イザベラ・バード「朝鮮紀行」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日清戦争後、李氏朝鮮末期の朝鮮半島を旅行したイザベラ・バード(ビショップ)が 書き残した「朝鮮紀行」について感想など語ってください。 なお書籍は原文および時岡敬子訳参考 朴尚得訳を読まれた方は 誤訳不適切訳が多く(数百箇所指摘)されていますので 考慮した上で発言願います。 韓国朝鮮人の祖先は悪魔の洞窟門にいた山葡萄原人 ! ロシアのアムール川流域の洞窟(悪魔の)に住んでいた、山葡萄原人が挹婁(ゆうろう)になり、 その遺跡からは豚と共 に多数の魚や犬の骨が発見されています。 当時から犬を食っていたのです。 犬は大好物だったのです。 朝鮮人が犬を食うのは、今日や昨日ではなく、ずっと昔から「犬は食い物」と思っていたのです。 山葡萄原人(ホモサピエンスではない)が国朝鮮人の祖先か? 約8000年前の新石器時代に生きていた韓国人の祖先のゲノム(ある生物種を規定する遺伝情 報全体)が初めて解読された。 パク・チョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長 (生命科学部教授)が率いる国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江(中国名:図們江) の北にあるロシア・アムール川流域の『悪魔の門の洞窟(Devil's Gate cave)』で発見された 7700年前の人類のゲノムを解読した」 と明らかにした。 「悪魔の門の洞窟人」の遺伝子は、現地に住むウルチ(Ulchi)族と最も似ており、近くの先住民を 除く現代人の中では韓国人が最も近いことが分かった。この研究結果は国際学術誌「Science Advances」に掲載された。 「悪魔の門の洞窟」で発見された民族を調べてみると、ゆうろうという中国東北部から ロシアのアムール川近くに存在するの民族とかなり近い。 「朝鮮人のY遺伝子もX遺伝子は… 高句麗・百済・新羅・日本と全く関係がない!」 日本人と朝鮮人と遺伝子の共通項はゼロです。 イザベラバードの朝鮮紀行(李氏朝鮮)との(糞尿まみれで不潔)共通項もあります。 挹婁人(ゆいろう)は養豚が盛んで、豚を主食とし、豚の皮を着物にして、夏にはほぼ全裸でわずかな布だけで 前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチもの厚さに塗って風や寒さを防いだといいます。 挹婁人は地上に家を建てず、地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた 容器を囲んで暮らしその人尿で手や顔を洗った。 これについて『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。 アリランやトーテムポールなどのエベンキ族の文化があるよね。。 ・イサベラは知っていたのか試し腹・ 全米で3年間常習的に姪を性暴行した30代韓人男性が警察に逮捕され大ニュース・・・・ 韓国の李氏朝鮮からの風習である試し腹が衝撃を与えた、米国の韓人家庭内での性暴行が 蔓延していることが明らかとなった。 ニューヨークで今年に入って家庭内性暴行の90%は 韓国人家庭で韓国の親戚友人などの知り合いによって子供が集団で日常的に性暴行された。 韓国の子供は「家族たちと親戚の家に遊びに行ったら同じ歳の男児から、また一緒に暮らす 伯父や叔父や、隣家の大人や男子達や、韓国の幼稚園園長などによる性暴行が日常化していた」 として、「幼い子供達のほとんどが試し腹されていた」と全米が報じた。 全米にいる韓国人の子供達は、韓国人の大人はポルノを見ながら子供に「試し腹」の性暴行が 日常的に起きていた。 クイーンズ検察によればクイーンズに居住する韓国人男性(43)は7年間も10代の姪を「試し腹」 性暴行を続け、去年10月に事件発生10年目に児童安全危害と2級児童性犯罪の疑いで警察 に逮捕された。 朝鮮ヒトモドキはそこら中にウンコを垂れ流ししていたんだってね 道にはウンコが散乱していたという 李氏朝鮮時代には便所がまだ無くて、当然ながら下水道も無い。路地裏でするのだが、それが貯まりに貯まって糞まみれになります。 この本(原版)は著作権切れてるけど 紙面をスキャンしたものではなくて 文字ベースになっているファイルあったら教えて 垂れ流すのは糞尿だけじゃないw テジョン 韓国製原子力発電所 最 初 か ら 高 濃 度 汚 染 水 垂 れ 流 し の 設 計 。 高濃度汚染水30年垂れ流し 韓国は「運営の未熟」と言い訳。 https://i.imgur.com/XjQFrrn.jpg 韓国は英BBCの調査する「世界で最も嫌われている国の上位十位以内の常連」です。 食糞(嘗糞)文化のため、韓国人の胃からは寄生虫がよく見つかります。 日韓併合以前の「李氏朝鮮時代の地層からは寄生虫の卵や死骸が多数発見」されます。 韓国人の祖先が亜人原人だから、家にトイレを持たず、路上脱糞、放尿のし放題だったのです。 イギリスのイザベラバードという女性冒険家、旅行者は、李氏朝鮮末期の朝鮮を旅行し、路上の 糞尿垂れ流しの後継や異臭を目にして「この国はアジアで最も不潔で汚い街だ」と記しています。 朝鮮訪問の直前が、 日本だったので「日本ほど世界で最も清潔で礼儀正しい国はない」と絶賛していますから、 天国と地獄ほどの落差があったでしょう。 韓国は糞食と共に、人糞酒(トンスル)まで作って愛好しています。 Youtubeでトンスルで検索すると、この恐怖の人糞酒を実際韓国に行って作り方から日本のTV クルーが取材した動画があるので見てみてください。 案の定、本物のトンスルを飲んだリポーターはげろってましたw 日本人が、韓国の男女と恋愛関係になりキスをすることは、「糞と間接キス」するのと同じことです。 イザベラは計4回も朝鮮に行っている。本当は朝鮮が好きなんじゃね? 英国人こらみた朝鮮の実態が記述されていてとても新鮮だ。 中国とロシアににらまれて、強い側について延命するしかなかった民族の悲哀を感じた。 また、国家観を全くもっていない国王や役人貴族に搾取されるしかなかった朝鮮人。 彼らが今現在も世界の常識を理解できずに、自分たちよりも劣る民族と考えていた 日本人が国際社会で認められることに我慢出来ず、虚偽に満ちた主張を繰り返す背景や 国民性をこの本から垣間見ることが出来る。 竹島は英国人からみても、明らかに日本の領土であったこと、従い現在も、日本の領土で あることが分かると思う。 バードは本書の中で、1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、ソウルこそこの世で一番不潔な町だと記している。 イザベラバードとネトウヨジッジとの共通点について ・うんこが好き。 ・韓国人が世界一優秀であることを知らない。 ・韓国の近代化は日本のおかげだとしている。 ●日本の第二師団は農村出身者が多かった。それが韓国を通って満州へ進軍する のだが、韓国の農村のあまりの不潔で貧しい様子に呆れてしまったという。 耕せば耕地になるようなところがたくさんあるのに、何もしていない。ときたま牛を追い ながら耕しているが、それもずいぶん能率が悪い。 ●自分たちならもっと効率よくできる、見てはおれんとなったのだ。それは満州に行っても 同じだった。(多門二郎・第二師団長「日露戦争日記」より) 《谷沢永一 「時勢への証言」》(他著書「歴史が遺してくれた 日本人の誇り」) 李氏朝鮮時代の身分制度・・・・・日韓併合前の朝鮮半島の政治形態 官僚による中央集権制度で政治を行い、軍事反乱を恐れて地方豪族や軍閥を全て排除し、軍部の地位 を低く抑えていた。農民の反乱を抑えることが出来ないような軍隊で500年間国を維持できたのは、 中国(明・清)の属国だったからである。 富を奪う身分(両班)と奪われる身分(両班以外)に二分でき、奪われる側は甚だしい劣悪な生活に 追い込まれ、庶民文化 ・教育・伝統・芸能・職人の技術・労働意欲などが全く育たなかった。 三権分立などなく、地方長官や中央役人が全ての権限を握り、富を奪う為にその権限と利用していた。 少数の支配者にとっては理想国家であろうが、支配される大勢の者たちにとって 「劣悪非道の暗黒国家」である。 ネトウヨジッジ「イザベラさんに励ましのお便りを書こう!!」 朝鮮紀行では朝鮮半島の山林はハゲ山が多く、原因として木炭等の目的に森林乱伐が されていたとある。しかし現在、雲峰山では木々が生い茂っており、私的な予想では 日帝が植林した日帝残滓かと思っておりましたが違う事が分かり安堵いたしました しかし、後の植林が親日派の高木正雄の仕業と聞きやはり日帝残滓として植林を すべて焼き払うのは利に叶うと言わざる得ないと感じました 植林なんて日帝軍神のやるような酷いことなので暗殺しる!! 路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、牛と人間ならかろうじてすれ違えるほどの幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物をうける穴か溝で狭められている。 悪臭ぷんぷんのキムチ野郎である。 李氏朝鮮時代の朝鮮人は生まれた時から糞まみれだったので、臭いと思わなかっただろう。さすがは朝鮮人、糞に慣れ親しんでいた。 >>688 一方、同じ頃の日本では・・・っていうをセットで載せてくれ その頃の日本はすでに近代国家として先進国の仲間入りを果たしているよ。国際連盟(国連の前身)の会議にも参加しているし、その会議の議事録に李氏朝鮮が世界最貧国として記載されているよ。 李氏朝鮮末期 ソウル(京城)の景色のひとつは小川というか下水というか水路である。 蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した 排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。 水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。 当時の京城(現ソウル)では乳出しチョゴリを着たアガシが路上でマーキング(脱糞)してました。 植林なんて残虐非道なことをする奴なんて、チニルパ(親日派)に違いないニダ!! 山尾志桜里さんは夫と息子を返すべきです。 せめて息子だけでも返してあげたらいかがでしょうか? いちご牛乳は飲み物です。 あ あちらこちらで スリ強盗 い 犬は食いたし 金は無し き キムチの臭いだ 緊急出動 く 糞食う民族 犬も当然 に ニダは 武器を持っている ほ ホルホル 金を出せ ね 寝込みを襲い カネカネ金庫 ゆ 油断大敵 夜の(京城)ソウル 14世紀末に「李氏朝鮮」が成立。儒教が普及させるため仏教を弾圧しました。 そして、儒教思想に基づき、上流階級が政治を掌握する両班(ヤンバン)制度が確立。 儒教で重要視している冠婚葬祭の作法が根付きました。 朝鮮時代にも牛肉を食べる機会は多くありませんでした。仏教が封印されても、牛や馬は交通や 輸送に必要だったため、屠殺は基本的に禁止。そのかわり、豚肉や鶏肉を良く食べていました。 また、滋養強壮食として「犬肉」が流行しました。 李氏朝鮮末期には、唐辛子ろ白菜が伝来したのです。唐辛子の特長は、殺菌力があり防腐剤の 代わりになること。キムチに唐辛子が使われるようになり、さらなる長期保存を可能にしました。 コチュジャンの誕生も唐辛子のお陰です。 日韓併合後も続いていた朝鮮の糞尿を使う民間療法にありました。 朝鮮の民間療法では人糞のほかに牛、豚、犬、ニワトリの糞もフル活用され、水に溶かして 飲んだり、粉にして傷に塗ったりしていました。 また糞尿以外では死者の血や肉、生きている人間の心臓や肝臓、肉、経血を飲み食いする、 便所や死体にわいているウジムシを歯につめたり食べたりする、また薬効があるとしてヘビの 刺身、カエルの卵などを食べたりしていました。 ・小児が天然痘にかかって口の中が潰瘍になったときは人糞にわいたウジムシを乾燥し、 それを粉末にして患部に塗ると治る ・小児がてんかんにかかったときは人糞をゴマ油に混ぜ沸騰させたものを飲ませると全治する ・毒腫には豚の糞を服用すると治る ・永年肺病にかかって服薬の効果がないときは人の睾丸を食べると治る ・精神病はもののけのしわざなので呪師を招いて太鼓を打ちながら七日以上読経し、それでも 治らないときは患者に犬の皮の帽子をかぶらせ桃の木の枝でムチ打てば治る 韓国人にとってうんこは日常の生活に欠かすことができないのです。 英国人女性探検家イザベラ・バードは1878年 (明治11年) に日本を 旅行し、「日本奥地紀行」 を著した。 イザベラ・バードは報告する。 「ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちは とても汚く、 ひどい皮膚病にかかっていた」。 さらに山間部へ進むうちに状況はもっとひどくなる。 「彼らの身体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立運動の人たちに 対して汚く むさくるしいという言葉を用いてよいならば、彼らはまさに それである」。 この様子にはバードに同行する通訳も驚いたらしく 「こんな場所を外国人に見せるのは恥ずかしい」ともらす。 それから別の村では多くの病人がバードの薬を求めてやってくる。 「父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、 たむしので きている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の 見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫れ物を露出させていた。 子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。 病気の者も、健康な者も、すべてがむさくるしい着物を着ていた」。 バードが彼らに与えたドバイスはこうである。 「私の国では絶えず着物を洗濯すること、絶えず皮膚を水で洗って、清潔な 布で摩 擦すること、これらは同じような皮膚病を治療したり予防したり するときに医者のすすめる方法である」と。 http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1484488179/278 韓国の実態 儒教の国、実際には同棲をするのが多く日本よりも風紀は乱れている。 韓国の宗教で普通に行われてる「血分け」。だから犯罪も多い。 CIAのサイトにはクジラ(日中露)に挟まれたシュリンプ(小エビ)と書かれていた。 ちょっとイザベラさん、韓国に嫉妬しないでください。 元々江戸時代には動物の死骸処理は、士農工商から外れたエタ(穢多)の仕事で 牛や豚からとれた「皮革を材料に製品」を作って売っていた。これは徳川幕府から 授かった利権である。 そこに朝鮮人が利権を求めて部落に婿入りで入り込んで 利権を獲得していった。 朝鮮人は優秀で日本人はアホだったと こう言いたいわけだ トンスルと病身舞とキムチを世界文化遺産へユネスコにGO! 風呂 かの国ではお風呂場に浴槽のない家が多くり、一般的に家では浴槽につからず、 週末に銭湯へ行く人が多い。銭湯では、湯船に浸かっている間も洗い場にタオル などの自分の荷物を常に置いておき、場所取りをするのが基本ルール。 また、銭湯は他者の視線など気にせず、各々がリラックスする場所という暗黙の 共通認識があるようで、銭湯に飲食物を持ち込んだり、タオルで体の前も後ろも 隠さず堂々とサウナであおむけに寝たりするのです。 イザベラは犬食文化をしっていたのか? 毎年約200万頭の犬が消費される、韓国養犬業者が配布したチラシには、 「犬肉そのものはコラーゲンの塊で、肌にも良く、美人になれる」と書かれており、また高齢者の健康に とっても利点があるとし、「市民の皆さん、われわれの祖先が何世代にもわたって にしてきた、伝統的 かつおいしい犬肉を、恥じることなく食べてください。そうすれば幸せで健康的な生活を送れます」 と 訴えている。 ★うんこ小便まみれの不潔で歴史も文化もない未開の土人だった韓国朝鮮人を、日韓併合で人間レベルにしてくれた日本に対して恩を仇で返す卑劣な嘘つき韓国朝鮮人★ 当時の朝鮮半島と日本と朝鮮半島の関係、日本の朝鮮半島に対する姿勢を、第三者であるイギリス人女性の客観的な視点から書かれた朝鮮紀行 〜英国婦人の見た李朝末期。 この書が発行されたのは1897年のために、戦後の歴史観を捻じ曲げた戦勝国、東京裁判史観、連合国史観の入る余地が当然なく、 著者であるイザベラ・バード自身が見て感じた事実が正確に記述されているために、戦後に戦勝国、連合国や韓国、中国によって創られた嘘、捏造まみれの歴史などとは まったく比較にならない貴重な歴史的資料である。 朝鮮紀行 〜英国婦人の見た李朝末期 著者=イザベラ・バード 『朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バードが1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、 4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。1897年に出版された。 以下「朝鮮紀行」より、重要な部分を抜き出し引用しました。 (P32) 朝鮮の言語は二言語が入り混じっている。知識階級は会話のなかに漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記される。 とはいえそれは1000年も昔の古い漢語であって、現在、清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。 朝鮮文字である{ハングル}は、教養とは漢籍から得られるもののみとする知識層から、まったく蔑視されている。 (P58) 城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、 紹興〈シャオシン〉へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのだから!都会であり首都であるにしては、 そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。 路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、 おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。 悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、 疥癬〈かいせん〉持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしている。 (P64) 南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館があり、その下には茶屋、 劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ5000人の日本人居留地がある。 ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。 女は顔を隠していないし、着物に下駄ばきの人々は日本と同じように自由に動きまわっている。 ここではまた下っぱの兵士や憲兵、それにスマートな帯剣の将校も見られる。 将校は一定間隔で警備を交代するが、朝鮮では反日感情が根づよいためこのような警戒が必要で、 日本公使館員が戦いをまじえつつ海まで逃げざるをえなかったことが二度あった。 (P83) ある意味でソウルは朝鮮そのものである。 土壁のあばら家や軒の深い茶色の屋根、汚物をたたえて緑色にぬめり悪臭を放つどぶのある、 ソウルのみすぼらしいひとつをとっても、地方のどんな町や村にもある通りの典型だといえる。 (P85) 朝鮮人にとって、ソウルは生活に値する唯一の場所なのである。 とはいえ、ソウルには芸術品がまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。 他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ 無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない! ソウルには公認の寺院がひとつもなく、清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。 (P111) 小集落はべつとして、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校といっても私塾である。 家々でお金を出し合って教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで、 これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足がかりなのである。ハングルは軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。 (P137) 朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。 両班はみずからの生活のためには働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、 妻がこっそりよその縫い物や選択をして生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。 両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、 おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。 本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。 従者たちは近くの住民を脅かして飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。 (P170) そして悪魔祓いの儀式が終わったあと、その一部が病を治す薬として病人に与えられるが、往々にしてこれは病状を深刻に悪化させる。 なにしろ腸チフスや赤痢にかかった病人に豚肉やキムチを食べさせるのである! (P211) 日本と土壌がきわめてよく似ているのだから、しかも朝鮮は気候には日本よりはるかに恵まれているのだから、 行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う。 長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法をを見る機会に恵まれた。 日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ検約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。 (P322) その前年の冬の不況は終わっていた。日本は支配的な立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。 改善といって語弊があるなら変化はそこかしこかにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取り戻した国王はそのような状況を容認し、 王妃は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上馨伯爵が日本公使を努めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。 1895年1月8日、わたしは朝鮮の歴史に広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。 朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。 官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、<土地の神の祭壇>前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、 さらに提案された国政改革を行うと誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの誓告をしばらく延期しており、 式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。 しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山のふもとの鬱蒼とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。 (P327) 現在朝鮮の改革は日本の保護下ではおこなわれていないとはいえ、進行中のものはほとんどどの段階においても 日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。 日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しかわたしの眼中にはなかった」とい述べたと報じている。 1895年当初においてはこのような結論が正当だったのであり、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。 (P342) 1895年1月、ソウルは奇妙な状態にあった。「旧秩序」が変わりつつあるのに、新しい秩序は生まれていなかった。 陸海戦ともに勝利した日本は、戦前、清に協力を要請していた国政改革を朝鮮に強要する態勢にあった。 1894年7月に日本軍が王宮を占拠して以来、国王は「棒給をもらうロボット」にすぎず、またかつて権勢を誇った閔一族は官職から追放されていた。 日本は全省庁の監督責務を引き受け、腐敗した行政官に公正を強いる構えでいた。 1894年9月17日、平壌で清国軍を敗退させた日本に、目的実行をはばむものはなにもなかった。 以下略 とはいえ、改革事業は予想をはるかに超えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態であることは明らかだった。 伯爵は「使える道具が何もない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を2年の予定で日本に留学させた。 最初の1年は勉学に努め、次の1年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。 以下略 朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。 一般大衆は、本当の意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。 官吏階級は改革で、「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。 政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、 首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層ををしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。 名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。 公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。 そして盗む側には官界を膨大な数の人間が含まれる。 「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。 以下略 かくして「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化は良い方向を目指したものであったとはいえ、 制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。 清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、 また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。 (P350) わたしが朝鮮を発った時点での状況は次のようにまとめられよう。日本人は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、 じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、 実質的には棒給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、 政治は国王の名において10省庁の長官でなる内閣に司られていたが、その中には「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。 (P364) 王妃暗殺からほぼ1ヶ月、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に訓練隊を武装解除し、 朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。 日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。 しかし井上伯は日本軍は武装して王宮を再度占拠するという方策は、国王の身の安全を確保するという目的のためとはいえ、 重大な誤解を受けやすく、またきわめて深刻な紛糾を招きかねないと考え、即答を避けた。 列強が日本に対してはっきりと要求しないかぎり、このような発案が考慮されるはずはなかった。 電信機が待機し、しかるべき根回しが行われ、11月7日に北部への旅行に発ったわたしは、平壌に着いたとき、 諸外国公使の見守る中で重大なクーデターが首尾よく遂行されたというニュースが待っているものと思っていた。 ところが日本は井上伯と新公使の小村氏がふたりして働きかけたにもかかあらず、王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった。 なかでも日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使なのであるから、日本が各国公使の提案を受け入れていれば、 現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか。 たしかにロシア政府は訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求したのである。 その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身からでたさびといわざるをえない。 >ソウルには芸術品がまったくなく、 うんこ博物館があるニダ!! 11月のあいだに新しい国策に対する不満は朝鮮国中で増大し、情勢は緊迫の度を深めた。 各国代表ばかりでなくあらゆる階層の国民から、10月8日の事件を調査すべきだ、王妃はどこかに身を隠しているという作り話でごまかすなという声が高まり、 内閣もしぶしぶ何らかの手を打たねばならなかった。 (P404) 平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。 この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。 「倭人は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、多くの住民は戻ってきていた。 以下略 そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。 日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた。 訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。 わたしが二度目に訪れた時、目抜き通りはあちこちで建物の解体と建築が行われ、大わらわの様相を呈していた。 日本の商人が商業用の一等地をすべて買い上げ、小さくて暗くて低い朝鮮の店舗を大きくて明るくて広々してこぎれいな日本の建物に改築していたのである。 (P432) 気候は素晴らしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。 もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そして地租が公正に課されて徴収され、 法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。 しかしこの「もしも」はあまりにも大きい!どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。 そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権があたえられていたわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる)ものの、 役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた。 それに改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。 改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉ををほのめかしたので、 朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしのみるかぎり朝鮮全土にあたえてしまった。 (P435)朝鮮の女性の地位 朝鮮の下級階層の女性は粗野で礼儀知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からわおよそほど遠い。 着ているものは汚れ放題で、夜遅くまで休みなく洗濯をするのは自分たちでも、きれいな衣服を着るのは男の専売特許と言わんばかりである。 (P441) 郡庁所在地の慈山でわたしたちは徳川へ北上したときの分岐点にもどった。 以下略 町の人々からは、清国兵は情け容赦なくものを盗む、ほしいものは金も払わずに奪い、女性に乱暴を働くという悲痛な被害の話を聞いた。 前に私達は慈山の隣村ウチンガンの渡し場で大同江を渡ったが、この村は朝鮮人が恐怖に駆られて逃げ出してしまい、 53人の清国人が占拠して重要な駐屯地となっていた。 日本の偵察兵ふたりが対岸にあらわれて発泡すると、清国軍派遣隊はばらばらに逃げ出したものである! 慈山でも他と同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、 日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。 (P453) ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにははなはだしく欠ける。 男たちは仲間とお互いの家を行き来して毎日を暮らす。家庭生活はない。 奥の住まいにいる女たちは同性の客を迎え、また娘たちもそこにいる。 男の子は幼い頃から男の住まいに移され、そこで耳に入る会話から、自尊心ある男は女を蔑視せねばならないと学ぶのである。 (P462) 朝鮮人は正真正銘の愛国心にははなはだしく欠けるとはいえ、愛国的傾向は強い。 慣習であるから、「まげ」の廃止は前にもおもにアメリカ帰りの朝鮮人から提唱され、日本人の支持を得て内閣で討議されたことがあったが、 一般の反発がすさまじく、政府は強要はできなかったのである。 (P469) 王妃のつよい影響力と反逆的将校の粗暴な支配から解放された朝鮮国王がいまにその自由を用いたかは、ここに記すまでもない。 以下略 9月には日本の保護下で組織された内閣にかわり14名のメンバーで構成する議政府が設けられた。 これは旧体制にある程度戻る変化だった。日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。 国内は不穏で東学党に変わり「義兵」が出現した。地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制されていたが、 宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。 また国王自身、潤沢な王室費がありながら、公金を私的な目的に流用し、安全な住まいにおさまってしかも日本人その他の支配から自由になると、 さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった。王権を抑制する試みがあったにもかかわらず、 国王の勅令が法であり国王の意思を絶対とする絶対君主制にもどってしまったのである。 一方、日本は徐々に撤退し、また撤退を余儀なくされ、日本が朝鮮で失った影響力はことごとくロシアの手に渡った。 (P474) 朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。 官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、 底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。 職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食い物にする権利だけは存続するのである。 日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日に日本兵が景福宮を武力で占拠した時点からはじまった。 相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。 日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。 現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。 日本が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない。 以下略 1894年7月、大島氏は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。 そして翌年1月には漢字と「無知な者の文字」とされていた{ハングル}の混合体官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった。 (P493) 朝鮮の教育改革計画はもともと日本人による改革時代に発案されたもので、初等学校制度、直接成果の出る師範学校、中等学校の創設がその内容である。 以下略 相当数の初等学校も同様で、1000人を超える男の子が算数、地理、朝鮮史の初歩や他の文明諸国の政治体制のあらましを学んでいる。 77人の青年が官費で日本に留学しており、外国語の習得にはかなりな成果をあげているが、数学の適正と理論力に欠けるといわれている。 全体として、朝鮮の教育の前途は見込みなしというものではない。 (P500) 公金を横領するための技巧や策略にかけては、朝鮮人はことのほか創意と才能を発揮し、朝鮮の官僚の不正行為ほど根絶しにくいものはない。 (P502)朝鮮のシャーマニズム 朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿がない。家々には「神棚」がなく、村祭りには神輿もなければ、偶像を運ぶ行列もなく、 婚礼や葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりすることがない。 (P538) いずれにしても、ロシア公使館に遷幸して以来、国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、 最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは、対照的に好ましくない。 昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。 以下略 また日本の支配力からも解放され、さし迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、 チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅令は法となり、国王の意思は絶対となった。 (P560) 宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上欲しいままにしてきた。 この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、 各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させ、無料新聞も同じ路線をとった。 朝鮮の農民には日本と西洋の指導手段を通して、食いものにされるばかりが自分たちの運命ではない、 自分達も市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。 この3年間にあった朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると、つぎのようになる。 清との関係が終結し、日清戦争における日本の勝利とともに、中国の軍事力は無敵であるという朝鮮の思いこみが打破され、 本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた。 貴族と平民との区別が少なくとも書類上は廃止され、奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。 残忍な処罰や拷問は廃止され、使いやすい貨幣が穴あき銭にとって代わり、改善を加えた教育制度が開始された。 訓練を受けた軍隊と警察が創設され、済物浦から首都にうたる鉄道敷設が急ピッチで進められており、国家財政は健全な状態に立て直され、 地租をこれまでの物収から土地の評価額に従って金納する方式に変えたことにより、官僚による「搾取」が大幅に減った。 広範かつ入念な費用削減が都市および地方行政府の大半で実施された。 (P563) それでも朝鮮で1年近くをすごし、そこに住む人々をおもな研究対象とした結果、 わたしは1897年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、 朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。 T 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。 U 国王の権威は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。 以上、わたしはもっぱら朝鮮の国内問題、現状、一般大衆の社会的あるいは商業的な向上の見通しについて書いてきた。 第37章 最後により(P571) ざっとではあるが、以上が1897年末時点での朝鮮における政治情勢である。 朝鮮は長くつづいた中国との緊密な政治的関係を絶ち、日本から独立というプレゼントをもらったものの、その使い方を知らずにいる。 イギリスは見当がつかなくもない理由から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。 他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない。 そして朝鮮の領土の保全と独立は、極東における利害関係が敵対しているといって語弊があれば、対立している帝国主義列強のなかでも、 最も忍耐強い国と最も野心的な国のなすがままとなっている。 朝鮮の運命をめぐってロシアと日本が対峙したままの状態で本稿を閉じるのはじつに残念な思いである。 日帝は風呂や便所などの日本の文化を押し付けてきたり、韓民族伝統のレイプや糞食などを禁止したりしたニダ!! ■日韓併合、大東亜戦争とは何だったのか。植民地と併合の違いは対等、平等であるかないかである■ @ 当時は有色人種国家のほぼ全てが欧米白人国家の植民地であり、力こそ全ての弱肉強食の時代。 当時の日本がアジアの近代化に必死だった最大の理由は、 白人絶対優位で白人による人種差別が凄まじく、アジア人、有色人種国家で唯一つの文明国、先進国だった日本は、 そのおかげで世界で対等な関係にはなれなかった。 他の有色人種国家同様に日本もいつ植民地にされるか分からない。 日本が1919年パリ講和会議で提出した人種的差別撤廃提案も否決された。 アジア人や黒人は白人から人間扱いされていなかったのである。 黒人はアフリカから欧米白人国家に連行されて奴隷として売買されていた。 その白人絶対優位の世界を変えるには日本だけでなくアジア、有色人種国家が欧米白人帝国主義国家の植民地から脱却し、 文明国、先進国になっていくしかなかったのである。 また力こそ全ての弱肉強食の時代に日本の自立と平和と繁栄を守るためにもっとも重要なのは国防安全保障であり、 特に隣国で当時、未開の劣等国家だった朝鮮半島は放っておいたら、ロシアの植民地になり日本侵略の最前線基地になっていた。 地政学上、朝鮮半島は日本にとって喉元にナイフを突きつけられたような位置にある。 ロシアの半島占領後にロシアが日本を侵略すれば、ロシアの一部となった朝鮮人が 日本侵略の先兵になって日本人に成り済まし、工作もやり放題で最悪の結果になるのが分かっていた。 A そのために日本は自衛のために、朝鮮半島が近代化しロシアに侵略されないように、 朝鮮半島の癌で宗主国であった清を日清戦争で追いだし朝鮮の自力での発展を促した。 ところが日本から独立させてもらった朝鮮だったが自力での近代化など進まず、 朝鮮自ら併合の申し出もあったことで日本は朝鮮半島の併合を決断。 以後、日本は朝鮮半島の近代化に尽力するのだった。 朝鮮人は日本人と全く同じ権利を得て、日本国民として生き、 日本の手によってインフラ、教育などあらゆるものが急速に近代化し、 日本の改革によって両斑による搾取もなくなりハングルも普及した。 志那の属国か、グローバル資本の経済植民地の悲惨な歴史しかない朝鮮人にとって日韓併合は最も幸せな時代だったのである。 併合と植民地の違いについてだが、併合とは日韓併合のように軍事的に侵略したわけでなく、 併合した側とされた側が同じ国民としてまったく同じ権利を得て搾取の対象にはならないこと。 植民地とは、欧米白人帝国主義国家が有色人種国家で行ったように、植民地はけっして宗主国の国民と同等の権利は得られず、 奴隷として労働に使われあくまでも搾取の対象でしかないことである。 日韓併合によって朝鮮人は日本人になり全てが対等であったのです。 その後、国際金融資本の世界支配の野心によって 日本と世界は泥沼の悲惨な大戦争に巻き込まれていくのです。 ■韓国が日本との併合でなくロシアの植民地になることを選択していれば、 現在の地球上に韓国、北朝鮮という国家は存在せず、ロシアという国の極東の半島でしかなかったことは確実であった。 日本は軍事的に朝鮮を侵略したわけでもなくお互いの合意のもとで併合して、 朝鮮人は日本人になってまったく対等な権利を得て、両班により搾取もなくなり朝鮮は近代化していった。 それまでうんこ小便まみれの不潔で歴史も文化もない未開の土人だった朝鮮人に天国が訪れた。 朝鮮半島がロシアの植民地になれば朝鮮はロシアの日本侵略の最前線基地になり、 日本にとってそれは自衛のために絶対に阻止しなければいけなかった。 どっちにしろ日本が併合してなければ、朝鮮はロシアの植民地になっていたことは間違いない事実。 当時の世界と朝鮮半島をめぐる情勢を少しでも知っていれば、これに反論できる人間は誰もいない。 実際に当時の朝鮮(大韓帝国)は日本に併合されるか、ロシアの植民地になるかの 2者択一の選択に割れており、最終的に朝鮮が自ら日本併合を選んだにすぎない。 朝鮮がロシアでなく日本を選択したのは朝鮮人とって大正解であり、朝鮮人は賢い選択をしたわけで、それは大いに誇れる事実である。 朝鮮人は素晴らしい選択をしたのに、捏造してまで自らそれを貶めようとしているのだからアホと言うしかないw 当時はアジア・アフリカのほぼ全てが欧米白人帝国主義国家の植民地であり宗主国に一方的に搾取されるだけの存在だった。 黒人は欧米に連行されて奴隷として働かされていた。 白人の人種差別が凄まじく白人のロシア人が有色人種の朝鮮を植民地にしたらどれだけ悲惨な運命が待っていたかは明らかだ。 間違いなく対等ではなく搾取される対象にしかならなかっただろう。 実際に日米戦争の終戦間際にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告して 満州や北方領土を占領し残虐非道な行為をした事実がそれを証明している。 朝鮮人は恩人である日本に感謝することはたくさんあっても、日本が謝罪することなどなにもない。 当時の朝鮮にとっての選択肢は同じアジア人の日本に併合されて日本人になり近代化し豊かな生活を送るか、 ロシアの植民地になって激しい人種差別を受けて搾取され悲惨な地獄のような生活を送るかのどちらかしかなかった。 そして朝鮮(大韓帝国)は日本を選ぶという正しい選択をしたのである。 もしこの時に朝鮮がロシアを選択したらどうなっていたかは言うまでもない。 全くだ。 ロシアが半島抑えたら上海の英国艦隊と勝手に睨みあって 海軍すら楽になったろうに。 ■戦前の本来の日本が復活すれば世界が救われる理由 1900年代初頭の朝鮮でやったことの比較 日本だけが特別だったことは馬鹿でもわかる。 世界で日本が唯一つの希望であった理由。 ○清(支那)=朝鮮の宗主国だった清は朝鮮の支配貴族階級の両班と組んで朝鮮国民から搾取していた。 その結果、朝鮮は救いようのない未開の土人国家が数百年も続いていた。 しかし日清戦争で日本が清を倒し追い出すと、長年続いた負の連鎖は終わり、日本の手によって朝鮮は近代化の道を歩みだす。 ○欧米=現実に朝鮮を支配することはなかったが、当時の欧米の植民地国家は有色人種国家のほぼ全てを植民地にし、 その植民地でやってきたことは搾取と奴隷化であったわけで、朝鮮を支配した場合に同じことをやったのは間違いなかった。 朝鮮を日本が保護しなければロシアが朝鮮を植民地にしたことは間違いなかったことだが、 ロシアの植民地になった朝鮮がどれほど悲惨なことになったかは、言うまでもないだろう。 ○日本=朝鮮の保護国になった日本は、朝鮮でそれまで続いていた朝鮮の支配貴族階級である両班による搾取、奴隷社会を改革し終わらせ、 日本と同様に共同体意識で結ばれた国民国家を目指し、インフラ整備やあらゆる改革を進めて朝鮮半島を近代化していった。 日帝は京城付近にて路上での脱糞を禁止した。だが、この悪癖は治らなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる