続き

 京都アニメーションの社名ロゴムービーのオマージュや、中世末期ヨーロッパの魔女狩りの図版等でもって、同調圧力に流されるままのアニメファンのアニメ制作業者に対する予てからの攻撃性が、あの京アニ放火大量殺害事件という最悪の形まで発展した、と言いたい位の事は、たとえ「オタク」でもすぐに分かります。しかし、そもそも『魔法少女たち』のPVで最も肝心な事は、日本アニメ業界の製作と制作と、そして動物化したオタクとが結託し続けてきた文化的な腐敗構造へのアンチテーゼを物語作品のテーマ性として昇華する企画である事を、クラウドファンディング出資者の「オタク」に対してではなく、あくまで製作委員会方式で出資して下さるかもしれない企業のプロデューサーの面々に対して伝える事だった筈です。それを演出畑出身のアニメ監督が数十秒のPV映像で如何に演出し、昇華し得たかが伺えるという意味での、含蓄の深い見所が皆無だったと、私宮尾は何度も声を大にして叫びたい。

 御託を並べて嘘八百を撒き散らす事は簡単でも、出来上がったPV映像で嘘八百を貫き通す事は無理という事です。
 繰り返し述べます。
 『魔法少女たち』のPV映像に終始一貫したのは、アニメ表現に対する極限までの妥協、打算、無気力、逃避でした。

 山〇寛という演出家の実力を計る手段は、彼が演出(監督)担当して完成した映像に込められた演出家としての気力の程度に対する、鑑賞者側に於ける感触、主観に依らざるを得ません。勿論、それは様々な映像メディアによって、ある程度は目を肥やしたとか、同時代的な現実社会問題への見識から虚構の存在意義を常に問い直し続ける等の自負を前提とする、映画やアニメを愛する「主観」には違いありません。従って、私宮尾は山〇寛監督作で直近の『薄暮』は今も評価しています。いわゆる「作品に罪は無い」というやつです。しかしそれも正直、アニメーションそのものとしてはレベルが稚拙な部分がかなり散見されるのも事実だが、それでもあの福島の復興格差の問題を短く小さな恋愛物語に落とし込みつつ、恋愛物語よりも福島の背景美術こそを主役として表現するという前代未聞のアニメ演出には、今でも唯一無二の社会的な存在意義を確認できるし、これは不動の評価です。しかし、返す返すも、『魔法少女たち』のPV映像には、そのような『薄暮』にはあった挑戦を予見させる解釈の余地の一切が不在でした。