邪馬台国畿内説 Part341
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523300594/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、纒向の外来系土器の中心である出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。阿波、宮崎や遠賀川の石神などもヤマト征伐に加担しました。
九州北部沿岸部の渡来人系勢力、畿内の勢力、関東東北の先住民はこれらの勢力に征伐されました。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒巻の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 >>62
>纒向の外来系土器の中心である出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。
実はその勢力のことを倭国(阿波)出自の「出雲忌部」、「東海忌部」と言います。 @阿波 >>63
>伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
それは忌部一族(海人族)が倭国(阿波)から船出して「ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎」へ進出したからですよ。 @阿波 九州において卑弥呼政権が成立し、逃げ出した天孫族が畿内に流入したんだよ。
それが2から3世紀における畿内の政変の正体だ。 >>67
>九州において卑弥呼政権が成立し
九州のどこで? @阿波 >>1
反論なし
もう話すこともないから落としていいよこのスレ
以下書き込み不要で 生馬(イケマ=アイヌ語の神の足の意):ガガイモ科のつる性多年草本、薬用植物
「吾が御子、平明らかにして憤まずと詔りたまひき。故、生馬と云う」出雲国風土記
出雲國嶋根郡 生馬神社 祭神 八尋鉾長依日子命 こんだけアホみたいなテンプレも見たことないw
内容も矛盾瑕疵だらけでうんざりだし(それが狙いか)、延々だらだらと連ねることで
権威を示そうなんて、いかにも畿内説学者にありそうなアホっぽさ
世間の感覚とずれすぎ えっ
このテンプレ文
学者が書いたとしたら相当なもんよ。指導教官三代にわたって汚名になってるレベル。 まあ、文系だと妄想と事実の区別がついていない
物語を書く人は結構いて
理系の人が見ればめまいがするような
研究報告はたまにある。 >>71-73
反論ひとつ出来ないで悪口いうだけって、ミジメじゃね?
w >>62
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました・・・<
「南≠東」などに拠って×です。 「出発方向 南≠東」説だから、国の位置関係ではないので
出発してしまえば後は案内人まかせでどこにでも行きます。
したがってどこでも ○です。 >>63
>魏志倭人伝 邪馬台国の官<
邪馬台国なんてありません。
>伊支馬は生駒。生馬。火の神<
「南≠東」に拠って×。
>邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
>邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。 <
「大和朝廷」もありませんでしたから、×。
大和は、筑紫倭国の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国だから、
邪馬壹國の官名に類似官名を使った事なら有り得る。
>ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。<
ヤマトは、倭国の東征植民以前は、出雲銅鐸祭祀系であったから。 >>73
でしょ。
これは明らかに無学な人間がでっち上げた似非科学の文章だよ。 >>64
>畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。<
畿内なんて、存在していなかったから、×。
>纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。<
倭國の東征後、大和で、
出雲銅鐸祭祀系の排除がほぼ出来て、
倭國の地方の市の監督者である大倭職が、「市を開設した」から。
>記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。<
大和朝廷はなかったから、×。 >>65
>実はその勢力のことを
倭国(阿波)出自の「出雲忌部」、「東海忌部」と言います。@阿波<
阿波も、元は出雲系であり、倭国の東征55国に拠って植民され、
そこへ楽浪系画文帯流民も画文帯も渡来して来て、混合状態になっただけ。 前スレ>>991
>その入り口の南側の地域に女王之所都や7万戸があった、という説であり、
>その後、朝倉や八女付近まで広がる、としておられた。
だから考古学的根拠を示さない限りその根拠はない 前スレ>>992
>古田説は、最初は、文献から邪馬壹國の範囲を推定され、
>それが、考古発掘に拠っても保証されて、
>現在も最も有効な説である。
「出発方向 南≠東」説は日本の考古学者を完全否定している
学者の研究成果を拒絶して、素人考えで年代を決めたり
集落の衰退、断絶がなかったことにすれば
どんな空想の人口状況でも作り出せる >>994
つまり大和説者の「人類の常識に反する非常識読み」では、
魏志の行程記載が全く解読できないわけだな。 >>71
>内容も矛盾瑕疵だらけ
その矛盾や瑕疵を、指摘すればいいんだよ
ただ「ある」って言い張っても、具体的に指摘しないと、あなたの頭の中にあるものは
他人にはまったく伝わらない
まあ、ケチを付けることだけが目的で、議論する気がない人は、こういう書き方をするけどね
さて、指摘できるかな? 行程解釈の中では「出発方向 南≠東」説が最もフレキシブルな、
というか「じゃ方向に字数割く意味あるの?」的な説なので
国の位置関係をどうこう言えるような説ではない
出発方向だけ厳守すればよい >>995
つまり、古田さんの、「戸数」比率を準拠にされた「邪馬壹國の位置比定」には、
十分過ぎる位の、根拠があった訳だ。 >>996
なら、どうして大和説は、国民や世間の3割しか支持がないのかな?。 >>85
>魏志の行程記載が全く解読できないわけだな。
本当に脊髄反射レベルだな
大脳がないんじゃないか?
ザラコクの主張
現実の地理と魏志倭人伝の旅程記事が合わないのは
目的地の方角ではなく出発方向を示しているからで矛盾はない
出発方向が示してあれば「あとは倭人の案内に従えば到着できる」
反論
「倭人の案内」がなければたどり着けないってことは
魏志倭人伝の記述だけではたどり着けないってことだから
旅程記事から比定地を求めることはできないな
この反論にまったく答えていないのがザラコク
まあ、ザラコクに何かを訊いても得られるものは皆無なのは分かってるけどさ 大阪で結成された「出発方向 南≠東」説は
九州の地理も地形も知らないので
土地勘がある人にとっては「はぁ?」と感じられてしまうことにも
薄々気付いていて、日本人には習慣がない連呼で対処するようにしている >>93
それ、糸島説も福岡説も、吉野ヶ里説も熊本説も、宮崎説も鹿児島説も
ぜ〜んぶ合わせた竹槍部隊でしょ?
単独で畿内説を上回れる?
無理でしょ 場所は畿内で確定してます
ここは畿内の邪馬台国についてより深い議論を行うスレです
※いまだに位置論争とかしてる異常者の相手をしてスレを潰さないでください .
我らが日本人種の祖先を中国から来た来たとサギブいている在日中華ジジイはいねえが?
いたら、そいつのブタみてえな南方ヅラに俺様のサイコガンで超特大の風穴を
開けてやるぜ。
早く開けさせろ!
土器キッドより >>997
>>比定地の話ではなく、単に平野部としての、長径での大きさとして言っている。<
>福岡平野は面積約 240kuだから25km×25km=625kuの広さはない<
実面積なんか計算していない。
見てもすぐ判り易いように、地図上での大体の広さを、
今宿〜大宰府〜和白の福岡平野位の範囲だ、と示しただけだ。
>「出発方向 南≠東」説では福岡平野の中央区以西を奴国としているので
さらに240kuの半分くらいの広さになる<
関係がない。
地図や地理上の大体の広さを示したのであり、
私の奴國の比定地は、三雲や平原付近から室見川中上流地域付近だ。
>当時の筑紫平野全域(1200ku)が現在の1/2の広さとしても
福岡平野の1/2よりはるかに広い支配領域だから関係がないことはない<
「当時の筑紫平野」の広さなんても、関係がない。
要は、吉野ヶ里との比較対象は、
「福岡平野中央部〜筑紫平野全域、及びその周辺丘陵地」だ。 >>998
「古田説は、文献からの推論が、考古発掘に拠っても保証された」が、
大和説は、 考古にもまったく根拠がないから、
国民の7割にも認めて貰えなかったんだよ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの国粋皇国史観の、
・・・・カルト信者の仲間内だけでしか通用しない大和説。 >>999
大和説者って・・・・人種は、国民にとっては全くの迷惑だなあ。 >>1000
排他的で殺戮戦争的な国粋皇国史観の大和説は、
オームや学会教育界や右翼マスコミや自民らと同じく、
唯我独尊で高慢でタカ派の、殺人戦争カルト。
怖い怖い。 >>72
大和説の学者が、「南→東」などの嘘吐き騙しをしているんだから、
世間レベルじゃ困っているんだ、からな。 >>76
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘をされても、
反論ひとつ出来ないで悪口いうだけって、
大和説は、ミジメじゃね? w。 >>78
(この投稿は、・・・・wwだな。)
魏志は、「南≠東」であり、「倭人在帶方東南大海之中」であり、
「出発説明+途中説明+到着説明」として国の位置関係がきちんとしめされているので、
出発した後は案内にまかせて、女王之所都に十分行けます。
したがって大和は×です。 >>104
イミフ
出発した後が案内まかせだったら
国の位置関係は、きちんとしめされていない >>83
>>(古田説は、不彌國のすぐ南の邪馬台国の)その入り口の南側の地域に、
女王之所都や7万戸があった、という説であり、
その後、朝倉や八女付近まで広がる、としておられた。<
>だから考古学的根拠を示さない限りその根拠はない<
だから、古田さんは、「ここに古代王朝ありき」などで、考古学根拠を十分に示された。 >>97
>実面積なんか計算していない。
>>936には、
>そうすると、70倍になるには、8.5倍位の一辺が必要であり、
>3kmの8.5倍は25km位。これは福岡平野位の広さ。
と書いているので
一辺が25km位の広さが、福岡平野位の広さ。 ということを書いているが
大阪「出発方向 南≠東」説の福岡平野の広さの感覚が実際の面積とは大きくかけ離れている
>三雲や平原付近から室見川中上流地
そんな狭い範囲に2万戸をぎゅうぎゅう詰めで押し込んだら
邪馬台国よりはるかに人口密度が高くなってしまう
なんの考古学的根拠もないので、日本列島の他の地域の人口密度も同じようにすると
とてつもない人口になる
>「当時の筑紫平野」の広さなんても、関係がない。
吉野ヶ里との比較対象で計算しているのは
70倍になるには、8.5倍位の一辺が必要で、3kmの8.5倍は25km位。
ということだけで、これが福岡平野位の広さだと間違ったことを書いている
当時の筑紫平野のほうが奴国分を除いた福岡平野よりはるかに広いから
有明海北部沿岸主体の比定となる 場所は畿内で確定してます
ここは畿内の邪馬台国についてより深い議論を行うスレです
※位置論争とかしてる異常者の相手をする奴も荒らしです >>104
大阪で結成されたフレキシブル「出発方向 南≠東」説の比定地には
出発方向後の案内人が連れて行った方向の根拠は何も示されていない >>84
>>古田説は、最初は、文献から邪馬壹國の範囲を推定され、
それが、考古発掘に拠っても保証されて、 現在も最も有効な説である。<
>「出発方向 南≠東」説は日本の考古学者を完全否定している<
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの考古学者なんて、
始めから・・・・であり、
そんな人種の「完全否定」など、何の価値もない。
>学者の研究成果を拒絶して、素人考えで年代を決めたり
集落の衰退、断絶がなかったことにすれば どんな空想の人口状況でも作り出せる<
考古学者であれ、学会教育界であれ、
史料事実などを否定抹殺して、
年代を決めたり、集落の衰退や断絶がやあったことにすれば、
どんな空想の人工状況でも作り出せる。 >>86
>>こんだけアホみたいなテンプレも見たことないw
内容も矛盾瑕疵だらけでうんざりだし(それが狙いか)、
延々だらだらと連ねることで権威を示そうなんて、
いかにも畿内説学者にありそうなアホっぽさ 世間の感覚とずれすぎ <
>その矛盾や瑕疵を、指摘すればいいんだよ
ただ「ある」って言い張っても、具体的に指摘しないと、
あなたの頭の中にあるものは他人にはまったく伝わらない
まあ、ケチを付けることだけが目的で、議論する気がない人は、
こういう書き方をするけどね さて、指摘できるかな?<
もう3回も、逐一指摘してあるよ。
しかし、「南→東」などの嘘つき騙しの精神的におかしいスレ主からは、
全くのように反応がない。 >>111
「南→東」と言っても、大阪で結成された「出発方向 南≠東」説では
「南」は邪馬台国の入口が接しているというだけであり
里数は国の外縁部間の距離ということなので
不彌國の比定自体が案内人次第であり、入口から邪馬台国が拡がっている領域も
倭人伝の記載から特定できるものではない >>87
>行程解釈の中では「出発方向 南≠東」説が最もフレキシブルな、
というか「じゃ方向に字数割く意味あるの?」的な説なので
国の位置関係をどうこう言えるような説ではない 出発方向だけ厳守すればよい<
魏志は、始めに「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という位置関係をはっきり示してある。
(という事は、「南と東」を間違っていない)。
だから、途中の「從郡至倭〜」の部分移動行程説明では、「出発説明+途中説明」を書いて、
それによって「到着」する事が説明してあればよい。
それを「出発方向だけ厳守」とかいう嘘つき騙しをする大和説者は、
当然嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>114
方向転換しても途中説明に書かないという古田説は
詐欺そのもの >>114
西日本は帶方郡の東南大海の中になる
北部九州は東南の少ーし南よりになる
「出発方向 南≠東」説の罵倒専門要員の説明では
倭人伝の行程記事の方向は「出発方向」だと連呼しているので、
次に来る人も「出発方向だけ厳守&案内人まかせ」となる >>90
>>(「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は)
魏志の行程記載が全く解読できないわけだな。<
>ザラコクの主張
現実の地理と魏志倭人伝の旅程記事が合わないのは
目的地の方角ではなく出発方向を示しているからで矛盾はない <
そんな事を言わないね。
「現実の地理と魏志倭人伝の旅程記事」はほぼ合っている、と言っており、
矛盾はほぼない。
>出発方向が示してあれば「あとは倭人の案内に従えば到着できる」<
これも、そんな事を言わない。
「出発説明+途中説明+到着説明」がきちんと書き分けられているから、
あとは倭人の案内に従えば到着できる、と言っている。
>反論 「倭人の案内」がなければたどり着けないってことは
魏志倭人伝の記述だけではたどり着けないってことだから
旅程記事から比定地を求めることはできないな <
出発方向や途中説明や到着説明が書かれているから、
万が一案内人や道標がなくても、
目的国付近までは行ける、という事になる。 >>91
大和説学者や、
安部政府や右翼マスコミや国粋皇国史観学会教育界らで結成された大和説は、
魏志の「出発説明+途中説明+到着記載」の説明方法も理解できないで、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をし、
「從郡至倭」の地理も各実距離も知らないので、
土地勘がある人にとっては「はぁ?」と感じられてしまうことにも全く気付かず、
日本人には習慣がない連呼で対処するようにしている。 >>92
>36%も支持されてたら最強説じゃね?<
国民の70%にも否定されているから、
大和説は、最悪説じゃね。 >>117
「出発方向 南≠東」説では、「循海岸水行」を多島海域は危険なので半島内陸行だと
しているので、「出発説明+途中説明+到着説明」の途中説明は
読み替え可で、やはり「出発方向だけ厳守」となる
到着説明は、「出発方向 南≠東」説では、邪馬台国の入口まで来て
投馬國と同様に行かなかったことになる >>104
>(この投稿は、・・・・wwだな。)
いい加減、俺の書き方の癖くらい覚えろよ
分かりやすいところでは、句点をつけたことは一度もないぞ ←根拠
こんな簡単な書き込みでも、俺はいちいち根拠をつけてる
ザラコクの全ww病もかなり重そうだなww
まあ、勝てない天敵だから、その気配だけでも怖いんだろうなw 聖徳太子は西洋人だと言われてるね
飛鳥の宮にはペルシャ人官僚がいたことがわかってるし
世界情勢に通じ「10人の言葉(10か国語)を理解した」のが聖徳太子
中国に行った時に、姓を聞かれてとっさに「I'm a〜」と言ったのが
「倭王の姓はアマ」と記載されたのは有名な話 >>94
>それ、糸島説も福岡説も、吉野ヶ里説も熊本説も、宮崎説も鹿児島説も
ぜ〜んぶ合わせた竹槍部隊でしょ?
単独で畿内説を上回れる? 無理でしょ<
九州説は、九州内の各地にそれぞれ女王之所都の推定地を持っていても、
ほぼ全部に共通して、
「南≠東」であって「女王国≒倭國は九州であった」、という事であり、
「大和説」の否定、という事でも共通しており、
だから、3割の大和説に比べて「九州説が過半数以上の支持」であるという事で、
勝っているの。 >>114
>魏志は、始めに「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という位置関係をはっきり示してある。
>(という事は、「南と東」を間違っていない)。
ということは、水行十日陸行一月の起点を帯方郡とした場合、邪馬台国は東南方向でなければならない
なのに、南至邪馬壹國と書いてあるということは、水行陸行の起点は帯方郡ではないということだ
つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している >>125
九州説は、投馬國から南に水行十日陸行一月移動解釈なので
「出発方向だけ厳守 南≠東」説とは違う >>95
場所は九州で確定してます。
ここは、「南→東」などの嘘つき騙しをして、
犯罪者的かつ・・・・的な大和説の宣伝に使われております。
畿内も邪馬台国も、史料事実には存在しない詐欺文言です。
ここは、それらの嘘つき騙しを暴くスレです。
いまだに「南≠東」の位置論争とかを拒否している異常者のスレを、
潰してください。 畿内説は「緩やかな首長連合」を想定しているので
それぞれ在地の首長が、祭祀女王を中心とした連合体制を利用して自国を統治する、
まだ連合に参加していない国は連合を利用せずに従来の体制で統治する、分権統治体制
九州地元説の、大和の政治的支配を受けていないという点ではあまり違いない
外交権の主体についての違い
「出発方向 南≠東」説の
渡来人が福岡から武力によって在来の住民を東征していき、畿内で産物を集めて
福岡の渡来人征服王に上納させていたという説は根本的に各説とは異なる >>105
>出発した後が案内まかせだったら 国の位置関係は、きちんとしめされていない <
始めに「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と、
大体の方向も間違えずに(目的地の)位置関係を示されており、
「從郡至倭・・・女王之所都」として、部分行程移動説明を、
「出発説明+途中説明+到着+付加距離日数説明など」の人類の常識的説明法で、
はっきり区別して説明されており、
案内人や道標があれば絶対だが、なくても、ほぼ目的地付近には着ける。 >>127
>九州説は、投馬國から南に水行十日陸行一月移動解釈なので
じゃあ、投馬国はどこだよ?
それと、九州説はいいけど、九州のどこなの? 127の邪馬台国は? >>130
>大体の方向も間違えずに
大体の方角じゃ行き着けないんだよ
ザラコクさんのいうのは、「出発方向だけで、
あとは案内人任せでどこをどう曲がったのかも記録してない説」なんだから >>131
九州説は地元説だから投馬国を有明海北岸地域に比定して
陸行一月を一日と解釈する説もあれば、
投馬國を熊本南部とし、南に移動だけれどもなぜか宮崎へ方向転換などさまざま
とにかく九州内で移動する
「出発方向だけ厳守 南≠東」説や伊都説は半島内を移動する >>108
>>実面積なんか計算していない。<
>>>936には、
>そうすると、70倍になるには、8.5倍位の一辺が必要であり、
3kmの8.5倍は25km位。これは福岡平野位の広さ。<
と書いているので
一辺が25km位の広さが、福岡平野位の広さ。 ということを書いているが<
始めから「位」という概数的な類似例として書いているだけ。
>大阪「出発方向 南≠東」説の福岡平野の広さの感覚が実際の面積とは大きくかけ離れている<
始めから、古田説の「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」に、
7万戸が入らない、という非難であったから、説明が判りやすくなるように、
吉野ケ里の大体の大きさと大体の戸数を根拠にして、7万戸が入れる範囲として、
福岡平野として、今宿〜大宰府〜和白位の範囲を示して上げた。
>>(奴國)三雲や平原付近から室見川中上流地<
>そんな狭い範囲に2万戸をぎゅうぎゅう詰めで押し込んだら 邪馬台国よりはるかに人口密度が高くなってしまう
なんの考古学的根拠もないので、日本列島の他の地域の人口密度も同じようにすると
とてつもない人口になる<
これも吉野ケ里の密度を基準にして、計算してみればよい。
車で回った時も、油山〜三雲平原で、2〜4万人位は十分入れる感じであった。
>「当時の筑紫平野」の広さなんても、関係がない。
その筑紫平野とは、現在の話だよ。 >>109
>場所は畿内で確定してます<
場所は、九州で確定しています。
「南→東」に拠って大和や畿内は完全に否定されています。
>ここは畿内の邪馬台国についてより深い議論を行うスレです <
ここは、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・詐欺師の、
反社会的な人種の巣窟です。
>※位置論争とかしてる異常者の相手をする奴も荒らしです <
こんなスレを立てた人物も、・・・・詐欺師の荒らしです。 >>110
>大阪で結成されたフレキシブル「出発方向 南≠東」説の比定地には
出発方向後の案内人が連れて行った方向の根拠は何も示されていない <
始めから「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と方向は書かれており、
その部分行程説明の「從郡至倭〜女王之所都」の各説明には、
「出発説明+途中の移動説明+到着+距離日数などの付加説明」
という人類の常識に沿った説明がされており、
案内人や道標があれば十分であるが、
無くても、魏志の説明だけでも、
大体目的地付近に到着出来るような記載になっている。 >>134
吉野ヶ里の70倍になる一辺が25km位の広さなら625ku
福岡平野の面積は約 240kuだから「位」の範囲ではない
広さ=面積が違う福岡平野として示しても意味がない
畿内説スレに来て主張するなら自分の主張は自分で計算して示さなければならない
単に面積だけで入る計算なら他平野にもそれだけの人口が入る
現在の筑紫平野は干拓面積が広いから現在の話では意味がない >>113
>「南→東」と言っても、大阪で結成された「出発方向 南≠東」説では
「南」は邪馬台国の入口が接しているというだけであり<
不彌國で萬二千余里がほぼ終了しているから。
>里数は国の外縁部間の距離ということなので 不彌國の比定自体が案内人次第であり、入口から邪馬台国が拡がっている領域も
倭人伝の記載から特定できるものではない<
前の出発地からの「百里」が示されているので、不彌國の位置はほぼ特定出来る。 >>136 >>138
「出発方向だけ厳守 南≠東」説の連呼専門要員は
日本に来たら日本人が理解するような常識に沿った話をしないと
大体目的地付近に到着出来ると
相手が呆れるまでしつこく連呼するだけでは極少人数説でしかない >>115
>方向転換しても途中説明に書かないという古田説は詐欺そのもの<
途中の案内道や道標での道が、極端な方向転換ではなく、普通の道なり道であれば、
その説明を書かないし、書く必要がない。
それが人類の常識。 >>140唐津から前原は道なりではないよ
九州の地理をぜんぜん知らないんだね
九州説のくせにw >>116
>西日本は帶方郡の東南大海の中になる 北部九州は東南の少ーし南よりになる
「出発方向 南≠東」説の罵倒専門要員の説明では
倭人伝の行程記事の方向は「出発方向」だと連呼しているので、
次に来る人も「出発方向だけ厳守&案内人まかせ」となる、
ならない。
「出発説明+途中移動説明+到着+距離日数などの付加説明」という説明をしており、
「出発方向だけ厳守&案内人まかせ」になっていない。 >>118
>ザラコクが食言した<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者が、
また、相手の発言内容の否定曲解の嘘つき騙しをした。 >>136
>案内人や道標があれば十分であるが、
>無くても、魏志の説明だけでも、
>大体目的地付近に到着出来るような記載になっている
「なっている」と言うなら、どうやって唐津から前原に到着できるのか、具体的に説明してもらおうじゃないか
ザラコクは説明できないよ
「なっていない」んだから >>119
>東南陸行で糸島に到着するのは無理<
何度も、
「東南」が出発説明であり、「陸行五百里」が途中説明である、
と説明して置いた。
だから、東南に出発して、途中で案内や道標で道なり「陸行五百里」して、
伊都国付近に着くことになる。 「出発方向だけ厳守 南≠東」説は日本人が納得できないことを
連呼してるだけの渡来征服王説なので、アンケート結果の九州各説合計64%を
日本人に絞れば1%未満だろう >>145
東南に出発して、そのあと、どっちに方向転換するのか書いてないだろ?
前原には着けない >>122
>「出発方向 南≠東」説では、「循海岸水行」を多島海域は危険なので半島内陸行だと
しているので、<
これまた嘘ね。
「循海岸水行」は、郡からの出発説明。
「歴韓國乍南乍東」が、途中移動説明だ、と説明して来た。
>「出発説明+途中説明+到着説明」の途中説明は読み替え可で、
やはり「出発方向だけ厳守」となる<
今述べたように、「歴韓國乍南乍東」が途中移動説明であり、
「出発方向だけ厳守」なんて言ってもいないし、なってもいない。
>到着説明は、「出発方向 南≠東」説では、邪馬台国の入口まで来て
投馬國と同様に行かなかったことになる<
不彌國で萬二千余里がほぼ終了しているので、
「南至邪馬壹國」の途中移動説明無しの文は、
「移動は殆ど無しに邪馬壹國に至る」という意味になる。 >>123
>>(この投稿は、・・・・wwだな。)<
>いい加減、俺の書き方の癖くらい覚えろよ <
・・・・大和説者は、怖いから、覚える事も嫌だ。
ほら、誰かは知らんが、大和説の中の一人が、
「銃殺する」とかを、何度も何度も」書いていた。
>分かりやすいところでは、句点をつけたことは一度もないぞ ←根拠
こんな簡単な書き込みでも、俺はいちいち根拠をつけてる
ザラコクの全ww病もかなり重そうだなww
まあ、勝てない天敵だから、その気配だけでも怖いんだろうなw<
いや、
この男も殺人狂の「怖い・・・・」なんですよ、
と世間や国民に知らせておかなければならないだけだ。 >>148
循海岸水行はもう移動始まっている
「出発方向だけ厳守 南≠東」説では
移動は殆ど無しに邪馬壹國の入口に至るけれども
投馬國の構文と同じだから王都までは行かずじまいの入口確認 >>124
>聖徳太子は西洋人だと言われてるね
飛鳥の宮にはペルシャ人官僚がいたことがわかってるし
世界情勢に通じ「10人の言葉(10か国語)を理解した」のが聖徳太子
中国に行った時に、姓を聞かれてとっさに「I'm a〜」と言ったのが
「倭王の姓はアマ」と記載されたのは有名な話<
また、国粋皇国史観の「半分×書の書紀」信仰で、
厩戸と善光寺との往復書簡を無視して、
「聖徳太子実在」論や「聖徳太子信仰」論を、貼り付けていますね。
大和説者は、銃殺テロも脅迫する・・・・だから、怖い怖い。 >>126
>>魏志は、始めに「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という位置関係をはっきり示してある。
(という事は、「南と東」を間違っていない)。<
>ということは、水行十日陸行一月の起点を帯方郡とした場合、
邪馬台国は東南方向でなければならない
なのに、南至邪馬壹國と書いてあるということは、
水行陸行の起点は帯方郡ではないということだ
つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している <
南至邪馬壹國の「南」の起点は不彌國だし、
そして、郡〜不彌國の間に、
「乍南乍東」や、「南渡一海」や、「東南」出発や、「東行不彌國」などの移動があって、
ほぼ東南方向に向かって来ていたのだし、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明だ。
つまり、九州説は正しく、大和説は×だ、という事だ。
つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している >>127
>九州説は、投馬國から南に水行十日陸行一月移動解釈なので
「出発方向だけ厳守 南≠東」説とは違う <
古田九州説では、
投馬國説明文は、(途中移動説明がないから)、
不彌國からの側副傍線國の位置説明の挿入文である事になり、
その次の「南至邪馬壹國」が主行程になり、
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終了していたから、
邪馬壹國は不彌國の南にほぼ移動距離無しに到着した事になり、
「水行十日陸行一月」はその直前の「女王之所都」の説明文になるから、
「郡〜女王之所都」の日数説明になり、
「出発説明+途中説明+到着+距離日数などの付加説明」の通りであり、
「南」を(南→東のウソを付かず)、「正しく南」に解釈した事にもなっている。 大阪で結成された「出発方向だけ厳守 南≠東」説は、
各分岐地点から数多く立てられる仮説の中から
日本人が呆れるまでしつこく連呼することが必須な説
これは日本人には習慣がないので、
日本史ではなくて、異民族にとっての外史 >>129
>畿内説は「緩やかな首長連合」を想定しているので
それぞれ在地の首長が、祭祀女王を中心とした連合体制を利用して自国を統治する、
まだ連合に参加していない国は連合を利用せずに従来の体制で統治する、分権統治体制
九州地元説の、大和の政治的支配を受けていないという点ではあまり違いない<
「緩やかな連合」ではない。
大和は、
倭國の「東征毛人五十五國国」の一つであり、
倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國であった。
>外交権の主体についての違い
「出発方向 南≠東」説の
渡来人が福岡から武力によって在来の住民を東征していき、畿内で産物を集めて
福岡の渡来人征服王に上納させていたという説は根本的に各説とは異なる<
外交主体も、九州の倭国が主体であり、大和は、そのおこぼれを受けていただけ。 >>154
>「南」を(南→東のウソを付かず)
連呼「出発方向だけ厳守 南≠東」説では、
「南」は入口が接しているだけの解釈で、移動方向や国の位置関係ではないから
南→東を主張することはできない
入口は南に限定異民族史説 >>132
>>大体の方向も間違えずに<
>大体の方角じゃ行き着けないんだよ ザラコクさんのいうのは、「出発方向だけで、
あとは案内人任せでどこをどう曲がったのかも記録してない説」なんだから<
魏使の説明が、「100%完全は説明」ではなく、「大体の説明」であったから、
その説明の「出発説明+途中移動説明」の通りに進めば、
「大体」目的地付近に着くんだよ。 異民族「出発方向だけ厳守 南≠東」の会の集会場所の案内には
ある地点からの出発方向だけが書かれてあるのだろうか >>133
大和説は、
国粋皇国史観の「結論先にありき」の嘘つき騙し説だから、
始めから「南→東」などの嘘つき騙しをし、
投馬国を吉備に比定して、
陸行一月を一日と解釈する説もあれば、
投馬國を出雲や若狭としたり、
南に移動だけれどもなぜかたり阿波や紀伊へ方向転換などさまざまだが、
とにかく、何が何でも大和へ移動する。 >>161
「出発方向だけ厳守 南≠東」説が渡来人征服王によるパクリ皇国史観
畿内説だと万世一系の皇国史観にはならない 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。 一系(神代~いま?直系?)ではないと出て来たでしょ?
調べると、継体あたりの話が出て来たり >>137
>吉野ヶ里の70倍になる一辺が25km位の広さなら625ku
福岡平野の面積は約 240kuだから「位」の範囲ではない
広さ=面積が違う福岡平野として示しても意味がない<
福岡平野は、一辺25kmの地域がどれ位の範囲かの参考に出した例。
今宿〜大宰府〜和白位の大きさ。
>畿内説スレに来て主張するなら自分の主張は自分で計算して示さなければならない
単に面積だけで入る計算なら他平野にもそれだけの人口が入る
現在の筑紫平野は干拓面積が広いから現在の話では意味がない <
吉野ケ里のデータを参考にして、
7万戸の面積は福岡平野部に大体丁度一杯入る計算になるから、
筑紫平野部やそれらの周辺丘陵地の分だけ、
邪馬壹國には、7万戸以上でも余裕を持って入る事になる。 邪馬台国が畿内説だと、倭国大乱の前にいた男子王もヤマト王権の大王になるから、
ヤマト王権の誕生が西暦150年以前になるぞ >>139
「出発方向だけ厳守 南≠東」説、
などという嘘つき騙し話を連呼をする専門要員は、
国民が理解するような常識に沿った話をせずに、
「大和に到着出来る」と相手が呆れるまでしつこく連呼するだけばかりでは、
極少人数しか賛成者が出ない事になってしまうままになる。 伊達郡の川俣町という掲示板
ホムダ(漢字)が何やら〜という書き込みがあったり、 面積と人口なら、
江戸時代以前の実石高で見当がつく。
一反で一石≒3俵が目安。
明治以降に高度肥料農法が用いられ
10俵超えるようになるが
それ以前は江戸時代でも戦国時代でも
あまり変わらない。 >>141
>>>140唐津から前原は道なりではないよ
九州の地理をぜんぜん知らないんだね 九州説のくせにw、
東大と京大を渡り歩いたらしい大和説の「天誅」という殺人集団名を名乗った人物が、
(私は浜崎を通る海岸沿いの道なり道説であったが)、
浜崎から山越えの数百mの峠道の、「道なり道」の存在を証言していたよ。 何かを管理していたりする人たちがいたりするでしょ、
その関係者が書き込みをしているのかな、
または、そのまま、
そういう家(ホムダならムダなど?)の親戚の人とか 唐津から糸島までの道は
国道202号線やJR筑肥線の建設でも
苦労したからな。
ところどころ断崖絶壁で
海の上に作ってるところもあるからねえ。 >>144
>>案内人や道標があれば十分であるが、 無くても、魏志の説明だけでも、
大体目的地付近に到着出来るような記載になっている<
>「なっている」と言うなら、どうやって唐津から前原に到着できるのか、具体的に説明してもらおうじゃないか
ザラコクは説明できないよ 「なっていない」んだから <
私は、海岸沿いの道なり道説であり、
断崖絶壁の通行不可能な場所はその場所だけ山側に迂回する、という説であったが、
東大京大を渡り歩いた天誅という大和説者は、
浜崎から山越え峠道があり、その峠から当時の考古発掘があった、
という話をしていたよ。 山中を行く道はあるが
標高400mまで登る山道は大変だよ。 >>146
「出発方向だけ厳守 南≠東」説、などという、
「相手の説明」や「史料事実」の否定曲解をする大和説者は、
国民が納得できないことを連呼してるだけの、
排他的殺戮戦争の国粋皇国史観の・・・・なので、
アンケート結果の大和説の3割位を、 まともな日本人に絞れば、
1%未満だろう・ >>147
>東南に出発して、そのあと、どっちに方向転換するのか書いてないだろ?
前原には着けない <
案内人や道標や、道なり道に従って陸行五百里すれば、
伊都国付近に着ける。 >>149
>島巡り詐欺ですか<
對海國と一大國の「国内見聞移動」があった事の記載を、
無視して、国民を騙そうとする詐欺ですか?。 >>166
>福岡平野は、一辺25kmの地域がどれ位の範囲かの参考に出した例。
大阪で結成された異民族の「出発方向だけ厳守 南≠東」説は
福岡の知識がまったくないから、倍以上の広さでもピンとこないだろうが
多少なりとも土地勘があると「直線で25km?」となる
民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説の連呼要因は日本人とは常識が違うだろうけど
625ku の広さは240kuの中には入らない >>151
>循海岸水行はもう移動始まっている<
記載では、出発時点での記載になっている。
勿論、「循海岸」を出発説明に受け止めて、
「水行」部分から途中移動説明だ、と解釈しても構わない。
」
>「出発方向だけ厳守 南≠東」説では <
ほら、この男はまだウソを付いている。
「出発方向だけ厳守」ではない。
「出発説明+移動途中の説明+到着」が、人類の行程説明での、常識的説明方法。
>移動は殆ど無しに邪馬壹國の入口に至るけれども
投馬國の構文と同じだから王都までは行かずじまいの入口確認<
同じ「移動の説明が存在しない」構文であっても、
投馬國説明は、
全行程での目的地ではなく、不彌國からの側副傍線國の説明。
邪馬壹國への説明は、
萬二千余里はほぼ終わった後での(從郡至倭の目的国の)主行程である、
「邪馬壹國女王之所都」の説明。 >>153の訂正
「つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している 」は、削除。 古田が職を捨て異民族史第一書を書いたのが1971年
反日運動色を強める会則に改正するのが1989年
日本国内で日本人拉致事件が発生するのが1970年代から1980年代 >>155
これは、また、
・・・・wwの「排他的人種差別国粋皇国史観」狂のほぼ貼り付けヘイトスピーチだから、
・・・・は放置ね。 >>157
>連呼「出発方向だけ厳守 南≠東」説では<
これが嘘つき騙し。
「出発方向だけ厳守」ではなく、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」が 人類の常識。
>「南」は入口が接しているだけの解釈で、移動方向や国の位置関係ではないから
南→東を主張することはできない 入口は南に限定異民族史説<
やはり、このwwは、嘘つき騙しの・・・・ヘイトスピーチ極右。
私は始めから「南≠東」説。 >>158
大和説は、まともな日本人では1%以下の説。 >>181
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説では
移動途中の説明に「水行」しか書かれていないのに
途中から陸行と読み替えて、比定にじゃまな水行十日陸行一月を消化させている
萬二千余里がほぼ終わった後の移動であることが明確な
移動の説明が存在しないので、反日民族運動「入口が接した方向は南厳守 南≠東」説の解釈では
入口を確認しただけ >>160
>異民族「出発方向だけ厳守 南≠東」の会の集会場所の案内には
ある地点からの出発方向だけが書かれてあるのだろうか <
この男も、wwと同じく「出発方向だけ厳守」という嘘つき騙しをしている。
正しくは「出発説明+途中移動説明+到着の記録」。 >>185
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説では
途中移動は案内人まかせだから途中の方向は倭人伝の記事からはわからない >>153
ザラコクさん、全面的に同意です
>つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している
まったく、コピペしてそのあと文言だけ変えてオウム返しする、書き込みだけが目的の
実質が全くない手抜きコメントしかしないから、引用の処理もいい加減だ 魏志倭人伝に方角はよく出てくるけど、矛盾はないよ
ただ書き間違えているだけなら方角の矛盾が発生するが、それはなく整合性が取れている >>162
>「出発方向だけ厳守 南≠東」説が渡来人征服王によるパクリ皇国史観 <
「出発方向だけ厳守」なんて存在しない嘘つき騙しであるし、
「渡来人征服王皇国史観」ではなく、「流民共存」説であるから、×。
>畿内説だと万世一系の皇国史観にはならない <
東大と京大を渡り歩いた大和説の天誅は、
天皇家は天地開闢以来大和で列島を支配された、という事を主張していた。 >>184、>>185
>>155も>>157も、俺の書き込みじゃないんだがww
もうザラコクも終わりだな
あ、ごめん、訂正
ザラコクが終わってないことなど一瞬たりともなかったわ
東行の「行」一文字が途中説明って、それを理解する「普通の日本人」はいないぞww >>163
>結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした大和朝廷だよ。<
「大和朝廷」なんて存在していなかったから×。 >>191
>魏志倭人伝に方角はよく出てくるけど、矛盾はないよ
>ただ書き間違えているだけなら方角の矛盾が発生するが、それはなく整合性が取れている
松浦ー糸島方向は、実際には北東だけれど、魏志倭人伝では東南陸行五百里
糸島ー福岡方向は、実際は東(真東より北)だが、魏志倭人伝では東南至奴國百里
全体として、記述方向が南の方にずれているという点では整合性が
取れているという見方もできるが、実際の地理には合わない
実際の地理と記述の方角が合わないのは矛盾とは言わないという立場なのかい? >>192
「出発方向だけ厳守 南≠東」説は福岡から本州の毛人を征服した説だから
共存ではなくて「渡来人征服王パクリ皇国史観」
しばしば天誅という名を出すが
何者かもわからない現在いないHNは畿内説の根拠にならない >>180
>>福岡平野は、一辺25kmの地域がどれ位の範囲かの参考に出した例。<
>大阪で結成された異民族の「出発方向だけ厳守 南≠東」説は<
「出発方向だけ厳守」ではないから、×。
>「出発方向だけ厳守福岡の知識がまったくないから、倍以上の広さでもピンとこないだろうが
多少なりとも土地勘があると「直線で25km?」となる <
大体の広さを示したもので、
今宿〜大宰府〜和白位の距離を測って25km位と言っているのであるから、
この男(おそらくww)は×。 >>183
>古田が職を捨て異民族史第一書を書いたのが1971年<
第1書は、異民族史ではないから、wwは×。
>反日運動色を強める会則に改正するのが1989年<
「反日運動色を強める会則」なんてなかったから、これも×。 今週末も安定のサンドバッグ
キナイコシは日本リーマンの癒しですな >>187
>反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説では <
反日民族運動「出発方向だけ厳守」ではないから、×。
>移動途中の説明に「水行」しか書かれていないのに
途中から陸行と読み替えて、比定にじゃまな水行十日陸行一月を消化させている<
「循海岸水行」は、郡出発説明であって、
「歴韓國乍南乍東」が途中陸行を示すのであるから、×。
>萬二千余里がほぼ終わった後の移動であることが明確な
移動の説明が存在しないので、反日民族運動「入口が接した方向は南厳守 南≠東」説の解釈では
入口を確認しただけ <
不彌國で萬二千余里は殆ど終わっていたんだから、×。 >>189
反日民族運動「出発方向だけ厳守」ではないから、×。 >>190
>ザラコクさん、全面的に同意です
>つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している
まったく、コピペしてそのあと文言だけ変えてオウム返しする、書き込みだけが目的の
実質が全くない手抜きコメントしかしないから、引用の処理もいい加減だ<
「つまり、北部九州に持ってくる読み方は破綻している 」は、
訂正削除してあるから、
×。 >>198
大阪で結成された異民族運動の「出発方向だけ厳守 南≠東」説の
連呼要員が測ったら面積は間違ったということ
日本の学者の研究成果とは違う連呼要員の妄想年代や
集落動態の知識もない人口推定も間違っているということ >>201
「歴韓國乍南乍東」の、どこが陸行なんだ?
妄想が過ぎる >>193
>東行の「行」一文字が途中説明って、
それを理解する「普通の日本人」はいないぞww<
その前の「東南至奴國百里」には、「行」が書かれておらず、
不彌國記載の「東行至不彌國百里」の「行」記載あり、は、
明らかに区別されている事になって、
陳寿は「途中の行」を記載して区別している事になるから、
wwは×。 >>199
日本人学者を罵りウソを連呼して荒らし運動をしている罵声専門要員の教科書であるから
古田が職を捨て書いたのは異民族史第一書
日本の政府、行政、学会、教育界、マスコミを罵っているのだから
「いかなる権力、権威にも盲従せず」というのは反日運動色を強める会則 >>203
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>196
>松浦ー糸島方向は、実際には北東だけれど、魏志倭人伝では東南陸行五百里<
東南は、出発方向であり、目的地方向ではないから、×。
>糸島ー福岡方向は、実際は東(真東より北)だが、魏志倭人伝では東南至奴國百里<
奴國記載には(不彌國へのような)移動を示す「行」がないから、
側副傍線國の位置説明である事になるので、×。
>全体として、記述方向が南の方にずれているという点では整合性が
取れているという見方もできるが、実際の地理には合わない <
wwの頭が整合性がとれていない・・・・なので、×。 >>201
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説は
文献解釈ではなくて日本人にはない習慣の日本人が納得しない連呼運動
南に入口が接していただけの解釈では
萬二千余里がほぼ終わった後の移動であることが明確な移動の説明は存在しないから
入口確認だけ説 >>197
「出発方向だけ厳守」なんて、誰も言っていないから、×。
>しばしば天誅という名を出すが
何者かもわからない現在いないHNは畿内説の根拠にならない <
Yahooでも、pikupopodemiというお兄ちゃんが、私のもっと沢山の情報を聞いて、
「それなら誰か?が判る」と言って、その後投稿が無くなってしまったから、
生命の危険もあり、情報提供だけ。 >>204
「大阪で結成された異民族運動の「出発方向だけ厳守」」
という事が嘘つき騙しであったので、
×。 >>205
「歴韓國乍南乍東」の、どこが水行なんだ? 。
妄想が過ぎるから×。 >>211
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説の連呼要員は
自分が連呼している内容が理解できていない
主語変え鸚鵡返しで意味をなしていないのと同じ
そんな連呼要員だけが知ってるHNなど出されても迷惑
おそらく内容も毎度の聞き間違い、勘違い >>212
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説の連呼要員は
算数もまともにできない >>207
いかなる権力、権威にも盲従せず」というのは反日運動色を強める会則、
というのは、反日ではなく、
「南→東」などの嘘吐き騙しの通説学会教育界に対する正常なの判断であるから、
wwの方が、×。 >>216
反日民族運動「出発方向だけ厳守 南≠東」説の
「南→東」の「南」は不彌國の南が邪馬台国の入口と接しているという妄想で
畿内説は不彌國の東が邪馬台国の入口と接しているなどという説ではないので
反日民族運動連呼要員の言う「南→東」は意味をなしていない >>216
反日民族運動連呼要員は反日ではないと言いながら、
あらゆる日本の公的組織に属する日本人を罵り
善良な日本国民の和田キヨエさんまでもお金がないはずというだけで
犯罪者に陥れようと連呼している >>211
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>211
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>213
水行歴韓国と書いてあるんだから、水行だろう それよりもだよ
『松傾』
力夫氏や関係者など・・・、
存在自体が危険(きち▢い)だという意味なのかな
象の鼻。長い竿・・・
下ネタだという話、いろいろとネタにされているとか。
考え方を変えると、
侵害(人権)されているような話なのかな ニジマス、サクラマス?
ガンダム
本当は日本の話だと言ってる人がいた、
長竿(長い槍を装備)が出て来たり wiki『サクラマス』英名のところを読んでみて
数年前の、とあるスレ「英語の、一つでも覚えたら、どうなの」
と言ってる人がいたとか、いないとか
それと、このスレだった?菊座(不明)が何やら、 >>210
>南に入口が接していただけの解釈では
萬二千余里がほぼ終わった後の移動であることが明確な移動の説明は存在しないから
入口確認だけ説 <
七万戸の邪馬壹國は、
馬韓伝には、「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」とされ、
弁辰では、「大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」とされる位だから、
その中間位の大きさを推定されている事になるので、
「入り口だけ」解釈は、×。 >>204
「出発方向だけ厳守」説でないから、×。
「面積は間違った」は、
始めから「今宿〜大宰府〜和白」位の目安の大きさの説明であったから、×。 >>205
>「歴韓國乍南乍東」の、どこが陸行なんだ? 妄想が過ぎる <
世界に名だたるのリアス式の海岸を、全「循海岸水行」する事は起こり得ず、
「歴韓國乍南乍東」も全く不可能であるから、
×。 >>207
大和説学者は、「南→東」などの罵りウソを連呼して荒らし運動をしているから、
「排他的人種差別の国粋皇国史観戦争狂人種」の罵声専門要員であり、
オームやヒトラーやISイスラムやり殺人ヘイトスピーチキョクウや暴力団の一味。
たった3割で日本の政府、行政、学会、教育界、マスコミをも牛耳っており、
まともな日本国民の敵。 >>210
この「南→東」などの嘘吐き騙しのキョクウのヘイトスピーチ要員のの、
wwの貼り付けは、
七万戸の邪馬壹國が、
馬韓伝には、「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」とされ、
弁辰では、「大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」とされる位だから、
その中間位の大きさを推定されている事になる、
と反論済みであるから×。 >>217
>古田説、どんだけ異常なの?<
史料事実や史料批判された史料実態からの、
帰納的確率的な推論をされた古田説や九州説が正常であり、
「南→東」などの史料事実の否定曲解した大和説者らが、異常なの。 >>218
反日民族運動「出発方向だけ厳守」説ではないから、×。 >>219
和田キヨエは、隣の本家の家族に確認する、という事もせずに、
偽書説派の金に買収されて、「偽書説」を公言して宣伝ビラを印刷配布したから、
大和説者らと同じく、一種の狂気の女性。 >>222
>水行歴韓国と書いてあるんだから、水行だろう<
水行では、歴韓國乍南乍東が全く出来ないから、
水行と歴韓国の間で、文が切れ、
水行は、前の「循海岸の術語」になるの。 >>229
>九州は無理だな w<
倭国の別種の分家の旧小国で、東征毛人55国の中の一国の大和は、
始めから無理だったんだな。 >>236
出来ない、って証拠は?
文が切れる、という根拠は? >>227
相変わらずザラコクは漢文がまともに読めないくせにバカ解釈を展開してるなww
>馬韓伝には、「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」とされ、
>弁辰では、「大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」とされる位だから、
>その中間位の大きさを推定されている事になるので、
邪馬壹國は倭国最大国で、比べるべきなのは「大國萬餘家」と「大國四五千家」の部分だぞ
奴国二万戸が、馬韓の大国レベルだって分かる
「總十萬餘戸」と「總四五萬戸」と比べるのは、倭国全体の戸数
邪馬壹國は倭国内の一国でありながら、馬完全体の過半より大きく、弁辰全体より大きい
そして>>210は俺の書き込みじゃない
ザラコクは、知らない、調べない、理解しない >>230
>世界に名だたるのリアス式の海岸を、全「循海岸水行」する事は起こり得ず、
>「歴韓國乍南乍東」も全く不可能であるから、
これも何度も教えてるのに理解しない
リアス式海岸の地域でも、海岸に沿ってというときに、
「入り江を一つ一つ出入りすることはあり得ない」って言っているのがバカすぎる
江戸時代の東廻海運も、岩手県のリアス式海岸を通る沿岸航路だが、
入り江一つ一つ出入りなんてしない
当たり前すぎる
循海岸を「海岸に循い」と読んだあと、海岸から数十メートルのところを船で行くみたいな
解釈をしているのがバカすぎ
そして、歴韓國だから陸行と言い続けているのもバカ
水行で、寄港しているだけの話
ザラコクは本当に、知らない、調べない、理解しない
そして、創始者が一番えらいという思想だから、古田氏の論から一歩も出られない
どこまで行ってもバカすぎ >>237
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>237
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>237
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>244
もう止めたら、
>殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした<
を否定する材料あるの? >>246
スレ主のことか
あとザラコクとキウス連呼してる奴 >>248
他のスレでも都合の悪いレスを見つけては
sage連打しているよなお前。 >>249
またウソをついてるね?
都合の悪いレスって、どれ? >>245
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>245
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>245
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>217
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
「頭を〜銃で撃ちぬいてやろうか」と言ったり、
大和説者って、どんだけ異常なの?。
怖い怖い。 >>251
嘘でたらめ捏造ごまかしが、大和説のデフォ。 >>258
違う。
頭じゃなくて顔面な。
おまえの顔の中心部に特大の風穴を開けてやるだけ。
おまえの目も鼻も瞬時に消滅し、そこに特大の風穴が開くって訳さw
土器キッドより >>260
>違う。 頭じゃなくて顔面な。 おまえの顔の中心部に特大の風穴を開けてやるだけ。
おまえの目も鼻も瞬時に消滅し、そこに特大の風穴が開くって訳さw
土器キッドより <
こんな投稿を、
5chや警察は、何故放置したり許可したり、するんでしょうかねえ?。
まさか、殺人テロリストの仲間だ、とは思わないけれど・・・。 >>235
>「偽書説」を公言して
「偽書説」ではなくて、どろぼうが書いた「偽書」
和田キヨエさんの配布文書に書かれた真実が
反日教科書を販売するどろぼう擁護団体にとって都合が悪いものであったから
いまだに和田キヨエさんを罵倒して回っている
対日有害活動を妨害すると嫌がらせをするぞという脅しだな いや、今どき「東日流外三郡誌」を真書だと主張するって、本気か? 一番上みたいな小学生が書いたような字で書くわけがないだろw 卑弥呼や台与がヤマト王権=邪馬台国の女王なら、
空白の4世紀は発生しないのではないか?
もっと頻度を上げて、晋国に朝貢していたのではないか?
また宋に朝貢した倭の五王が、親魏倭王卑弥呼の子孫であると言及するはずである >>265
>いや、今どき「東日流外三郡誌」を真書だと主張するって、本気か?<
村が出版するために、村に提供された東日流外三郡誌は、
秋田孝季らの寛政原本を、末吉さんや長作さんらが写本したものが殆どであり、
一部に、元市さんや喜八郎さんらが筆写したものや加筆したものがあった可能性がある。 >>266
>一番上みたいな小学生が書いたような字で書くわけがないだろw<
喜八郎さんは、(丁寧な押さえ字ではなく)、撥ねる傾向のあるので、
「撥ね字」の癖が直ぐに出てしまう悪筆だ。 3世紀の筑紫の倭国と5世紀の大和が繋がらないから、空白の4世紀なんだよね。
実際には記紀には大量の記事がある。 >>267
>同じ字だな
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo69.htm#3syou <
「知られざる聖域日本国は丑寅に誕生した」の、所謂「丑寅原稿」の筆跡は、
章子さんの清書の(ボールペンか?の)筆跡。
「東日流外三郡誌」(八幡書店刊)は、
明治〜昭和の末吉さん長作さんらの(毛筆の)写本であった可能性が高いが、
村に提供されたものがどうなったのか?がはっきりしない。
そして、丑寅原稿の筆跡とは、類似したものと、全く違うものの、両方がある。
また、喜八郎さんは非常に悪筆で下手であったので、
章子さんが筆写清書したものがあった可能性がいくらでもあり、
八幡書店に提供されたものに、章子さんが筆写したものがあったのなら、
章子さんの筆跡に、末吉さんや長作さんの筆跡が伝染していた、という可能性もある。 >>268
なぜ、発生しないのではないかと思うの?
理由は? >>268
>また宋に朝貢した倭の五王が、親魏倭王卑弥呼の子孫であると言及するはずである
いや、倭王とされている時点で、大陸王朝も倭国側も、親魏倭王の後裔だと認めてるってことだよ
徳治主義の易姓革命の思想が根本なんだから、卑弥呼の王権を倒すまたは取って代わった王朝なら
卑弥呼の王朝は徳を失ったから、五王の王朝が立ったのだとした方が正統性を強く主張できる
そして、その場合は倭とは異なる国名を名乗ることになる
倭王武の上表文から分かるように、この時期には漢文の読み書きが倭国側でもできるのだから、
易姓革命の思想も理解している
それで倭王を名乗っている以上は、王朝交代はないことになる つか、内乱の話があるわけじゃなし、わざわざ正統を語る必要からして無いからなあ 九州王朝説の根拠の一つとして、『隋書』にあらわれる600年、607年、608年の日中交渉の記事がある。
最大の論点は、この当時の倭王(日本国王)は男帝か女帝かということだ。というのは『隋書』によれば、この当時の倭王は「姓は安毎(アマ)」、 字は「多利思比狐(タリシヒコ)」とあって、「王には妻と後宮に女、六、七百人有り」 と、男帝と記されているからである。
ところがこの当時の日本国王は女帝の推古天皇で、九州王朝説者はこの違いを最大の根拠として、隋王朝と交渉したのは「九州王朝の男王」と主張している。しかしこの説も誤りである。
『隋書』での安毎・多利思比狐(アマ・タリシヒコ)とは、天足彦(アマタリシヒコ ) で天皇の諱(いみな)には足彦(タラシヒコ)というのが多いので、一般天皇の称号とする通説が妥当である。
607年と608年の日中交渉の記事は『日本書紀』にも記載されており、『隋書』と完全に一致している。
また、『隋書』の607年条は「其の王・多利思比狐」、608年条も「倭王」と一般称号で記しているので特に問題はない。
問題は600年条の「王には妻と後宮に女、六、七百人有り」の記事だ。
しかしこの当時、聖徳太子は摂政として「ことごとく全権を委ね」られた事実上の国王(倭王)であり、「十七条の憲法」や隋の煬帝への 「日いずる国の天子、云々」 の国書も聖徳太子のものとされている。
したがって、聖徳太子は国内的にも国外的にも事実上の国王(倭王)と振る舞っていたわけで、このことが『隋書』の600年条に反映していると推定するのが妥当である。
『日本書紀』は、編集に際し『隋書』も参考とし、これより347字の章句を借用している。しかしながら『隋書』の600年条を見た『日本書紀』の編者は困惑すると同時に、
『隋書』での事実上の倭王(聖徳太子−男王)と『日本書紀』での形式上の倭王 (推古天皇−女帝)との混乱を避けるため、600年の遣隋使は『日本書紀』に記載しなかったのである。
従って、600年の遣隋使の記録は『日本書紀』の編者によって意図的に削除されたのであって、『日本書紀に記載がないから九州王朝による使節』、との説は誤りである。 朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この屈辱的な史実を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、 女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして実際には葛城にあった高天原の場所(御所市高天)もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 >>268
>卑弥呼や台与がヤマト王権=邪馬台国の女王なら、
空白の4世紀は発生しないのではないか?
もっと頻度を上げて、晋国に朝貢していたのではないか?
また宋に朝貢した倭の五王が、親魏倭王卑弥呼の子孫であると言及するはずである<
「空白の4世紀」なんて、勿論なかった。
九州倭国の晋への朝貢は続いていたし、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」が続いていたのだし、
倭国は都を筑後に移したのだし、
七支刀も貰ったのだし、
出雲文身國や越の大漢國や毛人蝦夷は存続していたんだし、
大和などの「倭國の別種の旧小国」も存続していた。 >>271
>3世紀の筑紫の倭国と5世紀の大和が繋がらないから、空白の4世紀なんだよね。
実際には記紀には大量の記事がある。<
「空白の4世紀」なんて、
考古学者らが、「大和一元列島支配」説という「結論先にありき」で、
九州の考古の年代比定をしたから発生した、分裂幻覚妄想の所産だよ。
要するに、考古学者がアホであったんだよ。 >>274
>東日流外三郡誌のほうも決して達筆じゃないぞ
>というか、非常に悪筆で下手<
問題の原点は、権七さんや末吉さんや長作さんの筆写は、当然、
4000冊以上?もあった文書の中の、損傷の激しい?文書から修復筆写して行ったのであり、
更に、明治以後の新しい知見で得られた事の加筆もされており、
それは、当然元市さんや喜八郎さんらにも引き継がれていて、
村に提供された「東日流外三郡誌」にも、修復筆写加筆されたものが含まれていた、
という事。
しかし、寛政原本も残存していて、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai2/furuta02.html
にも、秋田孝季の筆跡なども挙げられている。 >>277
>それで倭王を名乗っている以上は、王朝交代はないことになる<
賛成です。
筑紫倭國は、唐代まで存続していて、
唐会要まで倭国伝が書かれて存続し、
中国とは「世與中國通」であったのであり、
その場所は、「古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中」と「西北接百濟、正北抵新羅」と、
はっきり書かれて、
(大和ではなく)九州にあった事が示されています。 >>282
やれやれ
「空白の4世紀」
って言葉の意味を知らないんだね
まったく、九州説というのは
無知が生んだ幻想的だね >>278
>『隋書』での安毎・多利思比狐(アマ・タリシヒコ)とは、天足彦(アマタリシヒコ ) で
天皇の諱(いみな)には足彦(タラシヒコ)というのが多いので、一般天皇の称号とする通説が妥当である。<
ダメだ。
倭国の別種分家の旧小国の大和日本国の後代史書である記紀は、 倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分×書であり、
「足彦(タラシヒコ)」自体も倭国内身分名や盗用造作であった可能性があり、 根拠にならない。
>607年と608年の日中交渉の記事は『日本書紀』にも記載されており、『隋書』と完全に一致している。<
ウソを付くな。 全く一致していないし、開皇末の20年の遣使の記録は、書紀には全く書かれていないし、
延喜講記には、607年の大業3年のの遣使があった事も記録されていない。
>また、『隋書』の607年条は「其の王・多利思比狐」、608年条も「倭王」と一般称号で記しているので特に問題はない<
推古は女帝であるし、厩戸は摂政の聖徳太子にもならないから、完全に×。
>問題は600年条の「王には妻と後宮に女、六、七百人有り」の記事だ。
しかしこの当時、聖徳太子は摂政として「ことごとく全権を委ね」られた事実上の国王(倭王)であり、
「十七条の憲法」や隋の煬帝への 「日いずる国の天子、云々」 の国書も聖徳太子のものとされている。
したがって、聖徳太子は国内的にも国外的にも事実上の国王(倭王)と振る舞っていたわけで、
このことが『隋書』の600年条に反映していると推定するのが妥当である。<
善光寺との往復書簡に拠って、聖徳太子自体が、書紀の造作。
>『日本書紀』は、編集に際し『隋書』も参考とし、これより347字の章句を借用している。
しかしながら『隋書』の600年条を見た『日本書紀』の編者は困惑すると同時に、
『隋書』での事実上の倭王(聖徳太子−男王)と『日本書紀600年の遣隋使は『日本書紀』に記載しなかったのである。
従って、600年の遣隋使の記録は『日本書紀』の編者によって意図的に削除されたのであって、<
隋書のタイ國は、明らかに歴代の倭國である事を記録しており、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、大和説は完全に否定される。 >>279
>朝貢年 266年 台与 トヨ津 ・ 238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴 ・ ・ ・ ・ ・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。・・・<
台与も邪馬台国も大和朝廷も、存在していなかったんだから、
この、排他殺戮戦争的な竹島戦争鼓舞扇動のssnの話は、全部×。 >>285
やれやれも、
「筑紫の「空白の4世紀」って言葉の意味や、
そんなアホな妄想は、
「大和説しか考える事が出来ない大和説考古学者のアホさ」を示しているだけだ、
という事も知らないんだね。
まったく、大和説というのは、
無知と、国粋皇国史観の分裂幻覚が生んだ幻想だね。 倭国大乱で筑紫を追い出された天孫族の移動が神武東征。
その後で筑紫で共立されたのが卑弥呼。
倭の王都はずっと筑紫のまま。
卑弥呼の死後に大和を含む各地にまた再編の動きを生じて、畿内には前方後円墳の時代がやって来たのだろう。 じいさん、無知丸出しだぞ
「空白の4世紀」ってのは文献学者が言い出した言葉
中国の史書に出てこないという意味だ 聖徳太子、隋書倭国伝。
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
倭王であり、アマタラシヒコ。
聖徳太子一族が蘇我氏に滅ぼされ、アマタラシヒコ系は滅びたのか?
どうなったんだろうな。 アマタラシヒコは倭王のことだ
スミラミゴトとおなじだよ
外国人が普通名詞を固有名詞と間違うのは
よくあることだ タラシヒコは天皇の諡号としてよく用いられる名前で、固有名詞に近い。 称号ではあるけれど、諡号でもあるから、固有名詞だよ。
タラシヒコと付かない天皇もたくさんいるわけだから。 >>287
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢服と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>287
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>287
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>295
それは違うな
固有名詞の一部だ
「太郎」が固有名詞でも「郎」が固有名詞でないのと同じ >>300
一太郎や朔太郎が固有名詞だけど、太郎という名前の人もいる。
名がタラシヒコとあり、号や姓が他に明記されているのだから、タラシヒコだけで固有名詞であった人物と考えるしかない。 >>301
タラシヒコだけで名前になってる人がいるの? 中国の方にいたという記録があるけれど、記紀にはピンポイントで一致する人物はいないね。
だから、記紀は全ての倭王(天皇?)を網羅できていない可能性がある。
しかも年代的に同じ時期に他の天皇(この場合は推古天皇)の記事があるということは、そもそも並行して別の王朝があったのではないかという疑念が湧いてくる。 >>303
天皇とかスメラミコトとかはそういうものだろう。 なんで
固有名詞だーとか頑張りたいの?
根拠も無いのに 天皇が全員、多利思比孤という名前な訳ではないからね。
号は別に書いてあるし。 >>308
別の王朝にしたいゾーという願望が先にあって
あとから理由を探してるからだろ アマタラシヒコ、オキナガタラシヒコ、オオタラシヒコ、etc 記紀にある他のタラシヒコと年代が一致せず、阿蘇山のことが書いてあったりする。
筑紫のすぐ東の秦王国までは書いてあるけれど、それより東は名前も載っていない。
魏志倭人伝と同じ構造だよ。 >>312
邪馬台がヤマトでないことを前衛とした循環論法サギいただきました 足・帯(タラシ)は、14代仲哀から34代舒明まで間があるし
藤原百川の娘の藤原帯子にも使ってるから、
古い時代から日本で使ってた感じじゃないな >>315
タラシは新羅系の征服者につけられる名前
脱解(タルヘ)と同じ言葉だね >>290
>じいさん、無知丸出しだぞ 「空白の4世紀」ってのは文献学者が言い出した言葉
中国の史書に出てこないという意味だ<
アホ大和説ガキは、最近の大和説学者からそう教えられたのかも知れんが
元々は、40年位前は、
文献考古共に4世紀の情報が少ない、という事であったものが、
文献学者や古田説から中国文献的には空白ではない、という事が指摘されて、
九州の4世紀の考古情報が少ない、という話にすり替えられただけだ。 御間城入彦の皇子に五十日足彦命を付けているからなぁ >>291
>聖徳太子、隋書倭国伝<
聖徳太子は存在しなかったし、隋書倭国伝ではなく隋書俀國伝であるから、×だ。
>俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌 倭王であり、アマタラシヒコ。
聖徳太子一族が蘇我氏に滅ぼされ、<
書紀の造作だから、×だし、
アマタラシヒコなんて存在しないから×だ。
>アマタラシヒコ系は滅びたのか? どうなったんだろうな。<
アマタラシヒコなんて存在しないから×だ。 >>292
>アマタラシヒコは倭王のことだ スミラミゴトとおなじだよ<
開皇20年の遣使が隋に名乗った俀國王名が「姓阿毎字多利思北孤號阿輩奚隹彌」だし、
大業3年の国書の自著名が、阿毎多利思北孤だ。
>外国人が普通名詞を固有名詞と間違うのはよくあることだ<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの詐欺師の大和説学者や大和説者が、」
史書や考古史料の内容を少しすり替えて、
大和説に合うようにして、世間の人々を騙そうとする事は、
よくある事だ。
世間の皆様、騙されないように、よく気をつけましょうね。 >>293
>タラシヒコは天皇の諡号としてよく用いられる名前で、固有名詞に近い。<
多利思北孤≠タラシヒコであり、
隋書では多利思北孤は「字」だとされている。 日本の学者を罵倒する古田とか、そこの連呼専門要員は
本国では「土台人」と呼んでいる集団だから
日本人とは論理的な会話はできない
土台人古田が書いた「日本人の国はなかった」「日本人が神話を盗んだ」みたいな内容の
本が一般の移民を「土台人化」するための教書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%8F%B0%E4%BA%BA >>296
>女性天皇には付いてないんじゃね<
推古は、俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩奚隹彌ではない、という事だ。 >>307
>「妄想が沸く」の間違いでは? <
推古→多利思北孤が妄想だ。 >>308
>なんで 固有名詞だーとか頑張りたいの? 根拠も無いのに <
「字」だ、と書いてある。 >>310
>別の王朝にしたいゾーという願望が先にあって あとから理由を探してるからだろ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説者は、
多利思北孤を推古にしたいゾーという願望が先にあって、
あとから理由を探してるからだろう。 >>311
>アマタラシヒコ、オキナガタラシヒコ、オオタラシヒコ、etc<
アマタラシヒコは、存在しないから、×。 >>313
>明らかに固有名詞じゃないな<
「俀王姓阿毎、字多利思北孤」は、明らかに固有名詞だよ。 >>314
>邪馬台がヤマトでないことを前衛とした循環論法サギいただきました<
存在しない「邪馬台」を前提とした大和説者の循環論法サギ、いただきました、。 >>315
>足・帯(タラシ)は、14代仲哀から34代舒明まで間があるし
藤原百川の娘の藤原帯子にも使ってるから、 古い時代から日本で使ってた感じじゃないな<
高良玉垂命の頃から、
冠から玉を「垂」らしたり、帯を垂らしたり?したしたようだから、
地位を示す文言であったんだろうなあ。 >>321
「南→東」などの嘘吐き騙しのアホ大和説の・・・・ガキが、
またウソを付いていたんだね。 >>324
九州倭國人とか毛人とか近隣諸国民とかに対して、
排他的人種差別的ヘイトスピーチする皇国史観大和説指導者や、そこの連呼専門要員は、
沖縄や蝦夷やアイヌを「土人」と呼んでいるキョクウの・・・・集団だから、
普通の日本人とは論理的な会話はできない。
普通の日本人が書いた、、「邪馬台国」はなかった、「大和人が倭國の神話を盗んだ」、
みたいな内容の本が、
一般の国民を「土人」視される事から守るための教書。 4世紀の遺物が中小古墳に副葬される筒形銅器
4世紀後半からヤマト王権によって始まるのが九州の学者が調査した沖ノ島祭祀 >>333
「南→東」などの嘘吐き騙しを言い張るだけの大和説者は、
トンデモ・・・・アホ説者、って自白。 大和から遠く離れた筑紫で祭祀を行う理由なんてあるのかな? >>335
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説の、
アホガキ児の言い返しか。 「土台人」集団が擁護しているどろぼうの被害に遭ったのは九州の歴史愛好家
真実が書かれた文書を配布したために「土台人」の連呼専門要員が罵倒で報復しているのが東北の和田キヨエさん >>339
九州人なら沖ノ島の報告書、論文くらい読まなきゃ >>337
>4世紀の遺物が中小古墳に副葬される筒形銅器
4世紀後半からヤマト王権によって始まるのが九州の学者が調査した沖ノ島祭祀<
この男も、「南→東」などの嘘吐き騙しだけではなく、
沖之島には、縄文や弥生からの遺物や祭祀が残っていた事を隠している大和説の詐欺師。
沖ノ島祭祀自体は、天照の故地伝承があるから、筑紫倭国の倭奴國や伊都国系の阿毎氏の祭祀島。
筒形銅器は、大成洞古墳群に多く出たから、やはり海峡交易の支配者であった伊都国系阿毎氏を介して、東征毛人55国で、瀬戸内以東地域にも搬入伝搬されただけ。
そして、阿毎氏系になっていた継体や物部が磐井を倒して、倭國の王家の一員になってから、大和も、沖ノ島祭祀に参画するようになった。 >>341
「土人」ヘイトスピーチ集団が擁護援助している和田キヨエ狂女の被害に遭って、
壊滅させられたのが、可哀そうな喜八郎家。
真実が書かれた文書を出版したために、
「南→東」などの嘘吐き騙しの排他的人種差別の、「土人」の連呼専門の大和説要員の罵倒で、
村八分をされて、村に住めなくされたのが、喜八郎さんらの遺族。 >>345
それ、東遷説の安本の話だろ
畿内説関係ないぞ >>342
倭人なら、九州倭国人や倭奴國や伊都国の阿毎氏だけではなく、
倭国の別種分家の大和人も、沖ノ島の発掘の報告書、論文くらい読まなきゃ。 >>344
学者しか調査はもちろん見て触ることもできない沖ノ島を
宗像にすら行ったこともないような大阪の反日が連呼してもまったくの無 もし村八分をされて、村に住めなくなったのなら、東日流外三郡誌が
公的団体だけでなく、一般の人にも捏造された偽書である評価が既に定着しているということ >>346
>(偽書説で喜八郎家や古田さんへのヘイトスピーチをする・・・・人種)
それ、東遷説の安本の話だろ 畿内説関係ないぞ <
このスレを見てごらん。
偽書説で、喜八郎家や古田さんへのヘイトスピーチをする・・・・人種は、
殆どが大和説者。 >>348
>学者しか調査はもちろん見て触ることもできない沖ノ島を
宗像にすら行ったこともないような大阪の反日が連呼してもまったくの無 <
私は、仕事が忙しい播磨の素人オジンだから、
宗像大社や宝物殿に行って、説明を読み、
海岸から地の島を眺める事位しか出来なかったから、
古田さんの紹介を参考にする事しか出来なかった。 >>351
このスレで、どろぼう喜八郎やどろぼうを擁護する古田集団を批判してるのは
畿内説じゃなくて俺個人
そして、日本の政府、行政、学会、教育界、マスコミを嘘吐き騙しや殺戮戦争と
罵倒してるのがお前
ツガルは偽書説ではなくて、どろぼうが書いた【偽書】
それを根拠の一つにしてるのが反日の古田 >>352
仕事が忙しいのではなくて、毎日全レス返信連呼してるから
ウソが日常だから「宗像大社や宝物殿に行って、説明を読み」すら怪しい
宗像まで行って見るくらい興味があるなら報告書、論文くらい読め >>350
>もし村八分をされて、村に住めなくなったのなら、東日流外三郡誌が
公的団体だけでなく、
一般の人にも捏造された偽書である評価が既に定着しているということ<
偽書説派や公的機関が、裁判所で、
「東日流外三郡誌が偽書だ」という判決を貰って、村八分をしたのではなく、
裁判所に判定を拒否されたものであるのに、村八分になった、という事は、
一般の人々が、偽書説派や大和説者らの「口先騙しのでヘイトスピーチ」宣伝に騙された、
って事。 >>352
古田氏の功績は認めるけどさ、その先に進もうよ。
新しい知見だってあるのだから。
同じ考えに凝り固まっていると老化してしまうよ。 >>355
>「口先騙しのでヘイトスピーチ」宣伝に騙された
と言張ってるのは反日のお前
損害訴訟裁判では偽書の判決は出されなかったのに
公的団体だけでなく、一般の人にも捏造された偽書である評価が既に定着しているのが事実 >>356
>古田氏の功績は認めるけどさ、その先に進もうよ。
儒教道徳の価値観では、弟子よりも師匠の方が無条件でエラくて、
起源である創始者が一番エラいので、最初に九州王朝説と唱えた古田説は
ザラコクさんの立場からすると、改変不可のアンタッチャブルなんだよ
その劣化コピーしか許されていない >>353
>このスレで、どろぼう喜八郎やどろぼうを擁護する古田集団を批判してるのは
畿内説じゃなくて俺個人<
Yahooでも、和田家や古田さんへのヘイトスピーチをしたのは、
大和説者ばかりであったし、
2chの古田史学トピでも、大和説者ばかりであったから、
大和説者は、ほぼ全てヘイトスピーチ・・・・。
>そして、日本の政府、行政、学会、教育界、マスコミを嘘吐き騙しや殺戮戦争と
罵倒してるのがお前 <
そして、そのような無法で残虐なヘイトスピーチ村八分を応援したのが、
「南→東」などのような嘘つき騙しの大和説を敢えて応援する、
政府や右翼マスコミや大和説学会教育界や、極右殺人戦争狂のやくざ暴力団。
>ツガルは偽書説ではなくて、どろぼうが書いた【偽書】<
偽書説なんて、とっくに破綻しているし、
未だに偽書だと叫んでいる・・・・が大和説者。
>それを根拠の一つにしてるのが反日の古田 <
和田家文書の史料批判をして、確率の高い情報を論拠にされたのが、古田さん。 >>354
>仕事が忙しいのではなくて、毎日全レス返信連呼してるから
ウソが日常だから「宗像大社や宝物殿に行って、説明を読み」すら怪しい
宗像まで行って見るくらい興味があるなら報告書、論文くらい読め<
仕事が忙しいから、
「南→東」などの嘘つき騙しである事が確定している学者の論文など、
読むのは嫌だ。 >>359
お前がYahooを出入り禁止になってるほうだから
お前の言動に問題があったんだろ >>356
>古田氏の功績は認めるけどさ、その先に進もうよ。
新しい知見だってあるのだから。
同じ考えに凝り固まっていると老化してしまうよ。<
ご忠告、有難う御座います。
60歳頃まではPCも知らないで、仕事ばっかりだったのですが、
それから、娘に掲示板を教えて貰って、Yahooで投稿を開始して、
おかげさまで、古田説以外の貴重な情報も一杯知る事が出来て、
思い残す事も余りなく、幸せです。 >>360
学者の論文も読まずに、海岸から島眺める程度のジジイが
学会を嘘吐き騙しと罵るということは、よほど日本人が憎いんだろ
宗像から57km先の沖ノ島眺めるなら、東松浦半島に行って20km弱の糸島半島が
どの方向に見えるか確認してこい >>357
>損害訴訟裁判では偽書の判決は出されなかったのに
公的団体だけでなく、一般の人にも捏造された偽書である評価が既に定着しているのが事実<
騙された公的団体は、非難されるべきかも知れないが、
騙された「一般の人」は、ウソを信じ込まされてお気の毒。 >>358
儒教道徳の価値観では、弟子よりも師匠の方が無条件でエラくて、
起源である創始者が一番エラいので、
最初に、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説や、偽書説を唱えた学者らは、
大和説ら信者や偽書説信者の立場からすると、
改変不可のアンタッチャブルなんだよ。
その劣化コピーしか許されていない。 >>363
「南→東」などの嘘つき騙しが確定している学者の論文しか読まずに、
「南≠東」と正確に読む古田さんらを誹謗罵倒するということは、
よほど「まともな日本人」が憎いんだろう。
>宗像から57km先の沖ノ島眺めるなら<
見えなかったよ。
>東松浦半島に行って20km弱の糸島半島がどの方向に見えるか確認してこい<
糸島半島は見えても、
「伊都国」がそのどこにあるのか?までは、見えるものではないし、
実際には、その近くまで行ってから、探すか?尋ねるか??しかないよ。。 >>366
お分かりいただけるだろうか?
ザラコクが「引用を省いて」、単語置き換えオウム返しだけをしている
元の>>358の内容を、もう一度書くのがいやだったようだ
儒教道徳の価値観では、弟子よりも師匠の方が無条件でエラくて、
起源である創始者が一番エラいので、最初に九州王朝説と唱えた古田説は
ザラコクさんの立場からすると、改変不可のアンタッチャブルなんだよ
その劣化コピーしか許されていない >>365
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らや、
「喜八郎さんの筆跡と章子さんの清書の筆跡」と間違えたインチキ筆跡鑑定家らや、
右翼マスコミなどに騙されたのは、
普通の一般市民である国民だ。 >>367
沖ノ島見るなら大島から
>その近くまで行ってから、探すか?尋ねるか??
魏史だけでジャングルを探検してるのではないから
見えた時点で隣に居る倭人に訊く、か倭人が教える >>368
お分かりいただけるだろうか?。
「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師の文をそのまま引用してしまうと、
うっかりしたら、そのウソにまた騙される真面目な一般国民があるまたかも知れず、
だから、そんな怖い文は引用せずに、
オーム返しだけに止めているんですよね。 >>369
ツガルがおかしいとされたのは筆跡じゃないから
おかしなものを書いたのが筆跡で喜八郎とわかった >>365
あんたがダマされてる
人生経験積んだ方が良い
狭い世界で生きる必要なし 記紀神話から邪馬台国は語れない
常識論から大陸の文化の伝来は倭国のへ西から東へ
よって、畿内に邪馬台国があれば倭国では相当遅れた国となる
その国が倭国の盟主にはなれない >>374=>>1
はいキウスです
あんたは
進歩が無い
このスレ立ってから新たな展開が畿内には無い
他説批判するしかなくなった畿内説で良いのだろうか????
畿内説のスレゆえ敢えて
暇があればまた書き込みます それでは失礼します これが実現されたことはスレが立ってから皆無ですよ
畿内説の力量かあんたの力量の無さでしかない
☟
テンプレ
>勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。< >>370
>沖ノ島見るなら大島から<
成程。
>魏史だけでジャングルを探検してるのではないから
見えた時点で隣に居る倭人に訊く、か倭人が教える<
おそらくそうでしょうね。 ベニバナやバジルの日本伝来は3世紀で
各学者間で
オーソライズされたのでしょうか? 畿内説の炭素年代法の正確さは
世界的に認められたのでしょうか? >>380
>畿内説の炭素年代法
なんて言ってる時点でお里が知れる >>372
>ツガルがおかしいとされたのは筆跡じゃないから<
そりゃそうだ。
大和天皇家一元列島支配教(狂?)の大和説者らにとっては、
津軽や秋田で蝦夷が栄えていた、なんて文書が、肯定出来る筈がないから。
>おかしなものを書いたのが筆跡で喜八郎とわかった<
筆跡鑑定家らは、章子さんの清書の丁寧な(押さえ字の)筆跡を、
喜八郎さんの「跳ね字」の筆跡と間違える、という、
・・・・アホな詐欺鑑定をした。 纏向が王都で
箸墓は卑弥呼の墓と断定した学者がいるのでしょうか?
あなたのような素人が断定してるだけでしょう
断定してる著名な研究者はいないのが現実
「かもしれない、推測する」の研究者はいますが断定はしていない
畿内説のスレゆえ敢えて言います
>>1あなたは歴史学を取り違えていますよ
断定するにはまだま早熟な纏向・箸墓が現実です
他説批判で成り立つ畿内説なら、他説の意見を純に受け止めたいといけない >>1
寺澤氏も断定はしていません
彼の文献でも明らかです >>381
調べて無いのですか それで畿内説で確定ですかWw >>383
別に栄えていたなら栄えていてもいいんじゃね? >>387
それはキナイコシの心の中にだけいる人物です。
多勢に無勢の畿内説が破れかぶれになり、反対意見を全て一人の人物だと思い込もうとする、防衛機制です。 キナイコシを使って八咫バカに成り済まそうとするも
書き込みのアレな内容ですぐ身バレする愚かなキウス >>390
この辺みるとねー
516 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/07(水) 23:04:57.19
・・・
平原遺跡からここの畿内厨の皆さんはいつまで逃げて回るつもりですかね。
相手は堂々たる物証を持ってるだから、無視したり矮小化したりと、
そんな態度では議論に勝てるはずもないですよ。
・・・
「吉備の田舎娘を共立した」みたいな想定が、左巻きのユートピア思想にかぶれた
安っぽい妄想であることに早く気づいてほしいですね。
564 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2018/02/06(火) 07:12:49.95
畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
・・・
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
・・・
キウスが岡上の口真似ナリスマしてるか、キウスが岡上のアバターなのか
二つに一つだね いやぁ、キウスがお鏡であって欲しいわ
頭のおかしいのが複数いるとか、頭が痛くなる
ニセスレ乱立も、キウスもお鏡もやってるし、同類なのは間違いないし同一人でもなにも困らないww キウスは抜け過ぎてて身を隠せない笑えるタイプ
岡上は身を隠すためにコソコソ他人に成り済ますタイプ それよりも、とあるスレを読んでみた、
数年前の書き込みになるんだけど
誰々って川崎に住んでいるんじゃないの?
という書き込みがあったでしょ
家の事でしょ 何者かによる自作、自演なのかな?
遠い親戚、先祖か何か?
『ヱヴァンゲリヲン』→『君に決めた!』 香野という女優がいるでしょ?旧姓:タジリ?
『超香少年サトル』
むかーし結婚した家があって、
香野とかいう名前だったかな・・・と言っていたり
家は『松傾』のような名前の家 家は・・・・・
兄 弟(ポケモソの主人公のような名前) 妹:5月15日生まれ そのような写真があったり、
あの松の木が立てられている写真。
祭祀関係の家だったのかな。
浦島太郎・・・・?エビスだと言ってる人もいるんだけど。
一番、古い家なのかな。 海に関係するような話、
『超香少年サトル』?のような名前の家とも結婚していて・・・ 九州北部説って、ホント笑えるよなw
九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw
どんだけのろまなカメさんなんだよwwww >>405
大和説者って、ホント笑えるよなw。
未だに「南→東」の嘘つき騙しの反省が出来ないアホだし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事の読めない算数アホだし、
「水行十日陸行一月」はその前の「女王之所都」の説明だから、
「從郡至倭」の所要日数になる、というように、
漢文も読めないアホ詐欺師だから。
九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw
どんだけのろまなカメさんなんだよwwww モンハンというゲームも、
おかしい
雷獣を倒していたり、
ポケモン? また罵倒だけか・・・
つまり、反論できない九州説の負け
w 旧姓:タジリ
伊達郡川俣町という掲示板参照
詳しいことは、わからないんだけど、
香野という家の話をしていたり
「すさのお」と名乗る人がいたり 罵倒しているのは>>405のように畿内説の側だと思うのだけれど。 >>406の訂正
「九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw」
は、削除忘れ。 >>408
また罵倒だけか・・・。
つまり、史料事実を以って反論できない大和説の負け w 。 >>410
馬鹿な間違いを犯して自制しない人を罵倒して、なんか悪いのか? >>413
史料事実を以って反論して上げたのに、
史料事実を以って「再反論」出来ない大和説者を罵倒して上げて、
なんか悪いのか?。 >>415
史料事実に拠っての反論が出来ず、罵倒した大和説者が負け。 Q: 畿内に邪馬台国はありましたか?
A: あったのは九州王の墓でした。 >>417
>A: あったのは九州王の墓でした。
九州王なのに、九州にお墓を作らないのはどうしてですか? >>418
>>A: あったのは九州王の墓でした。<
>九州王なのに、九州にお墓を作らないのはどうしてですか?<
九州倭國王の「東征毛人55国」には、
倭王武の倭武天皇のように、自ら東征将軍として出兵したものもおれば、
大和の王らのように、
九州倭國王の配下の将軍として倭国王の命令で出兵した九州王家の将軍もおり、
征服した地にとどまって支配し続けたり、
各地の市を監督する大倭職になるものもいた。 >>419
>九州倭國王の「東征毛人55国」には、
>倭王武の倭武天皇のように、自ら東征将軍として出兵したものもおれば、
いつもこれ「東征毛人55国」は言うのに、「西服衆夷六十六國」は言わないなww
九州の西には66国ないからな
この時点で、九州王朝なんてないんだよ
「一君万民」って言葉、知ってるかい?
王家の一族は、王ではないんだ
では、再度質問
なぜ、唯一の君主たる「九州王の墓」が九州に作られないんですか? 邪馬台国が畿内にあった場合、吉備と大和の関係をどう考えるべきかという点が、
あまり検討されていない
もし畿内の邪馬台国が大陸に使者を送るには、そして魏からの使者を大和へ迎えるには、瀬戸内海を安全に確保できなければならない
そのためには、239年時点で瀬戸内海に面する吉備が大和(邪馬台国)の女王が倭王であることを認め得たという上下関係であったということになる 107年に後漢へ使者を派遣した倭王帥升が大和の大王だったとしたら、
その107年時点で瀬戸内海や北九州を確保していたのか、吉備国が大和の帥升を倭王
と認めるような上下関係にあったということになる >>422
>邪馬台国が畿内にあった場合、吉備と大和の関係をどう考えるべきかという点が、
あまり検討されていない
邪馬台国は畿内には無いので、吉備と大和の関係を検討する必要は無い。
吉備も大和も倭国(阿波)忌部の拓殖地で共に忌部一族。 @阿波 >>420
>九州倭國王の九州のお墓はどれですか?<
卑弥呼の頃の30国の中で、王とされたのは、卑弥呼と伊都国王と狗奴國王。
その内、東征に直接的に多く関係したのは、一大率の阿毎氏の伊都国王系の王。
近畿での墓で「内行花文鏡」を頭部に副葬された墓は、伊都国系の王であった可能性があり、
記紀に書かれた大和王らも、
神武や欠史八代や景行や応神らが伊都国の阿毎氏の王であった可能性がある。 >>421
>>九州倭國王の「東征毛人55国」には、
倭王武の倭武天皇のように、自ら東征将軍として出兵したものもおれば、<
>いつもこれ「東征毛人55国」は言うのに、「西服衆夷六十六國」は言わないなww
九州の西には66国ないからな<
「服」は「服属する」という自動詞であり、
西の九州付近の66国は、既に服属していた事を示す。
>なぜ、唯一の君主たる「九州王の墓」が九州に作られないんですか? <
造られている。何度も答えてある。 >>422
>邪馬台国が畿内にあった場合、吉備と大和の関係をどう考えるべきかという点が、
あまり検討されていない <
「邪馬台国」も「畿内」もなかったから×。
>もし畿内の邪馬台国が大陸に使者を送るには、そして魏からの使者を大和へ迎えるには、
瀬戸内海を安全に確保できなければならない <
「仮定」の話なんて、何の意味も価値もない。
>そのためには、239年時点で
瀬戸内海に面する吉備が大和(邪馬台国)の女王が倭王であることを認め得た
という上下関係であったということになる<
史料に全くない事だから、分裂幻覚妄想の病気。 >>423
>107年に後漢へ使者を派遣した倭王帥升が大和の大王だったとしたら、
その107年時点で瀬戸内海や北九州を確保していたのか、吉備国が大和の帥升を倭王
と認めるような上下関係にあったということになる<
史料事実に反する仮定の話ばかりだから、分裂幻覚の妄想であり、×。 >>424
>共立だからストーリーはいろいろ描けるよな<
史料事実や史料実態にない事は、幾ら分裂幻覚妄想をしても×。 >>427
>「服」は「服属する」という自動詞であり、
>西の九州付近の66国は、既に服属していた事を示す。
これ、66国が目的語の他動詞って何度教えられても、「分からないことにする」よな
だから、ザラコクはバカ扱いしかされないんだよ
ザラコクは知らない、調べない、理解しない Q: 畿内に邪馬台国はありましたか?
A: あったのは九州王の墓でした。
九州王なのに、九州にお墓を作らないのはどうしてですか?
九州倭國王の「東征毛人55国」には、
倭王武の倭武天皇のように、自ら東征将軍として出兵したものもおれば、
「一君万民」って言葉、知ってるかい?
王家の一族は、王ではないんだ
では、再度質問
なぜ、唯一の君主たる「九州王の墓」が九州に作られないんですか?
造られている。何度も答えてある。
畿内にある九州王の墓の主は、どうして九州に墓を作らなかったんですか? >>419
>倭王武の倭武天皇のように、
あれれぇ〜?
天皇なんていないから× じゃなかったのかなぁ〜? 天皇制が確立するより少し前から、天皇という称号は一部で使われており、倭武天皇という名称が残っている。 >>432
>「一君万民」って言葉、知ってるかい?
>王家の一族は、王ではないんだ
日本では王族の男子もまた王と呼ばれることがあるよ。
無知だな。 >>423
文化が進み、瀬戸内海航路による貿易も盛んだった吉備と、内陸の貧しい田舎だった大和のどちらが強かったか、誰でもわかるだろ。 >>432
作っておる。
生口=毛人の奴婢(ただの奴婢=倭人の奴婢)
が大量にいる地域では、
大王の治世を崇めて全力でできる限りの巨大墓を作った。
文明国では
無意味な土盛なんぞ作らん。 >>418
自分の敷地に墓を作る人はいない。そういう事では? >>431
>>「服」は(征や平の、始めからの他動詞とは違って)
服属する」という自動詞であり、
西の九州付近の66国は、既に服属していた事を示す。<
>これ、66国が目的語の他動詞って何度教えられても、「分からないことにする」よな
だから、ザラコクはバカ扱いしかされないんだよ
ザラコクは知らない、調べない、理解しない <
漢文の漢字は、
その文字の発生時点に持っていた意味を原意として使用して、
その意味を含みながら、いろんな品詞や使用法に応用されるものだ、
という事が、
「南→東」などの嘘吐き騙しの断定狂の・・・・大和説者のwwは、
何時まで経っても理解出来ないし判らんアホであるらしい。 >>433
>>倭王武の倭武天皇のように、<
>あれれぇ〜? 天皇なんていないから× じゃなかったのかなぁ〜?<
これも、何度も答えてある事。
大和が天皇を称したのは天智以後であり、それまでは大和では天皇はいなかった。
しかし、九州倭國には、「天皇」という文言が使われた痕跡は、二つある。
一つは、常陸風土記の倭武天皇。
もう一つは、書紀が引用した百済本記?に書かれた「日本國天皇皇太子皇子・・・」。 常陸国は、鹿島神宮、香取神宮に代表されるように、筑紫による出雲の国譲りの結果として、出雲から筑紫に支配権が渡ったからねえ。 >>442
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
おえい、いつ言うんだよおまえ! 香取海は縄文時代前期には霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼までつながり規模の大きい内海だった。
香取海の周辺は香取・鹿島両神宮の神郡であり、後有力貴族や他の有力寺社が荘園を設定したため神郡が浸食されるが、平安時代末期までは権益は全て両神宮に帰し香取神宮が「浦・海夫・関」も支配した。 >>442
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
おえい、いつ言うんだよおまえ! >>442
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
おえい、いつ言うんだよおまえ! >>6が間違えていると思うのは、
ヤマト王権は四道将軍や九州親征、ヤマトタケルのように武力で征服事業を推進しており、
宗教的指導者を、地域間紛争回避のために擁立した勢力の中核として、ヤマト王権は覇権を
得たわけじゃない
そして卑弥呼の前に男子王がいたということ
記紀ですら、崇神天皇や景行天皇など代を複数経て、日本列島各地を平定していったとする
つまり卑弥呼がヤマト王権の王だとしたら、その前から幾代も王は続いているはずで、
もともと個人カリスマありきの国ではなかったということだ
よって卑弥呼女王率いる邪馬台国と、ヤマト王権は性格が根本から異なるのである ここは畿内で確定してるスレ
位置論争基地外はお呼びじゃないから荒らすな異常者が >>425
>邪馬台国は畿内には無いので、吉備と大和の関係を検討する必要は無い。<
「邪馬台国」や「畿内」なんてなかったから、×。
>吉備も大和も倭国(阿波)忌部の拓殖地で共に忌部一族。 @阿波<
阿波は元は出雲系。
そこへ、筑紫倭國の瀬戸内以東への東征毛人55国があり、
阿波は、卑弥呼が臣下に下賜した「鏡片」が出土しているから、
(大中遺跡の鏡片の)播磨と同じく、筑紫倭国の中の姫氏系の支配下になったもの。 >>450
>ヤマト王権は四道将軍や九州親征、ヤマトタケルのように武力で征服事業を推進しており<
根本的に、大和は、
筑紫倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
「東征毛人55国」の中の一国の旧小国の国であり、
欠史八代の中の4人に「大倭」の文字が冠せられているから、
筑紫倭國の地方の市を監督する大倭職の国であったのであり、
記紀が記載する四道将軍も、倭國の東征に従軍した話でしかなく、
景行らの九州遠征も、九州倭國の「西服衆夷六十六國」に大和が従軍したり、
九州倭國の九州征服譚を記紀が盗用した事などでしかならない。 >>452
ここは「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を暴くスレ 。
「史料事実や史料実態」を否定曲解して、世間の人々を騙そうとする基地外異常者は、
お呼びじゃないから荒らすな。 >>432
>しかし、九州倭國には、「天皇」という文言が使われた痕跡は、二つある。
>一つは、常陸風土記の倭武天皇。
>もう一つは、書紀が引用した百済本記?に書かれた「日本國天皇皇太子皇子・・・」。
ため息しか出ないね
常陸風土記にどうして九州王朝の王が書かれると思うんだ?
通説では常陸風土記の倭武天皇は、ヤマトタケルが天皇として伝承されていたとみなす
>百済本記?に書かれた「日本國天皇皇太子皇子・・・」
こっちは、継体天皇だ
いつも九州説が、「記紀は九州王朝の歴史を盗んだ」って言ってるのは
自分たちのやっていることのミラーイメージなんだな
はっきりいって、バカすぎ >>454
>高天原も出雲も阿波だし
当然国譲りも阿波で完結よ
高天原は吉野川南岸に沿う「四国山地」
出雲は阿波國「南部沿岸地域」
国譲りは阿波國北部「邪馬台国」が阿波國南部「狗奴国」の「其山有丹」と「海の幸」分捕り物語 @阿波 >>459
>国譲りは阿波國北部「邪馬台国」が阿波國南部「狗奴国」の「其山有丹」と「海の幸」分捕り物語
阿波國北部「邪馬台国」も元々は阿波國南部の海人族だったんだけど、陸に上がって北上し、開拓地を北に拡げた勢力。
だから、国譲りはもともとの土地(阿波國南部)を奪い返したとも言える。 @阿波 高志も諏訪も揃ってるし古代史に他の地域要らないよな
文化無い土人達が阿波の歴史に背乗りしたってのが真相
阿波以外全部水没してればよかったのに >>460
>そりゃ九州の王が関東まで遠征してるんだから当然。
そりゃ阿波の忌部一族(海人族)をパクったら遺憾だろ。 @阿波 >>458
>>しかし、九州倭國には、「天皇」という文言が使われた痕跡は、二つある。
一つは、常陸風土記の倭武天皇。
もう一つは、書紀が引用した百済本記?に書かれた「日本國天皇皇太子皇子・・・」。<
>ため息しか出ないね
常陸風土記にどうして九州王朝の王が書かれると思うんだ?<
倭王武と倭武の名前の一致。
また大和が天皇を称する事が出来たのは、天智から。
>通説では常陸風土記の倭武天皇は、ヤマトタケルが天皇として伝承されていたとみなす<
古事記では、ヤマトタケル=倭建であり、筑紫倭國の勇者や将軍的名前。
書紀は、更に信用が出来ない。
>>百済本記?に書かれた「日本國天皇皇太子皇子・・・」<
>こっちは、継体天皇だ <
大和が「日本国」を名乗ったのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時であり、
継体は天皇でもなく、
百済本記の記載年代と大和伝承の継体の死亡との年代も合わないし、
大和には「日本天皇及太子皇子,俱崩薨」という伝承が全く存在しない。 >>464
>倭王武と倭武の名前の一致。
ため息しか出ないね
武と幼武が一致しないと言ってたのに
じゃあ、倭武は「王」の字が抜けてるから、王になれなかったってことだね
バカすぎ
常陸風土記は日本の書物だから、倭武でヤマトタケルって読むんだよ その倭武を雄略だとか言い張る意見があるから、おかしいと言っているわけで。 >>466
>その倭武を雄略だとか言い張る意見があるから、おかしいと言っているわけで。
倭王武(宋書)が雄略であって、倭武(常陸風土記)はヤマトタケル
混ぜるな無意味! >>468
>何この偏見
どこが偏見なのか、具体的に指摘してはどうか?
可能なら「根拠」をつけて
まあ、九州説が意味のある根拠つきで論じてるのは見たことがないけどさ
あるいは、根拠と称するものが憶測または妄想で、即座に否定されるかどちらかだな >>467
>倭王武(宋書)が雄略であって、倭武(常陸風土記)はヤマトタケル
すごく説得力がない。 >>471
お前さんが無理筋を通そうとしているだけ。 >>472
>お前さんが無理筋を通そうとしているだけ。
いや、倭王武を雄略天皇に比定するのは、文部科学省検定教科書に載るレベルの「定説」なんだが?
もちろん、文部科学省検定教科書が絶対正しいと主張するつもりもないし、
>>472がそれを信じないのは、日本国憲法でも思想・信条の自由として認められているから、
どうこう言うつもりはない
ただ、それを他人に主張するなら、「定説」レベルの比定を否定しようというんだから、
よほどの根拠と緻密な論証がないと、他人は認めてくれないよってだけ
その状態から、なにも「根拠一つ」すら示さずに、勝手に「無理筋」って、
言葉だけ盛っても何の意味もないよ
さあ、「倭王武は雄略天皇」の否定を主張するなら、
しっかりした根拠と緻密な論証をどうぞ! >>462
>高志も諏訪も揃ってるし古代史に他の地域要らないよな
文化無い土人達が阿波の歴史に背乗りしたってのが真相
阿波以外全部水没してればよかったのに <
魏志の倭國は、どう見ても不彌國の南の北部九州しか指していないし、
阿波は、出雲系であったところに、
倭國の「東征毛人55国」の征伐に拠って倭国支配下になった、
という事は避けられないし、
鏡片の出土により、卑弥呼の臣下が来ていた事も避けられない。 >>465
>>倭王武と倭武の名前の一致。<
>ため息しか出ないね 武と幼武が一致しないと言ってたのに
じゃあ、倭武は「王」の字が抜けてるから、王になれなかったってことだね <
勿論「武≠幼武」。
そして「倭」は、宋書の倭讃などや倭隋では、「姓」として使われている。
>常陸風土記は日本の書物だから、倭武でヤマトタケルって読むんだよ<
風土記は、(書紀とは違って)、現地の伝承を記載しており、
古事記伝承に記載された「倭」の用法と同じであり、
筑紫倭國の呼称や姓とした使用法。
だから、小碓の「倭建」は、倭の武将であった事を示す。 >>467
>倭王武(宋書)が雄略であって、倭武(常陸風土記)はヤマトタケル
混ぜるな無意味!<
倭王武≠若健や、倭王武≠幼武であって、
倭武の倭は、姓であり、名前が武であり、若健や幼武でもない。
また、大和は、宋梁代にはまだ扶桑國であって、倭國とは区別されている。
混ぜるな、史料事実否定曲解の・・・・。 >>469
>どこが偏見なのか、具体的に指摘してはどうか? <
史料事実や史料実態の否定曲解、が偏見。 >>475
>さあ、「倭王武は雄略天皇」の否定を主張するなら、
しっかりした根拠と緻密な論証をどうぞ!<
大和は、倭國から別れた別種の旧小国で、倭國の附庸國であったのであり、
倭國の東征毛人55国の中の一国であり、
宋梁代には扶桑國と呼ばれ、
日本国を名乗ったのは隋の文帝に対した時が最初であり、
唐会要は、倭國伝と日本国伝を完全に書き分け、
その内の倭國に対しては、「正北抵新羅」と説明して、
はっきり(大和にあったのではなく)九州にあった事を証言しているから。 >>465
>武と幼武が一致しないと言ってたのに
>常陸風土記は日本の書物だから、倭武でヤマトタケルって読むんだよ 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>483
>タケルって名前じゃなくて役職名という説もあるな <
元々は、「猛々しい」とか「強い」とかの形容詞的な美称であったのが、
「武」や「建」という文字も与えられて、呼称の一部になったんでしょう。 九州北部説って、ホント笑わせてくれるよなw
九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月までしといて、
まーだ九州北部にいるんだからw
ど ん だ け の ろ ま な カ メ さ ん な ん だ よ w w w w >>489
「南→東」などの嘘つき騙しのアホの大和説者って、ホント笑わせてくれるよなw。
不彌國で萬二千余里が殆ど終わっているから、
それで途中行程はほぼ終了しており、
「水行十日陸行一月」は、その直前の「女王之所都」の説明だから、
「從郡至倭〜女王之所都」の所要日数説明になる、
という事だから、
大和なんてには全く行けない、という事も判らないんだからw。
ど ん だ け の漢文も読めないアホ詐欺師さ ん な ん だ よ w w w。 Q: 畿内で金印は出てきたか?
A: 福岡県志賀島で出てきた。 Q: 畿内の古墳は誰の墓なのか?
A: 九州王達の墓である。当時畿内は九州王達の霊園として重宝された。
Q: では何故九州王は九州に墓を作らなかったのか?
A: 自分の敷地に墓を作るものはいない。 Q: 九州では3世紀までに鉄の武器が発掘されているが畿内の3世紀までの発掘に同等の物はあるか?
A: 大量の桃の種が出てきている。 Q: 畿内説の根幹とはなにか。
A: 魏志倭人伝の方角の南を東と無理して読む事。 >>496
>A: 自分の敷地に墓を作るものはいない。
九州にある古墳は誰の墓なんだろう?
筑紫君磐井は九州に墓を作っているから、九州は自分の敷地じゃないんだな >>490
こいつずっとスレに張り付いて、チャチャ入れてるけど、何者なんだ? >>286
逐一、原典を確認して、正しさを確認した。丁寧な説明有難う。 >>500
>>>496
>>A: 自分の敷地に墓を作るものはいない。
>
>九州にある古墳は誰の墓なんだろう?
>筑紫君磐井は九州に墓を作っているから、九州は自分の敷地じゃないんだな
自分の敷地には作らないが敷地近郊には作った。
畿内は九州王の墓所であった。 九州北部説、チョー受けるw
九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月までしといて、
まーだ九州北部にいるんだからww
ど ん だ け の ろ ま な カ メ さ ん な ん だ よ w w w w 九州北部説論者によって畿内説を鮮やかに論破されてしまったキナイコシが、九州北部説と対等に渡り合うためには熊本説に転向するしか無いのではないのかな。。。 熊本は南部なのか北部なのか。
九州北部説とはすなわち筑紫説だけどね。 邪馬台国は熊本城の地下にあったということだね。。。 >>504
近郊というのは九州内の話。
畿内は霊園として重宝された。 アー タノシイデスネー キュウシュウホクブセツwwww >>509
大物主の倉庫は、墓参り用のローソクや線香を蓄えておくためにあったのだねw >>511
大雨で湖が溢れても、線香が濡れてしまわないように床を高くしたのではないのかなw >>513
妻の為に大きな古墳を作ったのだね。。。 >>514
大物主の妻は、天皇の妹だから、天皇も力を貸してくれたのではないのかな。。。 ホント笑えすぎる、九州北部説wwww
九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月までしといて、
まーーーーだ九州北部にいるんだからwwww
魏使「もう、ワシ帰るわ。」 桃の種のことで、キナイコシが反撃しているな。。。
魏志倭人伝と、どう関係するのだろうか、、、 纏向遺蹟を製作した大物主とは何者なのだろうか、、、 >>519
古事記や日本書紀を読めばわかるのではないのかな。。。 さすがに墓だけそんなに遠くにすることもない。
分家があったんだろう。 長い竿、エビス、神タマでしょ
金の元(金のなる木)と言ってる人がいたり、
紙幣などのこと? まあ、なかなか意味のある議論はできないねぇ
でもまあ、平原1号墓の鏡が「八咫鏡」じゃないってはっきりしたのが、
Part341の成果かな ドラクエ・・・電気(ポケモン)、
菅原道真(不明)?の話をしていたり
『猫神やおよろず』
メイ子(五月)という名前でしょ、雷が何やらとか 兄、弟(次男)の名前がサトシ
妹:5月15日生まれ、トモミという名前 『松傾』のような名前の家でしょ?
浦島太郎、ドラクエ・・・・その他 『サイバーパンクspecial』
ロトちゃんというキャラ(仮名)がいるんだけど、
川崎区に住んでいたり >>505
「南→東」などの嘘つき騙しのアホの大和説者って、ホント笑わせてくれるよなw。
不彌國で萬二千余里が殆ど終わっているから、
それで途中行程はほぼ終了しており、
「水行十日陸行一月」は、その直前の「女王之所都」の説明だから、
「從郡至倭〜女王之所都」の所要日数説明になる、
という事だから、
大和なんてには全く行けない、という事も判らないんだからw。
ど ん だ け の漢文も読めないアホ詐欺師さ ん な ん だ よ w w w。 『猫神やおよろず』
メイ子(五月)というキャラ『打ち出の小槌』の話をしていたり。
サトシというのウマヤド(不明)? >>510
アー カワイソウデスネー ヤマトセツwwww。 水兵・・・ヱヴァンゲリヲンという作品も、
海に関係するような話ばかりじゃない? >>516
ホント笑えすぎる、大和説wwww。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わったのに、
大和説者に、南→東のウソを付かれて、
九州北部から更に「水行二十日陸行一月」させられて、
どこかの毛人の田舎に放り出されるwwww。
魏使「もう、ワシ帰るわ。」 『聖徳太子 ペルシャ』〜『魔法のペルシャ』
河童、キュウリ?あの写真?
何なんだろう、家の写真なんだけど >>517
魏使:
「なるほどやっぱり北部九州で正しかったのか。
わしゃ、田舎は嫌だ。
弥生銀座がいい。
弥生銀座に帰る」。
w あの子供の着ている制服のようなもの、
水兵でもないし
同じような服を着ている、
画のようなものを見たことがあるんだけど
亀戸?関係の話
ほとんど老婆談と同じ 着物を着ている女の人がいて・・・子供がいて、
そのような制服?を着ていていたり 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない ネットで見ただけだから、
詳しいことは、わからないんだけど
古書店?
そういうところで、扱っている(売られていた)画、
有名人なのかな
老婆が言うには、
蚕を飼い、機織り(裁縫、縫物)なんかをしていたりしたんだけど、
泥棒のようなものに入られ・・・何やらとか 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である アホじゃね?
咫が長さの単位であるのなら、それで何を測ろうが勝手だろ。
「文」章だけは立派だが、
「理」論構築が万事この調子だから迷惑すんだよ。 >>550
>平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
>具体的な長さを測ることはない
測ったら八咫になっただろう。
測らなかったという根拠がない。
>しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
>その間、その周囲の長さが知られることもない
その前に女王がおそらく祭祀で使っていたから、家臣たちは目にしていただろう。
径が二尺なのはすぐに見て取れるから、径がおよそ八咫であることも、測らなくても計算すれば出ただろう。 邪馬台国=伊都国説は、事実上、平原1号墓が卑弥呼の墓であることのみを
その理由と根拠にしているので、大型内向花文鏡が八咫鏡ではない時点で、
その根拠を失う
そもそも、径百歩にはどうやっても満たない14×12メートルサイズの方形周溝墓を
卑弥呼の墓だとするのはもとから無理があった
大型内向花文鏡を八咫鏡と考え、天照大神=卑弥呼と連想ゲームをすることと
周溝の埋まった後に、埋まった周溝に作られた土坑墓を殉葬墓と誤解することの
2点で「平原1号墓=卑弥呼の墓」と考えていたが、八咫鏡とは無縁であり。
土坑墓も、平原1号墓の被葬者と埋葬時期が周溝が埋まるほどの年月の隔たりがあり
殉葬墓ではあり得ないことから、平原1号墓が卑弥呼の墓であると考える理由はなくなる
そうなると、もとより小さすぎて無理だったのだから、卑弥呼の墓ではないのが
確認されただけなのだが、「伊都国説」も同時にその前提を失う
邪馬台国と伊都国を重ねて考えるのが最初から無理なので、おかしいことが
確認されただけともいえる どういうことなんだろう、
伊達郡の川俣町という掲示板があるんだけど、
同じことを言っていたり
家は川崎区(神奈川県川崎市)に住んでいる >>551
>アホじゃね?
>咫が長さの単位であるのなら、それで何を測ろうが勝手だろ。
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ 仮に八咫の鏡ではなかったとしても、伊都国に連綿と続く倭国王墓の一つであり、倭国大乱の後の女王が埋葬されていたわけだから、十分にこれが卑弥呼の墓だと考えられる。
まあ、記紀で言うところの筑紫の日向から見つかったのだから、八咫の鏡を神宝とする日向王家との関係も伺えるので、ほぼ間違いなく八咫の鏡だけどね。
そもそも大きさが八咫の鏡が他に見つかっていない。 そもそも職業が、わからない、
老婆ではわからないのかもしれない
たしか城に通っていたと言っていたり >>555
咫は八寸のことという定義を使っても、平原の鏡はほぼ八咫の大きさ。 >邪馬台国=伊都国説は、事実上、平原1号墓が卑弥呼の墓であることのみを
その理由と根拠にしているので、
>大型内向花文鏡が八咫鏡ではない時点で、
その根拠を失う
なんで?
大型内向花文鏡が八咫鏡かどうかと、
平原1号墓が卑弥呼の墓かどうかは、無関係でしょ?
大型内向花文鏡が八咫鏡かどうかと、
平原1号被葬者が皇室の祖かどうかは、関係してくるかもしれないけど。
「文」章だけは立派だが、
「理」論構築が万事この調子だから迷惑すんだよ。 >>551
>「文」章だけは立派だが、
文章が立派だって分かるんだ!
九州説にしてはえらいな!
>「理」論構築が万事この調子だから迷惑すんだよ。
そうだね、完璧な理論構築がなされていて、反論すらできないから
伊都国説の根幹が否定されてぐうの音も出なくて、本当に九州説にとっては
迷惑だろうね! >>555
>そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
>実用される長さの単位ではなかったことが分かる
儀式に用いるのだから、古い規格に古式ゆかしく作ったのだろうね。 >>560
>文章が立派だって分かるんだ!
>九州説にしてはえらいな!
クソテンプレと同じく、弁舌は立つが中身がなく、不実だ。
詐欺師の論法。 >>558
>咫は八寸のことという定義を使っても、平原の鏡はほぼ八咫の大きさ。
>>555を再掲 強調を追加
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上「ない」
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
「実用される長さの単位ではなかった」ことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ >>560
キミは理論がなってない。
議論をしているつもりでも、その根幹がなってない。 >>563
間違いを指摘されて慌てて誤魔化してるね。
キミは咫は長さと言った。
キミは咫は長さだが、円周を測った用例がない、と言った。
長さである以上は、用例がなかろうが
円周を測って差し支えないだろう?
と指摘されて、
慌てて
咫が「実用される長さの単位ではなかった」と誤魔化しに入った。 >>556
>伊都国に連綿と続く倭国王墓の一つであり
ブブー 間違いです
伊都国王墓までがせいぜい
倭国王墓とは小さすぎて認められない
さらには、伊都国王墓の地である三雲遺跡群の外に作られていることから、
伊都国王墓とも考えにくい
副葬品から女性の墓だと判断できる
伊都国の鏡作りの家系から、伊都国王に嫁いだ女性の墓が
鏡作りの家系の家族墓地に作られたと考えるのが妥当 >>556
不気味な信念だね。 狂気を覚える。 @阿波 >>566
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>568
>伊都国王墓までがせいぜい
その時代、倭国内の他の地域に王墓がない。
>副葬品から女性の墓だと判断できる
女王の墓です。
>伊都国の鏡作りの家系から、伊都国王に嫁いだ女性の墓が
他の王墓を凌ぐほどの豪華な副葬品があった理由になりません。
痛々しいほどの現実逃避のための妄想です。 >>556
>ほぼ間違いなく八咫の鏡だけどね。
八咫鏡は、日本書紀巻第十四 雄略天皇紀に
「使倭子連連、未詳何姓人奉『八咫鏡』於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」」
とあるように、もともとは皇統の証を指す固有名詞ではなく、「祭祀用の大鏡」程度の
意味のようだから、その意味で八咫鏡と言い張るなら御自由に
でも、皇統とも天照大神とも卑弥呼とも無関係だよ
そもそも「八咫鏡」には、円周が八咫という意味は「八咫鏡」にはないからね
>そもそも大きさが八咫の鏡が他に見つかっていない。
大きさが八咫の「八咫烏」も見つかってないねぇ
実際の大きさを「咫」では測らない(>>555他で論証済み)し、
平原出土鏡が八咫鏡と考えられた可能性すらないよ >>566
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>570
>亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
稲作を持ち込んだのに、なぜ餃子になるんだよ。 >>573
うわ、なんで先回りして餃子を削ったんだ?
エスパーかタイムトラベラーか? >>564
>キミは理論がなってない。
では、どこがなっていないのか、「論理」的に示してね!
「理論」じゃなくて、「論理」だから!ww
>議論をしているつもりでも、その根幹がなってない。
議論しているつもりはないよ?
確定事項の確認をしているだけ
コリアンジェノサイダー・nayuki と同様、完全な正解がこちらサイドにあるから
議論には最初からならないし、楽なもんだ 軍人でもない、警官でもないと言っていたり
『河童バビィ』? >>572
>でも、皇統とも天照大神とも卑弥呼とも無関係だよ
アマテラスは卑弥呼がモデルという与太話はあったわけだが、八咫の鏡という共通項が生まれてしまった。 >>576
>コリアンジェノサイダー・nayuki と同様、完全な正解がこちらサイドにあるから
>議論には最初からならないし、楽なもんだ
実際に存在する考古学的証拠について、君は何一つ説明できていない。 >>567
>間違いを指摘されて慌てて誤魔化してるね。
>キミは咫は長さと言った。
>キミは咫は長さだが、円周を測った用例がない、と言った。
そう言ったし、実際に、「円周を測った用例」はないだろ?
「平原の鏡の『周囲を測ったら』八咫だから八咫の鏡」と主張しているのは
伊都国説側だから、「周囲を咫で測る妥当性」の挙証責任は、伊都国説側にある
でも、それを一例も出せなかっただろ?
その時点で、単なる偶然の一致、に反論不能で、その時点で論理的に
「平原出土鏡が八咫の鏡」説は、挙証不能な憶測でしかないんだよ
だから、親切にもこちらから「ダメ押し」をしてあげただけ
「周を測ることはない」を「長さを測るのにも使われていない」に
バージョンアップしてあげたんだよ
これで諦めが付くだろ 家は『松傾』のような名前の家
老婆が言うには、家の、
お爺さんの家の誰だったかな〜、子供の頃の写真だと言っている >>571
>その時代、倭国内の他の地域に王墓がない。
つ 吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
つ 出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
つ 丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
つ 大和の纒向石塚古墳で全長96メートル
大墳丘のような労力のかかる構築物は、動員できる人口の大きさ=権力の大きさを
示す権力誇示のモニュメント
どれをとっても、12×14メートルの平原1号墓より、王墓にふさわしい >>574
徐福は山東の華北人だこのノータリン。
三足土器の鬲の上に甑を載せて、その上に蒸し餃子を入れた蒸籠を載せて、
蒸して食べていた。 >>570
徐福→秦氏→蘇我氏→聖徳太子→源氏(基本である >>581
>実際に存在する考古学的証拠について
大きな鏡が出土した 事実
八咫の鏡だと思った人がいた ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼 そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる
こんな程度の話
「実際に存在する考古学的証拠」は「大きな鏡が出土した」までなんだよ >>584
>どれをとっても、12×14メートルの平原1号墓より、王墓にふさわしい
田舎のお大尽 円周が八咫である史上最大の鏡が、玉や剣とともに、倭国大乱より後の女王墓に副葬されていた。 >>582
直線を測る尺度と
円周を測る尺度を
別々に設定した地球上文明ってあるの? >>585
さがびよりを注文して徐福様に感謝してたべるといい
邪馬台国の味がするぞ >>591
西欧の数学にはラジアンという単位があってだな… お金が無くなったというか、
神社・仏閣などを建ててるときの資金、
誰か、どこかに寄付したりしたのかな >>586
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えおまえ! どこから届いたのか、わからないんだけど
橋が架かったので、来てくださいという
招待状が届いたことがあった
と言っていたり もう、そのときは、歳も取っていて、
遠いからと言って断ったんだよ
とか というか家の話なんだけど、
あの日本昔話とか
小手子の像というものが建てられているでしょ、
あの近所にも住んでいたことがあるんだよ
と言っている 戸籍のようなものがあったでしょ、
香野という名前とか書いてなかった?
老婆の旧姓はワタナベ
ストーカーがいるのかな、
住所というのも東・西福沢町の辺り >>571
>他の王墓を凌ぐほどの豪華な副葬品があった理由になりません。
そうは言うけれど、仿製鏡がやたらたくさん出る以外は、他の墓に負けてるぞ?
五尺刀が出た、というけれど、丹波の大風呂南墳丘墓で14本の鉄剣が出ていて、
一つの弥生墳丘墓としては最多
ガラスの耳璫をありがたがる人もいるが、同じく大風呂南墳丘墓では、多数の
ガラス製品の中に、青いガラス釧が出ていて、弥生時代最高の品とされている
結局、破砕供献のための仿製鏡をたくさん作りましたってのが特徴で、
伊都国の青銅器作りの家系から伊都国王妃が出て、がんばって副葬品を
集めて、大きな鏡も作りましたって感じなんだよな
そして、その鏡も破砕した上で割竹型木棺の外に4ヶ所にまとめて
ざらっと埋めてあったとされていて、他の方格規矩鏡と区別されている
様子もないし、王権の象徴の卑弥呼の鏡というには大事にされてなさ過ぎる 家の話なのかな、あの戸籍というのも、
伊達郡のほうの役所まで行き・・・持ってきた?
そのようなことを言っていた >>587
>円周がほぼ八咫である、はどうした?
これ、他のスレでも答えたけれど、
「実際に存在する考古学的証拠」ではなくて、
現代人の解釈で「そう考える人がいる」だけなんだよ
そして、その現代人の考え方の間違いを、>>555他で完璧に論証している
平原1号墓の出土鏡が、破鏡前に「咫」の単位で測られることはありえないし
したがって、「八咫」であると認識されることもない
当然「八咫の鏡」などと呼ばれることもない訳だ >>594
>西欧の数学にはラジアンという単位があってだな…
気持ちは分かるが、それは角度の単位であって、長さを測る単位じゃない すべて本当の話
職業は、わからないんだけど、
当時、住んでいた家には、
本や書なんかが沢山並んでいたとか >>604
八咫鏡を8枚くらい作った頃の人たちは、
平原1号に5枚副葬したのと同じ3枚があるのはわかっていたわけだから、
同型の鏡がある。
3世紀以降に測ってみた。
八咫だ。
じゃあ、八咫鏡と呼ぼう。
だから後世での呼び名は八咫鏡、
という自然な流れ。 >>590
>円周が八咫である史上最大の鏡が、
最大までは、いいけれどそれが「八咫である」とするのは意味がないのは
完全に論証済み
>玉や剣とともに、
ウィキペディアあたりでも、こうはっきり書いてあるし、3つ揃いであることを
そんなにありがたがらなくていいんだよ
「古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは
皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ」
>倭国大乱より後の女王墓に副葬されていた。
この編年については、まだそう決め付けたものでもないぞ
一応は、西新式土器直前とされているけれどな
ガラスの耳璫を基準に考えると、かなり遅くしなければならなくなる
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf >>606
>玉が無数に出ている。
>>602でも書いたけれど、玉、ガラス製品では、丹波の大風呂南墳丘墓の方が豪華だよ
基本的に、平原1号墓が誇れるのは「大きな鏡が出たこと」と、おまけでガラスの耳璫だな
でも、1墳墓あたりの鏡の種類、枚数では、大和の桜井茶臼山古墳の方が上 その後の事は知らない、
老婆曰く
本や書なんかもどうしちゃんだろう、
誰かに、あげたのか、売ったのかな〜・・・近所の人が・・・・ >>608
>平原1号に5枚副葬したのと同じ3枚があるのはわかっていたわけだから、
その同じ三枚って、どれのことだい?
ソースか根拠を示してくれよ
伊勢神宮のものとは、大きさが違うよ?
>3世紀以降に測ってみた。
史記の時点で、「咫」を長さを測るのに使っている事例は事実上ない
それが、さらに時がたって、「咫」の定義さえ失われ、尺の長さも
漢尺から長くなってから、周尺の「咫」で測るなんてことがある訳ないだろ
想像力(捏造力?)が豊かなのは分かったけど、根拠のない想像は意味がない >史記の時点で、「咫」を長さを測るのに使っている事例は事実上ない
>それが、さらに時がたって、「咫」の定義さえ失われ、尺の長さも
>漢尺から長くなってから、周尺の「咫」で測るなんてことがある訳ないだろ
咫が長さの単位なら、円周だろうがなんだろうが事例と関係なく測ればいいだけ。
3世紀以降と言ってるのに、
なんではるか後世に設定しているのか意味不明。
反論になっていなくて困る。 『松傾』
詳しいことは、わからないけど、
そのような職の家でしょ? >>609
> 皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ」
でもほぼ筑紫か大和に特有でしょ。
一般の在地勢力というわけではないんだよ。
>ガラスの耳璫を基準に考えると、かなり遅くしなければならなくなる
平原遺跡の年代を早めたり遅めたり、工作が大変だな。
耳璫だと魏晋の頃なので、まさに卑弥呼が葬られた頃だ。
まあ、遅い方が卑弥呼の没年に近づくからそれでいいよ。 あの伊達郡という掲示板
ほむだ(誉田?)・・・の話をしている人がいたり 卑弥呼の没年の頃に、帯方郡から一万二千里にあり魏の使いが留まるとされた伊都国において、周が八咫の鏡、剣、玉とともに葬られた、倭国女王は誰だったのかなあ?
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 Q: 邪馬台国は何処にあったか?
A: 一つは九州にあった。もう一つは畿内説者の心の中に存在している。 >>615
>咫が長さの単位なら、円周だろうがなんだろうが事例と関係なく測ればいいだけ。
咫に限らず、円形のものの大きさを、円周長で示した事例はない
反論したければ、「測ってもいいだろう」という「憶測」ではなく、
「反例」として「実際に測った事例」を挙げてくれ
それができないなら、ただのごまめの歯軋り
>3世紀以降と言ってるのに、
>なんではるか後世に設定しているのか意味不明。
上の方で挙げた大陸史書の成立年は
史記 紀元前91年
漢書 82年
三国志 3世紀末
後漢書 432年
なんだよ
この時点で、紀元前から3世紀以降も含め、5世紀までカバーしてるだろ?
この状態で、3世紀以降云々を言い出すやつがいるとは思わなかったよ
大陸史書の成立年を意識してないんだな
>反論になっていなくて困る。
反論になっていなくて、バカなんだなぁと思う >>620
昨日観念してたのは、もう忘れたのか?
詐欺常習の上にニワトリ級のオツムだな >>616
>でもほぼ筑紫か大和に特有でしょ。
>一般の在地勢力というわけではないんだよ。
そんなことはない
山口県の赤妻古墳でも、山梨県の甲斐銚子塚古墳でも、揃って出てるよ
これも、ちょっとググって出てきたのを挙げただけで、特に目立つ古墳でもないし
普通の在地勢力でも、普通に剣・鏡・玉のセットで副葬してる >>621
>昨日観念してたのは、もう忘れたのか?
どれのこと? >>620
八咫鏡ってのは平原以降の倭人が測定したって言ってるのに
お前はアホか?
うん、お前はアホだな。 >>623
7.9咫だから、もう八咫の鏡でいいよと言っていたな。 とあるサイト、
掲示板を読んでみた?このようなことを言ってる人がいたり
>大伴、物部は倭系だっと思っています。
『小手神社 菅野』?
むかーし、この近所に住んでいたことあるとか >>624
>八咫鏡ってのは平原以降の倭人が測定したって言ってるのに
>お前はアホか?
平原以降は、埋められちゃってるから測れない
つ>>613
「その同じ三枚って、どれのことだい?
ソースか根拠を示してくれよ」
>うん、お前はアホだな。
伊都国説を信じられる方が、バカだから安心して! 蚕を飼い、機織りをしていたり・・・、
そのようなことを言っていた
たしか遠い親戚が住んでいる、
むかーし住んでいたことがあるとか >>538
>でも、それを一例も出せなかっただろ?
その時点で、単なる偶然の一致、に反論不能で、その時点で論理的に
「平原出土鏡が八咫の鏡」説は、挙証不能な憶測でしかないんだよ<
1咫が約18cmなら、八咫≒144cm。
平原の内行花文鏡の直径は約46.5cmだから、
円周は3.14倍して、約146cm。
成程。大体合っているね。
そして、大和の阿毎氏の雄略紀に「八咫鏡」という表現があるんなら、
大和以外の倭奴國や伊都国の阿毎氏も、
「八咫」や「八咫鏡」や「八咫烏」などというものを使っていてもおかしくない。 >>625
>7.9咫だから、もう八咫の鏡でいいよと言っていたな。
いや?
八咫だと言い張っても、実際にはその数字すら合っていないって言われたんだぞ?
脳内での変換力が高いな!
論理展開が追えないんだな 伊勢、皇居の他に、日前宮、国懸宮、宗像辺津宮にもあることになっているらしいよ。 「wwwwwwwww」となるはず
倭人、和人=日本人と書いてあったり >>584
>大墳丘のような労力のかかる構築物は、動員できる人口の大きさ=権力の大きさを
示す権力誇示のモニュメント
どれをとっても、12×14メートルの平原1号墓より、王墓にふさわしい<
祇園山が卑弥呼の墓であって、平原が(卑弥呼の宗女の)壹與の墓であるんなら、
当然、卑弥呼の墓よりは大きくし難いし、魏の薄葬令の制約も受けて、
12×14メートルの平原1号墓でおかしくない。 数年前のkpopスレ
「日本人だぞ」
「日本人なんだよな〜」
「大日本人だからな〜」
延々と、このようなことを言ってる人がいたり 家の話でしょ
兄、弟、妹:5月15日生まれ
むかーし、その近所に住んでいたとか >>602
>五尺刀が出た、というけれど、丹波の大風呂南墳丘墓で14本の鉄剣が出ていて、
一つの弥生墳丘墓としては最多<
「14本の鉄剣」じゃ、
そりゃ倭国の「東征毛人55国」の伊都国系の将軍の墓であった可能性が高い。 なぜ知っている人がいるのか?なんだよ
遠い親戚なのかもしれないけど
「美穂」という人がいるでしょ、あの漫画などの話でしょ
もれ(仮)には、わかる >>632
>日前宮、国懸宮、宗像辺津宮にもあることになっているらしいよ。
日前宮、国懸宮は、伊勢の鏡の前に作った試作品だから、伊勢の鏡と
同じ大きさのはず
で、伊勢の鏡は最大9寸で、平原の鏡とは異なる
伊勢の鏡が焼けて作り直したというのは、原田大六氏が「読み解いた」以上の
根拠はなく、たぶんがせネタ
宗像辺津宮の分は、調べがつかない
誰か、詳しいこと知ってる人いないかな? >>602
昭和40年に確認され、発掘調査された平原遺跡の1号墓(平原弥生古墳)出土の、直径46.5センチメートルの大型の青銅鏡。
発掘した原田大六はその出土状況から、
「故意に破壊されたのではなく、なんらかの事故によって、破砕した鏡片を集めて、四か所に分けて埋納したらしい」
と主張している。
通常の内行花文鏡とは異なり、鏡背に銘字はなく、文様のみの銅鏡である。
その文様は、鏡背中心の鈕を囲んで八葉形の鈕座があり、その周囲に8個の内行花文、9本の同心円、外縁部を配す。
鏡の縁には、縦に背面から正面に約1,500本の弧状線があり、鏡面(正面)となる。
発掘者の原田大六はその文様から「内行花文八葉鏡」と名付けている。
平原遺跡での出土数は発見発掘時には4面とされていた。
原田は、出土した破片は
「発見時の破片からほぼ完形状態の2面が復元でき、
学術調査による発掘で獲られた破片からは、3分の2の状態の鏡しか復元できなかった」とする。
鏡の中心部である鈕は4個の出土である。
これらのことから原田は「内行花文八葉鏡は4面である」と結論した。
平成の前原市の再調査の際、大型内行花文鏡4面のうちの1面(12号鏡)には、
他の破片との接合箇所が不明な辺縁部の破片が確認されたとして、
前原市教育委員会の依頼により、奈良文化財研究所が、鉛同位体比法や発光分光分析により、
当該破片は他の大型内行花文鏡とは別個体に属するものである、
とする可能性が指摘された。 >>630
>「八咫」や「八咫鏡」や「八咫烏」などというものを使っていてもおかしくない。
その場合は
「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだね
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った
つまり、伊勢の神鏡=八咫鏡とは無関係ってことだ
つまり、天照大神とも無関係だな
卑弥呼ともつながらない わかる人には、わかるんだよな〜
と言ってる人もいた
『Cowboy Bebop』 >>604
>平原1号墓の出土鏡が、破鏡前に「咫」の単位で測られることはありえないし
したがって、「八咫」であると認識されることもない
当然「八咫の鏡」などと呼ばれることもない訳だ <
阿毎氏らは、
「八咫」という文言を知っていて、使用していた、
という事になっていたよ。 >>624
三種の神器の起源の話をしてるのに
古墳に埋納された遺物の話を持ち出すアホですから。 よく、わからないことを、言ってる人がいたり
『お前たちのしたことは すべて知っている』 >>647
古墳に埋納された遺物に八咫鏡はあったのか? 311の被災地の話でしょ、
あの辺りには原子力発電所があるんだよ、
もう少し海のほうなんだけど
と
老婆は、すぐにわかった >>608
八咫鏡やたのかがみ
三種の神器の一つで、巨大な鏡のこと。
咫(あた)は長さ(周制の八寸)を表し、その名は「景行紀」や「雄略紀」にもみえるが、
記紀神話で石凝姥(いしこりとべ)(あるいは天糠戸(あめのあらと))によってつくられ、
剣・玉とともに賢木(さかき)にかけて日神招迎の神事に用いられた八咫鏡が著名である。
天孫瓊瓊杵尊の降臨にあたって
「私の御魂として私自身をあがめるように祀れ」
と天照大神が命じ、五十鈴宮に祀ったと伝承される。
この伝承の背後に、鏡を日神の象徴とみる宗教的観念の存在していたことはもちろんであるが、
道教で鏡が宇宙の最高神の権力の象徴とされていることとも関連があるとする説がある。 まさかガンダムの話ではないと思う
三春(ミハル)というところがあって・・・、
そっちのほうの話 >>409
>この編年については、まだそう決め付けたものでもないぞ
一応は、西新式土器直前とされているけれどな<
明帝の下賜鏡である「尚方作」の21枚の方格規矩鏡が出土しているんだから、
卑弥呼以後にしかならんよ。 >>610
>玉、ガラス製品では、丹波の大風呂南墳丘墓の方が豪華だよ<
大量の鉄剣が出ているから、倭國の「東征毛人55国」の将軍の墓だろうなあ。
>でも、1墳墓あたりの鏡の種類、枚数では、大和の桜井茶臼山古墳の方が上 <
確か竪穴式石室だったから、(布留の)ホケノよりも後であり、
4世紀以後の墓だな。 これも同じでしょ、
桜が何やらという話をしていたり、花咲爺さん?
『ワンピース 粉雪』 >>622
>山口県の赤妻古墳でも、山梨県の甲斐銚子塚古墳でも、揃って出てるよ
これも、ちょっとググって出てきたのを挙げただけで、特に目立つ古墳でもないし
普通の在地勢力でも、普通に剣・鏡・玉のセットで副葬してる <
剣・鏡・玉のお宝は、
基本的には天孫族や阿毎氏の伊都国系の国から始まったもので、
その後、高良大社の姫氏にも広がったようだし、
伊都国系の「東征毛人55国」の将軍らの支配地にも広がった。 老婆の話、謎の震災が起きた後
北斗の拳【再】(東京MX)を観ていたり、
一度だけ。 糸島の大型鏡が弥生時代後期なのは間違いないので、
それらの伝承が残って他の地方の神社で、
後世に作ったんだろうね。 実際は美穂?『カンノパトラ』
その家(一族)の話、太陽の神官か、何かという意味でしょ。
ザ・モモタロウに出てくる「うらしまマリン」も同じ、
太陽の紋章というのが隠されていて、本気を出すと・・・紋章が浮かび上がり・・ >>641
日前神宮・國懸神宮は、和歌山県和歌山市にある神社。
1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮あるいは名草宮とも呼ばれる。
両社とも式内社、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁に属さない単立神社。
日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。
社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命が、
八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、
日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。
当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。 『聖化 日神 日霊 津』
日神、日霊を降ろし・・・・。
降臨関係の祭祀? >>643
>その場合は
「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、
単に「大きい(多い)」という意味と捉えるという通説に従う、ということだね<
別に八咫に「大きい」なんて意味はない。
144cm位の寸法だと考えたから、使った。 >>651
>と天照大神が命じ、五十鈴宮に祀ったと伝承される。
おいおい、間を飛ばしすぎ。
ニニギは八咫の鏡を持って、筑紫の日向に降臨し、高千穂宮で倭王に即位した。 宗像大社ウィキペディアより
神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。
宗像三宮の御神体依代について、筑前国風土記に依れば、
『西海道風土記曰、宗像大神、自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、此三表成神體之形而納置三宮、即隱之因曰身形郡後人改曰、宗像其大海命子孫、今宗像朝臣等是也云々』
と逸文に記述あり。
大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。 何者にもなれない=クリスタル
というキャラも、誰かの少女時代という設定なのかもしれない 裏伊勢、八咫の鏡、宮中賢所…
宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている。
宗像大社の鎮座は天孫降臨の頃とされるので、神武東征後の伊勢鎮座より遥か前だ。
おそらく、天孫族とともに筑紫に到来して、そのまま鏡のうち一枚?を保有していたのだろう。 もれ(仮)の妹の話なのかな
どう考えても、そうなる、5月15日生まれ kpop?
よくわからないけど
陽、光、サニー?みたいな名前のメンバーがいたり、
5月15日生まれ 謎のチェーンソーのゲーム
「海賊ごっこは終わり」と言っていたり
どのスレだったかな
「お前らジャンプが好きなのか?」
という書き込みがあったり、少年ジャンプのことだよ 邪馬台国論争もそろそろ詰めなんじゃないか?
筑紫が弥生時代を通じて倭の王都であり、後に八咫の鏡などの文化とともに畿内に勢力を拡大した。
ならば、卑弥呼のいた弥生時代末期においても、倭の王都である邪馬台国は筑紫に決まっている。
掘っても掘っても何も出ない纒向、歴代王墓の中でもとびきりの豪華な副葬品の女王墓がある伊都。
結論は目に見えている。 >>668
>宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている。
どこに?
またキウスの捏造かw 本当は日本の話だぞ
と言ってる人がいたでしょ
あー、寒い・・・・
『松傾』〜『もう歳だ』、外は降り止まぬ雪・・・という曲とか、ウマヤド? 『菅野力夫』
トナカイではないけど、
ソリのようなものに乗っていない? 松の木?の立てられている写真があったでしょ、
親が言うにはモミの木だと言っていた
あまり大きくはないけど、
昔、家にも植えてあったとか 葉が尖っていて痛いんだよ
とか
昨年の冬頃、テレビを観ていて、
そのような話をしていた 俺の真似しているだけなんだろう
『氷の世界』
自作自演か何か?なのかな >>649
>>>647
>古墳に埋納された遺物に八咫鏡はあったのか?
平原遺跡の八咫の鏡 >>678
威信財から副葬品、そして神器へと変化したんだよ。
その最後の姿だけを見て古代を語るなど無意味なこと。 『Surfin' In The Snow』という曲もなかった?
『菅野力夫』
グーグルで画像を検索すると、ほとんど出てくるし、
ナイフの曲とか『ギザギザハートの子守歌』?
『ザ・モモタロウ』に出てくる、
ウラシマン(どこかの王子だという話)のテーマなのかな、
サーフィンをしているシーンがあったり
『ボーボボ 田ぼ』
本当にストーカーがいるとか? 『ヱヴァンゲリヲン』も確実に仮名(キャラクター名) 家にある、謎の写真
『葱の華』
も写っているでしょ?力夫氏と同じ家なんだけど
ボーボボ 田ぼ? 軍人、警官・・・・でもない、
ただ寺院に通ったりしていたと言っている
そういうシステムなのかな?
『捨身飼虎』
家に収入はないし 兄 弟 妹:5月15日生まれ
なぜ知っているのか、
わからないんだけど、
弟(サトシ)だよと言ってる人がいたり キュウリの葉も写っていたはず
『何者にもなれない お前たち』 『平家物語 死』
オズボーンの曲とか
何かの家だったのかな 『松傾』のような名前の家
本物?だと言ってる人がいたり、何なんだろう もののけ姫、トトロのような気がする、
『白猪森』のようなところがあったり >>680
それが八咫の鏡だっていう根拠は?
ないだろ? >>682
アホか
威信材から埋葬品に格下げされたものが神器に発展するとか、どこの宇宙の世界線の話をしてるんだ。 機織り、香野姫、合羽(かっぱ)、白い猪・・・の話
サイト自体、
1999-2007?のようになっているし、
どういう事なんだろう
むかーし住んでいたことがると言っていたり、
旧姓:タジリと関係しているのかな 配布されることのなかった平原1号の鏡は、威信材であったかどうか疑問 家の老婆が言うには、
蚕を飼い、機織りなんかをしていた家で、
何々様なんて言われていたんだよ
と言っていた 畿内説が圧倒的優勢になっちゃったから
九州説は荒らし以外に出来ることがないみたい
末期症状だね >>668
>宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている。
>>681
>西海道風土記逸文
ここで原文確認できるが、宮中の鏡が宗方の分霊だなどとは書いてないぞ
http://www.geocities.jp/huzisan/saikaidou.htm
井上通泰「西海道風土記逸文新考」
西海道風土記曰。
宗像大神自天降居埼門山之時
以青蕤玉置奥津宮之表
以八坂瓊紫玉置中津宮《之》表
以八咫鏡置邊津宮《之》表
此以《以此》三表成神體之形而納《置》三宮即隱之
因曰身形郡 後人改曰宗像 其大海《汝》命子孫今宗像朝臣等是也云々
《 》は井上による、脱字の推定
原文を確認されなければごまかせると思ったか?
科学板なんだから、ごまかさずにきっちりと資料検討しようや 八咫の鏡だから王権のシンボルだ〜
という論理は成り立ちようもないなあ >>700
筑前国風土記に引用されているらしいよ。 >>695
埋葬されなかった分が、伝世品となり、神器と称されるようになったんだろ。
わかりやすい。 >>703
Wikiを引いただけだから、そちらでどうぞ。 偶然なのか、何なのか、わからないけど、
『なよたけ』
かぐや姫の事じゃなかった?宇宙人の役を演じていたり、
むかーし、結婚した家があって、香野とか言ったかな?
と言っていた(老婆談)
遠い親戚なのかな 家は『松傾』のような名前の家なんだけど
何度、書いても同じ、いま小手子の像というものが建てられているところ、
その辺りに住んでいたことがあるとか 銀▢という親戚がいたり、
これは漫画の話なんだけど、
髪の毛が、白く(灰色、銀色?)なったりするキャラ >>705
な〜んだ、またデマか
これだから九州説は・・・ 今回もまた、九州説が意味のある根拠つきで論じることはなかった
根拠と称するものが憶測または妄想で、即座に否定されたから 宗像大社ウィキペディアより
神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。
宗像三宮の御神体依代について、筑前国風土記に依れば、
『西海道風土記曰、宗像大神、自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、此三表成神體之形而納置三宮、即隱之因曰身形郡後人改曰、宗像其大海命子孫、今宗像朝臣等是也云々』
と逸文に記述あり。
大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。 >>705
>Wikiを引いただけだから、そちらでどうぞ。
こんな風にトンデモ説は、ただゴマカすだけで、決して証拠を出すことがない
出せば詐欺だとすぐバレる 畿内説を論破されてしまったキナイコシが、八咫の鏡のことで必死に反撃しているな。。。 >>714
八咫の鏡が九州で作られた鏡だと、どうしてキナイコシにとって都合が悪いのだろうか。。。 >>711
>と逸文に記述あり。
>大和朝廷から重視され、古来遷都の度に宮中の賢所(かしこどころ)に当社の分霊が奉斎された。
ウィキペディアの当該ページを確認すると
逸文の記述と、分霊の奉斎は直接つながってはいなくて別の話
大和朝廷は、沖ノ島祭祀も主催していたし、宮中に宗像神社の分霊「も」祀っていたというだけ
賢所に、宗像神社の神霊の分霊(お札?)を置いたってだけで、
八咫鏡が宗像の分霊って意味じゃない
しかし、ウィキペディアもいい加減だな
というか、編集したやつがいい加減なんだろうが
この部分、読点の位置がおかしい
「自天降居埼門山之時以、青玉置奧津宮之表以、
八尺紫玉置中津宮之表以、八咫鏡置邊津宮之表以、
此三表成神體之形而納置三宮」
正しくは
「自天降居埼門山之時、以青玉置奧津宮之表、
以八尺紫玉置中津宮之表、以八咫鏡置邊津宮之表、
以此三表成神體之形而納置三宮」 結局
「宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている」
は八咫厨の妄想か >>715
天皇が九州からきたことを、否定したいのではないのかな。。。 妄想ですね。
だいたい鏡の分霊という日本語がおかしい。 >>715
物事を証拠に基づく真偽でなく、自説の都合で考えるという
九州説の性格がよく出ているな >>718
キナイコシは、天皇が奈良にいたネアンデルタール人ということにしたいのではないのかな。。。 >>721
おかしいな、、、今僕たちが解読している古事記には、最初の天皇は九州の生まれと書いてあるな。。。 八咫鏡説が徹底的に論破されたら伊都厨が怨霊になったようだ >>722
そうだね、、、そして九州の北の方に立ち寄ってから、奈良に戦争を仕掛けているな。。。 >>724
そうそう、同じことが並行して解読している日本書紀も書いてあるね。。。 川が流れていて、ダムがあったんだよ・・・
という話もしていたし。蓬莱ダム。
伊達郡 飯野 羽柴という地名があったり
『ボーボボ 田ぼ』?木の下 大八49歳? >>725
キナイコシは魏志倭人伝だけではなく、古事記や日本書紀も否定するのだね。。。 家の話なのかな?
『とよとみみ』
聖徳太子(仮)サトシ?だと言っていたり 卑弥呼と神武天皇はどちらが古い時代の者なのだろうか、、、 >>663
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と亀卜は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 伊都厨は手痛く論破される心的外傷とかがトリガーとなって、他人との会話しない異常な人格が目覚めるのだろう 謎の刀の話とか、
何の刀なんだろう、指揮をするような系統?
むかーし、家にあったと言っているし >>663
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
亀卜と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>663
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! その刀は横にして、飾ってあったんだけど、
盗まれたw盗まれたというのは確実だと言ってる
畳や床下の土まで掘り起こされていた
何の刀だったんだろう 昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 畿内説を論破されたキナイコシの呟きが狂気じみているな。。。 計算すると、神武天皇の方が古い時代のようだな。。。 八
咫
鏡
を論破されて糸屑が発狂してるな
いつもの醜態ながら
キ
モ
イ >>748
そうだね。。。僕たちは今、古事記と日本書紀に卑弥呼のことが書かれていないか研究しているだけなのにね。。。 >>749
そうそう、このレベルの低いスレッドを、そのための備忘録代わりに使っているだけなのにねw あの掘立遺跡が大物主の倉庫で、神武天皇の時代のものだから、孝元天皇の妹の墓は随分と後の時代の物だね、、、 しかし、大物主はその孝元天皇の妹の夫でもあるね。。。
どういうことだろうか、、、 やはり、大物主というのは役職名なのではないのかな。。。 >>749
「僕たち」って、一人でなにやってるんだコノ異常者
w 九州の王族に仕えた霊園管理者の役職名なのだろうか。。。。 それにしては、自分の妻の為に作った墓がやけに大きいな。。。 >>756
大物主の妻は天皇の妹でもあるから、良いのではないのかな。。。 >>757
なるほど、、、大物主は神武天皇の舅でもあったね。。。
大物主と天皇は長い時代に渡って、親戚だったのだな、、、 熊沢天皇関係の話なのかな
>また、熊沢は1935年(昭和10年)前後で、
>葛尾天皇らと共に福島県双葉郡浪江町、
>大堀村辺りで後南朝の埋蔵金発掘をしている。
場所は少し離れているけど、年代も違うかも? >>758
孝元天皇の妹の古墳は崇神天皇の時代に作られているな。。。 >>761
つまり纏向遺蹟は、神武天皇から崇神天皇までの天皇家の霊園遺跡なのだね。。。 キナイコシは基地外じみたことを呟いた挙句、それをキナイコシが伊都厨と呼ぶ人物のせいにしているな。。。 なぜ、キナイコシは霊園遺蹟を邪馬台国ということにしようとしているのだろうか。。。 ほとんど同じ話だと言っているわけなんだけど
それと家は『松傾』このような名前の家、画像(写真)も貼り付けたはず、
以前、住んでいたところとか、伊達郡というところの山の上ほう。
調べてみた? >>693
>それが八咫の鏡だっていう根拠は? ないだろ?<
平原の巨大内行花文鏡の外周寸法が、「八咫」にほぼ一致。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 松の木の立てられている写真も貼り付けたはず、
『松傾』のような名前の家
葱の華・・・?の写っている写真とか >>695
>アホか 威信材から埋葬品に格下げされたものが神器に発展するとか、
どこの宇宙の世界線の話をしてるんだ。<
筑紫倭國本国では、威信材や副葬レベルであったものが、
倭國から別れた別種の旧小国では、大事な「お宝」や「神器」になった、
という事なら、幾らでも起こり得る。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>767
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 >>768
キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 >>772
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 老婆が言うには
沢山あった、本や書なんかも、
近所の人にあげたか、売ってしまったのかな〜、誰かが持って行っちゃったのかな〜。
いまの福島県の伊達郡?のほうには、その人が住んでいるんじゃないの?
本や書などを入手した人。 >>697
>配布されることのなかった平原1号の鏡は、威信材であったかどうか疑問<
鏡片という形式にしたつもりで造ったホウ製鏡であったんなら、
威信材であった、とも言える。 本当に、おかしな話
『サイバーパンクspecial』
というコミックに登場するロトちゃんというキャラ、
川崎に住んでいたり 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>699
九州説が圧倒的優勢になっちゃったから、
大和説者は、言葉尻への口先騙しのヘイトスピーチや、荒らし以外に、
出来ることがなくなったみたい 。 >>775
僕たちが、テンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。 でも、その譲り受けた人?も伊達郡には住んでいないかもしれない、
いまとなっては、わからない話 >>701
>八咫の鏡だから王権のシンボルだ〜 という論理は成り立ちようもないなあ <
鏡は、普通は顔位のサイズにものなんだろうから、
八咫の鏡位の巨大サイなサイズの鏡は、当然王権のシンボルになるんだろうなあ。 >>771
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形もなにもかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 Q: 3世紀迄畿内には鉄の武器がありませんでしたが九州勢から侵略されたりしてないのですか?
A: 当時の畿内原人の武器は木の棒、石でした。畿内原人は鉄の武器を装備している九州勢にあっさりと侵略されました。 >>776
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>773
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 本当に、おかしな人がいる、いた?のかもしれない
数年前の、とあるスレ、
キチ▢イは相手にされないと言ってる人がいたり 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>766
>平原の巨大内行花文鏡の外周寸法が、「八咫」にほぼ一致。
一致するって証拠は?
ないだろ? 改めてあのテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>797
で?
あいかわらず具体的な反論は何も出来ないのか? >>774
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、去年の黄金週間もやまなかったね。 複製して何者かが貼り付けている投稿と、何度も何度も必死に戦っている、奈良の狂った老人がいるね、、、
なぜだろう、、、 >>792
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>801
お前の荒らしが皆から評判が悪いだけだよ >>716
>ウィキペディアの当該ページを確認すると
逸文の記述と、分霊の奉斎は直接つながってはいなくて別の話<
そのWikiの筆者は、「分霊の奉斎」という情報を見ていなくては書けない、
というような、
恐れ多い内容であるから、そういう情報が存在していたんだな。
>大和朝廷は、沖ノ島祭祀も主催していたし<
沖ノ島祭祀を主承したのは、当然筑紫の天孫族の阿毎氏であり、
宗像氏はその祭祀担当一族であり、
大和王は、直接的に担当していなかった。
大和は、直接関与出来るようになったのは、おそらく、継体が磐井を倒して、
筑紫倭国の王家の一員になってから後。
>宮中に宗像神社の分霊「も」祀っていたというだけ
賢所に、宗像神社の神霊の分霊(お札?)を置いたってだけで、
八咫鏡が宗像の分霊って意味じゃない <
後の大和天皇家の阿毎氏らは、当然、天照らの八咫鏡の伝承も知っていたから、
伊勢神宮や賢所などに、三種の神器の一つとして、
八咫鏡よりも小さいサイズの内行花文鏡の分霊を置く事は有り得、
宗像の分霊のお札を置くこともあり得る。 >>717
>結局 「宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている」
は八咫厨の妄想か<
そのWikiの筆者は、当然、
そんな恐れ多い事を書いた、という事は、
「宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だ」という情報を持っていた。 >>794
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 最近、私が相手をしてないからザラコクの書き込みが綺麗にスルーされてるなww もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>797
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形もなにもかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 驚いたな。。。
キナイコシがザラコク氏に敗北を宣言してしまったよ、、、 キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 >>798
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>719
>妄想ですね。 だいたい鏡の分霊という日本語がおかしい。<
西海道風土記曰,宗像大神,自天降,居埼門山之時,
以青蕤玉,【一本作八尺絮蕤玉。】置奧津宮表。
以八尺蕤紫玉,置中津宮表。
以八咫鏡,置邊津宮表。・・・
人皇第七代孝靈天皇四年仁,自出雲國簸河上,筑紫宗像仁御遷宮。
第一神者,集海淡築島,示居於遠海之息,未來際可降伏異國之由有御誓留件島給。則號息御島。
日本與高麗中間也。居遠瀛,是於奉號田心姬命。
第二神者,示居中海之息,今號大島是也。
嚴重奇瑞多之,居是奉號湍津姬命。
以三神者,示居於海邊,今號田島是也。
居海濱,是奉號市杵姬命云云と云へり。
だから、市杵姬命が八咫鏡を奉祭していた事になる。 八咫の鏡は高天原で作られて筑紫に持ち込まれたと記紀に書いてあるね。
その後に大和に移動して、そこから伊勢に移動したとある。 >>720
物事を証拠に基づく真偽でなく、大和説の都合で考えるという、
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師の大和説者の性格がよく出ているな。 >>723
八咫鏡は市杵姬命が奉祭し管理ていた、という事が出て来て、
大和説が徹底的に論破されたら、
wwが怨霊になったようだ。 >>813
>人皇第七代孝靈天皇四年仁,自出雲國簸河上,筑紫宗像仁御遷宮。
誰か翻訳プリーズ >>816
不利になっていないのに何故でてるの?
w >>728
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らやwwらの、
一人で分裂幻覚妄想をする異常性が、気味悪い。 >>731
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
分裂幻覚妄想の呟き荒らしは、
お前ら大和説者やwwだろだろ?。
w >>735
wwや、「川崎」狂や、「さっさと言えおまえ! 」狂らは、
=呟きあらしの大和説者、
で間違いなさそう。 >>822
ザラコクがそう言うということは
やっぱり呟き荒らしは九州説男で確定だな >>823
どう見ても引用符がザラコクではない件について。 >>738
wwらや大和説者らは、「南→東」などの嘘吐き騙しや、
分裂幻覚妄想などのような精神的な病者は、
手痛く論破される心的外傷とかがトリガーとなって、
他人との会話しない異常な人格が目覚めるのだろうか。 >>747
八咫鏡を市杵姬命が奉祭していた事がバレ、
「南→東」などの嘘吐き騙しを論破されて、
wwや大和説者らが発狂してるな。
いつもの醜態ながら
キ
モ
イ 。 >>754
大和説者らって、三人でなにやってるんだ?、コノ異常者。
w >>760
論破された大和厨、
ログ流しに必死。
可笑 >>813
>西海道風土記曰,宗像大神,自天降,居埼門山之時,
以青蕤玉,【一本作八尺絮蕤玉。】置奧津宮表。
以八尺蕤紫玉,置中津宮表。
以八咫鏡,置邊津宮表。・・・
西海道風土記はここまで
>人皇第七代孝靈天皇四年仁,自出雲國簸河上,筑紫宗像仁御遷宮。
第一神者,集海淡築島,示居於遠海之息,未來際可降伏異國之由有御誓留件島給。則號息御島。
日本與高麗中間也。居遠瀛,是於奉號田心姬命。
第二神者,示居中海之息,今號大島是也。
嚴重奇瑞多之,居是奉號湍津姬命。
以三神者,示居於海邊,今號田島是也。
居海濱,是奉號市杵姬命云云と云へり。
この部分は、風土記ではない
風土記は一応漢文でかかれているのに、最後の「と云えり」がおかしいと思わないのが
どうしようもなくダメ
この部分は、江戸時代の福岡藩士で国学者の青柳種信の『瀛津島防人日記』で、
宗像神社社務所發行『沖津宮』〈昭和三年七月刊〉所收だそうだ
江戸時代の国学者にそう考えた人がいたってだけ
>だから、市杵姬命が八咫鏡を奉祭していた事になる。
だから、ならないよ
まあ、「祭祀用の大鏡の普通名詞」として八咫鏡を宗像神社が奉祭しているのは
事実だけれど 次のテンプレを書きたくてウズウズしているokuyamaさんの姿が思い浮かぶようだ。 >>830
>まあ、「祭祀用の大鏡の普通名詞」として八咫鏡を宗像神社が奉祭しているのは
宗像の鏡を見たことあるのかよ。
適当だなあ。
宗像三女神はアマテラスから鏡を預かって筑紫への天孫降臨に付き従ったから、宗像大社に八咫の鏡があっても何の不思議もない。 >>796
>>平原の巨大内行花文鏡の外周寸法が、「八咫」にほぼ一致。<
>一致するって証拠は? ないだろ?<
平原の巨大内行花文鏡の外周寸法はほぼ146cm。
「八咫」は、ほぼ144cm。
だから、ほぼ一致。 >>803
お前ら大和説の「南→東」などの嘘吐き騙しや、
荒らしのやり方が、
国民の7割から受け入れられず、
評判が悪いだけだよ。 >>833
鏡の大きさを外周寸法で表す根拠がない
8咫が144cmである根拠がない
だから、一致するという根拠がない
ご愁傷様 >>835
>8咫が144cmである根拠がない
一咫が八寸なら、平原の鏡が八咫の鏡でいいだろ。 >>836
?
いつの時代の八寸?
なんつー粗放な論理だ >>830
>この部分は、風土記ではない
風土記は一応漢文でかかれているのに、最後の「と云えり」がおかしいと思わない
のが どうしようもなくダメ<
そんな事、「筑前國風土記逸文」を見りゃ、(誰にでも)直ぐに判ること。
問題は「以八咫鏡,置邊津宮表」として、八咫鏡とはっきり書かれていた、って事。
>この部分は、江戸時代の福岡藩士で国学者の青柳種信の『瀛津島防人日記』で、
宗像神社社務所發行『沖津宮』〈昭和三年七月刊〉所收だそうだ <
青柳種信だったのか。
Wikiでは、
青柳 種信は江戸時代後期の国学者、福岡藩士。
沖ノ島御番中に記した『瀛津島防人日記』、
藩公式の地誌『筑前国続風土記拾遺』の編纂、
三雲南小路遺跡出土物の研究等で知られる。
沖ノ島御番をしたり、
『筑前国続風土記拾遺』を記録したんじゃ、詳しい訳だ。 >>838
つまり八咫の鏡は王権の象徴でも何でもないわけだ 結局
「宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている」
云々は風土記と無関係なヨタ話
せいぜい御縁起レベルだ >>839
アマテラスの神勅に基づく倭国王権の象徴だよ。 >>841
八咫の鏡のひとつがそうなだけだ
総理大臣は日本人だが日本人がだれでも総理大臣じやのと同じ >>842
>八咫の鏡のひとつがそうなだけだ
宗像三女神は、直接その神勅を受けた立場なわけだが? >>839
>>>838
>つまり八咫の鏡は王権の象徴でも何でもないわけだ
キナイコシは嫌日なんだな。 >>843
いや、王権の象徴たる真経津鏡のほかゴロゴロあるとしている >>832
>宗像三女神はアマテラスから鏡を預かって筑紫への天孫降臨に付き従ったから、宗像大社に八咫の鏡があっても何の不思議もない。
宗像三神は、天孫降臨より前に降りてるから、八咫鏡には触ってない
一書では、誓約で生まれた直後に
乃以日~所生三女~、令降於筑紫洲、因教之曰「汝三~、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」
また別の一書でも、誓約で生まれた直後に
卽以日~所生三女~者、使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣、今在海北道中、號曰道主貴、此筑紫水沼君等祭~是也。
天孫降臨と一緒に降りたのは
又以中臣上祖天兒屋命・
忌部上祖太玉命・
猨女上祖天鈿女命・
鏡作上祖石凝姥命・
玉作上祖玉屋命凡五部~、使配侍焉。
の五柱で五伴緒と呼ばれる
>適当だなあ。
どっちがだよww >>836
>一咫が八寸なら、平原の鏡が八咫の鏡でいいだろ。
史記から、漢書、三国志、後漢書の範囲で「咫」の字で全文検索をかけると
「咫尺」という熟語で使われるのがほとんどで、わずかな長さという意味
あと、「尺有咫」で「18寸」を示す用例もあるが、そのたびに「八寸曰咫」と
いう注が付き、当時、既に「咫」が 実用される長さの単位ではなかったことが分かる
当時「咫」はすでに「長さの単位」としての実質を失っている
平原出土鏡を「咫」で「測ったら」八咫だったというのは、ありえない >>844
>宗像三女神は、直接その神勅を受けた立場なわけだが?
これは、嘘または勘違い
>>847を参照してくれ
いずれにしても、>>844を書いた人間のレベルが低い 記紀に於いて、天照大神がアマテラスとスサノオの誓約で誕生した宗像三女神を、天孫降臨より以前に日本と大陸の間を結ぶ海の島々(海北道中、胸形之奥津宮、中津宮、邊津宮)に降臨させた女神らで、宗像大神ともいう。
日本書紀には「道主貴」と記述される。
『汝三神は、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祀かれよ』と神勅を授けられた。
宗像三宮は記紀に記載された御神名と鎮座地が明確に記述されたものでは最も古い。
なるほと、先に降りていた。
しかし、神勅は受けている。
対馬海峡を支配して南北に自由に移動して、アマテラスから神勅を授かったのだろう。
当然、実際には天孫に付き従っていたはず。
神勅は手紙で受け取ったとでも? >>839
>つまり八咫の鏡は王権の象徴でも何でもないわけだ<
古代の記録では
八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、
この鏡を天照大神自身だと思って祀るように、
との神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した
国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(後に5面に修正)は
原田大六によると八咫鏡そのものという。
この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。
つまり、文字や神獣などの図柄は無い。
また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、
この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、
この「大型内行花文鏡」のみである。 >>852
>しかし、神勅は受けている。
捏造はやめーや
それとも、電波受けまくりの人なのかい?
宗像三神が、天照大神の神勅を受けたというのは、日本書紀本文にはない
一書の一つに
「汝三~、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」
とあるだけ
読み下しは
「汝三神、宜しく道中に降居し 天孫を助け奉り 天孫に祭らるるところと為すなり」
これは天照大神からの命だから、神勅といえば神勅だけれど、
>>852がいう神勅は、これだろ?
是時、天照大~、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰
「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」
これには、宗像三神は一切関わってないよ 宗像三女神が「怡土三女神」でない滑稽さ。
「宗像」が如何に重要な地か分かり、「怡土」など歯牙にも触れない滑稽さ @阿波 >>840
>結局 「宮中の八咫の鏡が宗像大社の八咫の鏡の分霊だと明記されている」 云々は、
風土記と無関係なヨタ話 せいぜい御縁起レベルだ<
皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。
そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、
またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。
しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。
天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。
寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。
このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。
翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、
公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
その後、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、
それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
だから、賢所には、「鏡の形をとどめないもの」になり、
だから、宗像から分霊の証書を貰う必要がある。 >>856
キミの想像はわかったが
根拠はあるのか?
ないよな >>842
>八咫の鏡のひとつがそうなだけだ
総理大臣は日本人だが日本人がだれでも総理大臣じやのと同じ<
(平原を除けば)現存する八咫の鏡は、伊勢神宮にしかなく、
それを持ち出せないとすれば、
宗像の邊津宮から、「八咫の鏡の分霊」をして貰うしかない。 >>856
>だから、賢所には、「鏡の形をとどめないもの」になり、
>だから、宗像から分霊の証書を貰う必要がある。
なるほど。
焼けてしまったから、そういえばあそこにも一枚あったな、と。 >>854
いや、
「汝三~、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」
の方だよ。
どちらも神勅だが、言いたかったのは、宗像三女神はアマテラスのもとに参上して神勅を授かり、邇邇芸が乗った船の護衛をしたはずだということ。
つまり、八咫の鏡と同時にも移動している。
ただしその前にもすでに筑紫入りしていて対馬海峡の支配権を確立していたのだろうね。 >>830
>風土記は一応漢文でかかれているのに、最後の「と云えり」がおかしいと思わないのが
云々より前の漢文調の部分は、どこからの引用なんだ?
防人日記のさらに出典があるはずだが? >>861
>宗像三女神はアマテラスのもとに参上して神勅を授かり、邇邇芸が乗った船の護衛をしたはずだということ。
あんまりバカをさらすなよ
日本書紀の当該部分を読んだことがないのが丸分かりだぞ?
この一書曰の部分は、アマテラスとスサノオの誓約の場面の直後で
宗像三神が「誓約で生まれたその場」で、アマテラスから下界に降りよって
言われてるんだよ
「アマテラスのもとに参上して神勅を授かり」
これがどこまでも頭が悪い >>848
大和説は、「南→東」などのウソを付くし、
「宗像に八咫鏡があった事を隠蔽した事」も不適当。 >>865
> 「宗像に八咫鏡があった事を隠蔽した事」も不適当。
九州では宗像が一番。 @阿波 >>864
原文を確認した。
確かに一書曰とした上でそのように書いてはある。
だが、これは引用するときに縮めたのではないか?
誓約の直後にもう天孫の話が出ている。
「汝三~、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」
の神勅は出雲の国譲りの後のはずだからだ。
本文との相違点だけまとめたら直後につながってしまったと考えるべきだ。 >>862
>云々より前の漢文調の部分は、どこからの引用なんだ?
当該部分の西海道風土記逸文は、『瀛津島防人日記』下にあるもの
江戸時代には、その逸文を参照できる史料があったということになる
下のURLで井上通泰の西海道風土記逸文新考が読めるから、そこに
いろいろ書いてあるよ
http://www.geocities.jp/huzisan/saikaidou.htm
江戸時代前期の神道家で、伊勢神宮外宮の祠官の家の
度會延佳の鼇頭舊事紀・古事記傳なども、この文の引用があるって書いてある >>867
>原文を確認した。
いまさらかよww
するってぇと、その前に書き散らしていたことは、確かめてもいないものを
勝手に想像して書いてたってことだな
まさに「九州説クオリティ」ww
>確かに一書曰とした上でそのように書いてはある。
日本書紀の一書曰は、その原典など存在しないから、
日本書紀に書いてあることがすべてだよ
その外のことを書くならば、基本的に全て捏造と同じ >>868
>度會延佳の鼇頭舊事紀・古事記傳なども、この文の引用があるって書いてある
その度會氏は忌部一族の末裔。 @阿波 >>849
>>一咫が八寸なら、平原の鏡が八咫の鏡でいいだろ。<
>史記から、漢書、三国志、後漢書の範囲で「咫」の字で全文検索をかけると
「咫尺」という熟語で使われるのがほとんどで、わずかな長さという意味
あと、「尺有咫」で「18寸」を示す用例もあるが、そのたびに「八寸曰咫」と
いう注が付き、当時、既に「咫」が 実用される長さの単位ではなかったことが分かる
当時「咫」はすでに「長さの単位」としての実質を失っている
平原出土鏡を「咫」で「測ったら」八咫だったというのは、ありえない <
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり)
とある。
「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、
八咫は約147cmとなる。
しかし平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は、
直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、
弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった。 伊都な。
紀ノ川にも伊都の地名があるんだな。
伊都の勢力はどこかのタイミングで畿内近傍に移ったんだろうな。
神功皇后、住吉明神と同じタイミングかもしれない。 >>854
>宗像三神が、天照大神の神勅を受けたというのは、日本書紀本文にはない
一書の一つに 「汝三~、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」
とあるだけ 読み下しは
「汝三神、宜しく道中に降居し 天孫を助け奉り 天孫に祭らるるところと為すなり」
これは天照大神からの命だから、神勅といえば神勅だけれど、
>>852がいう神勅は、これだろ?
是時、天照大~、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰
「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」
これには、宗像三神は一切関わってないよ<
変な男。
「汝三~、宜降居道中、奉助天孫、而爲天孫所祭也」、と、
天孫を奉助するように、
と、書いてあるではないか。 >>872
大きな鏡が出土した 事実
八咫の鏡だと思った人がいた ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう これは連想ゲーム
アマテラスのモデルは卑弥呼 そういう仮説もあるという程度
大きな鏡が出土したから卑弥呼の墓 風が吹けば桶屋が儲かる
こんな程度の話なんだよ >>874
>天孫を奉助するように、
八咫鏡とはまったく関係ないだろ? 宗像三女神は、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(筑前大島)、辺津宮(宗像田島)に祀られる
沖の島では4世紀後半からヤマト王権による岩上祭祀が始まるけど
大島の御嶽山祭祀遺跡や九州本土田島の下高宮祭祀遺跡の
沖ノ島と共通性をもった祭祀遺構は8−9世紀中心(7世紀後半までに始まる)
だから三柱の女神の成立は記紀の直前くらい >>877
>沖の島では4世紀後半からヤマト王権による岩上祭祀が始まるけど
夢だよ。
筑紫倭国が主導した。 八咫の鏡が弥生時代末期に作られていたことは平原遺跡で証明されたのだから、そんな言い訳が通じるものか。 八咫の鏡の裏にはヘブライ語が書かれているというのは単なる噂なのかな 権力も文化も、筑紫から全国にもたらされた。
筑紫こそ史書にある倭国である。
この簡単な事実から目を背けて、古代からずっと大和が日本の歴史の中心であったかのような万世一系思想に畿内説という新しい衣を着せて、嘘で嘘を塗り固めたのが今の日本史だな。 漢代の筑紫から権力も文化も王統もずーっと続いていたら万世一系 >>883
>ずーっと続いていたら万世一系
神皇正統記にケンカ売ってるなw >>879
>八咫の鏡が弥生時代末期に作られていたことは平原遺跡で証明されたのだから、そんな言い訳が通じるものか。
どこがどう言い訳なのか、も
咫で円周を測っている例も、
一つも説明できない負け犬の遠吠え
ちょっと考えてみれば、八咫厨の言うとおり「咫」が円周を測るのに便利だったとしても
面径が1尺または2尺以外の大きさだったら、何の役にも立たないよな?
そして実際、面径が1尺とか2尺ちょうどの鏡なんてほとんどない
こういう論理的な思考実験だけでも、八咫厨伊都国説の虚妄はすぐに明らかになる それよりも人工地震の話なんだけど、
なぜ起きたんだと思う
漫画やアニメ、ゲーム・・・・その他、
家の話だからでしょ?妹の話 芸能、音楽など・・・その他、
なんかもそうでしょ
『お前たちのしたことは すべて知っている』と言ってる人がいたり 家は『松傾』このような名前の家なんだけどw
妹:5月15日生まれ 八咫馬鹿のささやかな抵抗も鎧袖一触だったようだ
そして呟き荒らしが始まる
・・・ 刑務所(死刑)に行くか、
自殺するか、はやくしたほうが良いぞ
何度、言えばわかるんだ 『たまごっち!』
という作品、観たことがない?
偶然なのか、何なのか知らないけど、
妹と同じ名前(ともみ)の女の子が出て来たでしょ 大体、読んでいて気付いているはず
むかーし結婚した家、香野という家。
蚕や機織りなんかをしていて、何々様と言われていた。
当時?住んでいたところも伊達郡、
小手子の像というものが建てられている近所。 家は『松傾』このような家、
銀▢という名前の人もいたりするでしょ?
調べてみるといるでしょ かなーり前の話になるんだけど
・本物なんじゃないのか?(何かの本物)
・本人だぞ
みたいなことを言ってる人がいたり どのスレだったかな、
川崎(神奈川県の川崎)に住んでいるんじゃないの?
と言ってる人がいたり 白猪森の話があるでしょ、
合羽(かっぱ)が何やらとか
葱の華、キュウリの葉?の写真の話なのかな
『松傾』
このような名前の家だと言っているし ペグマタイトというのも
『ワンピース 粉雪』の話でしょ 爆弾の話なのかな
謎の地震が起きたでしょ、
海のほうに原子力発電所があるんだよ
とか
老婆は、すぐにわかった ワンピースに出てくる、
老婆?のキャラクター名、機織り関係の名前でしょ 確実に、クレハ=呉羽、機織りの話
『呉羽 機織り』 何が言いたいのかというと
実際は、人(他人)の家の話なのに、
まるで自分(または、すり替え。実際はAという人の話なのに、Bの話にしたり、A⇔B)の家のことかのように
話を創作したり?
そういうのは終わりしろという話
刑務所(死刑)か、自殺か 本当のスサノオというスレ
でも言ってるでしょ
兄 弟?
それと妹がいるということも、
なぜ知っているのか?とか ワンピースに出てくる、博士?
『戦艦ヤマト デスラー』
『ガンダム ギニアス』
同じコンセプト(存在。モデル。)だとわかるはず ウダウダという作品
銀▢という人物がいて・・・その兄?
同じコンセプトでしょ また狂人が徹夜で荒らしてたのか
いまどき九州説やってると頭が変になるんだな >>883
九州北部では勢力がしばしば入れ替わり政情が不安定。
それが魏志倭人伝などにある倭国の姿。 >>885
>そして実際、面径が1尺とか2尺ちょうどの鏡なんてほとんどない
平原遺跡の鏡がまさに径二尺 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 説明してるけど?
北部九州は失速したってことも
八咫鏡だっていう根拠がないことも >>912
>須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓
早良国(仮称)の吉武高木遺跡の特定家系墓は王墓に数えるのはやめたのかい?
>玄界灘沿岸の稲作文化
菜畑遺跡が最古なのは多分正しいけれど、弥生時代草創期の段階で東北の
垂柳遺跡まで水田稲作は伝播してるよ?
鉄器使用と稲作文化は弥生文化の特徴であって、北部九州が特別って訳ではない
弥生時代は深さ1メートルを超える川は灌漑に利用できなかったし、
小河川が多く分布するところから、拓けていった
>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材
金印は紀元57年の朝貢で、卑弥呼の遣使の200年前
宗像神社のご神体は八咫鏡だけれど 、和歌山の日前神宮の日像鏡や
國懸神宮の日矛鏡のような、伊勢の御神鏡との縁起は何もない >>912
>金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
王「たち」じゃないね
確認できるのは卑弥呼の200年前の「漢倭委奴國王」一人だよ
二百年前に天皇は京都御所に居たから、今も天皇は京都にいたはずっていうのは
穴だらけ以前に論にならないだろ?
二百年後の状況で判断しないと意味がない
>それには卑弥呼も含まれる。
二百年後の卑弥呼を、1世紀の金印を根拠に論じられても、3世紀の証拠や根拠はないの?
って話にしかならないよ
>邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
後漢書は、ほぼ魏志倭人伝の抜粋で、情報量はほぼ変わらない
後漢書で略した部分を、九州説がご都合解釈しているところも多い
魏略の伊都国萬餘戸などは考えに入れる必要があるだろうが、魏略逸文の多くが
誤字脱字ばかりの翰苑に拠るのでこれもどこまで信頼していいか、慎重に考える必要がある
>魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。
水行20日+10日、陸行1月を無視し、伊都国、奴国と邪馬台国が別の国として
書かれているのを無視する読み方は、悪質だと私も思うよ
後漢書を参考にするなら拘奴國は邪馬台国の東だけれど、これも無視すべきではないよな
自女王國東度海千餘里至拘奴國 >>910
>平原遺跡の鏡がまさに径二尺
たまたまだろ?
他の鏡の円周を測るのに、「咫」という単位は何の役にも立たない
>>885ご参照
そして、実際「咫」の字は長さの単位としては事実上使われておらず、
「咫尺」という熟語としてしか使われていない
「咫尺」は日本の辞書にも載ってるよ
しせき
【咫尺】
1.《名》わずかの距離。 「―の間(かん)」
2.《名・ス自》貴人の前近くに出てお目にかかること。
「咫」には大きいという意味はなく、むしろ日本語の「寸借を惜しむ」と同様、
「近い、短い」ことに使われる
「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った >>919
>「寸借を惜しむ」
誤変換、酷いな
「寸尺を惜しむ」だわ
と思ったら、「寸刻を惜しむ」だな
日本語が不自由ですみません サハリン?
貴族・・・本当は三貴神、三貴子という意味
そもそも(もともと)、
サハリンの家の領地(土地)だったとか
言ってる人がいるでしょ 追放、追い出された?
ような事を言っていたり
本当はサングラスも同じ家でしょ >>855
>宗像三女神が「怡土三女神」でない滑稽さ。
「宗像」が如何に重要な地か分かり、「怡土」など歯牙にも触れない滑稽さ@阿波<
宗像は、縄文出雲の陶ケンが出土したから、元は出雲系の地。
そして、対馬壱岐沖之島の海峡に渡来して来ていた倭人の天孫族の、
出雲でのNo.2であった阿毎氏の(姪浜の小戸付近出身の)天照らに拠って、
国譲りを強制されて、出雲は盟主の座を失い、
天照は、三人の娘に、沖之島〜宗像の支配を任せ、
孫のニニギに、能古島から怡土の地に天孫降臨させた時に、
「三人の娘」に助太刀させた、
という事になるだけ。 >>919
そうだな。
たまたま大鏡の中で最古であり、たまたま最大であり、たまたま平原の他では出土してなくて、たまたま鈕座が八葉であったのだな。
そして、それがたまたま女王の墓だったのだね。
そして、たまたま弥生終末期の墓だったんだ。
うん、たまたまだね🎵 >>870
>>確かに一書曰とした上でそのように書いてはある。<
>日本書紀の一書曰は、その原典など存在しないから、
日本書紀に書いてあることがすべてだよ
その外のことを書くならば、基本的に全て捏造と同じ<
この男は、相変わらず変な男だなあ。
8世紀の書紀が「一書曰・・・」として引用して書いた事なんだから、
それは、8世紀の書紀の手元に、8世紀以前の文書が置かれていた、という事であり、
それが史料事実であり、史料実態であり、
それを元して、他の事を帰納的確率的な推論をして、当然ではないか。
この投稿は、まさに「大和説者の狂気のクオリティ」ww?。 >>924
>それがたまたま女王の墓だったのだね。
そうそう、それで正解
ただ、ドメスティックな女王様ってだけだw >>876
>大きな鏡が出土した 事実
八咫の鏡だと思った人がいた ここで憶測が入る
八咫の鏡ならアマテラスだろう これは連想ゲーム
・・・こんな程度の話なんだよ <
史料事実からの、帰納的確率的な推論。
不可知部分が殆どである自然や歴史の関する人類の常識的な推論行為であり、
何ら問題にならない。
問題があるのは、不可知部分に対して、
相手には、数学的論理学的な「100%絶対論」を要求し、
自分の方は、
都合の悪い史料事実や史料実態を「否定曲解の嘘つき騙し」をする」を大和説人種の方。 >>876
>>天孫を奉助するように、<
>八咫鏡とはまったく関係ないだろ?<
天照は、市杵姬命にもニニギにも八咫鏡を与えた、という事になっているんでは?。 >>877
>宗像三女神は、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(筑前大島)、辺津宮(宗像田島)に祀られる
沖の島では4世紀後半からヤマト王権による岩上祭祀が始まるけど
大島の御嶽山祭祀遺跡や九州本土田島の下高宮祭祀遺跡の
沖ノ島と共通性をもった祭祀遺構は8−9世紀中心(7世紀後半までに始まる)
だから三柱の女神の成立は記紀の直前くらい<
古田さんの沖之島の発掘調査の紹介では、
縄文や弥生からの遺物があった、
という事であった。 平原遺跡より宗像方面の遺跡のほうが歴史的価値が高い。 @阿波 >>885
>どこがどう言い訳なのか、も 咫で円周を測っている例も、一つも説明できない負け犬の遠吠え
ちょっと考えてみれば、八咫厨の言うとおり「咫」が円周を測るのに便利だったとしても
面径が1尺または2尺以外の大きさだったら、何の役にも立たないよな?
そして実際、面径が1尺とか2尺ちょうどの鏡なんてほとんどない<
八咫(≒145cm)が、鏡の面径であったのか?、周長であったのか?、は、
当然用途の問題。
顔を見るんであれば、面径1〜1.5咫で済むし、
周長なら3〜4.5咫で済む。
という事は、八咫鏡は、「顔を見る」道具というよりは、
始めから、何らかの祭祀に使うか?、集光器としての使用物であり、
面径が145cm位では、製造も持ち運びにも困難を来す事になり。
面径である、というよりは、周長であった、という可能性が高い。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1524279954/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 八咫鴉の八咫は当て字と思うね。
蛇のことをヤアタと呼ぶ地域がある
蛇神奉斎する一族の男子を彌太郎と呼んだりする。
八咫鴉の正体は高鴨のカモ族のことであるから
出雲族出自の人物をなぞらえた呼称であろう。 「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味
類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
表す八を使った ていうかさ、円周が八咫だって言っている人は、1尺を何センチだと思っているの?
ウィキペディアさんだと
「戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
ってことになっているよ?
この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、
八咫=160センチになる
この周尺20センチが10寸で、咫が8寸なら、約16センチ=咫で、
八咫=128センチになる
どちらも、146センチにはならないぞ? >>930
>古田さんの沖之島の発掘調査の紹介では、
>縄文や弥生からの遺物があった
そんなものどこにでもある
沖ノ島の遺物は時期的に継続もしていない >>889
「南→東」などに嘘つき騙しの大和説者や大和説学者らのアホのささやかな抵抗も、
鎧袖一触だったようだ
そして呟き荒らしが始まる ・・・ >>891
成り済まし、騙りの、「南→東」などの大和説者、
はやく刑務所に行け。
刑務所(病死)に行くか、
自殺するか、はやくしたほうが良いぞ 。 この狂った書き込みはzarakokuかな
それとも誰かが彼にナリスマシてるのかな
どっちにせよ、議論に負けた九州説の荒らしだけど >>908
また「南→東」などの嘘吐き騙しの狂人が徹夜で荒らしてたのか。
いまどき大和説やってると頭が変になるんだな。 >>910
>平原遺跡の鏡がまさに径二尺<
成程。
こりゃ、「八咫」が周長であった、という事の証拠にもなるね。 >>941
そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう >>913
>説明してるけど? 北部九州は失速したってことも 八咫鏡だっていう根拠がないことも<
説明してるけど?。
大和説は失速したってことも 、
筑紫には八咫鏡の根拠があったことも。 >>916
都合の悪い史料事実や史料実態を黙殺するだけではなく、
否定曲解して国民を騙し、
大和の史料根拠や理由が全くのように言えないのが、大和説。 >筑紫には八咫鏡の根拠があったことも。
いや、無いだろう
いくら聞いても答えがないもの >>947
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と亀卜は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
即、言えおまえ! >>917
>>須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓<
>早良国(仮称)の吉武高木遺跡の特定家系墓は王墓に数えるのはやめたのかい? <
紀元前であり、金印の倭奴國王の前だから、100余りの国時代であり、全域統一的国王ではない。
>>玄界灘沿岸の稲作文化 <
>菜畑遺跡が最古なのは多分正しいけれど、弥生時代草創期の段階で東北の垂柳遺跡まで水田稲作は伝播してるよ?<
津軽は、沿海州からの別個の稲作伝搬があった、という説と、
神武に負けた安日彦長脛彦兄弟が、稲穂を持って行って、稲作を伝えた(稲荷神社)、
という両方の可能性がある。
>鉄器使用と稲作文化は弥生文化の特徴であって、北部九州が特別って訳ではない <
大和には鉄鏃すらなかった。
>弥生時代は深さ1メートルを超える川は灌漑に利用できなかったし、小河川が多く分布するところから、拓けていった<
雨量さえあれば、上流に堰を造ったり溜池を造って、灌漑は出来るのであり、問題にならない。
>>金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材<
>宗像神社のご神体は八咫鏡だけれど 、和歌山の日前神宮の日像鏡や
國懸神宮の日矛鏡のような、伊勢の御神鏡との縁起は何もない <
紀伊はその名の通り、「姫氏=キ氏」と、
「伊氏=阿毎氏、壹、一、五、委、倭、怡、糸島の伊都国」などの氏であり、
卑弥呼や伊都国の合同東征地。 >>917
>>金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。<
>王「たち」じゃないね
確認できるのは卑弥呼の200年前の「漢倭委奴國王」一人だよ<
漢代は100余りの国であり、卑弥呼の頃にも30国があった。
それに引きかえ、大和は、
倭国の東征に拠って出来た「地方の市を監督する大倭職」の旧小国であっただけ。 筑紫平野の米は長粒種だから、菜畑や板付の短粒種とは別系統の集団の伝播だな >>949
>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
>ぜんぜん別モノだろう
それで正解だと思うんだけれど、邪馬台国=伊都国説の連中は、
平原1号墓出土鏡を卑弥呼の鏡にしないと他に根拠がまったくないから、
鏡の周長が八咫だから八咫の鏡だって言って聞かないんだよ
お鏡(岡上)さんを筆頭にしてね >>919
>平原遺跡の鏡がまさに径二尺 たまたまだろ?
他の鏡の円周を測るのに、「咫」という単位は何の役にも立たない
そして、実際「咫」の字は長さの単位としては事実上使われておらず、
「咫尺」という熟語としてしか使われていない<
「咫≠咫尺」。
「咫」は、説文解字に「女性の手の大きさ」という説明があった筈。
>「咫尺」は日本の辞書にも載ってるよ<
「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない。
>「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味
類例 八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋 表す八を使った<
「八≠八咫」であり、「八」は当然「一」より大きかっただけ。 >>927
>倭國の女王じゃないってだけでさ<
平原は、倭国の女王であった可能性は非常に高いが、
大和は、「南≠東」などの嘘吐き騙しや、
倭国の東征で出来た「地方の市を監督する大和職」の旧小国や、
明帝の下賜の21枚の「尚方作」鏡も全く出土しない、田舎であったんだからさ。 >>955
根拠がひとことも書いてない
・・・これだから九州説はw >>955
>>宗像神社のご神体は八咫鏡だけれど 、和歌山の日前神宮の日像鏡や
>國懸神宮の日矛鏡のような、伊勢の御神鏡との縁起は何もない <
>
>紀伊はその名の通り、「姫氏=キ氏」と、
>「伊氏=阿毎氏、壹、一、五、委、倭、怡、糸島の伊都国」などの氏であり、
>卑弥呼や伊都国の合同東征地。
伊勢志摩が伊都志摩からの移転であることは容易に想像できる。
ただ、伊勢は伊都のような都ではない。 >>934
>八咫烏はどこが八咫なんだ?<
鳥なら、羽を広げた時の両先端間の長さなんだろうが、
烏にそんな例があったのか?は不明であり、
神武らの武勇伝伝承に有りがちな、「誇大表現」であった可能性が高い。 こういう名前欄の無駄なナリスマシはキウスでいいんだっけ? >>959
ザラコクって本当にバカww
>「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない。
「咫」の字が「咫尺」という熟語でしか使われてなくって、長さの単位として
使われているところが事実上皆無だっていう話
一咫も、二咫も、三咫も、四咫二寸も一切ない
その状態を確認した上で、八咫という長さに意味があるというのはナンセンスだ 平原から出たマンホールの蓋が八咫鏡だってのは学問tに根拠なし
ということで、FA? >>941
146を2πの6.28で割ったら23.248で大体
1秦漢尺だから
146を八咫にしたら1咫 18.25になって
1咫=0.79尺 まあ8寸でいちおう辻褄は合うね。 >>936
>いい指摘だ<
存在もしなかった「大和朝廷」なんて文言を使っているから、×であるし、
半分偽書である「記紀」のおかしな伝承を論拠にしているから、×であり、
悪い指摘だ。 >>938
>八咫鏡も当て字<
当て字として、「八咫」という寸法を特定使用する理由がない。
「八」も文字選択には、それなりの理由があった。 >>940
>「八咫鏡」が大鏡を意味するのは、「八」の字の方の意味 類例
八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋 表す八を使った<
「大きい」事を示す文字は、「八」だけではない。
「八」に拘るには、「人々を納得させるような」それなりの理由があったから。 >>969
なんで秦漢尺なの?
あえて秦漢尺を選んで使う根拠は? >>974
知らんよ。
純粋に円周の公式で計算したら
最も近いのが秦漢尺だね、って結果なだけで
注目するところはそこじゃないでしょう
今計算してみて自分でもびっくりしたけど
円周長として計算しないと
この1咫八寸は出てこないんだから
なんか意味のある単位だったんだろうね。
意匠が八葉ってことと何か関係があるのかもしれないね。 >>941
>ていうかさ、円周が八咫だって言っている人は、1尺を何センチだと思っているの?
ウィキペディアさんだと
「戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
ってことになっているよ?
この周尺が、漢尺の8寸(8割)という意味なら、この約20cm=咫で、
八咫=160センチになる
この周尺20センチが10寸で、咫が8寸なら、約16センチ=咫で、
八咫=128センチになる
どちらも、146センチにはならないぞ?<
天照時代は、紀元前1世紀の神武の5代以上前になるから、
周代かそれ以前であり、
説文解字に拠れば、「咫」は「女性の手の長さ(≒18cm位)」であり、
それが8寸位だ、という事だよ。
だから、逆に、1尺は18cmの10/8倍位になり、22.5cm位だ。 >>942
>>古田さんの沖之島の発掘調査の紹介では、 縄文や弥生からの遺物があった<
>そんなものどこにでもある 沖ノ島の遺物は時期的に継続もしていない<
そりゃ、離れ小島であるから、断絶も有り得る。
しかし、紀元前1世紀の神武の5代以上前の天照が、田心姫命に任せた島であり、
縄文末〜弥生の遺物があっても、何らおかしくない。 >>945
この狂った書き込みはwwかな?。
それともssnか誰かが、彼のナリスマシをしてるのかな ?。
どっちにせよ、議論に負けたし大和説者の荒らしだけど 。 >>977
半分偽書である「記紀」と言いながら、「記紀」の内容を根拠にするなパクリ土台人 >>976
「八咫鏡」って言葉の初出はもっとはるか後世でしょ
そんな古代にする根拠は皆無 >>945
>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう<
そもそも、倭人の中心勢力は、燕の南にいた倭であり、
そこへ、呉王夫差の遺民の姫氏が合流し、
更に、始皇帝の命令で流浪した民も合流しているんだろうから、
倭人は、周代の度量衡を知っていても、何らおかしくない。 >>952
また大和説者は、「南→東」などの嘘がバレた事にも懲りずに、
ウソばかりついているな。 >>958
>>そもそも古代中国の咫(シ)と上代日本の咫(あた)は用字が同じなだけで
ぜんぜん別モノだろう<
>それで正解だと思うんだけれど<
正解ではない、と言っているんだけど・・・。
そもそも、倭人の中心勢力は、
燕の南にいた倭であり、
そこへ、呉王夫差の遺民の姫氏が合流し、
更に、始皇帝の命令で流浪した民も合流しているんだろうし、
卑弥呼の使者も「大夫」を名乗っていたんだから、
倭人は、周代の度量衡を知っていても、何らおかしくない。 「周」を円周と解釈するのは
wikiにも書かれているように特殊な人たちの説だよ >>961
>根拠がひとことも書いてない ・・・これだから九州説はw<
幾ら根拠を書いて上げても、「根拠がひとことも書いてない」とのたまう。
・・・これだから大和説は、・・・・詐欺師w。 >>979
クズ説の人ってどうしてそんなクズなカキコが出来るんだろうね 九州説の立場でクズなカキコをして
地域間対立を煽るのが工作活動なんだよ >>986
根拠って言葉の意味を知らないザラコクが皆から失笑を買う >>967
>ザラコクって本当にバカww <
>>「咫≠咫尺」であるから、咫尺では説明にならない<
「咫」の字が「咫尺」という熟語でしか使われてなくって、長さの単位として
使われているところが事実上皆無だっていう話<
説文解字では「女性の手の大きさ」という形容詞的な説明文言、という説明。
きちんとした「長さの単位」という書き方ではない。
従って「咫尺」は、「女性の手の大きさのような尺度」というような意味になる。
>一咫も、二咫も、三咫も、四咫二寸も一切ない
その状態を確認した上で、八咫という長さに意味があるというのはナンセンスだ<
「女性の手の大きさ」というようなものを、
「正式な尺度」であるかのように言い立てて、
それで誹謗するのは、ナンセンスだ。 >>990
だから、八咫の鏡って言葉を使ったのは
一体いつの時代だと思ってるんだ? >「女性の手の大きさ」というようなものを、
>「正式な尺度」であるかのように言い立てて、
>それで誹謗するのは、ナンセンスだ。
じゃあ、そんなものを根拠にして
あれを八咫鏡だと言い張るのは
超ナンセンスなのでは? >>974
平原遺跡が漢末か魏に作られたなら、そこに葬られた鏡の大きさの基準が秦漢尺で何の問題があろうか。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都国が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫梟帥の神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない。 >>996
その頃に「八咫の鏡」って呼んだた根拠なし
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