世間一般常識人の書き込みに対し、知的レベルなり学歴を自分勝手に設定し、相手を見下すヒト。
6.ここに書き込まれる質問や意見を、自分に関係あろうがなかろうが、その価値を絶対認めないヒト。
7.歴史上の事実を一元的解釈することに固執して、ユーモアやウィットという手法で表現できないヒト。
…とまぁ、上記各項の属性を一つあるいは二つ以上持つ人々が、暇潰しでスレッドを無意味に伸ばし、
多くの記事を投稿することで、自分の蘊蓄こそが他者のそれより優れているという自己肯定感の確認
作業をしている訳ですから、御指摘のとおり「終わっている」という風に捉えられても仕方が無いです。
とはいえ、希望の光がまったく差さない訳でもなく、客観的エビデンスに基づいた事実確認や用語の
定義等による会話というものが、時々ですが出現します。故にここで希望を持つことはなかなか難しい
ですが、絶望的になって歴史に対する興味全部を投げ出すには、少々惜しい存在だとも考えます。
で、こういう書き込みをすると、やれ自演だの低能だの低学歴者扱いをする人が、ほぼ必ず現れます
から、それをどう受け流すかが一つのポイントになります。とどのつまり、記事の読み方を自分なりに
工夫する必要がありますので、投稿内容の理非善悪は別として、読み手を選ぶ結構厄介なスレッド
だと考えるべきでしょう。 明治維新後、戸籍を作るときに、身分制度として 皇族・華族・士族・平民 の四身分と
したのだが、その前に一時期、士族の他に卒族という身分を設けていた。
皇族・華族・士族・卒族・平民 の五身分としていたわけだ。
ここで、「卒」とは兵卒の卒。下級の兵士のこと。召使いの意味もある。
卒族として扱う人々としては、足軽や武家の奉公人たちを予定していた。
足軽とは、もともとは槍組や弓組、鉄砲組に属する雑兵と呼ばれる人たちであった。
時代が下がると、様々な末端の雑務に従事するようになった。
「書き足軽」という、行政事務を業務とする人たちもいた。
武家の奉公人とは、主君から見ると「家来の家来」であるから、「陪臣」とか股者(また
もの)と呼ばれていた人たちである。
陪臣でも仕える主人が高禄の武士だと、内部では「家老」と呼ばれていたりした。
ところで、卒族というような身分を認めると、明治の元勲の多くがこれに当て嵌まって
しまう。伊藤博文などは「中間」(ちゅうげん)だった。
中間というのは、主人の雑用係で男の女中さんのようなもの。主人が登城するときに
鋏箱に弁当を入れてお供する家来がいるが、あれが中間である。
(草履取りのような役目をする家来は小者と言った。)。
山県有朋は手明鑓(てあきやり)という、足軽より下の郷士のような身分だった。
最下級の兵士身分である。
伊東も山県も、元をただせば間違いなく卒族に分類される身分だった。 そういうこともあってか、卒族という身分はなくなり、武家関係はすべて士族という
身分に統一されることになった。
しかし、そうなると今度は本来は卒族に入るべき人の中で、士族に入る人と平民に
入る人をどう区別するかが問題になってくる。
これについては、実務上「代々世襲していた家かどうか」が基準とされていたようである。
世襲される「家」があれば士族、一代限りの勤めであれば平民とされたのである。
当主が死んだときに、跡継ぎによって相続がなされるものは「家」である。
家というものが、藩から認められているものであれば相続が許されるし、認められていな
ければ、跡継ぎがあっても相続はなされない。
重要な点は、藩の認める「家」として成立しているか否かであった。
前スレの816にこう書いた。
磯田道史 近世大名家臣団の社会構造 東京大学出版会 から抜粋した資料。
−−−−−−−−−
大名の家中は、士(侍)、徒(歩行)、足軽に三区分できる。
岡山藩の宝永四年(1707)の人口調査によると
士格の家が758で全体の19.2パーセント 家族を含めた人数 3026人
徒格の家が762で19.3パーセント 家族を含めた人数 2700人
足軽の「家」が2436で61.6パーセント 家族を含めた人数 3130人 足軽は2500ほどの「家」があるが、家族全体の人数は3000人強
士格の家族全体の数と変わらない。
一世帯あたりの家族数は1.2人程度で、これは単身者がほとんどということである。
足軽以下では一代限りの者がほとんどで、家として相続が認められるのは
一割以下であった。
足軽以下の身分の人たちは、単身で組屋敷に居住するのがほとんど。
近隣の農村に住み、通って来る者もいたようだ。
要するに足軽以下というのは近隣の農村の次男坊とか三男坊で、人別(戸籍)は
村に残し、近ければ歩いて通い、通うのが無理ならお長屋に住んで役を勤めていた
ようである。彼らが城下町において家を形成することはほとんどなかった。
−−−−−−−−−
2436戸(家)の9割以上は一代限り。残り1割に満たない、おそらく200戸程度の
家が相続を認められていた。この200戸程度の家の当主は、身分は低いが家臣団
の一部を形勢していたといえるのである。
そもそも足軽の俸給は五両二人扶持と相場が決まっていた。しかしこれでは一人で
暮らすことはできても家庭は持てない。
「家」と認められるには、まず家庭を持ち子供を育てられるだけの俸給を得ていな
ければならない。
この点、「家」を認められた足軽は、二十俵三人扶持とか、一般の足軽より多く
支給されていたのである。
俸給を多くしてもらうには、まず精勤に精勤を重ねて働きを認められなければならない。
生涯隙間無く働き、功労として俸給を上げて貰うのが先決である。
その一般より高い俸給を跡を継いだ息子も貰えるようになれば(継いだ当初は多少
減らされるのは慣例だが)、とりあえず家として認められたことになるのである。 生涯仕事一筋の足軽は独身者がほとんどである。だから養子を貰って継がせること
が多いのだが、その養子は誰もが納得する真面目で評判のよい男である必要が
ある。この場合、足軽は足軽で独自の社会を形成していたから、養子は足軽社会に
属する気心の知れた人間が最も良い。結局、同僚の次男とか甥とかが一番妥当と
いうことになる。さらに、養子を身分の高い家から貰えば、相続が認められる確率は
高くなるだろう。足軽でも存外家中の名家と繋がりがあることが多いが、それには
身分の高い家の縁者を養子にしたとか、そんな事情があるのかも知れない。
江戸時代の村では、村内の「家」を家株として把握することが行われた。
村の一員として存続しうる家を家株と言い、村の負担や諸事業は家株に担われたから、
家株の減少は村にとっても死活問題だった。
だから相互に助け合ったのだが、その努力にかかわらず潰れ百姓になる家も出た。
こうした場合、小規模農家が潰れるのを防ぐため分家を認めない村でも、
絶人株(後継者が絶えて空いた家の株)を 継ぐためであれば分家を認めた。
五人組を形成するのでも、まずはしっかりした家株の農家であることが前提であった。
要するに、家があって農業をしていれば「家」と認められるのではなかった。
これまで継続してきており、これからも継続していけるであろう家であってはじめて
家株と認められたのである。
家株であってはじめて村の中で存在も発言権も認められたのである。
実際上は、おおよそ持高三石未満では家の存続は不可能であった。
こうした小規模農家は三代も続かず村から姿を消すことになる。
だから、村の中でははじめから家株として数えられていなかった。 足軽の「家」も、農村の家株と非常によく似ている。
その足軽の家が「家」と認められていれば、その家の子が家を継いで続いてゆく。
そうでないなら、たまたまその足軽が足軽を稼業として渡世しているだけに過ぎない。
明治になって、戸籍作成の際、「代々世襲していた家かどうか」が基準とされたのは、
藩の認めた家の足軽なのか、そうでないのかを区別するためであった。
明治五年からの戸籍作成にあたり、戸長が苦労したのが、足軽身分の者の取り扱い
であった。相手は士分であると言うが、足軽とは、上記のようにほとんどの者が一代
限りの傭われ者に過ぎない。このため、「代数調べ」ということがなされたようである。
代数調べに関する書類が今でもあちこちに残っている。
単に何代に亘る奉公かということだけでなく、先祖の由緒書きなども添えられている
らしい。こうした書類は、おそらく藩庁で作ってもらったものなのだろう。
明治四年に廃藩置県がなされたといっても、即座に藩庁がなくなったわけではない。
秩禄処分が決定されたのが明治九年であるが、金録公債発行開始が明治十一年
である。藩の残務処理は継続されていたのである。 ところで、>>281の
>厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・
という見解は基本的に正しいが、武士の戸籍(?)である分限帳は、足軽について
は作成されない。分限帳に載っているのは上級武士だけである。たまに徒について
作成されたものもあるが(井伊家など)、足軽について作成されることはない。
足軽の記載は、なされても数だけである。「○○差配、足軽70名」など。
分限帳に載るのは原則として「お目見え以上」と解するのが妥当である。
お目見え以上だから、その武士の名前や先祖がどうしたとか(由緒)が問題となる
のであり、お目見え以下の徒にはその必要はない。
ましてや足軽の名前や先祖など殿様が知る必要は全く無いのである。
ただし相続の認められる足軽は、一般の足軽とは給与の額も形態も違っていた。
藩から直接家禄を頂戴していたので、藩にはそれなりの情報が届けられていたので
ある。だから代数調べも可能だったのである。
(陪臣の場合は、主家に書類を書いてもらったのだろう。)。
代数調べ関しては、次のようなことが問題となる。
足軽の家が藩から「家」と認められていない限り身分の相続はなされないというが、
一代限りといわれる雇いの足軽でも、事実上は子が跡を継ぐことが可能だった。
足軽や徒の息子は、元服前の13歳ぐらいで早くも見習いに出たようである。
今でいえば中学一年程度の子供である。
上級武士とちがって兵隊のようなものであるから、子供でも勤まらないことはない。
こういう子供がウロウロしている間に顔を覚えられ、皆に可愛がられる。
そうしているうちに父親が引退することになり、ではお前が跡をやるかということに
なる。そうやって代替わりをしていくのが普通であった。
そうだとすると、ただの足軽でも何代にも亘って奉公している者がいくらもいるのでは
ないか、これらの者が士族であると主張したらどうなるのか、という疑問がわく。 版籍奉還の後、知藩事は実収石高の十分の一、藩士の家禄は残り十分の九から
藩の経費を差し引いたものを分かつことになった。
石高の大きい家ほど家禄を大きく削られ、家臣を養っていく余裕は無くなった。
藩も、足軽を傭う余裕はなくなった。廃城令は明治六年だが、城ははやくも放置されて
いた。とうの昔に参勤交代もない。足軽など、そもそも必要がなくなっていた。
だから戸籍作成が始まった明治五年頃には、足軽や陪臣のほとんどが姿を消していた
はずである。残っていたのは家として認められていた足軽とか、主家と分かちがたく
繋がった陪臣だけだっただろう。
明治五年の段階では、まだ武士がいた。大名は廃藩置県で無くなったが、金録公債
が発行された明治十一年までは武士というものがこの世にいたのである。
だから戸籍作成の際は、その人たちを士族とすればそれでよかった。
さらに、陪臣や足軽でも、現に刀を差してそこにいる人を士族とすればいいのだから、
認定にそれほど困難はなかったはずである。ただ、世の激変で、本来士族とすべき
陪臣や足軽でも、引退したり職を変えていたような人たちもいただろう。そういう人たち
が士族とされることを望んだときに、上述の代数調べのような書類が必要だっという
ことなのではなかろうか。実際も士族認定はかなり寛容であったようである。 具体例を挙げる。(事案は幕府の同心であるが、足軽と同じと考えてよい。)。
樋口一葉の父は武士に憧れ、甲州から江戸へ出て武家奉公をし、妻を貰うと妻も
奉公して二人でコツコツと金を貯めた。その金で八丁堀同心の株を買ったが、
買ったとたんに幕府が倒れた。こうなると悲劇というより喜劇である。
しかし、それでも樋口家は士族となった。一葉は、華族や士族の娘しか入れない
萩の舎という私塾に入って和歌などを学んだ。
父親が同心株を買わなければ士族にはならず、一葉が小説を書くこともなかった
わけである。
ところで、注意すべきは一葉の父親は同心「株」を買っていたから士族になれたと
いうことである。ただ同心になっただけでは士族になれたかどうかは分からない。
「株」すなわち同心の家株を買ったから、代々相続されてきた同心の家の当主という
ことになり、それ故に士族と認定してもらえたのである。
足軽の相続が認められるか否かも、家株が出来ていたかどうかによるわけである。
最後に。足軽が武士であるかどうかなどということは、明治になって「足軽を士族と
認めうるか」という平面で問題になったにすぎない。
江戸時代に足軽が武士か、など論ずる人もいなかったろう。
足軽は足軽なのである。士分でなければ徒でもない。
士分のようなものが武士であるとすれば、足軽は武士ではない。
しかし、大小二本差しとか羽織が着れるとか、似たような部分もある。
共通点をあげていって、結局足軽も士分ではないかと言えば、その通りだと賛成
する人もいるだろう。だがそんなふうに結論づけても特段意味はない。
違うものを違うと言っても、同じようなものだと言っても、結局同じことを別の方向
から言っているに過ぎないのである。
同じ材料を使っても、結論はいずれへも導きうる。
最終的には武士というものをどう定義するかの問題にすぎない。
といっても武士の定義づけにさほどの意味はない。
歴史学は規範科学ではないのである。 上の、伊賀無足人がどうのこうの、或いは郷士がどうしたのという書き込みは、武士か
どうかという問題設定をしている時点ですでに妥当でない。さらに言うと、資料に市史を
使っているのは噴飯ものである。
市史などというものは、一般に言われているところを概説的にまとめたものにすぎない。
当たり障りのない文章を叙述したものにすぎないのである。
だいたい市史編集なんてものをさせられるのは、いわゆる窓際族のおじさんとか、
主流から外れた人たちであることは誰もが知るところである。
>>270 の人とか、何を有り難がってるのかよく分からない。
また、「伊賀国における郷土集落 と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」
というのをググってみたら、立命館の会報の論文で、修士課程の論文に手を入れたもの
だという。著者も現在研究職にあるわけでもなさそうである。ググっても何も引っかかって
こない。こんな卒両論文に毛の生えたようなものを資料にしてどうするのだろうか。
>>285 >>287 はきわめて無礼である。だから書いたのだが、ついでにもう一つ書いて
おこう。このシッタカ男は >>148 で郡史の利用を勧めているが、正気の沙汰とは思えない。
一介の庶民の出稼ぎ先だの就職先だのを調べるのに何で郡史なのか。
こんなものを調べたって役に立つわけがない。出身地の郡史を調べて、「漁業が盛ん」
ということだったら、漁業関係の出稼ぎ、ということになるのか? そもそも岡山での職業が明確に分かったって和歌山での職業特定の役には立たない。
岡山での職業と和歌山での職業が直接関係あるかは不確定なんだし。
農業やってたのが一念発起して和歌山で事業を興したという場合だってある。
どういう職業だったのか等は、移転先の和歌山で調べるのが妥当だし、まずは
移転先の住所を確定して、その住所のある場所がどんなところだったのかを調べるのが
普通だろう。その際に町史などを利用するなら理解できる。
出身地の郡史など迂遠すぎてお話にならないわ。
だいたい普通の人なら、自分のお祖父さんが何の仕事をしていたかぐらいは分かるよな。
親から聞いてる。
だったら、親は曾祖父の職業を知ってるだろ。その親から聞いてるはずだから。
その曾祖父が何故養子に行ったのかとか、養子先はどんな家だったのかなどは
やっぱり親(質問者の親)は聞いてるんじゃないのか?
普通のことじゃないからな。
それが全く分からないというなら、そういう家なんだと諦めるしかない。
そこの家の人間だって分からないものが、他人に分かるわけがない。
よその家のひい爺さんが明治時代に養子に行った先の家のことなんか、
誰が分かるっていうんだ。笑ってしまうよ。 黒田官兵衛の祖父は目薬屋だが極めて教養高い人物だったため元は高い身分の武士の家系だったと
いうのが最近の見解らしいが、それでも「それでも」、家系についての明確な伝承はないし
字が書けるだけの家なのに系図も正確に残っていない。
こういう家でも家系図のない程度の家ということなのかね? / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| よくもまあエサに釣られるクマだな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ろくでもないこと書いて、笑われると後からネタだよという馬鹿
最近多いよね うん、百姓と武家で顔が違うの珍説はマジ笑えた
また誰かやらかしてくれないかな 百姓と武家で顔が違うというのは真面目な説だ
私は感動した
珍説とは何だ馬鹿者
ふざけるのもいい加減にしろ >>304
へー、医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
くわしくおしえて、馬鹿だからわかんない なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
ひで なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
秀吉も元は地侍層かもしれない
蜂須賀は国人だと思われる
もうさ、こんなんだらけで、もうエフランガイジは歴史とか感心持つの辞めろや なら白山信仰の山伏なんか、薬学、力学、物理学、工学などあらゆる当時の知識の総合デパートだから、
山伏は皆超名門の武家だらけだな。
なら白山信仰こそ究極の戦国以前の武家の信仰だ。
江戸武士は白山信仰の奴も多いが、
もう白山信仰や山伏を非差別なんて二度と言うなよ
エフランは本当にガイジそのものだわ >>304
池沼だな
医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースだってよ
プッ 顔立ちも、
江戸以降の武士は庶民からでていて、
一介の藩士と庶民層にはほとんど変わらない類似点が多すぎて話にならない。
法医学が言ってる武士は上級武士(高家や旗本、大名)は庶民と違うと言っている。
庶民も堀が深いと言っており、
逆にノッペリは上級支配層に多いと言ってる
この堀の形成の最大のものは、実は遺伝性以上に食べ物とも。 >>280
今住んでる場所がどこか分からないので何とも言えないが
江戸時代、栃木や茨城なんかには北陸からたくさんの農民が移住してるよ >>311
食生活の関係で顎が小さくて現代人に似た顔だったんだろ、環境性の変化だよ >>316
そう、あと脂肪率
平百姓以下や下級武士の栄養率の問題
かなり栄養不足なため、元はノッペリでも、
目も窪み、筋張る
見た目の目鼻立ちなんてかなり栄養率が関係 してる モンゴル人は肉を大量に食べてるし乳製品も豊富に摂る。
酒だって馬乳酒とかだった。
それだって顔はノッペリしてる。栄養なんか関係あるかよボケ 源氏も平氏も天皇家の分家なんだからのっぺりしてて当然じゃない? >>308 >>309
エフランなら大学行ったということだろ。そのレベルですらない。
リアル厨房とか中卒ボケ爺さんレベル
>>267 なんて市役所に問い合わせるなんて言ってるんだぜ
ここまで猛烈に頭悪いと逆に爽快だわ
>>306 なんか
>医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
とか言ってる。学問的データに日本政府公認て何だよww もう壊滅的に馬鹿 >>319
臣籍降下したらもはや分家ですらないし、
朝廷降下した源氏や平の戸籍管理なんか一切してないから、家系図詐欺が横行できたんだが?
そもそも源氏なんてどこに源氏の総領経基と血統的近似性が保たれている証拠あんだよ?
公然に詐欺してオッケーの家系図すら、
二代目満仲でもはや生年月日から母親まで不の有様なのに、馬鹿じゃね? 訂正
朝廷は、降下した源氏の戸籍管理なんか一切してない さらに訂正
二代目満仲の時点で生年月日から母親まで詳細が、全く不明という有様 >>314
なんで? ってお前、
幕藩体制中期以降、都市商業の発展と農村荒廃を背景として広範な人口移動が
見られたのは常識レベルの知識だろうが
帰農令とか人返しの法とか学校で教わったろ
寛政の改革とか天保の改革とか 言葉だけでも知らないのか?
「人返し」ってのは都市に流入しちゃった農民を在所に帰すということだけじゃなくて
他領に逃げた農民を取り戻すため、勝手に移住した者を領主間の交渉で
召還することを含むんだよ。
逃散しちゃった農民を追跡して他領に居るのを見つけて、そこの領主に「俺んとこに
返してくれや」と掛け合ったりしたのだ。
そういう交渉もうまくいくばかりではないから、
農村が無人になる前に他領から新しく農民を移入させる。
そういうのに間引きが盛んかどうか(間引きをやらない地域では人が余っている)とか
いろんな理由がからんで、けっこう人口移動が盛んだったのだ
こんなことも知らないのか
義務教育で習うようなことも知らない馬鹿は来るなよ
特別支援学級じゃねえよw >>324
いや、なぜ北関東だったのか聞いたんだが?
発達の読解力を遺憾なく発揮されてもなあ
まあでも懇切丁寧にありがとう。 コミュニケーション能力にちょっと問題があるようだな
なんで? だけで 「なぜ北関東だったのか」と聞いたことになるのか
発達の文章力を遺憾なく発揮してくれてもなあ・・・
まあ後から考えた言い訳なんだろうけど。一生懸命にご苦労さん。 2chは玉石混淆だからな・・・それなりに妥当性があればチクチクやらなくても http://hist-geo.jp/img/archive/021_175.pdf
何故北関東かと言われても、最初はコネクションがあったからとか人脈がどうしたとか
しか言いようがない。多少浄土真宗が絡んでいるので、「仏縁」というべきか(笑
しかし、一旦北陸からの移民があった後は、秘密のルートとでもいうべきものが出来て、
長い間にかなりの数の農民が移入してきている。論文は寛政期から明治初期までに
限っているが、移住ということだけなら大正時代まで続くという。
村は現在の栃木や茨城のほぼ全範囲に分布しているといっても過言でない。
福島にも移住しているが、論文は栃木・茨城の延長線上の現象と捉え割愛している。
偶然ともいうべきキッカケで始まったものではあるが、理屈をつければそれなりの理屈が
付く。まず、真岡への移入は、天領であったことが最大の理由だろう。
他国の百姓を受け入れてしまうのだから、悶着が起こるのは当然予想される。
しかし、百姓が逃げ出して来るのは越後高田近在。あちらも天領、こちらも天領。
一番問題が少ないパターンだろう。
一方で、茨城の方面は、当初は笠間であった。笠間は譜代とはいえ大名領である。
そして百姓が逃散してくるのは加賀から。あちらの大名にとっては違法行為である。
大名同士となると話はそう簡単でない。
ただ加賀藩は外様で、最も幕府に気を使っている大名である。
表だって喧嘩はすまいという見込みがある。
とはいいながら、実際も加賀からの百姓の移住には往来手形を偽造するなど、かなり
慎重な配慮もしている。おっかなびっくりだったようで、真岡に比べると数も少ない。
あと、さすがに江戸の近郊で他藩の逃散百姓受け入れなんてことをやったらマズイだろう。
その点、真岡とか笠間などは、当時江戸からみたら北方の山裾で、どうでもいいような田舎
であった。
あと、常陸の宍戸藩なども同じようなことをしているが、こちらは水戸藩の連枝である。
怖いもの無しだったろうと思われる。 >>320
先生、こちらは壊滅的に馬鹿だからマジで分かんないことばっかりです
馬鹿につける薬がないならあきめますが、先生ならいろいろ高度な知識がおありでしょうから
できればおしえていただきたいので、少々ものをお伺いしてもかまいませんか
公に認められる医学的データで、厚労省が認定した臨床データ以外のものがあるんですよね
でも、学会誌にある論文は卒論に毛が生えたようなものだから信用したら駄目という人もいるし
百姓と武家で顔が違うことを証明できる学問的データが、どこから出てくるか全然分かりません
壊滅的な馬鹿でも分かるような解説をしていただけたら嬉しいです どうぞよろしくお願いします 上に示した論文(pdf)の末尾に参考文献はたくさん並んでるけど、
「北陸・関東移民」でググれば資料はいくらでも出てくるよ。
天明の大飢饉が一番大きな打撃だったのだけど、うち続く冷夏長雨で
洪水も頻繁に起こり、低湿地は荒れ地のようになってしまった。
江戸時代は寒冷化がすごい。
関東の人口減少もすごい。
逃散は御法度だし、そこをどうやって逃げだしたのか。
道中をどうやってやって来れたのか。
他国人が村に入って田や畑を手に入れる過程。
やはり移住がうまくいかず、そうかといって戻れば罰せられるだけ。
より山奥や荒蕪地に入っていく農民たち。
スリリングで息をもつがせない事実の連続である。
面白いといったら何だが、少し興味を持っても損はないと思う。
北陸の人間は関東人に比べて根性あるな、と。
それから浄土真宗というのは特別の宗派である。
戦国の石山合戦とか見るまでもなく、何だか不気味なまでに強靱。
あとネットワーク力が半端ではない。
北陸人が村に同化していくところは富山の薬売りを彷彿とさせるところがあるな。
上の論文にも書かれているが、北陸の人というのは全然故郷にこだわりを
持たないな。真宗という宗教の力なのか何なのか分からないが何とも不思議。
北陸というのは陰湿で意地悪で居心地も悪く、どこでもいいから他国へ行きたく
なるような場所だという人もいるなワハハw
三重大学の教授やってる人が若い頃に調べたことを軽く書いてるページ
面白いわ
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html なお、加賀藩の農民というから石川県かと思うと大間違い。
今の富山県礪波郡の農民が多いという。
富山は真ん中あたりが富山藩で西も東も加賀藩領だった。
茨城に来た農民たちは越中富山の人たちであった。 >>324教科書的学者脳では自由な移動はできず、した場合は無戸籍へ落ちるじゃないの? https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/open_imgs/info/0000000093_0000027078.pdf
相馬中村藩への南砺地方農民の移住について
相馬中村藩には現市町村名で 南砺市や砺波・小矢部市などから九千人弱、
最終的には一万人ほどの入植があったようである。
こんな狭い地域で一万人というのだから、茨城県全域だとどれほど入植したか
分からない。
相馬中村藩というのは、現在の南相馬市、相馬市。
津波と原発の被害を受けちゃった地域だな。 相馬中村藩は、加賀藩農民の移入だけでなく、南部最上地方で女買い入れをしている。
南部藩は天明の大飢饉による人口減少が最も激しかった藩の一つだが、女の方が
飢餓に強いらしく、男に比べて女の方が多く生き残った。
女余り現象が起きていたのである。
女をたくさん連れてきて、嫁のない家に配った。 老中として後に寛政の改革と称される諸政策を実施した松平定信は、田安家の三男で
八代吉宗の孫にあたる。奥州白河の松平家に養子に入り、藩の立て直しに成功した。
この手腕を評価され老中となったのである。
定信が養子となって(婿さんに入ったのだが)、白河にお国入りして一番驚いたのは、
白河には女がいないことであった。もともと当時は女が少なかった。
当時の人口推計によると、女性は男性の70%程度しかいなかったようだ。
間引きの対象となるのは女の赤ん坊が多かったためである。
白河では定信が驚いたぐらいだから、平均的な数値よりはるかに少なかったのだろう。
50%もいなかったのかも知れない。
家々には、歳をとった男たちが独身のままで暮らしているのが目立った。
そこで定信は、越後にある白河藩の飛び地から女を呼び寄せることを企画した。
当時の言葉で「女買い入れ」という。
越後から若い女が続々とやってきたので、片端から農家に嫁入りさせた。
嫁配りをしたのである。 定信は人口減少の原因である間引きをやめさせる方法として、巫女を使った。
領内には「市女」(いちめ。巫女。沖縄のユタや恐山のイタコのようなもの)というものが
いて、死者を憑依させて口寄せをしていた。
この市女にク使を添えて村々を廻り、間引きされた赤ん坊の口寄せをさせて女どもに
聞かせたのである。
死んだ子供の泣き声や恨み言を聞いて、女たちは衝撃を受けた。
越後から女たちを呼び寄せたのも、越後の女たちは間引きの習慣がないという
ことが理由の一つだった。越後女がよい影響を与えるだろうと期待したのである。
その他、僧侶に「受苦図」を持って廻村して地獄で責め苦にあう様を示したりした。
これらの方法で一応はその目的を達したということである。
ほぼ同時期に、米沢藩では有名な上杉鷹山が領民の間引きを禁じ、違反者に対する
処分方法を決め、育児資金を設けて極貧者には給付することとした。
その結果、鷹山の晩年には嬰児虐殺の風習が全くやんだということであり、それを
聞いた他の大名が「こればかりでも名君なり。大功かな。」と賞賛したということである。
どの大名も間引きによる人口減少には悩んでいたということが分かる逸話である。 間引き対策には、天領を預かる幕府の代官たちも心を砕いている。
上に出てきた下野真岡の代官竹垣三右衛門直温はさまざまな功績を残したが、
間引き対策が重要な事蹟となっている。
間引き対策と越後からの農民の移入は、一連の人口対策であったようである。
美作と備中の代官であった早川八郎左右衛門正紀は、任地である美作・久世と
備中・笠岡に赴いたときに、いたるところの川端や堰溝に古い茣蓙(ござ)の苞(つと)
があるのを見た(ツトとは納豆の藁苞など、花の蕾のような形に包んだもの)。
怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだものであった。
男子には扇子、女子には杓子(しゃもじ)を付けてあり、その惨状に目を覆ったという。
扇子は今でも男の子の七五三に付きものであり、末広がりで目出度いということと、
昔は身分の高い人から何かを貰うときは扇子で受けたことから、お金をたくさん貰える
(稼げる)ようにという願いが込められている。
杓子はご飯をよそるものであるところから、生涯食べ物に困らないようにという願いが
こめられたものである。子供のお七夜(生まれて七日目の祝)などに新品の杓子で米を
盛って食べさせる真似をする儀式などがあった。 >>280 は「逃げる百姓 追う大名 江戸の農民獲得合戦」 宮崎 克則 (中公新書) |
という本を読むといいよ
現状に耐えかねて、あるいはより良い生活を求めて、村を捨てて逃げ去る百姓を
「走り百姓」というのだが、江戸時代はこの「走り」による人口移動が想像以上に
盛んだったようである。
もともと藩と藩や天領との境界などは勝手に決められたもので、それより先に
物資流通や通婚など文化的・経済的に一体化した地域圏というものがあった。
そういうものを無視して一つの地域が分断されることも無数にあったわけである。
百姓たちは黙って土地に縛りつけられてはいなかった。嫌だと思えば逃げる。
逃げるといっても無闇に逃げるのではなく、協力者もいれば受け入れ先も
あることが多かった。
年貢や夫役の負担者である百姓が逃げれば困るから、領主は必死になって
その防止策を考える。厳罰による脅しもあれば甘言もあった。
逃げた先の領主は働き手が飛び込んでくるのだから大歓迎である。
逃げられた方はそのままにしておけないから取り戻しをはかる。
相手方領主と喧嘩腰の取り戻し交渉をする場合もある。
それもたいへんだから、走り百姓の親戚に七日以内に連れ戻してこい、
それができなかったらお前ら全員同罪、などと命令したりする。
五人組にみんなで行って連れ戻してこい、連れ戻せなければ打ち首だ、などと脅し、
一方で連れて帰れば銀10枚、などと言ったりする。
どこまでも追いかけろという命令も多い。これは、一度は連れ戻しに出かけるが、
「あいつは逃げた先からまたどこか遠くへ逃げてしまいましたー」と報告して
終わりにしようとする追跡者が多かったためである。
逃げた百姓本人にも厳罰が定められているのに、帰ってこい、帰ってきたら
褒美をやろう、さらに一年間作り取り(年貢なし)にしてやるぞ、などと甘い条件を示す
(親戚とかに言わせるのだが)。
とにかく、江戸時代のイメージがくつがえるぞ。 >>308
これって最近の有力な説だろ??大学閥かなんかで喧々諤々なの? 江戸時代の農民たちの洪水対策
防水林
家の周囲に太いケヤキを何十本も植えておく。
もちろん水は防げないが、流れをやわらげ、家が流されてしまうのを
ふせぐことができたらしい。
水塚
屋敷内に土砂で高い塚を築き、そこに納屋や蔵を建てる。
常時そこに食料や燃料、水、衣類などを置いておいた。
いざというときはそこで寝泊まりした。
洪水になると井戸は泥や汚物まみれになって使えなくなるので、
水の保管は大切だった。水瓶の中に木炭を入れて保存したりした。
避難用船
小舟を一艘は持ち、ふだんは軒下に吊したり水塚に置いたりしていた。
水見の水防役
村には水防組というのがあって土手で水勢を監視した。
緊急事態には早鐘を鳴らした。
空き俵やむしろ、大量の棒杭、縄などを入れた水防小屋もあった。
消防団の先祖のようなもの。田畑への水門を締める水門役というのもあった。
水かさというのは急激に増えるので、水門役は半分水没したような水門でも
締めにいかねばならない。命がけであった。 くわぜんしばり
薪やくわぜ(桑の枝)などの燃料が濡れると、それらが乾くまで煮炊きができなく
なるので絶対に濡らさないようにしなければならない。
縄でしばって軒下にしっかりと固定し、醤油のもろみ樽は太い綱で梁から吊した。
箪笥は梁の上に置いた。
肥や肥料も流されたらたいへんなので、梁から肥桶を吊り下げたりしたらしい。
割り地
洪水の後は田も畑もみな泥流を被って誰の土地か分からなくなってしまう。
その時は専門家を呼んで測量しなおし境界を画定しなおした。
そのことを割り地といった。 江戸時代には洪水を防ぐ堤防がないか、有っても低い堤防しかなかった。
低い堤防というのは、溢れることを前提にして、洪水の量を減らすための堤防である。
あちこちで低い堤防から水を溢れさせて水勢を殺ぎ、下流の方で一気に大洪水になる
のを防ぐ工夫であった。
洪水になったときのために、川の流域は広く開けてあった。
そこは放っておけば自然の湿原や荒れ地となる。
それでは勿体ないので、そこで耕作する者を募った。募ったというより、希望者は多く、
入札で一番高く権利を競り落とした者が一年間利用できるのであった。
一つの村にこういう場所が何カ所もあった。
いつ流れてもおかしくないので、「流れ作場」と呼ばれた。
ここで田を作る者もいれば、畑にする者もいる。一面の茅場にする者もいた。
萱は必需品だったのでいい値で売れたのだという。
たまたま洪水にならなければ大した収入になったものだという。
たぶん農家の次男や三男などが親に金を出してもらって一か八かの勝負に出ることが
多かったと思われる。
当てれば田を買って独立できるかも知れないのである。
もちろん洪水になれば万事終わりであった。
だが簡単に諦めるわけにもいかない。
水が増してきても、少しでも収穫しようとして流される者が後を絶たなかったという。
流される者を助けようとして水見の者も流されたというような話も多い。 >>138
坊さんには名字が無いわけじゃなくて、坊主には名字がないという
タテマエになってただけだ。
坊主は俗世を捨てたわけだから名字も名前も捨てる。
名字を名乗ることはない。ということになってるんだが、親に名字があれば
子にだってあるさ。
お百姓は名字を名乗れなかったが、公的に名乗れないだけで、ほとんどの人は
名字を持っていた。それと同じかな。
ただ、明治になって国民皆姓となったときに、俗人と同じ名字じゃ勿体がつかないと
考えたのか、変な名字にした僧が多い。寺院姓とかいうらしい。
何代も坊主をやっているうちに名字が分からなくなってしまって寺院姓にした坊さんの
家などもあったかも知れない
ご先祖が坊主じゃなくて山伏なら名字があって当然だ。
山伏は僧ではなく俗人だから。
あと僧兵は名字があるのが普通。実体は武士だったので。
会津藩なら溝口派一刀流だな。
ウィキにもあるよ。もう知ってるか
お宅のご先祖は、教官としてきちんと姓を名乗らなければならなかったので
名字を名乗ったのだろう。僧としてではなく武術師範として出仕していたのだから。 上の寺院姓の例
釈由美子の「釈」 釈迦の意味
廃仏毀釈の釈だよ うちの高祖父母、1860年と1866年生まれで1878年に長男が生まれてる。
誕生日迎える前なので11歳で初産。昔とは言えさすがに信じられない。
ただ、1866年寅年生まれで名前がとら、43歳になるまで産み続けているから年齢を過小申告しているとは考えにくい。
だとすれば、他人が生んだ子を偽って届け出たのだろうか・・・?
ただ、それには何のメリットもないし考えれば考えるほどわからない。
小学校教員やってるが、6年生なんか発育も精神も子供そのもので、出産に耐えたり、嫁の仕事や子育てなんか出来るとは思えない。
背景で言うと高祖母は女ばかりの長女、高祖父は婿養子。
家が滅びる前にと焦って早い内から婿を入れたら、婿がロリコンで早いうちに妊娠しちゃったって流れだろうか。
いくら江戸時代〜明治初期でも10代前半の出産は特殊だよね? 11歳で産んだ子どもが男の子か女の子かによって異なる。
男の子だと、高祖母の母親が産んだ子の可能性がある。
それまで産んだ子どもが女の子ばかりだった→長女に婿をとった、であったのが
婿をとった後で男の子が生まれたので、その子を娘夫婦の長男として届け出て、
確実に惣領息子として後を継げるようにした。
そうでないと、娘夫婦に後で男の子が生まれた後で揉めるだろうからね。
女の子だと別の可能性を考えないといけないな。
丙寅の年でなくて丙寅の月に生まれたということも考えられる。
そうすると二歳年上で13歳で産んだことになるはず。
壬申戸籍作成より前に生まれているので、戸籍を作る際、「この子は寅だ」と言ったら
寅年ということで年齢計算された可能性もないわけじゃない。
前田利家の妻まつは11歳で初産で長女を産んでいるので、11歳で出産はないこともない。 >>372
初産は男子ですわ。高祖母の母親が40歳、父親は年齢は判らんが存命中なのでありえない話ではないかも。
高祖母の兄弟にも年齢かぶりがいないし。
2番目の子供(長女)もややこしくて、当初明治20年生まれとあるのに、明治17年、しかもまったく違う月日に変更がなされている。「生年月日変更ノ許可ヲ得テ」のみで詳しい事情はわからない。
役所に聞いてみたら、生年月日の変更は変更後の年月日が絶対に正しいと言う証拠が無い限り絶対にしないからまずあり得ないとのこと。
確かに、生年月日そのものが間違いでもっと年長だったのが一番可能性高そうだけど、そうすると長男と末弟の年の差が31歳も開いてるのが不可能に、なってくる。
何かもう内の家系ワケわからなすぎw 明治四年に成立した法律で、明治五年から戸籍が作られる。これが壬申戸籍。
壬申戸籍は明治19年まで作成・使用される。
明治19年(10月15日)に新しい法令規則に基づいて戸籍簿が作られるようになる。
この明治19年式戸籍が現在我々が読むことのできる一番古い戸籍。
明治19年式戸籍は、その前の壬申戸籍を書き写す形で作成していくわけで、しかも
その間にも人が死んだり生まれたり、結婚したり離婚したり、転入してきたり転出したり。
(たしか明治19年式戸籍は今日の住民票と一体で、引っ越すと戸籍が着いていくんじゃ
なかったと思う。)。
壬申戸籍からの移記と毎日の窓口での届け出を重複しながら作っていくんだから
間違いも起こりやすかっただろう。
長女の記載は当初明治20年ということなのだから、まさに明治19年式戸籍作成中。
書き写し係と窓口担当が分かれていればいいけど、もしかしたら小さな役場で書き写しを
やったり窓口で出生届けを受け付けたりと一人二役だったかも。
これを忙しくやってるうちにゴチャゴチャして、長女の欄を書き写しているときに、その日に
届けられた形で記載してしまったのかも知れない。
一年後ぐらいに父親が気づき、文句を言いに行く。壬申戸籍は閉鎖されているわけだが、
それは形式上で書き写しが終わっていないかも知れないし、移し間違いの心配もあるので
そのまま使われていたと思われる。
壬申戸籍は差し替え式(バインダー式)じゃなくて本とかノートとかと同じ冊子方式だった
のでこの点扱いは楽だわな。
長女を連れて行って、ほれこの子だ。一歳に見えるか、よく見てみろとか言われて、壬申
戸籍にあたってみると明治17年に出生届を受け付けて戸籍作成。
こうなるとさすがに逃げられないので生年月日を変更した、、、
というようなことじゃないのかな。
明治17年生まれというと母親は18歳ぐらい。このあたりで初産というのが自然かも。 あと、娘がまだ10歳ぐらいで婿をとったからには事情があるに決まっている。
だいたいこういう場合は父親が死んだとか働けなくなったという事情。
高祖母の父親は、何かの病気とか怪我で農業ができない体になってしまったのかも知れない。
そうなると一家の生活が成りたたなくなるので、急遽働き手として婿を取ったということでは。
婿というのは労働力としてしか扱われていなくて(あと、もちろん種馬的な面も)、11歳の娘の
婿ということにされても、実際に娘の夫として扱われたかは疑問だ。
いいか、娘はまだ子供だからな。妙なこと仕掛けるんじゃないぞ。こんな小さな体で
胎んだら死んでしまうからな。
一方娘に、 今夜からカーチャンと寝ようなー。
てなもんじゃなかったか。 >>377
読み返したらまた意味不明だわ。
一行目→明治20年8月5日(訂正前の誕生日と同じ) 生年月日変更の許可を得て(ここで終了)
二行目→明治37年1月17日 生年月日変更の許可を得て明治20年8月5日を明治17年10月27日と訂正す。
とあるんです・・・明治20年8月5日に何があったんだろう。
明治37年はちょうど二十歳の歳だから、おっしゃるようなことが起きた可能性は高いですよね。 どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ どうでも良いとか言い出したらこのスレの存在意義すらなくなるぞw 明治37年の記載があるなら明治19年式戸籍ではない。
あなたが入手したのは明治31年式戸籍(のコピー)。
(突っ込む奴がいると困るから正確に書くと、デジタルデータのプリントアウト。)。
記載の各人ごと(下の欄)に「父」「母」の小さな欄がついているやつな。
これだと、壬申戸籍 → 明治19年式 → 明治31年式 と、壬申戸籍から
二回転記されていることになる。
それとも19年式と31年式の両方入手したのかな、、、
明治20年8月5日という出生の日付は、「生年月日変更の許可を得て」なされたもの
なのだから、変更前の生年月日があるはず。
それは明治20年という変更の記載がなされた日付からして、明治19年以前の記載
だろう。とすると壬申戸籍に書かれた日付と考える他はない。
壬申戸籍には長女の生年月日を明治17年10月27日と記載してあったのだろう。
明治20年8月5日というと、まさに明治19年式戸籍の作成作業の真っ最中である。
新しい戸籍簿の作成は、旧い戸籍簿からの転記によってなされるのだから、役人が
壬申戸籍をせっせと転記していた。日本中の役所の戸籍係がその作業をやっていた。
その際、ウッカリミスで出生日をその日の日付にしてしまったと考えるのが一番自然だろう。
このミスは、届け出の日付の記載から一見して明白に転記の際のミスと読み取れる
ものだったのではないか。
(明治37年の扱いから考えて届け出の日付が明治17年のものだった、とか)。
担当者がこのミスに気づいたかどうかは分からないが、そのままになってしまった。 だが、通常はそのままで済まない。子供が満で六歳になると小学校への入学通知書が
送られてくる(当時の就学は年齢主義。四月以降七歳になる子供、といった現在のような
扱いではない。)。このときに親が通知が来ないと役所に問い合わせに行ったかも知れない。
しかし、そのときに役人は「そういう届け出になっておる。」とか言って突っぱねたのではないか。
明治23年当時だと、女子の小学校就学率は30%ほどなので、そのまま有耶無耶になって
しまったのかも知れない。
しかし、役人としては届出の日付が出生日より三年も前などという不合理な記載を放置
しておくわけにはいかないので、「生年月日変更の許可を得て変更」との文言を記入しておいた。
戸籍の記載を変更するには、現在は家庭裁判所の許可、昔は区裁判所の許可が必要
だったが、許可など得ていないと思われる。
そうだとすると作成権源のある公務員が内容虚偽の公文書を作成しているのだから、
形式的には虚偽公文書作成罪に該る。しかし、そのあたり、昔は適当だったのじゃないか。
その後、明治31年式戸籍に作成し直された。
31年式に作り直しをするには、もちろん転記をするのだが、その際役人が長女の出生日の
記載の矛盾を発見。しかし「生年月日変更の許可を得て変更」との文言があるので、転記元の
19年式戸籍の記載どおりに生年月日を「生年月日変更の許可を得て」「明治20年8月5日」とした。
「生年月日変更の許可を得て変更」というように「変更」を入れなかったのは、31年式戸籍の
段階で変更したのではないから。そうとしか考えようがない。
おそらく19年式戸籍では「変更」まで入っている。 明治37年に二度目の変更(最初に戻した)のは、長女の年齢から見て婚姻の届け出でが
あったのじゃないか。(当時は婚姻届ではなくて、婚家の戸主−普通夫になる人の父親−に
よる婚家の戸籍への入籍だが)。
婚家の戸籍がある役所からの連絡で、この役所では長女について転出の手続きをする。
そのときに19年式戸籍、さらに壬申戸籍まで調べて、「生年月日変更の許可を得て変更」と
記載して生年月日を明治17年10月27日としたのじゃないか。
これは戸籍の記載で分かるだろう。
嫁に行けば以後はそちらの戸籍の記載だけが使われるようになるので、「生年月日変更の
許可を得て変更」とか適当に書いておいても問題にならないと思い、気楽にやったんじゃなか
ろうか。
ただ、戸籍の作成作業は上記以外にもあるかも知れない。
明治5年の壬申戸籍の作成から明治37年の間に、戸籍筆頭者(戸主)も替わっているのじゃ
ないか。戸主が替わると、戸籍簿が新規に作成される。
高祖母が産んだことになっている男の子が生まれたのが明治10年で、そのときに高祖母の
お父さんは生きているという。この人が戸主なのでしょ?
この人は明治37年にも生きておられるのだろうか。 >>384
色々ありがとう。解ったような解らないような・・・w
婚姻は大正になってからで、明治37年は関係ないですね。三十路だからかなり晩年ですね。
高祖母の父は明治17年に死去とあります。よく読み返したら、高祖父母の長男誕生が明治11年、結婚したのは明治13年とあります。高祖父は明治17年から昭和2年まで戸主だったようです。 だから、どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ ま、確かに>>387 の言うとおりなんだけどな。
一番の問題点は、壬申戸籍は、その後の戸籍のように役所(の戸籍係)が管掌してるんじゃ
なくて、戸長が一人で扱ってたことだな。戸籍はもちろん戸長の家に置く決まりだった。
明治5年から家々を回って、家族構成や寄留者(使用人とか一緒に住んでいる叔父とか
叔母とか)、さらに信仰している神社だの檀家になってる寺だのを聞いて記入する。
さらに、その家が士族か平民か、あるいは僧侶とか神官とかの職業まで記入。
そうやって作成した後は、六年ごとに全事項を調査し直し、変更のあったところは修正する
ことになっていた。
しかし、また全戸をまわって、例えば寄留者の構成が変わったのではないかとか、子どもが
生まれた、あるいは誰かが死んだとか、嫁に行ったとか嫁をとったとか、六年間の変化を
把握し直すのは大変である。
この六年ごとの調査を怠る戸長が多かった。
怠るといっても不真面目な理由ばかりではなく、戸長を引き受けたときは元気だったがその後
病気がちになったとか、長い間には老齢で職責に耐えられなくなる人もいただろう。
戸長が辞任して、新しく戸長になったのは人望もやる気もない人だったというようなことも
あったかも知れない。
戸籍の作成管理というようなことを、一人の人間に託していたのが間違いだったのである。
(まあ、副戸長なんてのもあることはあったけど。突っ込みはしないこと。)。 壬申戸籍を信頼できないものにしたもう一つの原因は、国民の法意識の未発達であった。
子どもが生まれたり、結婚したりしたら、その事実を戸籍に反映させなければならないという
意識がなかったのである。
戸籍事項につき届出をしなければならないという感覚が育っていなかった。
結婚したら祝言をあげて近所の人にもお披露目したらそれで十分であり、人が死んだら
坊主を呼んで葬式をあげればこれもまた十分なのであった。
戸長は届けをするようやかましく言っただろうし、自分で知りうるところは補完していった
だろうが、職掌する範囲の全てを把握することは無理であった。
壬申戸籍の時代は届出先は戸長宅だったということも国民の意識に影響していただろう。
戸長の家に行って、孫が生まれたの子どもが嫁を貰ったのと報告せよというのは
今の私たちからしても奇妙である。
戸籍の扱いが役場になってから、だんだんと届出という意識が育ってきたのである。
ただ、にもかかわらず壬申戸籍が一定限度の信頼性を有しているのは、戸長が徴税官吏で
あったためである。租税だけはいい加減に済ますわけにはいかない。
租税の基礎資料になる限度で、戸籍はまっとうに作成されていたのである。
租税の具体的な徴収方法は分からないが、おそらく戸長が各戸にその年の租税額を
通知し(おそらく各戸をまわって通知書のような紙を置いていく)、納税の日(数日間)に
納税者が戸長の家に納めに行く。それを県などの収税官が持っていったのだろう。
おそらく一軒一軒通知に回る過程で、各戸の環境変化などは把握されただろうと思われる。
もちろん完全ではない。欠落も多かっただろうが、最低限戸主の生死にだけは間違いなく
把握されたはずである。
さらに、戸長が小学校設営の責任者であったことも大きい。
その年に学齢に達する子どもは把握していただろうし、それに伴ってある程度は
家庭の状況も調査し、入学可能かどうか見定めるようなことはしていたと思われる。 ヤフオクで壬申戸籍が出品され購入されたという事件があったが、出品者は戸長の家の
子孫だった。明治19年に法律が改正され、戸籍は新しく村役場や町役場などの公務所で
作成・管理されることになった。そのときに壬申戸籍は戸長から役場に引き渡された。
ヤフオク出品のものは、蔵に保存してあったという。
おそらく戸長が日常管理していたもので、役場には清書したものを提出したのだろう。
日常使っていたものは書き直しや書き足しで汚くて出せないと思ったのではないか。
このように、戸長の手許にあった段階で作り直しがされているのである。
六年ごとの改編も真面目にやった戸長は大勢いただろうし、その度に全面的に作成し直した
戸長も少なからずいたと思われる。
さらに戸主が死ねば代替わりとなり、新戸主を筆頭として新たに戸籍を作り直す。
国民が生きているか死んでいるかも把握できないようなら近代国家として成立し得ない
から、これだけはきちんとやったはずである。
壬申戸籍14年間の間にも、作り直しは何度も行われているのである。作り直しをするほど
誤記は増える。人間が書き写すのであるから間違いをしないというのは無理である。
役所に移管されれば、またそこで壬申戸籍からの移記がはじまる。
どうやっても間違いは避けられないのである。
壬申戸籍が役所に移管されてからの写し間違いも少なくはなかったろう。
他人の文字、それも筆での御家流であるから、判読の段階ですでに困難がある。
さらに、誤記の指摘があっても、役人というのは修正に応じないのが普通である。
裁判所の許可がなければ出来ないという権限上の問題もあるが、そうしたタテマエを
振りかざすのは、責任問題になるのを避けたいという役人根性からであることが多い。
しかし、記載同士が論理的に両立し得ないというような場合は訂正せざるを得ない。
こうしたときは裁判所の許可などなしに適当に処理してしまったのだろう。
親がつけた名前と戸籍上の名前が異なり、泣く泣く戸籍上の名前を名乗っている人など
昔は珍しくもなかった。 さらに、戸長が戸籍に関する知識を利用して偽の記載をし、自分の家族や縁者の利益を
図ったという事案が少なからず見られる。見られるというより、戸籍作成権限を有する戸長
サイドの人間でないと出来ないことが行われている例が多いのである。
一番多いのが、徴兵逃れのために未成年の子を分籍して戸主にしてしまうことであるが、
時代が下がってからならともかく(たしか明治31年式戸籍からは戸主の徴兵免除は
無くなったと思う。未確認)、明治も、それも前半期の一般庶民にそのような戸籍操作は
難しい。強引にやろうとしても、戸長にたしなめられて終わりだろう。
夏目漱石の家は町名主であったので、維新後も戸長を拝命したと思われる。さらに幼少時に
親戚の塩原家を継ぎ、養父が浅草区の戸長であった。どこまでも戸長サイドの人間であった。
塩原家との縁組はその後解消されているが、後々まで関わりはあった。
たしか養子先での姉にあたる人物が「門」に登場した親類の中年女性のモデルだという。
実生活上も同じような交渉があったということである。
この養家が関係しているのか実家の人間がしたのか分からないが、漱石は25歳から47歳
まで北海道岩内郡岩内町に籍を置いた。徴兵逃れのためと言われる。
漱石は慶応三年生まれであるから、漱石が若い頃の北海道というのは内陸部は未開発で
道路もないところが多かった。奥地への開拓民は舟で川を遡っていく状態であった。
松前、小樽などの海岸線の町は栄えていたが、こうした土地の住人はいわゆる出稼ぎ人が
ほとんどで、住所不定の者が多かった。
海岸線・内陸ともに住民は戸籍による把握も不十分であり、かつ北海道は人口が僅少で、
ここから徴兵しては労働力が不足し開拓が進まないとの理由で徴兵の対象外だった。
こんな扱いは戸籍事務に長じた者でなければ到底知り得ないことである。
漱石の周囲の人間が知識を活用したとしか思えないのである。 西田幾多郎は二歳年齢を多くし、かつ長男でないのに長男とした。徴兵逃れのためという。
明治元年生まれで長男ならば徴兵の対象にならないとの徴兵令の規定を知った父親が
そうしたのだという。これも奇怪な話で、長男でないものを長男とするには、普通にやるなら
他家の戸籍を借りなければならない。養子縁組の形なら元々実親の方の戸籍に載って
いなければ不可能。それをどうして養家の方の戸籍で2年年長にできるのか分からない。
かつ養子に出しても実親の方の戸籍には元の年齢のまま残るのである。
まあ普通には出来ないと考えるべきだろう。
実際どうやってなされたのかというと、戸籍簿を書き直してしまったのだろう。
前のは破って棄て、出生日を2年遡らせた戸籍を作り、そこから分籍した。
そんな方法しか考えられない。
とすれば、やはり父親が戸長、あるいは戸長サイドの人間であったと思われる。
戸長サイドの人間であれば、年齢の誤魔化しなど簡単にできるのだということを、この事例は
教えてくれる。
平民から士族への書き換えも相当に行われたようである。
戸長は徴税官であったので、担当する町や村の家一軒一軒の収入を完全に把握していた。
戸長として活動する上で貧乏人は無視していい。町の有力者、すなわち高額納税者の協力は
必須だったので、懐柔手段として身分を平民から士族にしてやるということが行われたらしい。
(明確な証拠はないが、最初は平民だったが後から士族になったという言い伝えがある家は
けっこう存在する。)。
いったん平民としたものを士族にするには訂正という手段ではおかしい。
やはりこの場合も、戸籍全体を書き換えたのである。
平民と記された前のものは棄て、新しく戸籍を作成したのである。
壬申戸籍の時代、戸長は戸籍事務に関して、やりたい放題だったのではないか。 >>399
う〜む、話題としてスレ違いのような気がしますけどねぇ…、とりあえず、まぁいいかな。
岡山県にその名の通り、「珍名(ちんみょう)」という姓(苗字)を持ってる知人がいます。
残念ながら、その姓がいつどのように成立し、分布しているのかまでは聞いていません。
また、検索を掛けたら、「珍名(ちんな)」という姓を持つ人が、北海道を中心に10名ほど
おられるようです。こちらはアイヌ語の「チン(足)」+「ナ(川)」から来ているとのこと。
(あくまでも一説)
ネットにおける情報が確かなら、日本には少なくとも291,129種類に及ぶ姓があると
のこと。いずれにせよ、わが国における一つの文化的な特徴ですけれど、この掲示板
よりも適したところがありますので、下記のスレッドを追いかけることをおすすめします。
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1563144941/ 名字検索のサイトがあるけど
祖先のルーツの説明とかはどれぐらいの信憑性があるのだろうか
そもそも名字からルーツってわかるのか ワシの本家は秋田だけど西日本に多い苗字でどうしてかなと思ったけど
北前船でやって来たのかな やけに山奥に住んでるのは余所者扱いされたせいだろか 自分の名字は全国で2000人程だから割とルーツに信憑性がありそう。 >>401
>そもそも名字からルーツってわかるのか
ある程度までなら調べることができると考えます。大きな図書館へ行けば、「日本苗字大辞典」という本があります。
それを参照すれば、「本貫(ほんがん)」という自分の苗字(姓)がどの地域で発生したかの概要が載っています。
もちろん同姓だからといって本貫がみな同じというわけではありません。同書に従えば、同姓でも20〜40を超え
るルーツがあることは決して珍しい話ではなく、より詳しく知ろうとするためには、何か別の補強資料が必要です。
例えば、「日本家紋総監」や、「都道府県別姓氏家紋大事典」で、「家紋」を中心に調査してみるのもある程度有用
かと考えます。
また、渡来人を除くヤマト民族の正式な名乗り方は、氏(うじ)+姓(かばね)+(個人)名ですけれど、「氏」の部分は、
多くが「皇室」又は「源平藤橘」の各氏へと収束します。氏から分派したところの姓(苗字)をあたっていけば、大まか
ではありますが、ルーツを見つけることができる場合があります。これも歴史を追いかけることの醍醐味なのでしょう。 >>407
皇室制度みたいに、ここで扱う「血族先祖」は、「男系男子」に限るって訳じゃないですよね。
当方、この150年で2名の婿養子が入ってますが、女系とはいえ、とりあえず家名は続いて
いますので、家紋は変わっておりません。要は、どこを「落とし所」にするかだと考えます。 >>402
その気になれば「田中」姓でもある程度までは調べられますよ。国立国会図書館デジタルコレクションで、
「姓氏家系大辞典・第4巻」(太田亮 著・国民社・1944)を画像検索して、80コマ目〜88コマ目を見る
と、「田中」姓の起源や分布が書かれています。
記事冒頭に曰く、「田中 タナカ 和名抄、美作國苫西郡に田中郷、次に讃岐国三木郡に田中郷を収め、
田奈加と註す。また山田郡にも田中郷を載せたり。其の他、大和、常陸、近江、丹波、播磨、紀伊等に
田中庄、また山城、摂津、遠江、駿河、甲斐、伊豆、武蔵、上総、美濃、信濃、上野、磐城、岩代、陸前、
越前、越中、肥前、豊前等に此の地名存す。」と記載されています。
また、以下95項に及ぶ各々の田中一族の概要と、96項目の「雑載」にその他の一族に関する記述が
あります。長いので詳細は省きますが、先祖探しをする際の資料として、じゅうぶん役に立つ資料かと
思われます。
但し、国立国会図書館デジタルコレクションの本著コメント欄には、「全国の姓氏を歴史的仮名遣いの
50音順に収録し、起源、分布、本支の関係などを解説しています。記述は広範にわたりますが、典拠
文献の書誌事項が不明な場合があります」と書かれており、それなりの注意が必要でしょう。
ちなみに国立国会図書館デジタルコレクションのURLは、次の通りです。 http://dl.ndl.go.jp/ >>410
俺なかなかの珍名なんだけどその本って希少姓も載ってるの? >>412
横からだけど珍名ということは全国人数はどれぐらいか気になる 日本は同じ一族でも分家が苗字を変えていったから膨大な苗字となった
源氏の分家が足利で足利の分家が吉良で吉良の分家が今川で今川の分家が品川で、、、 >>412
多分駄目。「姓氏家系大辞典」の収録苗字数は50,000ですから、希少姓は含まれていないでしょう。
同じくメジャーな書籍ですと、「日本の苗字」が110,867、「日本姓氏大辞典」が133,700です。
あと、「日本苗字大辞典」が公称30万弱なので、これならば希少姓もだいたいカバーできる模様です。
但し、お値段が1セット¥346,500ですから、どこかの図書館に頼んで買ってもらうのが賢明ですね。
ちなみに、これらの書籍が都道府県立の図書館にあるかどうかは「全国都道府県立図書館横断検索」
で確認できます。また、市町村立及び私立図書館の場合は「図書館リンク集」で検索してみて下さい。 >>413
全国で200世帯ほどだったと思う。
愛媛の西端と宮崎だけに多数が偏り、全国にはまばら。
>>415
何か色々とすごいねw
読んでみたい!国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな。
家系図とかも載ってるの? >>416 >>415です。
>国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな
それならば話は早いでしょう。「百聞は一見にしかず」ですから、私の書き込みを含め、信憑性があやふやな
ネットの情報に頼るより、御自分の目で確かめるのが一番確実です。
あと、可能なら事前に国立国会図書館のドメインに、「姓氏・家系」(の調べ方)に関する参考文献一覧があり
ますので、それをプリントアウトして持って行けば、効率的な調査ができると思います。詳細は下記のURLを
参照して下さい。また、一般公開可能な範囲で結構ですから、調査結果の概要報告をよろしくお願いします。
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101070.php うちは200世帯以下だな
明治維新までは某藩の藩士だったから系図とかはある
某源氏の子孫という事になってる >>417
本なんて有用だと思えば勝手に使うからネットの利用法なんか具体的に書かなくたって
いいんだよ。
その本を使用したらこんなふうに先祖が判明したとか、自分の体験を書いて欲しい。
何冊かあるなら、自分はこれが一番役に立ったとか、そういうことを書いて欲しい。
しかし、姓氏に関する本を利用することによって自分の先祖が分かるとか、そんなことが
あるのかな?
あなたがそんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい。 >>421 >>417です
>そんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい
では一つの事例を書いてみましょう。詳細情報は開示できませんが、明治期の戸籍簿以前に
おける先祖のことがほぼ明確に記されていると確認できた主な資料は、以下に示すものです。
1.「諸向地面取調書」 国立公文書館
2.「姓氏家系大辞典」 国立国会図書館
3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
これらの資料及び副次資料により、先祖の本貫は伊勢国の某邑であることが分かりました。
伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。 >>422
そう思い込んだって事ね
それが事実かどうかは別だよ だいたい家系図は捏造されてるのが大半だしな
徳川家自体が捏造だし、大名や旗本もそうだよ >3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
ふーん、吾妻鏡も資料になさっったんですか、、、
>伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
>世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
それはよかったですね。敬服しました。あなたは純朴な方だ。 あと全国に200世帯とか100世帯とか、電話帳に名前が出てるのを調査したものなんでしょ?
昭和50年ぐらいまでは電話に加入すると電話帳に載せるのが当たり前だったんで、
まあそれなりに根拠にはなり得たんだろうけどね。 >>423
たいへん失礼ながら、現時点においてここまで分かったと記述された事を全否定するのは簡単ですが、歴史学
の存在自体に意味が無いとの御主張とも受け取れます。
まず、歴史学にも学問的限界が存在する事を踏まえたうえで、我々が先祖探しという歴史の旅を実践するには、
現存の資料にある記述で、最も信頼性が高いであろうという事象を記録したものに依存するしかありませんよね。
そこを各々の視点から多方面のベクトルで掘り下げていくのが、このスレッドの存在意義ではないかと考えます。 電話帳で苗字の世帯数を推測するってどうなんだろ?
斉藤とか佐藤とか山田とか渡辺なんて苗字ならいくらでもいるから、電話帳にも
平気で載せるだろう(電話帳に載せるのが当たり前の時代の話な。)。
苗字が何百も並んでいれば特定されることはまず無いから。
でも、珍名さんだと簡単に特定されてしまう。
珍名というほどでなくても珍しい苗字だとやっぱり特定される可能性はある。
電話帳で○○市に10軒という程度だったら、実際に電話すれば簡単に当人を
探し宛てることができる。
電話帳に誰でも名前を載せた時代でも、珍名さんや少数派の苗字の人は
載せないことが多かったのではなかろうか。
実際、俺の知り合いで昔から個人の電話を公表しない人がいる。
その人は材木屋で、材木を買ったときの売り主とも、売ったときの買い主とも
後からトラブルことが多いそうで、自宅や家族のところへは絶対に電話が
行かないようにしている。
事務所で話す分にはいくらでもするが、トラブルは家に持ち込みたくないという。
事業をやったり商売してる人で珍名さんだったら、絶対に自分の名前を電話帳に
載せないだろう。相手がカッカしてたら、家の方までかけてくるかも知れない。
ありきたりの苗字ならいいが、そうでないと相手がこっちの苗字を知っている以上
番号を調べられてしまう。
家も探り当てられ易いと思う。このへんで斉藤さんてうちありますか?では
分からないが、珍名だと危ない。
とゆーことで、珍名さんの全国で何名とかは怪しいのではないかという話。
たしかに珍しい苗字だが、珍しいからこそ警戒して昔から電話帳登録せず、
そのためやたら数が少なくなっているということはないか。 >>427
あなたの言うベクトルが思い込みにより、ねじ曲がってなけれぱね。
人は自分の信じたい事に引きずられる。
それを忘れないように。
何故、数々の偽書が存在するのか?
考えれば解るでしょ 自称○○の子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などないケースが多い。
系図も後世に作成されたもので年代が合わなかったりがザラ。
先祖が捏造したヨタ話を思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけ。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 >>429 >>427 です。
数学の世界から見ると、歴史とは時間軸を含むn次元空間で線形関数として扱われるべきもので云々…、
いずれにせよ人文科学の世界にベクトルという自然科学用語を使った私が悪かったです。
たいへん失礼しました。 >>428
個人情報に対する危機意識が薄かった時代があったのですよ 個人情報に対する危機意識が薄かった時代でも、珍名さんは個人名での
電話番号登録はしなかったのではないかという話だよ。
今、珍名さんの数とかどうやって調べてるんだろ? >>422
>江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
幕府ができるまでは徳川家の家臣ではなかったのかな?
幕府ができると同時に家臣になったの?
たしかに徳川累代の家臣でも、論理的には徳川幕府が出来ない限り幕臣では
ないわけだが、、、w
ま、それは置いておいて
幕臣の場合はどうしても避けて通れない資料がある。
寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜。
前者は家光の命令で幕府が編纂したもの。
後者はその修正版として寛政年間から文化9年までかかって編纂されたもの。
寛政重修諸家譜は内容的に寛永諸家系図伝を踏まえているので、実際的には
寛政重修諸家譜だけを参照すればよい。
家柄の根拠とするなら寛永諸家系図伝からも引くのが妥当。
両者とも大名と旗本について系図や資料を差し出させ、不明・不詳な箇所には
さらに資料を出させて編纂されたもので、当時入手できるかぎりの客観的資料に
あたっているといってよい。
ただし、幕臣については「お目見え以上」に限られる。
御家人は入っていない。
>>422 の家は伊勢平氏の家柄で、「鎌倉時代に本貫を離れ」とあるから領地を
持つ武士だったわけである。鎌倉以前からの筋目の家が、徳川に仕えて御家人と
いうことはありえないから、お旗本だったのでしょうね。
それだったら寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜に載っていますよ。
そうすればご先祖の具体的な知行や職名まで分かる。いついつの期間、大番頭で
二百五十石だったとか。養子、夫婦養子なども全部分かる。
あなたが何故これにあたらないのか不思議。 でも地方名家なら一家か2家ぐらい旗本になってるだろ? >>437 >>422 です。コメントありがとうございます。
もちろんのことですが、私の調査では御指摘の資料も含め、30を超える文献を考証しています。
ただし、物事には例外がつきものでして、残念ながら鎌倉時代から苗字を持つ家筋でも、先祖は
諸般の事情により、御目見得ができない御家人として江戸幕府に仕えていました。
また、別の資料から、先祖が江戸幕府成立の直前に徳川家康直轄の家臣団の一員として召し
抱えられたことが分かりましたので、「江戸幕府成立に伴い幕臣になった」との表現になりました。
このあたりの書き方が良くなかったですかね。
それから、江戸にある某神社の奉納帳に先祖が名を残しており、これとその他の資料を照合した
結果、役職が特定できました。あと、国立公文書館にある別の資料で、石高も判明しております。
旗本よりも身分が一段低い御家人でしたが、現在の日本橋付近に屋敷を拝領したうえ、江戸城に
常時内勤でしたので、それなりの石高でした。
申し訳ないのですが、これより先を詳細に開示することは少々難しいです。どうぞ御賢察下さい。 お目見え以上の家臣の場合、将軍はその家臣がどのような由緒を持つ家の人間で
あるのか知っておく必要があるので、先祖書きや親類書きのような書類を提出させ、
家臣名簿を作成した。寛政重修諸家譜などがそれである。
お目見え以下の御徒の場合は、そのような必要は全く無い。
御徒衆は軍隊でいえば兵卒かせいぜい下士官であって、家柄も由緒も問われない。
御徒自身も、家柄だの先祖がどうしたのなど考えたこともなかったろう。
何せ御徒という名のとおり騎乗は許されず、籠に乗るにも目隠しのついた籠には
乗れない。竹の骨組みだけの籠しか許されなかった。
旗本が登城するときは裃をつけるが、御徒で裃をつけるのは物頭クラスのみ。
普通は羽織袴のみだった。住むのは御徒長屋が一般で、組屋敷という社宅の
ような一戸建てに住む場合も門を構えることは許されなかった。
田沼時代の後半ぐらいから風向きが変わり、御徒たちにも由緒書きや親類書きの
提出が求められることになった。
おそらく御家人の家株を売る者が増え、いったどういう人間が家臣になっているのか、
確かめる必要が出てきたのだろう。
このときはみな大慌てであった。>>213に書いた森山孝盛の文書にその時の騒動が
記されている。森山の家はその当時徒頭をやっていたのだが、配下の御徒衆は
書式が分からないどころか字を書くことさえできない。
それを森山の両親が手伝ってやり、代筆までしてやったのだという。
組下の御徒たちの感謝は尋常でなかった。
森山孝盛自身も、後に自分の部下となった御家人たちの面倒を見ている。
部下たちの家にまで出向き、話を聞きながら書類を書いてやることまでした。
部下たちは後々まで感謝し、何年たっても森山の家に礼を言いにやってきたり
したという。 遠い先祖からのきちんとした系図を作り出すことは大名でも難しい。
徳川時代の大名など、戦国の下克上の中から生じてきた新興氏族が多いからだ。
徳川氏自身が新田源氏の流れとして詳細な系図を著しているが、当然眉唾ものである。
旗本の系図作りなども大変だったろう。
それでもみんな清和天皇や桓武天皇や藤原鎌足に行き着くように作ってあるのだ。
たとえば田沼意次の家は、八代吉宗に随って紀州から来て幕臣となった家だ。
父親は吉宗が一万石の大名だった頃に仕え、勘定方だったという。
先祖は鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)。
紀州人なのに何で先祖を藤原秀郷にしたんだろうと思っていたら、田沼意次の先祖に
鉄砲名人がいて、大阪の陣のときに紀州公に召し抱えられたのだが、この先祖が
下野の人間だったらしい。たぶん下野出身の浪人で、技術を買われて徳川頼宣の
陣にいて活躍し、戦後家臣に取り立てられたのだろう。
下野出身だから下野守の藤原藤秀郷を先祖ということにしたというわけである。
ところで、この藤原秀郷の子孫が佐野氏ということになっている。
田沼意次の嫡男の田沼意知は、旗本・佐野政言に遺恨を持たれ、江戸城内で斬られ、
八日後に死亡した。
佐野家の本家本元のような佐野政言に系図を借り、返さなかったからだと言われている。
遺恨を持たれた原因はそんな単純なことではなく、他にあるらしいのだが、とにかく
藤原秀郷を持ち出さなければ佐野政言みたいな人間と関わりを持たずに済んだのだ。
たまたま藤原秀郷の子孫を名乗ったために、とんでもないことになったわけである。 2連投の長文なんてどうせ誰も読まないのにご苦労なことだな >>442
おー、久しぶり
相変わらず馬鹿だなお前はw
家の由緒や系図というのはどういうふうに形作られていくのか。
坂本龍馬の家で見てみよう。
龍馬の坂本家は、藩に献金して郷士の身分を貰った。
先祖から身分を受け継いだわけじゃなく、新規に郷士になったわけだ。
そうなると代々の先祖というものを作り出す必要が出てくる。
それまでは商人だから、先祖なんぞどうでもよかったはず。
興味もないし知識もない。しかし武士の家には由緒というものが必要。
郷士が武士かは置いておいて、ともかく先祖のことは知りませんでは通用しない。
とりあえず龍馬の曾祖父の八平直海(郷士召出w)かその前ぐらいは分かるだろうが、
それより以前は系図屋に頼むしかなかったんだろうな。
その系図によれば、先祖は明智左馬助に遡るらしいが、何故左馬助なのか。
坂本という苗字→坂本城→明智の城→明智一族→明智左馬助という連想じゃなかろうか。
昔は明智左馬助の湖水渡りの話はよく知られていた。
江戸時代の人は豪傑の話を好み、弁慶の立ち往生とか源頼光と四天王の酒呑童子討伐、
岩見重太郎の狒々退治、荒木又右衛門の三十六人切りなどは武者絵にもなり、
知らない者はなかった。
湖水渡りもその一つで、明智左馬助と聞くと、当時の人には琵琶湖と唐崎の松と坂本城の
風景が頭に浮かんだ。
著名人を先祖にしてしまうと、それ以前の家系はその著名人の家の話になるので面倒がない。
明智の家は絶えてしまっているのも好都合。現在の縁戚関係とかも聞かれないで済む。
さらに、明智だと土岐源氏ということで清和天皇まで繋がる。
系図の材料としては文句なしの人物なのである。
念のいったことに、龍馬の家では明智の流れということで桔梗の家紋を使っている。
明智軍の旗印が水色桔梗だったからである。 自分の先祖だとした系統に後嗣がいるときわめて面倒。
上の田沼意次の家など、直系の子孫だと威張っている佐野氏があるものだから面倒な
ことになった。本家本筋に貴殿のご先祖がどこからの分かれなのか、私どもの系図で確認
して進ぜようなんてことを言われたら甚だ困る。
徳川家が新田の分かれとしたことは賢明である。
ただし、新田の流れにも、元々新田宗家を名乗る岩松氏などがあった。
しかし、この連中も徳川幕府が出来ると「末裔」とのみ自称し、誰も宗家を名乗らなかった。
岩松氏は系図を差し出すよう言われたが、拒否した。お見せするようなきちんとした系図は
無いというようなことを言ったのだろう。
岩松氏は徳川の旗本として明治まで存続した。
一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。 スレタイ無視して自分の蘊蓄を垂れ流すのが生きがいのハゲに同情しろよw >>445-446
お前、何を喜んでるんだ
そんなに俺が好きか?
上で永諸家系図伝と寛政重修諸家譜の重要性について述べた。
試みとして勝海舟の家で寛政重修諸家譜だけで何が分かるかを明らかにしてみよう。
海舟は明治後子爵になり華族に列したので、受爵にあたって家系調査をし、略系図を
明らかにしている。これと寛政重修諸家譜を突き合わせればよい。
勝海舟の本家は男谷家で、曾祖父は越後の小地谷の在(三島郡長鳥村)の貧農の
子であった。盲人であった。名を銀一といったらしいが、これは按摩の名前だろう。
少年の頃、江戸に出て按摩をしながら金を貯め、それを高利貸しして巨万の富を
得た。江戸時代は盲人の金貸しは厚く保護されていて、貸し倒れなどは無いもので
あった。めくらから金を借りて返さないなど社会が許さなかったのである。
海舟の曾祖父は十万両の身代となり、江戸市中に十カ所の地所を持つ身分に
なったという。当時土地を持つということは普通の人間には出来ないことであった。
さらに朝廷から検校の地位を許された。もちろん買官したのである。
検校は盲人の官職のうちで最高の地位であった。
越後の米山(よねやま)に因み、米山検校と名乗っていた。
曾祖父には長男である忠之丞と三男である平蔵の二人の息子がいた(次男は
早世したらしい)。検校は長男忠之丞に御家人男谷家の株を買ってやった。
これ以降、検校も男谷検校と名乗ることになる。
−−−ここまでは寛政重修諸家譜には出てこない。御家人時代のことだからである。 さて、忠之丞は御家人男谷家の当主となったが(男谷家の相続人となったということ
である)、ほどなくして死亡。精一郎という子がいたが、まだ幼弱だったので父の
忠之丞を相続することはできない。武士の家は軍役義務を負うので、相続人が幼児
では継げないのである。
そこでとりあえず三男の平蔵が継ぐことになった。
この三男が安政五年に西の丸の持筒の与力に召し抱えられ、旗本となった。
旗本のやる役目を与えられ、旗本となったのである。
−−−だから寛政重修諸家譜では男谷家は平蔵から始まっている。
検校−忠之丞 ・・・・・・ 精一郎
↓ ↑
平蔵−(長男)彦四郎
...(三男・妾腹)左衛門太郎(小吉)
男谷家を旗本にするためには大金を使ったはずである。
関係する上司らに賄賂をばらまいたのである。
一説に三万両使ったといわれる。
平蔵の長男彦四郎思孝(ひろたか)という人は父よりもさらに出世している。
勘定方となり、諸国の代官を歴任した(この頃の代官は勘定奉行配下だった。)。
この人にも実子がいたらしいが、精一郎が成長したので精一郎を自分の養子に
して男谷家を継がせた。
(自分は他の旗本の家を継いだのだろう。金があればいくらでも可能である)。
こうして男谷家の当主となった精一郎が幕末の剣客として有名な男谷下総守信友
である。 海舟の父親の小吉(小吉は幼名で、本名は左衞門太郎である。)は、男谷検校の
三男平蔵の妾の子である。
この妾の腹の中に小吉がいるときに、妾は平蔵の勘気に触れ、家を追い出された。
平蔵の本妻はよく出来た女で、小吉が生まれたあと小吉を引き取り、乳母をつけて
育てたという。だから小吉は母を知らない子であった。
小吉は七歳のときに旗本勝家に養子に入った。
父の平蔵が金で勝家の家株を買ったのである。
勝家は三河以来の幕臣であるが、もともとは御家人で、九代家重のときに旗本に
なった家であるという。小吉が養子となったときには、勝家の男達は死に絶えて、
家にはお婆さんと孫娘一人だけが残されていた。
勝という家を買っただけとはいえ、形としては養子となったわけだから、このお婆さん
と孫娘を放り出すわけにはいかない。
当初、男谷家と勝家は一軒の家に一緒に住んでいたという。
その後、男谷家が本所に新しい屋敷を拝領して引っ越すことになったとき、男谷家では
勝家のために本所の屋敷地内に一軒のあたらしい家を建ててやった。
さすがに金持ちである。 勝の家が独立し、小吉がこの屋敷で暮らすようになると、お婆さんの小吉いびりが
始まった。小吉は家が嫌で外で遊んでばかりいた。そのうち14歳になると家出して
放浪する。このときの話が「夢酔独言」に書かれていて非常に面白いが省略。
なお、勝家に残されていた孫娘は後に小吉の妻(海舟の母)になった。
最初から予定されていたことと思うが、小吉が18歳のときに結婚したのである。
婚姻により、最初は勝家の養子だった小吉が勝家の婿養子ということになる。
結婚はしたものの夫婦生活などあったのかどうか。
小吉という男は16の頃から吉原で遊び、代官をしていた兄(腹違いの兄の彦四郎)の
代官屋敷の手代にそそのかされ、代官所の公金二百両を持ち出して吉原で蕩尽して
しまった。このときは父親平蔵のとりなしで事なきを得たが、二百両ぐらい何でも
ない父親がいなかったらどうなったか分からない。
このくらいの道楽者なので、結婚しても妻など見向きもせず外を遊び歩いていた。
小吉は22歳のときから24歳まで、足かけ三年間座敷牢に入れられたが、妻を妊娠さ
せたのはその時期である。
さすがに座敷牢にいては妻に手を出す以外なかったのかも知れない。 >>451
こんな朝っぱらから長文垂れ流しってある意味すごいよな >>452
俺様が最も日本史に詳しい人間だと信じて疑わない躁病の爺だから誰にも止められんよ
躁病患者の特徴は「気分爽快、自我感情高揚し、自信過剰で尊大・無遠慮で節度を欠き、
誇大妄想を伴い、多弁・多動で落着きがない。時に怒りっぽく、攻撃的で錯乱状態を呈す」
だとさ・・・ >>454
外人労働者の多いところでは
空気読めない奴ばっかだよ おじさんが早起きして書き上げた力作最後まで読んだ人いる? >>451 から >>458 これ全部一人のおっさんの自演?
嫌みのタレ方がそこはかとなく古いんだが
お爺さんなのか・・・
一つだけ言っておく。まとめて書け。スレがどんどん消費されてもったいない。
俺みたいに内容のある書き込みをするならいいが、
ひねくれ爺の妄言7つも並べてどうするw
−−−−−
では価値ある書き込みに戻ろう。
勝の家は小普請であった。小普請というのは役職のない旗本に与えられる役職である。
小普請組に属し、月に二回組頭のところへ挨拶に行くのが仕事であった。
これを逢対(ほうたい)という。上下(かみしも)をつけての格式張った儀式である。
これだけは何が何でもしなければならない。それ以外は暇である。
月に二回の逢対以外にも、出来るだけ組頭の屋敷に挨拶に赴くのがよいとされた。
普通の日には組頭もいちいち応対できないので、玄関先に帳面が置いてある。
それに勝手に記帳して帰ってくることになっていた。
小吉も婆さんにやいのやいの促されて挨拶に行く。しかし、字が書けない。
自分の名前さえ書けないのである。仕方ないので人に頼んで書いてもらっていたという。
逢対(ほうたい)というのは、その文字からして、組頭が一人づつ相対して出席を確認
するということだろう。
幕府の決まりでは、当主が四ヶ月行方不明だと取り潰しということになっていた。
逢対に四ヶ月行かなければ家は断絶するのである。
小吉は逢対だの挨拶だのという生活が嫌になり、また家出して遠州の剣術の友達の
ところに二ヶ月ほどいた。江戸には帰らないつもりでいたのだが、親類に連れ戻され、
家を潰すまでの気儘は許さないということで座敷牢に入れられたのである。 小吉に麟太郎という息子が生まれたとき、小吉は長屋に住んでいた。
相変わらず小普請で無職と同様であるから、刀の鑑定などをして小遣いをかせいでいた。
何故旗本が市井の長屋なんぞに住んでいるかというと、この頃の旗本というのは自分の
屋敷は人に貸して自分は他所に住むというのが普通だったからである。
拝領屋敷に住んだままであっても、屋敷の一部を人に貸したり、賃貸用の家を建てて
そこに人を住まわせるということは当たり前に行われていた。
最初は離れを貸すという程度だったのだろうが、旗本屋敷の敷地というのは広いので、
そこに何軒もの貸家を建てて賃借人を入れ、いっぱしの大家となる旗本が多かった。
ある論文では拝領屋敷の七割に及ぶという。「不在拝領主化」というのだそうである。
旗本の敷地内の家を借りるのは大商人がほとんどである。
町全体が今日でいえば一等地にあり、高熨スく、安全で閑寂だったからである。
街中は火事が多かったが、大名や旗本の屋敷町はほとんど火事が出なかったことも
大きかったと思われる。
旗本ばかりでなく、八丁堀同心の屋敷内などの貸家も人気があった。
同心の屋敷であっても敷地は400坪ぐらいはある。
この土地を区分けして家を建て、そこに商人たちが住んだ。八丁堀同心の屋敷ということで、
盗人や押し借りも来ず、きわめて安全だったのだという。
今日でいえば、警察官舎内に住むようなものであった。
なお、長屋には旗本が住んだりもするのであるから、イメージを捉え直さないといけない。
貧乏長屋も多かったが、裕福な人の住む小綺麗な長屋も少なくなかったのである。
商家の奉公人も番頭ぐらいになると所帯を持てたが、その場合は長屋に住んで店に通って
いた。こういう人たちが落語などに出てくる貧乏長屋などに住むわけはない。
紀伊国屋文左衛門も引退したあとは長屋に住んでいたといわれる。
お金持ちの住む長屋もあったのである。
もちろん一戸建ての貸家もあった。こういう家はお妾さんのような隣で聞き耳を立てられ
ては困るような人とか、鳴り物を使う浄瑠璃や小唄の師匠などが借りた。 麟太郎は7歳で将軍家慶の五男・初之丞の遊び相手に命じられ、大奥に上がることに
なった。幼児からの遊び相手はやがて小姓となり、側用人などの出頭人になることが多い。
しかしこの五男は2年後に死んでしまった。
慶昌という名前になって一橋家を継いだ直後のことであった。
小吉は「せがれは青雲を踏み外した」と嘆いた。
麟太郎が遊び相手に選ばれたのは将軍家慶の目にとまったからであるという。
親戚の女性に「お茶の局」(阿茶の局)という大奥に上がっている女性がいて、その女性の
ところを訪ねた人がたまたま麟太郎を連れていった。
お茶の局が麟太郎の手をひいて御殿の庭を散歩していると家慶に出会い、家慶が大いに
麟太郎を気に入ったのだという。
この「お茶の局」という人がどういう人物か不詳だが、おそらく彦四郎の姉か妹ではないか。
海舟は後年、家定の正室篤姫に気に入られ、江戸市中を案内したりする仲となる。
西の丸に出入りして、篤姫と七輪で干物を焼いたりしたというが、大奥とのつながりは
最初から有ったということになる。
篤姫が海舟に気を許したのも、この親戚の女性が間にいたからだということも考えられる。
それ以前に、海舟は7歳のときから2年間、大奥にあがってそこで毎日生活していたので
あるから、大奥の女性と気が合うのは当然ともいえる。 >>461
措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ
スレチ連投キチガイ 殿
令和元年 8月 11日
東京都知事 小池 百合子
1.あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院診療が必要であると認めたので通知します。
2.あなたの入院は【 ?精神保険法第29条の規定による措置入院 ?精神保
健法第29条の2の規定による緊急措置入院 】です。
3.あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、
封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立会いのもとで、
あなたに開封してもらい、その異物は病院であずかることがあります。
4.あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又は保護者の依頼によりあなたの代理人になろう
とする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
5.あなたは、治療上の必要上から、行動制限を受けることがあります。
6.もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出てください。 それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない
場合には、あなた又は保護者は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、
都道府県知事に請求することができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋ねになるか又は下記にお問い合わせください。
7.病院の治療方針に従って療養に専念してください。 評判がいいようなので、上記>>444 から続ける。
>一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
>ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
>お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
>俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。
これに続けて
俺の友達で、先祖は北陸の某藩の同心だと自慢している奴がいた。
同心というのがどういう身分かよく分かっていなかったらしい。
士族であるということも自慢していた。
「俺の親爺は、近所の奴らなんかどんな身分か分からん、けがらわしい、とか言うんだぜ」
などと話していた。
「うちの先祖に喧嘩で同輩を斬り殺して先祖の墓の前で切腹して死んだ人がいるんだってよ」
と、これも得意げに話していた。
しかし、そいつの親も祖父さんも医者である。祖父さんは東京の私立医大である。
これは、家は相当な資産家だったということである。
さらに、祖父さんの弟は一生働かなかったらしいと言っていた。
ニートのヒキコモリのように思っているらしかったが、農地解放前、大地主の跡取り息子と
いうのは普通働かず、家産を管理しているだけだった。
戦前に息子を北陸から東京の医大に行かせ、家を継いだ息子は働かずにいたというのは
大地主だったということである。
本物の同心の家で、明治に禄を失ったような家なら、息子を東京の医大に行かせたり、
一生働かずに遊ばせておくというのはまず無理だろう。
それが出来た家だということは同心身分を金で買った豪農だったということで間違いないと思う。
祖父さんの代から東京住まいだから何も分からなくなり、喧嘩で同僚を斬り殺した話などを
自分の先祖の話だと思っているのである。 >@marumasa58
>徳川家広氏、かの会津藩藩主松平容保公の
>直系なんだけど、その人がよりにもよって
>福島に関するデマばら撒いてる
>立憲民主党から出馬というのが実に笑えない
>20:15 - 2019年4月30日
パヨクが令和新撰組と名乗ったり
会津松平の直系がパヨク政党から出馬したり
実にあからさまになってきたねwwwwwwww
会津側はパヨクです!
会津プロパガンダは反日プロパガンダです! 松平容保は籠城中にもエッチしてたんだよな?
家臣が命がけで戦ってる最中に中出ししていた
容保には幻滅した… >>466 〜>>471
イミフな書きこみ6つもしやがった。
図書館の姓氏辞典で先祖が分かるとか言ってる阿呆だろ
名字には確かにその発生の元になった本貫という土地がある。武士の所領だ。
本領ともいう。武士は領地を持ったらその土地の地名を名乗ったのだ。
例えば足利氏は、八幡太郎義家の四男が下野国足利郡足利荘を領地としたときに
称したもの。
細川は三河国額田郡細川ク、畠山は武蔵国男衾郡畠山荘。
今川は三河国吉良荘今川。
新田は上野国新田郡新田荘が本領。
山名は上野国多胡郡山名ク。新田義重の長男がここを名田として名乗ったもの。
島津は近衛家の荘園である薩摩国島津荘の下司に補任されたのが姓の由来。
武田は八幡太郎義家の弟の新羅三郎こと源義光の三男の家系。つまり佐竹義業の
弟義清の直系。本領が常陸国那珂郡武田クであったため武田と名乗った。
義清は甲斐国に流罪となり以後は甲斐で勢力をなす。
こうした姓を名乗る本家からいくつもの分家が立てられてそれぞれの領地名を姓にした。
だから姓というものはどんどん出来ていく。
それぞれの系統を明らかにしないとゴチャゴチャして分からないというので姓氏辞典が
できた。姓氏辞典とは言わないが、この類の本は江戸時代からあり、系図屋の種本だった。
日本には群書類従を代表とする本の内容を分類して百科事典のようにする伝統があり
(例えば、百合だったら百合がどの本のどこにどんなふうに書かれているのか、あらゆる
本にあたった結果が書いてある)、姓氏辞典もこの類の知識を採集した記述が混ぜ込んである。
どこそこの寺の鐘名に○○という鋳物師の名前があったとか○○神社の寄進者名に
○○という名前があったとか。 姓氏辞典は、どういう姓がどのように作られたのかという資料にはなっても、家系調査の資料
にはならないと思う。その姓を名乗っているからといってその一族の人間とは限らないし、
長い間に本筋の人間はすべて絶え、姓だけが残っているということも多いからだ。
現在は姓と血筋は完全に分離してしまっていると言っても過言でないだろう。
例えば細川氏は讃岐や河内や阿波など支流がいくつも出たが本宗家を含め全部絶えた。
和泉細川家の後裔を自称する細川藤孝が出なければ細川家は何の痕跡もなく消滅していた。
ただ細川藤孝が本当に一度断絶した和泉細川氏であるのかについては疑問の余地がある。
本人が後裔と言っているし、再興したという触れ込みだから誰も突っ込みを入れないだけの話。 アイヅーはシーマンヅーに互角に逆らわなければならなかった。。。 自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
てっきり男子直系だと思ってたんだが、戸籍を取り寄せると江戸末期に婿養子に入って来たのがわかった。
自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
自分の兄が、何十年ぶり位に息子家族、兄弟家族を呼んで墓参りと法事をすることになった。
先週の金曜日と土曜日に行ってきたが、楽しかった。
自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
自分たち一族の墓が山の裾野に集まってるんだが、今までどういう関係の墓かよくわからなかったけど、戸籍を調べて初めてわかってきたのは、自分の直系の墓がずっと残ってることに感動した。
今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
兄貴の孫達が、嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた。
昔の墓は、小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
苔を落として初めて名前がわかった。 次の目標はその前の世代の墓石を見つけること。
しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめられてるから墓石は無くなってる。
それ以前のうちの家系の大昔の墓は別の場所にあり、そこはそれなりに保存されてるがどんな人達が埋葬されているのかは、よくよく調べてみないとわからない。
離れているとまず無理だな。
中心にあるのは畳3畳位の巨大な石が鎮座している。 >>476 婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
寺の総代は、うちの家系が3名とそっちの家系が2名、その他1名で運営されてた。 >>399 で突然珍名を話題にしたのは狙いがあったわけだ
先祖が非常に珍しい姓なので姓氏辞典などによる特定をしやすいということ。
あと、>>476 なんかは
>自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
なんてふうに「見たこともない珍しい名字」だから簡単に特定可能ということだな。
たしかに山田さんだったらどこの山田か分からないものな。
しかし、いくら珍名でも名家とか名主をやるような家が一軒だけということはないわけだよ。
田舎で、その一軒だけが地元の名家なんてことはない。
そういう家は一族一党が栄えている、あるいは栄えていたのだ。
もちろん一族の中には落ちこぼれみたいな名前汚しみたいな家もあるだろうが、ともかく
その地域では有力な家系として認識されているはずだ。
だからいかに珍名でも、その限られた地域にはかなりの数がいるはず。
珍名珍名といっても、地元に行けば必ずしも珍名に非ず
名主をやるような家なら、その周辺に同じ名字の家がいくらもあるよ
婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字→だから簡単に名主さんの家の人間と
特定できた、というのは無理がありすぎだと思う。失敗だな、こりゃ 皆、先祖は○○だと思い込んでるからな
冷静に突っ込んでも感情的な反応しか返ってこないよ なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。 自分の高祖父(文久3年生まれ)は庶子が8人いた。
奇跡的に全員成人して他家に養子に出されたけど。 >>478 やけに絡むな。
うちに婿養子に来た家系がどんなものかよくわからなかったが、うちの家系の菩提寺の総代はうちとその名字の家系とで切り盛りしてるから地元ではそれなりにやってんじゃないの?
今年墓参りに行ってようやく少しわかったけど。 >>478 何を言ってるのやら。 どんなに珍しい苗字でも地元では当たり前なのは当たり前。
議員もいれば、校長もいる。 >>478 俺がその苗字を知らなかったのは、3歳くらいに地元を離れたからだよ。 今年戸籍を取り寄せて初めて知ったけど。 >>476
>自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
素晴らしい。こんなこと書いてる時点でとても常識的な人だと分かる。
>>477
>婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
それなりの家系で庄屋をやってる家は息子を婿になんかやらないだろう
もらう方だって庄屋のお坊ちゃんなんかもらったって何にもならん。
婿は労働力。農家ならとにかく牛馬の如く働く男であること。
商家なら商才と人使いのうまさ。 >>476
>今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
嘘嘘w 1906年なら明治39年。
そこの家の墓は代々管理されてるんだろ。明治39年の墓が苔むして誰のものか
分からなくなってるなんてあるわけないわ
その墓だけずっと放置されてたのかよ? 寺の総代までやってるような家だろ
そういう家の墓が放置されて誰のものか分からないなんてありえないわな。
おそろしく古い墓ならともかく、明治末期の墓だろ。
なんかちぐはぐな話だ。 >>487 >>488
今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。
名前が書かれてるんだから誰のものかわからないなんて事はない。 夫婦二つの墓が並んであった。
自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
戸籍調べをしていくうちに、親父の祖父の墓の後ろにある墓が親父の祖父の弟の墓である事がわかった。 だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた祖父の墓が見つかったというだけの話。
うちの直系の墓がずっと一列に並んでいた。
それとなんか誤解してるみたいだけど、お墓と言っても今風のお寺の墓地じゃないんだぞ。
山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだけ。 もともと本家は神社だし。
明治以前の墓は整理して、納骨堂を作り合祀している。
(同じ県出身の元大臣の揮毫で、祖廟と書かれている)
鎌倉時代の墓群は、別の場所に有り先祖祭りの時に供養している。 鎌倉以前は奈良に住んでたから、それ以前の墓は調べた事はない。
供養をしてもらう寺は離れた場所に有り、そこが管理している墓地ではない。 過去帳を見せてもらえることにはなってるがまだ見ていない。 途中までは本当なんだと思うよ。
ウチも○○源氏の子孫だという事になってる元武士だけどさ。
先祖が某大名家に仕えていて明治維新まで武士だったのは間違いない。
系図もあるし、菩提寺には過去帳もある。
でもね、○○源氏の子孫だとは思ってないよ オレは。
さすがにそれは嘘だろうと思ってる。
先祖が戦国時代の末期には武士だったのは間違いないし、それ以降は正しいと思ってるけど、それ以前は血筋が怪しいと考えてる。
先祖の系図を頼りに昔はどこそこに住んでいたとかは考えないわ。
徳川家ですら系図を詐称してる訳で、本当に過去まで先祖がたどれる人なんてごく少数だと思うから。 あと、仕えていた殿様から貰った感状とか刀とか本家にはあるよ
ウチは明治維新以降に別れた分家だけどさ 源氏を助けてきたのは事実で、その功績で源頼朝から地頭として地方に派遣された。
氏もはっきりしてるし、奈良にはその氏の神社もいまだに存在してる。 推古天皇の読んだ和歌にも出てくる。
頼朝からの命でその時一緒に国司として赴任したのが戦国武将として名高い〇〇氏だが、うちの祖先は地頭で有り、かつ〇〇氏の侍大将でもあった。
南北朝時代になり、南北で戦うことになり、〇〇氏達も兄弟別々の方に味方することになった。
うちはずっと南朝に味方してきたので、北朝方の〇〇氏から焼き討ちにあって大事な資料の大半を失なった。
しかし、面白いことに今使ってる家の紋は、〇〇氏の紋を少し変形した紋。 南朝に味方した方から諱と紋をもらったそうだ。
今の苗字はその前に後醍醐天皇から授かった苗字で、紋も別の紋を授かったが、今は使っていない。
自分の苗字は絶対に自分一族しか使っていない。 〇〇県/都俺の名で郵便物が届くくらいだから。 前スレでも同じスレあったな
頼朝から地頭職を賜ったとか千年昔の先祖とか一族が、とか
何のために同じ事ばかり書くのだろう
ここはそういうスレじゃないと思うけど 先祖の話を真に受けて、凝り固まってるんだろうね
史学的に正しいと証明された訳でもない限り、客観的に彼の言い分が正当かどうかは判断できないのが事実。
ま、それを指摘しても無駄なようだけれど。
姓についても思い込みが激しいね。
家臣に性をあげるとかで一族以外でも同じ性を名乗った例はいくらでもあるのにね。 知らなかった墓が見つかったという逸話だから、良いんじゃないの?
寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 >今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
1825年といったら文政8年で十一代将軍家斉の時代だぞ。
この時代に生まれた人からその夜叉孫が生まれるまで(>>489に70過ぎと書いてるから
昭和19年〜23年ぐらいの生まれか)、四代というのはちょっと苦しいわな。
絶対にないとは言わないけどな。
もう一代あれば自然だ。
そしたら
>だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた>祖父の墓が見つかったというだけの話。
というふうに今度は父親の高祖父の話にしてやがんの。
一代足してやんのw
>山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだ>け。 もともと本家は神社だし。
本家が神社やってる家なら神道じゃないのか?
なんで寺の檀家総代なんかやってるんだろ、、、と不思議に思ってたら
今度は >>497 で
>寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 だってさ。
もともと一緒くただから不自然じゃないだろと言いたいんだろうな。
いい加減なこと書いては後からツギハギする人だなw
檀家総代をやるような家は信仰心も祖先を敬う心も篤いはずなのに、明治も終わり頃の墓石を
コケだらけにして誰のだか分からなくしてるなんてあるのかな、、、と思ったわけだ。
しかも、江戸時代の墓は整理して霊廟を建てたんだろ。
それならその時に残す墓だってきちんとしたはずだ。分からないなんてあるかよ、と思ったら
>今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。 だって
あんたの話はどこかちぐはぐでおかしい。 おかしな奴だと思ったら、またあの基地外か
単なる落ちぶれた庄屋の子孫なのに真の武士は庄屋とかおかしな事を書きまくってたな 70過ぎてこんなことしてんのかw さみしい老後だな。
ボケが始まってんじゃないか? >>476
>兄貴の孫達が、嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた。
古い墓石の苔落としを経験したことないだろ
土に生えている苔は簡単に取れるが、石に生えた苔を取るのはたいへんだよ
簡単に剥がれるようなものじゃない。
石も昔のは研磨されてないのが多く、長い間にざらざらになっている。
表面が荒れているところとか割れてる部分の苔取りはさらにたいへん。
変な虫もいるし。
それに、一番たいへんなのが石に傷をつけないこと。
鉄のへらでガリガリやると傷つけてしまう。
子供なんかにさせられることではない。
何が嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた、だよボケ
ふざけんな
この>>476-477、そして>>489に書いてあること は全部嘘だ。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| エサに飢えてるクマはみじめだな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ドウモ〜〜〜ッ!!ハジメマシテ〜〜〜ッ!!!!
私は14歳の女子中学生してるのぉ〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ
うーんとー、ご先祖さん大好きなの〜
だってご先祖さんがすっごくすっごく好きになってー、
探してたら(◎_◎)なんとっ!
ご先祖さんの素敵なスレッド♪を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ
てなわけで、ついつい書いちゃったのらー(o^v^o) エヘヘ
同じご先祖さん好きな人、友達に、なってくれるよねっ。(*^-^*)
え?くれないのぉ〜?(;¬_¬)そんなのいやいや〜〜、
なってくれなかったら、( `_)乂(_´ ) 勝負!
☆○(゜ο゜)o ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ〜ン!!
(>_<) いてっ!
(☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ
(+_+) 気絶中。。。
なあんて(#⌒▽⌒#)こんな私っ!σ(^_^)だけど、
お友達になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ >>506 あのさ、持って行ってたのは、除草鎌とか子鎌と言われてるものだから、子供でもサクサクと表面の苔は取れる。 1cm 位伸びてたから。 掃除レベルだな。
楽しくてうちの直系の家系とわからない墓の苔も取りたいと言ったがそれはやめさせた。
それ以上磨くのは、金のブラシでも難しいけど。 >>512
子供が除草鎌で取れるのはハイ苔しかないな。
けど、ハイ苔なら道具使わなくても手で取れるけどな。
普通、石に生えた苔は鎌なんかでは取れないよ
子供なんかには到底無理。
お前はさー、信長の野望に出てくる中野宗時が先祖と同族だとかわけのわからない
ことを書いてた奴だろ
何でも書けるよなお前は それ書いたのあなたです。
何が70過ぎだよ。17歳ぐらいだろw >>514 兄の孫の文章書いたのワシや。
ハイゴケかなんか知らんけど、手で取るバカがいるか。
サンプル採取なら手で取れるが全面的に撮るには下に土も溜まってるし手で取れるようなものではない。
ゼニゴケみたいなものが取れるなんて一言も書いていないぞ。 あんなものカナダワシでこすろうが取れんし、そんなことしたら墓が痛む。 専用の薬剤を使わないと難しい。 お前は馬鹿だな。反論の対象を間違えてる。苔の知識も無いのに苔限定で反論してるって
馬鹿通り越してるぞ。他に何も言えないから仕方ないか。
どうでもいいが、ハイゴケというのは定着しない苔なの。定着しないで這って移動するように
見えるからハイゴケ(這苔)というのだ。人の入らない草むらや廃屋の壁や屋根などに
ボロボロの高フ綿みたいに広がってることが多い。
湿った綿クズみたいなものだよ。
持ち上げるだけで剥がれてしまう(もともとくっ着いていない)。
「ハイゴケ 画像」でググってみろよ。
お前はマジでガキだろ。
そもそも古い墓石の苔落としなんか子供にやらせるかよ。
70過ぎの訳の分かった大人なら絶対にさせないことだ。
将来のある人間には葬式や墓場関係のようなことはやらせない。
他にも葬式の受付などケガレの関係は人生の確定した老人がやることであり、将来のある
若い人にはさせないものだ。
今は受付なんか葬儀屋がやってしまうから分からなくなってしまっているけどな。
墓の関係なら、墓参りや軽い掃除ならともかく、墓いじりなんか子供にさせるわけがない。
お前はものを知らな過ぎるよ。
それで先祖話なんかするからおかしなことになる。 だからさ いつもの基地外が書いてるんだから、真に受けるなよ ◯一般庶民の家庭に存在する家系図の信憑性
ご先祖は平家の落人 能登半島伝
「日本の家系図のほとんどはニセモノである」
というのが歴史家のごく普通の意見である。
http://neroloop.boo.jp/archives/3678
武士にとって家系図とは今で言うところの
履歴書のようなもので、さらに江戸時代では
出自や家柄も出世にあたっては重要なものでした。
そうなると、出世のために有利な色よい
家系図が欲しいところです。そこで
「ニセ家系図」という、名家や将軍家、公家との血筋があるように””盛った””家系図が流行したのだそうです。こうしたねつ造、改ざんを得意とした「家系図屋」という職業も存在していたということですから驚きです。
このような色よい家系図を手にして有頂天になっていたら、とんでもない家系図になってしまいます。
https://uguisu.skr.jp/history/nise.html
室町幕府が滅びた後も続いて現在にまで至っている足利氏は、僅か二系統だけ。
http://muromachi.blog.jp/archives/1068560606.html そう言えば太田亮という人が書いた姓氏家系大辞典に
「庶民の間に伝わる家系図で、名門名家に繋がるものは、8割から9割偽物である」
て書いてあった >>525
うちは分家だから平民だったが本家は大名華族だった。 柳沢吉保の子孫だけどあまり知られていないしマイナー大名だから肩身がせまい 西美濃の稲葉の末裔だけど、その話をして興味を持たれたことがない >>521 ハイゴケとは言っていないだろ。 ハイゴケは手で取れるが土までは取れんと言ってるだけじゃ無いか。
>>520 で取れないのはゼニゴケと言ってる。
俺も苔は少し趣味で育てたことがあるから、少しはわかる。
何も知らないのは >>521 お前だ。
先祖は身近なものなんだよ。 何が汚れたものだ、けしからんことを言うな。 >>530
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない >>529 稲葉って聞いたことあるよ。
織田信長の時代の稲葉貞通が有名かな? >>531
お前は苔のことなんか何も知らない。
お前の知ってるのはゼニゴケだけだw
それなのに
>俺も苔は少し趣味で育てたことがあるから、少しはわかる。
だもんな
シラ〜〜〜と嘘つく奴なんだよお前は
>先祖は身近なものなんだよ。 何が汚れたものだ、けしからんことを言うな。
なんと馬鹿な奴だ。
先祖が穢れているとかではなく、墓場という場所の問題だ。
墓場というもの、あるいは墓というものは死に関連するもの。
どうしたってハレの場所にはなり得ない。
墓場で孫に墓の苔だの土だのに触らせる馬鹿がいるかっての。
そんなにご先祖様が有り難いなら、お前は墓場で結婚式をあげろ
ご先祖様のお墓の苔だよ、とか言って自分ちの庭で増やせばいいじゃないか
墓の玉砂利を一つお守りに持って歩け
大受けするぜボケが あ〜〜あ、正体晒しちまった、馬鹿だなw
自演の会話だけにしとけばよかったのに
柳沢さんなの?
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない
源氏の名族じゃん。
なんて「人生終わってる感」がすごくていいわw >>540
勝小吉連投馬鹿w
釣られてくれるなんて素直だねぇw 柳沢吉保の子孫だけどあまり知られていないしマイナー大名だから肩身がせまい
柳沢さんなの?
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない
源氏の名族じゃん。
一人で会話してる姿が可愛いね。
で、お前、もう反論しないの?
エアー墓参りの話 墓参りの話なんか一回もしてないけど
何を勘違いしてるんだこの連投バカは?
もう少し見極める目を養ったほうがいいな
連投バカには全員同一人物に見えるらしい >>543
お前それは前の >>541 で書いておかなくちゃ駄目なんだよ
やっぱり馬鹿だね
そもそも自演でこんな間抜けな会話するのはお前しかいないわ
で、エアー墓参りはどうなったんだ?w >>544
人を見分けることも出来ない判断力のないお前に馬鹿だの間抜けだの言われる筋合いはないな
まあ見極める目を養えといっても日本語さえ理解できない馬鹿に期待しても無駄だろうな ふ〜〜ん。じゃ墓参りのインチキ話は終わりということか。
面白かったのにな、、、w >>546
上で墓参りの話なんか一回もしてないけどって書いてんの読めないのか?
勘違い馬鹿なお前にも分かるように教えてやろう
>>442
>>445
>>452
そして今日の>>539以降、ただの一度でも墓参りの話を書いてるか?
だから人の見分けることのできない馬鹿と言ってるんだよ
お前みたいに毎日スレに張り付けるほど暇じゃないからな しかも一番最初に書き込んだ>>442の次に
>>おー、久しぶり
相変わらず馬鹿だなお前はw
と訳の分からない勘違いを最初からしている >>547
お前がどこそこに何を書きましたと言うのは自由。そしてそれを俺が信じるのも
信じないのも自由。本当のところは分からないのだから。
お前がトリップつきのコテハン付けていたのでなければ、自分が書いたというレス番を
書いても無駄だ。
>>548
>しかも一番最初に書き込んだ>>442の次に
>>>おー、久しぶり
>相変わらず馬鹿だなお前はw
>と訳の分からない勘違いを最初からしている
ワハハ図星だったわけだ。
お前の幼稚さはインチキ墓参り書いた馬鹿と同レベル。だから同一人物なんだよ
お前は素直に「俺は70過ぎの墓参り爺なんだな」と思ってればいいの
馬鹿なんかみんな一緒だよ >>549
>>ワハハ図星だったわけだ。
何が図星だと思ってるのか意味不明だな
>>お前の幼稚さはインチキ墓参り書いた馬鹿と同レベル。だから同一人物なんだよ
お前は素直に「俺は70過ぎの墓参り爺なんだな」と思ってればいいの
馬鹿なんかみんな一緒だよ
幼稚なのはお前だろ?おまけに自己中
周りが見えず延々と自己満にまみれたスレチ長文を連投してスレ進行を妨害しているお前から幼稚といわれるいわれは残念ながらないな >>539
なんだよ。もっと書いて欲しいのか。
催促されてしまった、、、
ではちょっとだけ書いてやるか
>>477
>婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
これに対して俺は
>それなりの家系で庄屋をやってる家は息子を婿になんかやらないだろう
と書いたわけだが
実際、婿というものはどういうものだったのか
農家の次男・三男は、奉公に出るか養子(婿)に行くか、兄の家で一生耕作を
しているか、さもなければ職人になるかであった。
養子(婿)に行くことは、「糠三合あれば養子に行くな」と諺にあるぐらいで、あまり
よい境遇でないことは明らかであった。
なぜならば家族の中での地位とか権力というものは、結局は経済的な力いかんで
決まるものであるから、とにかく家も土地も持っている妻の実家の方が、労働力しか
持っていない養子(婿)より力が強いのは当然であった。
養子の代わりなんぞいくらでもいる。
妻の実家の人間は養子が出ていっても食っていけるが、養子の方は妻の実家が
なければ食うこともできず、住む家もないのである。せいぜい実家に帰って飼い殺し
になるのが関の山。歳をとってからではそれもできない。
嫁が無力なのと同様に婿も無力であった。 婿養子に行くときに、養父に入れた証文が残っている。
「養父母の指図には少しも背きません。万一下知に背きわがままの心を持ったら、どこに
追放されても恨みには思いません。夜出歩くこともしません。暮れ六ツ過ぎに出るようなことが
あるなら養父に断り、監視の人を連れていきます。養父が監視は無用と言われれば下知
しだいにします。」という内容である。元和2年(1616)の資料である。
これは婿でなく養子の例であるが、
養子になってのちに実子が生まれると、面倒な問題が起こる。
そこで事前に養父から養子側に家督証文というものを入れる。
「後に実子が生まれても必ず養子に後を継がせます。田畑・山林・屋敷とも渡します。
万一離縁の際は二つ割りにして半分は渡します。ただし、養子が自分から離縁を言い出した
場合はこの限りではありません。」といった内容である。
こんな証文が作られたということは、この種の紛争が珍しくなかったということである。
しかも、内容は一見養子に有利であるように見えるが、最後の一文がミソである。
養子から離縁を言い出した場合は何もやらなくていいということで、要するに養子の側か
ら出て行くようにし向ければ養家は一銭もやらないで済むのである。
農家の婿などというものは、例え死んで墓に葬られても、「これはあの家の婿だわな」と
足で指される。名も言われず、足で指されて「これ」呼ばわりだったという。
岩波新書「ものいわぬ農民」。 コピペご苦労さん
人がいなくなってもずっと一人でやってろ
もう止めないから こいつは前からずっとこんなくだらないうざったらしいことを垂れ流してるやつだろ?
何の目的が有るのやら。 妬みか? >>476
>自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
先祖ははっきりしなくていいから頭をはっきりさせろ
おとぎ話みたいな話してるんじゃないよハゲ >>476
あくまでも喧嘩売ってくるからもう少し書くか。
このお墓の話にはまだまだおかしなところがある。
山裾に一族の墓があるという。
そして
>しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめ
>られてるから墓石は無くなってる。
のだという。この墓場に並んでいる墓石は明治以降のものばかり。
明治以降に死んだ人たちの墓は
>小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
というから、まだこの家の「○○家の墓」というものは建てられていないらしい。
この点、>>489 には
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも
>掃除をしてた。
と書いてあるから、お父さんの埋葬も個人墓。お父さんが亡くなったのはそう古いことでもない
だろうが、その時点でも「○○家の墓」は建てられていない。
しかし、今時個人墓を連ねている家なんかあるだろうか。
どこの家だって一つの墓にまとめてしまっている。
この家では江戸時代までの墓は整理し、祖廟にまとめて祀ってあるという。
そのときに遺骨まで収納している。
>>489 に
>明治以前の墓は整理して、納骨堂を作り合祀している。
>」(同じ県出身の元大臣の揮毫で、祖廟と書かれている)
と書いてある。
大臣に揮毫してもらうほどだから立派な建物なのだろう。さらに墓は掘り上げて遺骨まで収納
しているのだから、相当に金がかかっている。
江戸時代までの墓は大金をかけて整理したのに、一方で明治以降の墓はそのまんま。
しかも、現在70台の兄弟の父親の墓まで従来どおりに個人墓なんだそうだ。 普通順番は逆だろ。まずは「○○家の墓」を建てる。いわゆる家族墓。
そこに家族といえる範囲の遺骨を納める。祖父祖母は当然、曾祖父母も入る。
高祖父だって、そうだと分かってりゃ入れるだろ。
さらにもっと古い墓に入ってた先祖は、「○○一族の墓」というのをもう一つ作ってそこに
入ってもらうか、大きな「○○一族の墓」の墓を作ってそこに今のファミリーも含めて全部
そこに入るというのもある。古い墓は掘り起こしたりせず、その墓の土だけを新設の墓に
入れるのが普通。
うちの家の墓がある墓地では、江戸時代から続いている家が何軒かある。
そういう家は分家がたくさんあるから、同じ名字の墓がいくつも並んでいる。
管理人に聞いたところでは、三十数家に分かれているという。
江戸時代から続いていれば自然にそのくらいにはなるだろう。
そのうち大きな墓は6つぐらい。本宗家の墓は大名の墓みたいに周りに20センチぐらいの
太さの石材を並べた玉垣を連ね、中央奧に○○家の墓という大きな新しい墓石、両側に
古い墓石が7、8基づつ並んでいる。
分家は規模が小さくなり、○○家の墓の他に古い墓石が3つぐらいとか。
そして最近の分家は普通の家族墓のみ。
>山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理
古い家は分家分家でどんどん増えていくんだから、それぞれが個人墓をズラズラ並べてたら
どういうことになるんだよ。それに墓というのはまとまって作るの。管理もたいへんだから。
水場だって桶だって帚ちり取りなどの掃除道具も必須だし。ゴミ捨て場も必要。
それを山裾のあちこちに作るわけにもいかない。
どこだってコンパクトにまとめていくんだよ。
>>476 の書く墓の様子は現実味がない。父親の墓まで個人墓なんてあるかよ。
いつの時代の話をしてんだボケ 分家が増えすぎると違う山の麓に又作ったりして増殖していくよ。
うちの先祖の墓なんて1000坪近くあるが(大部分は山)そのうち200坪程度が
地目が墓で無税だが明治以降増殖し残り部分は墓が建ってるのに地目が畑等で課税されてる。(田舎なので安いけどね) >>558 >>559 よくも長々と自分勝手な曲解ができるものだな。
読解力 0だな。
>>476 では高祖父の墓(明治末期)が見つかったことと墓が夫婦並んで建てられてたとしか書かれていないだろ。
また、両親の墓もないのに墓参りになんか行くかよ。
それ以降の墓は大きくなって夫婦、子供位までは同葬が多い。 >>561 補足
ついでに言っておくが、大きな墓になってからは皆〇〇家(累代)の墓 だけど、 同じ苗字だから墓誌を見なければ誰の墓かわからない。
何で〇〇家の墓がないと思ったのか意味不明。 自分の所の状況と他人の状況を同じと思うなよ。
ただ、自分は遠方で余り墓参りに行けないから詳しい事情はよくわからないが、大きな墓はうちの直系の墓が多かった。
もしかしたら地元の人達は最初から祖廟に入ってるのかもしれない。 或いは下の方にも墓石があるようだからそっちの方にもあるのかも。
先祖祭りの時には、全く別の場所の古い墓石群をお祭りしてる。 畳2畳位の巨石を中心にお祭りをする。 所で似た様なスレタイが二つあるけど、ここのスレタイなんなの?
正し?
但し?
俺は何となく正しい血族先祖に限ると言うのをはっきりわかった先祖と勘違いしてたけど、もしかして、ただの血族先祖以外の話をするなと言うスレだったのかな?
俺はどっちでも良いが、スレタイはおかしいんじゃ無いの? >>1 を見るとずっと同じスレタイを使ってるんだね。
こんな言葉が許されるのか? 念の為大辞林をくったけどやはり間違ってる。
歴史を語るのなら正しい日本語で話さないと通じないぞ。 次に立てるときはスレタイの誤字を訂正して下さい。
誤:先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る
正:先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る
ここは先祖探しのスレなんで先祖の自慢話とかやめて下さい。
基本、先祖が分かった人は用はないです。
先祖探しのエピソードならいいけど。 しかしさ、一族本家の大元がはっきりしてても、自分の直系が本家筋のどこから枝分かれしてるか調べるのは普通の先祖探しと同じだよ。
身近な戸籍調べなどから上に辿っていくしか無いんだから。
本家直系だったら全てはっきりしてるからそんな必要はないけど、そんな家系は少ないだろ。 >>566 >>15 でも指摘されてるね。正し>>但し >>561
お前は >>489 にこう書いてあるじゃないか。
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
>戸籍調べをしていくうちに、親父の祖父の墓の後ろにある墓が親父の祖父の弟の墓である事がわかった。 だっ>たら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた祖父の墓>が見つかったというだけの話。
>うちの直系の墓がずっと一列に並んでいた。
「自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓がある・・・」と明確に書いてある。
お前の父親の墓があるんだよな。「父親の墓」とある以上個人墓だろ。
個人墓がずっと一列に並んでいるんだよな。
>>476 には
>昔の墓は、小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
>苔を落として初めて名前がわかった。 次の目標はその前の世代の墓石を見つけること。
と書いてある。
苔むして簡単には誰の墓か分からない墓石がずっと一列に並んでいるわけだ。
夫婦も一緒でなく別々の墓石。完全な個人墓だな。
お前の父親の墓まで個人墓で先祖の墓に連なっているんだから、「○○家の墓」は作られていないと
考えて当然だろ。
「○○家」の墓が作られたなら、その時に古い個人墓は整理してしまうからだ。
古い墓郡をそのままにしながら、新しい「先祖代々の墓」を作るなんてことはしないよ。
新しい墓を建てながら古い墓も残す、新旧両方の墓があるなんてことはあり得ない。 それなのに、お前は >>561 で
>それ以降の墓は大きくなって夫婦、子供位までは同葬が多い。
などと書き、○○家の墓があるようなことを言い出した。
>>562 で
>何で〇〇家の墓がないと思ったのか意味不明。 自分の所の状況と他人の状況を同じと思うなよ。
と○○家のファミリー墓があるようなことを書いている。
お前の言ってることは全く理解不能。理解不能というより常識に反していて理解の外だ。
繰り返すが、新しい墓を作ったら古い墓石は全部整理してしまうのだ。
苔むしたまま存置しておくなんてあり得ない。
お前の家では明治以前、すなわち江戸期の先祖は全部祖廟に祀ったんだろ。
その時に古い墓は整理処分したんだよな。
お前も>>476 で
>しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめられて
>るから墓石は無くなってる。
と書いている。古い墓はちゃんと整理しているじゃないか。
その後の(明治以降の)墓も同じだよ。
新しく「○○家累代の墓」を作ったなら、その時に整理されている。
父親だの、その祖父だの、祖父の弟だの、祖父の祖父だの、そういった人たちの墓がそのままだ
なんてことがあるわけない。 >>560
>分家が増えすぎると違う山の麓に又作ったりして増殖していくよ。
これもおかしい。墓地なんてそうそう作れるもんじゃない。
分家というのは、墓をつくる時点ではその家の子供たちだ。次男や三男。
本家(兄の家)の墓がそこにあるなら、俺の家の墓もそこに作らせろというに決まっている。
それが何で別の山の麓に自分で墓地を作って墓を建てるんだ?
戦前はもちろん家督相続で単独相続なんだから、山林の所有権は本家のもの。
本家が分家に、あそこの山の麓をやるから墓地を作れとか言うのか?
なんでわざわざそんなことしなきゃいかんの?
本家の墓所があるなら、そこに分家の墓も建てさせるって。
双方ともそっちのがいいに決まっている。当たり前だろ
どこの墓地でも古い墓を整理して、土地小さく区画して新しい墓が建てられていったのだ。
そうでないと掃除や草むしりも大変だしな。
墓を隙間なく並べるのは雑草対策もある。
古い個人墓をそのままにしておいたら、あっという間に雑草に埋もれてしまうぞ。
(雑草のものすごさを知らないんだよなお前は。ガキなんだろうな。)。
墓地の用地取得困難もあるし、管理上の問題もあって、いまどき昔の個人墓がズラズラ並んでいる
墓地など無い。
寝言みたいなこと言ってんじゃないよ。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 中学生並の自己中ハゲが必死だな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 こいつどこに住んでるんだろうな。 余りにも自己中で色んな地方、風習があることが理解できないみたいだな。山の裾野が広いと言うことも理解できないみたいだし。 >>571
俺は一連の書き込みとは違い単独レスだ
江戸初期の分家は分家時の相続分が多いらしく多数分家を出すが離れすぎた分家は
本家とは異なる場所に墓をつくる。理由は分からん。
古い墓は整理せず、そのままだよ。だから膨大な墓石が並ぶがまだ空地もたくさんある
お盆の頃に一族総出で雑草刈りが先祖祭りと呼ばれるもの
土地は本家所有だったり一族名義だったりめちゃめちゃだが特に相談無く墓が建てられてるようだが・・・ 俺の先祖の場合例えばこうだ
池田源左衞門正宗次男
∴ 池田庄兵衞正泰 - 池田源右衞門正仲 - 池田庄左衞門正綱 - 池田源兵衞正國 - 池田庄右衞門正光 - 池田源左衞門正滿
池田庄左衞門正綱三男
∴池田作左衞門正成 - 池田源太郎正家 - 池田作左衞門正行
池田源太郎正家四男
∴池田作兵衞
このように分家は必ず本家の通称と同じ名前(どちらかと言うと八兵衛の場合は八の方のこと)を継承しているな
父が左衛門の場合は子は右衛門になる理由は存命中の同名を避けるため
父が亡くなったり隠居した後に子も父と同じ左衛門になる
だから俺の先祖の場合は山田太郎兵衛の孫が山田太郎兵衛だった
俺の先祖の場合は本家から分家したらほぼほぼ「吉」を継承してる
戦国時代に分家した遠い親戚の戦国武将の通称は吉太夫
江戸時代に分家した遠い親戚の藩士の通称は吉右衞門
戦国時代に他家の養子となった戦国武将の通称も吉兵衞
てな感じだな、あくまでもこっちの一族の場合だ
俺の別の先祖の場合だと
∴佐野藤兵衞綱信 - 佐野藤兵衞綱義 - 佐野藤兵衞綱家 - 佐野藤兵衞綱親 - 佐野藤兵衞綱爲 - 佐野藤兵衞綱朝
佐野藤兵衞綱家次男
∴佐野久兵衞綱氏 - 佐野與一綱詮 - 佐野久兵衞綱滿
というように兵衞を重視してたりする
どちらにせよ、本家と分家は何かしか名前が似てる つまり何が言いたいのかと言うと
同じ時代に足利源左衞門と足利平右衞門がいたとする
この場合名前が似てないので両者に親子関係はないとわかる
次に同じ時代に足利源左衞門と足利源兵衞がいたとする
この場合両者には親子関係があるとすぐにわかるんだ
源左衞門という名前のうち上の源の部分、この部分を嫡子に継がせる家が多いからだ
分家ならその上の部分は源ではなく平右衞門とか、全く異なる名前になる ま、分家筋も本家のどこかの代の通称と似たような通称を使ったりするから、だいたいこの家はこの本家の分家なんだとわかる
例えば
鈴木三郎右衛門を初代とした家の子孫に鈴木宗左衛門がいたとする、その鈴木宗左衛門の家の子孫が鈴木宗右衛門だとする
鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎右衛門がいたりする
このように何かしら名前が似てるからよく分かる ×鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎右衛門がいたりする
○鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎左衛門がいたりする
さすがに本家の初代と同じ三郎右衛門ではない、間違えた、三郎左衛門ね それも一例に過ぎん
ここで長文を書く奴はろくでもない奴ばかり
相手にしないのが一番 女は黙って養子に逆らわなければならない。
男は農民のしたの意味がある馬みたいだな。。。 自分の家紋を追いかけていくと意外と面白いよ。
俺はてっきり両親から聞かされていた紋だと思っていたが、墓石を見ると微妙に違う。 掘りかたが下手とかそんなのは抜きにして確かに紋が違う。
よくよく調べると、当時仕えてた大名から紋をもらったらしい。 それが変化して今の紋になったんだと思ってたが、かなり違うからよくよく見ると、その大名の紋に近い。
地元の石工は、昔から続いてるし余りいい加減なことはしないだろうなとは思ってたが、墓石の掘りかたを良く良く見ると結構雑。
普段は余程のことがない限り見ないからわからない。、 ーーーーーーーーーーーーーーーはい。以上、場面転換失敗w
では元の話題にもどろうな
>>489
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
お前の実家は「○○家累代の墓」があるんだろ?
それなのに何でそれとは別に「自分(70過ぎ)達の親爺の墓」があるんだ?
○○家の墓を建てたら、まず第一に入れるのは自分たちの父親の遺骨だろ。
何で別になってるんだよ。そんなのあるかっての
>>561 ではまた変なこと書いてる。
>また、両親の墓もないのに墓参りになんか行くかよ。 だって
お前の家の○○家の墓ってのはいったいどこにあるんだ?
お前の話はヒッチャカメッチャカだわ
自分でも何を書いてるのか分からなくなってるんじゃないのか。嘘にしてももう少し整理してから書けよ
>>573
>色んな地方、風習があることが理解できないみたいだな
地域性や地方の風習の違いで逃げようとしてるが無駄無駄。
そんな問題じゃないってw
お前があまりにもものを知らなすぎるんだよ。お前は子供だろ?
>>574 みたいな自演までやりやがって。
お盆の頃に一族総出で雑草刈りなんかいまどきやらないわ
何故かというと除草剤撒くのが一般的になったから。
自分の家の墓の周囲に立ち枯れてる草をそれぞれ集める(抜くというほどの手間ではない)だけだよ >土地は本家所有だったり一族名義だったりめちゃめちゃだが特に相談無く墓が建てられてるようだが・・・
これもおかしい。
戦前は家督相続で跡取りが単独で相続したんだが、戦後は分割となった。
跡取り以外の相続人が権利放棄すれば単独相続になるんだが、墓場の場合放棄はしないんだな。
山林や田畑の権利は放棄したとしても墓場の所有権(持分権)は放棄しない。
やっぱり自分の墓は他人の土地に置かせて貰ってるというのじゃなくて、自分の土地に持っていたい
のだろうし、墓地管理上の発言権も残しておきたいからなんだろうな。
ということで、墓地の所有権はいくつにも分かれていく。戦後だって最低二回、普通三回ぐらいは
分割されていってるんじゃないか。ということで幾十もの所有権に分かれ、共有登記になっている。
ほとんどがそうだ。単独所有なんてまずないぞ。
ということで共有者たちがまた縁者たちに頼まれて墓を建てさせてやったりするから、墓は立て込んで
いく。いっぽう墓を終う家もあるんで、一杯一杯にはならないんだけどな。
たくさんの利用者から集める管理費で墓地というものは存続していく。
一軒の家で江戸時代から墓地を維持していくなんて到底無理。あり得ない。 >>567
馬鹿だな。戸籍を調査していって、戸籍では調べられなくなったら寺の過去帳などで
調べて、それ以上調べようがなくなったらそこで終わりだよ。
その先を系図で辿ろうなんていうのは馬鹿のすること。
さらに、系図に名前の出てきた武将か何かを姓氏辞典で調べて、うちの家系は
1.000年前までハッキリしてるなんて言う奴がいたら、それは池沼。 >>583 こいつの頭はカチカチなんだな。 この被害妄想は何処から来てるんだろ。
俺の親父も死んだ時は最初祖父の墓に入ってた。
累代の墓と言っても、その祖父の家族墓だからな。 祖父の弟は戦死したから別に個人墓を作ってる。
俺の従兄弟は祖父の墓に入ったし。 別にどうでも良いだろ。
お袋は生きてるうちに自分の墓を作った。 そしてお袋が死んだ時に俺の兄が隣の祖父の墓から親父の遺骨を新しい墓に移した。
勿論、俺の祖父の墓の隣。
法名塔には、今は両親の戒名しかない。 かなり大きな法名塔だから俺も入って良いよと言われてるが、結構迷う。 自分は入りたいんだけど。
一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな。 タダみたいな話だけど。
無縁仏にならない安心感はある。
十数人での墓参りは楽しかったぞ、特に小学生の孫達は楽しそうだった。 大学生の孫達は各々忙しくて墓参りにはこれがなかったが後で集まった。
ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
>>585 逆だよ。 うちの苗字は全国でただ一つの苗字だから家系ははっきりしてる。 初代が苗字をもらったのもはっきりしてる。 苗字をもらうまでは氏を名乗ってただけ。 それで時代が推定できなければそれだけのこと。
自分がわからないのはいつから分岐したのか調べたいだけの話。
長文失礼 >>583
・・・としか言えんが。普通に先祖祭りで雑草抜きするし
>>584
基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
ただ実際は墓は他の場所(地目が畑や雑種地)にも広がってるのでそれぞれ権利はあるのだろうが・・・どうなってるのやら? 今日、何年も前に知り合って定期的に会ってる人が自分と12親等くらいで繋がると知ってビックリw
もともとよその地方から出てきた一族なだけに、地元で知り合った人に共通の先祖を持つ人がいるのに驚愕したわw >>586
お前は >>489 に
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
と書いてしまった。これが失敗なんだよw
父親の単独墓があって、その隣に父親の祖父の墓がある。そうとしか読めない。
しかしその後、家族墓もあると書いた。
じゃ父親はどこの墓に入ってるんだと聞いたら、今度は家族墓の方に入っているという。
滅茶苦茶じゃないか。
それじゃその家族墓はどこにあるんだ?
同じ墓地にあるんだろ
そうすると又おかしなことになる。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
と書いてある。
自分の父親の墓に10年も墓参りしてないのか?
いくら遠いといったって自分の父親の墓だし、10年の間には何かしら田舎に用事ができるはずだ。
10年間全然行かず、墓参りもしてないなんて考えにくいけどな。
大学生の孫まで、来られなければ後で集まるような家なんだろ。
お前の書いてることは不自然なことばかりだ。 だいたい、父親の代以降を家族の墓として、父親の祖父は別の墓というのは何なんだ。
そんなの聞いたことないぞ。
そして、父親は家族墓に入れたと言い、そしたら墓が残っているのはおかしいから、急遽父親は
祖父の墓に入っていたことにした。おかしいだろ。
だってお前の説明では、それぞれ完全な個人墓で、夫婦でも単独の墓が横に並んでいるということ
だったじゃないか。
不自然な点を指摘されるとコロコロ変えてしまう。
しかし、父親の代までとそこから上を別の墓にするなんてことはあり得ないんで、これだけでも
お前の話は嘘っぱちと分かるんだよ。そんな奇妙な話を誰が信じる。 >一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな
嘘つけw
>ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。
> 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
馬鹿だねえ。墓場のゴミは家には持ち帰らないんだよ。
墓場にあるものを家に持ってきたりはしないの。
墓に供えたものを持ち帰るって、たとえばお墓の花が枯れていたらそれを家に持ち帰るのか?
お盆のときは、団子粉でつくった丸い団子を蓮の葉とマコモに包んで墓前に置いてくる。
そうでない地方も米を備えたりするわけだ。
そういうものも後で家に持って帰るのか?
卒塔婆も持ち帰るの? 古くなって黒ずんで読めなくなったような卒塔婆は処分するわけだが、
そういう卒塔婆も家に持って帰るのか。すごいなw
墓場にはいろいろ道具もあるだろ。水桶とかひしゃくとか。
ああいうものが壊れたら家に持って帰るのか?
お墓の○○家なんて書かれた水桶を持って帰ってきたら怒られないか。
お前の家はすごいなw >基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん>権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
登記がどうなってるかは実体的な権利とは関係ないのよ。
放置された山林なんかは明治のご先祖様の名義のまま、何十人もの相続人の共有となっている。
3.11の大震災の後に、山林を開発して街を高台に移そうというときにこれが障害となったのは
誰も記憶に新しいところ。
祭祀の承継の場合は確かに分割相続の原則は適用されない。民法897だ。
しかし、「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
あと神棚とか御神札とかな。
こういうのは、例えば相続人が三人だからって3つに分割するわけにはいかないだろ。
といって共有にすると管理がいい加減になる。
だから慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継することになってるわけだ。
だが、土地は違うぞ。土地はただの不動産で祭祀承継物ではない。
墓地であってもこれは変わらない。
だからお前の書いた「慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合) 」
というのは嘘。 なんでお前は嘘ばかり書くかな。
まずいい加減な空想を書いて後から辻褄合わせをしようとするのが原因じゃないか。
基本が空想でも、筋が通っていればそれなりにまともな内容にはなる。
しかしお前の書いたものは、例えば父親の墓のこととか、後から論理的に破綻するようなこと
ばかりなので、後から変な事実を付け加えたりして、辻褄合わせに苦労することになる。
それと知識もないのに知ったかぶりをして、それをまたハッタリで通してしまおうとすること。
こういう人は、家族や周囲が低学歴・低知能の人ばかりであることが多い。
周りが馬鹿ばかりだから適当なこと言っても通ってしまう。
しかし、さすがにネットでは普通の知能で普通にものを知った人が多いので家と同じわけには
いかない。
ということで、>>586 は嘘の上塗りはやめた方がいいと思う。
とくに墓地とか墓とかいった関係は子供には分からないことが多い。ネット検索の知識などでは
どうにもならない。馬鹿晒すだけだからやめとけ。 >>594馬脚を現したな。本の知識だけだと現実を見誤るいい例だ。
墓地も祭祀承継物だよ
ttps://www.forever-kato.co.jp/topics/index.php?t=000087 >>583 >>591 全くうざったらしいな。 書かれている事そのままなのに勝手に捻じ曲げて解釈しようとするからない脳みそがパンクするんだよ。
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓がある
と書いてるままだよ。 親父の墓は 〇〇家の墓 と書かれていて親父の祖父の墓は 〇〇家累代の墓 と書かれてるだけの話なのに。
>>586 でも説明してるのに信じ無いのはお前の勝手。
>>591-595 長々と下らん妄想を垂れ流して皆に迷惑だぞ。 読む気にもならん。 はっきりしている事はお前には読解力が皆無だという事。 >>596
あ〜あ、馬鹿だなあ。やっちまったよw
>墓地も祭祀承継物だよ
墓地が祭祀承継物なんじゃない。「墳墓」すなわち「お墓」が祭祀承継物なんだよ。
俺は書いてるときにお前がここを誤るんじゃないかと思ってたんだ。
そのとおりになってしまった。
しかも関連サイトのアドレスまで付けて得意げに。
その上、その関連サイトにはちゃんと説明がしてあるのに理解できてない。哀れになるわ。
読解力がないのはどっちだよ。
いいか、墓は祭祀承継物だ。条文に明示してあるし、俺も>>594 で
>「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
と書いて「墓」を入れている。
そして897条の「墳墓」には墓の構造物だけでなく、墓を存置するために必要な範囲での
敷地を含むとされる。これは拡張解釈でなくて、いわゆる勿論解釈といわれるものだ。
法文で明示されていなくても条文の趣旨から当然に文言に含まれるとする解釈の仕方だよ。
お墓は空中に置いておけないし、お前の物だから持って帰れと言われても困る。
だから当然そのままにしておけるわけだ。ということは、祭祀承継物たる墓の所有権には
墓として存置する上で必要な範囲の土地所有権も含まれるということになる。
お前が得意げに指示したサイトにも同じようなことが書かれている。
墓として利用する上で最小限必要な範囲ということだよ。
墓として存置ということは祖先の祭祀を行う目的を不可能ならしめない範囲で、と言い換え
てもいいだろう。 例えば、敷地所有権が墓の石組みぴったりにしか無いとしたならば、嫌がらせで墓の
脇ギリギリに物置を建てられたりするかも知れない。また墓石に沿って塀を建てたり
隣をゴミ置き場にされたりするかも知れない。
それでは祭祀を行う障害になるから、祭祀承継物としての用途を全う出来るようにする
ため、墓の敷地だけでなく最小限の範囲で墓の周囲にも及ぶと解すべきだとされる。
具体的にそれがどの程度かは一律でない。
墓の大きさや周囲の状況、墓地の広さとかいろいろな要素を勘案する必要があるだろう。
しかし、一般的にその墓の所有権の及ぶ土地の範囲が墓の何倍もあるということはない。
おおまかに墓から1メートルとか1.5メートル周辺とかいった範囲だよ。
お前の家の墓地は、1000坪あるんだろ?
祭祀承継物として墓の所有権が認められたからといって、その土地全体に所有権が
及ぶわけじゃないんだ。墓地全体の所有権とお墓の敷地の所有権は違うんだよ。
そこをお前は混同してるの。
897条を解説したサイトとか、もう一度読んでごらん。落ち着いて真面目に読みなさい。
そうすりゃ理解できるから。君は読解力あるんだろ。 >>597
はお話にならないよ。
お前はやばくなると勝手にゴールを動かすんだよな。
親爺の墓は ○○家の墓 と書かれていて、なんて今頃出してきたって駄目だよ。
さらに、祖父の墓が累代の墓だなんて言ったら、その後ろに誰々の弟だの祖父の祖父だの
個人墓が並んでいるのは何なんだということになる。そんな奇妙な墓があるわけないだろうが。
だいたい、お前の家の墓である○○家の墓があるなら、なんでお前は墓参りしないんだよ。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。 とある。
自分の父親の墓(お母さんの墓でもあるわけだろ)に10年行かないって珍しいぞ。
こういうことを書くと、今度は「外国に行ってた」とか書くんじゃないかw
お前みたいに学問やったことのない人は、前提条件というものを軽く考える。
端的にその特徴があらわれているのがお前の文章だな。
人間やっぱり学問しなくちゃ駄目だな。 >>600 なんか勝手に人を巻き添えにしていくみたいだから、コテハンをつけるよ。 あまり貴方の相手をするつもりもないんだけど。
>>595 貴方の知識が偏ってるだけだよ。 自分の周りのしきたりしか信じられないなんて可哀想だな。
>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。 読解力があればわかるはずだが。
山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。 水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
俺の親父の祖父の墓の周りはこんな感じ
https://i.imgur.com/4HIR6ae.jpg
親父の墓はこの下にあり、納骨堂(祖廟)と同じ平面。
その一段下にも墓はあるみたいだが、その下は果樹園が広がっている。
下に行くに付け権利者がいるからそれなりの金はかかる。(タダみたいなものだが)
上を切り開いて作るよりは安いからね。
>>600 ご心配なく。 兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
人の数倍以上は稼いでるかな。
自分はその半分くらいしか稼げなかったかな。
毎年墓掃除にいけない場合は、3000円位を送って掃除をして貰う。 >>598-9
お前こそよく読め。1000坪あるが地目が墓になってるのは200坪ほどと書いてある。
>>601そそ、家の墓もこんな感じ。 >>601
全て一族の墓、良く良く見ると同じ苗字じゃない墓がちらほらと見えるが、多分分家か何かなんだろう、墓誌をしっかり読んでないからわからないけど。
その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらいで余り多くはない。
https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
残念ながら、自分の直系の先祖探しは江戸時代末期(1700年代後期)位までしか遡れていない。 次は過去帳探しかな。 名字がひとつしかないから子孫というのもおかしい
途中で家系は途絶えて、関係ない人がその名字を名乗る事も多数の事例があるからね
朝鮮人が断絶した旧大名家の姓を名乗る例もあった >>604 有名な武家の紋だと勝手に使い続ける事は許されない。
今の時代だと朝鮮人が勝手に紋を使う事もあるだろうけど、江戸時代までは許されないな。
わざわざ本家の紋と分家の紋を変えてるケースも多い、本家の紋を分家が使うことは許されない。
墓の紋も参考になる。 紋の名前と大まかな図案を知っていても細かな図案が違うケースもある。 江戸時代でもいるだろ。
勝手に使う奴。
すべてを把握して処分なんてできなかったからな。
系図も捏造して、○○の子孫の出来上がり。 系図の捏造は多い見たいねでもさすがに近い年代までごまかしたらすぐに見破られる。
100年位前までは隣近所みんな顔なじみだからね。 ???系図なんて基本門外不出のもんだろう。
苗字帯刀許可を願い時とかに役所に届けることもあったらしいけど >>601
>>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。
> 読解力があればわかるはずだが。
これは無理。
民法897条の「墳墓」の解釈の誤り(墓地の土地所有権との混同)は、 >>596 より先に
お前がやってるんだよ。>>587 な。
>戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。
この間違いは、俺が>>594 で指摘し、ちゃんと説明を加えてやってる。
だからその後にさらに変な理屈をこねる人間は出てこないはずなんだ。
ところが出てきた。お前の言う >>596 さん だ。
そして >墓地も祭祀承継物だよ などと堂々と抜かし、さらにサイトのアドレスを示した。
おかしなことに、このサイトでは正しい説明がされているんだ。 これはどういうことかというと、お前がハッタリをかましたんだよ。
みんなはよく分かってないから、強く出て専門のサイトまで示せば、印象をひっくり返せる
んじゃないかと期待したわけだ。
でもみんなそんな馬鹿じゃないから。結局お前は恥の上塗りをしただけなんだよ。
俺が>>598 で>>596さんことお前に懇切丁寧な説明をしてやって、これは反撃不能と
分かったら、今度は別人だという。
何をやってるんだか。
分身の術なんか使いはじめたら嵐も終わりだぞ。
さらにコテハンなんか使い始めたのもわざとらしい。
自演やってますと言ってるようなものじゃないかw
「墓地も897条の墳墓で祭祀承継物だから、承継人は墓地全部の土地所有権を取得する」
なんて馬鹿な解釈をする奴はいないんだよ。お前がそれをやった唯一の人物。
ほんとに希少性のある馬鹿なんだな。めったに居ない馬鹿。
だから、お前以外に同じような同じこと言う馬鹿なんかいるわけないんだ。
他人だなんて言っても駄目w なんだか写真をズラズラとウプしてるみたいだが、何を抜かれるか分からないので見ない。
けど想像はつくわな。寺の墓地を写してるんじゃないか?
寺の周囲には古い墓地をそのままにした一画が残っていることがある。
あと古い墓石を整理して、一カ所に集めて祀ってあるところもある。
古い墓石は処分するが、ある程度残すのは寺の由緒を示すことにもなるからだろう。
俺の家の近くに30年ほど前にできた寺があるが、最近散歩のついでに行ってみて驚いた。
古刹のようになっている。葬儀屋か墓地業者みたいなのが建てたようなインチキくさい寺で、
民家とたいして違わないような貧乏くさい建物だったのが、堂々たる寺になり、坊主の住居も
壮観といっていいような和風建築だった。
隣の畑を全部墓地にしていた。金が入ったんだろうな。
本堂と墓地の間に竹藪を作り出し、中に薄暗い小径があって、その横に道祖神とか石仏とか
が並んでおり、奧の方には古い石材が重ねてあった。
こんなふうに演出してしまうのかと吃驚した。参道は石畳で松が植えてある。両側は黒塀。
ソバ屋や料亭が和風の雰囲気を演出しているように、寺も古刹の雰囲気を作り出してしまうんだな。
あの寺を見たら、何も知らない人は古くからの名刹だと思うだろう。すごいもんだ。
ま、そこまでやる寺はめったに無いだろうが、寺の周辺を古いままに、あるいは演出でそうしてる
寺もあるんで、被写体には困らないだろうな。 >>601
>山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。
>水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
ペットボトル何本かなんて程度で足りるわけないだろ。
花生けの筒なんかちょっと行かなければドロドロになって藻が生えてるし、それ洗うのだけ
だってたいへん。ほんとに水の設備のない墓地に行く人は昔からポリタンク持っていくよな。
白い10リットルくらいのやつ。
それよか、お前の家の墓地だと言ってる場所は山の麓で、すぐ下にも墓地があるんだろ。
下の方にはきっと水道もあるよ。行ってごらんw
>兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
「日本最高峰の学附」って何だ? 最高学府と何かを間違えてるのかな、、、
あんた日本人か?
1000年前の先祖までハッキリしてるとか、「自分の子供は人の数倍以上は稼いでる」とか
変な人だな。 >>610-1
君が墓を相続した経験が無いのは分かる。
本の解釈よりも現実が全てだよ。墓地も祭祀承継物です。
ただ都会だと墓地の所有権自体は寺かもね使用権のみが個人か、この辺りと
勘違いしてるのではない>>610氏は
・・・基本的に墓地が非課税なのも知ってる?? あー後都心の一坪数千万の墓地と田舎の値も付かないような墓地では扱いは異なるかもね。 >>610-613 完全にいかれてるな。 お前本当に病院に行った方が良いぞ。
>>587 は俺じゃないし。 他の方が普通に会話されてるのにお前は敵対視して話をしてる。
>>596 さんも俺じゃない。
お前には言葉で言ってもわからないだろうから、赤ちゃんでもわかるようにわざわざ危険を冒して写真を貼ったのに。 赤ちゃん以下だな。
>>612 墓地は寺の墓地ではないと最初から言ってるのに自分の先入観から抜けられないのは先天的なアホ。
>>613 墓のすぐ隣みたいな近くには、うちの本家の神社から明治になって仏様を移した寺があるよ。 有名な湧き水が綺麗な場所。
お参りするのにそんな水をもらうまででもないよ。
隣の寺も、うちがお世話になってる菩提寺も、昔使えてた国司の菩提寺も同じ禅門宗派。
面白い事に菩提寺の前(寺の外)にも巨大な石を中心に祀った墓群がある事をGoogle で知った。
まだそこは調べていないからよく解らないが。 遠く離れてるから中々調べられない。 楽しみが増えた。
>>613 あんたの非常識に耐えられなくなっただけだよ。
ちなみに俺は億近く溶かしたけどようやくチャラにした。
子供達も立派に独立したからそれで十分。 家族が健康に生きていける事が一番。 自分の名字由来検索してみたら、全国人数約2500人ほどの比較的珍しい?名字だった。
それでルーツが清原氏ということだった。
半信半疑だけど人数が一番多い県に住んでて、
名前の由来となった地名もお隣の県だからあながち間違いでもない気がして… >>603
>平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらい>で余り多くはない。
>https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
これは墓石ではないと思うよ。庚申塚じゃないの。
向かって左の二枚の平たい石は間違いなくそう。
それから中央の大きな岩の右側に並んでいる細い塔。これは庚申塔。
その右に並んでいるのも中に仏のようなものが彫られていて、墓石ではないと思う。
ここは庚申塚とか庚申塔を集めたのじゃないかな。
真ん中のは磐座(いわくら)だったんだろう、多分。だから結界を結んである。
岩磐の上に乗っているのは祠に入れてご神体とされていた石だろう。
明治維新のときにこのあたりにあったものを集めて積み上げてあったんじゃないかな。 失礼、忘れていた。
庚申塚とか庚申塔というのはこんなものだよ
他にも検索して画像を見てみるといい。
www.nerimakanko.jp/photo/detail.php?photo_id=P000000014 あちゃー、、、
おい603
上げとけよ。削除すんなよ >>620 何に対してあちゃーと言ってるのか知らないが。 意味がわかっていないみたいだな。
>>618 の言う様に大石は磐座(いわくら)で間違いない。
磐座を拝んで先祖供養をしていると言う話。
左側の長い石が庚申塔かどうかは解らないが、普通庚申塔の場合、庚申の文字か仏像、神像が刻まれているがこれには無い。
磐座の右手に並んでるのは墓標、 この形の墓標が周りにずらっと並んでいる。
信士、信女の文字が見えるだろう。
https://i.imgur.com/N6ZUAsi.jpg 磐座の上の丸い石は、石造五輪塔のはず。多分一番古い先祖時代のものだろう。 五輪塔は神社に祀られることもある。
上の長丸石が二つに別れてるのが五輪塔の特徴
https://i.imgur.com/fRFUI2k.jpg
左側の長い石は、合同供養搭だと思うよ。個人のものかもしれないが文字が読み取れないからわからない。
この写真はうちの宗派(禅宗)の永代供養搭の例
https://i.imgur.com/TauFXFD.jpg 磐座(いわくら) というのは、神様の降臨を願ってお祭りをする場所だが、ここの場合後世の仏教と混ざって五輪塔も一緒に祀ったみたいだな。 五輪塔は多分先祖の墓石。
ここは、先祖の墓石をまとめて祀ってるところ。
五輪塔はこの下の死者が極楽浄土に行けると信じられてたらしい。
平安時代以後戦国時代から流行った。 江戸時代まで武士の墓には五輪塔は多い。
戦死者を弔うには良かったのかも。 作るのが面倒だからあまり一般化しなかったのかな? >>621
もうやめとけ。
とにかく、この写真から分かるのは
お前のご先祖様は庚申様だということだ(大笑
写真の左の二枚の平たい石は何なんだ。
こんなの個人の墓石にはしないわ
何も彫られていないように見えるのは消滅したからだろ
重ねられたりしていれば削られてしまう。上向きに放置してあっても
雨風で摩耗する。古いものに文字がどうのとか言っても仕方がない。
石塔の右に並んでいる細長い石は明らかに庚申塚。
庚申塔は文字も像も彫られていないものも多い。
ググってあちこち庚申塔の写真を見てみろって。そしたら分かるよ
その右のは像が彫ってあるだろ。これは典型的な庚申塚。
お前はさらにその先に墓石も並んでいるようなことを言うが、何でこれが繋がってる
ところを写さないんだよ。その場にあるかどうか分からんじゃないか。
ほんとにここに置いてるとしたらこれは無縁様だよ。
無縁様のうちでもうんと古い墓石を置いてるんだろ。 ところでさー、
写真の、後ろに見える屋根はお寺だろ。寺の敷地だわこれはw
盤座を個人で祀るなんてあるわけないだろ馬鹿が
>>622
丸い石はよく見えないんだよな。
言われてみれば丸くて上下が平らに削れているようにも見える。
これだと確かに五輪塔の傘の下の丸石の部分。
他に五輪塔の台座の部分もあるように見える。
他の小さいのは御神体と見た方がいいと思う。
いずれにせよ、古い五輪塔の丸石がこれだけ多数あるというのは個人の墓の
ものでないことは明らか。大名だって五輪塔をズラズラ並べたりはしないって。
五輪塔が置かれるようになったのは平安末というけど絵巻などでしか見られない。
だいたい鎌倉時代から。南北朝ぐらいまで盛んに作られた。
弥勒信仰が元にあるんだな。
(>>623 にお前が書いてるのは出鱈目。後で教えてやるよ。)。
この丸い石もその頃のものだと思うよw
お前の家はその頃から個人の墓が綿々と続いてきたわけだ、すごいよなーww >>603 の
>その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
>https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
左の家型のものが乗っている墓みたいのは経塚だよ。
昔は、亡き人の菩提を弔うために、写経したものをお寺に納めたんだ。
そのときにお寺が受け取りとしてよこしたのが今はやりの御朱印。
だからここはお寺の地所だな。
後ろにあるのは輪廻塔か何かかな?遠くて小さくてよくわからん。
一番後ろにある建物はお寺の位牌堂だろう。
広い場所だな。ここはお寺の駐車場の端っこかな。
とにかく、写真に写っているのは、個人のレベルでどうのこうのというようなものじゃないよ。
お寺さんのもの。
君は先祖とか自分の家族とかお墓とか、何でもどえらいものを空想してしまうようだな。
世界は俺のものだ!なんて言う人もいるしな。
そういう病気があるのかも知れない。誇大何とか病、、ムム、、、とにかくお大事に >>624-627 また、延々と。 勝手にやってなさい。 自分の尺度でしか人の話を聞けない馬鹿に初めて会ったよ。
勝手な妄想には呆れてしまう。
先祖祭りというのは年に一度一族が集まって先祖の霊を弔う祭りだよ。 個人の墓まいりとは別。
先祖祭りをする広場だけでも下手な駐車場より広い。 田舎にしては狭いけど広場に100人位は入れるかな。もちろん一族の墓地。
山の方(祖廟のある方)の墓には人は集まれない。
あまり写真を出すと特定されるから出さないがこれだけ出してわからなければ勝手にしなさい。
(こっちは狭いぞ、祖廟だと言ってるのに何がお寺だよ。)
https://i.imgur.com/JDlelhO.jpg
祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸時代の有名人の墓に巡り会える。
因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。 その後南北朝時代は戦闘に次ぐ戦闘、その頃の先祖の戦記を紐解くのもすごく楽しい。次から次に知らない話が見つかる。ただ、昔の戦場の地名が見つからないのにはイライラする。
また、最近は同族だけのFacebook のグループを作ってる。離れた地にいる同族も話せるからね。 まだ参加者は100人もいない。 疑問に感じた事を出して皆に調べてもらう事なんかもしてる。 >五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸>時代の有名人の墓に巡り会える。
馬鹿だなあw 何をトンチンカンなシッタカしてるんだw 五輪塔なんかどこにでもある。
明日香村の蘇我入鹿の首塚のところに立ってるだろ。本来あれは二基あったのだ。
一基のどこかが壊れて、ニコイチで今は一基だけ立っている。
室生寺にもいくつかある。
明日香村のものも、室生寺のものも鎌倉時代のものだ。
ものの本には平安末からなどと書いてあるが、その時代には現存するものはない。
年号が彫られているもので、年号では平安時代になってるのもあるけどね。
その文字がお話にならないんだな。
現存するものは鎌倉時代以降のものだ。
>祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
納骨堂と勝手に思ってるだけ
これは位牌堂。位牌堂で祖廟としても全然おかしくない。
もしもこの寺が曹洞宗なら、祖廟とは昔の高僧の遺骨をお祀りする霊廟のことだが。
それほどの建物とは思えないんだよな。
>因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。
こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
頭が痛くなるw
勝手に一人でやっててくれ 一人でやってる分には誰も何も言わないよ
>まだ参加者は100人もいない。
すぐに一人もいなくなるよw >>629 一言だけ許せない言葉がある。
> こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
独りよがりな偏見はやめなさい。
確かに鎌倉から領地をもらって南北朝時代までの100何十年位は平穏だったが、南北朝時代に南朝について戦いに敗れた後は領地の殆どを没収されたが、戦いをやめた家は怖くはないんだよ。
(一族郎党全員のクビを切る訳でもないからな)
南北朝時代は主従兄弟目まぐるしく変わりながら戦った時代。
その後武家としては没落したが、◯◯家としては尊敬されながら同じ土地でほそぼそとずっと存続してきている。
(本家は農家ではない)
武家をやめたからこそ存続できてるのかもしれない。
今だに名家として存続している。
地域には今だに200所帯くらいは同じ姓が集まってる。 全国には1000所帯以下。
郷土史には必ずうちの由来が書かれている。 今日古書が一冊届いたので、調子に乗って別の種類の古書を2冊オーダーした。
微妙に記述が違うので見比べてみるのも面白い。 書いた後気づいた。多分彼は家の没落と、家系の断絶を混同してるんだろうな。
家が没落すれば歴史からは消えるから無くなったと思うのかもしれないが、家系が途絶える訳ではないという事を理解できていない。
例えば徳川家は今でも存続している。
栄枯の昔から、支配者は支配地に来ると地元の人々、地元の神々を祀り人信を集めることを心がける。 例え敗者であろうが味方につける方が賢いということを知ってる。
これは日本独特の風習なのかもしれない。
海外の多くは、支配者が変わると前の文化をことごとく破壊する。 破壊文化
日本はそうしない文化が根付いてたからずっと文化が残ってる。 懐柔文化 横から失礼します
個人的な興味でご先祖様の本姓とかは分かってるのでしょうか?
源平藤橘とかそれ以外とか >>632 わかってますよ。 氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、〇〇。有名な氏。今はその地名はありません。
古事記にも日本書紀にも登場します。
氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
姓(カバネ、昔々に天皇家から与えられた身分証明)は、うちの直系先祖が鎌倉時代は宿禰(すくね) 。
氏一族は上位全ての姓(かばね)をもらってます。皇族に連なる直人(まひと)をはじめとして。
源平藤橘と言うのは、元々は氏(ウジ)です。
(と言うか、南北朝時代には功績のあった人間には、源氏を名乗ることを許すとか、そんな形だったから名誉名みたいになってしまいましたが)
例えば足利尊氏を助けたから大友氏に源氏を名乗ることを許すとか。
乱発し過ぎて収集がつかなくなったのでしょう。 その頃から苗字を与える様になったのではないでしょうか。
氏/苗字、諱(いみな、名前)、家紋を与えるのが最も金がかからない恩賞でした。
うちの氏はそれに並ぶ古い氏です。栄枯盛衰武力の強い氏が有名になりますから今はあまり有名ではありませんが。
古事記でも副将軍として登場しますし、日本書紀でも副将軍として登場します。
鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重要視されてたんでしょうね。
南北朝時代の始めに、その前に苗字を頂きました。
苗字〇〇の宿禰 官職 XX △△
この苗字が今の自分の姓です。
最も酷いのは自分の氏の人間が副将軍になった時に日本書紀を編纂するメンバーになると、自分の氏の漢字を書き換えて、古事記の名前を全て自分の新しい漢字に書き換えてしまった事(読みは同じ)。
最初古事記と日本書紀を見始めた時には頭がクラクラしました。
氏素性/姓(うじすじょう)の解らない人間とは付き合うな。と昔は聞かされてきました。 今の人達はそんな言葉知ってますか?
氏、出身地/生まれがしっかりしている事。 素姓、しっかりした家系、先祖がわかる事。 なるほど
すごい歴史ある家系なんですね
詳しく教えていただいてどうもありがとう 関連ことわざ
氏素性は争われぬ
うじすじょうはあらそわれぬ
生まれや血統のよし悪しは、必ず人柄に現れるということで、血は争われないものだと言う事。
多くはよい場合に使うが、悪い場合にもいう。
類義語、氏素性は恥かしきもの/恥ずかしきは氏育ち
氏より育ち
(うじよりそだち)
生得的な要因である家柄・身分よりも、後天的な要因としての環境・教育といった育ち方のほうが、人格形成やその後の人生に大きな影響を及ぼしているということ。
---
氏素性の分からぬ成り上がり者の多い戦国大名達
氏素性がわからない家柄のものには官職は与えられなかった。 その為金で姻戚関係を作り氏姓(うじかばね)を捏造したのが、豊臣秀吉。
---
八色の姓
やくさのかばね
八色の姓は、天武天皇が684年に新たに制定した
「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つの姓の制度のこと。 この順に位が高い
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。
姓は当時の豪族にだけ与えられた称号
真人(まひと)は天皇の一族
朝臣(あそみ) 壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族
宿禰(すくね) 宿禰は従来の連(むらじ)の中の有力者
同じ氏(うじ)でも複数の姓が存在するのは、血縁関係を示す。 >>590 今日たまたま、祖先の地元の一番の庄屋の話の文書があったから見てたら、皆分家は別の苗字で分家させてたな。
その庄屋の本家は昔から苗字を持ってたが、分家は元々苗字を名乗ることが許されてなかったから明治になって適当に苗字をつけたんだろうけど。 >鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
>〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重>要視されてたんでしょうね。
宿禰とか官職 で呼ばれていたのは雑色とか神人と呼ばれていた連中だよ
中世でも水干烏帽子で下男のような仕事をしていた。
後生に穢○とか非○などと呼ばれる集団になっていく。
>>633
>氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、
大和には蔑民の住む部落がたくさんあった。穢○の故郷みたいなところ
>氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
これは違うよ。氏というのは正しくは氏名(うじな)といい、天皇が「お前達一族は氏の名として
この名を名乗れ」として賜ったもの。
だから氏名(うじな)というものは変えることはできないし、勝手に新たに作ることもできない。
日本の氏名は源・平・藤・橘の四つだけ。(豊臣もあったが滅びた。)
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
馬鹿。爆笑だわ >>639 ポカーン。日本史板でこれは恥ずかしい。
八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。 八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
賜姓
天皇が皇族,貴族,武士などの功績に対して姓を賜うこと。古代からあったと思われ,平安時代には盛んに行われた。
特に,姓を与えられて臣籍に下った皇族を賜姓皇族と呼び,後世,公家あるいは武士として発展した。
地方豪族の氏については例えば蘇我氏などの豪族を調べてごらん。 古墳時代から氏(一族の集団) は存在してるよ。
因みに古代から地方豪族は宿禰などの姓を名乗ってた。 これら古代の姓が混乱していたので、八色の姓 で明確に整理したんだよ。 >>839 氏名(うじな)だってw これは苗字と名前の現代の制度と同じ。
氏姓(うじかばね)の氏(うじ)は古代豪族一族の出身地だよ。
官職から付けられた氏もあるが。 物部氏など。
蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
藤原氏は姓と氏を同時にたまわっているが鎌足の生地大和国高市郡藤原郷に住んでいた。
源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
氏(うじ)は本姓(ほんせい)とも言うが、姓(かばね)とは無関係
最初の出身地を本籍と言う場合もある。
天皇が苗字を与えるようになったのは比較的新しい。多分平安朝以降と思われる。
氏姓(うじかばね)制度は明治初期まで続いていた。
奈良時代まで大和の国が政治の中心だろ。小学校で習わなかったのか? >>640 ポカ〜〜〜ン。日本史板でこれは恥ずかしい。
>八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
何を言っているのかわからん。氏名(うじな)と八色の姓が何の関係があるんだ?
君は自分でも何言ってるんだか分かってないだろw
>氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。
ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが、中臣鎌足って皇族だったの???
>八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
ハァ? 八色の姓を定めたのは天武天皇だよね。天智天皇の弟。
桓武天皇が臣籍に降りる皇子に「平」という氏名(うじな)を与えたわけだが、桓武天皇って天武天皇より
前の天皇なの?
同じく清和天皇が「源」という氏名を授けたんだが、清和天皇って天武天皇より前にいた天皇なの?
君ってものすごいこと言う人だね 脳内にウンコ溜まってるんじゃないの?
あと、賜姓以下はどっかから持ってきたんだろうけど、上半分で君のもの凄さが分かったんで
コメントは遠慮しとくわ >>641
源平藤橘以外にも古代豪族系の氏はあるよ
けど、こうした氏は平安時代に権威を失った。
武士たちは、たとえば大伴とか菅原とか紀とか蘇我とか、そんな氏を欲しいとは
思わなかったのだ。
そもそも、武士にとって源氏とか平家に人気があったのは、その氏が天皇に繋がって
いたからだ。そして、天皇が授けた氏名(うじな)だから権威があったからだ。
衰えた古代豪族の子孫などと名乗っても何にもならなかったのだ。
源平はいうに及ばず、たとえば橘氏だって敏達天皇に発し、橘三千代・葛城王を祖とする
皇別氏族である。元明天皇に氏名を授けられたとされる。
藤原氏は天皇に繋がっているのかというと、一般に藤原不比等は天智天皇の皇胤と
信じられていた。しかも、実際に藤原氏は連続して外戚となり、天皇家と一体不可欠の
関係にあった。
だから君のように
>蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
などとシッタカをしても何にもならない。
藤原氏は藤原の地名から来たのは事実だが、そこに住んでいたから藤原になったわけではない。
藤原と名乗れと天智天皇に氏名を賜ったことに意味がある。
だから、天皇が名乗るように命じた四つの氏名が武士に使われ、一般的になったのだ。
>源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
苦し紛れに何ほざいてるんだw
源の氏名は地名から来てるのではないよ。
諸説あるが、「皇室と源を同じくする」という意味で名付けられたと解するのが一般。
なお、平氏の平は桓武天皇の築いた平安京の平の字を取ったと考える人が多い。
このくらい書けばいいかな。
まあ、君には自分の馬鹿さ加減を理解してもらいたい。
世の中、適当な知識でいい加減なこと言って通るわけではないんだよ
少しは恥ずかしいということも知らないと。 >ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが
藤原という姓を授けたわけだが、の「姓」は間違い
ハァ?天智天皇は中臣鎌足に藤原という氏名を授けたわけだが に訂正する。
姓 → 氏名(うじな) >>644 まだこんなことを言ってる。
藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に 鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。
氏名(うじな)なんて言う制度はどこにもないよ。 歴史は正確な言葉を使わないとね。 藤原郷は鎌足の生地ではあったがそこには住んでいなかった。
朝臣(朝臣)の姓(かばね)を貰うと、中臣朝臣鎌足 と称することができる様になり、死ぬまでそのまま。
中臣氏は、神祇官の家柄だからずっと中臣の氏を引き継いで神を祀っている。
想像するに、次男が俺神祇官をやるのはかったるいし、次男だから分家させてくんない? 付いては今住んでる地名藤原を氏として名乗って良い?
鎌足、うん良いよ、天皇には一応許可を取っとくから公式な届け出は出し直せよ。
と、藤原を名乗ることを許されたと言うだけの話だろ。 >>617
嘘だよ 勝手に子孫でも無いのに名字を名乗ったり、系図を捏造したりで自称子孫のできあがり
知らない人もいるようだが、昔は「系図屋」という系図をお調べして作成しますって商売があった
もちろん商売だからクライアントの希望に沿うように捏造しまくり
そんな系図がほとんどなんだよね 現実は
系図の8割は偽者とも言うし 長文の奴は歴史有る家系と思い込んでるだけ
何の証明も出来ないでしょ
系図とかあっても鑑定に出したらニセ物だと言われるレベルでしょう >>649
嘘だよって断言してる時点で信用できない
逆に間違いないと断言する奴も信用しない 先祖探しというのは、一つずつ紐解いていく長い作業だよ。
先祖の地に住んでると比較的調査もできるが、遠く離れてるとなかなか出来ない。
ただ、昔に比べると戸籍を取るのはメールでも受け付けてくれる様になってるからありがたい。
それ以上は地元で地道に調査するしかない。
ただ、地元の時代背景とかは郷土史などを紐解いていくと結構ヒントも見つかる。 俺の先祖に藤原鎌足いる。
たしかに、系図には、大織冠鎌足と記されてる。 >>654 この謎解きみたいな歴史探訪が面白いからやってんじゃないの?
一つわかるとまた次に謎が増える作業。
暇つぶしには良いよ。 俺の藩は郷士制度だったんだよね、郷士ばかりの藩だから他の藩のことはよく分からん。独特な藩だった。
郷士という言葉もたしか後世に呼んでて、当初は侍っていう意味の給人と呼んでた。
江戸時代初期の給人は百数十名いる。これは徳川政権になってから領地換え?されそうになってて、
「俺は引っ越ししたくない!」と言った給人らはクビにされたから、めっちゃ少なくなった理由がある。
江戸時代中期になると、クビにされた給人が復活して五百名くらいになる。
江戸初期後期になると、その五百名の分家が急速に拡大していって二千名になる。
俺の地元の藩では、この江戸時代後期に分家した武家のことを郷士と呼んでるから、郷士というと「あー、新しい方の武家ね」ってのがすぐにわかるんだよね。
俺の地元の藩は鎌倉時代から続いてるから、郷士制度が成立しやすかったという理由がもある。地域に根ざしてたから?
江戸後期になるとムロクの上級武士も増える。
上級武士の次男三男の中で武勇に優れた人をムロクで取り立てて給人にした。
このように、郷土史を勉強していった方が先祖調査もしやすくなると思うよ。
いちがいに、自分の地元の藩と他の人の地元の藩は、身分制度って同じではないからね。郷士ひとつをとってもそう。
俺の藩は郷士の意味は新しくできた武家のことだけど、他の藩は意味が違うでしょ? それに郷士というと坂本龍馬を思い浮かべるけど、
俺の藩でいう郷士は新しい武家のお侍さんっていう意味だから、
甲冑着て馬上してる戦国武将並みのことを言うんだよね。
俺の藩でいう郷士の見た目は上級武士と変わらんよ。
馬上が許されてない様な、武士と百姓の中間みたいな見た目の身分は、俺の地元の藩では卒と呼んでた。
だから明治時代になると俺の地元の藩の郷士は士族となる。 俺の地元の藩の郷士のはなしだけど、
俺の地元の藩は戦国時代の流れ者の集まりだから、
柴田家臣とか武田家臣とか今川家臣とか前田家臣とか、そこらへんからの流れ者が多い。
柴田さんちとか戦国時代はそれなりに有名だったんだが、俺の地元の藩ではただの郷士だけどな。 ちなみに俺の地元の藩でいう郷士は新しい方の武家って言ったけど、
これは齟齬が生じそうだから詳しく言うと、
新しく分家した武家や、及び、藩主に仕えた時期が新しい武家って意味。
だから、家系図の初代がめっちゃ古くても、仕えた時期が江戸時代後期なら郷士ってこと。 結婚って身分がだいたい同じ者同士で結婚するって聞いたけど、どうなんだろ?
俺の先祖の場合は、そうでもなさそうなんだよなー 郷士は自分のわずかな知識で知ってるのは、殆ど家禄を貰えないで自給自足で生活してた武士みたいな認識があるな、後の方では郷士の中でも家禄をもらえる様になったものも現れるけど。
武士ではあるが、農家として生計を立ててるみたいな身分。
そりゃ仕えてた殿様がしょっちゅう領地召し上げとかされるから、全ての家来を養えるはずがないよな。
庄屋に郷士の身分を売ったりする者も現れたり。
給人って知らなかったから検索してみると、家禄をもらっていた家老から厩番まで給人と言ってたらしいな。
地方により呼び方の偏りはあるとは思うが。 >>661 対等な関係ならそれが成り立つけど、借金が多かったり、結納金が多かったり、身分や家名を継げるとかなるとアンバランスな結婚も多かったと思うよ。
昔も今もギブアンドテイク ごめん、やっぱ郷士のことよくわからんわ。
上級武士の次男三男の分家もムロクで上級武士になってるし、
どんなに古い武家でも家禄が微禄だから郷士のままの武士もあったし、
よくわからんが結論やった。ごめん。 >>664 その場合の上級武士というのは、家名が高いという意味合いだと思うな。 それはそれで尊敬の対象だが、給料をもらえなければ、やはり郷士。 >>663
俺の沢山いる先祖の中の一人は、鎌倉時代に出来た旧家の分家で、身分が下級武士の郷士なんだけど、
身分が上級武士の家中に、養子を送り出してる。
その家中身分の武家と郷士身分の武家の共通するところは、藩の資金を使って城下町の商家を営んでる。
この例を見ると、身分は関係なく、職業の間で結婚してたって意味が強そう。 >>665
たしかに家名の高さかもしれない!
古文書には「山田将監様の男 山田太郎」みたいに様付けだった!
そういえば殿様が思う家名の高さって理解できん。
俺からしてみれば下級武士にも柴田んちみたいに家名の高そうな武家あんのになって思う。
ちなみにその上級武士って小柳津助兵衛の子孫なんだけど、みんな小柳津氏なんてマイナー過ぎて知らんだろwって思う
俺の地元の藩の殿様からすれば、小柳津氏の方が柴田氏よりブランド高いらしい、、、 俺の地元の藩の上級武士(身分は家中)である小柳津助兵衛の子孫の家は、初代が小柳津助兵衛の庶子が初代だから、比較的新しい武家なんだよね。
小柳津助兵衛のより先の先祖は不明の武家だし、えっ?こんなんで上級武士なん?って思っちゃう
ちなみに小柳津氏は源氏を称してる
摂津源氏なのか河内源氏なのかは不明w
助兵衛より先が不明だから
小柳津さんちのことボロクソに言ってるが、俺の遠い親戚なんでこんなこと言える 俺の地元の藩主は鎌倉時代から続いてる全国でも数少ない藩で、
その旧臣というと殿様の家と同じくらい古い家の武家なんだけど、
幕末期の身分みると、下級武士に落ちてるんだよな。
そのかわりに一族はめっちゃいる。
分家しまくって本家の家禄が微禄になると、旧家でも下級武士になるんだな。
その旧家は下級武士と変わらない身分だけど、殿様の旧臣だからいちおう藩内ではそれなりに扱われたと思うが、
名簿では下級武士たちと同じ列に並んでる。 だってさ、いくら有名な家に仕えていたからと言っても、負け戦で逃げてきたのは、何の尊敬の価値もないだろ?
それよりも地元での戦に勝った家の方が偉いに決まってる。
俺さ、世界チャンピオンがいたジムに居たんだよ。
(でも試合で1勝もできなかったけどさ)
俺さ、村のチャンピオンになったんだよ。 負け無し。
どっちが尊敬される? 俺の地元の藩は戦国時代の敗戦組の流れ者の集まりが多いんだけど、
なぜか本多忠勝の家臣も多いんだよな。
俺の先祖の一人にも本多忠勝の家臣いる。
なんでなんやろ?
本多忠勝勢の中でなにがあったん? >>672 そんなのしょっちゅうだよ。
うちの先祖も最初の主君の重鎮だったけど。 主君の家が兄弟で争いを始めて、 負けた方に付いたからいい目を見ることはできなかった。
親兄弟でも戦をしてたのが戦国時代。 また変な長文が現れたな
長文にろくな奴はいない
これ定説
思い込みが激しい馬鹿がほとんど
先祖と思い込んでるだけで証明するもの無し
家系図はニセ >>646-647
悔し紛れに出鱈目を書き込んだ。でも恥ずかしいので、以下ズラズラとどうでもいいことを
書き込んで話題展開を図る。しかし、これは成功してないな
郷士がどうしたとか馬鹿みたい。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。 」なんて馬鹿なことを言い出したんだからな。
その話題に戻ろうじゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−
『日本書紀』天智天皇8年(669年)10月15日条。
「庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原内大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏 」
かのえさるのひに(十五日)、すめらみこと ひつぎのみこ(大海人皇子)を
ふじわらのうちつまえつきみのいへにつかわして だいしきのかうぶりと
おほおみのくらゐとをさずく。よりてうぢをたまひてふじはらのうぢとす
と書かれているじゃないか。
天智天皇はこの5日前に自ら鎌足を見舞った。そして15日、弟の大海人皇子を
使わして大織冠と大臣の位を授けたのだ。そして藤原の氏を賜った。 これに続いて
此(これ)より以後、(のち)通(かよは)して藤原内大臣(ふじはらのうちつおほおみ)曰ふ
と書いてある。
「これより以後、ずっと藤原内大臣と言う」、と明言してあるんだよ。
大織冠は名誉職的な地位であり、大臣が実質的な地位だ。
大臣とされ、藤原を名乗るようになったから
此より以後、ずっと藤原内大臣と曰うようになりました、とあるだろ。
日本書紀にこう書かれているんだからどうしようもないじゃないか。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。」と言うなら、その資料はどこにある。
出鱈目を言うのもいい加減にしろ。
日本書紀に天智天皇が鎌足に藤原の氏を賜ったと書いてあるから、日本人はそれを
信じてきた。お前みたいのにはちゃんとした本から引用するまでもない。
ネットで調べてみろ。みんなそう書いてある。
もちろん日本書紀の資料としての価値を否定する説もある。
しかし、それならそれで自分なりの根拠を挙げないとな。 >藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に
>鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
これも何を言ってるんだか分からん。
4年後って何だ?
お前は頭が悪いのにゴチャゴチャ知識を詰め込むから整理がつかなくなってるんだよ。
もしかして藤原氏は不比等だけが名乗るようにせよとした文武天皇の詔(みことのり)と
混同しているのかな。
藤原氏は壬申の乱で近江朝廷軍(大友皇子側)に与することになってしまったので、
地位回復には苦労した。何とか地位を回復した後、うまく立ち回ったのが不比等で、
ライバルたちを蹴落として自分が氏の長者の地位を獲得した。
一番のライバルは中臣(藤原)意美麻呂だった。鎌足の甥であるから不比等のいとこである。
鎌足の娘を娶って婿養子となり、不比等が成人するまで藤原氏の氏の長者であった。
そのまま意美麻呂の権勢が続くかと思われていたが、不比等が成人すると文武天皇に近づき、
その詔で、一気に意美麻呂を排撃してしまった。意美麻呂は宮廷祭祀だけやってろ、だから
式部官である中臣を名乗れと命じて藤原を名乗れなくしてしまったのである。 ついでだが
不比等の成功は、軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)の乳母である犬養三千代の心を
つかんだことが大きい。犬飼三千代は最初は敏達天皇の皇胤の美努王に嫁いで橘諸兄を
生んだが、後家さんになっていて、不比等がちょっかいを出して後に妻にしたのである。
犬養三千代の力添えで娘の宮子を軽皇子に嫁がせる。二人の間に
生まれたのが首皇子(おびとのみこ)で後の聖武天皇。
不比等は外戚となったのである。ここから藤原氏の外戚政治が始まる。
聖武天皇の后が光明皇后だが、光明皇后は不比等と犬飼三千代の間に生まれた娘。
聖武天皇からすると叔母さんである。ただし同い年。
それまでは皇族でないと皇后にはなれなかったのだが、光明皇后はその慣例を破った
第一号である。聖武天皇は東大寺の大仏を建立。光明皇后は聖武天皇亡き後、その
遺品を東大寺に寄贈。これが正倉院に納められ現代まで伝わっている。
聖武天皇と光明皇后の間に出来た娘が女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となる。
若い頃の孝謙天皇は(上皇の聖武もだが)藤原仲麻呂(恵美押勝)に頼り切りだった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は皇太后となった光明(皇后)の甥である。
仲麻呂は権力を独り占めし、上皇も光明皇太后も死ぬと孝謙天皇と対立するようになる。
対立の背景には孝謙が弓削の道鏡に夢中になったこともある。
焦った仲麻呂はついに挙兵した(恵美押勝の乱)。
仲麻呂は近江守であったことから近江国を拠点に戦ったが、敗戦を重ねて斬られた。
まあ、このあたりを押さえておけば源平藤橘のうち、橘氏の由来は理解できる。 iPhoneでWikipediaみると一部の画像が映らなくなってる
線の枠しか映らないのは何でだろう 中臣連は、八色の姓の時に朝臣52氏に加えられて、朝臣を頂いている。天武13年11月
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-s.htm
藤原氏を名乗るのは鎌足の死の直前。 >>680
この時の52氏を見ると、豪族、特に武内宿禰系統がかなり多いのが目につく。蘇我氏を始め。
武内宿禰は日本の紙幣にも印刷されている日本最高の忠臣と言われている。 源氏や平氏の家人がお札になったことはない。
この時の朝臣を貰った氏族の中には、源氏や平氏、藤原氏は存在しないから、それらはかなり新しい。
中臣は有るが。 あまり古い話はやめようよ。 血族直系かどうかわからないからね。 ここのスレにはそぐわない。
ただ血縁調査は、身近な所からせめても解らない時には、上から攻めて行っても良いかも。 名家であれば自家よりも上の家からの養子が多いから直系は少なくなるのでは?
うちも家系的には庄屋の系統らしいが血脈的には武士だよ。庄屋の血は64分の1とか
・・・でも母方が商家Orzだから一番濃いのは商家かな? >>684 養子でも良いじゃん。 別に父系家族に限ると言うわけでも無し。
どっちにしろ自分に血の繋がりがある直系でしょ。 父型をを辿るもよし、母方を辿るもよし。
どんな形であれ血が繋がってれば良いんじゃないの? 両方を辿り始めると大変なことになってしまうけどね。 自分も父型の戸籍は辿れる限り取り寄せたが、母型の戸籍はまだ取り寄せていない。 子が途絶えて、養子のみの家系が続いてる場合は微妙だけど。
ま、家門を受け継いだと言うことで良いんじゃないのかな。 他人が旧家なのがどうしても許せない人がいるな
水呑で苗字も明治までなかった層も多いから >>672
本多忠勝じゃなくて本多政重の家臣じゃないの
加賀前田家なら浅井や宇喜多の旧臣も多い。 >>688
それはお前さんの思い上がりだ。
水呑みなんてそもそも先祖に興味ないし、
大半の日本人が先祖なんていちいち心酔してなんかいない。
特に女なんか。
旧家が許せないのでなく、
その旧家の直系ですらないやつが、
先祖遡ればその旧家だとか、
そんなレベルで話すから虫酸が走ってるって話だろ
その旧家の身分受け継げるのは直系のみだ。
そんな血筋上の分家ならあくまでその分家の家柄
遡ぼっての血筋上の先祖って設定でいいなら、
あんたらと違い、余裕で室町国人領主まで遡れんだが? 長男でも次男でも血の濃さは同じだから直系傍系には大した意味はない
古くまで辿れるのが重要だな
明治まで辿れない人は論外としても ニセ系図を信じて先祖は鎌倉時代はどこそこに居て、とか書いてる馬鹿をからかってるだけてしょ。
系図を専門家に見せたら、作成年代がおかしいとか、先祖の生存してた時代が合わなくておかしいと指摘されて終了とかな。 >>693 僻み根性丸出しだな。 信じないならほっとけよ。
家系図なんかより信じられる書類なんていくらでもあるだろ。 そのクラスになると県の重要文化財として保管されてるけどな。
御教書って知ってるか? >>694
お前が信憑性皆無の事実指摘されて
現実つきつけられて発狂してるようにしかみえんがな >>692
血筋なんかになんの意味もない
傍流でもありなら無限ループだ
それこそ日本人みな兄弟になる
結局お前みたいになんの家柄もない人間が、
血筋というなんの価値もないものにアイデンティティーを見いだそうとする防衛規制が働いてるだけだわな >>696 だったらこんなスレで僻み根性丸出しで荒らすなよ。 他のスレを見てた方が幸せになれるよ。
ここは、血族先祖のスレ。 血筋を辿るスレだろうが。 何を言ってるのやら。
ID も出さないスレで信用するもしないもないだろ。 いちいち目くじら立ててどうするんだ。
お前うざいからコテハンつけろよ。 横から失礼。
先祖自慢とかしてるのは、上で姓氏辞典で自分の先祖を見つけたと言ったり
インチキ墓参りの話をしてる阿呆だろ
姓氏辞典か何かで「先祖」を見つけて、その家の菩提寺を探し当て(少しでも名を残した人
なら墓所は比較的容易に分かる)、わざわざ行ってみるわけだ。
そして裏山などに古い墓があると、「俺のご先祖様の墓だ」と感慨にふける。
古い石塔などを寄せ集めたような場所に行くと、「先祖祭りの場所」と勝手に想像する。
位牌堂を見れば「俺の明治以前の先祖様の遺骨を納めたお堂」と決めつける。
誇大妄想狂の一つに血統妄想というのがあるんだってさ。
例としては、赤軍に殺されたはずのロシア皇帝の娘アナスタシアと自称する女たち。
ロシア革命の後、何人も現れた。
誇大妄想とは
自分の地位・財産・能力などの現状を過大に評価したり、想像したものを事実であるかの
ように思い込んだりすること。
「想像したものを事実であるかのように思い込んだりすること」というのは、ここのコテハン馬鹿に
大いに当てはまる。
磐座や庚申塚の前で一族が集まって先祖祭りをする。そんな風景を頭に浮かべると、もう
確かにそれをやったような気持ちになり、事実であったかのように人にも話す。
実生活でも写真を見せながら誰彼かまわず話をしてるんだろうな。
不気味、かつ哀れだ。 >>694
それも偽物或いはそれをもらった人物の子孫だと詐称。
そんなところだろう。
後者の可能性の方が高い。
系図の8割は偽物と言われてるからな。 ヨーロッパ貴族は二重姓とかで婚姻関係で相続した家名と元の家名を名乗れるからいいよな。 名家旧家は普通に存在するだろ
知らないと言うことは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 名家旧家は普通に存在する
そういう名家旧家の人は、生まれながらに尊敬され、周囲に大切に扱われる。
だから鷹揚かつ上品に育つ。
かつ、先祖の名前をけがしてはいけないという自制が働くから謙虚で控えめ。
当然だが、すごい家柄だということは周りがすべて知っているのだから
自分から家が旧家だとか先祖がどうのこうのなどと自慢話をしたりしない。
もちろん先祖の調査などしない。
必要がないからだ。
本当の名家なら、先祖や家系のことなど既に分かりきっている。
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
などとやってるのは単に頭の逝ってる厨房がボケ老人。
たいがいは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 >>702
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
こんな人このスレにいる? >>700
マウントバッテン=ウィンザーとか?
でもこれは家名じゃないから違うか >>705
スレ見返したけどそんな書き込みなかったから訊いてるの
過去スレ? 姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
なんて家系に嫉妬する奴いるかね
馬鹿な奴 >>702
君の妄想の中では家柄いい人はそんなイメージなんだね
君のその妄想は、経済的特権階層にはある意味近い。
ただ、家柄特権階層の民度とは結構 かけ離れている
君も家柄いい人たちのリアルすら知らないんだから、あまり知ったような口聞かない方がいいよ い、、、家柄特権階層(*≧ω≦)ノブッ、、、
子供だったんかい 阿呆らし >>771
人を茶化すことしかできない悔しい低学歴のひがみ根性の無知素養は、変えられないのだろうが、
君をみて改めて無知は罪なりと感じるね
いと哀れなり >713
生まれが卑しい奴が悔し紛れに学歴だってよ
これで高卒中卒B級私大卒の引きこもりのジジイだから笑ける
そんな所は名前が書ければ誰でも入れるでしょ?違うん。 他人の先祖に嫉妬するような人にだけはなりたくないのう
気色悪いわ 社会心理学でももう答えは出ている
身分的特権は、あらゆる角度の環境変化に相対的に脆弱性を帯びるため、普遍性の価値を持ち合わすに至る条件が個々に解離しているため、
非常にマウンティングに近い心理性が働きやすい。
経済的特権階層は、それとは逆に
環境や条件に適応した価値を持ち合わすに至る財閥が多いため、
変化への安定性が身分的性向より大きく、
身分的特権階層の真逆の精神性を証明されてる
偏差値70ごえの一流大卒の偏差値王たる私からすらば、
君みたいな低学歴のお爺さんの無知素養からくる僻みなど、とるに足らないのだよなんの家柄も持ち合わせない、いと哀れな御仁 かわいそう
子供のままのオツムなんだな
ママが茶の間で泣いてるだろうが >>715
私は室町期は旧地侍、
江戸期は代々庄屋
明治も戸長、そして村長、
の直系の23代続く家に生れた
君らよりまともな人間だよ、家柄も教養も。
哀れなり バレバレの嘘語り始めた笑笑
根拠ゼロで思い込んでるんだろうな
自分が23代続く名家の
偏差値70の高学歴と
口ではなんとでも言えます。
証拠がアップできないならば先祖スレの住民の資格無いから二度と書き込まないでくれな
ウザいしキチガイじみてて読むのも不快だから 証拠を君に提示する必要性が、
この2ちゃんねるにおいて、
どこにその成分と根拠があるのか?
誰もそんなことしていない。
市史にも書かれているし、
過去帳もそうだし、
墓の形は代々宝鏡印塔で藩主の童子の墓と同じ形や大きさ許されており、勿論院号許されている戒名もそうだし、
私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
それは手代として地域の公共事業や政策を一手に藩から担っていたためそれらが容易に残っている。
戸長拝命も市史は勿論、初代県令からの拝命書もあり、
私の実家が戸長役場だった。
写真も残されているよ
その直系に生まれた。
別に君が信じようと信じまいと関係ない。 明治は私の家自体が役場だった。
君らには想像もできないだろうが。笑 家柄や家系とは全然関係ないけど
自分の曾祖父の勲一等叙勲ってどれくらいすごいの? >>721
身分的差異による嫉妬は醜いですなあ
足軽下級武士のそのまた傍流の子孫さん笑 ソース貼れないなら書き込むなよ嫉妬厨
見苦しすぎる
日本人ですらないなコイツ >>726
嫉妬狂いのレッテル針こそ日本人には思えないというブーメラン
この人をみれば分かるだろう。
身分的価値はこのような嫉妬と妬みからくるマウンティングと現実逃避という心理的防衛規制バイアス丸出しになり、
醜い闘争劇となる。
これがひとつの現実なんだよ社会心理学の言うがままの。 掲示板で他人の家柄に嫉妬して書き込みとか
やってることが哀れすぎw
仕事探せよ 自転車置き場の整理なら
あなたの年齢、家柄学歴でも採用される可能性あるから >>728
君はいつまで妄想で人をレッテル張っているのだ?
糖質に血統妄想という精神症状があるが、
君も旧家を目の当たりにするたびに、嫉妬と僻みで発狂するのも苦しかろうから、
一度受診をお勧めするよ
苦しかろう? 自分の出た大学を表現するのに偏差値で表現する奴はいませーん笑
妄想の中でしか生きられないかわいそうな人なんだろうな 今度は大学まで妄想レッテルという、
もはや哀れな御仁に、私はあなたを労りたい
なぜなら、私は寛容だから笑
あなたのような出自も学歴もいと哀れなりける御仁には、私の知識で救えるなら救ってあげたいね
お爺さん、地域包括支援センターっていう高齢者専門の相談センターが地域にあるから、
身の上を相談されてはいかがか?笑
その際自分の先祖やら出身高も相談されては?笑 皆もそうだろうけど、子供の頃見聞きした話をおぼろげに覚えてるが、歳を取ってくると正しい話を子供に伝える責任を感じて調べ始める。
昔見た本を探そうとしてもそれだけでも大変。似たような本は集めたが。
若い頃聞いてた家紋のカフスボタンやネクタイピンを買ったりしてたら、自分の子供も同じ事をしてるらしい。
偶々墓参りの時の写真を眺めてると、何だか家紋が微妙に違うことに気がついた。 それからその経緯を調べていく内に大凡話がわかってきた。
元々同じ紋が本名と俗称みたいに二つの系統で呼ばれてたらしく、言い伝えとしては俗称の流れの紋として伝えられてきてた。
同じ紋を使う別の氏族の話の中でも同じ様な話がいくつか出てくる。 今でもある〇〇氏族は同じ紋の事を〇〇本名紋、〇〇俗称紋とどちらとも言われている。
しかし本当の紋は本名の方の紋。墓には本名の紋が彫られてたと言う話。 今まで何度も見てきてるのに、写真でじっくり見るまで全く気がつかなかった。 また庄屋基地外が暴れてるのか。
こいつはしつこいね。 >>732
思い込みからの捏造
そこから詐称が始まる 誰の話も信じられないのなら何でこのスレにいるんだよ。
因みに俺は一度も庄屋だなどと言う発言をしたことはないけどな。
羨ましい話は皆同じ人間が喋ってると思ってるんだろ。 庄屋じゃねーって、妻の方はそれに近い大きな武家&大地主だったらしいが、家紋なんか知らないって言われて驚いた。
墓石の紋なんてそのつもりで見た事ないから全く覚えていないとか。
どこの家でも物心つく頃には、家紋を教えられると思ってたが違うんだな。 >>737
そういえば・・・水吞百姓の恨みは武士に行かずに庄屋に向くのかもな。
そのために庄屋を表立っては体制側に引き込んで苗字帯刀与えたりして武士ぽく
して、百姓の不満は庄屋へと・・・大英帝国のやり口みたいだな。 >>732
墓石に紋を刻んだりするのは明治以降だ。何にでも例外はあるから
江戸時代には絶対に無いとはいわないけれど。
本来「紋」というものは、晴れがましい場所や畏まるべき場所で自分や自分の
持ち物を他と区別するための目印であって、墓石なんぞに付けるものではない。
紋は公的な関係で必要なもので、私的なものの極致である墓だの墓石だのには
用いなかったのである。
なお武士でも、家紋を旗印にするなんていうのは国持ち大名クラスだったし、貴族は
牛車に家紋を付けることもあったが、やはりそんなことをするのは摂家など高位の
公卿であった。身分の低い公家がやれば笑われただろう。
紋は大名家なら10個以上あるのが普通だった。いろいろな由来でその家の紋と
なるので、状況に応じて使い分けていたのだ。
例えば桐紋は皇室の副紋なので普通は使えない。しかし、皇室から下賜されれば
別である。豊臣秀吉は自分に従う大名たちに皇室から桐紋を貰ってやった。
だから武家には桐紋を持っている家が多い。
実は秀吉は足利尊氏を真似したのである。
尊氏は自分に与力する武士たちに桐紋を与えた。当時の武士たちの最も喜ぶこと
の一つであった。桐紋を下賜されてもこういう紋は戦場の旗印などにはしない。
めったに使うものではなく、例えば将軍に目見えする際の式服に付けたりしたのである。 なお、同じ桐紋でも、尊氏の口利きでもらったものと秀吉の口利きのものとでは価値が
違った。細川家の桐紋は尊氏に貰ってもらったもので、他の大名の桐紋とは別格の
ものであった。
なお、こういう特別の紋ではなく、普通に使う紋を定紋(じょうもん)といった。
例えば細川家なら九曜の紋。
織田信長は資料が残っているだけでも七つの紋を使っていた。
https://r-ijin.com/nobunaga-kamon/
ここの五三の桐の解説はちょっとおかしいけど。
足利将軍家は丸に二引両紋で、この紋を持つ大名も多い。
足利氏は観応の擾乱で、兄も弟もこの紋を配りまくったためである。
武家ではスタンダードといっていい紋である。
信長はこの紋を当然足利義昭からもらったのである。
なお、非常に紋が多いといわれる伊達家の家紋
http://www2.harimaya.com/date/dt_kamon.html
>>732 はやたら墓の家紋にこだわってるけど、墓石に彫ってある家紋なんぞどうってこと
ないさ。墓石に家紋だなんてのは現代になってからの俗物趣味だろ。
庶民的でほほえましいじゃないか。
家紋の微妙な違いなんてのもどうってことない。職人が違えばちょっとは違ってくるさ。 >>740現代みたく長方形の墓石に紋を刻むことはないけど江戸期でも傘付角柱型墓の
傘部分に小さく紋は彫ってあるぞな。
||
〇
/ \線
| | ←この辺りに小さく家紋
−−−−−−−
/ 傘部分 \
| |
| |
| 角柱部分 | >>740
うちの場合、守護一族の一人から紋(その守護が使っている紋そのもの)を貰った。紋の名前も同じで名前も1字もらった。
それなのに口伝では似た別の紋の名前だと言い伝えられていて何故紋の名前が変わって行ったのかずっと不思議に思ってたのがやっと謎が解けてきたという話。
昔は法名を墓の前面に書いてたから前面に紋を入れるのはそぐわなかったんだろうね。
周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
ただその場合、水鉢等を作って墓を整備した家臣の家紋を入れてるケースもある。
とは言え家紋は紋付、留袖、家具の飾り金具、軒瓦などにずっと使われてきた。
うちは別の土地に移ったし戦争で全て無くしたから昔の持ち物は無いが本家筋には残っているとは思う。
>>741 墓を作った店にもう一度念のため見てもらったら、あの紋は○○紋でしょうと言った。その紋が確かにもらった紋の名前。
口伝の紋とは明らかに違う。 紋の名前が違うのはどおってことないレベルではないよ。 最近は張り紋なんていうのが有るんだな。 貸衣装にシールみたいな自分の家紋を張るサービス。
張り紋だけ売っている所も在るし貸衣装屋で張り紋もサービスで付けている所もある。
無い紋でも写真なりを送れば作ってくれるところもある。
近くで見ればすぐ判りそうだが仕方ないな。 めったに着ない物を新調するのも大変だし。 >>742
江戸時代の墓かどうか分からないじゃないか。
墓石なんて地震でぶっ倒れる。倒れなくても傘の部分は落ちて割れる。
いずれにせよ、傘の部分は何度も作り替えるものなんじゃないか。
安政の大地震もあったし関東大震災もあった。
明治や大正の時代に墓を直して、その時に職人が「こちら様の紋を彫り込んで
おきました」というようなことだよ。
だいたい墓石に紋を彫ろうというのは発想として間違っている。
墓石はストゥーパを真似たものだ。
ストゥーパとは塔。仏舎利はストゥーパの下に埋めたのだ。(だから法隆寺の五重塔
などの下には舎利が埋まっている)。
ストゥーパは宗教の世界のものであって、個人の家の印なんかつけるようなものではない。
例えば仏師に仏像を作らせたとして、俺のうちの仏像なんだから仏像に俺んちの家紋を
彫ろうなんて考えるか?
仏像というのは個人の所有物という概念を超えたものなのだ。
それと同じで、ストゥーパに家紋を付けようなんて誰も思わなかったのだ。
少なくとも江戸時代までは誰でもそういうことが分かっていたのだ。 明治になって紋をやたらと付けるようになったのは、西洋の紋章の影響もあるだろうな。
それと三井とか三菱などの社章。学生は校章のついた制帽を被った。
国鉄の職員はピカピカの帽章をつけた帽子を被っている。
菊の御紋章もやたらと使われるようになった。
官幣大社だと社殿に菊の幔幕を張ったりしたし、入り口の大きな石塔に菊の紋を付け、
別格官幣大社などと仰々しく刻んで立てておいたりしたのだ。
靖国神社の門扉にも大きな菊の紋章が付いている。
軍の備品にも御紋章をつけた。巡洋艦以上軍艦の艦首、あるいは歩兵銃の一丁一丁にまで。
そういうのを見て、庶民も自分も紋を付けようなどと考えるようになったのだろう。 平安貴族が牛車に紋をつけたのは遠くからでも誰の牛車か分かるようにするためだ。
貴族というのは位階がすべてなので、相手が高位の公卿ならこちらが道をよけねば
ならない。間違えると高位の方の雑色や舎人が殴りかかってくる。
そういう事態を避けるために車紋という紋を付けたのだ。これが家紋のはじまり。
武士は戦場で名乗りを挙げて戦っているうちはよかったが、そういうことは行われなくなり、
敵味方入り乱れて戦うと誰がどこにいるのかも分からなくなったため旗に家紋を付ける
ようになった。
要するに両方とも目印として利用されたのであり、最初のうちは一つか二つの紋しか
使っていなかったのが用途に応じていくつもの家紋が使われるようになった。
武士の家紋で言えば、戦場とそうでない場所、畏まった場面とそうでない場面、
内々の場面、いろいろな場面ごとに使われる紋が違ったのである。
江戸期の大名が大切にしたのは、足利氏や足利幕府の守護大名からもらった紋。
伊達氏の竹に雀などもそうだ。
そういう家紋は戦場とか大名行列とか、表だって晴れがましいことをする機会にしか
使われない。内々で使う紋は日常の道具や身内での贈答などの機会に使われたりした。
毛利家では内々で使っていたのは沢瀉紋(おもだかもん)。
藩祖毛利元就の墓に詣でる家臣は裃に沢瀉の紋をつけた。
墓に詣でることができるというのは身内扱いということなので、毛利家内々で使う紋を
付けたのである。 なお、嫁入りの時に嫁入り道具には実家の紋を付けるものであり、嫁は一生実家の紋を
使うものであった。嫁入り道具に紋を付けるのは、不縁になったときに全部持って帰る
ためでもある。さらに、実家の紋を付けるといっても、嫁入りは慶事なのであるから
なるべく目出度い紋をということで鶴丸の紋を付けることが多かった。
女らしくて、かつ鶴で目出度く、さらに角が無いからである。
>>743
>周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
明治以降、墓関係の石屋とかそういうのが何でも家紋を付けるようになっただけだろ。 家紋を軒瓦などに使ったのは表札の意味があった。昔は表札などなかったからだ。
時代劇で表札がかかっていたりするのは皆嘘である。しかし、表札の役割を果たしたのは
むしろ結果というべきであろうか。主たる目的は焼け跡での目印にするためであった。
家紋が軒瓦などに使われるようになったのは、昔は火事が多かったので、火事で焼け落ちても
すぐに元の家屋の位置が分かるようにするためである。武家屋敷などはみな隣接しているので、
一面焼けたらどこにどの家があったのか分からなくなってしまう。
これは大店が軒を連ねる商人町でも同じであった。
目印なので、築地塀などにも家紋の入った瓦を置いた。塀は境界を示すものだからである。
火事との関係は、瓦の模様が家紋でない場合は巴紋(三つ巴)だったことでも分かる。
巴紋は水を表す意匠だから防火のための呪いであった。そもそも瓦を葺くこと自体が防火の
ためであった。他に鴟尾(しび)という飾りなども防火のためである。
鴟尾は魚の尾をかたどったものであり、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾が有名である。
あと墓の紋が口伝の紋とは明らかに違うなんて言ったって仕方ないだろ。あんたのご先祖さん
だか何だか知らないが、よく知らなかったか、どうでもいいと思っていたんだろ。
そういう人が普通だよ。上杉だの佐竹だの島津だのなら家紋にこだわる理由もあるが、庶民の
家紋なんかどうだっていいじゃないか。 長々とくだらん事を書き続ける癖はやめろ。
神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
幕末の安政年間(1854〜59)には30%の墓に紋が入ってたらしい。 土方歳三が建てた近藤勇の墓にも法名の上に近藤家の家紋が入ってる。
実家の女紋の風習は関西だけの風習だろ。 それでも自分で紋を使ってた事を認めてるじゃ無いか。 事ほど左様に紋は大事だったんだよ。
紋の名前が分からなければ、紋付、留袖とか作れないからな。 江戸時代に庶民も紋を使うことが流行り始めたが、流石に武家の有名な家紋を使うのは気がひけるので、通紋と呼ばれる当たり障りのない紋を使うようになった。
花、菱、蔦 などの通紋は、どこの家でも共通に使って良い紋として取り扱われるようになった。 今の貸衣装屋の紋はほとんどこの通紋が多い。
女紋が流行る土地では、紋を持っていなかった家では困るからこの通紋を使ったので女紋とも呼ばれる。 牛の方が力があるからだろ。 それに平安時代は道が悪かったからのんびりと歩く牛が最適だった。
牛車も平安時代に使われていたくらいでその後は殆ど使われなくなった。
後に道が整備されてきても日本の場合雨が多いからすぐにぬかるみになって、馬車だと身動きできなくなる。
坂道、山道も多いし車が滑るから実用的でなかった。
農耕馬を運搬用馬車として使ってたくらいだな。 馬車と言えば、馬車鉄道があるな。
レールが作れるようになると、明治15年に東京馬車鉄道が運行開始している。
この時のレールの幅が、馬車軌間で、京王線がこれだった。 地下鉄都営新宿線も乗り入れする為にこの軌間に合わせた。
脱線ごめん 脱線ついでに、先に馬車鉄道が開通したのは今の都電、旧市電これが馬車鉄道で始まった。
京王線は市電に乗り入れる為に、馬車軌間を採用したらしい。 結局乗り入れはできなかったが。
脱線復旧 ようやく本家の連絡先を見つけた。
最初は名前だけわかっていたが、連絡方法がわからなかった。 間接的に連絡できるのは知ってたが。
ネットで名前から自宅の住所、電話番号がわかった。 次にfacebook をやってるのも発見した。
住所がわかると、本家の家もGoogle Map の航空写真ですぐに出てきた。 その近くに今までどこにあるのかわからなかったものがあるのも発見できた。
ストリートビューでも見つけたかったものを発見した。
ある意味怖い。 >>748
女は男系の家紋じゃなく女系の「おんな紋」を使うことになってる地域だってあるし 最近、神(じん)さんに会った。
ご先祖は神主かなんかだろうか?
神話に連なる古代豪族の末裔ではないかと勝手に推測。 >>745
可能性を上げたらきりがない。江戸時代の「可能性」もあるわけだし
ただ笠付きの笠は江戸初中期の墓によくみられるが以降は少なくなってるように
みえる墓群は確かにあるな。笠付きが流行らないのか直すのが面倒で最初期のだけ
直して残りは捨ててるのかもしれんな。旧家になると墓の維持でも相当な出費だろうな >>759
先祖が紀州から移住した人なんだよ。紀州弁は語尾に「ね」をよく付けるの。「あのねぇ、わたしがねぇ、」と。
「ね」を申す人だからネ申トなり、神になった。 >>750
>神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
なんで神紋寺紋とか出てくるのか分からないが、徳川の葵の紋は賀茂神社の神紋から
来ている。三河の加茂郡に賀茂神社があり、松平家はそこの氏子だったんだそうだ。
賀茂神社の紋は二葉葵。葵といっても背の高い立ち葵(ひなた葵)ではない。
日陰の水辺に生える小さな植物である。平安時代の紋はこういう地味なものが多い。
有職文様素材集3(公家家紋)
www.kariginu.jp/sozai/sozai3.htm
ま、こういうのを見ると墓石なんかに彫り付けられるもんじゃないということが
分かると思うけどね。
ところで
近藤勇の墓がある天寧寺という寺は、新選組の屯所として使われていたと
いうのは知らなかった。
土方は近藤が流山で逮捕された後、新選組を率いて会津に向かった。
近藤はその後板橋で斬られる。
その4日後に土方率いる新選組は会津に入ったということだ。
新政府軍が会津若松に攻めてくるのは二ヶ月後だから、戦争が始まるまで
確かに暇な時間があったのだ。
しかし近藤には立派な実家があるし、盟友とはいえ他人の土方が墓を
立てたりするかね?
供養塔ぐらいなら分かるけど。 実際に土方が墓を立てたとしても、今の墓石がそれと考えていいのかな。
この墓は皮膜が禿げてるよね
https://loconavi.jp/spots/196568
何だかセメントっぽいな。幕末の墓石とは思えない。
明治大正、、、もっと新しいような感じもする。
新選組と言えば今でこそ知らない人もないが、大きな歴史の流れの中で見れば
泡沫のような集団に過ぎない。会津でも敗残の人の群にすぎなかった。
近藤の存在もしかり。さらには罪人として斬られたばかりだ。
それなのにこんな大きな墓石を立てるかね。
土方歳三の墓はライオンズクラブ建立という。
毎年「近藤勇追善供養墓前祭」を会津若松ライオンズクラブが主催して行って
いるというし、何だか真面目につきあえる話ではないような気がする。
もちろんこの墓石が江戸時代のもので、江戸時代の墓石に家紋が彫ってある
証拠になると考えるのは勝手だ。 >>759
第二次大戦中、エキセントリックな言動で知られた神重徳(かみしげのり)という
海軍軍人もいるよ。
こちらはジンさんではなくカミさん。鹿児島の人。
ヒトラーの心酔者で、パナマ運河攻撃作戦を提唱したり、海軍全軍特攻とかを
主張した人。狂信的なことばかり言っていて「神さん神がかり」と揶揄されていた。
戦艦大和の沖縄特攻はこの男がいなければなかった。サイパン島玉砕のとき
には、俺を大和の艦長にしろ、サイパンに突入すると軍部中枢に迫って
やまなかった。最近は戦争ゲームに登場して人気ものらしい。
加美という名字の人も多い。加美という地名は日本各地にある。
小さな字を入れたら相当あるだろう。宮城県には加美郡という郡に加美町という
町がある。どちらかというと大阪や岡山兵庫などの西日本に多い。
関東・東北の加美という土地は関西の人間が移住して拓いた土地なのかも。
加美は、もとは「上」で、カミの方にある土地ということだろう。ただ上だと何と
読んでいいのか分からないのでよい字を宛てたんじゃないか。 神と書いてコウさんという人もいる。コウさんには国府と書く人もいる。高さんもいる。
高師直なんて武将もいる。高の場合、ただコウとは読まずコウノとノを付ける。
だから河野、河埜なんていう名字とも関係するんだろうな。
高という姓は岡山県あたりに多く、河野も岡山や四国に多い。
俺が考えるに、カミさんというのは地名由来だろう。上、中、下。カミ、ナカ、シモだよ。
カミの方に住んでいたんだろ。ナカさんという人もいるし、シモさんという人もいる。
下さんて霊能者でいるよな。
神と書いてジンさんというのは神社関係。神はシンでなくてジンと濁るのが普通だった。
神社もそうだが、神官は昔はジンカンないしジンガンと読んだ。
神祇はジンギ、神祇官はジンギカン。神人はジニン。
神部と書いてジンベ、ジンブという名字があるが、律令制の時代の神祇官(じんぎかん)の部民。
神祇官に属する奴(やっこ)で雑民である。
ジンベやジンブでは何か変なので、ジンだけにしたのがジンさんの由来じゃないかな。
神をゴウと読んで神戸ゴウドというのもある。ジンコとも読む。カンベとも読む。
古代から中世までいた、大きな神社の隷属民である戸口のことだ。 >>759
その神さんはこの中のどれかかもしれないな
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 よくもこれだけ無関係な事をダラダラと書けるもんだ、ここまで来ると完全に病気だな。 病院に行った方が良いぞ。
自己顕示欲が強く出る病気に、自己愛性パーソナリティ障害 と言うのがある。
自分は人より優れていると思うから、人が自分より偉いのも許せない。劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる。
完全に当てはまりそうだな。 村の庄屋だの神主に嫉妬するってすごいな
きっとリアル世界ではものすごく恵まれた方なんだろうね >>762-765 この長文を垂れ流す妬み爺さんは、毎朝5〜6時に書き込んでるんだよな。
明日の朝はコテハンつけて、連投はやめてほしいな。 3行でまとめる訓練をしようね。 ボケ防止に良いよ。 別に普通の先祖話に見えますけど?
これ以上どう書き込みしたら文句ないんでしょうか?
どう書いても、水呑百姓以外の書き込みは許してもらえなそうだけど。
他人の事が気になりすぎるのは心の病気の第一サインらしいですよ
少しネットを自分から離れてご自愛ください。 >>722 の諱について書いておこう。
武士の名前に諱というものがある。忌み名ともいう。
なんで「忌み」かというと、外で軽々しく使うのはタブーだったからである。
逆に言うと、他人がある人の諱を呼ぶということはきわめて無礼なことであった。
昔の人は名前と魂がくっついていると考えていたらしい。
だから安易に名前を他人に教えると、名前を呼ぶことによって魂を他人に操られると
考えた。女子が男に名前を問われて教えることは、体を許すと同然のことであった。
このように、人の名前というのは簡単に人に教えるものでもないし、人から呼ばれる
ようなことがあってはならない。だからこれは忌み名として使わずに置き、気軽に誰でも
呼ぶことのできる名前を用意した。
こうした仮につけた名前を仮名(けみょう)といった。
要するに、昔の人(奈良や平安の貴族にも諱はあった)には本名たる諱と通称である
仮名とがあった。
(仮名は奈良・平安時代の言葉であり、古すぎるので通称と呼ぶことにする。)。 石田三成は佐吉という通称であった。
加藤清正は虎之助。福島正則は市松。
通称は幼名であることが多いが、必ずしもイコールではない。
家での通称というものがあり、成人すると幼名から家で代々使われている通称に代わる。
しかし、外の世界では幼名で呼ばれ続けることが多かったのではないか。
商家などでは今も店の主となると代々の主人の名を名乗ることが多い。
武士や公家は、大人になると職名や身分で呼ばれることが多くなり、通称では呼ばれなくなる。
例えば石田三成は治部少輔。加藤清正は主計頭(かずえのかみ)、あるいは肥後侍従。
福島正則は左衛門大夫。大谷吉継は幼名桂松・通称紀之介で、身分は刑部少輔。
略して刑部(ぎょうぶ)と呼ばれていた。
明治になると太政官布告で「苗字実名ノミ相用候事」とされ、通称+諱ということは
公式に禁止された。
従来の武士たち(通称と諱の双方を名乗っていた人たち)はどうしたかというと、
戸籍に登録する際に、通称か諱のどちらかを選ぶしかなくなったのである。
例えば大隈重信、西郷隆盛は二人とも諱を選んだ。
通称を選んだ人もいる。板垣退助、江藤晋平、大村益次郎など。
福沢諭吉、山本権兵衛などもそうである。
今でも男子の名は諱系と通称系に分けることが出来る。
洋一郎とか孝輔とかは通称系、義重とか政宣とかは諱系である。 ↑も つづき とすべきであった。忘れた
−−−−−−
このようにして、明治以降は「名字+諱」か「名字+通称」という名前が出てきた
のであるが、それ以前は名字を名乗る以上は通称も諱も付けたのである。
つまり、明治以前に「名字+通称のみ」とか「名字+諱のみ」いう名前はなかった。
江戸時代に、山本太郎だの田中昭博という名前の人はいなかったのである。
名字を名乗る以上、必ず諱はあり、そして諱は特別の場合以外名乗らないもので
あるから通称は必ず使ったのである。
坂本龍馬は直陰とか直柔という諱があるが、これは特に許されたというようなもの
ではない。名字(姓)を許された以上、当然に諱は付けるのである。
だから
>>722 の
>私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
というのは嘘もいいところである。
名字を許されたなら諱をつけて当然であり、「諱も許されている」などというのは
無知そのものの発言である。
なお、伊能忠敬は佐原の商人であり町名主。
伊能という名字を許され帯刀した肖像画もある。
通称は二つあり、佐原にいた頃は三郎右衛門、江戸に出て天文学などを勉強
しはじめてからは勘解由と名乗った。忠敬は諱。
だから測量をしている時代の名は伊能勘解由忠敬。 夏目漱石の父親は牛込馬場下横町の町名主であった。
名を夏目小兵衛直克という。
漱石は五男で、長男:大助、次男:栄之助 (直則)、三男:和三郎 (直矩)、
四男:久吉 である。四男は幼逝したので元服名である諱は無い。
長男の諱は不明。おそらく父親と同じなのではないか。
漱石の諱は無い。漱石は慶応三年(1867)生まれなので、元服や諱を
付けるというような時代ではなくなっていた。
島崎藤村の父親は馬込宿の名主で本陣も務めた。名は島崎正樹重寛。
ついでに樺太探検をした間宮林蔵の諱は倫宗(ともむね)。
間宮林蔵は農家の出で名字はなかった。筑波郡上平柳村の生家の近くで小貝川
堰き止め工事があったときに幕府の役人に才能を認められ、治水工事の測量などを
する役人として採用された。
普請役雇という一代限りの低い身分であった。
それでもとりあえず幕臣となったので間宮という姓と倫宗という諱を名乗ったのである。
諱を自分で付けるときにはさぞかし悩んだのだろう。
結局、林蔵りんぞう→倫宗りんそう としたと思われる。
722は以前、自分の家は明治になっても諱を使っていた、などと書いていたが、
明治になってからは、上記のように通称と諱を並べることは許されないので、制度上
不可能であった。戦後の戸籍法によれば、例えば「誠一郎直正」とつけても受け付けて
貰えるので付けることは可能である。
ただし、通称+諱ということでなく、全体として一つの名前としてである。念のため。 >>772-776 だから、そんな自分が知ってる事の講釈なんて必要ないんだよ。 誰か教えてくれと言ったか?
自意識過剰なんだよ。 自分がどこかで探してきた知識をここでお披露目してたら、それだけでスレが埋まるだろうが、ここは歴史の勉強場では無いし、老人のダベリ場でも無い。
何かエピソードが出てきて、それの解釈とかなら良いが、まるで関係ないことを長々と持ち出すな >>772-776 知りもしない糞知識を知ったかぶりで喋るな。
妬みジジイ。
諱は本名だから正式に使われてたよ。むしろ字名は表面には出ない。 お前のググってきた知識は断片的で実際とかけ離れてる。
また、いつの時代の話かと言うのも混同してる。
頼むからコテをつけてくれ。 これだけ人に迷惑をかけてるんだから、コテくらい付けろよ。 先祖って結局誰でもつながってるんだよ。
同じ民族ならばな。 アメリカに「ブルー・ハイウェイ」という旅行記がある。
オンボロ車で車中泊を重ねながらアメリカを半周ほどした紀行文。
たいへんな評判を呼び、この本のスタイルで文章を書く人が増えた。
おそらく村上春樹なんて人もこの本を熱読したはずである。
影響がプンプン臭ってくるほどだから。
著者は白人とネイティブインディアンとの混血。
妻との離婚騒動で気が滅入り、職場を放り投げて旅に出た。
ブルーハイウェイというのはアメリカの俗語でハイウェイでない一般道路のこと。
アメリカの道路地図では、ハイウェイは赤で一般道は青で表示されるところから来ている。
大学で報道写真を学んだという。ところどころに挿入されている白黒写真がとてもよい。
俺はリアルタイムでこの本に嵌った世代ではない。ジャズ雑誌のエッセイで知ったのだ。
ペイパーバックの古本を持って歩いていたことがある。
著者が、自分の先祖が畑を所有していたという谷にやってきたときの文章は特によい。
先祖の男は、はるばるヨーロッパからやってきて、日当たりの悪い谷底に畑を拓いた。
周囲は斜面で木ばかり生えている。ジャガイモぐらいしか穫れない土地だ。
ただやたらに空だけが青い。
細かい描写の中に、なんでこんなところにしか畑を持てなかったのだろうという、著者の
気持ちが伝わってくる。
先祖の墓のあるところは、今は水が溜まっている。
澄み切った池のような状態。水に手を入れようとしたら滑って転んだ。
そのまま池に入って泳ぎ、泳いでいるときに水を飲んでしまった。
先祖の墓が沈んでいる池の水だ。
俺はこの場面がとくに好きだった。
その後一時先祖探しにはまったのも、どこかにこの本の影響があったのかも知れない。 >>781 それ言っちゃおしまい。 その中で実際に血が繋がってる先祖を連続してどこまでたどれるかがこのスレだろ。
戸籍調べは誰にでもできるから、明治初期までは辿れるだろう。 運が悪いと戸籍の書き直しの時に途中で戸籍がなくなってる地方があるかもしれないけど。
うちの地方は、しっかり書き直されて残っていた。 過去帳を調べると言っても、最後に法事をして長い間ご無沙汰していると頼みにくいよね。
それでも快く引き受けてもらえるものなんだろうか。
それも商売の一環と思ってもらえるんなら頼みやすいけど。
昔から苗字を持ってる家だと、家単位でまとめられてて調べやすいが、苗字がない場合は膨大な中から見つけ出さないといけないから結構大変らしい。
最近はなかなか個人には見せてくれなくなってきてるらしい。 住職が調べてくれる。 その方が金になるからかな? 33回忌、50回忌の時に菩提寺の過去帳に記録するのか?
そこまで定期的に法事をしなかった家は寺の過去帳が無くなる?
うちの宗派ではバックアップ目的で、末寺の過去帳を本山で入力して本山でも保管してるらしい。
過去帳から先祖を調べる
https://uguisu.skr.jp/history/kakotyo.html 旧家になれば寺に馬鹿でかい位牌があるはず。それに歴代の戒名が彫ってある。 >>786 それは過去帳がわりだろうから直系だけでしょ。
宗派により違うだろうし。
浄土真宗じゃない? うちの仏壇に大量の位牌があったけど寺で供養(処分)してもらっっちゃったんだよな
真っ黒で読めないし >>788 そんな風に大量の位牌を整理するのが寺の過去帳になるんだよね。
また、位牌の代わりに自分の家の過去帳に先祖の記録も書くことにより位牌がわりとする。 名字の話が出てたから聞きたいんだけど、
寺島宗則は長野→松木(養子で改名)→寺島(維新後に改名)と改名してるけど、
寺島姓はどこから来たの? 過去帳は普通は菩提寺にある。
先祖代々武士だった俺の家も、過去帳は菩提寺にあるが、家族で死人が出ると菩提寺である末寺経由で京都の本山に遺骨の一部を持って行く。
本山で遺骨を納めて、本山でも記録してもらう。
もう400年くらいそうしてるそうだ、 神さんって名字だけだとなんか新興宗教の人って感じがする…
あくまで自分個人の勝手なイメージです >>790 一度イギリスの捕虜になったから改名したんじゃ無いのかな。 寺島は郷土の無人島の名前らしい。 勿論島津藩の許可を受けて。 コンビニで過去帳を印刷できるようになるのはいつ頃だろう? >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺はにしに >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺は西日本みたいなドイナカと違い、関東だが、
周りの豪農含めた百姓で諱もっている百姓は全くいない。
庄屋の中でも一部しか名乗っていない。
これは、俺の認識不足なのか? >>798認識不足だろう。
中部地方だが戦国期はOO守OOやOO 兵衛尉OOで江戸期には兵衛OO、衛門OOは良く見られる。(文書では)
ただ墓は苗字+通称だな。違う地方に行くと諱も彫られてたりするが家の地方では見たことはない。 >>799
普通に墓に書いてあるよ
お前も一部のてめえの狭い見識での話やないかい >>801論理が無いな・・・
一地方の狭い知識+異なる地方の狭い知識=
なんだと思う? 長文ジジイはもっともらしく嘘ばかり並べ立ててるから無視するに限るよ。アホらしい話ばかり。
講釈師見て来た様な嘘を言う。 >>797
なんて馬鹿なんだ。
俺は>>775 で
>名字を許されたなら諱をつけて当然であり
と書いている。名字を許されたなら公的な関係でも名字を名乗れる。
こういう場合は当然諱も付けるということだ。
百姓は勝手にそれぞれ名字を名乗っていたが、名字を許されたわけではない。
公的な関係では名乗れないのに諱なんぞ付けるわけがなかろうが。
あと
>平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、
って何だ?
「平百姓」って何? お前が考えた言葉か?
平社員とかそういう感じなのかなwwww
何をやってるんだお前は。こういうのは高校でも教わるだろ。
どうしてちゃんとした用語を使えないのかな。もう一度中学の教科あたりから勉強
しなおした方がいいんじゃないか。
>>798-799 では自演してるし。
799 で、その上の798 に反論してやがんのw 馬鹿だよなぁ
>>801
>普通に墓に書いてあるよ
江戸時代の墓(墓石)に生前の名前(俗名)は彫ってないよ
これは今でもそうじゃないのかな。墓碑には彫りつけるけど、墓石そのものに
彫ることはない。
もしそうなら先祖探しも楽なんだけどな。戒名だけだよ普通は。
例外は俺は知らない。
名主基地外は話にならんわ馬鹿すぎて
知能が足りない上にちゃんとした教育を受けていない。可哀想な奴だ。 >>806 お前の乏しい知識でものを語るなって。
墓石にも俗名は書かれてるよ。
前面は戒名/法名だけでも、側面に俗名が書かれている。 少なくとも俺の高祖父の墓(明治39年に建てられたもの)は、横に俗名が書いてあったから、高祖父の墓だと判った。 我が家は代々長男の名前に◯一のように一をつける慣習があるんだがどう思う? >>807-808
馬鹿が二回続けて書かなくてよい
何が明治39年だよw
嘘もええかげんにしろってのw >>812
今でもそういう決まりがあるのは流石におかしいだろうか?
長男家系だから高祖父まで見事に一が付いて異様な感じがする 田舎だと今でもあるから別におかしくない
うちも本家は通字をいまだに使ってるしな >>814 おかしく無いよ。 似た様なのに、太郎、次郎という様な付け方もある。
小泉孝太郎、進次郎
大昔からの家ごとの風習みたいなものだから、継続して伝えていけば良いと思うよ。 >>811
苗字は書かれていないね。屋号のみ
でもO兵衛って官名風の名前は苗字の無い庶民でも付けてたのね >>815
>>816
田舎だと良かったんだけど都内で少なくとも自分の周りにはそんな家無かったから悩んでた
おかしくないということで安心したw
お二方どうもありがとう >>807
そうそう、全面は勿論戒名だけだが、横に墓建てた人の名前だったり。 なんだろ、
家紋なんて農民は墓には付けないとか言われているかたいるが、
うちの地域の豪農や名主は、
墓に笠までついた家紋入りの墓だよ江戸時代。 >>821の続き連投で申し訳ないが、笠付き家紋入りの墓でも、院号はごくごく一部の名主しか付けられてない。 >>817 墓側面の俗名には俺の見たものには殆ど苗字は書かれていない。 その土地の人間なら解るからだろう。 >>811
昔の墓というのは修理するんだよ。道祖神なんかでも修理してあるのよく見るだろ。
この金糸屋なんとかさんの「建てた」墓は、全面の戒名が信女だから女性の墓で
母親か誰かなんじゃないかな。
この戒名の刻んである芯の部分は安山岩か何かで本物の石のようだが、
その周囲はセメントだろ。もうセメントが浮いて剥がれが生じている。
下の土台の石もひび割れていたのかモルタルで平らにしてある。
こういうふうに修理して、そのときに紋とか彫りつけるわけ。
そのときは石に刻むんじゃなくて固まる前のセメントだから基本的に粘土細工と変わらない。
紋を入れたり大きな字を入れるのも自由自在だ。
江戸時代の墓は当然ながら修理してあるのが多い。
素材はハッキリしないのだが、やや黄色がかった漆喰のようなものを全面に塗って
そこに新たに戒名や紋を入れているものも多い。
そういうのは剥がれや浮き、表面だけのひび割れなどが生じているのですぐ分かる。
>>813
お前はホントに馬鹿だな。
江戸時代の墓の話をしてるんだろ。昭和の墓なんか出してくるなっていうの。
今何が問題になってるのかとかちゃんと頭使って判断しろ。小学生かよ
>>819-820
そういうのは明治になってから。
>>822
そういうのは江戸時代の墓じゃないの。
墓石に俗名なんぞ彫らない。
>>822-823 は自演。 >>826 本当にこいつは虚栄心の塊だけなんだな。
信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。異常者は自分の見たいものしか見ない。
墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
幾ら貧乏な家でもセメントを使うなんて恥ずかしい真似をするか。 墓石は未来永劫続くことを願ってるんだぞ。
お前のうちはどれだけ貧しいんだよ。 お前ん家の墓はセメントかよ。
ひび割れの穴埋めにセメントを使うことはあるだろうけどそれ以上ではない。
セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。 彫りも深くしっかりしてる。
金が無いとなかなかこんな墓は作れないよ。 自分家の母方の墓です。戦争で一族全滅したのでもう相続人が母しかいないのですが、墓の維持の為わざわざ東京から田舎まで毎年帰ってます。
https://i.imgur.com/X9mz41R.jpg >>828 田舎が近ければ良いけど。 自分の場合往復の飛行機代が一人6万かかる。 何人かで帰ると結構な費用になる。
もうそろそろ、自分達の墓をどうするか悩み始める歳になった。
墓は田舎の父の墓に入れば簡単で良いし、墓の世話もその近くにいる親戚がやってくれるだろうから、その点では安心。
まだ、自分達夫婦のどちらかが生きてるうちは良いと思うが、両方がそこに入ったとすると、自分達の子供達が法事の都度訪れるのも大変そうだなと思う。 中々休めない職業でもあるし。
夫婦共そこに入れてもらって、後は息子達が住んでる所に近くて便利なところに墓を移してくれれば良いかなとも思い始めた。
先祖の土地から離れるのには寂しさがあるが。 >>827
明治以後は土台がセメントになってきてるよ >>830 土台は基礎の延長だから仕方ないし、どうでも良い。 昔の墓にはその基礎さえほとんどないし。 昔は、火葬も土葬も行われてた。
土葬の場合殆ど小高い丘に埋葬した。 遺体を動物達に荒らされない様に曼珠沙華(ヒガンバナ) の花を植えたらしい。
古い墓が殆ど山の裾野なのはその名残かもしれない。
勿論農地の妨げにならない様にとか、大水に流されない様にとか、戦火で荒らされない様にという意味合いもあったのかも。 >>832 古い墓の様子を見るとどこも瓜二つみたいに似ている。 古い旧家の言い伝えでは墓の所に洞窟みたいのがあって昔はそこにすんでいたのではないかと?まあ、一つの仮説にしか過ぎないらしいが >>834 いや、そういう言い伝えができてもおかしくない。
埼玉の吉見百穴なんて、古代の墓穴の後だからね。
異様な光景だよ。 戦時中は横穴墓を防空壕に使ってるところもあったらしい。 寺の過去帳を調べた経験があったら話して。
何代前位までわかったかとか、費用とか、みるだけだったか、住職が書いてくれたかなど。 >>829以下全部庄屋馬鹿の書きこみ
庄屋馬鹿 そらしに必死 >>838 可哀想にそんなに庄屋が羨ましいのか? 世の中は、水飲み百姓と庄屋だけで出来てるんじゃないぞ。 先祖だけは捏造しない限り自分では如何ともし難いから
江戸時代までは苗字持ってる人が1割だったんでしょ?
残り9割の人はそりゃ嫉妬するわ >>840 苗字は持っていなくても (持ってたが公式には使えなかった) 江戸時代は、何処かの寺の檀家として登録するのが義務付けられてたから、寺の過去帳が公式の戸籍簿に近かった。
だから、どんな農民でも過去帳には登録されてるんじゃないのかな?
だからかなりの確率で見つけられるかもしれない。(苗字/家の登録がないと探すのが困難らしいが)
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みんなこのページは見てると思うが参考になるね。
戸籍以前の調べ方
https://www.kakeizushokunin.com/kosekiizen/
過去帳
墓石
旧土地台帳
文献 (戦死者リストは公文書として残っている)
本籍地周辺での聞き取り調査
古い戸籍が無い理由
https://www.kakeizushokunin.com/kosekitorenaijijou/ >>840なにを根拠に1割なんて言ってるの?
戦国時代以前は非人や労働者階級の足軽や下級武士もみな名字もってんのに。
大体、平百姓なんて名主庄屋からの分家が多いんだがら、名字は皆もってんだが?
公式に名乗れないなんて、
単なる公式文書レベルや有形物への表示制限があるくらいなだけ。 平百姓
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%99%BE%E5%A7%93-1401688
今まで、この言葉は知らなかった。 いかに昔の言葉が廃れてきてるかだな。 この間郷土史を読んでて始めて長百姓という言葉を知ったくらい。 昔の風習、言葉は廃れてきてるな。
名主は、最初は長百姓から出てたが、不公平だとして長百姓と平百姓の交代制になったとか。 これからみると平百姓の地位はかなり高かったことがわかるな。
(妬みジジーは、平百姓と言う言葉まで否定していなかったか? 別人だったらごめん) 言葉自体の存否もだが読み方も変化してるのか?
昔の文書を訳したのを見ると現在は先方衆(さきがたしゅう)だけど昔は(せんぽうしゅう)だったりとか。ただ音訓読み的にはどうなんだろうかなと?ふと昔不思議に思ったことをつらつらと 原宿駅前からラフォーレの辺りは丘陵となっていて、かつて源氏山と称していた。
源氏山の由来は清和源氏の末裔飯尾政宅が住したためである。
∴清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─源頼光─源頼国─源頼綱─源仲政─源頼政─源頼兼─源頼茂─源頼方─源頼氏─浜名清政─浜名詮政─浜名満政─浜名持政─浜名政義─浜名政明─飯尾用政─飯尾乗連─飯尾連竜
飯尾連竜の次男、飯尾政宅。飯尾政宅、現在の原宿に住む。 浜松まつりの起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、
引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、
入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としている。 戦国武将の飯尾氏は渡来系の三善氏の子孫と言われているが、飯尾連竜の子孫は清和源氏の子孫と称している。
今川の家臣となった飯尾長連の養子に清和源氏の子孫(飯尾用政)が入ったのだろう。
飯尾氏は同じ今川家臣で同じ遠江国の戦国武将である浜名氏の分家的な位置だったのだろう。
清和源氏の浜名氏は源頼政の子孫であり政を通字としている。
飯尾連竜も連竜という諱の他に飯尾政純という諱を持っている。
これまでの三善氏という固定観念はデタラメであって、飯尾氏は清和源氏であった。 >>846 847 ご先祖様と何か関係あるの?
何かの話に関連して話すんならまだしも、突然脈絡もなく話すのなんて長文自己中と同じだな。
あ、そうか長文自己中=妬みジジイがコテハンつけてくれたのかな? ありがとう。 今川義元の城主格家臣の一覧
・尾張鳴海城=岡部元信
・駿河朝比奈城=朝比奈元長
・三河田原城=朝比奈元智
・駿河瀬名城=瀬名氏俊
・駿河蒲原城=蒲原氏徳
・駿河庵原城=庵原元政
・駿河川入城=由比正信
・遠江掛川城=朝比奈泰朝
・遠江二俣城=松井宗信
・遠江高天神城=小笠原氏清
・遠江井伊谷城=井伊直盛
・遠江引馬城=飯尾乗連※浜名政明の子の飯尾用政の子
・遠江佐久城=浜名正国※浜名政明の子の浜名頼親の子
・三河岡崎城=松平元康※後の徳川家康 源頼朝のブランド感覚は源氏を優遇する傾向だったらしい。
行事交名を見ても、平賀義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
一番 源頼朝
二番 源頼兼
三番 平賀義信
源頼政の子の源頼兼(鎌倉時代の人)とその子孫の源頼氏(南北朝時代の人)は、鎌倉時代から南北朝時代まで、苗字ではなく将軍家と同じ様に源氏で称されていた。
その理由は河内源氏嫡流の源頼朝と摂津源氏嫡流の源頼兼という立ち位置だったのかもしれない。 享陰 ※水野氏の菩提寺のとこのお坊さん!
源姓平賀氏出身。浜名政義の親族。尾張国緒川の乾坤院(水野貞守開基)の僧。浜名氏は政義の代より曹洞宗となる。 源頼兼と平賀義信。源頼朝を除けばどちらも源氏の首座。 以上、戦国武将の飯尾連竜の先祖は、摂津源氏嫡流である源三位頼政公の子孫ということ。 苗字帯刀は1割
これ常識
沖縄の系図持ちも1割
不労階級はそれ以上いたらヤバいって事だろう >>827
>信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。
信女と彫ってあって、それが一番左(向かって左)だから建立者の母親だろうと
言っただけ。その右に彫ってある信士との関係なんか知るかよ。
だいたい人のうちの墓の戒名なんかまともに読むか。
お前は一生懸命読んでるらしいが、そっちこそ異常者。
>墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
ネットで調べてみろ。セメントの墓は当たり前にあった。石がふつうに使われるようになった
のは、戦後海外から安い石が輸入されるようになってから。
アフリカや中国から石が入ってくるまでは石材は高価だった。
石材をカットする機械も普及しておらず、水力で丸鋸を回して切ったりしていたらしい。
土台やカロート部分は最近のは石で覆ってあるが、つい最近までセメント丸出しだった。
ちょっと古い墓なんか、土台の一部に工事用のコンクリ板が当たり前に使ってあったりするよ。
>セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
馬鹿だな。セメントが生乾きのうちだと細かい作業が簡単にできるんだよ。
彫るんじゃないから。上に書いたやんけ頭悪いなもう >ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。
>彫りも深くしっかりしてる。
シッタカすんなボケ。庵治石でググったの丸出しやんけw
庵治石を調べると「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で黒雲母の小さな粒が混じっていて
青っぽい石。この墓石前面には黒雲母のツブツブはないし、青石でもないわな。
庵治石なんてもんじゃない。
そもそも、お前に合わせて墓石前面は石で戒名も刻んだものとしているが、正直なところ
疑わしいと思っている。俺はここも塗ったもので、戒名もまだ固まっていない段階で
ヘラで書き入れただけなんじゃないかと思うけどな。 昔の日本ではだいたいは土葬で、墓には木の卒塔婆を立てるだけだった。
金持ちは石の墓も作ったけど、それは土葬した場所の横に並べる形式。
地面に置くような形で、土台石を置くにしてもそんなに高くない。
この写真の墓は古い二つの墓をまとめたもので(同時に葬るのはありえないから)、
下はコンクリで土台を作ってあるし、カロート式だろうから、墓全体としてはたぶん戦後に
作られたものだろう。
後ろにコンクリ柱を支えに立ててセメンで固めてある。
その土台部分の上に乗せてある戒名が彫ってある墓石部分は古いのだろうが、江戸時代の
ものじゃない感じがするなー。
建立の日付は江戸時代のものになってるそうだが。
>>811 によると、この墓石に刻まれた日付は
>金糸屋善兵衛の石碑(延享二年・1745年)
延享二年というと、八代将軍吉宗の治世の最後の年。吉宗は元気だったが、身○者の家重を
早く将軍の座につけて自分が後見した方がいいと考えたんだな。だから51歳で隠居した。
この墓石は吉宗がちょうど50歳のときのものということになるが、そんなに古いかなw
江戸時代の墓石なんか、俺の経験では読むのは天保・弘化ぐらいが限界じゃないの。
それより100年も前の墓石の文字がこんなに明瞭ということがあるかね? なお、家紋研究家の墓地調査のブログ
www.arkness.blog.fc2.com/ ↑ のアドレスこれを付けてくれ。分けないと書き込めないんだ。
blog
-entry
-35.html
これを一行にして なんで普通に書き込めないかな 下のは3つに分けて改行してようやく書き込めた。
では家紋研究家のブログについて進める。
この研究家の人は
京都の人だが、ここに載っている墓の写真が金糸屋善兵衛さんのに似ている。
京都で一時期、この形式の墓が流行ったんだろうな。同じ職人なんじゃないか。
この人は建立の日付が江戸時代だから江戸時代のものと思っているようだ。
しかしこの浮き方や剥がれ方を見るとそうとは思えないよな。
あと、この墓石の蓮台はセメントで型で作ったものじゃなかろうか。
おまけ
>>828
これは庄屋馬鹿の書きこみなw
この写真の石塔の上の傘は、どこかの灯籠の傘だったもの。
それをひっくり返してモルタルを流し込み、石塔の幅奥行きに合わせて
四角く固めた。インチキな石屋がやったか坊さんに言われてやったのかは分からない。
仕事がシロウトくさいよな。 江戸農民の階層的な呼称について
>>843
江戸時代の文書では百姓の階層がいろんな言葉で表されている。
上下を表す意味で頭百姓と脇百姓などという言葉が用いられており、
上百姓と下(げ)百姓などという分け方もある。
後者は美濃国不破郡中曽根村寛政六年(1794)の資料。
この村では下百姓が家に庇(ひさし)や濡れ縁を付けるのは禁止されていた。
座敷口を三尺以上にしてはいけないし、屋根を瓦で葺いてもいけない。
裃を着用してはならず、名前に衛門・兵衛・太郎・太夫などの名をつけてはいけない。
頭分の宅内に入るときに履物を履いたままではいけない、など。
最後のはおそらく玄関の敷居の手前で履き物を脱ぎ、土間で平伏しろということ
だろう。村の行事などでの座席順や場所の決まりは厳しい。
袴をはいた人とそうでない人を分けるのは当然で、その次に「百姓大高持ちより
次第に列座致候事」とするものがある。
所有する田の石高の順番に座れというのである。 こういう分かり易いものばかりでなく、座る場所まで細かく定めたものもある。
長百姓、中百姓、平百姓、小百姓、水呑みの区別をつけ、長百姓は旦那衆と呼ばれ、
オモテ(奥座敷)の畳敷きのところに座る。
中百姓は台所(一段下がった板の間)に薄縁(うすべり)を敷いて座り、奥座敷との
間にはアイドを立てる。
平百姓は台所の上がり框(かまち)に近いところに筵(むしろ)を敷いて座る。
小百姓は土間に筵敷きであった。
なお、水呑みは筵を使うことはできず、外に古俵や藁を敷いて座った。
しかし雨の日や冬はそうもいかない。
家の者が気を効かして「こんなところに座ってないで家の中に入れ」というようなことは
言っただろう。そう言われれば中に入ったのだろうか。
あくまでも軒の下などに藁を敷いて座っていたのだろうか。
長だの中だの平だの小だの、軍隊みたいな直接的な分け方をするのは関西の
京都周辺の農村に見られるようだ。
最初に示した上・下の百姓の座る場所の掟は丹波中郡三重村のものである。
しかし、上といい下といっても具体的に何を指しているのか分からないので
区別(差別)が確かにあったという以外、資料としては役に立たない。 江戸時代の農村における住民構成は、大きく分けて高持百姓とそうでない者との
区別がある。高持百姓とは、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっている
百姓のことである。領主に対して年貢を献納する義務のある土地を持っている者で
その土地の多寡は問わない。土地が少なければ他人の土地を耕すこともある。
その場合には小作人でもあるわけだが、そうだとしても検地帳に記された土地を
持っている以上は高持百姓であることに変わりはない。
いっぽう、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっていない者は水呑と
呼ばれた。高持百姓と水呑の区別は、領主に対して年貢を負担するか否かの
区別であり、百姓にとって本質的なものであった。
次に、本百姓とそうでない者との区別も重要である。
本百姓が何であるのかについては昔から種々議論があり、古くは屋敷を持つ者と
持たない者の区別であるとするものがあった。屋敷名請人こそ本百姓であると
するのである。さらにまた屋敷名請人でも夫役(ぶやく、労役)を負担しない者も
あるから(後家、盲人など)、夫役負担者が本百所であるという説も出た。
夫役は村が20軒なら20軒前割り当てられる。一軒前の夫役すなわち労役を
負担する者は役家や役屋敷などと呼ばれており、役家や役屋敷と呼ばれる家は
また本百姓と呼ばれていた実態が明らかになってきた。
だから、本役を負担する者を本百姓と呼べばいいと解するのが一般である。 江戸時代農村の階層は、まず年貢を負担する高持百姓とそうでない水呑、
夫役(一軒分の労役)を負担する本百姓とそうでない者とがあるということを
知っていればよい。本百姓でない者とはどのようなものかというと
1.分付(ぶんづけ) 分家をせずに惣領の田を耕している二男・三男。
2.家抱(かほう) 一戸を構えてはいるが、身分的には下男のままで独立しておらず、
収穫したものは主人の家に納め、自分は年貢を負担しない者。
3.庭子、名子など
一般的には主人の屋敷内にいて耕作を手伝ったり雑用に従事する者と言えるが、
小作人と変わらない場合もあれば奴婢に他ならない場合もあり、一元的に定義づける
のは不可能。
「平百姓」という言葉は>>317 や >>798 で庄屋馬鹿が使っているが、明らかに
「平社員」的感覚で使っている。それを馬鹿にされてググりまくったら、たまたま
百科事典に平百姓が出てきて今度は鬼の首とったみたいに威勢がよくなったww
平百姓なんて言葉は普通は使わないよ。限定的な地域で特定のシチュエーションで
使われていたにすぎない。
田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓は小前百姓と
いうのが普通である。
ごく普通の農民という意味で使いたいなら是非こちらを使うべきだ。
上に述べたが、上百姓・下百姓なんて区別もある。
文献的にはこうした表現もあるわけだが、これを一般に使ったら馬鹿だと思われて
しまう。平百姓もそれと同じだ。
>>843 は庄屋馬鹿の無知と知能の低さをあらわすものに過ぎないw >>859 高々100年や200年位で彫りが崩れる訳なんかない。
100年前ってまだ大正時代で全く新しい。
掃除が行き届かない墓の場合、苔で見づらくなっているだけの話。
そもそも江戸時代の墓は、一般的には彫りが最初から雑で彫りが浅いものが多い。
コテハン付けるの忘れてるぞ。 ちゃんとつけろよな。 源頼朝が河内源氏義家流の嫡流で、源頼兼が摂津源氏の嫡流で、平賀義信が河内源氏義光流の嫡流と頼朝に認識されていたのか。
大和源氏は、、、 当初の藤原秀郷流の嫡流は奥州藤原氏と思われていたかもしれない。
いや、しかし藤原頼遠が養子だから思われてなかった可能性もある。
秀郷流の嫡流は現在では結城氏かもしれないが、その前は結城氏の本家の小山氏だったろうし、その前は足利氏だったかもしれない。
足利氏の分家の佐野氏も捨てがたい。
秀郷流の嫡流は当初はどこだという認識だったのだろう? >>860 塗ってるかもと言うのをセメントだと思ってしまったのか? 愚かすぎる。
たとえ塗ったものがあったとしても、当時は漆喰だよ。
漆喰とセメントは全く別物。 漆喰と言っても堤防の護岸に使われる様な頑丈なものもある。 今でも漆喰の堤防が残ってるはず。
それでも石の上に漆喰を塗ると言うのは、かなり難しいと思う。 余程のことがない限り一族はそんな墓は建てない。記念碑みたいなものなら別だが普通にはないよ。
しかし、その写真にも家紋が入ってる事は認めるんだな?
俗名や屋号が側面に入っていることも認めるんだな?
これを明治時代以降だなんて言うなよな。
セメントは明治以降だと思うが、漆喰は大昔からあるんだぞ。
昔の墓の文字が読みにくいのは苔もあるが、安山岩の様な粒の荒い軟らかい石に彫ってるから、最初から文字の輪郭がはっきり出なくて古びた感触に出来上がる。
その上彫りが浅いから少し汚れると読みづらくなる。
花崗岩(御影石)の様な硬い石に彫る場合は、輪郭がはっきりと出る。
花崗岩なのかどうか知らないが、目の細かな石の彫りは、くっきりと残るね。
花崗岩が使われる様になったのは明治以降じゃ無いのかな。
昔の技術で硬い石に彫るのは困難だったから古い墓ではあまり見ない。 高貴な方の墓は別格。
現代の墓だと機械彫するからいくらでも彫が深く見栄えが良い文字が彫れるけど手彫りじゃ大変。
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。 秀郷流嫡流の話しだと信夫佐藤氏も考えられる。
奥州藤原氏に付いて頼朝と戦った佐藤基信と佐藤忠信の兄弟も秀郷流だが、この佐藤氏は源氏車を家紋としてる。
一説には佐藤義信は源義経の落胤と呼ばれている。
同じく小野寺氏も秀郷流だが、小野寺氏は鎌倉時代の書物に御堂関白道長の子孫と書かれてあるものもあり、
おそらく秀郷流としたのは武勇に秀でた武家の藤原氏をアピールするために、秀郷流を後で名乗ったのだろう。 >>872 荒らしてるの? 楽しい?
せめてコテハンつけるか、元の話題へのリンクを貼ってくれないかな。
多分コピペ荒らしだと思うけど。 俺の中では武家の名家というと鎌倉時代が基本だな。
戦国時代好きな人は戦国時代を基本にするけど、やっぱ武家は鎌倉時代から本格化してるからな。 源平時代と南北朝時代と戦国時代と先祖が何をしてたのか?
俺の先祖の場合は色々してた! >>875 血族先祖に限る話題から少し外れてるとは思うが、長文バカにならなければ良いのかもな。
戦争の度にあちこち飛び回り、そんなこんながあったからこそ日本全国文化が均一になったんじゃないだろうか。
うちの先祖が移ったのも鎌倉時代だし。
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話は変わるが、俺んちの先祖探しの中でビックラこいた事があった。
自分の苗字は珍しく全国でほぼ一箇所に固まっている。
読みは同じで漢字が違う苗字の墓が一族の中にあるのは昔から知ってた。 多分分家なんだろうなと思ってた。
戸籍を取り寄せたらびっくり、俺の高祖父だった。戸籍上は同じ漢字なのに墓に書かれた苗字の漢字は同音の別の漢字だった。
そんな事もあるんだな。 正式な戸籍記録では今と同じ漢字の苗字なんだけど、今の漢字でも画数は多い方だが、旧漢字だともっと画数が多かった。 それで隣村では略字の漢字を使うことが日常になってたみたい。
その隣村から嫁さんが来て、嫁さんが建てた墓にその略字が使われてたと言う話。
今、その略字を使った苗字は全国でも隣村にあるだけ。 墓も見るのが手っ取り早いんだろうけど、古い墓は風化して読めない
何とか読める一番古いのは文化何年と書いてる
更に古いのは自然石を墓石にしたような感じだわ
南北朝時代から続く家柄で、自宅が国の重要文化財になってる家に時々行くんだけど、文化財課や図書館の調査した資料があるので自分で調べなくて済むし確実だな
南北朝や戦国時代の事は現実離れした話だと思ってたが、そのお宅に行くと妙に身近に感じる 王来王家、皇、神の名字はすごい由緒正しい家系な感じがする。 >>876 略字じゃなく当て字かな、同じ読みの全く別の漢字だった。
それとは別に戸籍調べの中で物凄く珍しい漢字の苗字の嫁が入って来てた。
どう読むのか最初は全く解らなかったが、ようやくわかったのは、これは難しい漢字の略字だった。 非常に珍しい。 漢字変換でも出てこない。
うちの苗字も昔は出てこなかったが、何度もいろんなのに登録を繰り返してようやく最近は出てくるようになった。
あるサイトの全国人数の数字(実際は数倍は多いとは思うが)
俺の苗字 410人
同音当て字 140人
珍入嫁の苗字 30人
>>877 墓は光の当て方を工夫して撮ると字が読めるようになるよ。 従五位下遠江守は南北朝時代の俺の先祖の官位。
もう一人の俺の南北朝時代の先祖に従五位下右京亮がいるから、こんどはこっちコテハンにする。 >>878
王来王家
奥岡と語源をともにする。現三重県である伊勢発祥ともいわれる、弘文帝子孫。近年、三重県などにみられる。
皇
滋賀県、千葉県にみられる。滋賀県東近江市の浄土真宗の浄願寺が由来。皇花山の「皇」の文字が語源ともいわれる。
神
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 >>880 コロコロ変えられると困る、それで固定してくれ。
うちの先祖も南北朝時代は従五位下だった。
墓参りしてたら、日露戦争の時に死んだ曾祖父さんの弟の墓の書は上司の少佐が書いてたが、少佐は正六位(従五位の下)と書かれてたな。 明治時代まで位階が続いてたのに驚き。 >>870
漆喰は誰でもまず一番に考える。誰でもね
でも、馬鹿じゃない限り漆喰ではないってことが分かるんだよね
それは追々教えてやるよ
それとも漆喰であることを証明するか?
それはお前の自由だぞw
お前さ、ここの嵐だろ。ここの三分の二は書いてるな。
名主がどうのとかやってたが、今は秀衡龍の嫡流だの
よくやるわ
で、>
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。
↑ これ笑えるわ。お前が自演でやってるんじゃないか
>>882 も自演。ふざけんなよ糞野郎 病院に行けって勧めてるのに段々酷くなってきてるな。 >>881
神は結構由緒正しい感じだな
皇が意外とそうでもなかった >>886 そもそもそんな氏族は、かなりインチキくさい。
(でも直系先祖を辿れるのならここの話題だけど、本人が出てこないことには話にならない。 しかしこんな所で自分の苗字を晒すか?)
本姓(氏)は新撰姓氏録(815年)に書かれた1182の氏姓には当然出てこない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
いずれにしろその辺の話題はすれ違いだろうな。 それらの話をするなら、
古代豪族の氏姓に関連した苗字の現代人
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/min/1326776604/ 何度もいうが、
その身分継承した直系の【家】の子孫だけではなせや 俺と父、父と祖父、祖父と曾祖父、曾祖父と高祖父ってけっこう歳離れてる。
俺若造だけど俺の高祖父くらいになると幕末になる。
俺の高祖父は某藩士。俺の祖父の母の父も同藩の藩士。
曾祖父と曾祖母は養子で、曾祖父と曾祖母の養父の父は別の藩の藩士だった。 直系も傍系も血の濃さに変わりはない
長男か弟かの違い 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、他の家で養子になってて、跡継ぎの息子作ってから、俺の家の養子になって家督継いでる。 江戸時代の直系は7割養子でしょ 庄屋クラスw以上なら
直系とかあんまり意味ないよ 問題は自分から何代辿れるかだね
旧家でも10代遡れる人はかなり少ないと思う 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、○○屋○○右衛門の養子になってる。
この○○屋は商人で、図書館に行くと、○○屋○○右衛門と代々名乗ってて、武家に金貸したりしてる。
金貸し屋だったみたいだ。
江戸年間、この○○屋○○右衛門の息子が武家の養子になったりしてる。
図書館で見た。
こんなに金持ちの跡取りになったのに、俺の曾祖父は俺の家の養子を選んだわけだ。
やっぱり金持ちの跡取りより士族の身分を選んだのか? >>890
なにいってんだこの馬鹿
血の濃さなんぞ、なんの意味もねえから、いってんだよゴミ
家なんだよ家 俺の父の父の父の父の父の父の父から代官手代やってて、俺の父の父の父の父の父から本家の代官手代の手代みたいなことしてる笑笑
古文書見ると、出納帳の作者が俺の父の父の父の父の父の名前になってる。
本家の代官手代の仕事を分家がしてるから、代官手代の手代で合ってるよね? >>892
この糞低学歴が
養子だらけだから、家の直系かどうかなんだよボケかすが
血筋だけなら、
お前らみたいな雑魚先祖とちがい、
余裕で国人領主も近い先祖になんねん
で、だからなんやねん?
他人やないかい
糞きもちわりー ○○屋○○右衛門は武家に養子送り込んでるけど、その武家の家系図に
穂積姓 鈴木氏
重恭 実は渡辺忠左衛門泰綱次男
みたいな感じで書かれてある家系図をめくっていくと
重紀 実は○○屋○○右衛門三男
とか書かれてあると、どうなんだろうね?
最初は、お!ニギハヤヒの子孫か?ってなって、次に
お!源綱の子孫か?ってなって、次に
え?○○屋の子孫?
ってなるんだろうか? 直系って相続とか殿様からもらってるポジションの承継にだけは意味があるけど
子孫にはあんまり関係ないな
長男ばかりの世の中ではないし
養子を取ったことのない旧家など一個も存在しないとおもうけど
君の家は何県なの? 俺の曾祖父は養子で家督継いでるけど、時は明治年間だったから家に拘らなくてもよくなったのか、養父の家系の代々の通字ではなくて
実父の家系の代々の通字を諱に使用してるよ
通例上、養子は実父の通字ではなく養父の通字を使用する
例えば鈴木重紀の三男の鈴木重安が渡辺紀綱の養子になったら渡辺安綱となるように
この場合、安綱は穂積ではなく源氏を称する
しかし
鈴木重勝の次男の鈴木重宗が斎藤利安の養子になって斎藤重宗だったら、この場合重宗は穂積姓なんだよな
たぶん
俺の曾祖父は源氏の通字を養子先で諱に使用してるから、養子先が平氏でも源氏なんやと思う
たぶん >>899
そら身分継承できない他人たる子孫にとっちゃ意味ないだろうな
身分継承すらできない他人の家の子孫だから、血にアイデンティティー見いだしてしがみついてんだろうから。 >901
正解。
先祖にアイデンティティーを見出すスレなのよここ
あなたみたいに他人の家系を貶すような人間は、リアル世界でも友達ゼロだろうから、長男に生まれたことだけを誇りに2ちゃんで輝いてください リアル世界で友達ゼロだから先祖自慢しかないんだろうな
ガチの名家の人で先祖自慢してる人は見た事ない 江戸幕府以前は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子に入っても鈴木次郷となって本姓も藤原次郷で家系図も鈴木次郷が初代だった
江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になる
江戸幕府前後で概念が変化してる >>903
ガチ華族の子孫が友人だが、いたるところで先祖の話ししとるで 江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になって鈴木重次は初代とならない >>903
吉良上野介も、
いや、現代も池坊も、めっちゃ内部で先祖自慢してんだが?
家柄いいやつは自慢しねえとか、
なら官位争奪戦なんか必要ねんだバーか
底辺は上流階級を美化視観でしかみれないよな
自分が底辺の醜い世界にいるから >>902
何度もいうが、
長男が絶対ではなく、
身分継承された【家】の直系であること。
馬鹿で低学歴で底辺出自の無能だと、
ここまで説明しても血統の話になるんだな
町人風情が 足利氏の義とか北条氏の時とか通字って、源氏とか平氏の本姓と同じ程度に、先祖調査の素材になるよね。
例えば、織田信重さんの場合、信重さんの家の家系図は平姓織田氏だと想定できる。
例えば、信重さんの父親が源氏からの養子だったとしても、その信重さんちの家系図は、平姓織田氏の家系図で、
信重さん自身も平信重と称してることを想定できる。 織田信重さんの諱の信重の信の字は、平信重の本姓の平の字と同程度に先祖調査の素材となりうる。 俺は士族の子孫だけど、先祖に藤原鎌足いると言うとおぼっちゃまなの?ってよく返ってくるがポカーンとしてしまう
士族の子孫の友達沢山いるよ、暴走族卒業して今は馬に乗ってたりしてる
固定観念じゃ先祖調査なんてできないよと忠告しておくね 意外と宗派も先祖調査の素材になるうる。
そういえば室町中期から宗派変化してない。
室町中期からそうどうしゅう()なぜか変換できない >908
何だお前直系の本家の長男じゃないのか
すっこんでろ傍系 >>912
先祖に鎌足なんてほざいてる家って、
戦国以前は非人レベルだろな ››903 905
1:いったん、華族の子だと誰かからバレると、歴史好きな人に色々聞かれる。
2:その人自身も歴史好きなら、つい楽しくなって歴史の話を色々する。
3:すると、先祖が色々な場面で登場してしまうので、自慢話のようになってしまう。
っていうオチだろうな多分。すっごいわかるわ、それ。 >>915
非人って旅芸人とか托鉢僧とか白拍子とかだぞ
わかってる? ぜんぜんちがうで
俺のおじいちゃんは東京駅を作ったとか、みずほ銀行を作ったとか言うで
今度は五千円札の人物になってるでとか言うんやろーな
聞いてもいないけど言ってくるで
ちな元ヤンやで
でもな、俺も士族の子孫やからそんなの自慢とも思わんし、単なる自己紹介やろ、単なる自己紹介を多めに見れんのか? >>903 逆だよ。 実社会では先祖自慢なんてしない。 こんな所でしか先祖のことなんか話せないよ。
しかし、家族にはしっかりと伝える責任はあるよな。 女性と近づきになるとさり気なく歴史話のふりして語っちゃうけど
ふーん以上の反応は得たことがない >>913 そうそう、寺の宗派と家の家紋は小さい時に教えられてたけど、家紋は覚えてたけど寺の宗派は自分がその立場にならないと思い出せなかった。
この二つだけは覚えておきなさいよとお袋に言われてた。
また、寺が50年以上経っても年回忌の催促をするというのも初めて知った。 自分の名前は珍しいから、自己紹介するときには名前の由来を話すが面白い由来だから楽しく聞いてくれるよ。
覚えてくれること抜群。
とは言っても酒の席みたいに砕けてる時にしか話さないけど。 自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。 自称○○の子孫と語り、子に教える。
教えられた子は、薄々気付きながらも虚勢を張って○○の子孫だと言い張る。
その子が親になり、自分の子に○○の子孫の称号を伝授…。
死んだ祖父の嘘を孫は鵜呑みにして胸を張る。
が、いずれ歴史に詳しい知り合いに出会い 矛盾ばかりの話を笑われて恥をかいて終了。
↑基本はこんな感じです。 産まれがいいというだけで許せない
わかるよそんな気持ち このスレで改行が反映していない書きこみをしているのはみんな同一人物。
庄屋馬鹿だよ
改行が反映せず、ブラウザの幅を広げると行がズラズラといくらでも伸びる。
こういうふうになるには条件がいくつかあるんだな。
庄屋馬鹿に教えることになるから書かないけど。
改行が反映しない書き込みをしている数だけでもすごいし、内容的にそれと関連
させた自演が明白なものまで含めるとたいへんな数だな。 言わせておけばいいじゃん
そういうの読むのが楽しい人もおるんよ 馬鹿は改行が反映していないのにも気づかず
さらに、鼻で嗤われてるのにも気づかずバレバレの自演を繰り返す
>>927 とこれに続く >>928-929 とか あまりにも下手すぎて惨め
発達障害なんだろうな このスレ立てたのは庄屋馬鹿だよ。1.の文章は改行が反映していない。
次スレ立てたってまた同じだよ
子供のお遊びに付き合うだけのこと 嫉妬厨は、みんな自分の敵だと思い込んでるから全て一人の人間が書き込んでると思いこんでるんだな。 >>935
改行が反映しない書きこみなんかめったにない。
馬鹿だからそんな書きこみになってしまうわけなんだが、
よほどの馬鹿でないかぎりすぐに気付く。
ズラズラとみっともない改行なしの書きこみを続けることなどない。
ここの改行なしのお馬鹿書きこみは
超絶的な馬鹿であるお前しかいないんだよ
馬鹿の極致だ、お前は
馬〜〜〜〜〜〜〜〜かwww いいからお前は自転車置き場の仕事探せって
他人の家系に嫉妬してないで 何が他人の家系に嫉妬だよ
改行もできない馬鹿が(大笑 >>938 この嫉妬厨が使ってるブラウザが変なんだろ。
大昔のブラウザでも使ってるのか? ガラケーか?
改行しないように見えるなんてお前だけだよ。 そーゆーことにしておけばいいよ
改行してないように見えるのは一人だけ
面白くてたまらんわw JuneStyle で見ているが
>>935 は1行で40文字を越えているから
長く見えるよ JuneStyle だってw
学校行ってない馬鹿 イコール 庄屋馬鹿 何たる馬鹿
一行の設定が長かろうと短かろうと、改行が反映しているなら改行するわ
JuneStyle(藁 だって何だって変わらない
しかしこいつはどれほど低脳なのか、、、底が知れない。呆然とするわ 家系とか
なぜラーメンの話ばかりしているんだよ、
と言っている人がいたでしょ
ナルトという作品の話? >>942 はJuneStyleを画面いっぱいに拡げて見ているから
画面を縮めればそりゃあ自動改行される罠 >>936 こいつが言ってることがようやく解った。
嫉妬厨=妬み爺=長文連投バカ が使っているブラウザが漢字44文字で自動的に改行が入る様だ。
めったに見ないってそりゃお前が長文連投を続けてるからだよ。 逆にお前の書き込みを特定するのには便利だ。
多分ガラケーの専ブラなんだろうな。
2chの書き込みルールとしては、文の途中で改行を入れないと言うのが一般的であってお前がルール違反を犯してるんだよ。
これはHTMLの基本ルールでもある。
>>1 が自分の敵だと思うなんて完全にいかれている。 >>1 の1行目が57文字になってるから敵認定するなんて馬鹿げている。
歴代のスレを見てみろ、初代スレから全て同じ文をコピペしてるだけだから全て57文字だぞ。
自分がおかしいのに、自分は正しい、人が間違っている と思い込むのはやはり病気だよ。 自己中すぎる。
おれは JaneView 。専ブラは殆どJabe系列だから由緒正しい血筋だぞ。
表示欄一般に長く表示するよ。 表示の横幅をオーバーすれば自動的に折り返すがそれは改行じゃないぞ。
iPhone のBB2Cでも同じ。
多分お前のブラウザはガラケーだろう。 今時変なところに物理的な改行を入れるような専ブラは無い。
それに横幅設定が有ったとしても今時44文字で自動改行するなんてガラケーしかないだろ。 >>949
苦しそうだね
JuneStyleかぁww
JuneStyleは知らないけど、改行反映してないぞ
ある特定の書きこみだけだな
お前、こんなスペルも書けず NARUTOにいれあげ 信長の野望で得た知識(?)で
書きこみって、もう行くとこまで行ってるじゃん >>951 絶対に自分の非を認めないで人の上げ足を取るバカ
過ちては改むるに憚る(はばかる)こと勿れ(なかれ) そのパワーを自転車置場の整理に向けろよ
名家に生まれたくらいの金が入ってくるぞ 一行が何字であろうと改行が反映していれば改行するって
ブラウザのせいにしても無駄だわな
JuneStyleってブラウザは知らないけどww
で、お前はNARUTOの奈良一族なんだっけ
どうやって嫉妬すんの?w >>954 まだ見苦しくあがいてるな。 先ず改行と折り返し表示とを区別して言葉を使えよ。
改行が反映だなんて造語は解らん。 改行なんかするかアホ。
普通のブラウザは読み込み書き込みどちらの場合でも改行コードを挿入することはない。
横幅オーバで折り返し表示をしているだけ。
お前が使ってる専ブラの名前を言ってみろ。 ああ、誤字の指摘ありがとうございます
u→aですね
これは恥ずかしい
では 安倍晋三、実は男系だと安倍家ではなく椋木家
石原伸晃、実は男系だと石原家ではなく服部家 ジェーンスタイルでなくても改行が無い書きこみは分かる
(942でJuneStyleなら分かると自分で教えてるんだもんなこの人w )
それにしてもものすごい数書き込んでるな >>956
と、他人のふりをして去っていく庄屋さんの御子孫w チビは百姓の子孫です
武士の男は基本的に身長180cm >>958 争点がずれてるよ。わかるわからないと言う話ではない。
941・942なんてあまり書き込んでいないだろ。 誰と一緒と思ってるんだ?
言い出しっぺは、嫉妬厨が、(44文字以上の) 長い文章には改行が入っていないから書いてるのは全て庄屋何某だと言い出したこと。
挙げ句の果ては>>1 まで庄屋何某だと言い始めた。
長いのはすべて庄屋何某だとさ。
それに対して、941・942 はJaneStyle でも長くなるよと言う話をしただけだろ。
JaneView 、BB2C でも同じと言う話がその後に続いた。
固定長で改行(<br>)を自動挿入する専ブラなんて最近は聞いたことない。
(昔そんなブラウザがあり非難轟々になったような気もするが)
要は嫉妬厨のブラウザが勝手に改行コード<br> を書き込むのが正しいと嫉妬厨が思い込んでたと言う間抜けな話。
<br> を書き込んでいない投稿は全て庄屋何某の投稿だと決めつけている。 バカ丸出し。 >>930 が嫉妬厨の持論だった。
嫉妬厨以外は全て長くなって当たり前なのに、長いのは全て庄屋何某が書いてると、妄想を膨らませていた。
逆に嫉妬厨だけがおかしい事に気がつかないバカ。 >>961
お前さあ、ブラウザのせいにしてていいのか?
お前の行がズラズラ出てきてしまう文章はたしか前スレからだったぞ
結果として舞台で後ろ向きになって手品をみせてるマジシャンみたいなことになった。
目印付きで自演とかキツイわ
みんなが笑いながら見てるんだぜ
どっかで何か踏んでないか?
2/5ちゃんの怖さを知らないんじゃないかな
ま、お前がそれでよければいいんだけどさ >>963 いつまでも自分の無知を認める事ができないんだな。
どこまでも自分を正当化しようとするのは病気。
このスレじゃなくて全く関係無いスレでも覗いてこい。 世間の常識というのを勉強して出直せ。 JuneStyle だって。
馬鹿だよなw
世間の常識というのを勉強して出直せ。だって。馬鹿だよなw June StyleじゃなくてJane Styleの間違いじゃない? うちに閉じこもってないで全く関係無い社会を覗いてこい。世間の常識というのを勉強して出直せ。
とか親爺さんにいつも説教されてるんだろうな。
なんせNARUTOで頭一杯だからなw >>965 >>968 自分の非は絶対に認めない嫉妬ジジイ
逆に上げ足を取るところなんて、
子供がお前の母ちゃんデベソ
と捨て台詞を言ってるのと同じ。
良い歳こいて少しは恥と言うものを知りなさい。
NARUTO とか信長 なんて妄想してる所も病気そのものだな。
>>967 既に >>956 で訂正してるのに嫉妬厨はしつこい。
さらにこの嫉妬厨は、いつも全ての敵は一人だと決めつけるから、JaneStyle と JaneViewを使ってる人を同一人物と妄想逞しくしている。
こんなものを二つ使うバカはいないだろ。 百姓顔 : ビートたけし、渥美清、秋元康、渋沢栄一、伊藤博文、ヒカキン、星野源、浜崎順平、長谷川亮太
武士顔 : 東郷平八郎、夏目漱石、美輪明宏、三船敏郎、林遣都、山田孝之、吉沢亮 >>969
その言葉そのままお返しします
自分は>>967が初めての書き込みましたんで決めつけているのはあなたの方です
また前の訂正したレスを確認せずに書いてしまったことは謝罪します 武士:二重瞼、酒豪、毛深い、長頭、彫りが深い、エラ張り、痩せやすい
百姓:一重瞼、下戸、無毛、短頭、のっぺり顔、エラ無し、太りやすい >>971 勘違いしてるよ。 JaneStyle の訂正は既に済んでる。 という話はそれで終わりで、
それなのに嫉妬厨は>>965で上げ足取りをしててしつこいと書いたつもりだけど、勘違いされても仕方なかったかも。 ごめん。
訂正してくれたあなたを嫉妬厨だとみなす訳がないでしょ。 武士は縄文の血が濃い 百姓は朝鮮の血が濃い
有史以来、常に支配階層にあったのが縄文系先住民 >>971 と >>973 は自演w
一方で武士の顔がどうのこうのとはじめました。
いつものパターン >>976 ますます病気が進みつつあるな。 嫉妬厨の病気の特徴、自分以外は全て一人の敵の仕業だと思う被害妄想の重症。
早めに病院で治療した方が良いぞ。 認知症が合併症として現れ始めると大変なことになるぞ。 縄文人は半島から逃げてきた朝鮮系弥生人を武力制圧し奴隷化した >>978 お前も下らん話でアラすのをやめろ。 スレタイを見直してこい。 俺の曾祖母の実家の先祖は
戦国時代に一時的に某戦国大名を隠居させて、隠居させた大名の息子を傀儡して、
一時期だけ実権を掌握してた
今ではカリスマ的人気を誇る某戦国大名の父親がその傀儡されてた戦国大名の息子なんだが、その人に結局戦争で負けてしまい他家の家臣となる
俺の曾祖母の先祖は、戦国時代だから当時は家老という役職は無いが、軍師的な重臣だ
俺の曾祖母の先祖の、弟子の、そのまた弟子が、カリスマ的戦国武将の軍師だ
詳しくは書けぬ
俺の遠い親戚には、刀剣乱舞で萌えキャラになってる人物がいる
彼の先祖のことは世間はあまり知らないだろう
俺は知っている何故なら俺の先祖から分家した人物だからだ
彼の血筋の先祖は藤原姓斎藤氏だ
彼の先祖は途中で他家の養子になっている
その家は橘姓だ
だから彼の父親は橘という本姓を刀身に切っている 朝鮮人はムシケラだが農耕奴隷として価値があったので生かしておいただけ >>980
ああ、これNARUTOだわ
ナルトそのまんま持ってきてるのか >>980
ここは先祖探しのスレなんで先祖の自慢話とかやめて下さい。
基本、先祖が分かった人は用はないです。
先祖探しのエピソードならいいけど。 なんで掲示板で先祖が探せるんだよ
私が君の先祖ですとか言ってくる人おるのか >>985
スレタイ読める?
なんでこのスレに来た? 顔面で武士かどうか一瞬で判別できる
自信ある奴はうpせよ >>985 お互いに先祖探しのエピソードを出し合って先祖探しのヒントを得るのがこのスレだろ。
はっきりした血族家系と言うのなら、自分から1世代ずつ遡って全ての先祖の名前を言えるか? なるほど。そういうことならやっぱり新撰姓氏録に頼らざるを得ないんじゃねーの 私の名字の由来
現熊本県である肥後国阿蘇郡が起源(ルーツ)である、最古の皇別神武帝子孫の阿蘇国造家。諸国に多い。語源は麻の産地、浅瀬、アイヌ語で燃える岩山の意などの諸説ある。山形県などの東北、関東等に多い。 >>961
>固定長で改行(<br>)を自動挿入する専ブラなんて最近は聞いたことない。
こいつものすごい馬鹿
改行の自動挿入の話なんざ誰もしていないわけだがw
そんな話に持って行くしかないんだろうな。
原因が掴めないんだろ。可哀想に、、、、
お前が行の途中で改行コードを入れても、それが読み手のブラウザでは反映しないんだよ。
今だってそうじゃないか。
これは書き手側に原因があるんだ。
実はお前の方である条件が二つ重なるとそうなる。
教えてやらないけどな。
まあもう少し頑張ってごらんw
普通の知能の人間なら解決できるはずだ。 伊達正宗の父に伊達照宗という人がいて、伊達照宗の父に伊達春宗という人がいて、伊達照宗の父に伊達種宗という人がいて。
その伊達種宗と伊達春宗と伊達照宗の三代の重臣だった仲野日立守藤原宗時がいて、その仲野日立守の同族に、ワイの曾祖母の先祖である立野越後守藤原胤則という人がいた。立野胤則は千葉盛胤の家臣になって、胤則から四代の胤茂まで胤の字を貰ってた。
立野越後守の先祖は南北朝時代に立野左京亮藤原安朝といい、立野城を築くまでは、元は仲野左京亮と称して、伊達種宗の南北朝時代の先祖である、伊達雪朝の家臣だった。
先述した、仲野日立守藤原宗時と仲野左京亮藤原安朝は伊達家と同じく男系は藤原氏であるが、家系は
鈴野三郎穂積重家の遺児、亀丸の子孫である。
鈴野氏は源吉経の家臣で欧州藤原氏の平泉に向かう途中、遺児亀丸は欧州にとどまった。
亀丸はとどまった土地の地名を名乗り仲野を苗字とした。
その子孫が伊達家臣となり、伊達家臣時代から藤原氏を称するようになった。その子孫が、
仲野日立守藤原宗時と立野越後守藤原胤則とワイである。 >>997 で、ワイは何代目なんだ? 本家だと何代目ははっきりしてるだろうけど分家になると何代目かわからないケースがほとんど。
つまりそう言う状態は、直系先祖を辿れていないと言うことになる。 それを調べるのがこのスレの目的。 何代目かって別に気にならない
落語家じゃないんだから
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