町火消(まちびけし)は、第8代将軍徳川吉宗の時代にはじまる町人による火消。殆どが身体能力の高い鳶職で構成された。

財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題となった。享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。これにより、火事の際には1町につき30人ずつ、火元から見て風上の2町と風脇の左右2町、計6町180人体制で消火に当たることになった。しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった。

享保5年(1720年)、地域割りを修正し、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられた。同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17596人から9378人となった[21]。

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括された。元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。この年の定員は10642人で、そのうち鳶人足が4077人・店人足が6565人であった[22](鳶人足と店人足の違いについては後述)。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである。