>>756
>軍紀の乱れから、中国女性を強姦する婦女凌辱行為
>や食料・物資の略奪,人家を放火・破壊する不法行為も多発した。

これは完全に敗残シナ軍による「漢奸狩り」。
日本軍にとって南京戦は楽勝だったので軍規の乱れは全くなく、堂々と入城した。
入城の翌日は、騎馬の将官による入城式が行われている。
南京で日本軍が酷い事をしていたら、日本の将官が騎馬で高々と身をさらして
入城なんて、危なくてできる訳もない。シナ軍による「漢奸狩り」が終わって、
市民がすっかり安心して、店も開かれ、民生が安定していたからできる事。

・福岡日日新聞の三苫幹之助は、陥落直後の南京入りしたが「大虐殺の話なんか
見ても聞いてもおりません。痕跡すら何一つありませんでした」と証言している[140]。
また三苫が書いた昭和14年の福岡日日新聞記事では、中国人市民の証言として、
日本軍が到着する以前の南京安全区のイホロ難民区では、中国軍兵士や銃を持って
夜昼検察に来て、食糧や物品を強奪し、独身男性は労役のために拉致され、
夜は女性が拉致されていた、と証言している[141][140]。

・福島民報の箭内正五郎は、第65連隊(山田支隊)に従軍したが軍紀が乱れたこと
もなく、上海と比べると南京はあまり激しくない戦線であった、戦後にいわれた
大虐殺はなかったと証言した[5]

・大阪毎日新聞の五島広作[126]は第6師団(谷寿夫師団長)に従軍し1938年
1月10日まで南京にいたが、中国人虐殺命令は聞いたことがなく、
「東京裁判があってからの作り話」ではないか、と証言した[127]。
また、事件があったらしいと噂を当時聞いたので朝日、読売、同盟各社に問い合わせ
たが、どの社も知らないので、中国の宣伝工作だろうと考えたとも証言した[128]。

・同盟通信の新井正義は、中国兵の死体に便衣の者もいたし、中に捕虜の死体も
あっただろうが、20万の大虐殺は聞いたことがない、日本兵が捕虜に米を入れて
あげるのを見た、入城式直後には小売店や甘味料もよく売っていた、虐殺について
は東京裁判ではじめて聞いた、と証言した[136]。