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これは感覚的に、FSSの永野氏の展覧会に
行かない(行く予定は現状無い)のと同じで、
つまりメカとかデザインが基本的に戦争マシンか
戦士か女性戦士かそのナビゲーターなので。
ボクの今は創作方向性全く違ってしまってるし、
たぶん次回以降の連載で平和を希求し続けた
ダイグは死ぬんだろうが、リアルでたとえば
「誰か死んだから遺された者たちが世界を
変えようとする」なんて事がそんなにあるのか、
肯定されていいのか?って事だよね。死んだ
人の言葉を利用して金儲けしたり権力を握る
奴とか出てくるし。

ボクはそうそうそれが起きるとは思って
いないし、例えば漫画家の芦原さんのような
自死からの動きもその内企業群は一過性の
ものとして誤魔化してしまうだろうと思っている。

また、いじめ自殺でもそうだけど、死による
抗議ではなく、生きている時にみんなその
抗議を聞いて対応するか抗議者の境遇や世の
中を変えるべきなのであって(逆にそれは無理
だって場合もある)。

つまりナワリヌイ氏でもそうだけど、理想
主義者の想いを死でしか聞き届けないもしくは、
聞き届けるかのようなスタンドプレーを見せる
作品とか、そういう作品群の存在意義に疑問
しか感じないんだよね。今のボクは。

ロシア民衆がナワリヌイ氏が死んだことで
「ロシアから希望が消えた」って言ってる
らしいけど、当たり前だよ。ナワリヌイ氏を
選ばなかったんだから。今後のロシアには
もはや希望はない、当然の事だ。