再び候補に浮上・プロポーズ


1992年(平成4年)1月、皇太子は「小和田雅子さんではだめでしょうか」と
安嶋のあと東宮大夫になっていた菅野弘夫に告げた。
4月27日、藤森は東宮侍従長の山下和夫、菅野、参与の団藤らとともに会議を開き、
再び雅子を候補として進める計画を始め、中川は元外務事務次官で国際協力事業団総裁だった柳谷謙介に協力を依頼した。
柳谷は、その当時の事務次官となっていた、
元部下に当たる小和田恆に働きかけた。
終わった話と思っていた恆は、皇太子自身からの希望を伝える柳谷の言葉に驚いたものの、
雅子にこれを伝え、彼女はその後の複数にわたる関係者の「一度でいいからお会いしてほしい」という熱心な働きかけに応えて
一度は再会することにした。
8月16日、柳谷に連れられた雅子は、千代田区三番町の宮内庁長官公邸で皇太子と再会した。

同時に宮内庁は、マスコミに対し2月13日から3か月毎更新の形で皇太子妃報道を自粛する
報道協定(皇太子妃報道に関する申し合わせ)を申し入れていた。
これまでお妃候補が強引な取材でマスコミ不信に陥り、交際を発展させるにも支障をきたしていることへの配慮だった。
各社はこれを受け入れた。[21]