慶應の学風には、明治に比べ相対的に功利主義との印象がある。
あの日大でさえ、アメフト部事件の教訓から、先のラグビー部員の大麻事件においては
いち早く部全体での連帯責任−無期限活動停止−を明らかにした。

しかしながら慶應には、このところ職員含めた情けない不祥事続出ながら、
法人当局からの真摯な反省が今一つ感じられないとの思いを抱く。
応援指導部に、その他のリーダー部員を残すとの措置もその一例だ。

先の明治は、事件を受けてリーダー部そのものを解散した。
ゆえに、現在の応援班はそれの正式な継承者ではないと解される。
だが、慶應はどうか。明治と異なり、当局は早期活動再開への手がかりを残存したのではないか。

被害者らにとって、加害者本人らの周辺にいた者が免責されたとの現状は屈辱的であり、
到底納得しがたいものがあるのではあるまいか。そうした彼女らの当然の心情よりも、
今回の措置には学校としての体面を重んじたという意図を感じてならないのである。

この学校法人のマスコミ対策には定評がある。
関係者間には周知の事実であっても、これまで公表されていない事件も聞き及んでいる。
本件の闇は、あるいはもっと深いのかもしれない。他校も他山の石とすべきだ。