山内の著作からこの事件について書かれてある部分の抜粋↓

「…それでも、決闘はなくならなかった。一三八六年には、フロワサールの『年代記』にも
記されている有名な決闘裁判が行われた。これは、この裁判に臨席するために、
百年戦争でイングランド軍と戦っていたフランス国王シャルル六世がパリに戻り、
原告の介添人にエドワード黒太子の義理に息子、聖ポル伯ワルランがなったほどの大事件であった。
決闘したのはジャン・ドゥ・カルーズュという騎士とジャック・ルグリであった。

 事件は、ジャンの妻がある人物に襲われ、犯されたことに始まる。妻は隣人のルグリが犯人と考え、
夫にそう伝えた。夫はルグリを訴えたが何の証拠もなく、ついに決闘裁判ということになった。
決闘当日、妻は黒い喪服を着て、火刑台の上に立ち、二人の戦いを見ていた。夫は病気で弱っていた。
もし力だけで勝負がつき夫が敗れるならば、夫は生きていても絞首され恥辱のうちに死ぬ。
自分は姦通のかどで火あぶりにされるだろう。大勢の観衆の前で、戦いが始まった。
衰弱していたジャンは傷を負い、敵に追い詰められていった。あわや最後の一撃というとき、
ジャンの剣がルグリの体を貫いた。ジャンが勝ったのである。こうして、妻と夫の名誉と生命は
保たれたという。