結果的に、地元の要望も強かった西新井〜大師前間のみが1931(昭和6)年に開通しましたが、それ以西は地価の高騰と建設費の増大により手が付けられず、建設は断念されました。東武の社史などの資料は、時代に翻弄され実現に至らなかったことを惜しむような記述で貫かれています。