関係の変遷

時系列順で大きく6期に分けられる。

企画立ち上げ〜サービス開始まで(2011年後半〜2013年4月)

元々、艦これの企画は2011年(日時は不明だが、東日本大震災後の夏から初秋頃と思われる)当時DMM所属だった岡宮道生と、角川ゲームスに所属していた田中謙介が酒の席で盛り上がった「扶桑の最期」に関する与太話から発展したものだとされている。
2011年に企画が立ち上がったことを示す傍証として、田中が2021年の8周年記念に当たり「実は10周年でもある」と発言していることやブラゲの開始当初は存在が公にされていなかった(株)C2プレパラートの設立登記が「2011年秋」とされることが挙げられるが、大多数のプレイヤーにとっては田中個人のこだわりに過ぎない「開発スタートを起算に何周年か」など正直どうでもいいと思われる。
岡宮は旧スクウェア時代に田中と同僚だった縁があり、艦これの開始に当たって社内カンパニー「パワーコードスタジオ」(現存せず)の代表に就任した。

この頃、田中は『ASH』(その他の謙介聖遺物参照)発売後にミストウォーカーから角川ゲームスへ移籍した直後で、同社社長の安田善己に「頼むから王道にしてくれ」と苦言を呈されながらも『NAtURAL DOCtRINE』(同上)プロデューサーとして開発に当たっていたところだった。

市場の状況としては、萌えミリ系のゲームとしていずれも陸海空複合型の『萌え萌え2次大戦(略)』がPC用パッケージやコンシューマとして発売されており、ブラゲではマーベラスがイカロス出版の『MC☆あくしず』と組んで『ブラウザMC☆あくしず』をスタートさせた時期に当たる。
そうした複合型でなく艦船に特化したゲームタイトルとしては艦これが初めてと言うことになるが、岡宮が企画書を作成してDMMの亀山敬司CEOへ同社の「カメチョク」制度(平社員でも亀山CEOにプレゼンして合格すれば事業の立ち上げ資金がその場で支給される)を利用してプレゼンしたところ、合格となり「DMMの全額出資で田中が所属する角川ゲームスが開発・運営を担当する」と言う体制でスタートすることになった。ローンチ時点での開発費用は「約5000万円」と言われている。