弥生人は華南から来た
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雲南省には、日本のルーツがある。 民俗学とか文化人類学では常識で、中国のほとんどは違うんだが、雲南に限っては照葉樹林帯で、日本とも共通した照葉樹林帯文化のまっただ中です。 お茶を仕入れに行った北條さんは、雲南省で「800年前の茶畑」の遺跡を発見したというんだが、今では、放置されたまま、茶樹が茂るジャングルみたいになっているそうだw 日本にいつ、「お茶」がもたらされたのかというのは明らかになってない。 偉い坊さんが、というとモカコーヒーみたいだが、仏教とともに伝来したのは「製茶法」と「飲料としてのお茶の文化」であって、チャノキそのものは、それ以前から日本にある、という話もある。 雲南では、チャノキは飲料としてではなく、「野菜」としても使われる。新芽を発酵させて漬物にするというのは、東南アジアでは定番です。文化人類学は、なかなか面白い学問です。 . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . 日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。 倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。 弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。 「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。 つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。 国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって「日本に渡った脱落者」という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。 朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。 . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . 「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 @ 渡来人の故郷、飛鳥 飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。 日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。 飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。 五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、 六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。 百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。 韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。 日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。 法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。 七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。 薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。 この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。 それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。 我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。 日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0 筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・ 2015年5月11日 『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』 仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。 この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。 (韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう) 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。 この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに? 碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。 それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。 では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。 一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。 また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県) この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。 この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。 当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。 朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。 筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。 朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。 筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。 何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。 また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな??? 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。 その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。 また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。 その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 @ 縄文人、エミシ、アイヌ 縄文人とは、現在の日本人とは異なるアイヌの祖先をいう。 北海道に住むアイヌは、蝦夷または毛人と書き、エゾまたはエミシと読む。 髭が濃いが、その髭がエビのように長くて立派だということで蝦と毛が入る名前で呼んだのである。 縄文人が狩猟・採集に満足して定住せずに生活していたのに対して、朝鮮半島ではすでに紀元前一〇〇〇年から櫛目文土器の新石器時代を清算して青銅器時代に入って、新たな文明を開拓していた。 日本は国土の約七〇%が山岳地帯であり、豊富な降水量を持っており、木がとてもよく育つ。 クリ・ドングリ・クルミのような実のなる木が多い。さらに、島であるため海産物も豊富である。 カキや貝はいうまでもなく、毎年戻ってくるサケは手でも捕まえられるほどであった。 しかし、それは、縄文人が文明の次の段階に飛躍しうる契機を遮断する結果を生んだ。 彼らは、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。 自然の豊饒のために文明の発達が遅れたアメリカ先住民の没落過程と似ている。Easy-goingが産んだ結果だった。 紀元前三〇〇年頃に突然、弥生人が登場した。彼らは定住生活をしながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器という文明的な金属器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。 こうした弥生人に、縄文人は敵わなかった。一部の縄文人は、弥生人と血を分けて暮らしたが、結局、生活の場を奪われて環境が劣悪な北方に押しやられてしまったのである。 . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳 A 吉野ヶ里遺跡 一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。 縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。 その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。 おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。 二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が朝鮮半島から照らされました。 稲作と青銅器文化が朝鮮半島から入ってきたのです。 弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。 朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。 農業を始めると共同作業が必要となり、そのため氏族が集まり、自然に村が生まれて初歩的な社会を構成するようになります。 剰余農産物という富が創出されることで階級が生まれ、略奪と戦争が起きることで氏族が連合して部族国家に発展していくのは、人類史の普遍的な足跡そのものです。 それを文明の段階的発展過程といいますが、そのすべてが朝鮮半島の渡来人がもたらした稲作と青銅器文化から始まりました。 日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。 . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . ジョン・ホイットマンは、日本語族を朝鮮半島ムムン文化を経由した水稲栽培の広まりと関連付けた。 彼はさらに、朝鮮語族は北方の遼寧地方から遼寧式銅剣文化とともに到来したと提唱した。 「北東アジア言語生態学、韓国・日本における稲作農業の到来(2011)」 Whitman, J. Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan. (2011). https://doi.org/10.1007/s12284-011-9080-0 >>809 チョン貼り 嫌がらせ孔子学院ブタニグロ乙 とっくの昔にバレてるつーの . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . 811 名前:あぼ〜ん[NGWord:弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です] 投稿日:あぼ〜ん 812 名前:あぼ〜ん[NGWord:稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です] 投稿日:あぼ〜ん 813 名前:あぼ〜ん[NGWord:稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です] 投稿日:あぼ〜ん . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . 板橋義三 『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』 板橋論文を大幅にかいつまむと次のようになろう: 総計111の高句麗語が収集され、そのうち47語は日本語に同源語が見られる。 周辺言語との比較では、日本語との同源性が一番高い。 僅か111語で何が言えるか?とも思ったり、その僅かな中でも47語、と濃厚に日本語との同源が推定出来る、というのは大変なことだ、とも思ったりする。 山 高句麗 γapma 日本 yama 熊 高句麗 kun[m] 日本 kuma 木 高句麗 kil/kir/kin 日本 ki/ko2i- 心 高句麗 kor 日本 ko2ko2ro2 馬 高句麗 ma 日本 ma 鉛 高句麗 namur 日本 namari 白 高句麗 sirap 日本 siro:sira- 兎 高句麗 usiγam 日本 usagi 谷 高句麗 tan 日本 tani 三 高句麗 mir 日本 mi 五 高句麗 uc 日本 itu 七 高句麗 nanin 日本 nana 十 高句麗 tok 日本 to2wo . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . <日本人意識調査> Q:本音で言うと自分たちの顔をどう思いますか? のっぺり顔 だと思う─┐ ┌───縄文顔だと思う9% 11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、 ./ .l, | `''-、 ./ .l .| \ /ゝ、 l. | ヽ ./ .`'-、 l. | l │ ゙''-、 .l,| l | `'″ 朝鮮顔なのは | │ 事実である ,! l 80% ./ .ヽ / .\ / `'-、 / `''ー .......... -‐'″ . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . <奈良県民意識調査> Q:本音で言うと自分たちの顔をどう思いますか? のっぺり顔 だと思う─┐ ┌───パンスト顔だと思う9% 11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、 ./ .l, | `''-、 ./ .l .| \ /ゝ、 l. | ヽ ./ .`'-、 l. | l │ ゙''-、 .l,| l | `'″ 朝鮮顔なのは | │ 事実である ,! l 80% ./ .ヽ / .\ / `'-、 / `''ー .......... -‐'″ 【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB. 2020年10月14日付けで『Journal of Human Genetics』に掲載された報告では、朝鮮半島に地理的に近い九州北部より、 四国・近畿地方に渡来人の遺伝子が強く見られたと述べられています。 https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif https://nazology.net/wp-content/uploads/2020/10/20201014101751.png 中国朝鮮-近畿四国-中国-中部-関東北海道-東北 ・(現代)関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い。 (『日本人の起源』中橋孝博・九州大学大学院教授、専攻は人類学、奈良県出身) . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . >>834 と言うか下手すりゃ一人でずっとスレ伸ばしてるかもな(笑) . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . 倭人の形成過程 1.アフリカで虐められた集団がインドまで逃げる 2.インドで虐められた不可触民が中国へ逃げる 3.中国で虐められた東夷が半島まで逃げる 4.半島ですら虐げられた背の低い人々が日本へ渡来する←倭人 5.ため込んだ憎悪を日本原住民アイヌにぶつけて被差別部落形成←近畿人 . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . 記紀に全部書いてある @アマテラス軍が「出雲」に国譲りを迫る A大国主の息子タケミナカタが敗れ、国譲りを了承する Bニニギが「九州」に天孫降臨 つまり大国主が譲った国は「九州」なんだよ じゃあアマテラス軍はもともとどこにいたんだ?といえば、出雲でも九州ない、国の外のどこか、ということになるだろう 神代の話の中で「スサノオの乱暴狼藉」が描かれる その乱暴狼藉の内容として、スサノオが馬の皮をはいで馬の死体を投げつけるというものがある 日本には馬を飼育する文化はなかった。古墳から馬具が出土するのは6世紀以降 なんで馬のいない日本の古代の話に馬が登場するんだ? つまりスサノオの乱暴狼藉のエピソードの舞台は日本列島じゃなかったってことだ スサノオは乱暴狼藉の末、出雲に追放される。そのルートは 高天原→新羅→出雲 とある なぜわざわざ新羅を経由するのか。高天原が九州だとしたら、こんなルートはありえない 高天原が、新羅にほど近い陸続きの場所だとしたら 高天原→(陸路)→新羅→(海路)→出雲 だとしたら、これは普通にあり得る 日本に野生の馬はいない。馬を輸入するには大型船が必要 紀元前〜3世紀ごろまでの造船技術で馬の輸入は不可能。馬の輸入は4世紀以降で、本格的な普及は6世紀以降 6世紀まで日本に馬がいなかったからこそ、聖徳太子の「馬小屋で生まれた」というエピソードが高貴な生まれの象徴になる 中国の歴史書では「倭人」や「倭」について、「韓に接する」(つまり陸続き)って書かれてる 朝鮮半島の南側の端っこには、もともと倭人が住んでたんだよ 漢委奴国王印で有名な倭奴国についても、中国の歴史書では「倭国の極南界」と書いてある 極南界って、南の端ってことだ。金印が出たのは福岡。その福岡が、「倭国の南の端」なんだよ 倭国とは、福岡から北に広がる領域を持つ国だった 福岡の北って、そりゃ壱岐、対馬、そして朝鮮半島南部だろう だから記紀や中国の歴史書を先入観なく総合的に読めば、高天原は任那ってこととしか読み取れないでしょ 高天原は任那だよ。間違いなくね . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . 半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。 書紀で「天」は朝鮮半島を指すのだ。ウヨが言うように「チョン」と読むと 高チョン原、チョンの御中主神。チョン照らす、チョンのぬぼこ、、、、 後は適当にやってくれい . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . Peninsular-Japonic(半島日本語)の日本語ページ https://ja.wikipedia.org/?curid=4281098 >クリストファー・I・ベックウィズは自身の研究において、これらのほとんどすべての単語が日琉語と同根であると提唱した[3]。 >彼はこれが高句麗の言語であったと考え、これを日本=高句麗語族(英語: Japanese-Koguryeoic)とベックウィズの呼ぶひとつの語族であったとみなした[3]。 >ベックウィズはこの語族は紀元前4世紀に遼寧省西部に存在し、一つのグループ(弥生文化と同定される)が海から朝鮮半島南部と九州に、 >他のグループが満州東部と朝鮮半島北部に、他のグループが海路で琉球諸島へ移動したとしている[3]。 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。 釜に至っては5Cまで待たなければならない。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の 中国とは全く違ったものが伝わっている。 と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》 ◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》 クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない! 耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない! 伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。 ◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ ◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。 ◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕 ◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット 鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。 鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、 これも日本には伝わっていない。 甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。 釜が伝わったのは古墳期の5C頃。 稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! . . 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を 作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも 500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が 始まって約400年後のことになります。 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に 位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした! . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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