いろいろな艦国志の著者
田内治(たないち) 艦国志正史の編纂者

艦帝国成立時に謙介に仕えた役人。元は「多内治」という名で、李稚蘇姫との乱れた生活ぶりに何度か諫言したが聞き入れられず冷遇される。鎮守府の戦いが起こる直前に投降、その際に才羅州が残した資料を持ちだした。
東国首長の太田は多内治に資料の整理と編纂を命じ、これが艦国志の元になった。
東国が淫夢族に併呑された後も田所によって編纂を続けるよう命じられ、田所が淫王朝皇帝となった日に完成して献上された。この功績により皇帝の姓である「田」を与えられ、以降田内治と名乗るようになる。
その後は政治中枢に関わり、淫王朝繁栄の基礎を築いた。

後の世で艦国志を元にした講談が民衆に聞かれるようになるにつれ、艦帝国正当論が目立つようになる。田内治は謙介に冷遇されたせいで反謙介反艦帝国的な筆致であったが、これを私怨だとみなす風潮が強くなった。
そのため今でも厨華大陸や日本では艦国志といえば演義を指すことが多い。
しかし淫王朝後期の歴史家具知民(ぐちみん)の研究によると他国の歴史書と合致する点が多く、私怨説は全くの的外れであると彼は批判した。