そもそも現状の資本主義が国家独占資本主義の段階である。
そうした国独資では、生産や消費、生活の前面において国家が介入せねば資本主義が
維持できないとの性質を有する。換言すれば、一部の特権富裕層以外に「自主・自立」は不可能である。

ところが、新自由主義(新古典派経済)者らは、そうした本質を無視して「自己責任論」を唱える。
いったい客観的に自主・自立が期待できない大衆に対し、自己責任を求めることが可能であり、許されるものであろうか。
そうした矛盾が、今の大学や学生生活の範囲にも顕在化しているといえる。

それがアベ政権による「三本の矢」なる欺瞞的白昼夢である。
たしかに先の二本は新自由主義的だが、三本目の矢なるものは、それと真逆のパターナリズムに満ちた政策である。
そうした矛盾もあえて講じなければならぬほど、アベ政権の政策は破綻し、混迷しているのであった。
だからこそ、さすがのアベもそうした「アホノミクス」も口の端にのせなくなったのであろう。

われわれは、これまで泥臭くこのことを訴えてきた。
しかし、狂信的アベ妄信者らや一部愚民層はそうした声に耳を傾けようとはしなかった。
だが皮肉なことに、コロナ禍はそうした輩にも遠慮なく襲いかかる。またその過程で、アベらの私利私欲的画策も露になった。

今からでも遅くはない。
目を覚ませ、アベらに命奪われぬうちに。

たしかにコロナ禍の発生は避けようがなかったのかもしれない。
だが、その後の展開はすべてこうした為政者の失政に起因するものである。