日本の農耕の始まりの議論では、しばしば、縄文人が水田稲作という新しい生活の術を受容したと書かれている。
それは外来の文化を受容し、消化して発展させたのは、日本列島の在来の人間であり、「日本人が主体であった」と考えたい気持ちが背景にあるからだろう。

人類学的形質から見ると、人間の形質が入れ替わるほどの変化がある期間に起こったのである。
縄文人と弥生人の接触の問題は、実は非常に一般的な「農耕民と非農耕民の接触」の問題の一部であり、それは世界の一部では現在の問題でもある。

世界の歴史から見ると、農耕民と非農耕民の接触では、大体後者が駆逐されるという運命になっている。