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0001名盤さん
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2019/10/13(日) 16:23:18.74ID:EOBgg3PN
やっぱり青空市は中止だったね
0002名盤さん
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2019/10/13(日) 16:44:43.71ID:EOBgg3PN
もしかして明日下は緊急開催やるかな
0003名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 16:47:44.80ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0004名盤さん
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2019/10/13(日) 16:48:16.03ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0005名盤さん
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2019/10/13(日) 16:49:45.84ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0006名盤さん
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2019/10/13(日) 16:52:16.30ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0007名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 17:05:37.77ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0008名盤さん
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2019/10/13(日) 17:08:43.98ID:vN8Eg94L
本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら
0009名盤さん
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2019/10/13(日) 17:11:15.97ID:vN8Eg94L
本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
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悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
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悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら
0010名盤さん
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2019/10/13(日) 17:17:07.77ID:vN8Eg94L
本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
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悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ
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0011名盤さん
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2019/10/13(日) 17:20:15.99ID:vN8Eg94L
本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
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悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら
0012名盤さん
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2019/10/13(日) 17:21:57.24ID:vN8Eg94L
本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら
0013名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 21:59:20.65ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0014名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:05:24.61ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0015名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:08:05.71ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0016名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:17:52.90ID:W6uAmrlB
>>15
よお、荒らしバカ
もう1つの盛り上がってる画像スレ見付かったか?
なぁ、バカ
0017名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:18:44.60ID:W6uAmrlB
ゴミカス荒らしバカww
ゴミからはゴミしか産まれんわなw
0018名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:19:38.54ID:W6uAmrlB
>>15
もう1つ見付かった〜?
よお、荒らしバカ
0020名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:29:16.51ID:vN8Eg94L
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものである
0021名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:31:03.24ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0022名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:32:23.30ID:W6uAmrlB
もう1つは見付かった?>>21バカ
0023名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:35:41.23ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0024名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:40:52.22ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0025名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:43:28.86ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0026名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:46:44.26ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0027名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 22:54:24.95ID:55n/1t9A
>>1
ま〜、ムリでしょ
明日やるんじゃない?
0029名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 23:03:21.68ID:55n/1t9A
あ、ムリだねこれは
0030名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 23:05:31.61ID:W6uAmrlB
タイミング悪いよね
0031名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 23:25:13.57ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
0032名盤さん
垢版 |
2019/10/13(日) 23:26:53.65ID:vN8Eg94L
いつか月世界旅行の映画が、日本へもきたことがある。あの中に、人間も物体もみな宙に浮いている画面があったが
、あのとおりのことが、ほんとうに起るのである。映画の場合は、ふわふわと宙に浮いていて、いかにもきらくそうに
見えたが、あれはもちろんトリック撮影である。映画ならそれでよいが、ほんとうにそういう超音速の飛行をする場合、
身体が宙に浮いていては、操縦になにか支障が起るかもしれない。それで重力のない世界での人体の生理という
問題が、今後の航空医学では、たいせつな問題の一つになってきたわけである。
 こういう研究は、実験をしてみるよりほかに道がない。温度や圧力はもちろんのこと、たいていの物理的条件は
自由にかえられるが、重力の働かない世界を、実験室内でつくることは絶対にできない。唯一の方法は、実験者を
、自由落下の状態にしておくことである。自由に空中を落下している間は、そのものには、重力が感ぜられない。
エレヴェーターが降り始める時に、スーッと背筋をみょうなものがはしるような感じになるが、あれが重力が弱く
なった時の感じである。
 それならエレヴェーターの中で実験をしてみたらよい、と思われるかもしれないが、あれでは時間が短かすぎる。
エレヴェーターでゾーッとするのは、降り始める瞬間だけで、あとすぐああいう感じはなくなる。自由落下の場合は、
速度がどんどん増していくのであるが、エレヴェーターでは、すぐ一定速度になってしまう。速度が一定になれば、
それは力学的には動いていないのと同じことで、重力は普通どおりに感ぜられる。普通のエレヴェーターで、
重力が弱くなって感ぜられるのは、降り始めの瞬間だけである。それでエレヴェーターの綱が切れて、
箱が自由落下をする場合でないと、今の目的にはかなわない
しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが
、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる
。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて
、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに
つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の
高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで
、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう
に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、
大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは
ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。
その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしている
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