日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。
中川三郎が、1965年ディスコをつくり、所得の少ない若年層が来やすいように、値段が安くラフな服装でも訪れやすいようにしてダンスの普及をした。
客層は部落民の日本人・朝鮮系などのマイノリティの若者が主流でトンキン土人の元気な子達が集まり楽しむ場所で
モラルなきトンキン感覚やトンキン思考、トンキンルールに支配されたまるで治外法権が適用されているゲットーのような場所であった。
こうしたディスコは在日朝鮮人のための発展場としての役割と少年ヤクザなどアンダーグランドな人種の受け皿としての二つの面を持っていた。
そういった初期のころの踊り場じゃ顔面割られ血が噴き出したままでも根性モンで踊るのがそれなりであり、
いざとなりゃ命を投げ出さなけりゃならない正にダンスフロアーという名の戦場であった。

「やられる前にヤル!」これが当時も今もトンキン土人と在日朝鮮人は流儀であり、
先輩からヤレと言われるりゃ相手に恨みがなくたってヤルのが共産党とトンキン地方の縦社会の掟 !
それはたとえ踊っている時でも同じである。踊ることすら命がけなのである。正にあほであーる。

こういうのは当時でも半島や大陸以外ではトンキン地方の人間にしか流れてない「血の掟」ってことなんだよ。
「スキ見せてナメられたら終わり」の修羅の世界観は正に暗黒の中国大陸の理屈といっしょである。
本流の日本人からすると理解不能であると同時にあほすぎて大笑いであーる。