[ルーツ]日本人の起源は?その2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレ
[ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か?
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50
日本人の起源にまつわる話題なら
稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。
*注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください
では、どうぞ >>3
前スレで結論出たのは稲作
今スレでは稲作だけに止まらず視野を広げて日本人種の起源に迫りたい 江南も半島もほんの最近の通過点
ルーツはもっともっと古い時代 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 たぶん朝鮮民族が理性と知性を獲得することは不可能。
理性と知性は遺伝によって決定している可能性が高いのだ。
IQの違いと脳の遺伝子に違いは発見されていない。脳内物質・ホルモンには違いがある
性格の違いは脳内物質・ホルモンにあり、性格の違いが学習機能に違いをうんでる可能性がある
「カッ」としやすい人間は理性的でなく、学習能力が低く知的能力も低い傾向がある。
トルコ、パキスタン、インド、エジプトは韓国より貧しいが自然科学分野でノーベル賞をとっている
見通し可能な将来にわたって朝鮮民族が自然科学分野でノーベル賞は取れないだろう。
理性と知性を持っていない人間と会話によって問題解決は不可能であり
力によって制裁によって押さえつけるしかないであろう。彼等は遺伝子的に問題があるのだ。 朝鮮人は正気を失うほど激しく怒る。自分の命などどうなってもかまわないような状態になって、
牙を剥き出した動物へと変身する。口から泡を吹いて、まるで獣のような顔になるのだ。
残念なことにこの怒りの衝動、自分を見失ってしまう悪癖は、男だけの専売特許ではない。
朝鮮の女も恐ろしいばかりのヒステリーを撒き散らす。
朝鮮人は幼い頃から自分の気分を制御することは躾けられないようだ。
子どもたちも大人たちを見習って、気に入らなければそれこそ狂ったように駄々をこねるが、
結局自分の意志を貫いて達成するか、さもなければ長い時間をかけて鎮静させることで落ち着くのである。
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年
『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするという努力があわれにもないのに、
社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に
動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、
金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、
あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。
朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、
朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 日本人の起源は猿(豊臣秀吉)であった、
今太閤となった日本の猿が中原を目指し駒を進める、
江南か?半島か?、猿に近いのはどちらか?
どちらでもない、日本人の起源は猿(豊臣秀吉)だからだ。
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/ アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ハプロスレでo1bが検出された底辺階級が必死なのよ
自分は朝鮮半島からは来てないってね 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>28
コピペはスルーでええんちゃうの?
稲作はまだ水田かどうかも分かっていないオクキョンを根拠にしてる奴だし
今どきDNAを認めないと言ってるし
古代の人は穏やかな日本海をカヌーで海流に逆行して猛スピードでピンポイントダイレクトで
航海出来たとか
出鱈目ばっかり言ってんだから プロのカヌー選手でも対馬海峡を渡るのに
かなり苦戦するのだが古代の人はジェットエンジン並みの猛スピードを上げて楽々突破、
女子供がいるにも関わらず、安全な航路は無視して櫂のみで高速パデリング、沿海州から東北、北陸は愚か島根までもダイレクトでピンポイントであっと言う間に到達できたらしいな 中国4000年と言うフレーズが詐欺だと言う事がバレて今ではほとんど使われて無いのだが
8000年前の中国では...って平然と使ってる
高校出ていないのかな... >中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
中国ではないな
>その時代差、約6500年
中国ではないな
>その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り
中国ではないな
>4000年前にはすでに戸建ての時代である。
まだ中国ではないな
>商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なる
まだ中国ではないな
>ものが花開き、2800年前には
瓦が登場し
だから、全部中国じゃないやん! 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa >>36
だから竜骨船に乗って九州へ行来していたんだな、ちなみに成龍ことジャッキーチェンは内村光良に似てる、ジャッキーの祖父の生まれは長江流域で内村は九州出身、ユンピョウも生まれは長江流域なんだよね、と言う事はジャッキーもユンピョウも百越系の可能性がある
そしてユンピョウは柴田恭平に似てる
やっぱ百越系は日本人に似てる顔が多いんだよ 少林サッカーに出ていたビッキーチャウもジャッキーの祖父と同じ長江流域の安徽省
そしてビッキーは桜田淳子に似てる
百越系は同じモンゴロイドでも朝鮮系と異なるのは、ややタレ目の親しみやすい顔の人が多いんだよ
朝鮮系はややつり目のツングース系の顔の人が多い、旭鷲山とか日本人とはちょっと違う顔だ チャイニーズゴーストストーリーの
ジョイウォンは台北出身、台湾にも長江流域から越族が移り住んでるから日本人に似た顔の人が多い、ジョイウォンと常盤貴子が似てるな 生まれも育ちも香港生まれの
レスリーチェンやサモハンキンポーは
少し南方系が入ってるな、日本人よりも
フィリピン、タイにもいそうな顔 >ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
それは渡来のほんの一部だろ
ギリヤーク尼崎のような顔した日本人は
ギリヤーク尼崎しかいない
朝鮮にはいそうな顔だから北方ツングース系は
朝鮮の方が圧倒的に濃い >>37
調べてみたが考古学会でも認められている正統派の農学者のようだな
批判してるのは一人だけしか見つからなかった
それもおおよそで佐藤氏の説を認めながら
右翼団体には気をつけろと言う内容だった 香港映画は本当に日本人にいそうな顔ばかりだよな韓国は整形ばかりだから俳優では判断不可能、一般人と俳優のビジュアルが違いすぎる 日本人だけで
ドラコン怒りの鉄拳のリメイクができそう
ブルースリー 武井壮
ノラミャオ 牧瀬理穂
ラムチェイン 浜田雅功
デブの道場生 塚地武雅
丸いグラサンの細い悪役 ノンスタイル石田
京本政樹風の男 京本政樹 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 mtDNA解析では沿海州や朝鮮と日本は全然一致しない >日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプル
詐欺レス乙
800年だろうが10000年だろうが
当時の情報を高精度で伝えてくれるのが
遺伝子調査、科学、遺伝子学のみならず
考古学でも重宝されている >ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
詐欺レス乙
出土品を持ち出してメンツに拘り遺伝子調査に前向きではない京大学者陣を
自身のブログで批判しただけ、避難されるべきは京大の方である 近年、中国の稲作研究界では、「水田稲作」は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。
稲の遺伝子は7種類あり、現代までの日本で発見された2つをNO,1とNO,2として分類したのが「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」という品種。
中国大陸でもこの2つ見つかっているますが、半島ではNO,1は見つかっていません。これは中国江南地域より北では気温が低く育たないためです
それどころか、炭素14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。
日本の稲作開始は「焼畑稲作」で紀元前6700年程度前、「水田稲作」は3200年程度前であることが判明しています。一方、半島での「水田稲作」は紀元前1500年程度前のもので、
九州北部と栽培法が酷似し、遺伝子学的に日本米に、満州から入った米の遺伝子が交雑していることから、「水田稲作」は日本から半島へ、「焼畑稲作」は満州から半島へ伝わったことが証明されています
ま、定説だわな オクキョンは水田かどうかも分かっていない
中国や世界の学会では一世紀程度の差は誤差に過ぎずオクキョンが日本の水田遺跡より
古いとは認められていない
炭素14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。
これにより確実に日本の稲作の方が古いと
証拠が出ています ハプログループD1aは、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである
ハプログループD1bは、日本列島に固有に見られるタイプで、アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌや一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で高頻度に見られ、
反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD1bは縄文人に特徴的なY染色体だとされる。 日本人の起源は猿(豊臣秀吉)であった、
今太閤となった日本の猿が中原を目指し駒を進める、
江南か?半島か?、猿に近いのはどちらか?
どちらでもない、日本人の起源は猿(豊臣秀吉)だからだ。
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/ >渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 
これも詐欺レスだな 
弥生人は東京弥生地区で発見された人骨の事 
その人骨は沖縄系縄文人と長江流域の人骨の特徴との類似性が指摘されている >渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
これも詐欺レスだな
弥生人は東京弥生地区で発見された人骨の事
その人骨は沖縄系縄文人と長江流域の人骨の特徴との類似性が指摘されている 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>42
台湾人が歩いていても、パッと見分からない
喋らない限り分からないな、韓国人はパッと見でも結構分かる >>79
漢民族
元々は中国大陸に住む華夏と呼ばれる一部族
呉越は呉に住む越人
漢の時代の時に民族が統合されて漢民族と呼ばれるようになった ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa ノーベル賞(自然科学分野) 日本人23人 韓国人 0 人
ノーベル賞(人文学分野) 日本人3人 韓国人 0 人
フランクリン・メダル(科学等) 日本人7人 韓国人 0 人
ボルツマン・メダル(物理学) 日本人2人 韓国人 0 人
J・J・サクライ賞(物理学) 日本人6人 韓国人 0 人
バルザン賞(自然・人文科学) 日本人3人 韓国人 0 人
クラフォード賞(天文学等) 日本人2人 韓国人 0 人
IEEEマイルストーン(電子技術) 日本人10件 韓国人 0 件
ウィリアム・ボウイ・メダル(地質学) 日本人2人 韓国人 0 人
ホロウィッツ賞(生物学) 日本人1人 韓国人 0 人
コッホ賞(医学) 日本人4人 韓国人 0 人
ラスカー賞(医学) 日本人8人 韓国人 0 人
ガードナー国際賞(医学) 日本人11人 韓国人 0 人
ウルフ賞(科学、芸術) 日本人9人 韓国人 0 人
プリツカー賞(建築) 日本人5人 韓国人 0 人
フィールズ賞(数学) 日本人3人 韓国人 0 人
これだけ差があれば血統的に異なるという説のほうが説得力があると思う >>84
朝鮮人は血統的に異なるだろうが
浙江省から東シナ海南部に面した中国人は
どうだろうか? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>79
漢民族と百越は違う人種
でも漢人は(あらひと)と呼んで
帰化人の事だぞ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 アイヌ人と日本人ならわかる。朝鮮人は有り得ない。
アイヌは他のモンゴロイドに比べて、二重、彫りが深い、
体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴がある。
朝鮮人は真逆でつり目一重のパンスト顔で体毛が薄い
日本人の中でも際立ってD系統の血が強い、
朝鮮人は日本人と完全な別種と言っていい。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>94
30点
まず、35000年くらい前にアルタイ地方から石刃技法を朝鮮半島経由でもたらした日本列島最古の
人類の足跡たる旧石器人が第1波。
この集団はバイカル経由していない。
20000年くらい前にバイカルあたりから樺太経由で細石刃をもたらした旧石器人が第2波。
この集団がおそらく土器技術や入れ墨などをもたらしている。
北海道に留まったものはアイヌの祖先になったと見られる。
その後も朝鮮半島経由、樺太経由で何波か渡来があったが、大まかに見るとこの二つ。
そして3000年くらい前に沿海州南部から刻目突帯文土器を西日本に伝えた北方モンゴロイドが第3波。
その後も古墳期の朝鮮帰化人などがあるが、日本人の青写真を作ったのはこの3つ。
もっと深く深く勉強しなさい。 >>95
なんか年代から何から何まで
全部間違ってるぞ 4万年前陸続きのスンダランドから移動した人々が定住
3.3万年前〜2.7万年前の寒冷化に伴い、北方モンゴロイドが地続きの樺太から日本列島に移動
2.1万年前〜1.8万年前の寒冷化に伴い、バイカル湖周辺の中亜モンゴロイドが日本列島に移動
1.4万年前頃までに、スンダランドから島伝いにスンダモンゴロイドが漂着
1.3万年前〜1.1万年前に、地続きの北海道側からスンダモンゴロイドが日本列島に移動
その中で縄文人の中心となったのは、1.4万年前の温暖化によるスンダランド水没に伴いモンゴル高原に北上し、1.3万年前〜1.1万年前のヤンガードリアス寒冷期に南下して地続きの北海道から日本列島に移動したスンダモンゴロイドだと考えられます。 南方出自で狩猟・採集・漁労を営む縄文人が形成されたと考えられます。
その後なんと約8000年間もの間、大陸から切り離された僻地ゆえに外部からの大規模な移動がなく、日本の気候風土に同化し、私権闘争とは無縁な共同体社会=縄文社会が形成・醸成されていきました。約5000年前には、三内丸山の大規模集落が形成されます。
約3000年前に、中国江南地方での争いから逃走した苗族(スンダランド発の原中国人が渡来し稲作農耕を伝えましたが、縄文社会に取り込まれていったと考えられます。
稲作農耕の伝来を持って弥生時代に入ったとする説もありますが、縄文社会が変わらなかったことにより縄文時代に区分しています。 約2500年前から2200年前、中国大陸の春秋戦国時代の闘争により呉、越から逃走した人々
が渡来し弥生社会が形成されました。2200年前に渡来したのは、倭人である徐福が率いて秦から脱出して来た人々ではないかと考えられます。
2300年前には吉野ヶ里に大規模集落が形成されています。この段階では遊牧騎馬民族はまだ渡来していないと考えられます。
約1900年前、高句麗、扶余の圧力により朝鮮半島の三韓から逃走した人々が渡来、ツングース系遊牧騎馬民族が日本列島に登場しました。彼らが葛城氏、秦氏と思われ、その後ヤマト王朝成立に向けて徐々に力を付けていきます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています