震災復興の都市計画と西板線の計画がバッティングするため、ルートは各所で修正を余儀なくされたうえ、下町から山の手へ、都市化の波が急激に広がっていき、西板線の計画沿線にも徐々に家屋が増えていったといいます。また、荒川放水路や隅田川の渡河部、既存の鉄道各線との交差部について関係各所との調整も難航、さらに昭和恐慌が追い打ちをかけます。