邪馬台国畿内説 Part341

レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆UiepmfCeDJqf 2018/04/14(土) 04:45:34.50
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523300594/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

0952日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:04:37.28
またザラコクはウソばかりついているな


 

0953日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:07:18.17
>筑紫には八咫鏡の根拠があったことも。

いや、無いだろう
いくら聞いても答えがないもの

0954日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:12:41.92
>>947


で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と亀卜は?


で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?



即、言えおまえ!

0955日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:19:59.79
>>917
>>須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓<

>早良国(仮称)の吉武高木遺跡の特定家系墓は王墓に数えるのはやめたのかい? <

紀元前であり、金印の倭奴國王の前だから、100余りの国時代であり、全域統一的国王ではない。

>>玄界灘沿岸の稲作文化 <

>菜畑遺跡が最古なのは多分正しいけれど、弥生時代草創期の段階で東北の垂柳遺跡まで水田稲作は伝播してるよ?<

津軽は、沿海州からの別個の稲作伝搬があった、という説と、
神武に負けた安日彦長脛彦兄弟が、稲穂を持って行って、稲作を伝えた(稲荷神社)、
という両方の可能性がある。

>鉄器使用と稲作文化は弥生文化の特徴であって、北部九州が特別って訳ではない <

大和には鉄鏃すらなかった。

>弥生時代は深さ1メートルを超える川は灌漑に利用できなかったし、小河川が多く分布するところから、拓けていった<

雨量さえあれば、上流に堰を造ったり溜池を造って、灌漑は出来るのであり、問題にならない。

>>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材<

>宗像神社のご神体は八咫鏡だけれど 、和歌山の日前神宮の日像鏡や
國懸神宮の日矛鏡のような、伊勢の御神鏡との縁起は何もない <

紀伊はその名の通り、「姫氏=キ氏」と、
「伊氏=阿毎氏、壹、一、五、委、倭、怡、糸島の伊都国」などの氏であり、
卑弥呼や伊都国の合同東征地。

0956日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:25:59.49
>>917
>>金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。<

>王「たち」じゃないね
確認できるのは卑弥呼の200年前の「漢倭委奴國王」一人だよ<

漢代は100余りの国であり、卑弥呼の頃にも30国があった。
それに引きかえ、大和は、
倭国の東征に拠って出来た「地方の市を監督する大倭職」の旧小国であっただけ。

0957日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:34:07.64
筑紫平野の米は長粒種だから、菜畑や板付の短粒種とは別系統の集団の伝播だな

0958日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:44:20.12
>>949
>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
>ぜんぜん別モノだろう

それで正解だと思うんだけれど、邪馬台国=伊都国説の連中は、
平原1号墓出土鏡を卑弥呼の鏡にしないと他に根拠がまったくないから、
鏡の周長が八咫だから八咫の鏡だって言って聞かないんだよ

お鏡(岡上)さんを筆頭にしてね

0959日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:49:07.98
>>919
>平原遺跡の鏡がまさに径二尺 たまたまだろ?
他の鏡の円周を測るのに、「咫」という単位は何の役にも立たない
そして、実際「咫」の字は長さの単位としては事実上使われておらず、
「咫尺」という熟語としてしか使われていない<

「咫≠咫尺」。
「咫」は、説文解字に「女性の手の大きさ」という説明があった筈。

>「咫尺」は日本の辞書にも載ってるよ<

「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない。

>「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味
類例 八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋 表す八を使った<

「八≠八咫」であり、「八」は当然「一」より大きかっただけ。

0960日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:57:09.58
>>927
>倭國の女王じゃないってだけでさ<

平原は、倭国の女王であった可能性は非常に高いが、
大和は、「南≠東」などの嘘吐き騙しや、
倭国の東征で出来た「地方の市を監督する大和職」の旧小国や、
明帝の下賜の21枚の「尚方作」鏡も全く出土しない、田舎であったんだからさ。

0961日本@名無史さん2018/04/21(土) 14:59:47.48
>>955
根拠がひとことも書いてない
・・・これだから九州説はw

0962日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:02:55.78
>>955
>>宗像神社のご神体は八咫鏡だけれど 、和歌山の日前神宮の日像鏡や
>國懸神宮の日矛鏡のような、伊勢の御神鏡との縁起は何もない <

>紀伊はその名の通り、「姫氏=キ氏」と、
>「伊氏=阿毎氏、壹、一、五、委、倭、怡、糸島の伊都国」などの氏であり、
>卑弥呼や伊都国の合同東征地。

伊勢志摩が伊都志摩からの移転であることは容易に想像できる。
ただ、伊勢は伊都のような都ではない。

0963日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:03:44.10
>>934
>八咫烏はどこが八咫なんだ?<

鳥なら、羽を広げた時の両先端間の長さなんだろうが、
烏にそんな例があったのか?は不明であり、
神武らの武勇伝伝承に有りがちな、「誇大表現」であった可能性が高い。

09645ch”管理”人2018/04/21(土) 15:09:17.29
>>1
次スレはオカルト板に立てて下さい。

0965日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:12:30.31
管理人さんからの教育的指導ですね。

0966日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:13:25.44
こういう名前欄の無駄なナリスマシはキウスでいいんだっけ?

0967日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:16:40.49
>>959
ザラコクって本当にバカww

>「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない。

「咫」の字が「咫尺」という熟語でしか使われてなくって、長さの単位として
使われているところが事実上皆無だっていう話

一咫も、二咫も、三咫も、四咫二寸も一切ない

その状態を確認した上で、八咫という長さに意味があるというのはナンセンスだ

0968日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:21:24.50
平原から出たマンホールの蓋が八咫鏡だってのは学問tに根拠なし

ということで、FA?

0969日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:37:38.95
>>941

146を2πの6.28で割ったら23.248で大体
1秦漢尺だから
146を八咫にしたら1咫 18.25になって
1咫=0.79尺 まあ8寸でいちおう辻褄は合うね。

0970日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:39:01.91
>>936
>いい指摘だ<

存在もしなかった「大和朝廷」なんて文言を使っているから、×であるし、
半分偽書である「記紀」のおかしな伝承を論拠にしているから、×であり、
悪い指摘だ。

0971日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:42:52.29
>>938
>八咫鏡も当て字<

当て字として、「八咫」という寸法を特定使用する理由がない。
「八」も文字選択には、それなりの理由があった。

0972日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:44:43.59
理由って何?

0973日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:47:02.17
>>940
>「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味 類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋 表す八を使った<

「大きい」事を示す文字は、「八」だけではない。
「八」に拘るには、「人々を納得させるような」それなりの理由があったから。

0974日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:48:15.09
>>969
なんで秦漢尺なの?


あえて秦漢尺を選んで使う根拠は?

0975日本@名無史さん2018/04/21(土) 15:56:52.27
>>974
知らんよ。

純粋に円周の公式で計算したら
最も近いのが秦漢尺だね、って結果なだけで

注目するところはそこじゃないでしょう

今計算してみて自分でもびっくりしたけど
円周長として計算しないと
この1咫八寸は出てこないんだから

なんか意味のある単位だったんだろうね。
意匠が八葉ってことと何か関係があるのかもしれないね。

0976日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:01:37.21
>>941
>ていうかさ、円周が八咫だって言っている人は、1尺を何センチだと思っているの?
ウィキペディアさんだと
「戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
 漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
 文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
ってことになっているよ?
この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、
八咫=160センチになる
この周尺20センチが10寸で、咫が8寸なら、約16センチ=咫で、
八咫=128センチになる
どちらも、146センチにはならないぞ?<

天照時代は、紀元前1世紀の神武の5代以上前になるから、
周代かそれ以前であり、
説文解字に拠れば、「咫」は「女性の手の長さ(≒18cm位)」であり、
それが8寸位だ、という事だよ。
だから、逆に、1尺は18cmの10/8倍位になり、22.5cm位だ。

0977日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:07:54.49
>>942
>>古田さんの沖之島の発掘調査の紹介では、 縄文や弥生からの遺物があった<

>そんなものどこにでもある 沖ノ島の遺物は時期的に継続もしていない<

そりゃ、離れ小島であるから、断絶も有り得る。
しかし、紀元前1世紀の神武の5代以上前の天照が、田心姫命に任せた島であり、
縄文末〜弥生の遺物があっても、何らおかしくない。

0978日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:10:10.23
>>945
この狂った書き込みはwwかな?。
それともssnか誰かが、彼のナリスマシをしてるのかな ?。

どっちにせよ、議論に負けたし大和説者の荒らしだけど 。

0979畿内説Q&A2018/04/21(土) 16:13:35.25
Q: 箸墓古墳は誰の墓か?
A: 九州王の墓。

0980日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:13:56.44
>>977

半分偽書である「記紀」と言いながら、「記紀」の内容を根拠にするなパクリ土台人

0981日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:14:41.20
>>976
「八咫鏡」って言葉の初出はもっとはるか後世でしょ

そんな古代にする根拠は皆無

0982日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:15:18.62
>>945
>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう<

そもそも、倭人の中心勢力は、燕の南にいた倭であり、
そこへ、呉王夫差の遺民の姫氏が合流し、
更に、始皇帝の命令で流浪した民も合流しているんだろうから、
倭人は、周代の度量衡を知っていても、何らおかしくない。

0983日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:17:16.95
>>952
また大和説者は、「南→東」などの嘘がバレた事にも懲りずに、
ウソばかりついているな。

0984日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:22:15.23
>>958
>>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう<

>それで正解だと思うんだけれど<

正解ではない、と言っているんだけど・・・。
そもそも、倭人の中心勢力は、
燕の南にいた倭であり、
そこへ、呉王夫差の遺民の姫氏が合流し、
更に、始皇帝の命令で流浪した民も合流しているんだろうし、
卑弥呼の使者も「大夫」を名乗っていたんだから、
倭人は、周代の度量衡を知っていても、何らおかしくない。

0985日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:24:47.58
「周」を円周と解釈するのは
wikiにも書かれているように特殊な人たちの説だよ

0986日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:24:51.17
>>961
>根拠がひとことも書いてない ・・・これだから九州説はw<

幾ら根拠を書いて上げても、「根拠がひとことも書いてない」とのたまう。
・・・これだから大和説は、・・・・詐欺師w。

0987日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:30:54.27
>>979
クズ説の人ってどうしてそんなクズなカキコが出来るんだろうね

0988日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:33:31.19
九州説の立場でクズなカキコをして
地域間対立を煽るのが工作活動なんだよ

0989日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:34:07.08
>>986
根拠って言葉の意味を知らないザラコクが皆から失笑を買う

0990日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:34:12.94
>>967
>ザラコクって本当にバカww <
>>「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない<
「咫」の字が「咫尺」という熟語でしか使われてなくって、長さの単位として
使われているところが事実上皆無だっていう話<

説文解字では「女性の手の大きさ」という形容詞的な説明文言、という説明。
きちんとした「長さの単位」という書き方ではない。
従って「咫尺」は、「女性の手の大きさのような尺度」というような意味になる。

>一咫も、二咫も、三咫も、四咫二寸も一切ない
その状態を確認した上で、八咫という長さに意味があるというのはナンセンスだ<

「女性の手の大きさ」というようなものを、
「正式な尺度」であるかのように言い立てて、
それで誹謗するのは、ナンセンスだ。

0991日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:37:05.63
>>985
特に脳がな

0992日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:39:09.30
>>984
理由もなく言ってもダメ

0993日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:42:48.64
>>990
だから、八咫の鏡って言葉を使ったのは
一体いつの時代だと思ってるんだ?

0994日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:46:00.81
>「女性の手の大きさ」というようなものを、
>「正式な尺度」であるかのように言い立てて、
>それで誹謗するのは、ナンセンスだ。


じゃあ、そんなものを根拠にして
あれを八咫鏡だと言い張るのは
超ナンセンスなのでは?

0995日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:51:31.47
「この鏡はあて自身だす」ということ

0996日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:57:15.81
>>974
平原遺跡が漢末か魏に作られたなら、そこに葬られた鏡の大きさの基準が秦漢尺で何の問題があろうか。

0997日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:57:36.24
出しちゃイカンだろ

0998日本@名無史さん2018/04/21(土) 16:57:39.96
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都国が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、賢所に置かれている。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。

0999日本@名無史さん2018/04/21(土) 17:00:07.14
>>996
その頃に「八咫の鏡」って呼んだた根拠なし


廃案

1000日本@名無史さん2018/04/21(土) 17:00:40.81
特殊な人たちは連呼が習慣だからな

10011001Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 7日 12時間 15分 6秒

10021002Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php

レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。