金子氏嫡流はそのまま代々入間郡金子を領した。南北朝時代、武蔵平一揆が起こると金子家祐は河越氏に従い敗北。その後は関東管領上杉氏家臣の武蔵守護代大石氏に従う。戦国時代になり、河越夜戦で上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、金子家長は逸早く天文15年(1546年)には北条氏康に属した。以後は八王子城の北条氏照に従い下野国進出などで活躍した。

天正18年(1590年)の小田原征伐で前田利家・上杉景勝の軍勢が攻めてくると、松山城留守居を勤めていた金子家基は城代の山田直安以下難波田憲次・若林氏らと共に前田・上杉勢に降伏。家基は直江兼続軍の先兵となって八王子城を攻めた。

後北条氏が滅亡すると金子政熙はその後も景勝に属したが、慶長5年(1600年)の徳川家康による会津征伐によって、景勝の領地が削減されたとき浪人の身となった。その後は京都所司代板倉勝重に仕え、子の金子政景は板倉氏の老臣として重用されたが、後に自害。政景の妻は長州藩士の宍戸元真(毛利氏一門宍戸氏)の娘であったため、子どもを連れて実家のある長州藩へ戻り、子ども達は長州藩士として仕えた。

主な一族 編集
金子家範
金子家忠
多賀谷家政
金子家祐
金子政熙