オープニングから、この映画がチャドウィック・ボーズマンへの哀悼を出来うる限りに表そうとしていると感じられた。
また、彼を喪った映画チームの弔いの場としても機能していたようだ。
パンフレットには、コロナ禍で、お葬式に参列できなかった出演者が、今作の撮影時に、彼の思い出を話すことができた、と語っている。
物語の大きな主題となる、「人の死によって傷ついた状態を乗り越える」ことを、映画の中の登場人物だけでなく、映画チーム全体、そして観客も、同じ地平で味わっていくのはかなり稀有な映画体験だった。
これはかなり危ういもので、ともすれば亡くなった人を利用していると批判されることにも繋がるが、製作、脚本チームが彼をリスペクトすると同時に、彼を失った世界を継ないでいくため懸命に努力をしたことが、映画を観る中で伝わってきた。
まず、物語の中で、新たにボーズマンのシーンは作らないこと。
回想の中にしか現れないティ・チャラ(ブラックパンサー)は、現実のチャドウィック・ボーズマンと同じく、過去の映像(記憶)でしか見ることができない制限をかけている。
これは彼が(CGや代役などで)替えがきかないかけがえの無い人であったことを尊重してのことだと思う。
また、新たなブラックパンサーが生まれるとき、死者と対面するという前作からの設定にも関わらず、それを貫いたことは、大きな決断だったと思う。

映画ラストでは、新たなブラックパンサーとなったティ・チャラの妹シュリが、喪失と向き合った先に、癒しを得る。
そして、映画を見ている観客たちのチャドウィック・ボーズマンへの悲劇的なイメージもまた、シュリの回想の中に現れる笑顔のティ・チャラが塗り替えていく。
彼の死を悲劇として終わらせず、物語に内包することで、観客に乗り越える場を提供した今作は、ブラックパンサーの続編を待ち望み、一度は絶望した人たちにとっても、きっと癒しとなったことだろう。