安全な権力、危険な庶民

 今や忘れられ気味だけれど、東日本震災より以前には、東周辺の論者たちは、政治的意識にめざめたり権力を批判したりするのは
危険なことであり、現状にひたすら適応するのが良いのだ、とさかんに主張していた。先述したように、東の『動ポモ』は、
政治とか社会とかいった「大きな物語」に興味を抱かず、萌え要素で欲求を満たして生きるのが現代風のライフスタイルだ、
と主張した本である。じっさい、一時期の東は選挙を行うことさえ疑問視していた。

(前略)ぼくは最近、選挙ってそんなに重要なのか、とよく考えるんですよね。そもそも投票権の行使と言ったって、
三年に一回、あるいは四年に一回、お祭りをやるだけですし。(『リアルのゆくえ』、p239-240)

 同じような主張は、東に影響を受けた論者、宇野常寛の著作にも存在する。震災前の宇野は、ビッグブラザーは死んで
リトルピープルの時代が来た、と主張していた。平たくいえば、ビッグブラザーとは「危険な権力」のことであり、リトルピープルとは、
「政治的動機から他人を傷つける、危険な庶民」のことだ。つまり、いまや「危険な権力」というものはなくなったのだから、
政治や社会に興味を持たず〈いま・ここ〉に充足して生きるのが正しい、うかつに政治的意識を持つと、
あなたは人を傷つける「リトル・ピープル」になってしまうだろう、というのが、宇野の主張だったわけだ。

 しかし、なぜ権力は今や安全なものになったのか。人々が政治に関心を持たないなら、誰が政治を行うのか。
こうした点について、宇野はこう述べている。