所々火消(しょしょびけし)は、寛永16年(1639年)にはじまる火消。

同年に江戸城本丸が火事となったことを契機に、江戸城内の紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の森川重政に命じたことがはじまりである[4]。この所々火消は、後述の大名火消の中で担当場所が定められていたものであり、幕府にとっての重要地を火事から守るため設けられた、専門の火消役であった。

所々火消が定められた場所は元禄年間にかけて増加し、江戸城各所をはじめ、寛永寺・増上寺などの寺社、両国橋・永代橋などの橋梁、本所御米蔵などの蔵を、36大名が担当するようになった[5]。のちに享保7年(1722年)、第8代将軍徳川吉宗により、重要地11箇所をそれぞれ1大名に担当させる方式に改編された。担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)である。江戸城内の最重要地に対する所々火消は譜代大名に命じられ、外様大名が命じられたのは本所御米蔵など江戸城外の施設であった。

大名火消 編集
大名火消(だいみょうびけし)は、寛永20年(1643年)にはじまる火消[注釈 4]。

寛永18年1月29日(1641年3月10日)正月、京橋桶町から発生した火事は、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。この桶町火事に際しては、将軍家光自身が大手門で指揮を取り、奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたものの、火勢を食い止めることはできなかった[5]。消火の陣頭指揮を執っていた大目付加賀爪忠澄は煙に巻かれて殉職。消火活動を行っていた相馬藩主相馬義胤が事故で重傷を負った。

幕府は関係役人およびこれまでの奉書火消を担当した大名らを集めて検討した結果、桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた[注釈 5][7]。従来の奉書火消を制度化したものであり、この火消役は選ばれた大名自らが指揮を取った。1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当した。火事が発生すると火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされていた。